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メモ ヨハン・クライフ



 1970年代、 オランダはトータルサッカーで世界のサッカー界に新鮮な衝撃を与えた。 まるで、 渦巻のようにぐるぐる回る全員攻撃、 全員守備のサッカーであるトータルサッカー。 その渦巻の核が、 ヨハン・クライフ(Johan Cruyff)であった。

 オランダはトータルサッカーを駆使して、 1974年と78年の両ワールドカップで準優勝を果たした。 74年ワールドカップは、 ヨハン・クライフの真価が遺憾なく発輝された大会であった。 ヨハン・クライフが所属していたアヤックスアムステルダム(Ajax Amsterdam)チームは、 トータルサッカーでヨーロッパカップ大会において、 71-73年、 連続3回の優勝をものにした。 勿論、 その主役は、 ヨハン・クライフだった。

 背番号14番をつけたヨハン・クライフは、攻撃の中心であるセンターフォーワードだった。 しかし、彼は、その任務だけに満足しなかった。 トータルサッカーを完璧に理解していた彼は、 賢いロバのように、 あっちこっちに位置を変えながら、相手の守備の気を散らした。攻撃の中心にいたかと思えば、側面にぬけてセンターリングを飛ばしたり、いつの間にかミッドフィールドで相手の攻撃をさえぎったりした。もともと、トータルサッカーは、選手の動きが多い戦術である。ヨハン・クライフは、この戦術に適した、優れた体力の持ち主であった。疲れを知らない、その突破力もまた秀でていた。
 それに正確なパス、鋭いシューティング等、サッカー選手に必要な全ての条件を備えていた。彼は、トータルサッカーを最もよく理解した世界的なスターだった。

 ヨハン・クライフは、 1947年4月25日オランダのアムステルダムで生まれた。10才の時、すでにサッカーに素質を見せた。これを発見し、大選手に成長するのに決定的な役割をしたにが、彼の母親である。当時、彼の母親は、プロサッカーチームであるアヤックスアムステルダムで洗濯婦として働いていたので、他の母親よりサッカーについてよく知っており、関心も大きかった。そのため、息子の素質を早く発見できたのだった。

 母親がアヤックスアムステルダムチームの関係者に、息子を受け入れてくれることを頼み込んで、少年チームに入団することになる。ヨハン・クライフの歳12才の時のことである。

 こうしてアヤックスアムステルダムと縁を結んだヨハン・クライフは、体系的な訓練で基本技術を着実に積んで行った。生まれつきのサッカー選手らしく、その技倆は日増しに向上した。プロのサッカー選手、そして、世界的なスターに大成する基本が整えられて行ったのである。 その能力を認めたチームは、1963年16才であった彼を、正式にアヤックスアムステルダムの選手として入団させた。その次の年に、彼はプロの選手としてデビューした。
 そして、1966年、国家代表に選ばれた。このときまだ、満19才になっていなかった。代表選手としてハンガリーとの競技に臨んだ彼は、初ゴールを成功。彼は1978年まで国家代表として活躍し、48回国際試合に出場した。1974年にはワールドカップでオランダが準優勝するのに、その立役者として活躍し、トータルサッカーの真髄を見せてくれた。

 1973年、アヤックスアムステルダムに、ヨーロッパカップ大会で3年連続の優勝を獲得させた後、スペインのバルセロナチームに移籍した際、彼の移籍料は、当時の史上最高額の153万ドルであった。彼は、バルセロナで4年間プレーしながら、42ゴールを成功させて、保守的で排他的なカタルーニャの人びとから、拍手をあびせられ愛された。1974年オランダ代表チームに合流し、ワールドカップに出場して準優勝を果たした。
 1978年ワールドカップ直前に、代表チームから引退した彼は、バルセロナチームからも離れ、アメリカに渡って、LAのアズテック(LA Aztecs)、ワシントンディプロマット(Washington Diplomats)等で選手生活を送ったが、1981年末、再びスペインを経て組国に帰って来た。帰国した彼は、アヤックスで活躍した。

 そして、1984年アヤックスで、選手兼技術担当コーチとして指導者授業も受けた。1987年、アヤックスがヨーロッパカップ、ウィナースカップ大会で優勝するのに、多いに寄与した後、選手生活をしめくくった。
 その後、1989年に、スペインバルセロナチームのコーチに赴任して、指導者となった。バルセロナチームは、1992年ヨーロッパカップ大会の決勝戦で、イタリアサムプドリアを1対0で破って、彼の指導力を証明した。

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