全1156件 (1156件中 1-50件目)
株式会社エアウィーヴ 取締役社長 殿冠省TV番組《ガイアの夜明け》を拝見しました。私もエアウィーヴの愛用者ですので、主題だったアメリカ市場への件について率直に意見します。アメリカ市民は圧倒的な割合で肥満体質の人々が多い。体重が100kg、体脂肪率が100%を超える場合、マットレスに過ぎないエアウィーヴの特質や利点は生かしにくいと断言します。したがって、マクドナルドやKFC、サブウェイのように肥満体型のアメリカ市民が愛好することによって生まれる巨大需要にはなりにくい、という覚悟は必要かと思います。社長のセールスを離れて、大衆向け宣伝方法はさらに注意が必要で、さすがに使用上の注意ミスで事故は起きないでしょうが(笑)、肥満体のユーザーに期待した効果が得られなかったという反論データを突きつけられたら、アメリカの訴訟社会の地獄に叩き落とされる危険もあります。したがって、貴社の戦略は体脂肪率の低い運動選手に加えて、高級品を求めるセレブリティ需要に訴求することで、伝統のある高級寝具メーカーとの提携を視野に入れられてはいかがかと存じます。
Apr 7, 2015
『信長公記』の著者・太田牛一は天正9年(1581)8月、おそらく安土城で信長がこう発言したことを記録した。『今度毛利勢が後詰に出づれば、信長もみずから出馬して東国の人数をもって西国勢にまみえ、一戦を遂げてことごとく討ち果たし、この日の本を一挙に平定する所存である(本朝、滞りなく御心一つに任せらるべきの旨)』これは秀吉軍から毛利攻めに参加を呼びかけるプロパガンダによって広められた。信長の朱印状ではなく、秀吉や官兵衛、信長軍のすみずみまで、「信長さまの意思はこの通りである」と流布させたのだ。信長も「甲府の武田はすでに空中分解、最大のライバルの毛利に大勝利することが一挙に天下を平定することになり、もはや関白太政大臣となっても、大きな反抗勢力はなくなる」と明確にイメージしていたのだ。だから安土城を建設した後、天皇を京都から遷座するための「御幸の間・皇居」をしつらえ、それを部下や民衆に一般公開したのだ。しかも、信長本人が太田牛一ら参観者みんなを出口で立って待ち受け、入場料をみずからの手で受け取り、賽銭のように後ろに投げたと生々しく『信長公記』は記載している。一方の光秀は。同年の甲州攻めに参加しているが。丹羽長秀らは戦勝の後、草津温泉で休暇をとるように命令が下された。しかし、光秀には何もない。光秀は甲府まで何をしにいったのか。東美濃・明智城主でありながら、信長に反逆して、甲府に逃亡していた飯羽間(イイバサマ)右衛門は賞金の黄金めあての農民たちに捕らえられ、首を斬られた。光秀もそれを見ていたであろう。裏切り者の最期はこのように凄惨だった。『信長公記』は、光秀謀叛の下りに、「信長公を殺して、自分が天下の主になろうとした」という牛一の推定を加筆している。しかし、そこには特に根拠となる資料は付加されていない。熊本大学永青文庫研究センターの細川藤孝に宛てられた光秀の書状には、信長を殺した自分には、もともと天下を左右する野心はなく、情勢が落ち着いたら引退するつもり だと書かれている。これこそ、同時代の研究者がもっとも注目すべき事実の記述だ。つまり、光秀はもとから信長を殺した後、天下を支配するというはっきりとした信念はなかったのだ。それが本音、あとはまとまりのない犯罪者のうそだらけの幻想にすぎない。四国攻めに集結していた丹羽長秀軍は、長宗我部の軍勢が渡海して上陸すれば、なんとかなる。毛利攻めにかかっていた秀吉軍は足止めを喰らい、そう簡単に反攻には出られない。天皇がいる京都にゆっくりと構えていれば、両軍とも背後を衝かれる危険はせず、日和見に流れるのではないか、希望的観測はしたものの、やがては追い詰められていく運命は自覚していたようだ。このあたりは犯罪心理学からの解説がもっとも信頼できる。自分の生命さえ助かれば、信長の後の権力の座は、誰がすわってもいい。信長が最高権力者になったら、みんな困ったはずなんだから、そういう自己弁護に終始してしまい、いったい何をどうしたいのか、見えてこない。そこにはルイス・フロイスが嘆いたような、光秀の裏切りを好む不安定な虚栄のキャラクターがそのまま現れていると結論したい。光秀は、このままでは自分が殺されるという確信に基づいて、本能寺事件を起こしたのだ。さて、光秀の書状を受け取った細川藤孝は、どうして光秀に寸分の同情も示さなかったのか。光秀はまず長岡京の勝龍寺城を奪い取り、最重要拠点とした。もちろん、藤孝にゆずりわたすつもりで、細川軍に秀吉、丹羽長秀の反撃に対処させようとしたのである。しかし、光秀の書状が届く前に藤孝は家督を忠興にゆずり、剃髪した。それは「もはや誰の命令にも従わないぞ」という難い拒否反応だった。それを光秀は聞いて数日間、怒りまくったと書いている。光秀は、藤孝と昵懇の間柄と信じて疑わなかったわけだが、藤孝は光秀のキャラクターをもともと好ましいとは思っていなかったと推察される。それは信長の勝龍寺城召し上げの原因はそもそも光秀にあったからだ。天正6年(1578)、光秀と藤孝は丹波黒井城の攻囲を続ける一方で、守護一色義道の丹後に侵攻した。 翌年(1579)、義道の悪政に不満を爆発させた丹後の国侍衆の相次ぐ寝返りで居城の建部山城(舞鶴西港)も落城。義道は逃亡中に自害した。しかし一色勢はまだ奥丹後(丹後半島)三郡を実効支配しており、黒井城の陥落、丹波平定まで丹後の制圧は後回しにされた。そうこうするうちに家督を継承した一色義定は、弓木城(宮津市と天橋立を挟んで対岸の丹後半島東岸の与謝野町)で残党を率いて抗戦を始めた。藤孝は宮津に築城する許可を信長から取り付け、天正8年(1580)再び丹後に進攻するが、ここで光秀が加勢と称してやってくる。義定の父、義道はもともと光秀・藤孝とともに、足利義昭の奉公衆の仲間。旧友というほどではなかったにせよ、元同僚だ。「戦う必要はないじゃないか」こうして丹後の北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は一色義定の領有が信長から認められ、藤孝は政略結婚によって和議を結んだ。自分の娘・伊也(いなり)姫を一色義定の妻に差し出したのである。しかも藤孝は加佐郡・与謝郡の南2郡の領有にとどめられた。藤孝は悔しくてたまらなかったであろう。ボクシングで、さあ相手をノックアウトで倒してやるぞ、という瞬間に、後ろのセコンドがタオルを投げ込んできて、試合を終わらせたのだ。娘を敵方の妻に差し出すなど、あからさまな全面降服のやりかたではないか。すべては光秀のエゴから出た策略だった。この翌年、一色義定は光秀のはからいで天正9年(1581)の京都馬揃えにも主役の一人として参加、藤孝の子、忠興は岐阜中将信忠の奉公衆の扱いだった。そして、その直後に勝龍寺城を召し上げられた。宮津城の向こう岸にある弓木城はわずかの間に盛んな城下町を形成、その有り様を藤孝はどう眺めただろうか。本能寺事件の後、義定は山崎の戦いで光秀に加勢。戦後、秀吉から義定による追討命令が下り、隠居だと田辺城(舞鶴)に移動していた藤孝は俄然たち上がり、みずから偽計で義定を招き寄せ、宮津城内で謀殺した。その際、城内に詰めていた一色の家臣や城下の雑兵100人も討ち取り、弓木城も降伏、開城。藤孝はやっと伊也姫をとりもどした。それでも藤孝の心は決して癒えることはなかったであろう。
Feb 25, 2015
今年、「本能寺の変」直前の長宗我部元親の手紙が岡山県立美術館「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」展で公開され、2月4日放送のNHK歴史秘話ヒストリアで紹介された。その内容は、本能寺事件の直前に元親が、光秀の家臣で肉親の斎藤利三を通じて、降伏命令を受け入れるというものだった。実際に元親は光秀に使者を送り、和睦したいと信長に申し入れている。これは直ちにはねつけられた。すでに摂津有岡城の荒木村重、大和信貴山城の松永など、元親のような謀叛人の仕置きは定まっていた。本人自害、家族斬首、首は京都市中にさらし、領地は没収。この仕置きに異論をはさむ者も謀叛の加担者として連座処分される。つまり、光秀と斎藤利三は、この連座責任にひっかかったのだ。この書状がそれを証明している。これに先立つ天正3年(1575)、土佐を統一した長宗我部元親は織田信長に同盟を求めた。この時信長は元親に「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したという。 天正8年(1580)6月、元親は阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。また今後の阿波征服のため、康俊の父、三好康長が長宗我部に敵対しないように働きかけてくれるよう依頼、いずれも了解を得た。この頃は光秀が取次役として元親・信長の交渉窓口となっていた。 ところが、三重大学の藤田達生教授によると、同じ頃、三好康長と羽柴秀吉が急接近。その目的は、当時交戦中だった毛利氏に対抗するため、三好氏に旧臣を束ねさせ、瀬戸内海の水軍で加勢させるためだったのではないかと推測する。天正9年(1581)3月、三好康長は秀吉の支援を得て讃岐から阿波に入り、長宗我部に抵抗をはじめた。同年6月、信長は長宗我部氏と三好氏が協力することを求める朱印状を各諸侯に出す。ここから秀吉に押しきられる形で、信長の四国政策が急転換する。 長宗我部氏に圧迫された阿波の三好氏、十河氏、伊予の諸侯は信長に救援を求めた。これに対して、信長は元親に土佐一国と阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。しかし元親は、自分の四国征服はかつて信長が認めたことだとはねつけた。明智光秀は石谷頼辰を派遣して元親を懸命に説得したが、天正9年(1581)後半に織田・長宗我部の交渉は決裂。同年前半に京都馬揃えで信長の面目をほどこして見栄をきった光秀は、一転して四国担当を更迭され、一時無役となった。家康の馳走役など、そもそも大名の仕事ではない。実は長宗我部氏と毛利は密かに協調関係にあった。信長の四国政策の変更は、元親が四国を統一したとたん、毛利を支援して裏切りに出るのではないかという疑惑の確信に基づくものだった。実際、讃岐(香川県)に侵攻した元親は同年9月、毛利の使者を迎えて同盟を結んだ。この情報をつかんだのは、秀吉の軍師、官兵衛孝高である。官兵衛は先祖から引き継いだ売薬の販売ルートから瀬戸内海一円に情報を通知するネットワークをはりめぐらせていたのだ。そこで元親に対抗する伊予(愛媛県)の諸侯は、官兵衛を通じて、中国攻めの陣中にあった秀吉に人質を差し出した。直ちに秀吉は官兵衛に淡路攻撃を指示した。翌10月、秀吉は淡路志知城に進出していた官兵衛に、長宗我部氏に抵抗する勢力に兵糧・弾薬の補給を命じる。もちろん、これは信長の承諾を得てのこと。これが長宗我部征伐の始まりだった。もう引き戻しはできない。11月中旬には秀吉も淡路に渡り、籠城した由良城の安宅貴康を降した。黒田家所蔵の備前長船祐定の名刀「安宅切」は、切腹した貴康の首を孝高が介錯、斬り落としたものである。天正10年4月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。これは信長の四国政策の変更が、秀吉と官兵衛が策したものという背景の事情を示すものである。明らかにライバル明智光秀の長宗我部調略の功績を狙い撃ち、ぶち壊してめちゃめちゃに排撃するものだった。さて光秀は京都馬揃えを通じて、信長が太政大臣になる助けをして、ほとんど実現するところだったのだが。しかし、秀吉は「いま急ぐことはありません。まず毛利と長宗我部を打ち破り、九州地方を平定し、おおかた日本全土を制覇してから関白をお受けになられてはいかが」と消極的に意見する。このままでは光秀は皇室を擁して信長第一の家臣とされるにちがいなかった。それは絶対に邪魔しなければならない。ここに官兵衛が知恵を出し、毛利と長宗我部の懸案を持ち出したのである。こうして信長は「時期が悪い」と官位昇進を差し止め、最後の征服戦争に本腰で乗り出した。天正10年(1582)5月、信長は三男織田信孝を総大将に四国方面軍を編成、四国攻めを指示。三好康長は先鋒として阿波の反長宗我部勢力を糾合。 5月29日には信孝軍は摂津住吉(大阪市住吉区)に着陣、摂津大坂、和泉岸和田に集結した総勢あわせ1万4000の侵攻軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だった。しかし、当日朝に本能寺の変で信長が死亡したため、作戦は立ち消えた。そこで本能寺事件の原因の一つは、明智光秀がこの四国侵攻を阻止するためではなかったか、という説明(桐野作人氏など)があらわれている。私はこの四国説を《孫子兵法》の立場から全面的に支持賛同する。その裏面には確かに軍師・官兵衛の光秀追い落としの悪意が仕込まれていた。秀吉は信長とともに毛利を打ち破り、九州を平定して、京都に凱旋。関白太政大臣の官位をいただき、ついに並ぶものなき天下人となる。いっぽう「捨て石作戦」で、山陰道を進んだ光秀軍は出雲因幡の国境で毛利の最後の抵抗に遭遇、敗戦したとたん、ただちに陣中で目付役から上意討ちの命が下り、命乞いも許されず、斎藤利三ら重臣たちとともに首をはねられるのだ。光秀は戦慄した。「このまま官兵衛に殺られてたまるか」
Feb 18, 2015
たまたま最近、2月4日のNHKヒストリアの長宗我部元親の斎藤利三宛て書状のことを知り、桐野先生の労作のことを知りました。また、本能寺事件の直後に細川藤孝宛て光秀書状が東京の永青文庫で公開されたことも聞き知り、戦略シミュレーション研究の観点から、この問題に興味を持ちました。結論は、光秀が四国侵攻を阻止するため、本能寺事件を起こしたことを確認し、また光秀が命じられた山陰道攻略が堅い出雲の防衛に滅亡必至の捨て石作戦で。信長自身は秀吉と山陽道を下関まで突進し、毛利を制服して凱旋、関白太政大臣となり、二条新造第にいた誠仁親王を新天皇に即位させ、安土城に行幸させて天下に号令する、という《本能寺事件がなかった場合》のシミュレーション結果から、光秀はこれも阻止しようと行動に出たと判断しました。細川書状から推理するに、光秀は、長宗我部との交渉に失敗して元親が毛利と同盟したことで、信長から裏切りもの扱いをされたこと、もし山陰道で敗戦したら切腹も許されずに上意討ちで首をはねられるという恐怖に切迫していたと想定します。したがって、従来の《光秀は怨恨によって信長に復讐した》という考え方は根本的に間違いだと考えます。光秀は、自分が虫けらのように殺されるだろうという浅ましい恐怖から、やむなく信長に反撃したのです。
Feb 18, 2015
伊達政宗の先祖は鎌倉時代初期、奥州合戦に従軍した戦功により源頼朝から現在の福島県伊達郡の地を与えられた初代・伊達朝宗だった。だから秀吉が「国替え」という方法で諸大名の根拠地を奪ったとき、山形県米沢市に本拠があった政宗は伊達郡への復帰を切望した。信長が光秀に「惟任」という名を与えたのは、明智城のある東美濃の形勢(1574)から光秀の執着を奪い、丹波方面の攻略(1575)に専念させるためだったと考えられる。天皇の諮問で名前を決めたのは、おそらく「惟神(かむながら)の道」を説く光秀の友人(藤孝の従兄弟)の公卿・吉田兼見だろう。兼見は比叡山攻略前に吉田神道(神仏混合)の指導者として、信長から「寺を焼いてもいいか」と相談を受けていることを日記に自慢している。つまり「惟任」は任務に集中しろという皮肉な名付けだ。このころの光秀の出世ぶり(安土城対岸の近江坂本の築城など)は、朝倉討伐以来、ずっと極寒の北越に置かれていた家老格の柴田勝家さえ嫉妬するほどだった。しかし、前述のように丹波計略は最初からつまずいた。しかし、黒井城の包囲や波多野の裏切り、光秀の敗走といった織田軍の面汚しの記録は、『信長公記』にはいっさい書かれていない。光秀が部下を見捨てて生命からがら京都の大路に逃げ帰った、などという記述は『信長公記・天正四年正月条』にはどこにも書かれていない。ただ安土城の建設が本格的になって、それらの盛大なありさまが美辞を連ねているだけ。削除されたか、それともあまりの信長の怒りぶりに記録するのをはばかったか。吉田兼見の日記、『兼見卿記』に記されているだけなのである。ルイス・フロイスが「信長は光秀を足蹴にしたことがある」と書いているが、まさにこの時のことだろう。これは重要なことだ。その場で信長が直ちに怒りに任せて光秀の首を斬らなかったのは、「まだ使い道もあるだろう」とじっと我慢をしていたのだ。その後は足蹴にするのも穢らわしいと思ったか、少しのことに激怒すると、近習の森蘭丸に鉄扇で殴らせている。これはひどい恥辱だ。ルイス・フロイスの記述は、キリスト教団側の偏見に満ちているという批判はあるが、彼ら歴史の第三者、つまり庶民層にまでも「光秀の悪評判」がそのように広まっていた、という事情を軽視してはならない。よく光秀の本能寺事件の動機を探る人々は、信長の仕打ちに「怨恨を抱いて復讐した」という見方に偏りがちで、これが最も害を及ぼしている。つまり、歴史のなかに、フィクションを含めて、もっともらしい怨恨の理由を探して回るのだ。今回の永青文庫研究センターの解説も「光秀怨恨の理由がどこかにあるか探せ」という暗黙の伝統的な命題に影響されていると思われる。人間は殺人事件を犯すとき、必ず怨恨が動機で事件を起こすものだろうか。何か動機があるはずだと、下手な推理小説のように理屈をつけようとすることが愚かしいのだ。怨恨は個人の感情である。そのような怨恨はまわりの人々には理解されない。だから「光秀は信長にいろいろな怨恨があったから、本能寺事件を起こしたのだ」と決めつけるのは、もう止めなければならない。その逆の意味で、永青文庫の光秀書状を見直すのが私の立論である。光秀はいつも悪夢に怯えていたのだ。いつかまた黒井城みたいに大敗したら、その時はすぐ信長の命令で、森蘭丸たちがやってきて、今度は鉄扇ではなく、御太刀で頭蓋を叩き斬られるだろうと。よしんば敗戦で、山陰道攻略の主将である自分が陣中で切腹をする間もなく、罪人のように叩き斬られたら、部将である藤孝・忠興はどうなるだろうか。光秀は「このまま信長に天皇と天下をとらせたら、われわれの首は最初の犠牲になるところだったんじゃないのか」と藤孝に痛い胸中を明かしたのだ。
Feb 17, 2015
もとは明智光秀の失敗が原因だった。元亀元年(1570)、但馬(兵庫県北部)の生野銀山(1542発見)をもつ守護・山名祐豊と、隣国の丹波(兵庫県中部)の大名・赤井直正が国境の小競り合いから合戦となり、赤井軍はすすんで但馬側の竹田城(いわゆる日本のマチュピチュ)などを陥落させた。両者はもともと信長に服従をしていたが、調整はつかず、天正3年(1575)末になって光秀が丹波の地侍(現地の豪族)を集めて赤井氏の本拠、黒井城を圧倒的な軍勢で包囲した。ところが翌天正4年正月、黒井城(北近畿豊岡自動車道・春日JCT付近)の入り口にあたる八上城(篠山市)の波多野秀治が攻城戦の最中に突然謀叛を起こして背後から襲撃したので、光秀軍は総崩れになって京都市中に敗走した。この戦いで、赤井直正は「丹波の赤鬼」という異名で天下一の武将と称えられ、織田軍は京童にも嘲られた。光秀の戦歴をいろいろ検証すると、加勢の合戦はだいたい勝利しているが。単独の制圧戦はこのようにうまくいかないことが多かった。これは光秀の性格に由来するものかも知れない。補佐役として主人の脇の甘さ、他人の欠落は指摘できる。しかし、自分自身は隙だらけなので、いつまでたっても一本立ちできない。「のぼうの城」武州忍城をしくじった石田三成もそういう男だった。光秀がもっとも目覚ましい働きをしたのは比叡山焼き討ちだった。10日前の9月2日付けの『和田秀純宛て光秀書状』では、比叡山に近い宇佐山城への入城を命じつつ「仰木の事は是非ともなでぎりに仕るべく候」と現在の大津市仰木町の一般市民を虐殺するように指示している。こうして光秀は宇佐山から日吉大社の奥宮を襲撃し、逃亡してきた女や子どもをもろともに焼き殺した。これは比叡山の僧兵たちが破戒淫乱を極めていた証明となり、織田軍は皇室に対しても大義名分を得ることができた。しかし比叡山延暦寺と対立していた園城寺から進出した光秀軍は、民家を放火殲滅をしながら侵攻したので、逃げ惑う多数の避難民を巻き添えにしただけではないかという疑問もある。しかも夜襲に驚いて、ほとんど抵抗せずに屈伏して逃げ惑うばかりの相手。それでも功績随一とされた明智光秀は近江坂本を領地として与えられた。光秀が何といいわけしようと、正親町天皇の実弟・天台座主を追いやった罪は黙した皇室の心深く刻まれていたと考えねばならない。いっぽう、座主が必死に逃亡するのを道をあけて許したのは秀吉だった。光秀が再び丹波に進出したのは天正6年(1578)3月。ここで信長の命令により、長岡(細川)藤孝も加勢に出た。八上城は麓から200mを越す山城。光秀は八上城をだらだら包囲を続け、付近の諸城の各個制圧した。4月には滝川一益・丹羽長秀らの増援を受ける。しかし当時、秀吉も播磨国三木城に膠着、信長も荒木村重が叛旗をあげた摂津国有岡城、石山本願寺などに包囲され、光秀も前の失策に懲りて優柔不断から八上城総攻撃が決行できなかった。 その間に藤孝は守護・一色義直に反抗する國人衆に導かれて丹後武部山城(舞鶴湾西港)を攻略した。天正7年(1579)2月、黒井城の赤井直正が病床にあるとの内通を得て、光秀は再び丹波に進出した。数年の包囲で八上城は兵糧が欠乏、餓死者も出ていた。兵庫県立歴史博物館所蔵の信長朱印状は同年4月13日、但馬の豪族に宛てた内容で「赤井忠家、赤井直正に荷担した罪を赦免し、去年以来より織田方に一味した者の身上は異論なく扱い、当知行も安堵するので、光秀と相談して益々忠節を尽くすように」とある。こうした赦免状を何十枚も国中にばらまいて、少しでも赤井の勢力を削ごうとしたのだ。6月1日、城主に不満をついに爆発させた城兵が波多野秀治を捕え、光秀に引き渡した。すでに黒井城の直正は3月に病死していた。夏8月、ようやく光秀は孤立した黒井城を攻撃、陥落させた。残存兵力の掃討に手間取り、光秀、細川藤孝らが安土城の信長に丹波平定を報告したのは10月24日。翌天正7年(1579)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えた。それでも藤孝にとって勝龍寺城は何としても失いたくない場所だった。だから名門の細川姓をやめて「長岡」と改姓したのだ。武家は姓を発祥の地名と位置づける。家康は愛知県豊田市の松平地区を本貫地とした。松平氏の先祖をさかのぼると、群馬県太田市の新田氏の支族、徳川氏につながる。それで家康は清和源氏の末裔と称し、征夷大将軍の地位を要求できたのだ。同じように毛利氏は鎌倉幕府を支えた大江広元の末裔で神奈川県厚木市内の毛利地区が本貫、武田氏は意外にも茨城県ひたちなか市武田地区が本貫の河内源氏(大将軍頼政の子孫)だという。秀吉は父親は無名、妻ねねの実家・木下氏がかろうじて藤原氏の末裔なので、猿を守護神とする比叡山の日吉大社になぞらえ木下藤吉郎と称した。それで将軍ではなく、後に関白・太閤という高位を極めた。明智光秀の本貫は愛知県可児市明智、明智氏は尾張守護の土岐氏の支族で、足利一門の末裔。その明智城はたびたび近隣の駿河にいた武田軍の侵攻を受けた。信長は「気にするな」という気持ちからだろうか「惟任」という姓を天皇から拝賜させ、惟任日向守と呼ばせた。それにしても光秀という男、合戦には弱いという定評は折り紙がついてしまった。ルイス・フロイスは光秀についてこう書いている。「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」まさにそういう人物だった。
