山口小夜の不思議遊戯

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2006年10月09日
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ようこそ楓祭へ!

 青木学院の歴史の中で、決して少なくはない人数の子供たちと接してきた先生たちが、「空前絶後の学年」とよくも悪くも賞していたあたしたちの二年間。そのメンバーの中心に君臨し、個性的といえば個性的に過ぎる仲間たちをたった一声でまとめ上げる小学生のカリスマ。外国人あり、日本人なんだけど日本語のおぼつかない子あり、障害を持つ子あり、スケ番あり、といういわば「なんでもアリ」集団のリーダーであり、ムードメーカーであり、ボケからツッコミ、それこそなんでもこなしていたのが楓という子でした。

 青木の教室では、楓はほとんど先生の補助というポジション。
 初めての授業は、忘れもしない国語の授業でした。なにかの話の流れでご先祖が「人間の三大欲求を挙げてみろ」と尋ねられて、楓即答。
 「食欲、睡眠欲、海水浴」
 その後、先生に向かって楓がヒジをついた姿勢のまま「ご先祖さー、その“海水浴”について質問なんだけど、ふつう“危険日”っていつなの?」
 ものすごい衝撃を受けました。動揺する小夜。すると、別の方向から丁寧に手が上がり、「ご先祖、ぼく、まだセイリがないんだけど」と素っ頓狂な相談が寄せられ、「ちゃうねん! おれ、イナゴとちゃうねん!」とまたどこからか寝言が聞こえ、それを機に授業はどんどん違う方向へ・・・・。かくいう私も、国語の先生を「ご先祖」と呼び、男の子たちの本気ともバカともつかぬ発言に更なるえげつないツッコミを入れることになんのためらいもなくなるのに、そう時間はかかりませんでした(笑)。以下、本に書かなかった(書けなかった)初日ネタ。

 女の子たち「楓ぇ。お風呂入る時、どこから洗う?」


 楓が「おれって衰弱してる?」と思った理由ベスト3
 1:楓はチンするとおいしいらしい・・・という文脈を無意識に英語で作った。
 2:“カテキン玉露茶”というネーミングになにか違う物が見えてしまう。
 3:あんまりしたくなくなった(なにがですか)

 加湿器のそばに湿気取り器を置いて、「どっちが勝つか」とか真剣に実験してたり。かと思うと近所にある行列のできるラーメン屋の“行列”をご先祖が羨ましがれば、すかさず「青木にも作っといたよ」と蟻の行列を作ってみたり。いや~、今突然このことを思い出したんですよ。まったく思い出さずに四半世紀も経っていたんですね。
 今から思うと、楓はそういうネタを思いつくのがうまいというより、思いついたネタに熱中できるという特質を持っていたのでしょう。楓の情熱に引き寄せられて、仲間たちも夢中で彼の後についていきました。もし今、友達の誰かが何かに本当に熱中して、「小夜子今だ! 砂糖を置け!」と叫んだとしたら、私はその友達にそそのかされて蟻の行列を作るに違いありません。情熱こそ、伝染するのです。蟻と角砂糖だけで夢中になれる、単純で、美しいもの──これこそが、かの梶井基次郎が求めてやまなかったものではないでしょうか。

 話は飛びますが、私は外国で死なない程度には英語を喋りますが、日本人のご他聞にもれずあまり文法については自信がありません。そんな私がこれだけはきっちり言えると胸を張れる文法がひとつだけあるんです。それは、「過去形と現在完了の使い分け」。
 これって知ってると重宝する中高生の皆さんも多いんじゃないかと思います。私も最初ぜーんぜんわかっていませんでした。「経験」とか「継続」とか言われても、ピンと来る人って果たしているんでしょうか。英に訊いてみると、彼にとっての現在完了は「まだ終わっていないことについて話すときに使うのや」といいます。でも例えば「大阪に行ったことある?」という質問は過去について訊いているのに、なんで現在完了形を使うの?という疑問が生じるじゃないですか。
 で、本文367頁の時間に楓に訊いてみたところ、「それはね、まだおまえの人生が終わってないからだよ」と即答が返ってきました。
 つまり、「大阪に行ったことがあるかないかは知らないけど、おまえの長い人生のうち、これからも大阪に行く可能性は何度もあるだろ」という想定がされているので、「過去形」は使えない、ということになります。
 「わー、なんかすごく腑に落ちた!」「腑に落ちたって日本語はねーよ!」とすかさず言われてしまいました(“腑に落ちない”が正解)。


 「あとはぜんぶおれがやっておくから──」
 それきり言葉が途切れ、彼は目を閉じて、深い眠りに入っていきました。
 10月10日、みんなでわいわい言いながらお昼ご飯を食べた後、午後1時29分のことでした。
 その時、病室の窓からは二重の虹がかかり、ポーチには二羽の白い鳩が止まっていました。それはそれは平安な光景でした。

 葬儀の後、彼のお父さんが男の子たちを集めて言いました。


 これも葬儀の後のお話。
 お父さんがひそかに隠し持っていたAVを再生したら、「ドラえもん夏休みスペシャル」が新たに録画されていたらしい。
 楓! お父さん、「ドラえもん夏休みスペシャル」を見て、泣いたそうだよ。この親不孝者め!

