《 あなたの手 》



<< あなたの手・・・>>

銀行の用事を終えて、私は事務所に戻るためにいつものコンビニの角を入った。
ここは大通りから10歩入っただけなのにいきなり暗い路地になる。
会社の事務所のある賃貸マンションの入り口。
5段の階段を駆け上がりエレベーターのボタンを押す。

12Fから降りてくるエレベーターを待つ間に郵便受けを覗く。
そのとき、背後で物音がした。
振り返るとすぐ横にある非常階段の踊り場から若い男性が転がり落ちで来た。
私は思わず声をあげ、後ずさりする。
上にもう二人いる。何か揉め事らしい。
やだ!怖いじゃん!・・・エレベーター早く来て~!と叫びそうになる。
交番に走るべきかしら・・・。
通報じゃなくて逃げるためだけど。

「カッコつけてんじゃねえよ!」
と怒鳴った後、階段の上にいたガラの悪い若い二人は悪態をつきながら立ち去って行った。
怖かったよ~。
ほっとしながら振り返ると、転がり落ちた彼はゆっくり立ち上がり殴られたらしい口元を押さえている。

気になってつい見てしまう。この人はそんなにガラは悪くなさそう。
あんまりジロジロ見ても気の毒なので視線をはずそうとしたとき、口元に血がにじんでいるのが見えた。
でも、喧嘩みたいだし、関わらない方が・・・。
そう、関わらない方が・・・。

・・・ダメだ・・・ほっとけない。
わ~ん!いつものお節介魂が進出してきた。どうして私ってこうなのかしら。

つい、声をかけてしまった、おそるおそるだけど。
「大丈夫ですか?」
黒っぽい上着にジーンズ姿の彼がうなずく。
「大丈夫です。」
え!?・・・その声に反応してしまった。この声って・・・。
『おそるおそる・・・』だった私の態度は一変して好奇心のかたまりになっていた。
さっきは顔さえまともに見られなかったのに、いきなりしげしげと観察している自分がいる。
彼はグレーのニット帽を直し、落ちたサングラスを拾いあげる。

口元の出血が気になる。
「血が出ていますよ。」
私がそう言うと、彼は気がついたように左手の甲でそれを拭おうとする。
「あ!ダメ!」
急いでハンカチを取り出し、彼の口元を押さえる。

「すみません。ハンカチが・・・」
ケガより先に、私のハンカチが汚れることに気を使ってくれる。
「気にしないでください。傷はね、ティッシュじゃ繊維が残るから布で抑えた方がいいんです。」
「ありがとうございます・・・。」
痛そうだが、素直にハンカチで抑えている。

心臓が高鳴る。でも、見とれている場合じゃないわ。
「切れた口元を消毒しなきゃ・・・。時間はありますか?」
「はい。あ・・・でも迷惑かけるから・・・。」
「ほっといたらダメですよ。大事なお顔でしょ?
 腫れちゃったりしたらたいへんだもの!
 すぐに冷やせば少しは違いますから。
 冷やした方が出血も止まりますから・・・。
 ちょっとここで待っていて下さい!
 冷やすもの買ってきます。」
早口でまくしたてたせいか、彼は少し驚いた顔をした。そしてすぐににっこり笑う。
「はい・・・。」
うなずいた彼を階段の影に彼を隠すように残し、向かいのコンビニへ向かった。
今の彼の笑顔で足元がふらついているのがわかった。これって、現実なのかしら・・・。

コンビニで急いで必要な物を探す。
消毒液と絆創膏、コットン、ガーゼ、クールパック、水・・・こんなものかな。



事務所にはほとんどいつも私ひとり。ほんとに小さい会社だから(社長、ごめんなさい)。
社長はいつも営業で不在。作業員はそれぞれの現場だし、事務員は私ひとりだけ。
でも、まあまあのお給料だし気楽でいい。趣味が多い私には時間に融通が利くという大きなメリットがあった。
事務所に案内する。今日も誰もいなくてよかった。
でも、これって『連れ込んだ』っていうのかな・・・

いすを勧めて、窓を開ける。
ブラインドを全開にすると、駅と新しくできた大きなデパートの通路を見下ろすことができる。
人の流れが小さくておもちゃのようだ。
遠くに目をやると都庁のツインビルが見える。ビルばかりだけど、わりと気に入っている景色だ。

仕事中のBGMは私の好みの曲ばかりを聞くことができる。
そう、実は私はここにいる「彼」の大ファンなのだ。
この声、バラードを歌わせると最高だ。とにかく泣かせる。
彼が創るバラード曲はとても哀しいのに優しい。

たまにロックも歌う。ちょっとハスキーで太い声。迫力あるリズムでその声を響かせたら、たまらなく色っぽい。つまり何でも歌いこなせる。
やっぱり・・・最高だ。

私は知らないフリをして、いつもの彼の曲を流す。
イントロが流れ出したとき、彼がこっちを見た。
「この曲、好きですか?」
私がいたずらっぽい顔で聞くと、彼は吹き出した。

「あなたの曲、大好きです。いつも聞いていますよ。」
消毒の用意をしながら私が言うと
「ありがとう」
と微笑んだ。こんな近くでこんなステキに微笑む彼を見ることができるなんて、なんてラッキーなんだろう。

ずっと口元に当てていたクールパックを一旦はずし、傷を水で洗い流した後、消毒する。
「ちょっと、滲みるかも・・・我慢してくださいね。」
言い終らないうちに消毒液を含ませたコットンを傷に持っていく。
「・・っつ・・!」
少ししかめっ面。その顔も可愛い。役得だ。でも、私がいじめているようにも見えるじゃない。やさしくしなくちゃね!
「ごめんなさい。痛かったですか?」
「大丈夫!」
痛いくせに・・・と思いながら、我慢している顔もつい見入ってしまう。別に私はいじめっ子体質ではないのだけど・・・。