Feb 15, 2015
いま改めて『信長公記』を読み返してみると、安土城を建設した後、楽市楽座で移住人口を増やす政策をとっていた時期、織田信長はそれまで奉行など役人に任せていたであろう町の中の喧嘩にまで介入し、部下を投入して決着をつけさせている。清洲にせよ、岐阜にせよ、そこは旧市街があり、町役となる地域自治のリーダーがいたが。安土城下はだれがリーダーになるのか、先に移住したもの、あとから来たもの、入り乱れた状態であった。毎日のように、あちこちで喧嘩があり、その一部は信長の耳目にもふれた。いわば新都市の規律を細かく整備していったと考えられるが。法華宗と浄土宗が対決した《安土宗論》はもともと街中で説法をしていた浄土宗の高僧に、法華宗の庶民がいいがかりをつけたことに始まる。高僧はその論難を相手にせず、「きみたちの指導者、法華宗の高僧が出てきたら、正々堂々の議論をしてさしあげよう」と応じた。「あの騒ぎは何だ」と城下のありさまを聞きつけた信長は、浄土宗と法華宗の高僧たちをみずから召集し、さらに他宗の高僧を審判に任命、武装兵に警護させ、争乱にならない手筈を整えた。すでに比叡山や本願寺を叩きつぶした後の信長は、ルイス・フロイスが嘆いたように、完全な無神論哲学に固まっていた。しかし、学問と知識は尊重していた。この安土宗論で、法華宗の高僧に勉強不足が発覚すると、勝った浄土宗には褒美を出し、法華宗の者たちには見せしめに市民の嘲弄にゆだね、「もう他の宗派に論争はしかけない」と宗門代表の謝罪誓約書も提出させた。しかし、こんなに気前よく褒美ばかり出していると、さすがの信長もポケットマネーに困り出した。そこで、せっかく移住してきたものに、非行をとがめて財産を没収したり、罰金や上納金を出させて罪を赦したりした。ある富豪は盲目でもないのに金貸しに興味を持ち、目が不自由な人々の集まりに賛助金を出して「検校」というタイトルを買った。検校は目が不自由な人々(座頭)を代表して、その職業をあっせんして、利益をあげる専業を公認された地位。目が不自由ではない健常者がこんなことをやっていいのか、と座頭たちが連名で安土の奉行所に訴えた。最近、大学生のチームが「何十年も閉店しないのに、毎日、閉店セールをやっている店」を調査して、消費者庁に陳情書を提出したが。いまも昔も似たようなものだね(笑) 奉行から報告を受けた信長は、義憤にかられたのだろう、「そのうそつきを召し出せ」と命じた。非行を責めて打ち首にしてやる、というつもりだったのだろうが。にせ検校が謝罪して、財産を差し出すと赦免している。あれあれ。信長は近隣のものに呼びかけて、城内で相撲大会をやった。ところが、優勝者に褒美をやろうとしたのに、ポケットマネーがないという。そこで、非行で財産を没収したものの屋敷を褒美に出すことにした。織田信長さん気前よすぎて金欠で苦しんだこともあったのだね。戦費ばかりかけて働きの悪い光秀に激怒したり、「上様金欠」の内情を察して、さっそく戦地から戦利品を届けた秀吉に高笑いしたり。信長も中小企業から大組織に急成長した経営者として喜怒哀楽の苦労していたんでありますよ。
Feb 13, 2015
この議論は永青文庫研究センターの問題提起から始めたものなので、主に細川藤孝の周辺から、本能寺事件の経緯を再考することにしよう。さて勝龍寺城の召し上げの問題は天正9年(1581)の記事の後、唐突に『信長公記』に登場する。「すでに南丹後を領有したのだから」という理由だが、この交換は細川藤孝の納得の上とは思えない。信長は細川家知行の再検地を命じ、京都所司代の部下二人に城郭を接収させたのだ。まるで合併した企業の破綻処理だ。勝龍寺城とはどういう城なのか。勝龍寺城はもともと大和(奈良)と河内(大阪)に勢力を持っていた三好氏が支配していた城だった。永禄11年(1568)9月、義昭を奉じて上洛をする途上の信長に、三好と対立する松永久秀が謁見、圧倒的な軍勢の前に落城、三好氏は四国(徳島県)に逃亡した。このとき勝龍寺城はいったん廃墟になった。さて元亀2年(1571)正月から、足利義昭はあちこちの大名に密書(御内書)を送りつけ、前年に信長に対抗した浅井・朝倉に味方をするように説得する運動を始めた。義昭の側近だった藤孝はすぐに「公儀御逆心」と信長に状況を詳細に通報した。これが藤孝文書の第1号の背景である。天皇がいる京都を押さえている信長は、反抗する勢力はすべて賊軍として討伐できたから、あえて義昭を泳がせ、御内書にそそのかされた相手が攻めてくるのを待つ戦略をとったのだ。これは孫子兵法の基本原則の一つ、何度も相手に犠牲の大きい長距離の行軍をさせ、何度も進出した軍勢を追いかえすことによって、本国そのものを疲弊させる、というもの。『曹操注解・孫子の兵法』(273-4ページ)そこで同年、信長は細川藤孝に山城西岡(長岡京市)一帯を領地として与えた。これは信長の比叡山焼き討ち(9月)の直後である。当時の公卿たちは昼夜燃えさかる比叡山の地獄絵と、ひどい有り様の難民たちをみて怖れおののいていた。もちろん正親町天皇おんみずから信長に会うことさえはばかるようになった。焼き討ちで逃亡した天台座主は天皇の実弟、覚恕法親王。これでは困るのだ。そこで信長は細川藤孝を立て、天皇周辺をなだめる役を命じ、あわせて京都洛外の守護に藤孝を任命したのである。それは足利義昭の周辺をより厳重に監視させるためでもあった。同年10月14日の信長より藤孝宛て『印判状』には 勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し 織田信長(印判) とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。つまり築城の資金は、信長が負担したのだ。これによって勝龍寺城は2重の堀をもつ堅固な城となった。このことは藤孝にとって最もうれしいプレゼントだったに違いない。この勝龍寺城のことを、先祖筋にあたる南北朝時代の細川頼春が最初に築城した小龍寺の遺跡だと断定し、自分も細川姓をやめ、地名に合わせて「長岡藤孝」と自称したほど。こうして藤孝は信長の信任に応えるようになった。彼は当初、足利義昭を将軍に擁立して、足利幕府を再建しようとしていたが、義昭のいびつなパーソナリティ、嘘つきで気弱なのにヒステリックに怒りっぽい気まぐれな性格、人をとことんまで見下す人徳の欠如に飽き飽きしていたと思う。元亀3年(1572)10月、信長はついに義昭に詰問17条をつきつけ、「あんたのやってる小細工はみんなお見通しなんだよ」と駄目を押した。翌年、義昭は武田信玄が救援にくると信じて、二条城で反乱を起こしたが、すでに信玄は死んでいて甲斐武田が軍が動かせるはずもなく、たやすく撃破され、京都を追放された。しかし、これで藤孝の重要性、信長にとっての利用価値は一つ欠けた。 明けて天正2年(1574)、武田信頼の軍営は、信長の《孫子兵法》の逆手をうち、辺境の小さな山城を包囲して、激怒した信長を誘き出し、疲弊させる戦略に変更した。戦果のない連戦に欲求不満を募らせた信長は、京都にきて、天皇に請願して、正倉院を開封、名香・蘭奢待を切り取る許可を得る。細川藤孝が、この一件にどう関わったかを記す文献は一つもないが、藤原道長(1019)、源頼朝(1195)、足利義満(1385)、足利義政(1465)と重ねて、勅許を得て皇室の重宝を伐りとる意義を知っている人物、天皇にそれを認めさせる説得ができた人間はそう多数はいない。藤孝だけだ。こうして信長はかつて松永久秀の居城だった奈良市内の多聞山城を訪れ、噂に聞いた4重の天守閣と豪壮な城郭を見た。余談だが、かつて松永は築城(1560)にあたり、まず60mほどの小山の上に天守閣の建造を始め、それから近隣の富裕な豪族たちに土地を分譲して外郭を固めた。これはいまのディズニーランドとほぼ同じ建設方法である。後に織田信長が安土城を建設したときも、同じ方法がとられた。この蘭奢待事件の後、しばらく信長は藤孝の立場の変更は捨て置いた。しかし、天正8年(1580)にいたり、信長は藤孝・忠興父子に丹後の一色氏を攻めるように下知した。藤孝にとってついに避けられない試練の時が訪れたのだ。
Feb 13, 2015
細川藤孝は、本能寺事件の年、すでに織田信長政権にとって、光秀と同等に「無用の長物」の扱いを受けていた。なぜなら、信長は自分自身が平清盛に習って太政大臣になろうとしていて、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に自分の京都の邸宅だった二条第を譲っていた。 だから本能寺を宿舎としたわけだ。光秀の心情はともかく、信長が本能寺事件の直前にやろうとしていたことはほぼ状況が解明されている。信長は、天正9年(本能寺事件の前年)初めに安土で爆竹祭りである「左義長」を挙行した。特筆すべきは、この祭りに信長はすでに太政大臣に内定していた近衛前久を招待したことである。この盛大な祭りを聞いた朝廷側が、ぜひ京都御所の近くで再現してほしいと求めた。すると信長は応諾しつつ、さっそく直轄軍団とともに上京。 2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行った(第一次京都御馬揃え)。このとき、信長は細川藤孝から献上させた聖徳太子ゆかりの蜀江錦を陣羽織に仕立て着用していた。朝廷側の驚愕と動揺を確認した信長は、3月5日に名馬500余騎馬をもって再び馬揃えを挙行した。洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になった。 3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。朝廷は困惑した。もともと信長が平氏を自称していたが、馬揃えのとき織田軍は平清盛と同じ旗印を用いていた。朝廷側はこれを「左大臣ではなく、信長は太政大臣の地位を要求している」と解釈して、信長の意思を確認した。その反応は秘密にされていたので記録はないが、2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が5月に辞任してから、空席となっている。本能寺の変後の翌年7月17日に羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙において、秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいる。信長は死後、太政大臣贈官が10月に提起され、その宣命には「重而太政大臣」の語句があるので、信長は本能寺事件の時点で太政大臣の就任について、誠仁親王への譲位と同時に応諾すると返答したことが推論されるのである。さて光秀はこの馬揃えの主宰として参加したが、実は細川藤孝は参列も許されず、丹後の宮津城にいた。しかも馬揃えの後、『信長公記』によると、信長は「細川には丹後の半国を与えたから」として、細川家の旧領だった勝龍寺城(長岡京市)をかなり強制的に接収した。このとき、丹後は北半分に旧領主で信長に降伏した一色氏が許されて残存していた。藤孝は織田政権のもっとも辺境に追いやられ、本拠地だった城(息子の細川忠興とガラシャの幸せな新婚生活の地でもある)を奪われた。明らかにこの措置は、正親町天皇にもっとも親しく、その譲位強請に異議をもっていた藤孝に対する冷遇と考えられるのである。
Feb 13, 2015
さて、後れ馳せながら、熊本大学の永青文庫研究センターのみなさん、そして稲葉継陽先生の業績に心からの敬意を申し上げたい。しかし、書状の文言の解釈はすべての真相を明らかにするものではない。歴史資料は、いわば点である。足場になりうるかは、点の数で決まる。違う方向、位置にある2点(歴史資料)が存在すれば、それは有力な説、3点以上が一致すれば、それは限りなく真相に近い。現代の政治家の記者会見の発言だと思えばいい。よく政治家は「真相が間違って伝えられたが、私の真意はこうだ」と発言の解釈を説明する。しかし、その真意の説明は、マスコミの一方的な解釈に対する反論であり、自己弁護なのだから、素直に読み取れないことは言うまでもない。光秀は真意を語っているかもしれないが、大袈裟に物事を語り、嘘をついているかも知れない。それは書状だけでは読み取れない。しかし永青文庫研究センターのチームは、「光秀の山陰道攻略に、丹後の細川家も全軍をあげて協力するように」という信長の絶対命令があったことを明らかにした。それを光秀は拒否した。しかも、信長を殺害して山陰道攻略作戦を中止することが、「私もそうだし、細川家にとっても、存亡の瀬戸際だったはずだよ」と哀願したわけだ。光秀の山陰道攻略が、信長の戦略全体では「捨て石」だったことは間違いない。実際に信長は、秀吉の山陽道攻略に参加するために京都に短期滞在していた。いわばトランジットで京都で対策を練っていたという立場。高松城の水攻めの報告はすでに秀吉から詳細に届いている。毛利はほとんど全軍を投入して、高松城の近くに布陣していた。したがって毛利の本拠地だった出雲(島根県)と安芸(広島県)は手薄な状態。山陰道から光秀が一気に乱入したら、高松の毛利本陣の背後をかく乱するわけで、毛利は防戦の窮地に立たされ、本国に撤退を余儀なくされる。そこまではいい。しかし、本国撤退は毛利も計算のうち。山陰道を攻め込んだ光秀軍は、もとの領主にして姦雄・尼子経久が針ネズミのように砦や出城を配置した出雲領内で蜘蛛の巣網にかかった蜂のように身動きがとれなくなる。そこに広島の領地を捨てた毛利軍が攻め入ったら、光秀と細川の山陰道攻略軍は完全に殲滅されるだろう。すると、秀吉と信長の総攻撃軍は、一気に安芸(広島)から長門(山口県)まで軍を突進させる。毛利は光秀軍を撃破した後に、改めて信長と出雲・石見(銀鉱山あり)の線引きで和睦する、これが孫子兵法の戦略シミュレーション解析である。信長はあえて「お前は死んでこい」という命令を下し、それに細川藤孝を巻き添えにしようとした。だから光秀は「信長の殺害は、細川家の存亡のためでもあるのだ」と言い張ったのだ。しかしなぜ、細川藤孝を信長は光秀といっしょにお払い箱にしようとしたのか。足利義昭を追放して、完全に京都を軍事占領、大阪の石山本願寺も滋賀の比叡山も叩きつぶした信長は、安土城に天皇を遷御する準備を整え、実際に清涼殿など天皇の御座所となる施設を建設していた。京都に天皇がいて、たくさんの公卿たちに囲まれている状況であれば、細川藤孝のような博覧強記の天才は活躍の場がある。つまり、天皇から意のままの詔勅を出してもらうためには、天皇の文書を管理する立場の公卿たちをうまく操縦しなければならない。もともと細川藤孝はそういう立場だった。しかし、信長は光秀とともに細川藤孝を切り捨て、「お前はもう捨て駒だから必要ない」と決めつけていたようである。本能寺事件の数ヵ月前からの書状は、まったくの命令書であり、つまり信長の官僚機構から通達された無機質なもの。稲葉教授はそのことは確認できるはず。信長自身の命令でもなく、すでに発動されていた山陽道攻略優先の作戦手順で、中央本部の作戦会議が信長の承認を得ながら動いていたと。天皇を京都から強制移動させ、言いなりになる公卿たちだけを同行させれば、もう公卿の引き付け役の藤孝はいらなくなるわけである。実際にいらなくなったのだ。だから京都から追い出され、丹後に左遷されたのだ。その理由は、藤孝が天皇の安土城遷幸の構想に異議を申し立てたからであろう。後に、黒田官兵衛が秀吉の韓国征伐に異論を唱え、逆に前線にいけと命令されたように。加えて、毛利には足利義昭がいた。義昭がいる毛利を攻めろという絶対命令は、まさに藤孝の異心を実検するため、信長が突きつけた無理難題だったのだ。
Feb 13, 2015
今日2月12日、日本テレビ系列で「くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ」が放送された。熊本大学永青文庫研究センターの歴史資料研究の活動、信長の手紙の解読と研究の過程を垣間見ることができたのは面白かった。しかし、稲葉継陽(永青文庫研究センター長)教授の見解は非常に慎重なもので、一次資料である信長の最後の手紙、本能寺事件の1ケ月前の文面で、「丹後の細川藤孝は、山陰道の総大将、明智光秀の別命を待て、と信長から直接指示された」と指摘。光秀が細川軍を指揮する立場にあったことで、信長が光秀を不当に扱ったという定説のほとんどは、「すべて一次資料によらない伝聞に基づくもので、必ずしもそうとは言い難いのではないか」と疑いを向けられていた。あんまり目立たない意見だが、定説に異議をつけることは、実は歴史学者としては乾坤一擲の勝負というところだろう。さて本能寺事件の後、細川藤孝は信長の死を悼んで、ただちにチョンマゲを断ち切って、家督を長男の忠利にゆずり、その妻ガラシャ(光秀の娘)を丹後の山奥に幽閉した。これは光秀と盟友だった藤孝が、「光秀、きみとはいっしょにやれないよ」と関係断絶を一方的に宣言したに等しい。 ここで細川藤孝がどんな人物だったかを再確認する必要があるだろう。彼はまず足利義昭を奈良の興福寺から脱出させ、越前まで落ち延びたが、光秀と提携して織田信長と交渉。ついに足利幕府の再興をなしとげた人物だ。つまり、天皇、公家、武家のそれぞれを分権して顔を立てる役割をつけて配置する当時の中央政府機構の複雑な組織図が描ける知恵者だったということ。この時代の公卿と公儀(将軍)が尊重したルールブックはすべて過去の先例の記録。いまでいう裁判所の判例集と同じもの。気位の高い公卿たちは、知識豊富な細川藤孝に「これは、あなたたちの偉大なご先祖、藤原道長公も同じようになさったことですよ」と先例でダメ押しされると、不満も言えないわけ。これは光秀にはできない。だから光秀は藤孝が必要だった。光秀の三日天下と言われる新体制構築の不如意と迷走は、すべて藤孝の不参加が原因。だから秀吉は清洲会議の直後に血判状を書いて、藤孝に新体制の信任を懇願した。藤孝は戦争しか知らない黒田官兵衛とはちがう当時最高の知恵者だったことの証明だろう。さて、本能寺事件のあと、1週間ほどしてから明智光秀は細川藤孝に書状を送った。そこには、「今回、信長を討った理由は、藤孝さん、あなたとあなたのご家族のためでもあるのですよ。そのことはわかってるでしょ」みたいな内容が書かれていた。もう僧籍に入って引退隠居の意思表示をした藤孝に対して、「やっぱり、あなたがいないとやっていけないよ」と光秀が本音で哀願した手紙だったのだ。この内容の解釈について、稲葉継陽教授は「歴史にifはありませんから」と言葉を濁した。なぜ、光秀は本能寺事件の理由を「藤孝さん、あなたのためでもあるんだから」と恩着せがましく書き込んだのだろう。稲葉教授に代わって、孫子兵法からの解析で、この明智光秀の理屈を読み解いてみよう。【2】につづく。
Feb 12, 2015
〓マイケル・キートン、マクドナルド創業者の伝記映画に主演交渉《やり遂げろ〓この世界で継続ほど価値のあるものはない。才能は違う。才能があっても失敗している人はたくさんいる。天才も違う。恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世界にいる。教育も違う。世界には教育を受けた落伍者があふれている。信念と継続だけが全能である。》俳優のマイケル・キートンが、米ハンバーガーチェーン「マクドナルド」の創業者レイ・クロックを題材にした映画「ザ・ファウンダー(原題)」に主演する交渉を進めていることがわかった。米ハリウッド・レポーター誌によれば、キートンはジョン・リー・ハンコック監督(「ウォルト・ディズニーの約束」「しあわせの隠れ場所」)と1月12日に面会後、クロック役のオファーを受けたという。製作を手がける米フィルムネイションは、トム・ハンクスにアプローチしていたが、合意には至らなかったようだ。同作は、1950年代、米イリノイ州出身のセールスマンだったクロックが、南カリフォルニアでスピーディなサービスが売りのハンバーガー店を経営するマック&ディック・マクドナルド兄弟と出会い、やがて巨大ファストフード帝国「マクドナルド」を築き上げていく過程を描く。「レスラー」のロバート・D・シーゲルが脚本を執筆した。キートンは、主演作「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で、ゴールデングローブ賞映画部門の主演男優賞(コメディ/ミュージカル)などを受賞し、今年の賞レースをにぎわせている。〓〓〓〓〓マクドナルド・システムの創業者、レイ・クロック〓レイモンド・アルバート・クロック(Raymond Albert Kroc,19xxx-xxx-xxxxx)は、チェコ系の両親の家庭で、イリノイ州シカゴ西郊のオークパークに生まれる。高校中退後、第一次世界大戦中に15歳で救急車ドライバーの訓練を受け衛生隊に所属、この同じ衛生隊には1才年上のウォルト・ディズニーもいた〓終戦後はピアニスト、紙コップのセールスマン、ジャズ演奏家、バンドメンバーなど職を転々とした。 1941年には5種類のミルクセーキを同時に作る機械「マルチミキサー」の独占販売者となり、国中を旅してまわった。1954年、カリフォルニア州サンバーナーディーノで1940年に最初のマクドナルドを開いたマクドナルド兄弟と出会う。マクドナルド兄弟は、1937年に、アメリカ東部のニューハンプシャー州から移住し、カリフォルニア州パサデナでドライブイン・レストランを開店した。当初はホットドッグ屋だった。 1948年に一度閉店をし、改めてスピーディーなサービスシステム、工場式のハンバーガー製造法、セルフサービスの仕組みなどを考案した上で、1948年12月にカリフォルニア州サンバーナディーノで始めたハンバーガーのドライブインストアで再オープン。これが現在のマクドナルドの原点となった。クロックはこの効率化された調理システムに興味を持ち、兄弟と交渉してフランチャイズ権を獲得、1955年4月にイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店した。 1955年3月、52歳の時にマクドナルドシステム会社を設立(1960年にマクドナルドコーポレーションに社名変更)。レイ・クロックは、最初はミキサーを売りに兄弟の店にやってきただけだったが、セルフサービスの同店は客席の回転率が大変高く、相当数の人数の客を次々とさばいていた。すっかり感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスで次にやってきたとき、システムをフランチャイズ形式にして、システムそのものを売る商売を始めてはどうかと勧めた。兄弟は「自分達の為にこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりは無い」と消極的だったが、結局「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意。兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックの野望は第一歩を踏み出す事が出来た。クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、この当時(1955年)、開業目前だったディズニーランドの中にマクドナルドの食堂を入れるよう、かつての戦友ウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックは故郷のイリノイ州デスプレーンズにもどり、最初のフランチャイズ店を出店、たちまち大成功する。1961年にはマクドナルド兄弟から商権を270万ドルで買収した。裕福になり余分な仕事をしなくてもよいと計算した兄弟は、兄の引退も理由となって、270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡すことで合意した。当時のクロックにとっては余りにも高額だったが、投資者をかき集めて支払った。投資者の中にはプリンストン大学も含まれていた。この契約で兄弟は、自分たちの店を "The Big M"(ザ・ビッグM)という名前に変えて続けてもよいことになっていた。しかし、兄弟の店は閉店して現存しない。1965年に株式公開、1984年までには世界34か国で8300店舗を開いた。1955年から1968年までマクドナルド社長、1968年から1977年まで会長、1977年から1984年まで上級会長を務め、生涯で5億ドルの富を築いた。〓職権は仕事とともにあるべきだ。たしかに間違った決断もおかしてしまうだろうが、それが人々を企業とともに成長させる唯一の方法なのだ。抑え付けようとすれば、息が詰まってしまい、良い人材は他へ流れていくだろう。〓Kakkaコメント〓セルフサービスの食堂という発想は、おそらく第一次世界大戦で、はじめてヨーロッパ大陸に大量の兵士を送り込んだアメリカ軍がつくり出したものだ。荒野の野戦病院で、アメリカ軍部当局はボーイスカウトのようなキャンプ・イベントをやり、アメリカの食べ物を持ち込み、兵士たちがホームシックにならないように努力した。それを経験したクロックとウォルト・ディズニーは、実は同じアイデアをもっていたのだ。いまは普通になったセルフサービスのレストランは、ディズニーランドも同じシステムを導入した。大きな違いは、テイクアウトを前提にしていないだけのこと。しかし、二人の偉大な戦友が協力しなかったのは一つの奇跡だった。もしいっしょにやっていたら、世界のマクドナルドは、ディズニーランド内のハンバーガー店ひとつで終わっていただろうから。
