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『大平光代』さんからたくさんの感動をいただいた。
波乱万丈の半生を描いた自伝『だから、あなたも生きぬいて』を発表してからもう11年。
わが家の一人娘がまだ小学生のとき、親子で涙して読んだ本である。
以来、太平さんの著書をいくつか読ませてもらった。
先日図書館で借りた本は大平光代さんの最新作『今日を生きる』
大平光代さんが
"母の覚悟" 命がけで産んだ「ダウン症の娘(悠(はるか)ちゃん)は私の女神」という。
(以下は、 女性自身 2007年3月27日より一部転載)
追い打ちをかけるように1ヵ月の早産で、緊急帝王切開となった。
昨年9月3日の午前1時7分。2千854g、46cmの赤ちゃん。
翌朝、全身麻酔から覚めた妻に、夫は深刻な顔でこう告げた。
「報告せなあかんことがある......」
「なに?」
「実は、僕らの子はダウン症なんや」
「あっ、そうか」
この間、ほんの1秒だったとふり返る。
「そのとき思ったのは、嘆いたり悲しんでるより、障害の程度はわからへんけど、精いっぱい育てよう。この子はこの子なんやから、と。
それより、ダウン症なら、名前は『悠』のほうやなと。ダウン症の子はゆっくりと育つと聞いていましたから、うちの子にぴったりな名前やなと考えて」
しかし、いつもながら気丈な大平さんだったが、肉体は瀕死(ひんし)の状態だった。
「帝王切開と同時に摘出した筋腫は13cmもの大きさで、摘出後は3千CCもの大量出血しました。5日目に腎盂炎(じんうえん)と、肺に水が溜(た)まって40度の高熱で呼吸困難に。
さらに6日目、帝王切開の抜糸で傷口が開いて、極度の貧血のためか、そこが壊死(えし)していることがわかりました。ステロイド剤が投与され、これは今も続いています」
大平さんは、14歳の割腹自殺未遂で、横隔膜や腸にも後遺症が残る。またホステス時代の過度の飲酒で肝臓も悪い。
そのうえ、刺青の入った背中は皮膚呼吸ができず、当時、医師からもこう宣言された。
「普通に長生きはできない」
そうした、いわば過去の傷跡が、出産に際して災いしたと考えてしまう。
「たしかに、ただの帝王切開だけやったら、あそこまで苦しめられることはないでしょう。ですから、私はこの子を、今までの人生をかけて、命がけで産みました」
そして、悠ちゃんもまた、誕生の瞬間から必死に生きる闘いを続いていた。
(以上、女性自身 2007年3月27日より転載 )
わが相方が一人娘を帝王切開で出産したときと状況はよく似ていた。
相方は出産直後丸一昼夜、人工呼吸器をはずすことができず赤ちゃんとの対面は二日後だった。
生まれてきたわが家の一人娘もまた生まれてすぐ、生死の境をさまよっていた。
2450グラムで生まれた娘はすぐさま人口保育器のカプセルに閉じ込められた。
主治医の話では、『今夜がやまです。』と。
母親の胎内で羊水を吸い込み、赤ちゃんの肺に羊水がたまり非常に危険な状態と説明された。
当時の団塊おやじはただただ病室をうろうろするしかなかった。
そんな相方は今、団塊おやじを農作業で使い倒している。
死んでいても不思議でなかった一人娘は今、就活もほったらかしで部活にのめり込んでいる。
大平光代さんの『今日を生きる』の巻頭の写真には次のようなキャプションが載せられていた。
『友人が試着を繰り返して
選んでくれた真っ白なドレスは、
首筋近くまでかかる刺青をすっぽりと
隠してくれました』
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