山口小夜の不思議遊戯

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2006年01月13日
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 豊は歯磨きのためのコップを手にしたまま、庭の隅にいた。
 そこはいつも薄暗い、日陰になっている場所だ。

 ──・・・・あ。
 覗き込んで、確かめる。

 ──水やってあるや。

 雑草に混じって、一輪だけ花が咲いていた。
 黄色い花だ。なんという名前なのか知らない。葉っぱなどはところどころ枯れて、蟲に喰われていた。だが不思議と綺麗な花をつけているので、夏の前から毎朝水やりをするのが、豊の日課になっていたのだ。

 豊が目覚めた昨夜から、どしゃぶりの雨は不思議に途絶えていた。しかし、なぜだかこの花の上だけに水が滴になって、ころころと玉を結んでいる。


 あんまりおかしいから、このことはみんなにはナイショにしといてあげるよ。

 ふと背後に気配がして、豊はふり返らずに語りかけた。

 ──ねえしずさん・・・・。
 ──・・・・ああ。
 ──三時間だよ。
 ──・・・・?
 ──しずさんて、そんなに長いの?

 静の片眉がぴくりと跳ねた。だが、すぐに余裕の面持ちで涼しく笑う。

 ──終わった頃合いに、自然に切れるよう注連縄に呪(しゅ)がかけてあったろう?
 ──やっぱり。基準は自分だもんな・・・・さすがは粘着気質。

 冷ややかな口調の応酬の中には、しかし妙に親密な、じゃれ合うような気配が混ざりこんでいる。


 豊はふり返ってくると、黒いTシャツに古着のデニムという、めずらしくラフな恰好をして縁側に長い脚を組んでいる静を眺め、くすっと笑った。

 ──【うろ様】ってね、しずさんに似てたよ。
 ──なんだと!? 不本意だぞ。かなり・・・・。

 滝洞に入ってからの状況は、昨日一晩で兄たちに話している。
 ある意味、豊も‘お喋り’だ。自分のなかで問題になったことを、ずっとお腹にかかえておくのは苦手で、きちんと整理のついた部分ごとに表に出さずにはいられないのだ。



 ──飛遊櫛尊のことだけど・・・・ふつう人は、何人もの相手を同時に愛せるものなのかな。
 ──そら、人によるだろう。
 ──はるさんなら?
 ──わしか?わしなら、こちらを勃てればあちらが勃たず(←字が違う!)・・・・ってことはあるだ。
 ──マジメに答えろっ!
 ──わしはこれまでの生涯で、マジメだったことは一度としてない!
 ──・・・・。
 ──うろ様にも言ってあげたいぜよ。‘愛が終わった’と‘愛が終わりかけてる’は別だからねって。

 相変わらず──豊にとっては、たいして実りのある話し合いでなかったことは確かなのだが。

 ──そして今日。
 朝から庭先で舌戦が始まるかと夜叉のような眼を据えてきた静は、だが弟の言葉に肩すかしをくらうことになる。

 ──注連縄か・・・・。

 なにを思っているのか──御魂鎮の儀の一夜を思っているのか、ひとりごちている豊。
 そして、次の瞬間には、まったく別なことを言ってくる。

 ──注連縄っていえばさ・・・・聖書に、方舟の話ってあるでしょう?
 ──・・・ああ・・・?
 ──なんか相生って、それみたいだと思わない?
 ──・・・・?

 静の眉間が曇っている。
 (しずさん、そんな不思議そうな顔をしないでよ。難しく考えることじゃないんだ。単純で、明快なことを言いたいだけ)。

 ──だってこの里、ノアの方舟の感じにすごく近いような気がする。そんなふうにちょっと思っただけだよ。

 ──方舟か。
 ──うん。外と切り離された、一部の者だけの絶対空間。注連縄を張り巡らされた聖域って呼ぶ人もいるけど・・・・箱舟のほうが似合う。

 豊の言葉に、もともとつくりが硬質な理系美人の顔が、石像みたいにしずかにおさまっていく。
 そして透き通るような目で、豊を見る。そして庭の花を見る。

 ──そうだな・・・不安定で頼りない・・・だが愛する者たちだけを乗せた・・・・嵐を漂う舟そのものかもしれない。
 ──でもさ、箱舟には鳩が来たっちゃが?