Jan 27, 2015
■昭光通商に東京国税局が「使途秘匿金」認定■東証1部上場で半導体などを扱う商社、昭光通商(東京)が東京国税局の税務調査を受け、平成25年12月期までの4年間に、2億数千万円の所得隠しを指摘されたことが21日、分かった。業務委託費として計上したが「使途秘匿金」だったと認定された。使途秘匿金は通常の法人税に加え、支払額の40%を制裁課税される。追徴税額は、使途秘匿金課税や重加算税を含め2億数千万円。同社は21日までの取材に「必要な支出と思っていたが、国税当局と見解の違いがあった。指示に従い、既に修正申告し納付を終えた」と説明している。関係者によると、同社は22~25年、取引先に業務委託費を支払ったとして費用を計上していたが、税務調査の結果、取引先に実体がなく、第三者への資金提供だったことが判明。昭光通商が支出先や理由を明らかにしなかったため、国税局は悪質な仮装隠蔽(いんぺい)に加え、使途秘匿金に当たると判断したもようだ。(産経新聞 12/21 09:43)〓〓〓〓〓〓〓〓〓私が細川内閣から小泉内閣まで、官公庁の頂点に関係したことから、得られた知識は数多いが。役人たちが公選法の指名する公職者、首長、議員を裏切って、封建的な官僚独善主義に逆行する理由は意外に単純なものだ。ひとつは重要政策の失敗にともなう責任を回避したり、揉み消す場合。例えば、原発再稼働政策のプロセスがいかに官庁の利害と権益の隠匿の押し通しですすんでいるか。地方自治体の場合は、農地法の制限下で区画整理や転用などをする第三セクターにバブル期に湯水のように税金がつぎこまれ、東京都のような「富豪自治体」でも大変な赤字を計上した。でもこのような累損額を公開して清算できたのは、まさに東京都が富裕だったからで、その他の99.999%は大幅に値下がりした赤字問題の土地を、公共用地に転用することで、赤字を帳消しにしたか、帳簿上は見えない仕組みにした。だから複式簿記で照会すれば、たちまちむちゃくちゃな粉飾会計があらわれるというわけだ。市役所の外郭団体が抱えた塩漬けの土地を、病院建設に使おうなどという猿知恵は、琵琶湖あたりでは成功したようだが、江戸川端では失敗した。が、そんな愚劣な失敗を首長や議員たちから隠しとおすために長年にわたって《官閥》は結成されたのか。そんな単純なことではない。首長や議員たちはもうそんなことは知っている。ではなぜ。このような状況にあっても、《官閥》は自分たちの私用に使える裏金を積み立て、利得となる横領秘匿金をあちこちに埋蔵しているのだ。こんな公金横領の仕組みがぽろぽろバレたらまずいから、その絶対の秘密を守るために、主要な幹部の人事を暴力団のような強引な方法で固めて守ろうとしている。他の人事派閥には、またまた裏取引をして、気前よく無意味なポストをくれてやる。それは退職後のOBやその裏口座など、《官閥》に味をしめた徒党の共通利益、連帯責任にあるからだ。みんなが不正行為と巨悪に気づいているが、口には出さない。相手が非公然の暴力団組織だから、関わりあいを怖れてしまうのだ。でも時代錯誤の官僚ファシスト《官閥》の崩壊は近いだろう。やがて真実は明らかになり、きみたちの家族は孫の代まで、この地域で生涯の恥をさらすことだろう。首長は断固として、退職者の《官閥》の中心人物を業務上横領罪で告発する手筈をつけるべきだ。もう退職前の課長たちに責任を負わせて口封じなんてできないぜ。お前たちの手は血みどろだ。真相を知れば知るほど汚い人間たち、無責任な殺人ファシスト集団が市役所の実権者なのだから。※写真と本文は関係ありません。
Dec 21, 2014
なぜ、アメリカやイギリスの情報当局は、49才の若きシリア大統領バッシャール・アサドの政権をそんなに毛嫌いしたのだろうか。 ダマスカス大学医学部を卒業後、軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修していたが、当時も彼は政治への関心は人並み程度だった。 この頃、後の妻アスマー・アル=アフラスと出会っている。彼女は英国で生まれ育ったスンニ派シリア人で、ロンドン大学キングス・カレッジを卒業後JPモルガン(英語版)の投資銀行部門でM&Aを手がけるキャリアウーマンだった。 ファッション誌『ヴォーグ』では、「優雅で若く、同国の改革の象徴」などと紹介され、英王室ダイアナ元妃になぞらえ、「中東のダイアナ」とまで称賛された。記事のタイトルには「砂漠のバラ」と冠されている。 しかし、軍人であった父や兄に対して、眼科医のバッシャールに国を率いるだけの能力があるのか疑問視された為、帰国後は、医務局付き大尉の肩書を持っていたので、シリア陸軍の軍務に付き、ホムス士官学校・機甲師団局に勤務、さらに1994年よりダマスカスの軍事高等アカデミー参謀コースで学び、その終了後は機甲師団司令官に昇進、1995年1月には少佐に、1997年には参謀本部付き中佐に、1999年1月に同大佐に昇進した。 こうして兄の権力基盤だった共和国防衛隊の実質的な指揮権を掌握。 政治実績を積むために、レバノン問題担当大統領顧問として、同国の親シリア派政治家であるエミール・ラッフード大統領就任やサリーム・フッス首相選出を後押して、レバノン内政に介入した。 このことが後の対レバノン関係に惨禍を残すことになる。 1999年には、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどのアラブ諸国を訪問。さらにフランスのジャック・シラク大統領とも会談し、シリアの次期後継者として周辺国にアピールした。 2000年、バッシャールは「古参と新たな血の融合」「腐敗との戦い」といった新たな運動を唱え、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴えた。 それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビー首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったアレッポ県知事ムスタファー・ミールーがバアス党大会で首相に指名され、3月14日にミールー内閣が発足した。 この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の若手閣僚も含まれていた。 今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣は情報・治安機関が人選した人間を選んでいたが、今回は実質バッシャールが人選を行った。 腐敗との戦いの最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。 2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして、逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。 一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。 ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは、体制内部の粛正と腐敗との戦いを進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。 2007年5月に再任された。 2010年末よりはじまったアラブの春はシリアにもシリア騒乱として飛び火し、批判の矛先はバッシャールにも向けられることとなった。 反政府デモに対して当初は憲法改正や内閣改造、社会保障の拡大など妥協案も示されたが、デモの拡大に際し武力による鎮圧を試み、多数の死者を出すこととなった為、国際社会からの批判も高まっているが解決の糸口は見えていない。 騒乱が事実上の内戦として長期化する中、シリア国内では、欧米に支援されたシリア国民連合の統治能力に対する懐疑や、占領地域で厳格なシャリーアに基づいた統治を行うイスラム国/イラクとシリアのイスラム国(IS/ISIS)やアル=ヌスラ戦線等のアルカイダ系反政府勢力の跋扈から、少数派ムスリムやキリスト教徒を中心にアサド政権を支持する声も少ないとはいえず、また周辺諸国の利害関係や独立を望むクルド人勢力の動きも絡みあって、事態は複雑化している。 2014年の大統領選では88.7%の得票率を得て三選された。 ところが、米紙ワシントンポストの週刊誌「パレード」の「世界最悪の独裁者」ランキングにて第12位に選ばれた。ブッシュ前政権はシリア封じ込め策をとっていた。 アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマス、レバノンのヒズボラを支援している嫌疑をかけられており、欧米からいまだに「テロ支援国家」と名指しされている。 2003年のイラク戦争後は、イラクからの難民や、逆にイラクに潜入する武装勢力がシリアに集まり、アメリカ合衆国との関係が悪化。さらに2005年のラフィーク・ハリーリー前レバノン首相暗殺事件をきっかけに米欧を中心とする国際的圧力を受け、シリア軍のレバノンからの全面撤退を強いられた。レバノンや中東和平問題をめぐり、イスラエルとの関係は現在も悪いままである。 北朝鮮と核開発で協力しているという疑いをアメリカに持たれ、2007年9月にはイスラエル空軍によるシリア空爆が行われたと報じられている。 後に北朝鮮と核開発で協力しているという見解をアメリカは公式見解として発表する。 一方で先代以来の友好関係にあるイランとの関係を強固なものとし、また隣国トルコやイラクとの関係を劇的に改善しており、イラク戦争後の不安定な中東の政治状況の中で孤立を回避するよう努めている。 ただし、2009年のオバマ政権発足直後から上院外交委員長らを相次ぎシリアに送ったことを「まず対話を始めて互いに問題解決にかかわることが大切だ」と歓迎。 若干対米関係を修復させる態度を示している。 》》》》》》》 私が思うに、バッシャールは無能な政治家ではない。 レバノン問題では、彼は積極的に可否の判断ができなかった。 政治腐敗の問題では、母親の実家の利権を叩きつぶすなど賢明な処断をみせた。 欧米の情報機関が混乱したのは、実はこの腐敗撲滅運動ではなかったかと思う。 情報機関が他国にビジネスを展開するということは、簡単にいえば政府高官を買収するってことでしょ。 バッシャールに嫌われて、シリアを逃亡した連中が欧米に逃げて、何をいうかといったら。 「バッシャールはサダム・フセインの仇をとるために準備をしている」というわけさ。 亡命シリア高官たちは、自分たちを一番高く欧米に売りつけるデマをふりかざした。 これでアメリカやNATOの参謀たちはヒステリックになった。 「シリアも政権党はバアス党だ。アサド政権を何とかつぶそう」 まったく参謀さんって想像力が豊かすぎて道化役にたぶらかされる子どもみたいな人々なのだよ。 しかし、だからといってエジプトのムバラク政権の転覆の流れで、シリアの反政府勢力に資金や武器をつぎ込んだ欧米の罪は大きい。 もっとも罪が重いのは、初期の段階でアナン特使を派遣して、バッシャールに辞任を要求した国連事務総長パン・ギムンの愚行だ。 バッシャールも秘密警察や弾圧機関を父親の体制、陣容のまま引き継いでいたのも油断だった。 金正恩の体制引き継ぎもそう簡単にいってないことをわれわれは知っている。 これまでのシリア政府の問題は、旧体制の残存派が引き起こした弾圧と、シリア軍そのものの不備であり、それはバッシャール個人がいなくなればいいという問題ではない。 反政府運動は日本にもいるが(笑)彼らを誰も相手にしないのは、彼らに統治能力がなく、具体的な政策プログラムもなく、すべての人々の生活なり人生をいまより改善しようというヴィジョンがないからだ。 シリア内戦が拡大すると、化けの皮がはがれてきた。反政府勢力の支配地域に生活の改善が見られたか。 停戦合意をしようと、反政府勢力で話し合いをしたら、まとまらなかった。 前のアサド政権の怨みをはらそうと集まってきただけの反政府勢力にすぎなかったのだ。 パン・ギムンは、彼らならず者たちに政権を預けようと、いまでも考えているようだ。 彼が本当に韓国出身ならば、1960年の学生革命が翌年の朴正煕少将のクーデターで打ち破られたことを知らないだけだろう。
Oct 6, 2014
中国は文化大革命という歴史的な大波乱を経験した。 私が中国にいたとき、人民大学の教授たちはすごく溌剌としていたし。 学問の自由の素晴らしさを体感できる、まるで青年時代だった。 そこで町中でたまたま親しくなった人から聞いた話。 「あなたは日本人か?」 「そうですよ。中国人民大学で勉強中です」 すると彼は「日本人に直接会ったのは初めてだ」といい、 「日本人は百年前からアジアの優等生だから、一人一人も優等生みたいだ」 「どういう意味ですか?」 しばらくして、彼は語り始めた。 「私の故郷は山間の貧しい村だ。しかし、抗日戦争の時、紅軍と日本軍が激戦して勝利した戦跡に指定されて、文革の時は忠義の共産村と優遇されたんだ」 「そうしたことで、貧農出身の私もわざわざ北京に就職できたんだが。時代が変わった。今日、首をいいわたされた。しかし貯金はあるから、郷里の地酒に投資して、郷鎮(農村)企業をやろうと思う」 私は「同意!」と握手した。 「5年後には、あなたは私より金持ちになるだろう。頑張ってください」 「日本人はやはりいい人ばかりだという噂は正しい。中国人民の敵は実は中国人だということをみんな知っている」 「私の村も山間だから、こんなところに日本軍が来るはずもない。国民党の敗残兵たちが真夜中にやってきて、食糧を奪い、女たちを拉致したのだ」 「村の人々は日本軍も国民党軍も見たことがないから区別がつかなかった。そこで国民党軍のいるところに救援を求めたが。敗残兵と同じ制服だったので絶望して町中で泣いた」 「すると国民党の軍営をスパイしていた共産党の青年が泣いている農民に気がつき、さっそく紅軍の活躍で女たちは救出されたのだ」 「いまでも思うのですが、当時の紅軍の活躍は素晴らしい。こうして人民の中に深く根を下ろしていったわけですね」 「違うんだ。紅軍の指揮官は逃亡兵をかくまって、この事件は日本軍がやったことにしよう、と村人に提案した」 「国民党と紅軍は共闘関係だったからね。不都合な真実が面倒になる場合もある。現地の紅軍も少し兵士が増員できたからね。むしろ紅軍は政治に強かったんだね。日本軍は権力闘争は好きだったが、こういう判断はできない人間が多かった」 「そうかもしれないな。彼は将軍になり、文革期をやりすごしていまでも高位にいる」 「そう悪くいうことはないよ。救出してくれたんだし」 「気晴らしにいってみただけのことさ。日本人に話したいと思ってね」
Oct 6, 2014
私が《曹操注解・孫子の兵法》をまとめた動機は、 すでに本書で明らかにしたように、当時、最も日本で普及していた岩波文庫の『孫子』に対する反論であったが。 銀雀山竹簡をみれば、その異同はかなり明らかになっていた。 特に竹簡には《背→背逆》と明記があるのに、「北→逃走」と宋本テキストの字句を変えていない。 テキストを修正しなければ解釈は変更できない。 岩波文庫がやったテキストの修正は唐時代の発音で、韻文のように文字を入れ換えるという、 封建時代の注釈家たちの作業の延長戦だった(笑) 私はこういう文芸家ずれした世間知らずのお馬鹿さん→お偉い文学博士の解釈に義憤をおぼえた。 さらに、私が北京の中国人民大学にいたときのこと。 私は日本の静嘉堂文庫の許可を得て、世界最古の《孫子・武經本》のファクシミリのコピーをいただき、 その一部を北京大学の孫子研究の大家、李零教授に献呈した。 本書の解釈では、当の李教授をこてんぱんにやっつけているが。 まあ、これがキックオフだったわけだ。 人民大学に拠点をもって、孫子の竹簡本に向き合っていたとき、 大学の知人に話題の映画に誘われた。 それがこの謝普監督作品《阿片戦争》だった。 いまでも鮮烈なシーンがラストにある。 阿片戦争の最終決戦、虎門要塞でのイギリス艦隊と清國軍の戦い。 香港島を奪回しようとした広州水軍の関天培提督。 「私の家財をすべて銀に換えた」 銀塊の山をうしろに、居並ぶ兵士たちに、こう演説した。 「イギリスの戦艦をやっつけた兵士にすべて分け与えるぞ」 深くは調べなかったが。 たぶん誇張のない事実なのだろう。 これは《勝兵は血を朱となす》という本書の銀雀山竹簡の解釈以前の、 「将軍は私財をなげうって兵士たちに破格の報奨をすべし」という考え方に基づいている。 だから阿片戦争は負けたのだよ。 私は心の中で涙を流した。
Aug 9, 2014
今日、8月7日は『曹操注解・孫子の兵法』新装版の発売日です。 装丁デザインをシンプルに変更した他は、 内容は変わりません。 ぜひ書店でお買い求めください。 月並みですが(笑)
Aug 7, 2014
滋賀知事選で自公系敗れる 嘉田県政継承・三日月氏が初当選任期満了に伴う滋賀県知事選は13日投開票され、無所属新人で元民主党衆院議員の三日月大造氏(43)が、元内閣官房参事官の小鑓(こやり)隆史氏(47)=自民、公明推薦=と共産党県常任委員の坪田五久男(いくお)氏(55)=共産推薦=の無所属新人2人を振り切り、初当選した。県選挙管理委員会によると、投票率は50・15%で、前回の61・56%を11・41ポイント下回った。三日月氏は、2期8年務めた嘉田由紀子知事の後継指名を受け、「卒原発」など嘉田県政の継承を訴えた。国の支援に頼らず県民との対話を重視する「草の根自治」を掲げ、女性や無党派層などを含め幅広い層から支持を集めた。民主党も選対幹部らを張り付かせるなど三日月氏を事実上支援、推薦する連合滋賀も組織を挙げて取り組んだ。小鑓氏は、県政の転換を主張し、地元経済の再生などを公約に掲げた。ただ、滋賀県は自民党の基盤が弱く、小鑓氏の知名度不足が指摘されていた上、集団的自衛権行使容認の閣議決定や「セクハラやじ」など国政の影響も受けた。産経新聞 [7/14 07:55]三日月さんは、松下政経塾の第三世代。第一世代は、野田前総理たち一期生から五期生まで。野田さんたちみたいに、風呂で松下幸之助さんの背中を流した人たち、これは特別だ。テレビ・タックルで有名になった民主党の原口さんは四期生。自民党政調会長の高市さん、元金融担当相の伊藤達也さんは五期生。このころまで松下幸之助さんは90才の高齢にかかわらず、新幹線に乗って、神奈川県茅ヶ崎市汐見台の政経塾に通ってきた。大阪府寝屋川の樽床さん(いま落選中)は、「しんどいのによく来てくれたもんやなぁ」と回想する。伊藤さんは、幸之助さんに「松下塾長の幸せとは」と質問して、「わしは毎日ご飯に醤油かけて食べるのが最高に幸せや。それ以上を望まない」と猛烈に激怒された。だから五期生までは、まさに松下翁の息づかいも記憶にある。第二世代は六期生から元横浜市長の中田宏さん10期生まで。五期生までは最終面接に松下幸之助さんが関わったが、六期生から九期生までは幹部職員が選考した。やはり、というか、第二世代の塾生OBに選挙に挑戦する覇気のある人は少なく、研究や社会活動にいってしまった人が多い。中田宏さんだけが例外で、10期生の選考には地方議員になったばかりの1期生たち、野田さんたちが関わったからだ。「年下でも仲間になれる志を感じた」というのが、野田さんの評価。元神奈川県知事で参議院議員の松沢成文さんが、「政経塾の盟友は血縁より濃い」という由縁だ。中田さんが入塾したとき、松下幸之助さんは逝去された。記録ビデオを一人で編集したのは中田さんだった。11期生以降の第三世代はまさに多種多様の道を歩んでいる。宮城県の村井知事は、14期生に入塾したときから、宮城県の地方議会に出馬する意欲満々だった。いっぽう、沖縄アクターズスクールを立ち上げて、たくさんの芸能人を輩出しているOBもいる。三日月さんも政治志望だったので、日本新党や新党さきがけで衆議院議員に当選したばかりの先輩たちの秘書軍団の一人として政界を経験した。つまり、第一世代の薫陶を受けたのが第三世代ということになる。以降は、三期生の古山さんが塾頭に就任したので、政経塾生はみんな幸之助さんの孫弟子ということになるわけ。三日月さんは入塾前は連合の組合組織にいたから、まず自民党系にはいかなかったが。数を集めるのが仕事の議員と、毎日の決断を迫られて判断から逃げられない首長はまったく職掌がちがう。判断は役人にまかせて、宣伝活動に渾身をふりそそぐ知事もいるが。三日月さんは県庁の堅実なノンキャリアOBを集め、いい仕事をするだろう。役人の「官閥」もOBたちの求心力を利用して、やりたい放題をやっている。首長が組織を動かすとき、孤立無援では何もできない。三代将軍・徳川家光は、春日局の進言を容れ、家康直参の三河武士なのに、江戸幕府で冷遇され引退を強いられた大久保彦左衛門たちを《御伽衆》として挙用した。若い将軍から突然召還された彦左衛門は、家中の家来も少ないので、出入りの魚屋、商人、隣人たちのやんや喝采に見送られて迎えの登城駕籠に乗り込んだ。《御伽衆》とは、将軍が政務の現場・大書院(オフィス)から退出して、自宅である男子禁制の大奥に引きこもる前に、休憩所のスペースにたちよって、愚痴話の相手をするという役職。彦左は、現職の老中たち、幕閣や諸大名への対応をつぶさに言上する。彦左の目には、幕閣はみんな鼻たれ小僧の時から見知った人間たち。若い将軍を励まし、判断の迷いをなくしていった。これは老臣・彦左衛門しかできない仕事だ。こうして徳川三百年の幕藩体制は完成された。公正無私の気概をもったOBたちを私的なブレーンに持つこと。それが首長の指導力発揮の極意なのだ。