 よく笑い、よく怒り、元気いっぱいに生きた楓という少年を、これからもずっと身近に感じていてくれるといいな・・・なんて思います。


            今日の日を私とともにいて下さり、ありがとうございました
                                姉貴こと、山口小夜拝

 ───                        

 追:ある日の楓と主治医の先生との会話。

 楓「だーかーら。心肥大の数値は正常なのか異常なのかどっちなんだよっ」
 さと「ああ…正常だよ…正常だけど…違う…異常とか…そんなんじゃなくてさ」
 楓「はあ!? その中学生の恋のような診断はなんなんだ?」

 さて、十年間にわたって楓のツッコミを受け留め続けた主治医の先生より
 ご寄稿いただいております。

 ───

五歳の楓とイシャのおれ 郷田 宰

 フラフープの話をして、五歳の友人の楓に興味を持たせてしまった手前、炎天下の中で何時間もフラフープを探し続ける羽目になったおれは、楓の病室に着くなりばったりと倒れ伏してしまった。楓は欲しかったものが手に入ったし、元気いっぱいである。
 あいにく、彼の保護者は楓の兄を連れてなぜか不在。

 「ね、赤レンジャー、フラフープでおれと勝負だ!」
 ゴレンジャーや仮面ライダーが大好きな楓は、早速戦いを挑んできた。
 「それよか、一緒にお昼寝しようよ」と赤レンジャーとしてはかなり情ない提案をしてみたのだが、やっぱり「ヤダ」と却下された。そしてしばらくはひとりでシャンシャン機嫌よくフラフープを回していたのだが、やがてまた「勝負しよう」と言ってきた。しかたなくよろよろと起き上がり、2本買ってきたうちの1本を回してみた・・・けど、なぜかそれはほとんど回転することなく床に落ちてしまった。

 「おれ、上手にできるよ。むかしは小学校でお昼の全校体操のたびにやってたんだ」と言っていた手前、かなりカッコ悪い。
 いやいや、これは疲れのせいだ。ふたたび倒れ伏しながら、おれは思った。本来のおれなら、まるでコマみたいにぶんぶん回せるんだぜ、と。
 そのうち、ひとりでフラフープを回すのに飽きた楓が、倒れているおれのところにやってきた。
 そして、いきなりおれのシャツをまくり上げ、おれのポケットから出してきた本物の聴診器で、おれのおなかをぺたぺた押し始めた。
 「これはいけない。これはカンビョウです」と、かわいいソプラノ声で、おもむろに診断を下す。
 「これからシジツをします。まずチュウシャです」と宣言してから、シャーペンの先っぽでおれの腕をちくちくする。その後、なにやらギザギザしたおもちゃで、おれのおなかをズイコズイコやり始めた。

 「痛い、痛い。お願いでーす。痛いからやめてくださーい」と叫んでも、「シジツは痛いものです」と冷静に返され、「シジツ」は容赦なく続行された。仕上げはなぜかおもちゃのトンカチでおなかを連打である。もはや呪術だ。
 たまりかねて起き上がると、楓は、満面の笑顔で、言った。
 「あ、直った。フラフープで、勝負しよ」

 ───

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 ───

年表『青木学院物語』の時間的経過

1970年4月
 妹尾飛雁&楓、シンガポールにて誕生 父は緘黙症の前衛芸術家。
 母は不明(おそらく日本人以外の外国人:出産後まもなく失踪)

1971年  青木で集うはずのみんながだいたい誕生。(1972年:姉貴誕生)

1976年 5歳
 楓、心臓疾患が重篤になり、日本で治療を受けるため父の兄夫婦
 に引き取られる。その後最初の大手術。

1978年 1年生
 ヒカリ、父親のネグレクトのため米国人家庭に引き取られる。
 当時、言葉と指の機能が失われている子だった。
 米国名はルーク・ストラドレーター

1979年 2年生  姉貴、鳥取に引っ越す

1980年 3年生
 4年生になっていた楓、二回目の大手術。その後一年間休学。
 翌年に4年生を繰り返すことが決まる。
 11月:チャンピ、総持寺で事故に遭う。
 12月:英、神戸から横浜に引っ越す。

1981年 4年生
 3月:ヒロ、母を亡くす。
 4月:チャンピ、はーやん、千沙子たちが青木に入る。
 5月:楓、ピアノのコンクールでヒロと出会う。以来、仲良しに。
 6月:楓、青木に入る。楓、ヒロと英を青木に誘う。
 7月:楓、正式に和崎家の養子となる。
 (ヒカリの青木初日にヒロが“楓とヒカリは血がつながっているのかな”と
  聞いたのは、ヒロが楓の前姓を知っていたから)
 8月:ヒロがたっちゃんを誘って青木に入る。

1982年 5年生  4月:姉貴、横浜に戻る
           11月:姉貴が青木に入る

1983年 6年生
 6月:ヒカリ、シカゴの小学校卒業後、横浜の日本人家庭に引き取られる。
    (養子縁組をしなかったので本姓は変わらず)
 7月:楓、青木でヒカリと再会する。
    (おそらく、青木はヒカリが探し当てた。楓に会いたかったんだよね)

1984年 中1
 入学先の中学・高校を巻き込んで“楓旋風”が巻き起こる(笑)
 楓に声をかけそびれている先輩をふり返って「おれになんか用スか?」
 と見上げられて先輩ったら真っ赤になっちゃった☆とか(笑)。

 姉貴、三回目の大手術で入院中の楓に『青木学院物語』の草稿を発見される。
 その後、章が出来上がる都度に校正してもらう。

1985年 中2  8月:日航機墜落の日、楓入院。
         楓の養父母のほか、ヒカリが身のまわりのほとんどの世話をする

 10月10日(木) 午後1時29分 楓、永眠
         楓のクラスでは先生・生徒とも授業にならず、一週間休講が続く。

1988年 高2  姉貴、『青木学院物語』をスパイラル・ノートに書き起こす。


これからの年表は、皆さまとともに──







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最終更新日  2006年10月10日 00時46分39秒 コメント(22) | コメントを書く


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