ヴァン・ドンゲン

Kees Van Dongen
<Dutch Fauvist Painter, 1877-1968>




タバランの女レスラーたち

キース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen )
(1877-1968)




ロッテルダムのザントストラート(1897)



キース・ヴァン・ドンゲン Kees Van DONGEN (オランダ 1877-1968)

1899年オランダからパリに移り、後期印象派やロートレックらの影響下で絵画を学ぶ。1906年、モンマルトルのバトー=ラヴォワール(洗濯船)に移り住みピカソや詩人のマックス・ジャコブらと交友。マチス、ブラマンク、ドランらと知り合い、ゴッホの色使いに刺激をうけフォーヴィスムの運動に加わり強烈な色彩と大胆な筆触による独自の画風を形成した。



キャバレーの芸人、ダンサーやシンガー、悩ましくしどけない娼婦などを強烈な色彩で描いた女性画が多く、ドンゲンの描く女性たちはみんな、眼がぱっちり大きくて黒目がち。睫毛も濃く、エロティックというよりコケティッシュでユーモラスな感覚が混じっており、野獣派らしい斬新な、鮮烈な色彩が使われ色彩の独自の表現力を強調した。第一次大戦後は、流行の肖像画家として社交界で有名になり、1913年の侯爵婦人との関係などが、より装飾的な作風に変化していく影響を与えたともいわれ、パリ社交界の寵児の一人としてパリの上流社会をすがすがしく描き、パリの風俗の記録者的役割を担ったことでも知られる。国内では企画展もほとんど無いし図録での紹介も少ないのだが、個人的にはとてもお薦めの画家。





1877 1月26日、オランダのロッテルダム郊外デルスハーフェンのビール醸造業の家庭に生まれる。醸造業を手伝いながら、ロッテルダムの美術アカデミーで学ぶ。
1896 日刊紙のイラスト・レポーターとして働く(港の風景や娼婦のデッサンなど)
1897 パリの展覧会にはじめて出品
1899 パリに転居。運送、ペンキ職人の下働きなどを転々とした後、風刺新聞や雑誌『ラシェット・オ・ブール』『ルヴェ・ブランシュ』などの挿絵の仕事を行う。その風刺的イメージが、軍隊や教会、資本家などから告発をうける
その後、アンデパンダン展に出品
1904 ヴォラール画廊で初めての個展
1905 サロン・ドートンヌに出品。ピカソらと親交を深め、フォービズム運動に参加。裸婦の連作を制作
1907 カーンワイラーの契約画家に。サーカスにインスピレーションを得た連作を制作
1908 ドレスデンでの「ブリュッケ」の展覧会に参加。ドイツ表現主義に接近
1909-15 ギャルリー・ベルネイム=ジョンヌと契約
1913 スペイン、モロッコ、エジプトを旅行

第一次大戦後は、流行の肖像画家として社交界で有名に

1913の侯爵婦人との関係などが、より装飾的な作風に変化していく影響を与えたともいわれている
1926 レジェン・ドヌール勲章受賞
1929 フランス国籍取得
1959 モナコに別荘を持つ
1967 パリ国立近代美術館で回顧展

1968 モナコにて死去




■フォーヴィズム(野獣派) Fauvism■
 20世紀初頭のフランスの絵画運動。後期印象派の純粋原色表現から影響を受けた画家たちが、1905年、パリのサロン・ドートンヌに出展した一群の作品に対して、ある批評家が「野獣(フォーヴ)の檻」と揶揄したことから、その名がついた。原色を多用した強烈な色彩と、荒々しい奔放な筆触が特徴。
 フォルムよりも色彩を重んじ、色彩はフォルムに従属するものではなく、画家の主観的な感覚を表現するためのものだ、という考えから、色彩の独自の表現力を強調した。
 実際に眼に映る色彩ではなく、画家の主観が感じる色彩を、調和的、統一的ながらも自由に使用した。色彩を、ルネサンス以降の再現的、写実的手段から解放し、色彩そのものを直接の表現手段とすることで、絵画の自律性の確立に寄与した。画家の内面を強烈な色彩で表現する手法は、表現主義に影響を与えた。
 代表的な画家は、マティス、ドラン、ヴラマンク、マルケ、デュフィ、ドンゲンなど。











