家づくりコンサルティング1000本ノック!

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家づくり専門のFPになった理由(その1)



私は昭和45年2月に生まれました。

ちょうど大阪万博の年です。

小学校1年生まで育った環境は大阪府吹田市千里ニュータウンという公団のマンモス団地でした。

建物は鉄筋コンクリート。

家には風呂がありませんでしたので、毎日、銭湯へ通っていました。

部屋は最上階の5階だったので、小さい身体で昇り降りが大変だったのを覚えています。

母親は大きな買物袋やごみ袋を持って、時には私や妹を背負っての階段は相当きつかった事と思います。

私と妹は、昼間は向いのおばさんのところへ預けられていました。

おそらく、公団の安い家賃を払うのでさえも、父の収入だけでは充分とはいえなかったのでしょう。

よく、1つ下の階のおばさんがこんな事を言っていました。

おばさん『昨日は遅くまで起きてたんやねぇ』

母『ごめんなさい。聞こえてました?』

夜遅くに部屋で走り回っていると、母親が必死で寝かそうとする理由は後になってから分かりました。

私が小学校2年生になる時、母親の両親(私からすると祖父母)と2世帯同居をすることになり、郊外の一戸建てに引っ越しました。

6人家族で4DKです。小さいですが待ち望んだ風呂付です。

25坪程度の小さい一戸建てでしたが、父母と祖父母4人が働いてやっと手に入れた一戸建てだったので、みんな喜んでいました。

しかし、喜ぶのはつかの間でした。

その家には脱衣場が無かったのです。

母親が『あら?この家どこで着替えるの?』という言葉で初めて気が付きました。

なんと、ダイニングキッチンに直接風呂がくっついていたのです。

風呂から出ると、そこは食事をするところです。

今考えると『そんなことくらい最初に気付けよ!』と思うところですが、私の父母、祖父母合わせて4人も大人がいながら気が付かなかったのでした。

引っ越してすぐに増築して風呂を移動し、脱衣場を付けました。

その他にも問題はありました。

収納があまりにも少なすぎたのです。

祖父母の部屋には一間の押入れがありましたが、階段下の押入れだったので、半分くらいしか入らなかったのです。また、タンスや仏壇を畳に直接置いていたので、布団を引くスペースは殆どありませんでした。

仕方なくまた増築。

夏が来るとその家の2階は地獄でした。
私は春にハムスターを飼ったのですが、ある夏の暑い日に、家に帰るとハムスターは暑さでかごの中のハウスから出て、伸びきって死んでいました。

それほど暑かったのです。

住んでいるところはプロパンガスの地域だったので、母は毎月の光熱費が高いといつも言っていました。

しばらくして光熱費が浮くからという理由で屋根に朝日ソーラーが付きました。夏は熱湯が出てくる程のすぐれものでした。

また、しばらくすると深夜電力でお湯を沸かす電気温水器が設置され、灯油でお湯を沸かす機械も付いていました。

私が『どのお湯を使ったら良いの?』って聞くとみんなバラバラの答えが返ってきました。

結局、みんなはどれでお湯を使っていいのか良く分かっていませんでした。

朝日ソーラーを乗せた影響か、いつしか風が強い日は、雨漏れをするようになりました。

夜寝ていると屋根裏でポタポタという音がするので、父はタオルと洗面器を持って屋根裏へ入っていきました。

家を購入した不動産会社はすでに倒産していたので、父がよく補修をしていました。

外壁の塗り替えや屋根の補修の時には『また○○○万円もお金が掛かってしまったわ』と母が悲しそうに呟いていた表情が印象的でした。

その頃まで、私は、家とはそんなものだと思っていました。

おそらく、両親や祖父母は早くから自分達の家の選択は正解では無かったことに気が付いていたと思います。

増築等の費用で、当初マイホームを購入する費用以外に相当な出費があった訳ですから。

高校に入って、私は家のチラシを集めることが趣味になっていました。
間取りが載っているチラシです。

『いつかはこんな家に住んでみたいなぁ』と思い、お気に入りの間取りの載ったチラシは大切に保管していました。

一浪して関西大学商学部に入りました。

両親のお金の苦労も良く分からなかった私は、大学では体育会バスケット部に入りました。

中学から続けていたバスケットをまだ完全燃焼できていなかったのです。

父は『お金はなんとかしてやる』と言ってくれましたが、その時の私は両親がどれほどの苦労をしてお金を出してくれたのか想像も出来ませんでした。

クラブは合宿や遠征費などが多く、両親へは大きな出費をさせてしまったと思います。

私と妹が大学を卒業するまでは、両親は一生懸命働いて住宅ローンと教育費を払っていたことでしょう。

教育費のめどがついた頃、ふと、家族の異変に気が付きました。

母の両親と小さな家で同居している父はずっと居場所が無かったのです。

食事が済んだらすぐに2階へ上がってテレビを見ながら寝ていました。

仕事のストレスと同居のストレスが貯まっていたのかも知れません。

しばらくして、父の会社は外資系の会社に買収され、父は事実上リストラされてしまいました。

見た目は貧弱ですが、精神的に強い父はハローワークに通いつめ、何とか職に就くことができました。

そんな父に、少しでも安らげる空間を作ってあげたいと、集めた間取りのチラシを見ながら考えていました。

大学を卒業する時には、住宅業界に行きたいと思うようになっていました。
家を購入してもあとで後悔しない、家族が楽しく暮らせる家づくりを提案したいと思ったのです。

1993年、ある大手住宅メーカーに就職しました。

【続く】

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