 その言葉に、立ち上がって庭先におりようとしていた静の足が、ふと止められる。
 ──・・・・・あ、
 ──あのさ、もしこれが本当の箱舟なら、洪水が過ぎた後に世界は滅びちゃうよな。
 ──どうして?
 ──生き残ったのがわしたちだけだったら、子孫繁栄なんて出来っこないからさ。
 ──あぁ・・・・そうかもしれない・・・・。

 石段をおりてきた静は、弟のそばで僅かに笑ってみせた。その笑顔は少し切なげに見える。

 ──だから、わしは鳩になりたい。
 ──なんだって・・・・。
 ──しずさん、わしがいま思っていることをしずさんには話しておきたいっちゃ。

 豊はいつに変わらぬ淡々とした表情のまま、兄を見上げるような姿勢でそんなふうに切り出した。

 静はなんらかの予感めいたものを感じて、目を見開く。
 だが、いま耳にした言葉に恐怖をおぼえていたものの、同時に語り部の足もとで耳をかたむける者のように、その先を知りたかった。

 彼は自分の心の動きに、なすすべなくため息をつく。そして目の隅で弟をみつめ、弟も見つめ返した。
 それが合図だったかのように、豊は続けた。

 ──守宿だからといって、土地に縛られんでもええのだが。住み着いているあいだはよくて、いなくなるとその家が没落するわけもなし・・・・守宿は東北の座敷わらしじゃないんだ。わしはいずれこの里を出ようと思うとる・・・・。

 ──させない手立ては山のようにあるぞ。
 豊の視線を受け止めた静は、むしろ楽しそうに言う。
 ──それで・・・・おまえはどこに行くつもりだ?
 ──わからない。ここではない、どこか遠くへ。
 静寂が落ちた。今度は長いあいだ、兄は動かなかった。

 沈黙がふたりの間で耐えがたいまでに重くなったとき、また豊がぽつんと言った。

 ──鳩はオリーブを銜えて戻るんだ。
 ──ああ?
 ──いつか必ず戻るから。実りを携えて。わしは里のまわりに広がっている世界のこと、この目で確かめたい。もしかしたら、そこにわしの道が、わしの会うべき人々がいるのかもしれん。定められた生き方でなくて、自分の信じる道を歩きたい。
 ──・・・・。

 静は黙ったままでいる。
 わずかに傾けた顔は、気のせいだろうか──豊を見つめるうちに微妙な感情で翳った。

 ──注連縄・・・・結果、聖域か・・・・・。
 静は一息つくと、ぽつりともらすようにつぶやいた。

 (なぜぼくに?・・・・ほんとうはおまえを生け簀に入れて、注連縄張っておきたいのはぼくの方なのに)。

 静は知っている。人を人とも思わない豊を前にすると、誰もがまず驚く。心を奪われてしまう。
 地球でしか生きられない人間のために設けられた、異次元との接点のよう。豊は気ままに魔力を行使して、異世界のまぼろしを垣間見せてくれる。

 透明な、柔らかな、冷たい膚をすれあわせ、異界を行き交う精霊たち。
 ひややかであることだけが意味を持つ、静かな熱狂の、手強い世界。

 やはり放してやらねばならないのだろうか。
 弟につけたひそかなあだ名は水妖。飼い慣らした鯉でも、水を得ればあとも見ずに潜り去っていくように、残されたほうの気分など考えもしない。

 静は神経をとぎすまし、これまで接してきたつもりだ。
 このわがままな精霊に近づきを許されるには、自分の中ではせめて最大限にセンシティブである必要があった──それかほかの兄弟のように最大限におおらかであるか。なにしろ精霊という存在は、たいがいの人間には用がないと思っているのだから。

 すべてに執着のないようにふるまう豊・・・・ひるがえって、それはぜんぶの存在を、うっすらと愛していることに──静は気づいているのだろうか。胎児だって魚。みんな、みんな海から生まれたことを忘れているだけ。

