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2006年09月04日
zzki
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tuzuki
九
裏の坂井と宗助(そうすけ)とは文庫が縁になって思わぬ関係がついた。
それまでは月に一度こちらから清(きよ)に家賃を持たしてやると、向(むこう)からその受取を寄こすだけの交渉に過ぎなかったのだから、崖(がけ)の上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親みは、まるで存在していなかったのである。
宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の云った通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下を検(しら)べに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米(およね)は始めて噂(うわさ)に聞いた家主の顔を見た。
髭(ひげ)のないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧(ていねい)な言葉を使うのが、御米には少し案外であった。
「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意した。
その晩宗助は到来の菓子折の葢(ふた)を開けて、唐饅頭(とうまんじゅう)を頬張(ほおば)りながら、
「こんなものをくれるところをもって見ると、それほど吝(けち)でもないようだね。他(ひと)の家(うち)の子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」と云った。
御米も、
「きっと嘘よ」と坂井を弁護した。
夫婦と坂井とは泥棒の這入(はい)らない前より、これだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に接近しようと云う念は、宗助の頭にも、御米の胸にも宿らなかった。
利害の打算から云えば無論の事、単に隣人の交際とか情誼(じょうぎ)とか云う点から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇気を有(も)たなかったのである。
もし自然がこのままに無為(むい)の月日を駆(か)ったなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下に互の家が懸(か)け隔(へだた)るごとく、互の心も離れ離れになったに違なかった。
ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、獺(かわうそ)の襟(えり)の着いた暖かそうな外套(マント)を着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。
「御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ」と云いながら、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)に巻き付けた金鎖を外(はず)して、両葢(りょうぶた)の金時計を出して見せた。
規則だから警察へ届ける事は届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいに諦(あき)らめていたら、昨日(きのう)になって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分の失(な)くしたのが包(くる)んであったんだと云う。
「泥棒も持ち扱かったんでしょう。それとも余り金にならないんで、やむを得ず返してくれる気になったんですかね。何しろ珍らしい事で」と坂井は笑っていた。
それから、
祖母(ばば)が昔し御殿へ勤めていた時分、戴(いただ)いたんだとか云って、まあ記念(かたみ)のようなものですから」と云うような事も説明して聞かした。
その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、大変談話の材料に富んだ人だと思わぬ訳に行かなかった。
後(あと)で、
「世間の広い方(かた)ね」と御米が評した。
「閑(ひま)だからさ」と宗助が解釈した。
次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例の獺(かわうそ)の襟(えり)を着けた坂井の外套(マント)がちょっと眼に着いた。横顔を往来の方へ向けて、主人を相手に何か云っている。主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。宗助は挨拶(あいさつ)をすべき折でもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の眼が往来へ向いた。
「やあ昨夜は。今御帰りですか」と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想(あいそ)なく通り過ぎる訳にも行かなくなって、ちょっと歩調を緩(ゆる)めながら、帽子を取った。すると坂井は、用はもう済んだと云う風をして、店から出て来た。
「何か御求めですか」と宗助が聞くと、
「いえ、何」と答えたまま、宗助と並んで家(うち)の方へ歩き出した。
六七間来たとき、
「あの爺(じじ)い、なかなか猾(ずる)い奴ですよ。崋山(かざん)の偽物(にせもの)を持って来て押付(おっつけ)ようとしやがるから、今叱りつけてやったんです」と云い出した。
宗助は始めて、この坂井も余裕(よゆう)ある人に共通な好事(こうず)を道楽にしているのだと心づいた。そうしてこの間売り払った抱一(ほういつ)の屏風(びょうぶ)も、最初からこう云う人に見せたら、好かったろうにと、腹の中で考えた。
「あれは書画には明るい男なんですか」
「なに書画どころか、まるで何も分らない奴です。あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。骨董(こっとう)らしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋(かみくずや)から出世してあれだけになったんですからね」
坂井は道具屋の素性(すじょう)をよく知っていた。
出入(でいり)の八百屋の阿爺(おやじ)の話によると、坂井の家は旧幕の頃何とかの守(かみ)と名乗ったもので、この界隈(かいわい)では一番古い門閥家(もんばつか)なのだそうである。瓦解(がかい)の際、駿府(すんぷ)へ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然(はっきり)宗助の頭に残っていなかった。
「小さい内から悪戯(いたずら)ものでね。あいつが餓鬼大将(がきだいしょう)になってよく喧嘩(けんか)をしに行った事がありますよ」と坂井は御互の子供の時の事まで一口洩(も)らした。
それがまたどうして崋山の贋物(にせもの)を売り込もうと巧(たく)んだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――
「なに親父(おやじ)の代から贔屓(ひいき)にしてやってるものですから、時々何(なん)だ蚊(か)だって持って来るんです。ところが眼も利(き)かない癖に、ただ慾ばりたがってね、まことに取扱い悪(にく)い代物(しろもの)です。
それについこの間抱一の屏風を買って貰って、味を占めたんでね」
宗助は驚ろいた。けれども話の途中を遮(さえ)ぎる訳に行かなかったので、黙っていた。
坂井は道具屋がそれ以来乗気になって、自身に分りもしない書画類をしきりに持ち込んで来る事やら、大坂出来の高麗焼(こうらいやき)を本物だと思って、大事に飾っておいた事やら話した末、
「まあ台所(だいどこ)で使う食卓(ちゃぶだい)か、たかだか新(あら)の鉄瓶(てつびん)ぐらいしか、あんな所じゃ買えたもんじゃありません」と云った。
zzku
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最終更新日 2006年09月04日 20時15分11秒
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