Jul 14, 2014
当選した現職市長に挨拶に行ったら。後援会事務所は閉鎖。どこに移転をしたのか。電話をかけても通じない。別に市長は選挙違反で逮捕されたわけじゃないでしょ。わかるんだ。いままでの後援会事務所に、盗聴器が発見されたんだろうね。だれが市長の個人事務所に盗聴器をしかけるか「官閥」を非難していた前市長ではない。対立候補の市議会議員は、県議会議員の事務所の2階に間借りして質素に選挙をやってた。市民の税金を流用して、「官閥」の役人たちが市長の動静をつかもうと。電話まで盗聴していたんでしょ。いまの市長もきっと大掃除を決意していると思う。むしろ市長は、選挙で争った対立候補2人を味方につけ、「官閥」と闘うべきじゃないかな。選挙戦の公約の争点にまで役人たちが暗躍したこの市長選挙。対立する意見は直接に聴く、そして最終決断をするという度量の大きな指導力があれば、役人たちの暗躍は行き場を失う。そうすれば、すべてが与党になる。対立や反目をしてる場合ではなく、協調して提案される有用な意見は採用し、役人たちがつくった欠陥だらけのペーパーは廃棄したらいい。
Jul 2, 2014
平成26年6月15日(日)投開票市長選挙について 候補者さまへ 市政は昭和暗黒時代と同じ道を歩みつつある 私は選挙前、駅前で配布された前市長のパンフレットをみて驚きました。 そこにはまるで敗戦まで突き進んだ昭和暗黒時代の陸軍独裁政権に至るような市役所幹部および幹部OBたちによる政治利権構造が指摘されていたからです。 1.市議会を巻き込んだ「密室議会」による「市長抜きの政策推進」の実態 2.名目だけで全く中身のない政策で、利権構造に政策予算を適当にバラマキをする仕組み 3.市長の決定権を束縛する選択肢の少ない根回し済みマスタープランの提示 4.欠陥のある政策を市長につかませておきながら、その重大な批判材料を議会やマスコミに横流しする「市長暗殺」 5.計画的にスキャンダルを捏造して、市長個人を議会やマスコミに批判攻撃させて苦しめる「市長毒殺」 「彼ら」の目的は何か 昭和初期の歴史をひもとけば、陸軍の軍閥がいかに権力独裁体制に突き進んだかがよくわかります。陸軍は自分たちで軍事衝突のトラブルを作り出し、政権がそれをコントロールできないことを世間にさらすことで政党政治・民主主義体制をゆっくりと崩壊させ、有力な政治家は暗殺し、軍人の政権でなければ統治できないと国民に仕向けていったのです。 この市も、「市役所に巣食う小悪魔」、市長の暗殺計画を公然と話し合う幹部職員たちが実在します。 前市長も、そのような方法で暗殺されました。 現在の市長も、努力はされつつも、市役所幹部のサボタージュ(計画的な面従腹背)によって実績らしい成果が挙げられない上、選挙法違反のスキャンダルまで捏造されたり、たくさんの欠陥政策もつかまされています。 そのひとつが市民病院の問題です。 この議論の経緯をたどってみると、だれが市長になっても、この問題は解決できないという結論に行き着きます。 なぜなら年金問題の議論と同じように、市役所サイドが提示する見積もり数値や費用額の予測などが実際の数値とは乖離した「デタラメ数字」であって、それによって市役所サイドは自分たちの目的が達成されなければ、計画運営もまともにやらないという姿勢だからです。 彼らの目的は市議会の政党政治、批判勢力を消耗堕落させ、あるいは民主主義体制を否定して、市役所OBから市長を出すまで、誰が市長になっても非協力・面従腹背をつづけるものと考えられます。 市役所の「小悪魔」はどこにいるか 前市長は「市役所の大掃除が必要だ」と選挙前は訴えておられました。 市役所の「小悪魔」たちにとって、したがって一番の強敵が犯人名簿がよくわかっている前市長ということになります。 経営学の一般理論として、過去の日本陸軍と市役所を比較した場合、 A.能力も実績もないのに官閥(学閥など)の情実で幹部昇進しているもの B.部下の功績を盗み取り、自分の実績として自己宣伝。逆に功労ある部下を叩き落して口封じするもの C.他の幹部の悪評をひろめたり、自分に従わない職員にパワーハラスメントをかけて市役所から追い落とそうとするもの 陸軍や市役所のような固定された組織では、このように他人のキャリアを傷つけ、その人の昇進を妨害することによって、官閥が推薦する幹部候補を意図的に挿入していく、いわば人事計画のデータ書き換え方式がよく採用されます。 もっとも有名な実例が満州軍憲兵隊司令官だった東条英機の陸軍大臣起用であり、海軍では真珠湾攻撃に最後まで反対し続けた南雲忠一中将の指揮官起用です。どちらも面従腹背を意図した人事で、その結果が大惨害を引き起こしました。 だれが市長になっても「大掃除」は不可欠 市役所がこのような堕落した官閥支配の実情をかかえている以上、だれが市長になっても「大掃除」すなわち大量の市役所幹部の人員整理、そして有能かつ人物本位を、市長自身の眼力で見極めた実力主義の抜擢人事は不可欠です。 そうでなければ、市議会も、市長も、市役所の「小悪魔」たちにふりまわされつづけ、あげくの果てに前市長のように「暗殺」されたり、現市長のように「毒殺未遂」まで仕かけられるシステムが厳然と存在するからです。 「大掃除」の後は、大胆な組織変更を含む迅速な政策推進体制が必要になります。この段階になって、初めて市長の真価が問われます。 市役所サイドが市長に持ち上げてくるマスタープラン(「たたき台」と称しながら大枠の変更がきかない政策案)は、そもそも組織や人員をそのまま維持する前提から積み上げられています。 それは「官閥の利権」だからです。 つまり、このような官閥を徹底的に撲滅、粛清しなければ、市長が適切に指導力を発揮する市政は永遠に実現し得ない、その後は官閥がすべてを支配して、やがては市全体を完全に財政から破綻させることになるのです。
Jun 13, 2014
市長当選後の政策提言 市民病院はまず組織改変から 市民病院の候補地ということで、SNDBと東MTDと候補地が選挙戦で提案されています。しかし、どちらも市街地中心部から不便な地理条件にあります。 ヒントになるのは、MTD市のST病院で、同病院は非常に合理的な病院経営モデルを実現しています。 通院可能な自宅療養の患者はMTD駅前のSTクリニックに通院することができ、入院が必要な患者は新設されたST病院で受け入れているのです。しかも、MTD駅と入院施設はST病院が運営するシャトルバスで結ばれており、まったく不便を感じません。 しかし、現在のMTD市民病院は、北MTD駅から往復の民間バスを利用しなければならず、通院も入院も一箇所でおこなっています。 この硬直化した体制こそ打破すべきなのではないでしょうか。 上記のST病院の経営モデルを参考にするならば、 1) 入院・通院・健康医療相談(医師会を通じた民間医院の紹介)は各機能を分離して、別々の拠点でおこなう。 2) 健康医療相談は、STクリニックでも早朝から初診受付患者が行列しており、市民がもっとも必要としているニーズである。 3) 一般市民は病気になっても、症状を訴えるだけで、それが内科なのか、外科なのか、そんな区別もわからない。その区別を適切におこない、市内の内科医や外科医院に紹介する医療相談は民間医療機関の負担を軽減すると同時に、患者も必要な医療をスムーズに受診しやすいシステム。 4) 健康医療相談は治療行為を含まないため、市民文化会館や福祉施設の一部など、既存の施設の一部を医務室のように間借りして設営が可能で、より住民が足を運びやすい地理条件に複数分散させることができる。 5) すでに東MTDに市民病院があり、入院施設に特化することによって、新設の病院施設は通院主体の運営体制に変更する。 まず組織の改変ありき、という議論から、新設の市民病院施設そのものはコンパクトに、そして交通が一般市民に便利な主要駅から徒歩圏内に、そして今後は小さな拠点を複数立地することが正しい解答ということになります。そもそも官閥たちの辞書に組織の変更はないのだから、こんな答申を役人は絶対に書きません。 市民病院の再編が新たな市民サービスに ここで私の提案を書きます。 「中学生までの病休生徒・児童・幼児は、市民病院小児科が仮入院措置の一時預かりをおこなう」ということ。 いま小児科医院・医師数の不足は社会問題になっています。 しかし、共働きの家庭だと、病気になった子供の看病のために、片親が休みをとらなければならない。母子家庭だと放置状態になったり、育児放棄のきっかけになったりします。この悲惨な状況に、市民医療サービスはきちんと支援を差しのべ、充実したサポート体制をとるべきではないでしょうか。 こうした他市にはない住民サービスが、再編によって可能なことが市民医療機関をもつMTD市の特色としてアピールできれば、それが最大の「子育て支援」の環境整備になり、多くの同じ悩みを抱える家庭が、MTD市の病休児童一時預かり制度に興味と共感を示してくれるものと思います。 また、このシステムは、市民病院システムを持たない周辺自治体にも影響をもたらすことは必至で、ゆくゆくは市域を超えた市民医療体制の共有化という遠大な構想にも結びつきます。 すべての組織で再編が必要 図書館の例を挙げましょう。いまMTD市中央図書館の利用者の圧倒的な利用者は、放課後の学童です。閲覧室は放課後時間になるとほとんど満席になります。しかし、彼らは図書館の書籍を利用しているのではなく、自分個人の勉強をしているのです。図書館は死蔵した図書の山のために、学童たちが要求する学習スペースを奪っているのです。いまMTD駅前のファーストフード店、レストランに夕刻に行くと、必ず勉強道具を広げた学童たちに出会います。 つまり、市民のニーズと図書館の運営体制はまったくミスマッチ状態にある。放課後にも自宅以外の場所で(自宅には家族がいて勉強に干渉されるため)勉強したいというニーズがあるのに、まだ学校施設や図書館はそもそもの運営主旨と乖離している部分から、それに応じ切れていない。 市民サービスの現状のミスマッチは、税金のもっとも大きな損失投資だと考えなければなりません。一日も早く、これを補正しなければならない。そして、勉強したいという学童たちのニーズに市政が応援のメッセージを伝え、市民の子弟全体の学力増進に効果があるように、施設運営も新規投資もおこなわなくてはならない。 それを合致させるのは、市長主導の政策決定以外にありません。 MTD市を財政破綻から救済するために すでにMTD市も巨大な財政赤字と累積債務を背負っています。 もし、これが民間企業ならば、経営再建の第一項目は売り上げ目標を立て、利益を確保していくこと。 市役所の財政でいえば、高額所得者がたくさんMTD市に移住するような人口移動現象をプロモートしていくこと。 別に選挙の公約にする必要はありません。しかし、当選・就任後の市長は、すべての政策をシミュレーションし、それが将来的に市民税の増収増益につながりうるものなのか徹底的な検証にかける必要があります。 そして、なんら意味のないものは人員整理をふくめて抹消して、組織をスリム化していくこと。 市政の増収増益につながらない空虚な政策は、選挙公約といえども市長みずからが即刻取り下げること。 そして市議会の議論も、いかに市政の増収増益をはかるか、つまりは他市・周辺地域の高額所得者たちに、MTD市がいかに移住にふさわしい魅力的な街となりうるかについて、議員の側から建設的な提案合戦が巻き起こるよう、市長の指導力が発揮されねばならないと思います。
Jun 13, 2014
■文化勲章の親授式が3日、皇居・宮殿「松の間」で行われた。今年度の受章者は、映画俳優の高倉健さん(82)▽電子工学の東北工業大理事長、岩崎俊一さん(87)▽書家の高木聖鶴(せいかく)さん(90)▽万葉集研究で知られる日本文学・比較文学の中西進さん(84)▽医化学・分子免疫学の京大客員教授、本庶佑(ほんじょ・たすく)さん(71)の計5人で、天皇陛下が直接、勲章を授与された。続いて行われた拝謁では、受章者を代表し高木さんが「それぞれの分野において一層の精進を重ねる決意です」とあいさつ。陛下は「今後ともそれぞれの分野の発展のために尽くされるよう願っております」と述べられた。 その後の記者会見では、高倉さんが「日本人に生まれてほんとによかったと思いました」と話した。 [産経新聞]11/3 ☆ニュースで初めて知った。これは不覚曹操閣下の大学時代の恩師が文化勲章を拝受した安倍ちゃん憎いなぁ高市さんありがとう
Nov 3, 2013
「公設民営学校」解禁=国家戦略特区の規制緩和―政府 政府は18日、首相官邸で日本経済再生本部(本部長・安倍晋三首相)を開き、地域を限定して導入する「国家戦略特区」で実施する規制改革の内容について、公立学校の運営を民間企業が行う「公設民営学校」の解禁や医療の規制緩和などを盛り込むことを決定した。特区を成長戦略の柱に位置付ける政府は、11月上旬に関連法案を提出し、今国会での成立を目指す。地域指定は年明けにも行われる見通し。首相は会合であいさつし、「安倍政権の規制制度改革には終わりがない。世界で一番企業が活躍しやすい国を目指し、引き続き改革に積極的に取り組んでほしい」と述べた。 時事通信 [10/18 10:46]この【公設民営学校】の構想は、kakkaが小泉内閣でずっと主張しつづけたが、公立教育関係予算が数割減少することを恐れた文部科学省と教職員組合が手を握って反対したものだから、叩き落とされてそのままになっていたものだ。文部科学省が前向き姿勢になったのは、学校以外の教育施設で、実質的な公設民営の形をとる指定管理者制度がうまく成果をあげ、教育関係予算に無駄遣いが排除できたことによるところが大きい。いまや、あちこちの自治体博物館やスポーツ施設は、すでに民間の指定管理者(団体)によって合理的に管理されている。これは自治体がお金を払うから、誰か管理を引き受けてくれないか、という方法だから、経済効果はそんなに著しいものではない。しかし、島根県立古代出雲歴史博物館は、地元の鉄道会社と旅行会社の近畿日本ツーリスト、博物館複製グッズ大手の丹青社の共同事業体が運営し、かなりの成果をあげているようだ。無用の税金をつぎ込む必要はないわけだ。公設民営学校の場合は賃貸料金が自治体にころがりこむ仕組みだ。自治体が運営費を出す必要もない、教職員を雇う予算もいらない、地域の子女はインターネットで優秀なスター講師の授業を受けられ、学校体育ではなく、スポーツ科学による身体機能開発を経験する。肥満体の児童は一人もいなくなる。才能のある人間にすべてのチャンスを与える理想の教育は、【公設民営学校】によっておこなわれる。
Oct 19, 2013
■野田内閣が総辞職=民主政権、1198日で幕 野田内閣は26日午前の臨時閣議で総辞職した。野田佳彦首相の在職期間は482日間で、戦後の歴代首相33人中19番目。2009年9月16日にスタートした民主党を中心とする連立政権は、鳩山、菅、野田の3内閣にわたって続いた。しかし、先の衆院選で同党が壊滅的敗北を喫したことにより、1198日で幕を閉じた。 野田氏は「消費増税関連法の成立や、社会保障制度改革国民会議の立ち上げにより、ぬくもりあふれる社会を取り戻し、次の世代に引き継いでいくための道筋をしっかりと付けることができた」との談話を発表。閣僚懇談会では「野田内閣として一緒に汗をかいたことをありがたく思う」と閣僚をねぎらった。退任の記者会見は開かなかった。 時事通信 [12/26 09:31] ################ 政経塾5期生の高市早苗さんが新政権の政調会長に任命された。 石破幹事長とは細川政権でいっしょに活躍した同志だ。 後世の歴史家は書き記すだろう。 [政経塾の政治家の時代はつづいた]と。 今回の民主党の大敗は最初から予測されていたことだ。 春に解散しても、夏に解散しても民主党は大敗は間違いないなかった。 しかし、年内解散を決めたことで、乱立新党と民主党内の反乱者たちはすべて落選した。 こんなにスッキリしたことはかつてない。 [仙石時代か]といわれた仙石も落選した。 特に小沢の影は一気に払拭された。 これはスゴいことだ。 民主党政権になってから1日たりとも小沢の動きが報道されない日はなかった。 田中角栄から続いてきた田中真紀子の選挙区さえ崩壊した。 真紀子は[解散時期が悪かった]と自己弁護したが、 事実はそうではない。 小沢は世田谷区に豪邸をかまえ、田中角栄のように子分の議員たちに正月詣でをさせた。 その豪邸は政治資金疑惑の舞台であり、親族が経営するゼネコンの賄賂で建設された。 それは時効だから訴訟の問題にならないという。 そのような政治家の私欲闘争史がすべて終わったのだ。 やがて小沢は病に倒れ、小沢を神仏のように拝んでついていった者たちも世間の物笑いの種となって消え失せるだろう。 あれほど毎日のように反原発、反増税をうるさくがなりたてていたのに、 選挙結果は増税と原発を続行する自民党政権だった。 国民は次に何を選択するのだろうか。
Dec 26, 2012
■反日暴動に嫌気!?日系企業が中国からの脱出検討 尖閣諸島の国有化をうけ、中国各地で反日デモが拡大の一途を辿っている。デモ隊が暴徒化し、日系の工場や商店に突入、放火や破壊・略奪を繰り返している。そんな中、中国からの工場移転を模索する日系企業からの問合せが、ASEAN各国で急増しているという。(産経デジタル・上坂元) アジアに詳しいジャーナリストの豊永貴士氏に聞いた。「昨年から、経済発展に伴う急激な人件費の高騰に頭を悩ませてきた日系企業からの問合せがASEAN各国で急増してきました。そこにこの一連の反日暴動です。輸出入の通関が止められてしまったというようなトラブルも多数聞かれます。それで、提示されている条件のよいうちに検討してきた移転計画を急速に進めようとする企業が激増中です」(豊永氏) そうなれば、気になるのは、その移転先だ。進出リサーチなども手がける同氏はいう。「特に、ミャンマー・カンボジア・バングラデシュ・ベトナム・インドネシアの5カ国への期待は大きいようです。インフラなどにまだまだ課題はありますが、これらの国では政府が、今がチャンスとばかりに日系企業の誘致に真剣に取り組んでいます」。 豊富な労働力を背景に経済発展を続けてきた中国。かつて世界の工場と呼ばれたその役割が、終焉を迎えるときもそう遠くないのかもしれない。 《産経新聞 09/26 11:25》 ☆私は中国の天安門事件のさなか、国際会議に参加したことから、 中国政府の若手官僚や軍人との深い友好関係を結んできた。 互いに政治的、社会的な地位が高まれば、ますます日本と中国は友好の絆が強まり、 アジアアフリカ諸国すべてに改革開放の嵐を巻き起こそうじゃないかと。 欧米中心の経済支配が残存する世界で、全地球を巻き込んだ人類社会の革新を推進する同志として。 未来をみすえた日本と中国の北東アジア連携を全世界に広げていこう、 そんな夢を語り合ったものだ。 就任後に初めて訪米した胡国家主席がアメリカ議会で《中国の発展は全人類史的な使命とともにある》と発言されたとき、欧米は動揺震駭した。 これこそ日本と中国が目指すべき北東アジア連携の大戦略であり、われわれ両国有志一致の目標であった。 しかし、尖閣諸島の問題で、中国がここまで紛争を激化させるとは想定外だった。 私は中国政府高官に、尖閣諸島近くのあちこちに海底油田の探索や試掘をするのは、 日本と中国を仲違いさせて、海上設備を両国に売りつける大陰謀があると指摘した。 冷静な官僚たちは海底油田のコスト計算のまやかしに気づき、 試掘事業から穏やかに撤退した。 また私は中国人民解放軍に対して、 [空母の戦略的優位は潜水艦に及ばない] [空母は一隻あっても意味はない。空母一隻を維持するには二隻を追加配備しなければ、中国の南北海域と整備ドックを一隻で往来するわけだからピンポン玉みたいになる] [空母三隻を配備するとして海上の空軍力を新編成するには、新しい空母離発着できる戦闘機や爆撃機の開発が必要になる] [これらの空母の実現性、経済性とコストを考えたら、どれだけの財政負担になるか] [財政負担を考えたら、中国は空母を持つべきではない]と真面目に説いた。 中国政府が空母の必要性を真剣に感じた台湾海峡の緊張も、台湾当局の交流により緩和された。 ところが最近、ウクライナから空母ワリャーグを購入して[遼寧]が進水した。 いいだろう。実験は必要だ。どれだけ空母運用の経済負担ができるか、 私が主張した潜水艦戦略のほうが経済的で、しかも実効性が高いことは、速やかに中国海軍の内部で実証されるはずだ。 さて尖閣諸島の問題をさらに激化させる中国共産党宣伝部の強硬路線に一言しよう。 中国の胡主席閣下も、唐首相閣下も、 ご自分たちが教育を受けた時期の学校の地図に、 尖閣諸島が日本の領土だと記載されていた事実を忘れてしまっているようだ。 皮肉でも何でもない。 問題はそこから起きているのだ。 今回、中国の民衆は、日本の車に乗った中国の同胞まで死傷させ、車を破壊したという。 日本食レストラン、実は韓国人の経営の食堂の破壊は苦笑して傍観していたが。 日系のスーパーに対する焼き討ちや略奪行為には唖然とした。 これはナチスのヒトラーに扇動された民衆がおこなったユダヤ人商店の破壊や略奪行為と同じこと。 中国人民解放軍には《三大紀律八項注意》という厳然たる組織倫理が存在したはずだが。 その建軍精神は国民全体の社会秩序の基本ではなかったのか。 いまや中国共産党指導部は真剣に考えを巡らせなくてはならない。 もし共産党の独裁が打倒されたら。 商店を破壊し、略奪する暴徒化した民衆のリーダーが英雄になり、いつのまにか国家主席になるだろうという脅威を。 秦の始皇帝は早く亡くなったので、宦官たちが暴走し、陳勝一人の出現を阻止することができなかったのだ。