ヴァン・ドンゲンは1920年代のエコール・ド・パリ華やかなりし頃の立役者であり、フジタと同じく異国人としてレジオン・ドヌール勲章をヴァン・ドンゲンは1926年に、フジタは1925年にうけパリ画壇を席捲した。また共に、ヴァン・ドンゲンは1929年に、フジタは1955年にフランスへ帰化している。蛇足ではあるが、ヴァン・ドンゲンはフジタがパリに着いて最初に親しくなった画家であった。ヴァン・ドンゲンは駆け落ちのようにして共にパリに出てきた妻アウグスタ・ブランディンガーを、フジタはフェルナンド・バレーという無名時代を献身的に支えてきた糟糠の妻を棄てている。





















バッカスの饗宴 in ジュリエット=ランベール街の広大なアトリエ

キース・ヴァン・ドンゲンは、久しく戦争のために圧迫されていたパリに自由が甦えると自分のアトリエの門戸を開け放ち解放した。人々は燕尾服やデコルテのドレスでやって来た。中では、シャンパンに酔い痴れる饗宴が繰り広げられていた。部屋はイルミネーションで輝き、壁や、廊下には多彩な布切れがはりめぐされ、入り口の敷物にはアラビア人の召使があぐらをかきエキゾチックに客を迎え驚かせていた。美しいパリ女や伊達男、素晴らしいモデルたちがアトリエ狭しと騒ぎ、アメリカ人とか、上玉を連れたロシアの皇族とか、高級娼婦とか、曲芸師、ダンサー、ボクサー、道化師、ロシアバレー団とか、ジョセフィン・ベーカーの踊りとか、タバコの煙やジャズのうねりに酔い痴れ乱痴気騒ぎが始まる。なんとフジタは、日本の唄を歌えと指名されると、タオルで頬被りをし、フンドシ一本で「どじょうすくい」を踊り、アトリエを湧きに湧かせたという。一度来た人の半分は、他の人を連れてまたやってくる。また、肖像画を描いてもらおうと貴族の夫人や女優、財界の人々が競い合うパリ随一の人気の社交場であったという。







1920年代、フランスのパリのモンパルナス大通りとラスパイユ大通りが交差するあたりに、後に「エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれる、若い芸術家たちが、集まっていた。セーヌ左岸のモンパルナスは、エコールド・パリの舞台となったばかりではない、ダダイストやシュルレアリスト、ロシアバレー団につられてやってきたロシア・アヴァンギャルドの末裔たちも集い一種の国際的な文化コロニーという雰囲気。映画、ラジオなどのメディア、自動車、飛行機などの乗物、電気、水道による快適な近代生活、モダン・アートなど、現代都市のライフ・スタイルのほとんどは、この頃成立している。ルイ14世の時代からパリに住む芸術家たちを奨励するのはフランスの国家的な文化政策だった。政府はモンパルナスを特別に扱った。
自由と活気を求め、世界中から集まってきた若き芸術家達。モディリアーニ、パスキン、スーチン、フジタ、個性溢れるパリの異邦人達。その誰もが貧しかった時代。エコール・ド・パリの画家たちは、モンパルナスのカフェに集っては夜毎酒を飲み、芸術論を交わし、自らの絵画を模索していた。



Brigitte Bardot (1958)











竹久夢二『黒船屋』
独特のはかなげなスタイルを持った夢二風美人画の傑作!
鼻筋の通った細面。憂いを含んだ黒目がちな流し目に、かすかに開いた口。胸は薄く、手足の長く透けるように白い肌。



夢二『黒船』とヴァン・ドンゲン『猫を抱く女』

独学で絵を学んだ夢二は、自らの絵の師匠を、安物の画集や美術雑誌に求め、ムンクやロートレック、ルノアールや膨大な数の浮世絵も、丁寧に貼り付けられた絵のスクラップを集め研究を重ねていたのです。夢二伊香保記念館には400冊ものスケッチブックやスクラップブックが残されています。スクラップした資料の中に、『黒船屋』と全く同じ構図で黒猫と女性を描いた洋画があります。当時日本ではまだ知られていなかったヴァン・ドンゲンの『猫を抱く女』です。夢二は西洋の美をいちはやく研究し、その構図を大胆にも日本画に取り入れていたのです。新聞や雑誌に挿絵の投稿を重ね、徐々に世間に認められ、大正から昭和の初期にかけて、夢二の作品が日本中に溢れました。本の装丁や商品のパッケージデザイン、ポスター。そして絵はがきに至るまで、人々は夢二の才能を求めました。夢二は当時の花形クリエイターであり、まさに時代の寵児だったのです。




















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