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2006年07月27日
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庫裏に入る。
庫裏は明け放してある。
盗人(ぬすびと)はおらぬ国と見える。
狗(いぬ)はもとより吠(ほ)えぬ。

「御免」
と訪問(おとず)れる。
森(しん)として返事がない。

「頼む」
と案内を乞う。


「頼みまああす」
と大きな声を出す。

「おおおおおおお」
と遥かの向(むこう)で答えたものがある。
人の家を訪(と)うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。
やがて足音が廊下へ響くと、紙燭(しそく)の影が、衝立(ついたて)の向側にさした。
小坊主がひょこりとあらわれる。
了念(りょうねん)であった。

「和尚(おしょう)さんはおいでかい」

「おられる。何しにござった」

「温泉にいる画工(えかき)が来たと、取次(とりつい)でおくれ」



「断わらないでもいいのかい」

「よろしかろ」

余は下駄を脱いで上がる。

「行儀がわるい画工さんじゃな」



「下駄を、よう御揃(おそろ)えなさい。そらここを御覧」
と紙燭を差しつける。
黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計(みはから)って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認(したた)めてある。

「そおら。読めたろ。脚下(きゃっか)を見よ、と書いてあるが」

「なるほど」
と余は自分の下駄を丁寧に揃える。

和尚の室(へや)は廊下を鍵(かぎ)の手(て)に曲(まが)って、本堂の横手にある。
障子(しょうじ)を恭(うやうや)しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、

「あのう、志保田(しほだ)から、画工さんが来られました」
と云う。
はなはだ恐縮の体(てい)である。
余はちょっとおかしくなった。

「そうか、これへ」

余は了念と入れ代る。
室がすこぶる狭い。
中に囲炉裏(いろり)を切って、鉄瓶(てつびん)が鳴る。
和尚は向側に書見(しょけん)をしていた。

「さあこれへ」
と眼鏡(めがね)をはずして、書物を傍(かたわら)へおしやる。

「了念。りょううねええん」

「ははははい」

「座布団(ざぶとん)を上げんか」

「はははははい」
と了念は遠くで、長い返事をする。

「よう、来られた。さぞ退屈だろ」

「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」

「いい月じゃな」
と障子をあける。
飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭(ひらにわ)の向うは、すぐ懸崖(けんがい)と見えて、眼の下に朧夜(おぼろよ)の海がたちまちに開ける。
急に気が大きくなったような心持である。
漁火(いさりび)がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化(ば)けるつもりだろう。

「これはいい景色。和尚(おしょう)さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」

「そうよ。しかし毎晩見ているからな」

「何晩(いくばん)見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」

「ハハハハ。もっともあなたは画工(えかき)だから、わしとは少し違うて」

「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」

「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨(だるま)の画(え)ぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この軸(じく)は先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」

なるほど達磨の画が小さい床(とこ)に掛っている。
しかし画としてはすこぶるまずいものだ。
ただ俗気(ぞっき)がない。
拙(せつ)を蔽(おお)おうと力(つと)めているところが一つもない。
無邪気な画だ。
この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。

「無邪気な画ですね」

「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。気象(きしょう)さえあらわれておれば……」

「上手で俗気があるのより、いいです」

「ははははまあ、そうでも、賞(ほ)めて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」

「画工の博士はありませんよ」

「あ、そうか。この間、何でも博士に一人逢(お)うた」

「へええ」

「博士と云うとえらいものじゃろな」

「ええ。えらいんでしょう」

「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」

「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」

「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」

「どこで御逢いです、東京ですか」

「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」

「つまらんものですよ。やかましくって」

「そうかな。蜀犬(しょっけん)日に吠(ほ)え、呉牛(ごぎゅう)月に喘(あえ)ぐと云うから、わしのような田舎者(いなかもの)は、かえって困るかも知れんてのう」

「困りゃしませんがね。つまらんですよ」

「そうかな」

鉄瓶(てつびん)の口から煙が盛(さかん)に出る。
和尚(おしょう)は茶箪笥(ちゃだんす)から茶器を取り出して、茶を注(つ)いでくれる。

「番茶を一つ御上(おあが)り。志保田の隠居さんのような甘(うま)い茶じゃない」

「いえ結構です」

「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり画(え)をかくためかの」

「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」

「はあ、それじゃ遊び半分かの」

「そうですね。そう云っても善(い)いでしょう。屁(へ)の勘定(かんじょう)をされるのが、いやですからね」

さすがの禅僧も、この語だけは解(げ)しかねたと見える。

「屁の勘定た何かな」

「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」

「どうして」

「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、臀(しり)の穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」

「はあ、やはり衛生の方かな」

「衛生じゃありません。探偵(たんてい)の方です」

「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」

「そうですね、画工(えかき)には入(い)りませんね」

「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介(やっかい)になった事がない」

「そうでしょう」

「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄(す)ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」

「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」

「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑(ぞうふ)をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」

「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」

「それじゃ画工になり澄したらよかろ」

「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」

「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊(とま)っている、志保田の御那美さんも、嫁に入(い)って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法(ほう)を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳(わけ)のわかった女になったじゃて」

「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」

「いやなかなか機鋒(きほう)の鋭(する)どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安(たいあん)と云う若僧(にゃくそう)も、あの女のために、ふとした事から大事(だいじ)を窮明(きゅうめい)せんならん因縁(いんねん)に逢着(ほうちゃく)して――今によい智識(ちしき)になるようじゃ」

静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応(こた)うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶(うやむや)のうちに微(かす)かなる、耀(かがや)きを放つ。
漁火(いさりび)は明滅す。

「あの松の影を御覧」

「奇麗(きれい)ですな」

「ただ奇麗かな」

「ええ」

「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」

茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底(いとぞこ)を上に、茶托(ちゃたく)へ伏せて、立ち上る。

「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰(おかえり)だぞよ」

送られて、庫裏(くり)を出ると、鳩がくううくううと鳴く。

「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」

月はいよいよ明るい。
しんしんとして、木蓮(もくれん)は幾朶(いくだ)の雲華(うんげ)を空裏(くうり)に(ささ)げている。
寥(けつりょう)たる春夜(しゅんや)の真中(まなか)に、和尚ははたと掌(たなごころ)を拍(う)つ。
声は風中(ふうちゅう)に死して一羽の鳩も下りぬ。

「下りんかいな。下りそうなものじゃが」

了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。
和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。
気楽なものだ。

山門の所で、余は二人に別れる。
見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃(いしだたみ)の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。



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最終更新日  2006年07月27日 00時59分02秒
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