Sep 28, 2012
シリア国内に難民キャンプ設置、国連へ要請 トルコ トルコのダウトオール外相は8月30日、シリア国内の人道支援問題について協議する国連安全保障理事会の会合で、国連難民キャンプをシリア国内に設置するよう要請した。同外相によれば、トルコはすでに約8万人のシリア難民を抱えており、10万人を越えた時点で難民への対処が困難になるという。この提案に対し、英国のヘイグ外相は会合前、記者団に対し「安全地帯の設置には軍事干渉が必要となる」と述べ、現状では困難との見方を示した。ただ、「将来はどんな選択も排除しない」とも語り、設置のため、有志国による軍事干渉の可能性を否定しなかった。一方、国連のエリアソン副事務総長は「(軍事干渉を伴うキャンプ設置は)重大な問題を引き起こす」と語った。(ニューヨーク 黒沢潤) 産経新聞 [8/31 17:35]というわけで。軍事干渉の有無に関わらず、非武装地帯を設定し、シリアの一般市民を保護すべきなのだ。それが国境地域の[難民キャンプ]になってしまったのは国連が事態を先送りしてしまった結果にすぎない。それでも国連事務総長サイドは、軍事干渉を避け、話し合いで紛争を解決させようとしている。そのようなことは非現実的だ。難民が発生しているのを見殺しにするのか。
Sep 1, 2012
「アサド大統領への辞任要求は時期尚早」 ブラヒミ調停に暗雲■シリア反体制派猛反発「謝罪を」【ニューヨーク=黒沢潤】国連とアラブ連盟のシリア問題合同特使を今月末で辞任するアナン前国連事務総長の後任として任命されたブラヒミ元国連アフガニスタン特別代表の発言に、シリアの反体制派在外代表組織「シリア国民評議会(SNC)」が猛反発、内戦収束を目指す本格調停を前に気まずい空気が流れている。ブラヒミ氏は18日、ロイター通信とのインタビューで、「(シリアで)何が起きているか十分把握していないため」、アサド大統領に辞任を求めることは時期尚早だと述べた。これに対し、SNC側は「容認できない発言」と強く反発、ブラヒミ氏に謝罪を求めた。シリアでは、アサド政権と反体制派との戦闘で昨年3月以降1万8千人以上が死亡、17万人以上が国外に難民として逃れたとされている。ブラヒミ氏の発言は、アサド大統領に退任を迫ったアナン氏の発言から「大きく後退した」と受け止められている。ブラヒミ氏は19日、中東の衛星テレビ局アルジャジーラで「私は2日前に任命されたばかり。(国連本部のある)ニューヨークにも行っていない。情勢について何かを話すのは早過ぎる」と釈明した。英BBC放送は、ブラヒミ氏がSNC側から批判されたことを心外として逆に謝罪を求めたとも伝えており、肝心の紛争調停をよそに“場外バトル”が起きているもようだ。国連関係筋は「ブラヒミ氏はアフガン調停などを手堅くまとめ、失点がなかったことから今回の任命につながった。だが早くもつまずき、シリア調停に暗雲がたち込めている」と指摘する。一方、国連シリア監視団(UNSMIS)の活動期限が米東部時間の19日いっぱいで切れたことに伴い、監視団がシリアから本格撤退を始めた。国連は今後、新たな国連の拠点として首都ダマスカスに「国連連絡事務所」を設置、混迷するシリア情勢の打開を目指す。産経新聞 [8/21 07:55]★★★★★★ブラヒミは愚かな人間ではないが。適任ではない。ブラヒミはバッシャール・アサド大統領の父親、前ハーフィズ・アサド大統領の知人だから、何らかの話し合いができると決めつけられたようだが。それならバッシャールの直接の知人アナン前特使のほうが影響力があったはず。バッシャールが退陣すれば全てが丸く治まるなんて、シリアの国内情勢を知らないだけ。そもそも内戦を話し合いで決着できると、未だに思い込んでいる国連首脳に問題がある。今回のシリア内戦のきっかけはエジプトの反政府運動エジプト・ムスリム同胞団の歴史的復活が背景だ。父ハーフィズはムスリム同胞団シリア支部を徹底的に弾圧した。バッシャールはハーフィズの独裁政治の枠組みを維持しながら、腐敗した軍閥や政権内部の改革をすすめた。いま反政府武装組織がバッシャールの退陣を要求しているのは、父ハーフィズの弾圧の怨恨はあっても、バッシャールには独裁政治権力の解体だけを求めるという動きに止めているのだ。
Aug 22, 2012
国連のシリア監視団撤退を開始【ニューヨーク=黒沢潤】国連シリア監視団(UNSMIS)の活動期限が米東部時間の19日いっぱいで切れ、シリアから本格撤退を開始。すでに一部が撤退しており、24日に完了する見通しだ。4月の国連安全保障理事会決議を受けて派遣された監視団は6月、アサド政権と反体制派との戦闘激化に伴い活動を事実上停止。7月20日の安保理会合で30日間の任務延長が決まったが、その後も戦闘が続き、16日に撤退が決まった。国連は監視団が撤退した後、首都ダマスカスに新たな国連の基盤として「国連連絡事務所」を設置する。国連とアラブ連盟のシリア問題合同特別代表に就任するブラヒミ元国連アフガニスタン特別代表を支えつつ、混迷するシリア情勢の打開を目指す。産経新聞 [8/20 11:30]≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡シリア情勢の混迷を受け、私にも召集がかけられ、急遽ウィーンの国連平和維持軍司令部に参加することになった。さて、今回の問題は国連事務総長パンギムン氏の不決断が招いた事態であることを率直に指摘したい。実際、パン事務総長は希望的観測に支配されているようだ。虐殺やジャーナリストの死傷が相次いでいるのに、なぜ今、国連監視団は撤退せざるを得ないのか。パン氏は韓国人だから、軍事政権がエジプトのように、結局は民政移管に同意するだろうという楽観を手放さなかった。それがそもそもの原因だろう。問題の本質は複数のイスラム教の宗派、アサド大統領の少数アラウィ派、多数派のスンニ派、それに次ぐシーア派が混在する部族単位の社会が、シリアの国情だということにある。アラウィ派は少数派だから権力と軍事力で諸部族を圧倒し、政権を独占してきた。いざ内戦となると、実際に武器を多用して住民を虐殺した。これは民政移管には決して応じないという退路を絶った軍事行動であり、リビア政権の末期と同じ状態である。しかし、そうなることは国連の軍事専門家は予測していたはずだ。リビア政権の崩壊にはフランスとイギリスが積極的な空爆で反体制派を支援した。それでもリビア軍の崩壊には半年かかった。停戦監視団は、パン氏の希望的観測に基づいて組織された。本来ならレバノン平和維持軍司令部を拡大し、ゴラン高原の駐留軍内に補給基地を設営、隣国のヨルダンの首都アンマンに兵力を蓄積、国連決議を待って、非武装中立地区を設定して、住民や難民の保護にあたるべく人員と物資の投入をおこなうべきだった。しかし、国連は内戦の当事者たちが停戦に応じたことから、内戦がさらに激化した場合の対応策を棄却してしまったのだ。軍事専門家からすれば、停戦の合意は、さらなる内戦の拡大を招く結果になるだろうと結論していたはず。反体制派が停戦に合意したのは、負傷者を収容したり、当面の食料や国連の人道援助を受け入れるために必要な措置だった。近隣のヒズボラやイランなどの軍事支援をとりつけるヒマはない。シリアはイスラエルとイラク、トルコしか国境はないのだから、トルコからNATO軍、イラクからアメリカ軍が支援をしなければ反体制派に補給物資は輸送できない。つまり、停戦合意は結果的にシリア政府軍の弾圧の強化、反体制派の孤立を深めただけであった。静観したアメリカ政府がようやくシリア政府に化学兵器の使用制限を要求したが。イスラエル軍はレバノンやパレスチナのガザで化学兵器を使用しているのだから、これは無意味なアクションだ。イラクからシリアの軍事施設にアメリカ空軍が空爆をおこない、のんびりとかまえているシリア軍の将軍たちを基地もろとも爆死させることはいとも簡単なことだろう。しかし、アメリカはそれをしない。反体制派はイスラム教の支配色が濃いので、新政府がエジプトのようにアメリカの敵対勢力に変化する可能性を恐れるのだ。国連の使命があるとすれば、やはり内戦の犠牲になる一般市民の死傷者数を減らすために、非武装地区をつくっておくことが最大の任務だったはず。それをしなかったから、監視団を撤退させ、シリアを放置する結果となったのだ。それは結局、シリアの停戦合意はそのまま休戦となり、アサド大統領の退陣になるのではないかと希望的観測に終始した国連事務総長の優柔不断にある。
Aug 21, 2012
安住ちゃんが財務大臣になって、「安住は経済財政に何も知識がないし、経験もない」と経済アナリストは心配しているが(笑) 政治家が経済政策や財政に関わったとするなら、それこそ財務省の「しがらみ」に巻き込まれていることを意味している。つまり、どんなに知識なり経験が見せかけで、政治家が自称したところで、財務省官僚組織を動かすリーダーシップはとれないのだ。なまじ知識があったら、簡単に財務官僚に説得され、手足を押さえられてしまう。財務大臣に必要なのは、財務省の意見を外部の立場で押さえつけることだ。それには、財務省に初当選あたりから手とり足とり、下半身まで握ぎ握ぎされている[財務畑]の政治家は不適任だ。 だから、安住ちゃんは財務大臣に適任なのだ。そもそも財務省がもっとも凹まされた時期が小泉内閣であり、その時の財務大臣は、塩ジイというアダ名の塩川正十郎さん。塩ジイが経済のプロだったか?違う。財務官僚は、そのとき、竹中平蔵経済財政担当大臣の打ち出す財政戦略に一喜一憂していたのだ。竹中さんにあたるのが、古川元久。その手腕が卓抜ならば、財務省は猫のように大人しくなるだろう。 決して犬に甘んじる人々ではないので(笑)すでに放射性物質の除洗事業費に、財務省予算の予備費が使われることになった。野田さんが記者会見で表明した。この予備費は財務省のヘソクリ。歳入欠陥(税収不足)に対応して、財務省が日本銀行に預託している[埋蔵金]の一部だ。財務省は[目的外の使用はできない]と拒否していた。確かに目的外では、財務大臣の権限ではできない。しかし、法律を読むと、実は総理大臣が指示すれば予備費を国費に充てることは可能なのだ。これは古川の知恵かもしれないし、野田さんが財務大臣の間につかんだ現役官僚のブレーンからのアドバイスかもしれない。なぜなら、私も提案しようとしていたから(笑)
Sep 2, 2011
安住淳ちゃんが財務大臣に任命された。私は原口一博とか閣僚経験者を任命すると思ったが。まずは「政経塾内閣」というレッテルを避けたのだろう。党執行部は確かに気心がわかっている樽床幹事長代理(3期生)と前原政調会長(8期生)で固めた。しかし、入閣は玄葉(8期生)だけ。私の見方は、屋台骨は小沢さんの新生党と、野田さんたちを国会に送り出した日本新党が合同した新進党。そのとき、いまの公明党執行部も新進党のメンバーだった。いまの自民党幹事長の石破さんも元新進党の顔役だった。つまり、旧新進党の脱け殻に、新たな生命を吹き込んだ内閣人事だった。単なる小沢さん配慮の人事ではない。顔ぶれは公明党や自民党の首脳に「呼べば応える」という布陣なのだ。一緒に街頭に立ち、風雨に耐えた政界改革の同志だった。また、安住ちゃんの起用を金融機関のアナリストは困惑しきりのようだが。安住ちゃんはNHK出身、いわば行政改革派だ。つまり、もっとも税金の浪費が多い財務省そのものコストカット、隠し金の訴求、ムダ金の差し止め、不必要な国有資産の売却リストアップをする。野田さんは財務省を相手にしながら、やりたいことができなかった。安住ちゃんは蓮ホーとすごく仲がいいから、行政刷新のメスを財務省のフトコロ叩きに向けて、さらに知恵を搾らせる。それをやってもらおうという人事だ。金融財政政策は、旧大蔵省(財務省)官僚出身の国家戦略担当大臣、古川元久が指示する。では、なぜ古川が財務大臣にならなかったのか?古川は大蔵官僚だから、いまの財務省に同期入省や後輩、部下もいる。しかし、頭が上がらない先輩や元上司もいる。だから、古川が財務大臣をすると、かえって官僚組織の反乱を招きかねない。「あんな奴の命令なんか」とサボタージュしてしまうわけ。財務省の建物の外で、内部情報を握り、背中から尻を叩いて官僚組織の反乱を抑える。財界、金融界は、ダボス会議ともパイプがある影の財務大臣、古川元久の役割に期待すればいい。
Sep 2, 2011
ついに松下幸之助の夢が実現した。 松下政経塾の総理大臣! 涙が止まらない。
Aug 29, 2011
野田佳彦財務大臣 今般の外国為替市場介入は大きな決断だったと心より評価いたします。 私としては、財務省が特例公債あるいは復興財源の政府保証債券を海外で大規模に発行することが長期的な円高歯止め対策になると信じていますが。 短期的に、日本政府・日本銀行が単独で外為市場に介入する場合、一つアイデアがあります。 それは松下幸之助さんの「外交・国際問題の危機、すなわち国難にあたっては政府は積極的に民間に協力を求めよ」という考え方です。 私なりに解釈すると、 1.日本銀行当局は外国為替市場介入の決定後、すみやかに日系国際資本のCFO(チーフ・ファイナンシャル・オフィサー)に決定事実を通知、日系資本の総力を挙げて円高阻止のドル買い介入を実施する。 * 事前通知をすると、もちろん「インサイダー取引」ということになりますが、介入開始後の内示通知ならば国際金融ルールにも抵触・違反しません。 2.日銀の外為介入は確実に円安に市場値をもどすため、日系資本に即時に情報を内示すれば、巨額の外為差益を生むことになり、これは民間資本の利益確保、資産保護の権益にも貢献する。 したがって、日銀の介入余力の瞬間的な初動のパワーアップにつながり、さらには日系投資家(円安・ドル高の利益に乗ずる国内の個人投資家)たちの外国為替売買アナウンスの波及効果の拡大も期待できる。 3.上記の目的を達するため、日本銀行の金融政策決定会合とは別に、「外国為替政策調整会合」を設定して、民間資本のCFO代表を参加させ、いわば日系資本の「国際金融マフィア」を結成して、緊密な暗号情報交換のホットラインを設定しておく。 4.民間資本CFOと日本銀行当局、財務省当局は定期的に極秘会合を実施、いざというときに緊密な協調行動がとれるように、連携を重ねておく。 5.以上の会合や運営の実態については、日本銀行当局に全面的に依頼し、財務省は関知・関与しない。 以上のような極秘連絡機構をつくり、官民連携したオール・ジャパン体制で外国為替危機の国難にあたるべきであります。
Aug 5, 2011
小宮山洋子さん日本赤十字社をはじめ、さまざまな団体に蓄積された義援金の一時金の配布方法について、提案させていただきます。大綱としては、1) 地方振興券のように、地方自治体が金券に当たるものを発行し、それを金融機関に持ち込むと、義援金の見舞金の配分が現金あるいは預金口座の加算で受け取ることができるようにする。2) 地方自治体そのものが被災していた場合、各地の避難先の地方自治体で住民票の復活申請を受理、住民基本台帳ネットに登録する。3) 地方振興券のように金券の印刷を待っている余裕はないので、厚生労働省が金券証明をする印章を作成し、総務省が配布する。この印章を押捺した住民票を金融機関に提示すると、以上の見舞金受け取りができるようにすれば、時間や費用が節約される。この金券相当証明を申請する際に、不正防止のために宣誓書と受け取り確認書をとる。4) 義援金の早急な配布は、その地域の消費経済を復活させると同時に、援助物資の無料配布の輸送負担の軽減、また地方金融機関の預金量増加という経済的なプラス効果をもたらす。5) 義援金の移転については、義援金団体→日本銀行→被災地の金融機関の電子的な預金勘定のやりとりで決済でき、大量の現金輸送の必要がない。
Apr 6, 2011
国家戦略担当大臣殿以下の政策案を提言します。1.特別会計予算制度の予算を削り、よせあつめ集中させて、東日本災害復興特別会計制度に集約する。2.被災地の復興資金として、【災害復興銀行】を創設。被災地の郵貯銀行、農協、漁協、信用組合など金融機関に融資相談窓口を設置。貸付方法については、ノーベル平和賞受賞者のバングラディシュ・グラマン銀行総裁モハメド・ユヌスの【マイクロ・クレジット方式】を採用。借り手の事情により、無担保・無利子据え置き期間を設定する。3.【災害復興銀行】の基金は、外国市場で円建て債券を発行して、初年度5兆円、次年度以後、毎年1兆円を起債する。これは日本円投資需要を吸収して、円相場の市場安定につながる。4.仮設住宅の建設と並行、あるいは一部先行させて、インフラを完備した仮設共同工場・仮設共同市場など、地場産業の「働く場所」を提供しなければならない。 特に三陸地方は漁業が主力産業であり、漁港と魚市場を被害の程度に応じ、壊滅的被害をうけた地点は後に回し、被災が少なかった地点に公的投資を集中し、各地の漁協・魚市場などの生産・流通が再結集できるようにする。5.福島原発事故に対応する内陸の産業拠点の復興について。立ち入り禁止区域の固定化、放射性物質除去の必要から、多くの生産工場が移転をしなければならない。もちろん被災者たちは被災地の立地を望むだろうが、それはできない。したがって、遊休化している各地の産業団地を活用・再利用して、移転を奨励するのが、国費の節減となる。福島県内外の産業団地に巨大な仮設共同工場を建設して、賃料を無償化するとともに、工場内に別々の中小企業が区画共存するグループ・ホーム方式の共生工場を企画する。町工場街がすっぽりと大きな工場の屋根の下、空調の中に入り、デパートのように区画で生産を再開する。 なるべく現状の国家予算で、増税せずに災害復興計画を策定する場合、まずガソリン税を増税すること、特別会計のあちこちから資金をよせあつめて災害復興資金をつくるしかないと考え、提言します。 また現地の復興資金については、国費の投入ではなく、地元金融機関の協力とノウハウによって、【マイクロ・クレジット】を実行すること。 その財源は外国で政府保証債券を発行して、経営責任者の管理で、巨額の小口投資を自主管理させることが必要だと考えた次第です。 松下幸之助思想研究会 代表
Apr 4, 2011
■経済総合市況株式産業事務レベル会議に中国参加 米の狙いは「包囲網」 TPP参加 政府が参加を検討し、米国などが交渉している環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)が11月に開く事務レベル会議に、中国が参加することが27日、わかった。外務省によると、中国がTPP参加に興味を示したことはこれまでになく、まったく想定外の動き。背景には、TTPの枠組み作りで音頭を取る米国が中国に参加を強く働きかけた事情があるとみられる。中国の参加が浮上したことで、農業への影響懸念から参加の足並みがそろわない日本も、早期の決断を迫られている。 「中国はこれまでTPPについて言及したことはなかった」。外務官僚は中国の会合参加を驚いた口調で話す。外務省がTPP交渉参加国から情報収集したところ、APEC首脳・閣僚会議の直前の来月9日に開かれるTPPの意見交換会に、参加に関心を示してきた日本、カナダ、フィリピンに加えて中国の名前があった。 中国は国内事情を優先させるあまり、国際ルールを逸脱した対応が取ることが多く、中国とかかわる各国が一様に頭を抱えている。交渉筋で交わされるTPPの“またの名”が「Nマイナス1」であることも、中国にわずらわされずに取引を進めたい各国の思惑がにじむ。Nは集合体、1は中国だ。 一方で、国内事情に制限が加わる可能性の高いTPPへの参加を、中国が自主的に申し出るとは考えにくい。このため、中国が参加に名を連ねたのは、米国の強い働きかけがあったためとみられる。経産省幹部も「中国に国際ルールへの参加を促すことが(TPPを主導する)米国の狙い」と言い切る。 米国の狙いは、事実上の「中国包囲網」をつくることにあるとみられる。21世紀の自由貿易ルールづくりのテーブルに、中国が着かざるを得ない環境をつくり、人民元の柔軟化やレアアースの禁輸問題など国際ルールから離れた独自の動きを封じるシナリオだ。 流れはできつつある。現在9カ国が交渉に参加するTPPは、米国と自由貿易協定(FTA)の署名を済ませた韓国の参加も時間の問題とされる。関心を示すカナダやメキシコ、タイに日本まで加わりAPECの主要国のほとんどが含まれることになれば、中国の孤立化が浮き彫りになる。 ただ、TPPは100%の関税撤廃を原則とする自由度の高い多国間のFTA(自由貿易協定)。TPP交渉参加国に比べて倍以上の高関税をかけ、しかもIT製品の調達で外国企業を差別的に扱う中国の参加を疑問視する声も多い。 日本貿易振興機構の担当者は「中国の関税率は乗用車で25%などと特定品目で突出しており、国内企業の保護を考えれば相当ハードルは高い」と懐疑的だ。外務省や経産省は中国の意向の確認を急いでいる。 「米国が(自由貿易交渉で)ここまで乗り気になったのはガットのウルグアイ・ラウンド以来だ」。交渉筋はそう明かす。米国がアジア地域でFTAを発効しているのはシンガポールだけ。米国が中国を含むTPPを推進するのは、世界経済をリードするアジア市場を取り込みたいというお家事情もある。 こうしたお国事情にまつわる各国の思惑が交錯する中、日本でもTPPの参加検討方針で政府・与党内で亀裂が広がり、もたつき感は否めない。貿易自由化のルールづくりに参加できなければ米国の狙う中国包囲網の外堀に亀裂が入るだけでなく、日本自身が「小国として埋没しかねない」(交渉筋)。日本は、中国の参加が浮上したことで、さらに厳しい局面を迎えたことになる。[産経新聞] ((10月27日(水)18時48分配信)☆TPP不参加を表明すると、アメリカから不当な貿易格差をつけられるのではないか。そのような恐怖感が経済界には根強いようだが。 日本とアメリカの関係はそのようなことはない。 二国間交渉の自由貿易協定だけで十分にWTOルールの線は維持できる。 むしろアメリカ市場に依存しすぎる経済構造そのものを今後半世紀も続けて拡大できるのか、経済首脳は再考すべきなのではないか。 すでにアジア市場は飽和状態だ。 大戦の被害補償の意味を込めて、経済支援した韓国は「ミニ日本経済」になり、中国は「メガ日本経済」という形で輸出大国にのし上がってきた。 中国は食料自給体制も完全ではないのに、農産物を輸出している。 社会主義の原理を放棄しているといわねばならない。 中国と韓国との貿易関係を増大させると、ますます日本経済は【反日政治リスク】を背負うことになる。 忘れたころに小さな原因から社会的ヒステリーが拡大するから厄介なのだ。 もちろん、もっとも厄介に思っているのは、中国共産党のイデオロギー担当以外のテクノクラートであろう。 中国共産党のイデオロギー部門は、反日宣伝の武器を振り回して、存在を誇示することを焦るより、もっと貧富の格差を縮小するために、輸出企業に増税し、土地取引に課税強化し、その資金で社会主義政策を打ち出すことを考えるべきではないか。 日本との経済関係が、これから冷却化していくと、中国の現在の繁栄はたちまち崩壊してしまうだろう。 アメリカ経済が崩壊しても、日本が倒れないで、中国の安い品物を逆に消費し続けているから、上海万博がやっていられるわけだ。 日本が中国産品に関税強化を突きつけるだけで、中国経済には甚大なパニックが走る。 中国に進出している日系企業は、ほとんど現地化をすすめており、生産設備を売却して撤退することは、そんなに困難ではない。 中国はすでに資本主義経済に深く関わりすぎたのに、社会保障制度や貧困対策など、社会主義的な諸政策には手が回らずに貧富の拡大に歯止めがかからない。 日本が結んでいる手をふりほどこうとしたら、中国経済は足元が割れることになる。 「そんなことはない」と強弁する中国人は多いだろう。 それならやってみようではないか。 日本と中国は、接近しすぎて誤解を生んでしまった。 遊牧民の羊飼いが大草原に土壁をあちこちにつくるように、お互いに少し距離をつくるのも知恵の一つだ。 TPPに中国が参加したら、アメリカの農産物だけではなく、中国の農産物も大量に入ってくる。 【中国の経済発展が日本の国益になる】などという妄想は否定しなければならない。 韓国や中国が経済発展すれば、いわば同じ羊飼いが縄張りを争うようなものだ。 決して仲良くできない。 協力して、モンゴル帝国のように世界征服を狙うなら提携できる。 そういう関係だ。 私は前原大臣と玄葉大臣に提言し、むしろ農業問題で相互補完関係があるEU諸国、特にイギリス・フランスとTGP(トランス・グローバル・パートナーシップ)を提案し、先行して交渉することを提言した。 そして、このTGPをアフリカ諸国、アラビア諸国に拡大していくこと。 人口の多いアフリカと資源の多いアラビアは歴史問題もなく、反日教育もなく、実り豊かな友情あふれる互恵関係が見込まれるからだ。 今回のTPP不参加含みの閣議決定は、成り行き任せに膨張した米中依存の経済構造を戦略的に変革する千載一遇のチャンスである。
