わんころりん☆にゃんころりん

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2023年10月26日
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カテゴリ: いろいろ・・
子どもたちに生きる力を 「三つのカン」を育てるには
Wedge(ウェッジ) 10/26(木) 18:02配信




「生きる力」に乏しく、行き詰まる子どもたちが増えている。要因は一つではないが、毎年のように過去最多を更新し、増加し続ける不登校児童生徒数はそれを象徴している。

 子どもを〝卒業〟したはずの若者にも行き詰まる人が増えている。厚生労働省の調査によると、入社3年以内の離職者は約3割にも上る。その中にはより良い待遇・条件を求めて離職する人もいるが、私には、人とのコミュニケーション能力や我慢・忍耐力など、実業の世界に必要な「生きる力」が徐々に細ってきていることも影響しているように思えてならない。

 詳細は後述するが、子どもであれ若者であれ、行き詰まってしまう人の特徴として、子どもの発達段階に必要な能力を育むべき時期に、大人たちに管理されすぎた生活を過ごしているため、「考える時間」や「すき間時間」が失われ、「生きる力」を養うために欠かせないリアルな「実体験」が乏しいことが挙げられる。

 子どもたちは、われわれ大人たちよりもこれから先、ずっと長く、未来を生き抜いていかなければならない。
未来の社会がどうなるのかは、誰にも分からないが、自らが問いを立て、解決策を見つけ出す力が必須であることは疑いようのない事実であり、それを養うためには、さまざまな困難にも打ち勝つだけの力を持つことが必要である。
その意味で、子どもたちに「生きる力」を身につけさせることは、われわれ大人たちの責務である。

 現代の子どもたちを取り巻く足元の現実をしっかりと見つめ直した上で、これからの時代、子どもたちの「生きる力」を育むためにはどのようのことが必要なのか、学者でも、ジャーナリストでもない、生粋の「教育実践者」の立場として、私見を述べたい。

寄宿塾ではなく、寄宿生活塾「はじめ塾」とは何か
 「はじめ塾」は、神奈川県小田原市の小田原駅から徒歩5分ほどにある小さな寄宿生活塾である。約15人の十代の青少年たちが親元を離れ、一つ屋根の下で「生活」している。

「人は台所で育つ」

 はじめ塾では、この言葉を掲げ、子どもたち全員で毎日三食、台所で食事作りを行っている。
「生活」には、あらゆる領域・分野の実体験が含まれている。
はじめ塾が単なる寄宿塾ではなく、寄宿生活塾と名乗っているのは、このためである。
子どもたちは、「丁寧で、規則正しい日常生活」を送ることで、「生きる力」を養っている。

 会員は、毎年入れ替わりがあったとしても、約300人で、全員が寄宿できないため、「通い」の子どもたちもいる。
私は、はじめ塾の二代目塾長として、さまざまな境遇の子どもたちを受け入れてきた。

はじめ塾の歴史は父・重正が1937年(昭和12年)3月、東京の杉並に寄宿寮「一誠寮」を立ち上げたことにさかのぼる。
だが、当時は戦争による影響で、食料事情もひっ迫する中、小田原に疎開することになり、ここに「はじめ塾」が誕生したのである。

 はじめ塾は「塾」という名称がついているものの、教育産業とは一線を画している。
大手塾のような財力もなければ、CMや広告などの告知宣伝力もない。最も頼りになるのは、塾生や保護者の口コミである。手前味噌になるが、それでも、全国から入塾希望者が後を絶たないのは、はじめ塾での「生活」における実体験で培った問題解決能力や、親元を離れて同世代・異年齢の仲間たちと「生活」をともにする中で身につけた「生きる力」を発揮して、子どもたちが社会に羽ばたいていくことが支持され、共感を得ているからではないかと思う。

 現在は、息子・正宏が三代目塾長となり、親子三代、激動の戦前・戦後の時代を歩んできた。
80年以上にわたって、はじめ塾の教育理念と哲学は、揺らぐことなく継承されている。

人間の成長に必要な「感」・「勘」・「観」
はじめ塾の合宿を行う「市間寮」で3代目塾長の正宏さんを囲む子どもたち(WEDGE)

 はじめ塾の教育の根幹には、「三つのカン」すなわち、「感」・「勘」・「観」を育てるということがある。

 一つ目は、感じるの「感」である。これは、0歳から3歳くらいまでに生活のさまざまな場面を通じて育つものである。
まだ言葉を持たない時期に、子育てに直接関わっている親などから受ける刺激を、感覚器官を通じて「感」じとして、身につけていく。
この間、日本語をシャワーのように浴びることで、子どもたちは「この社会で生きていくためには『日本語』を使わなければならない」ということを肌で「感」じ、学習している。だから、自然と日本語を話せるようになるのだろう。

 二つ目の「勘」は、いわゆる動物的な「勘」である。人間も動物だから、誰もが本来、「勘」を備え持っているが、これは、特に9歳前後までの間に育つものである。
例えば、子どもたちが外で遊ぶ時の危険を察知する能力であったり、虫をたくさん捕るために最適な場所がどこかを探り当てたりといったものである。

 「勘」は、放っておいても、自然と育つ能力である。
だが、最近では、大人たちのエゴによって、「勘」を養うべき時間を別のことに使い過ぎている。
例えば、小学4年生前後から子どもを学習塾に通わせ、知的教育のほうにウエイトを置く親が多いことはその典型である。「今日は〇〇の習い事」のようにびっしりと予定で埋められるケースもある。

