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ここに私が再び訪れた本当の理由は「平和祈念像」に手を合わせることであり、「被爆のマリア」に出会うことであった。
私が小学校5年生の夏休みに弟と2人で当時熊本に住んでいた祖母を訪ねた。祖母は福岡県ちかくの小さな海沿いの町に住み、小さなお店を開いていた。よくテレビや映画に出てくる昭和時代の子供の記憶にある様な駄菓子屋で、今考えるとお店の経営はどうだったのか心配してしまうほどお客さんを見た記憶がない。それでもほそぼそとお店を続けて、私たち姉弟にコカコーラやファンタと書かれたTシャツをたまに送ってくれていた。
この海の塩のにおいの風が吹くこの町に滞在中、私と弟は近所の遠縁にあたる同世代の兄弟たちと遊んだ。朝、ラジオ体操に行ったり、海に行ってシャコを採ったりしたのを覚えている。そしてその町からフェリーに乗って長崎に行った。いつも遊んでいる坊主頭の兄弟2人とその御姉ちゃんも一緒だった。生き返りのフェリーの中、騒いでいたようなうろ覚えなのだが一つだけ今でもはっきり覚えていることがある。それは長崎原爆資料館に展示された絵。白黒の写真ではなく赤と黒のオドロオドロした大きな絵がとても怖かった。もしかしたらその絵の人たちが今にでも飛び出てくるような気がしてならなかったのだ。エレベーターに乗った私たちはちょっとした振動に大きな悲鳴をあげたのだった。

長崎の原爆は浦上天主堂近くに投下された。昨年12月上映したアニメ映画『アンジェラスの鐘~ナガサキ1945~』の舞台となったのがこの辺りだ。そのアンジェラスの鐘は見る事は出来なかったが『被爆のマリア』像には会うことが出来た。浦上天主堂被爆マリア像チャペルに入ると3人の女性が声を出して祈りを捧げていた。原爆投下とは関係が無く、この土地にキリスト教がキリシタンと呼ばれていた時代から信仰されてきたことを肌で感じるような瞬間だった。
新しいチャペルの祭壇に黒こげの顔にうつろな目をしたマリアの顔の部分だけが祭壇に祭られていた。その表情は、この世今でも悲しんでいるような、人間の愚かさを嘆いているような、そして二度とこのようなことが起きてはいけないのだとも訴えかけているようにも思えた。そんなマリア像なのだ。私は女性たちの祈りがこだまするチャペルに暫し腰を下ろして祈りを捧げた。
あなたの悲しみは人として決して忘れてはいけないことなのだ、と。
平和公園にはローマの神様のような平和祈念像が雄々しくこの土地を守るように建てられている。昔訪れた時もこの神の愛と仏の慈悲を象徴し、原爆の脅威を垂直に揚げた右手で、平和を水平に伸ばした左手で示すこの祈念像の前で写真を撮った。あの時は夏休みで人が多く訪れていたが、4月中旬の平日に訪れている人はまだらだった。あたたかい太陽が眩しく、公園内のつつじが綺麗に咲きだし、木々が青々としていた。
その夜入ったやきとり屋で若いご主人とその奥さんと話す機会があった。ご主人は地元長崎生まれの長崎育ち。ヒロシマを訪れた時に思ったそうだ。ヒロシマの原爆ドームは街中にあり、いつも待ちの人たちの目に触れ、ドーム前の元安川のほとりは夕方になるとギターを持った若者が歌いそこに人が集まるような光景が見れたという。実際私も昨年訪れた時にそんなのどかな光景を見てきた。けれど、長崎原爆投下地点はすこし外れた場所にあるから、市民がいつも行く場所ではないのだという。けれど私にとっては60年前の戦争とまだ共に生きている街だと感じた。

一本足鳥居

被爆のクスノキ
ヒロシマには原爆ドームぐらいしかその跡は残っていない。けれどこの長崎には平和公園の近くに爆風で片方が飛ばされそのまま残っている一本鳥居や山王神社の被爆したクスノキが民家の中にそこだけ時が止まったように残っているのだ。そのクスノキはまるで被爆者を象徴するかのように現在治療中だという。疲れていてもまだそこに立っいる。人も植物も「生きる」力は奇跡なのだ。
きっと日本のほとんどの地で語られなくなり、忘れられていく戦争。
でもここ長崎では終わっていない、長い長い戦争がまだ続いている。

Happy New Year From New York ! Jan 1, 2010
ニューヨークより Jul 14, 2009
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