Nov 8, 2010
私は留学時代、ドイツとスイスの国境地域で、郵便会社が定期バスを運行する「ポストバス」に乗って、オーストリアのインスブルックからスイスのオーバーエンガディン渓谷に旅した。始発から終点まで乗っていたのは、私一人だけ。それから3袋ぐらいの国際郵便か(笑)ポスト・バスは国境地域の幹線道路に点在する郵便局が停留所で、郵便局はみんな村落の中心にある。田舎のおじいちゃん、おばあちゃんが隣村の友達の家に遊びに行くために、このバスを使うみたいで。もう何十年も定時に郵便物を下ろしたり、載せたり、家族が郵便局前のバス停で送迎しているから、生活に密着しているのだろう。スイス・オーストリア国境は、いわゆる【チロル】という地域。昔、チロリアンという商品名の洋風煎餅のCMとかあったね。ロマンシュ語という古いラテン語の方言がのこる背が低い少数民族が暮らしている。運転手が郵便を運搬し、一人で荷受け・荷下ろしをしながら、乗客の運賃をうけとっている。みんな顔見知りという雰囲気だ。エンガディン渓谷は有名なスキー場、サンモリッツがある観光地。その先に、哲学者フリードリヒ・ニーチェが過ごしたジルス・マリア村がある。そこまでの道のりもポスト・バス。実に便利で、運賃もそんなに高くない。日本郵政がバス事業をやったら、民業を圧迫するという意見もあるだろうが。それなら宅急便も、地元バス会社と提携して、集配事業の融合化を進めたらいい。田舎のバス会社は解体するかもしれないが、収益効果はあがり、乗客数は上がり、交通の確保につれて、過疎人口にも歯止めがかかるはずだ。自治体も決断が必要だ。破綻寸前の路線バス会社に多額の補助金を提供するよりも、大胆に経営陣の刷新を要請し、日本郵政あるいは宅急便企業に提携要請して、運搬車の空きスペースを利用して、乗降客を乗せるサービスをしてもらって、定期交通路を確保すべきだと思う。だいたいの運行時間だけ決まっていればいいし、運搬車の正確な現在位置はGPSで把握できるはずだ。バスの現在位置の表示サービスは都バスも携帯サイトで提供している。郵便局やコンビニなら、運搬・乗降兼用車の現在位置をバス待ちの人々に知らせることはわけもないはず。宅急便や郵便の荷物も、追跡サービスがすでに完備している。しかし、ここで立ちはだかるのが、やっぱり利権。越後交通という企業は新潟県全域のバス交通網を持っているが。その創業者は田中角栄、その後継者は田中真紀子。国際興業という企業は埼玉県のみならず、関東全域にバス交通網をもっているが。その創業者は小佐野賢治、田中角栄の盟友で、ともにリクルート事件の汚職に関わり、国会で証人喚問の席に立ち、刑事被告人になり、有罪になった。西武もバス会社がある。九州は西鉄バス。「福岡市民はいない。博多っ子はいるが」と怒られたことがある福岡のタクシーの運転手さん。「ここは昔、西鉄バス専用の車線だったんだ」とまた憤懣をぶつけられた。西鉄の政治力は国道や県道まで占有していたのだ。このような企業が郵政や宅急便に、過疎地域の路線をやすやすと譲渡するだろうか。私はそろそろ譲渡するチャンスが来ていると思う。いまや田中角栄も、小佐野賢治も、堤康二郎もいない。どこかの地方自治体がバス会社の倒産と再生を引き受け、日本郵政と提携すれば、ポスト・バスは日本の道を走り始める。
Oct 24, 2010
いま、私は厚生労働省と国土交通省に、「高齢者や障害児などが使う小型バスは、バス停を不要にして、フラッグ・ストップ、ハンカチ振り、あるいは手の振りだけで停車、乗車する規制緩和をしてほしい」と要望している。長妻厚生労働大臣、前原国土交通大臣に頼めば、何とかしてくれると思ったが、二人とも参議院選挙前後の多忙で、もう辞めてしまったら頓挫してしまった。「バスはバス停の間を移動するだけの乗り物、それ以外は認められない」という規制枠を部分的に撤廃すれば、どれだけ利用者にとって便利か。それは父の車イスを押しながら、バス停に着く前に、バスが目の前を通り過ぎる悔しさを、私本人がいつも味わっているから。あくまで「公用の福祉バス」。タクシーではない。ハンカチ・ストップで停車・乗車できるライトバンは、東南アジア諸国に行けば、どこでも走り回っている。いわゆる「乗り合いタクシー」だ。私が細川内閣の後、中国人民大学の教官宿舎に滞在したとき、人大(レンダァ)正門前は、毎朝元気のいい「前門(チェンメン)!前門!前門!」という乗り合いタクシーの呼び込みであふれていた。前門は天安門広場の正面にある楼門。まさに大手町みたいなところ。オンボロの路線バス(今はない。当時の中国映画【ニイツァオ・ペイチン(おはよう北京)】にバス運転手と車掌のコンビが主役で出てくる)が前門まで2.5角。乗り合いタクシーは4倍の1元。「やあ教授、また軍事博物館通いですかぁ」と顔見知りの運転手が叫ぶ。「きみは人民解放軍陸軍の回し者か」「空軍ですよ。アメリカ空軍を撃墜した元空軍のエースです。はっはっ」日本に帰ってきてみると、どうも違和感がある。どうしてバス停に停まるのか。なぜ乗り合いタクシーを認めないのか。長くは書かない。日本では機制や業界団体の反発があり、乗り合いタクシーをやると失業者がたくさん出ると信じられている。私はそんなことはないと思う。むしろマイカーの台数を減らすべきなのだ。すると自動車業界が反発する。そういうわけで業界団体の反発があって、乗り合いタクシーは実現しないのだ。私は「乗り合いタクシーを認可せよ」と求めているわけではない。障害者や高齢者は福祉タクシーなどを利用しているものの、まだ十分に全国にサービスがいきわたっているわけではない。福祉タクシーも退職者世代のボランティアに頼っているのが現実で、いまは介護の世話になっている父もやっていた経験がある。別に時間に制約されるビジネスとは違うわけなので、ライトバンを走らせて、高齢者や障害者を乗せて公共施設や介護施設、病院を周回することは、タクシー業界も自動車業界の利権も侵害しない。むしろ公用のライトバンの需要を全国に広げ、自動車業界が量産できないライトバンの電気自動車化などを推進できる。それは必ず世界的なヒット商品になるはずだ。全世界の「乗り合いタクシー」の需要は、日本国内の需要量よりはるかに大きい。それはすべて頭を下げたり、乗りにくい入り口を我慢する背の低いライトバンばかり。「乗り合いタクシー」を意識した国産電気自動車のライトバンは、デザインだけでビック・ヒットになるはずではないか。また、私は留学時代、ドイツとスイスの国境地域で、郵便会社が定期バスを運行する「ポストバス」に乗って、オーストリアのインスブルックからスイスのオーバーエンガディン渓谷に旅した。ポスト・バスは国境地域の幹線道路に点在する郵便局が停留所で、郵便局はみんな村落の中心にある。運転手が郵便袋の荷下ろしと荷受けをやりながら、運賃をとって乗客を乗せている。乗客はみんな地元の老人たち、自動車交通から切り捨てられた世代だ。日本郵政も、バス会社が路線を廃止した過疎なところで、乗り合いタクシー事業をやればいいのに。まだ実現していない。高齢者たちや障害者たちは、あまりマイカーを購入する人々ではない。だから自動車産業を侵害することもない。結局はバス会社も、反対勢力も、みんな時代錯誤の権益にしがみついて、地方自治体に補助金を要請したり、それで自治体の借金が増えたり、地域ごと沈没していくのではないか。コンサルタントの大前研一さんが、平成維新の会をやる契機になった一つがディスポーザーだという。ディスポーザーは、流し台の排水にジューサーのようなプロペラをつけて、生ゴミをどろどろに粉砕して下水に流す装置。ところが、これが環境規制のために使えない。われわれが声を上げてメーカーや省庁に意見したが、折り合いをつけて容器型のディスポーザーを松下電工が開発してくれた。いわゆる生ゴミ乾燥処理機で、これはヒット商品になった。規制緩和にはいろいろなビジネスチャンスが存在する。それは単に、生ゴミ処理機の開発だけではなく、新たに海外にも紹介できる技術開発の可能性も秘めている。
Oct 22, 2010
「予算を切り崩しても、ムダなコストは見直すべきだ」「そんなことはやってられないよ」小野晋也さんの言うことはわかる。一人では無力だ。しかし、自民党の体制では、予算をつける政治家に官僚たちが集まり、次々と要望を吸い取って実現していく。ほとんどは見せかけに過ぎないのだが。とにかく国会議員には達成感がのこる。それに対して、天下りの制限やコストカットを公言する政治家に、官庁は寄りつかない。それどころか対立候補に連絡をつけたり、個人情報をリークしてスキャンダルに仕立てる。小泉内閣で竹中教授とともに戦略的コストカットを指導していた某先生は、安倍内閣でもそのまま居残った。すると、財務省の人々は手のひらを返して、財務省の官舎を愛人部屋にしている個人情報をマスコミにリークした。これが官僚の政治家暗殺の手法、何の政治基盤もない政策ブレーンは表舞台から公開抹殺された。そのような中で、現在の原子力行政の理念に影響を与えた小野晋也さんの国会質問は、まさに歴史的な功績だ。透明化された情報は、最初は反対運動の人々の感情を刺激したが。政権交代した現状はどうか。民主党連立政権になったが、もはや原子力発電所の廃棄計画が社民党からだされることはなかった。むしろ政府はより安全な原子力技術を海外に輸出する計画さえ立てている。ロボコン事業を通じて築いてきた経済産業省の人々との厚い人間関係。そして、科学技術行政全般に関わってきた小野さんだからこそ、原子力行政の透明化に大きな影響力を発揮できたと思う。私はここに議会政治の新たな希望を見出している。政府が事業をやるとき、事業運営をしているとき、そこには必ず目に見えない理念が存在し、組織の人々の判断を制限している。情報公開を阻止しようとする空気もその一つ。しかし、情報が高度で、専門性が高いほど、情報は公開されなれければならない。だから研究者はほとんど教育機関に雇用されているのだ。議会はもっと組織の理念を再検討し、それが妥当であるかどうか、論議をつくすべきではないか。いま、私は厚生労働省と国土交通省に、「高齢者や障害児などが使う小型バスは、バス停を不要にして、フラッグ・ストップ、ハンカチ振り、あるいは手の振りだけで停車、乗車する規制緩和をしてほしい」と要望している。これは、「バスはバス停の間を移動するだけの乗り物、それ以外は認められない」という規制枠を部分的に撤廃するものだ。議会こそが政治を主導する。費用をかけずに。これから、その実例をたくさん生み出していかねばならない。
Oct 22, 2010
森善朗元総理と小野晋也さんの政治活動は、まさに典型的な議会政治スタイルだったと思う。新人議員の「アドバイス」は、彼が一匹狼だから、やっちゃいけない危ないことを誰も規制してあげなかったから、まあ猪突猛進してしまった面もあるだろう。成熟した自民党安定政権で、そんな行動をしていたのは無派閥の鈴木ムネオとハマコーだけ。小野さんと一緒にロボコン関係の政策決定会合などを歩き回ったことがある。小野さんは本当に充実した顔をして、ニコニコと縁の下の力持ち役をしていた。新人議員の小野さんには、「この政策をやりたい」と考えても何も権限がない。議会で質問すれば、関係省庁が飛んできて質問内容を御用聞きをする。野党は通告前の質問内容はなるべく隠そうとしたり、いきなりの内容変更をするが、与党議員はしかるべく原稿をわたす。すると官庁は、その質問の背景に議員のリクエストが含まれているかいないかを検討し、答弁する大臣や省庁代表の模範解答に、可否をいれていく。もちろん口約束で流れてしまうのが多数だが。小野さん自身が委員会質問できない場合は、質問者に依頼して自分のリクエストを盛り込んでもらう。同僚議員に頼むわけだが、そこで森先生が登場する。「おいoo君、小野君が新しいアイデアを持っているらしいから、ちょっと時間を作って、話を聞いてやってくれないか」 この森善朗先生の口添えがあると、同じ派閥の先輩議員もしたがわざるをえない。 そこで小野さんは持ち前のヲタ的な情熱で、「この予算は増額してもらいたい、新たに新規事業を」と懸命に説得する。 まあ、どれだけ効果があるかわかからないが。 とにかく質問時間5分間ぐらい、小野さんの提案した質問がとりあげられる。 「よしよし」 二年生議員になると、小野さんは自分で議員連盟をつくることを思い立った。 【理系卒議員連盟・フランクリンの会】 科学技術者だったフランクリンにちなみ、まず政経塾同期生の逢沢一郎さん(慶応工学卒)に呼びかけた。 もちろん、最高顧問は森善朗先生。 会長は何と、民主党を結成したばかりの鳩山由紀夫さん。 発会式は衆議院議長公邸の広大な応接室で挙行され、私も同席した。 民主党結成で実弟の鳩山邦夫さんと大喧嘩したばかりの鳩さんは、 「おめでとうございます」といわれても、 「いや、めでたいことないですよ」と苦笑していた。 このように自民党の議員は、みな個人の意見を政府に陳情するとき、必ず部会や議員連盟を通すことが決められていた。 これは個人の越権行為を制止する措置だ。 しかし、個人の越権すれすれの要望を、部会や議員連盟の名前を借りて出すこともできる。 こうして理系議員連盟の事務局長を引き受けた小野さんは、もう先輩議員に質問代行をお願いする必要もなく、与野党にパイプをもって、自分の提案を議員連盟の総意として、行政機関に持っていくことができた。 うまい抜け道だ。 しかし、小野さんは私利私欲では動いていない。 本当に科学技術振興に使命と情熱を感じているんだなと思った。 しかしながら、自民党政治家は小野さんのように清廉潔白な人物ばかりじゃない。 エイズ問題も、肝炎問題も、自民党の厚生労働部会が積極的にとりあげていたら、感染のひろがりを未然に防げたと思うが。 当時の自民党厚生族はほとんど薬品メーカーから多額の献金を受けているわけだから、現状の業界秩序に波風が立つことを阻止しようとする。新薬採用を促進する陳情など、絶対に出されない。 国家議員が未承認薬で生命の危機から脱した経験があっても。 そこはまた多数派(ボリシェビキ)の圧力があり、マイノリティは口封じされる。 それに比べると、小野さんはかなり自分の意見を議員連盟の決議に反映し、かなり思い通りに経済産業省・文部科学省に意見を通してもらっていた。 議会で委員会質問にも立った。 原子力発電所で事故が頻発したとき、私は小野さんに直言した。 「反対運動の反論にごまかしの数値を使うな。すぐ見破られる。正直に何もかも公開し、現実の原子力行政を透明化しなければ、ソ連崩壊と同じことになる」 小野さんは「その通りだ」と委員会質問に立ち、政府の官僚たちを厳しく叱責した。 この業績はまさしく偉大なものだ。 一行政機関が根本理念から陥落したのだ。 森内閣で、九州・沖縄サミットが開催されたが、各国首脳をロボットのアシモが迎える演出を提案したのは小野さんのアイデア。 「アシモに各国首脳に手を振って空港まで出迎えさせ、握手させるんだ」 「そりゃあ無理ですよ(大笑)」 全世界に日本のロボット技術水準の高さが宣伝された。 自民党時代の議会政治は、このように行政機関に対して、さまざまな公式ルートで注文をつけ、行政側は「予算増額」というバーター取引で、その一部を受け入れ、政策化してきた。 それはあくまで「予算増額」と利権拡大という省庁側の権益と合致した場合のみ、 そして予算削減とか、事業整理とか、コスト・カットを一切受け付けない体制でのみ、維持された取引関係だったのだ。 つまり、無限に予算が膨張していくという前提で、お金の配分を決めるという、広い体育館にギッシリつまった観客席の少ない空席をやりとりする中で、政策は話し合われていた。 「小野さん、派手に政府の新規事業を増やしたり、いろいろ予算をつけるのも結構だが、不要な予算の切り崩しを何もやらないのは困ります。松下幸之助さんは、それを願っていたはず」 「それは(私の)仕事じゃないよ」
Oct 22, 2010
ロボコン競技場をつくっても、秋葉原の変容はなすすべもない。公金の浪費だ。私はこうした主張で、小野晋也さんの最大のハコ物政治の記念碑「秋葉原ロボコン・コロシアム構想」をつぶした。秋葉原駅前の高層ビルを通るたびに、私は小野さんの悔しそうな渋い顔を思い出す。小野さんの悔しさはわかる。他のいろいろなムダな施設を見てみろ、小泉元総理の地元の横須賀なんかはお気に入りのXジャパンの記念館とか、くだらない施設であふれているじゃないか。まあ、その通りだ。日本中、戦後の自民党政治はあちこちにまんべんなく公共施設を建設し、その建設業者から政治献金を受け、水増しした建設費の一部を活動資金にするという、大がかりな【公金横領システム】を堂々とつづけてきた。いっぽうで地方自治体に配分された公共事業は、自民党政治の集票マシンとして地元経済を牽引し、支配する買収資金の役割をになってきた。現金や商品を各戸配布したら選挙違反になるが、就職や事業をバラまくのは正当な政治活動だと、田中角栄は戦後経済成長路線の建設業優先の公共事業拡大政策をとってきた。小沢一郎さんはその流れを汲んで、西松建設に関わった。もし西松の幹部が「小沢事務所に献金を渡したら工事がやってくるから」とした証言が虚偽だとするならば、小沢さんは名誉毀損と偽証の損害を西松建設本社に請求したらいい。民主党も同様だ。なぜやらないのか。それは時効になった古い問題がたくさんあるからだろう。私も細川政権で、誰あろう平成の黄門さま、元副議長がさっそく建設業界の会合を開き、「自民党時代と変更はありませんから、われわれを信頼していただきたい」と発言したのに、どっちらけた思い出がある。いま、こういう風に書くと、黄門さまは「あんときゃスッカタねぇよ」と会津弁で苦笑するだろうが。しかし、私は目の前でそんなことをされたら反対せざるをえない。友人がやろうとしていたら、なおさらのことだ。そんなことに関わるな、後世に恥晒しの記念碑を残すだけだぞ、と。小野晋也さんの政治家としての業績は輝かしいものだ。ソニーのアイボも、ホンダのアシモも、小野さんの政治的支援と、官庁の優遇政策がなければ誕生しなかったといえるだろう。今日、日本がロボット先進国として多国間の宇宙開発に存在感をもっているのも、研究者たちと企業の開発技術者たちを結びつけた小野さんの尽力が欠かせなかった。そうしたロボット技術立国の「縁の下の力持ち」の役割は、私は手放しで評価したい。小野さんが政界引退し、いまは民主党政権になったが、小野さんほど科学技術振興に深い理解をもった与党政治家を私は知らない。野党政治家だと、もう政治力を発揮できないから、大臣にはならなくても、いい潮時で小野さんは身を引いたんだと思う。小野さんが政治の師匠とあおいだのは、森善朗元総理だった。小野さんが初戦敗退して、浪人生活をしていたときも、いろいろ物心両面で面倒を見てもらっていた。森先生は、私の父の早稲田大学商学部の二年後輩、父の同期が黄門さま、ゼミ同窓がリクルート事件で犠牲になった藤波孝生元官房長官。私が近くで見た森さんは恰幅のいい、そして面倒見のいい本当の善人だった。森さんが初当選したときは、岸伸介元総理が郷里にかけつけて応援演説した効果が大きかった。「岸先生、来たる」というポスターを貼っても、誰も信用しなかったという。その恩義に報いることは、岸派(福田派=安倍派)の議員数を増やすこと。何とか議会で多数派を握りたいという派閥政治(ボリシェビキ)のメンタリティは、吉田茂の二人の弟子、池田隼人と佐藤栄作の対立でエスカレートしていった。池田は大蔵官僚、佐藤は鉄道省(国土交通省)出身、ともに官僚OBだった。佐藤栄作政権が長期化する中で、党人(官僚OBじゃない政治家)の田中角栄がニューリーダーとして独立運動を起こした。とにかくバカでも、チョンでも、金さえあれば議員にしてやる。金を使わせて、議員数を増やせという空気もあった。逆にたたき上げの田中はそのような買収選挙は今後できないと考え、潤沢な政治資金を用意する一方で、候補者本人には貧乏暮らしと、街頭遊説三昧の政治スタイルを徹底させた。山田宏さんは田中角栄と会ったとき、たまたま運転手を引き受けたが、パッと大金のチップを渡されて驚いたと述懐したことがある。このようにして田中派は勢力を拡大していった。森さんは党人、福田元総理は大蔵官僚だったが、安倍晋太郎(安倍元総理の父)は元新聞記者、仲間意識は強かった。強引なボリシェビキ政治で田中角栄は政権をとり、自分が総辞職し、三木内閣で逮捕された後も、福田内閣を引きずりおろして、大平内閣に影響力を保った。そのボリシェビキ政治の延長が小沢派。森さんは若くして幹事長になった小沢のいいところ、悪いところを見ていた。森さんの政治スタイルは面白かった。「アメリカやヨーロッパの議員外交は頭のいい連中に独占されて、イス取りだけでも気を使う。西アジアやアフリカとの議員外交ならば、何も苦労がいらない」思わず笑ってしまった。森さんの若いころの政治活動を調べてみると。いま各地に散在する【青年の家】という宿泊研修施設を創案して、各省庁にかけあい、実現したこと。各地方、特に過疎地域で目立ちつつあった小学校などの木造の廃校などを改装して、研修宿泊施設に衣替えしたものだった。なかなか大きな仕事だ。全国に「青年の家」はまたたくまに広まった。しかし、研修施設というと、ご存知のように年金機構や郵便貯金など、公的基金が各地に建設した大規模施設ができたり、われわれが一般に若いころに使った宿泊施設はユースホステルだったから、「青年の家」の事業がどれだけ利用度の高い事業だったかは不明だ。古い小学校の廃屋利用という、なるほど面白いアイデアは、森さんの個性が光っているが。その「青年の家」が、福祉施設として文部省から厚生省に移管されていたら、私はもっと評価をあげただろう。なぜなら、日本社会は高度経済成長末期、もう高齢化社会の試算が出ていて、50年後の青少年数より高齢者人口が上回ることは確実視されていたからだ。これは今後の教訓として生かしたい。では今から「青年の家」を福祉施設にすることはできないのか。そこに省庁の壁がある。小学校を建設したのは文部省の予算だ。だから厚生省にやすやすと見返りもなく譲渡できない。「青年の家」の構想は、森さんのアイデアだったが、それを後押しした文部官僚たちの公然たる意図は既得権益の保全と拡充以外の何ものでもなかった。その延長が、ベンチャー企業やNTTドコモなど新産業分野の未公開株に群がった政治家・現役官僚たちがリクルート事件という顛末になる。森先生がリクルート事件と無縁だったのは、「目立つところは頭のいいやつが競争するから、一歩引いてみる」という人生哲学のおかげだろう。しかし、その師匠の仕事ぶりが、小野晋也さんを「秋葉原ロボコン・コロシアム」構想という夢に駆り立てていったことは想像に難くない。