 満ち潮、誰もが血のなかに隠し持っている月の光。
 放流し、回遊させ──。

 ──まんざら、冗談でもなさそうだ。
 静が豊に恨みがましい眼を向ける。灰色と紫の眼で、自分こそ猫の妖怪のようだ。

 兄弟でありながら、初めて見るような知性にきらめく緑の瞳から眼をそらし、静は唇を噛みしめた。
 弟が拝殿で目覚めた時から意識はしていた──考えないでおこうと振り捨ててきたものが脳裏をかけめぐり、この時間を追い抜こうとする。

 だが、静が結論を逡巡した瞬間──今まで凪いでいた風が突然うねりを上げた。
 豊の手から、洗面のために携えていた晒の布が攫われる。

 風をはらみ、陽光を受けて白い晒が空を舞う。青い空を背負って、鮮やかなコントラストを描く。
 それは一瞬、

 ──鳩に、似ていたな。
 静がつぶやいた。

 布製の鳩は、自ら山の方へ飛び去っていった。すとん、と鳥居の向こうに姿を消す。
 取りに行こうか、とつぶやく豊に、

 ──おまえのものを、山の神が欲しがったんだろう。あきらめろ。
 と静が真顔で答え、
 ──さあ、もう中に入れ。まだ身体が本調子ではないんだ。
 室内をあごでしゃくり、そこに視線を定めたまま、おだやかに言い切った。

 ──おまえはよく話した、ゆたか。おまえはいつでも、好きなときにこの里から離れていける・・・・だが、世界中の者たちが、おまえという存在を探し求めていることを忘れるな。
 言い募るように言葉をつむぐ静は、かすかに声をはずませていた。

 ──そして、あらゆる時間、あらゆる場所で彼らが見つけるのは、いっさいを調和させる力を持つ、平和の君だ。おまえの名は、この地上に仇なす者との和解を求める人々がいるかぎり、その心のなかに生き続けるだろう。ぼくたちがそう語り継いでいこう。

 豊の胸に、兄の言葉が染みこんでいった。その意味は、今はほとんど理解できないものであっても。

 彼は兄を見上げ、肩越しにそっとつぶやく。
 ──しずさんは、いつも味方だったね・・・・。
 静は弟を見ていなかった。そして、視線を合わせないまま、言った。
 ──成人の後には、どこにでも行くがいい。別にこの国でなくても。

 (あれ・・・・しずさんて、意外と涙もろい?)

 豊の背中に静の手のひらが触れる。そっと押し出してくれる。広い世界に。
 温かい仕草だった。

 ──行け。ここではない、どこかへ。

 ───

 この相生の里に、ひとりの男の初子(ういご)が生まれた。
 こわれもののようななりをした、だが、ひどく靭(つよ)い者が生まれた。
 破壊と調和が、その肩の上にある。
 因習で作り上げられた一族に、おまえのような者が現れてくれた。
 かつて──神に人を捧げるなど、里のしてきたことは間違いだった。
 しかし、最後の最後になって、正しいことの出来る者が生まれた。
 これからの未来は、過去とは違ったものになるだろう。
 彼の言葉は少なく、だがそこに在るだけで誰もが雄弁にその者を語る。
 おまえの調和の不思議な力・・・・その力が未来を大きく変えるだろう。
 今までにない指導者となって。
 彼は統治するよりも、むしろ能力と尊敬によってかの地に住まう者を導くだろう。

 相生の里を抱く国に住まう者たちよ。
 おまえの土地は決して小さなものではない。
 見よ。混乱の世紀に、智慧を武器に戦う者が生まれた。
 かの者の右の手には、調和の灯明が掲げられる。
 それは暗黒の中に立つ、たったひとつの小さな灯(ともしび)。
 その灯火はひとりひとりに分かたれて、やがて全世界を照らすだろう。

 誇るべくんば、汝、かの者をして誇らめ。





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最終更新日  2006年01月13日 05時57分51秒
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