よく見ると、右手の甲も擦りむいている。
下手に薬はつけないに限る。消毒だけして絆創膏で一時保護をして、あとはプロに任せよう。
「すぐに専門の人に見てもらって下さいね。
これは何もしないよりマシな程度の処置だから・・・。
他にケガはないですか?」
「はい。これだけで・・・」
やさしく微笑んでくれる。
簡単に片付けて、コーヒーを用意する。私はずっと彼を見つめていたいけど、彼から見られているのはかなり恥ずかしい。あんまり、こっちを見ないで・・・。
二人だけの空間。幸せ。


コーヒーを勧める。
「でも、どうしてあんな人たちに絡まれたんですか?」
コーヒーを飲む姿も絵になっている。
彼はどう話そう・・・って顔で天井を眺めた後、
「そこの本屋に来たんだけど。
路地に入ったら、たまたまあいつらが女の子を誘っているところに出くわしてしまったみたいでね。
その子がすごく嫌がるのにしつこいから、つい『やめろよ』・・・って。
そしたら、あの階段に引きずり込まれた。」
バツが悪そうな顔。
「正義感が強いから・・・。その女の子は?」
「いつの間にか消えたみたいだね。」
笑っている。全く・・・。
「その程度で済んでよかったかも。ここの先のガード下の所には、もっと怖いも人いますから・・・」
彼が肩をすくめて見せる。ドラマのシーンを見ているようだ。
普通の話し声って、こんな声なんだ・・・と、取り留めのないことを考えてしまう。
他の話題が思いつかない・・・。



「今日はどうもありがとう。
何か僕にできることがありますか?」
立ち上がり、上着を着ながら聴いてくれる。
え?何かしてくれるの?
突然聞かれても頭の中は真っ白のまま。
・・・サイン?握手?
あ~どれも月並み!いや、インパクトはどうでもいいのよ。
これだけ至近距離で話をして、彼の顔に触って(あくまで消毒しただけなんだけど)、一緒にコーヒーを飲んで・・・他に何を望めるというのだろう。

でも、一生のうちにもう二度とこういうチャンスはないと思うと、頭の中は遠慮なくフル回転で考えている。なんて欲張りな私。
でも、さすがに強烈な要求はヒンシュクよね。
私の頭からよからぬ妄想を追い出す。

彼は柔らかい微笑みを浮かべなから私を見ている。細い指で顔を触る、いつもの彼の癖。
細い指・・・そう!その手。
でも、断られるかしら・・・?
「あの・・・」
「な~に?」
彼が覗き込むように見つめる。この少年のような瞳・・・神様も人が悪い。どうして、こんなに心惑わすような美しいものをお造りになられたのか・・・。
いや、神様を責めるのは後にしよう。

「手を・・つないで歩いてもいいですか?」
「え?」
やっぱり変な女だと思われたかもしれない。
「ここから 1階まで手をつないで歩けたらいいな・・・って。」
いったい私はどんな顔をして言っているのだろう。可愛くウルウルしたような表情で言いたいのに、もしかしたらニヤニヤした顔になっているかも・・・心のどこかでそんなのんきなことも考えていた。

彼は一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに微笑みに戻った。
「1階まででいいの?」
「だって、誰かに見られたらよくないでしょ?」
真面目に答えたのに彼は声を出して笑った。そして、いきなり私の肩に手を置くと
「ありがとう。いろいろ気を使ってくれて・・・。君とならゴシップになっても僕はかまわないよ」
そう言って優しく抱き寄せてくれた。幸せ過ぎて気が遠くなりそうだった(でも倒れるわけにはいかない。もったいないもん!)

廊下に出る。幸運なことに、廊下には誰もいなかった。
彼は優しく私の右手を取りゆっくり歩き始めた。
部屋からエレベーターまで3m。もっと遠い部屋を借りていて欲しかったわ、社長!

エレベーターは1階にいた。この8階まで上がってくる時間。今日はなんて早いの!?
開いた空のエレベーターに手をつないだまま乗り込む。
彼が私を振り向き微笑む。どうしよう、手が汗ばんできたかもしれない。
緊張と幸せで息が止まりそうだ。エレベーターは下っているのに、私の心は高速で天国まで上っているようだった。
今度、「天国を想像してみて」と言われたら、私はきっとエレベーターを思い浮かべるだろう。

時間が止まればいい・・・こんなに一生懸命に願ったのは初めてかもしれない。
そして私はエレベーターの中の数秒がこんなに短く感じたことも、こんなに長く感じたことも初めてだった。 私の心臓の鼓動が彼に聞こえているかもしれない。彼は今どんなことを思っているのだろう。

外に出ると、急に街の喧騒が耳に入ってきた。現実に引き戻される。
彼はニット帽を少し深めに直した後、上着のポケットから紙切れとペンを出し、何かを書いている。
「今の感想をここにメールすること! 必ずだよ!」
小さなメモを私の手に押し込むと、彼はあっという間に人の流れに紛れ込んでしまった。

手を離したとき私の頬をなでてくれた彼の右手の温かさがいつまでも消えない。
そして、私の手を強く握っていてくれた彼の左手。一生忘れない。
私はしばらくの間そこに立ち尽くし、もう見えていない彼の後姿を焼き付けていた。
かなり間抜けな顔をしていたかもしれない。

さてと、仕事に戻らなきゃ・・・。大きく息を吸い込む。
気がつくと右手に紙切れを握りしめている。
そう言えば・・・

・・・え?メールって言ったっけ? ・・・ホントに!?

                       終わり♪


★ ショート ストーリー





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