Oct 22, 2010
どこの法律に地方議員の特権として、地方行政機関に「アドバイス」をする明文が存在するのか?原則では、議会と行政の権限の範囲は峻別・限定するのが日本国憲法の大原則である。だから「三権分立」というのだ。ところが、議会政治が盛んになると、地方自治体が「議会対策」に労力と時間を空費するという馬鹿馬鹿しい光景が起きる。それはこれまでの地方議会政治が、行政機関への不文干渉、あの新人議員が行使したような「アドバイス」という名目の越権行為が多いからである。このような悪慣行は根絶しなければならない。新人議員がやったことは明らかに越権行為、不法行為に間違いないのである。それを当然のこととしているのは、赤信号で強引に渡れという議会慣行がまかり通っているからであろう。新人はその習慣に染まりかかっていた。ささいなこと、本人もそう考えるだろう。大事だったら、ブログの上ではすまない。警察に逮捕されることは間違いない。新人議員の政治生命はそれで終わりだ。議員の越権だとわかっていても、どうして地方自治体の現場はコストや労力、その効果もはなはだ疑われるような郵送通知をしなければならなかったのか。それは新人議員が「このトラブルを議員質問にとりあげる」と強迫したからである。一人の市民に対する一人の職員のミスの疑惑、つまり1対1の窓口トラブルを市議会議員が市議会でとりあげるなどという行為はまさしく恐喝行為に等しい。民間企業で、一人の社員のミスを、社外に宣伝するなどという暴言を吐くのは、総会屋や暴力団の恐喝行為ではないか。明らかに議会政治の許される常識を逸脱している。市議会議員本人にもその自覚がない。「役所が郵送通知をやったのは、私のアドバイスが妥当だと認めたから、勝手におやりになったのでしょうから、私の責任の及ぶところではありません」だから、君のやったことは「マリー・アントワネットごっこ」なんだよと、私は激怒しているわけだが。以前にも同じような経験をしたことがある。松下政経塾の1期生で最初に政治家(愛媛県議会議員)になった人物。元衆議院議員の小野晋也さん。最初に東京政経塾で会ったとき、小野さんは落選した直後で、ものすごく落ち込んでいた。ここでは日本新党につながる政経塾出身者の新党の結成について、いろいろ話し合われていたが、小野さんはまったく無関心だった。やっと衆議院議員に当選したら、自民党は野党。細川内閣が成立。小野さんは当選直後に、奥さんを急性ガンで早死にさせてしまった。小野さんは政治家という自分の運命に疑問を持っていた。奥さんに必ずしも好意的でなかった後援会も率先して解散して、勉強会のOAK・TREEという団体だけは維持した。そんな中で、私は小野さんとの親密な関係を持っていった。何度か選挙区の愛媛県新居浜も訪れた。小野さんはいつも夜行バスの住友病院のバス停に立って、私を待ってくれていた。懐かしいなあ。小野さんが前の選挙で、経済担当副大臣・文部科学副大臣のキャリアで政界引退を表明したのも、そうした人生観からではないか。自民党が政権に復帰し、晴れて与党政治家になった小野さんは、東京大学工学部宇宙工学専攻の学歴から科学技術振興の旗振り役という立場に、衆議院議員としての役割をつくっていった。その努力がかなって、同窓の友人から宇宙飛行士が出たとき、小野さんは幸福の絶頂だったと思う。最初に衝突したのは、新居浜のケンカ神輿の事件。新居浜は天領(幕府直轄の別子銅山の積み出し港)だったので、江戸時代から狭い地域に異なるコミュニティーが割拠。それぞれの日ごろの鬱憤を神輿をぶつけ合うことで晴らしてきた。現代になると、これは目的も性格も変化し、若者たちの「やってやろう」、「今年は復讐だ」という地域間の感情のぶつかり合いがエスカレートした。それが過剰になり、ついに神輿のぶつかり合いで、見物客から死者が出た。隣町からきた若い女性。私は産経新聞にコラムを書き、「このような原則禁止と違犯暴走の悪循環はやめ、相撲の見合いのように、きちんとしたルールでやるべきではないか」と主張した。それ以降、新居浜の神輿での死者は聞かない。なぜ新聞に書いたかというと、小野さんが何もしなかったからだ。小野さんは愛媛県から東京大学に国内留学した秀才で、地元のコミュニティー活動も希薄だった。小野さんが仲裁したら、たちまち蜂を突ついた騒ぎになったであろう。結局は産経新聞の私の記事を読んだ神社本庁幹部が各神社の仲裁に入り、祭礼のルールを変更したらしい。この事件で小野さんとは亀裂が入り、私は新居浜にいけなくなった。決定的に対立したのは、秋葉原駅前の旧神田市場跡地に計画されたインテリジェントビル再開発。あの秋葉原駅前の高層ビルのことである。この再開発計画がでたとき、小野晋也さんはさっそく飛びついた。宇宙開発促進のいっぽう、小野さんは全国高等工業学校のロボット対決、いわゆるロボコンの旗振り役として懸命になっていた。最初はロボット学会を異業者交流会と結びつけ、その関係からソニーのアイボやホンダの先端ロボットなど、急速なロボット技術の進歩を促進していたので、それはすばらしい政治家の功績だと思っていたが。小野さんは秋葉原の再開発に、広大な常設ロボコン競技場のプランを組み入れようとした。とんでもない浪費である。私は反対した。「こんなことで金がとれるのか」「ロボットの戦いを競輪や競馬みたいにしたいのか」小野さんの会合には経済産業省の役人も、秋葉原の経営者たち(ヤマギワ、オノデン、ラオックスの代表)や秋葉原デパートの若いご主人も同席していたが。みんな小野さんの大風呂敷な構想は実現できるのか疑問に思っていたと思う。小野さんの気持ちはよくわかった。このまま秋葉原を「萌え系」とか「メイド系」の町にしてしまっていいのか?電気街の復権はどうするのか?私の意見は明確だった。ロボコン競技場をつくっても、秋葉原の変容はなすすべもない。公金の浪費だ。電気街の復権は、民間企業の問題だ。インテリジェントビルの中に産業会館部分をつくり、製品展示と商談のチャンスを常設施設でおこなえばよろしい。これで小野晋也さんの最大のハコ物政治の記念碑「秋葉原ロボコン・コロシアム構想」はつぶれた。秋葉原駅前の高層ビルを通るたびに、私は小野さんの悔しそうな渋い顔を思い出す。でも、これでよかったのだと私は信じている。
Oct 22, 2010
Maximillian de Robespierre(1758-1794) ある地方自治体の首長が言っていたが。「うちの市議会議員の大半は何も仕事らしい仕事をしていない。」「条例案を提案する能力もない。勉強もしない」「市役所の業務内容も不案内なのに、いろいろ横やりを入れる。」「迷惑なので議会からの陳情窓口を各会派に一本化したら、議員たちはみんな自分の仕事がなくなったと不満を漏らしながら、公費を使って遊びまわっている。」「この状態なら議員定数を削減するしかない。」山田宏さんの盟友・河村たかし名古屋市長が市議会議員定数の削減を打ち出したのは、議会政治の原理が変化していることを積極的に先取りしたものだ。多くの住民は「市議会議員は何も仕事らしい仕事をせず、ただ自己宣伝と余興視察で毎日を暮らしている」と厳しく見方を変えている。議会はもともと王権と対立する貴族たちの集会から始まった。いわゆるマグナ・カルタだ。古代ローマ共和制も、王権を打倒した大貴族の首長会議がそのまま元老院になった。イギリスのピューリタン革命はそれに習った。つまり議会政治は行政権の監視役、権力濫用の制御、放漫財政の監査という役割から出発した。発足当初の議会政治は、ローマ共和制がジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)の独裁制に、ピューリタン議会がオリバー・クロムウェルの独裁制に、フランス革命がロベスピエールの独裁制に、ロシア革命がレーニン・スターリンの独裁制に移行したように、常に多数派(ボリシェビキ)から新たな専制君主を生んできた。極端な実例がムッソリーニとヒトラー、二人とも政党の党首であり、議会が生み出した独裁者である。なぜ独裁が生まれるのか。それは議会政治家が職責を放棄したからである。私の知る限りでは、東条内閣の末期、東京がアメリカ空軍機の空襲圏となるサイパン島の攻防戦が一つの山場となっていた。東条総理はサイパン決戦の直前、参謀総長の杉山元帥に迫り、総理・陸相・参謀総長の兼任をするために辞職を勧告した。勧告というより、強要である。それを聞いた衆議院議員の中野正剛は激怒し、公然と東条内閣打倒を画策した。中野は「日本のヒトラーたらん」と自分にヒゲもチョビ髭に変えたユニークな雄弁政治家だったが、戦時下で唯々諾々と虚偽の戦局報告と軍事予算を承認していた議会の隷属に憤懣を爆発させたのである。すると「東条憲兵」といわれた憲兵隊と特別高等警察(特高、いわゆる秘密警察)が情報を察知、中野を逮捕拘留した。これに対して、検事総長が法務大臣と東条総理に直言した。「予備拘束は24時間以内。しかし、議員の検束は数日にわたっている。これは憲法違反とならずや。総理は憲法をご存知か」総理の意向で、特高は中野を釈放し、自宅に移送した。しかし、その晩、中野は自殺した。東条内閣が戦時内閣ではなく、テロリズムも使う独裁政権であることに驚愕した議会政治家たちはようやく重い腰を上げ、皇室筋に周旋し、岸伸介商工大臣に内閣不一致を演出させる一方、満州事変を仕かけた石原莞爾大将を首謀とし、東条暗殺計画までエスカレートした。しかし、暗殺実行寸前に東条は予想以上に早かったサイパン玉砕陥落を理由に辞職してしまった。東条はサイパン陥落後も内閣改造・政権継続に意欲満々だったが、岸大臣が反発し、辞職に署名を拒んだ。戦後に満州帝国官僚だった岸伸介、満州事変の石原莞爾がアメリカ軍から戦争犯罪指定されなかったのは、この東条内閣打倒に関わったという一点につきるのだが。石原はアメリカ軍の将校に「オレが最大の戦争犯罪人だぞ。知らないのか」と言っても、笑って相手にされなかったという。さて、議会が仕事をやめてしまったら、このように独裁政治の補完機関に隷属してしまうのだが。市議会にもそれは当てはまることだ。地方議会はつねに政権交代の可能性がある。したがって、もっと議会政治が盛んになると、地方自治体が「議会対策」に労力と時間を空費するという馬鹿馬鹿しい光景は断絶しなければならない。それはこれまでの地方議会政治が、行政機関への不文干渉、あの新人議員が行使したような「アドバイス」という名目の越権行為が多いからである。私は聞いてみたい。どこの法律に地方議員の特権として、行政機関に「アドバイス」をする明文が存在するのか?新人議員がやったことは明らかに越権行為、不法行為に間違いないのである。それなのに、どうして地方自治体の現場はコストや労力、その効果もはなはだ疑われるような郵送通知をしなければならなかったのか。それは新人議員が「このトラブルを議員質問にとりあげる」と強迫したからである。一人の職員のミス、一人の市民、つまり1対1の窓口トラブルを市議会議員が市議会でとりあげるなどという行為はまさしく恐喝行為に等しい。
Oct 22, 2010
私が松下政経塾で仕事をしたときは、年に一度の【松下幸之助研究発表大会】というイベントを置き土産にしていった。新人議員も経験したはずだ。【地方議員の会】も、私が海老根さんに提案し、国体みたいに各地方議員の持ち回りで、政経塾OBの地方議員が集まる会合として続いている。最初の事務局長は、東京都議会議員(当時)で、いまは新宿区長をめざしている山崎泰さんが引き受けてくれて、初回の盛り上がりはすごかった。それは地方議員出身の国会議員(野田財務大臣、玄葉戦略担当大臣、松沢知事、みんな県議会議員を経験しているから)も参加したことで、たちまち国と地方の大ゲンカになって。海老根さんも山崎さんも「これこそ政経塾の設立趣意だ」と実感したとのこと。各地方の問題を、自分の選挙区ではなく、日本全体の課題として論議できる場になったということだ。このようなことは政党みたいな機関ではできない。しかし、その直後、不運なことに山崎さんは逮捕拘留という恥辱を受け、都議会議員を辞職することになった。その理由は、京都の福山哲郎参議院議員(当時は京都政経塾・塾頭)が紹介した人物に、東京都の中小企業融資制度を目当てに、山崎さんが都議会議員の地位を利用して融資の斡旋をしたという容疑。間が悪いことに、山崎さんの秘書は少額ながら、斡旋を受けた業者から政治献金を受領していた。それが収賄罪ということで立件されたのだ。しかし、山崎さんにも言い分があった。「知人の紹介で融資制度を案内しただけ。地位を利用して斡旋したつもりはない。他の議員も普通にやっているはずだ。政治献金については知らない」検察が全都議会議員を調査したところ、ほとんどの議員、特に革新系の議員はみな献金でつながった支持者に融資制度を斡旋している事実が分かったという。しかし、検察は告訴を取り下げなかった。いま、山崎さんが新宿区長に選ばれたら、本当にすばらしい政治を実現してくれるだろう。山崎さんは、私が提案していた住民投票条例案を採用して、都議会に上程する寸前で逮捕された。しかし、その前に東京都議会・文教委員長として、私が提案した全国初の「援助交際禁止条例=青少年健全育成条例」を実現させてくれた。私の提言は松下幸之助の理念を研究した学者のアイデアに過ぎないが。政治家として都議会の多数派を説得してまわった山崎さんは、その後、全国に波及した援助交際禁止条例と、住民投票条例の最初の提案者となったのだ。それは新宿区長となるのにふさわしい政治史上の功績だ。今回の新人議員のケースは、市民相談といいながら、この不幸な事件と共通する構造がある。だから、これだけ熱心に問題追求しているわけ。【政治公害】みたいな政治活動は打ち切って、このような政経塾の先輩たちの功績と失敗、挫折の教訓に習って、新しい政治理念に立った議員活動スタイルを開始してもらいたい。
Oct 22, 2010
政経塾の地方議員は、せっかく政治の道を志した以上、国会議員ならば大臣になり、初心を少しでも果たしてもらいたいと思うのと同じ意味で、小なりとも市町村の首長になり、松下幸之助に学んだ経営経営の精神を生かした地域改革に参加してもらいたいと私は思う。「では、どうしたらいいんですか」と聞いてきたけれどね。幸之助さんだったら、「それはアンタが自分でシンミリ考えることや」と突き放すだろう。経営学者として提言するならば、稲盛さんが常に言っているように、「経営者はコスト意識を明確に持て」ということだ。コスト意識さえあれば、一人の過剰なクレームに対応して、全員に郵送通知しろなどと費用と労力を度外視したアドバイスはしないはずだ。だから、そんなアドバイスは「パンがなけりゃケーキを食べたらいい」と言っちゃったマリー・アントワネットの真似事になるわけだ。有志の地方議員、特に政経塾出身の地方議員は首長をめざす過程において、まず何よりも地域の歴史を知り、政治史を知り、以前に破棄されたり、店晒しになった政策案を熟知しなければならない。市役所のあちこちに顔を出して、幹部職員より一般職員の何気ない声なき声に敏感であらねばならない。そして何よりも、「この改革にはどれだけコストがかかるのか」、幹部職員が資料を持ち出す前に、自分で概算ができるほど、予算書・決算書の細目を徹底的に検証し、分析しなければならない。中小企業診断士などは、企業経営顧問業の前提として、そのように毎日の仕事をしている。だから経営者に対して、「これなら費用をここまで出せますよ」とアドバイスができるのだ。前の話になるが、この選挙区の衆議院議員の若い秘書(30代)と以前、対論をしたことがあった。この人は実に頭脳明晰で、市役所の50年間の表裏の歴史をすべて生き字引のように暗誦できたので、すべての政策について、「それは昔、つぶれましたね。理由はこうでした」とか、「市役所の業務も、住民に近いところで判断できるように、市長のまわりに集中させずに地域主権化したほうがいいですね」などと、実に楽しいアイデアのやりとりができた。市役所の庁舎をそのまま建て替えするのではなく、組織を新しい発想で再編成すれば、政策部門の市中央庁舎も小さくしてもいいじゃないか、それが地域主権時代の新しい市役所のモデルケースになるというわけ。市立病院も、それだけの問題として取り上げず、民間の病院施設を誘致したり、開業医のマンションをつくって総合医療できるようにするなど、立て替え工事の期間も医療が停止しない措置が必要なので。単独の市立病院ではなく、隣接する各市を巻き込んで共同事業として先端救急医療センターをつくるべきだという提案を考えたり。コスト意識がすぐに頭に浮かぶ話相手だから「それは可能だ」と話が盛り上がるわけ。私がまだサラリーマンだったころにも、私と同世代なのに、「スーパーの神様」と異名をとった同僚がいたが。彼は地方のスーパーの店舗に足を踏み入れたとたん、年商の規模をほとんどピッタリ言い当てたという伝説があった。そのような「神様」になるには、さまざまなケースを頭に入れて、足し算・引き算をして概算できるような頭脳が必要だが。海老根さんのように人間的な魅力で市役所全体の世論を味方にするような人物にはなかなかなれないだろう。ひたすら老練なノンキャリアの幹部に教えを請い、その中で静かに現在の業務の問題点を発見し、コスト試算にかけ、改革のオプションを精選する。経営コンサルタントはそのようにして、短期間に企業組織の問題を発見し、改革プランをつくり、経営改革を実現させるのだ。市長を志すならば、有権者の声ばかりではなく、退職前、退職後の市役所のノンキャリアたちにひたすら素直に耳を傾けて、利権や私益にとらわれない地域の将来を見据えた意見に耳を傾けなくてはならないだろう。
Oct 21, 2010
松下幸之助さんの重要な政治理念の一つに《政治公害》というものがある。政治や政治家のやることが、実はコストを増やし、労力をかけ、効果もない事業をやりつづけて、結局は国民に何も利益をもたらさない。これは環境汚染の公害の垂れ流しと同じことだ、何とか早くやめさせなければならない。それで松下政経塾ができたわけ。ところが、私が新人の地方議員に忠告した主旨は、まさしく【君がやったことは、政治公害そのものなのだよ】ということだ。つまり政経塾の設立理念から真っ向から対立する、議員特権をちらつかせて恫喝する鈴木ムネオや、陳情パイプ式の小沢イチロー周辺みたいな古いスタイルの政治活動をやっちゃったということだ。こんなことでは困る。最初に海老根市長の例を出したのは他でもない。伝説でも何でもなく、海老根さんは藤沢市の一般職員・幹部職員に対して、分け隔てなく、敵対意識もなく、謙虚な姿勢で、物腰低く接していたということ。海老根さんの大ファンだという年配の支持者は、実は市役所のお掃除のパートさんだったという実例もある。海老根さんは市役所の改革の一環で、自分が提言して、民間企業に掃除業務を入札委託する制度をつくった。そのパートさんはそれで首を切られたわけだ。しかし、首切り後の再就職斡旋がきちんとおこなわれたので、元パートさんはますます海老根さんのファンになった。それは支持者にパートさんがいるから、といって改革を先のばしにしてはならない、という強い信念で政治決断は実行しなければならないということ。税金や費用の無駄がかかりすぎる体制のまま、パートさんが働き続けるのは、ご本人の増収アップにもつながらないし、何の意味もない。それをあえてやったことに、海老根さんの鬼手仏心の偉さがある。もう一つ。これは私が提案したことなのだが。鵠沼という駅前は、駅前通りの道幅が狭くて、車二台がやっとすり抜けられる状態だった。歩道がなく、白線で通学路が確保されているが、抜け道だとわかっているドライバーはどんどん駅前に進入してくる。危ない。街頭宣伝の後、私は「ここは通学時間は一方通行に変えるべきだ」と提案した。海老根さんは素直な人で、警察にかけあって、さっそく交通規制が変更され、駅前通りに一方通行表示が掲げられた。すると、しばらくして地元の人々から「一方通行は不便だ」というクレームが海老根さんのところに寄せられるようになった。そればかりか、海老根事務所の女性のお手伝いさんにも「私も一方通行になってホントに不便だと思う」と怒られる始末で。私もずいぶんと責任を感じて反省したんだが、海老根さんは「正しい意見を言ってくれた」と、私を責めることは何も言わなかった。不便さはあったものの、その駅前通りが一方通行になり、通学路が確保されたこと、それから高齢者が安心して歩けるようになったこと、実は有形無形のメリットはあがっていたのだ。藤沢の商店はシャッターが目立つのに、ここの商店街は買い物客が安心して通行ができるのは一方通行になったからだ。そこを見通して決断したのは、やはり海老根さんに優秀な判断能力があったといわねばならない。まあ、自分の意見を採用してもらったんだから、しっかりと誉めなくちゃね。このようにして、藤沢市長になる前に、その市議会議員活動全般を通じて、海老根さんは市役所の世論をかなり味方につけていた。しかし、今回の新人議員の問題は残念なことだ。こちらに連絡を入れる前に、担当部署に連絡を入れて確認をしているのだが。「私はそんなつもりで言ったんじゃない」と言い訳しまくったあげく。その結果はどうだったか。あちこちから、「あの若い議員先生、トラブル隠しのためにあせりまくっているんじゃないの。わかっていないわね」と嘲り笑われるだけじゃないだろうか。「私はどうしてモテないんですか」なんて街中で女性に聞きまくる男は、変態か何かだと勘違いされるだろう。新人議員は「又聞きの又聞きで批判されているようですが」と反論したが。又聞きの又聞きが広まって、その結果はどうなるのか、何も恐ろしさがわかっていないようなんだな。トラブルでもないし、問題でもない。この議員は、必要もない郵送通知を、費用負担も効果も考えずに、思いつきでアドバイスして、実施させたということ。その効果については、何ら評価すべき結果は出ていないから、今後は郵送通知などという面倒で労力が費用がかかるようなことはやめて、複雑な窓口の確認作業を、わかっていなさそうな相手に対しては複数の職員対応でやればいいだけではないか。さっさと謝罪して郵送通知作業はやめるように、再提言したらよろしい。それなのに「私がやったことに何が悪いところがありますか」などと開き直るなど、まったく論外な話である。新人議員は、市役所の幹部職員に不信感を与えたばかりでなく、一般職員にもカッコ悪い不始末で名前が知れわたってしまったと思う。それは不適切なアドバイスをしたという失敗を隠そうとして、一人でパニックになって空騒ぎを演じてしまったということ。又聞きの又聞きは、さらに悪い評判に広まってしまうものだ。すると「ああ、あの議員さんね」と、頭からバカにされたレッテルをはられてしまう。そうなると地方議員として、もう取り返しのつかない状態に追い込まれてしまう。まあ、独自の立場から言いたい放題いってたハマコーみたいな人間になりたいんだったら、勝手にするがいい。