 要するに、知識と技術をたくさん身につけさせられており、子どもにとって必要な「すき間時間」がないのだ。

 「勘」とは、自由な遊びの中で育まれるものである。
私は終戦の年の生まれであるが、子どもの頃は地域にガキ大将がいて、先輩後輩といった異年齢集団の中で、遊びを通じて「社会」というものを学んだ。鬼ごっこや缶蹴りごっこなど、遊びの中で、勝ち抜き、英雄になるためには、その場その場で、さまざまな「決断」が必要である。
また、木登りや川遊びでも「もうこれ以上やったら命が危ない」ということも遊びの中で体得した。もちろん、痛い思いをしたことも多々ある。
見方を変えれば、「勘」とは、人生のおける「決断力」ともいえる。

 台所仕事もそうである。料理に必要な目分量や火加減、水加減、塩加減といった「勘」が育まれる。包丁を扱うのは、危険予知の「勘」にもつながる。はじめ塾で、台所仕事を重視しているのはこのためでもある。

 ところが、現代の子どもたちは、外で遊び、自然と戯れる機会が激減している。
また、共働き夫婦の増加で、親子で台所仕事をする機会も減り、「勘」を体得できずに大人になるケースが見られる。

 「勘」は、論理的思考ができるようになると鈍る傾向がある。
理屈で考えてしまうからだ。
不登校や引きこもり、職場に馴染めないなど、行き詰まっている子どもや若者たちと接していて私が感じることは、この「勘」が明らかに不足していることである。
彼らは「理屈」は言うが、決断する力がない。私はそうした子どもたちには、理屈を言うよりも「思い切ってやろう」と声をかけるようにしている。「思い」を切る、とは、「考える」ことをやめて、やり切ることだ。そうした意味で、この二つの「感」と「勘」は、人間が生きていく上での土台だといえる。

三つ目は、観察する「観」である。これは、「感」と「勘」を補うものでもある。「観」を育むことで、物事の道理や仕組みが分かるようになる。つまり、「見通しが利く」「先が読める」「周囲の状況が分かる」ことにつながり、それは行き詰まらないことにもつながる。

 「観」とは、14歳前後の思春期になって「自分とはいったい何者なのか」といった疑問を持ち始めることによって、育まれていくようなものである。

 「観」が育つ時期は、「何歳まで」ということはなく、それこそ、死ぬまで育ち続けていくものであり、決して「手遅れ」というものがない。
したがって、論理的思考が活発になる10歳を過ぎた子どもであれば、一生懸命勉強して知識を身につけ、自分で興味のあるものをどんどん調べて発展させていく経験をすることが重要だ。教えられる受動的な勉強から、自ら行う能動的な勉強へと質の転換を図り、「観」を育てていくことが重要である。

学校教育を変えるには昭和の価値観の転換が必要
 正解のある問いに対して、素早く解答し、受験という名の戦争を勝ち抜き、一流企業に就職して安定した人生を送るといったことが、昭和の時代から続く一つの価値観であった。
その結果、近年では、一流大学に入学するために、高校、中学、小学校と、受験年齢もどんどん低年齢化している。企業は、建前では「学歴不問」を謳いながらも、本音では、優秀な人材=一流大学出身という評価の基準が根強い。
これを正していかない限り、日本の教育を抜本的に変えていくことが難しいのは確かである。少子化による影響もあるのか、親たちの不安を煽る傾向がますます強まっている学習塾など、教育産業の宣伝手法にも留意が必要だろう。

 だが、私は、大人の価値観を変えていくことで、日本の義務教育は大きく変わる可能性を秘めていると思っている。なぜなら、現在の義務教育には、二つの素晴らしい面があるからだ。

 一つは、さまざまなタイプの人間がいる集団生活を送る中で、日々、ストレスを感じながらも、他者との折り合いや協調などを学ぶことを通じて、心身共に鍛えられることが挙げられる。はじめ塾にやってくる不登校の子どもたちの中には、人に対する免疫力や体力がなく、すぐにストレスを感じて何もできない子どもが少なくないが、義務教育の9年間はこれらを体得できる貴重な時間になる。

 もう一つは基礎学習を母国語で学べる環境があり、算数の九九や漢字など、一定の「読み・書き・そろばん」の能力があることだ。教員不足など、厳しい状況に直面しながらも、公立小中学校の先生たちの頑張りによって、今もなお、日本は世界の中でも高い教育水準を保てている。はじめ塾でも、小学生は、独自のワークショップを通して「読み・書き・そろばん」の基礎学習に重きを置いている。

 こうした義務教育の利点を土台にして、(1)家庭教育、(2)社会教育、(3)学校教育の3本柱をバランスさせる必要がある。
誤解があるが、教員は学校の中の専門家であって、人生全般の専門家であるとは限らない。
現在の学校は、(1)・(2)も含めて、全てを抱え込み過ぎている。

 現代の日本社会は少子高齢化の影響もあるのか、中高年が社会の中心を占め、あらゆる組織が整理整頓されすぎて、柔軟性を欠いた社会になっている。
しかも、画一的な教育でみんなが同じような体験をしているから、個々の独自性が非常に希薄な社会になっている。当然のことながら、子どもの能力は画一ではなく、多様である。左右両側を歩く子どももいれば、真ん中を歩くことが好きな子どももいる。伸びしろだって、人それぞれ違う。大人の関わり方次第で、才能が開花し、目覚める子どもは実に多い。

 われわれ大人たちは子どもたちの「生きる力」に必要な「三つのカン」を育む機会を奪っていないか、今一度、自問自答する必要があるだろう。


【転載ここまで】






私自身ユニークな子だった
と言えば聞こえがいいが ルールはきっちり守る
が・・・
協調性は全くない 所謂自分勝手な奴かと言えばそうではない
いやなものは嫌 それがはっきりし過ぎている子供だったと思う
自由にのびのび生きさせてもらった
婆になっても変らないかも・・





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最終更新日  2023年10月26日 23時46分19秒
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