Oct 20, 2010
さて、これは最近の話。ある地方都市の関係者から松下政経塾出身の若い地方議員の評判を聞いた。その議員は、市民相談の市役所に対する窓口のクレームを聞いて、その市民と一緒に市役所の部署に押しかけたというのだが。何のことはない、その人が不注意で担当職員の説明を聞き飛ばして、何年もそのままになっていたということだ。担当職員は定型の業務で、ちゃんとインフォームドコンセント(確認作業)をとっている。そのことはどこの市役所の現場でもやっていることだ。その市役所でやっていなかったとしたら、職員個人の職責問題になってしまう。しかし、その議員は、市民クレーマーの勢いに呑まれて、ついつい市役所職員が「説明した」という経緯を否定する立場に立ったようだ。そこで、政経塾のOBとして絶対に口にしてはならないことを言ってしまった。「この問題を議員質問として取り上げる」「(結果的に確認作業が不十分だったのだから)郵便を出して通知してはどうか」あとから本人の弁明を聞いたが。一般職員を前にして「このトラブルを議員質問で取り上げるぞ」とうっかり発言することは恐喝行為も同然だ。職員は通常業務を果たしたといっているのに、それを信用するしないは議員個人の判断の問題だか。この市民は市役所から補助金を受け取る受益者の立場なのだから、もし人物から政治献金を受けていたら、北海道の鈴木ムネオがやったことと金額こそ違っていても同じこと。利益でつながった有権者の意見にしたがって、議員調査権を利用して一般職員の業務怠慢を指摘して、「新たに費用をかけて、連絡を郵送しろ」と命令権もないのにアドバイスしたとのこと。そりゃあもう小沢一郎幹事長が命令権もないのに、政府の幹部を前にしたら、アドバイスだといっても命令になるだろう。小沢一郎の公設秘書が、岩手県庁職員を前にしてアドバイスしたら、職務権限がなくても、命令したことになるのだ。それで小沢一郎は逮捕されかかっている。小沢一郎さん本人はあずかり知らぬところで、公設秘書がそのようなアドバイスをしていたというだけで、政治の犯罪行為は成立するわけ。だから、この地方議員は、市民相談の仕事だということで、実は鈴木ムネオと小沢一郎議員の公設秘書と、スケールの小さな古臭い政治活動をやっていたということだ。もちろん、このようなことは議員がどこに電話をかけたって「いや、そんなことはありません。なんでもないですよ」という反応になるだろうが。社長には正確な情報は何も伝わってこないことは厳しく自覚するべきだろう。「この議員は不都合な事実のもみ消しをするために、こんなに一生懸命になっているんだな」と幹部職員は考えるだけだろうし、「いやトラブルにはなっていませんよ」というのが当たり前。トラブルになったら、現場の責任問題になり、さらに通常業務に支障が出るわけだから、現場は何も歓迎しない。しかし、郵送作業のために、郵便の費用がかかり、通知の郵送のために一般業務が「妨害」され、いつもやるべきことが妨げられた。その原因は何か。通知の郵送が本当に必要だったのか。「通知をしていただいて、ありがとうございました」という喜びの反応が市民から多数返ってきているというのならば、それは通知したことに意味がある。アドバイスは有意義だったといえるだろう。しかし、そんな好印象の反応がないとすれば、公金をムダにして、職員たちをムダに働かせたということだ。自分勝手なアドバイスをしておいて、その結果を十分に検証したりもしない議員活動は片手落ちだといわねばならない。議員特権に安住して、思いつきのアドバイスをしまくるなど、マリー・アントワネットごっこをやりたいのか。その原因は、「現在の窓口のインフォームドコンセントが有効に働いていない。このままでは不十分だ」と、議員が疑いを持ち、一般職員の話を受け付けなかったこと。その上で一方的なアドバイスを、議員質問をチラつかせて強要したということだ。新人の地方議員ならば、多数の人々に郵送で通知する作業に、いかに労力と時間と費用がかかるのか、想像できないことはあるまい。それが「アドバイス」ということで、言葉の言い過ぎぐらいで責任回避ができるのだろうか。地方議員の電話口の弁明は実に聞き苦しいものだったが。まあ、反省してもらいたい。
Oct 20, 2010
もう18年ぐらい昔の話だが(笑)私は藤沢市議会議員(当時)初当選したばかりの海老根靖典さん(現・藤沢市長)の早朝街宣活動に参加するため、小田急線の始発に乗って、世田谷の下北沢から、藤沢市の長後駅前に向かった。長後駅というところは、藤沢市では境界すれすれのところに当たるんだが。近くに「団地」という民間開発の戸建住宅地(いわゆる公団の団地ではない戸建の住宅街)が相模原台地の末端の丘陵地にたくさん散在するところで、バスを利用する通勤の藤沢市民が利用するのが、急行電車の停車する長後駅。まったく基盤組織のない海老根さんは、藤沢を出ない在住生活者層にほとんなど取り懸かりがなく、こうした通勤サラリーマンに早朝の市政報告をくりかえすことで、少しずつ有権者の反応を確かめている段階であった。すると「おい海老根、この馬鹿野郎」とニコニコ顔で話しかけてくる人がいる。藤沢青年会議所の元リーダー(OB)で、海老根さんを弟分ということでかわいがっているとのことだったが。こういう支持者は本当にありがたいもの。何の利益も言い分もなく、「かわいいやつだから」といって支持してくれるわけ。こうした支持者たちを集めて、市長になった海老根さんは、いわば新しい地方政治家のスタイルを確立した人物であると思う。その意味で、松下政経塾出身の地方政治家たちの指標として勉強してもらいたいと思うのだが。さて長後駅で街頭宣伝のマイクを握って、私はこうして海老根さんを激励した。「これまでの市議会議員は、自分の政治活動をそんなにみなさんに知ってもらいたいという日常活動はやってこなかったでしょう。だから若い政治家が何をやるのかなと、興味をもっていただけたらうれしいのですが、半面で、朝から駅前を騒がせて迷惑だとのお考えもありましょう。しかし、私は藤沢市民じゃありません。東京の人間ですが、海老根さんの藤沢を何とかよくしたいという市政の情熱に共感して、このように駅前に話をさせていただいております。みなさまの問題を海老根さんに」すると、すぐ反応が来た。長後駅で、バスの切符切りをしていた年配のアルバイトの御婦人である。「この駅の階段の下には、小さな段差があって、いつも人が転ぶのを目にしている。ご老人が転んで大怪我をしたこともある。しかし、駅員さんに訴えても、何もしてくれない。海老根さん、何とかなりませんか」海老根さんは顔が曇った。「これは小田急電鉄の敷地だし、市役所の問題ではないから難しいなあ」私は御婦人に言った。「海老根さんだから、何とかしてくれますよ」数ヵ月後、海老根さんからまた長後の早朝街宣に誘われた。駅の階段の段差はコンクリの補填で、なめらかなスロープになっていた。「おや、工事したんですね」海老根さんと切符切りの御婦人は笑顔だった。名もなき人の声なき声を聞く松下幸之助さんの理想政治。これが真髄である。
Oct 20, 2010
■<円高>財務相、為替介入を示唆 日銀は追加緩和検討 外国為替市場で円相場が一時、1ドル=83円台まで急騰したことを受けて、野田佳彦財務相は25日朝、記者団に対し「必要な時には適切な対応を取らなければいけない」と述べ、政府・日銀による円売り・ドル買いの為替介入などの可能性を示唆した。 一方、日銀は同日、臨時の金融政策決定会合の開催も視野に入れ、追加の金融緩和策の具体的検討に着手した。 市場では「政府・日銀の対応の鈍さが円高や株安を進行させている」との見方が広がっており、対応を迫られた形だ。【久田宏、清水憲司】 野田財務相は24日夕にも緊急会見し、円相場は「一方的に偏った動き」との認識を表明。しかし、為替介入は「コメントしない」と述べるにとどまったため、円買いが加速し、海外市場で1ドル=83円台に突入した。 このため、25日朝、財務省で取材に応じ、為替介入について、直接的な言及は避けたものの、「適切な対応を取る」とより踏み込んだ形で可能性を示唆した。 野田財務相は為替相場の動きについて「重大な関心を持って極めて注意深く見守っていく」と強調。 また、「日銀とも緊密に連絡を取りながら対応する」と政府・日銀が連携して対応する考えを改めて示した。 ◇「新型オペ」拡充など柱 一方、日銀は、急速な円高・株安が回復途上にある日本経済に打撃を与える恐れが強まったとの見方を強め、追加の金融緩和策の検討に着手した。 政策金利と同じ超低金利(年0.1%)で、やや長めの期間の資金を供給する「新型オペ」の拡充などを柱に、検討を進める見通しだ。 具体的には、新型オペの現行3カ月間の貸出期間を6カ月に延長したり、総供給額を20兆円から引き上げる案が出ている。 9月6、7日に定例の金融政策決定会合を予定しているが、一段の円高・株安になれば、週明けにも臨時会合を開く可能性がある。[毎日新聞] 8月25日11時30分配信 野田さんも大変だ。 ここへきて政局がらみで動けなくなっているときに、円高の大波が来た。 実は曹操閣下は、松下幸之助さんの新しい研究を公刊すべく執筆に明け暮れている。 そこで日本経済が抱える円高抑制の恒久的な対策として、外債発行の解禁を提言するつもりだった。 なぜ外国で、日本の国債を発行すると円高対策になるのか。 いまの急激な円高は、中国やアジアに日系企業の進出が一巡して、海外に散らばっていた日本円、輸出入にともなう日本円の流出が、中国など華僑経済圏にブラック・ホールのように吸収されていること。 その緩慢な傾向をうまく捉えたヨーロッパや中近東の機関投資が、いっせいにドル売りと円買いに出たことにある。 したがって、実態は円高傾向を先取りする投機的な資金の動きであるから、日銀が外国為替市場介入を手控えるのは、至極当然な安全策である。 なぜなら、華僑経済圏に吸収された日本円は、ある意味で安定貨幣を持とうとする財閥資本の戦略的な意思があるわけだから、なかなか市場には出てこない。 ブラックホールのようにどんどん吸収されてしまう。 だから市場には日本円がいつも欠乏し、ゆっくりとした円高傾向が進んでいくことになる。 しかし、これはあくまで資産価値の保全を目論む長期戦略であるため、あまり急激な円高が進むと、それ以前に仕入れた株価先物や外国為替予約などが被害を受ける。 だから、ゆっくりと円高がすすむように華僑経済圏は動いているわけ。 逆にヨーロッパで、どうしてドル売り・ユーロ売りが先行して、機関投資が円買いに走るのか。 それはアメリカの経済対策の失敗が誰の目にもわかるところにきて、アメリカの経済政策の責任者、財務省幹部・アメリカ連銀幹部が責任回避の発言をしていること。 また、ヨーロッパでもギリシャの経済破綻が予想以上に深刻だという反面、実はバブル景気にわきかえっているロシア経済が、あちこちにほころびを露呈しており、東欧経済の振興も障害が出ているという先行きの不安がある。 そこで地球の反対側で資産価値の保全のために買われている日本円を、こっちでも買っておこうという資産逃避の人気が集中する。 日本政府がヨーロッパで円建て国債を発行すると、これは一種の政府紙幣であるから、機関投資はユーロ円を放出して、国債購入に転換する経済行動をとる。 これは国内市場も同じで、最高額1万円の日銀券は金融機関の資産保存には不向きで、1枚が1千万円単位の国債は金庫のスペースを大幅に節約することができる。 巨万のユーロ円を抱えているヨーロッパ、特にスイスの金融機関は日本円のキャッシュより、国債を持つほうが金庫のスペースの節約になることに敏感に反応するはず。 松下幸之助さんは、地域主権の原資として、九州・沖縄・北海道・四国など、本州以外の地域は外国で自主的に債券を発行して、独立国のような経済建設戦略をとるべきだと提言していた。 それは同時に、恒久的な円高抑止対策になるわけだ。
Aug 25, 2010
松下政経塾で、本格的に松下幸之助思想研究を始めたころの昔話。まず政経塾で使われていた幸之助さんの思想関係を紹介する冊子を見たが。これはもうムチャクチャな内容だった。今から考えても、無意味な言葉の羅列でしかない。当時、東京都議会議員だった山田宏さんは、「幸之助さんの言葉は現代語に翻訳が必要だ。だからPHPのような松下語録では何の役に立たない。幸之助さんの思想を旗印にするには、カール・マルクスの《共産党宣言》みたいな政治綱領に具体化する必要がある」と断言した。まさに天才的な慧眼といわねばならない。そればかりではなく、松下さんへの心底の敬意と愛情がなければ、山田さんは「幸之助さんのアイデアは必ず日本の針路をちゃんと指し示しているはずだ」という考えは持たなかったであろう。PHP研究所がいまだに「主座を保つ」、「和を貴ぶ」などの松下語録を、きちんとした学術用語に置換できず、解説ばかりに手間をとられて、みっともなく振り回されているのは滑稽だが。それはいたずらにPHPの普及を妨げていると言わねばならない。現在の地域主権論も、松下語録では《置州簡県》であった。いうところは、道州制を実施して、県庁の組織は簡略化しなさい、という意味。昭和30年代当時のPHP研究所(松下幸之助さんと創立メンバー7人の所員たちが巨大な庭園を背景にした京都・南禅寺前・白川道の真々庵書院でブレイン・ストーミング会議をしていた)明治時代の廃藩置県に習って、地方制度を改革しようという議論になったとき、幸之助さんが《今度は廃県置州やな》と発言。しばらくして、「いや県の組織も州政府の出先機関として必要な場合もあるから、まったく廃止するとかえって不便じゃないですか」という異論があり、《ほな、置州簡県でええわな》ということでつくりだされた。アメリカの雑誌《LIFE》に紹介された真々庵書院でのPHP研究の様子。正面左が錦所長(当時)、右が政経塾教科書を執筆した人。いわば思いつきのキャッチフレーズみたいなもので、対外的には何ら説得力も客観性もない、PHPの仲間うちだけで通用する《松下語録》がどんどんと生産される。このような《語録》は、当時のメンバーが初期段階で、「いやいや幸之助さん、そんなキャッチフレーズまがいのスローガンじゃ松下の工場内の張り紙と同じです。若手の政治学者や経済学者の卵を呼んで、どんな形で主張したら世の中に浸透しやすいか、考えて意見してもらいましょう」と提案すれば、その生産様式は改善されていたと思うが。江口先生は社会科学系の出身だが、他の所員たち、特に創立メンバーたちはほとんど哲学・文学の学部生の出身だから、経営の神様が語る政治経済については用語の修整がきかない。とにかくPHP研究所は創立当時から失敗していた理想工場だった。失敗している部分を補う形で、別な部分を出版企業として拡大して、現在の姿になっている。そのPHPの失敗部分が政経塾にも持ち越されてしまったわけ。当時の政経塾生たちの《松下幸之助》とは、お金持ちで、すごく熱心で、でも言葉がハッキリしない老人で、自分の体験した昔話を語りながら、でも「自分の理想とする政治はこういうことだ」とはきちんと話したことはない、対話や問答はするが、一から十まで自分の思想を解説しない。もちろん、それだけの余力が90才の老人にあろうはずもない。対話できたことが奇跡なのだ。どうして政経塾のみんなが松下幸之助さんの世話になりながら、幸之助さんの理想の政治のあり方にまったく関心がないのか、不思議だったが、この《政経塾教科書》がジャマをしていたわけだ。ところが、これを編集したのがPHP研究所の創立メンバー(江口克彦先生は研究所の第一次拡大期の入社だから、大先輩に当たる)の一人で、同じ創立メンバーだった山口徹研究本部長(当時)も年下だったらしいから、「あの教科書じゃ仕方ないでしょう」と私がハッキリ言うと、江口先生も、山口先生も「そんなことはないよ」とやたら防戦するのだった。これではどうにもならない。しかし、江口先生は、私がPHP研究所内にあった根源神社に一心に祈りを捧げていると、「幸之助さんはいつもこうして拝礼していたのだよ」と、近くの掃除棚らしき扉から無造作に入れてあった円座を引っ張り出して、禅僧のように胡坐を整えて、手を合わせる幸之助さんの姿を再現してくれた。これは一生の御恩である。山口先生も「こいつは見所がある」と感じていただいたのか、「幸之助さんがPHPにあれだけ膨大な発言記録をすべて保存されたのは、死んだ後になっても、キミのように関係資料を全部検討しようという意欲を持った人間が現れると思っていたからに違いないな」といった上で、「しかし、幸之助さんの研究で、いまの電産(パナソニック)の経営に批判的なことを書いたり、話したりするのは困るよ。それは約束してくれ」まあ、この話も時効でしょう(笑)。
Aug 4, 2010
松下幸之助の“これが理想的な国家だ”佐藤悌二郎本部長 Voice6月25日(金)http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100625-00000003-voice■批判と問題この佐藤さんの論文は、ある意味で現在のPHP研究所の中身をさらけ出してしまったという印象がある。佐藤本部長はまったく知らない人ではない。何十年も前になるが、何度か研究会に同席させてもらったし、その言説も著書も拝読した。私の著書も献呈した。しかし、当時から「これはおかしな方向に進んでいるな」という予感はしていた。「それは違うんじゃないですか」と疑問を呈したことはあったが、聞き届けてもらえなかったようだ。1.主題が結論になっていない。「PHP研究所では、松下が描いた2010年を迎えたこの機会に、松下の“夢”とはどのようなものだったのかを振り返るとともに、それが現在、どの程度まで実現に近づいているのかを検証することにした。」という主題で始まる論文。しかし、結論部分では、「現実の2010年を迎えたいま、松下の描いた理想像を議論の取っ掛かりにして、われわれが現在置かれた状況、行なっていることを虚心坦懐に反省してみることもまた、意味のあることではなかろうか。」これは「一応参考にして、反省してみようじゃないか」という曖昧模糊とした感想にすぎない。2.この論文は研究か祖述かレジュメか本論は、松下幸之助が1976(昭和51)年にPHP研究所創設30周年記念事業の一つとして著した『私の夢・日本の夢21世紀の日本』の忠実な紹介にとどまっている。いわばレジュメである。内容要旨の祖述であれば、冒頭部分で紹介する◇国としての方針・目標を確立せよ◇という項目を、終章の首相演説で再説・再紹介するような二度手間はしない。研究的な配慮を加えた内容紹介ならば、「物語」として組み立てられた筋立てを換骨し、最初に指導者の理念たる国家方針・国家目標の理念内容を分析、それがどのように理想国家の建設に生かされているかを順序立てて、配列し直すのが当然の処置である。3.「新しい人間観」についての理解本論は「適切な人間観に立脚して政治や経済、教育や宗教などいっさいの活動を行なってこそ、それらが真に当を得たものとなり、人間の幸せに結びつく」という松下幸之助の理念を紹介している。が、これは「単に右から左に書き写しただけじゃないか」のような疑問がある。たとえば、「松下電器産業(現・パナソニック)グループでは、毎年1月10日にその年の経営方針を発表し、全社員が心を一つにしてそれらの方針実現に力を尽くすのが恒例」という実例を紹介しているが、この恒例行事の発祥と発展のプロセスが、松下幸之助の人間観の形成と信念の確立とどう関係しているのか、まったく脈絡が示されていない。松下幸之助の膨大な思想体系は、天に聳え立つ巨樹の枝葉と、大地を走りめぐる太い根脈であり、田んぼの周りに勝手に生えている雑草の群れではない。佐藤本部長の理念研究分析は、このように一本一本の箱庭の苗の生長をみるように、松下理念を完全に解体してしまっているのである。4.本論に「書かれなかった部分」について松下幸之助の事業部制などの創案と実施のプロセスにおいても、「新しい人間観」の初期の着想と萌芽が認められうる可能性があるが、それも究明されていない。また理想国家の姿は、まさに「適切な人間観に立脚して政治や経済、教育や宗教などいっさいの活動」をなしとげた状況であるはず。したがって、国際世論調査の結果など、「物語の設定」にとらわれず、『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』が、『新しい人間観』の補論であったという可能性に配慮するならば、両書の間のきちんとした対照・比較を検討した上で、現実の具体例と課題との俎上で検証する方法的なプログラムの再検討が必要であったと考えられる。現在、VOICEに連載されている各論部分においても、社会主義国の代表まで登場する「物語の設定」の解説に紙幅をムダに費やして、幸之助思想に対する理念の紹介は数行にとどまっている。《新しい人間観に立脚した新しい政治》の出現を拒否、拒絶しようとする従来の体制側に存在する根強い偏見や根本的な原理を明らかにしない限り、松下思想の偉大さは検証されないであろう。5.新しい人間観に立脚した政治適切な人間観に立脚して政治や経済、教育や宗教などいっさいの活動を行なってこそ、それらが真に当を得たものとなり、人間の幸せに結びつくという思想は、まさに松下幸之助の偉大な思想を証明する根本理念である。政治、経済、教育、宗教などには、それぞれ適切な人間観の「あるべき姿」があるはずだという提言は、裏を返せば、適切ではない人間観にふりまわされていると「いっさいの活動は真に当を得たものとならず、人間の幸せに結びつかない」という警告になっている。政治や経済、教育のシステムにおける支配的な人間観は、ほとんどは慣習的な発想と、ひきつづく歴代の根拠のない思いつきなどが変遷とともに現実の体制として成立したもので、その是非はほとんど客観的に検討されていない。しかし、繁栄、平和、幸福という全人類共通の、明確な尺度で、合目的な人間観の再構成と再提示をおこなうことは可能であり、それによって社会生活全般のシステムが包括的に改善される契機が生まれる。この提言こそが、新しい人間観に立脚した国家社会生活全般の改装を提示していると考えられる。しかるに、PHP研究所は、それとは違った後ろ向きの退歩を進んでいるようである。
Aug 4, 2010
全1156件 (1156件中 1-50件目)