酔眼教師の乱雑日記

「偽」と「信頼」の狭間

「偽」と「信頼」の狭間



 14期生19人の皆さん、ご卒業本当におめでとうございます、心からお祝いを申し上げたいと思います、ゼミを持って15年、全員の一致団結した仲の良さでは最高でした、それは各人が自らの役職を充分に理解し、主体的に役割を果たし、その役職以外の人たちが「信頼」し協力した結果だと思います、まさに、武者小路実篤「仲良きことは美しき哉」です。

 今年は文字解きをして贈る言葉にします。

 人間社会の基本はお互いがお互いを「信頼」することにあると思います。
しかし、残念なことに昨年の世相をあらわす年間一文字は「偽」でした、「偽」という字は「人」の「為」と書いて「いつわり」と読むのですよね。人が人のためにすることには「何かまやかしの心、見返りを求める気持ち」があるのでしょうか。今ほど「偽」が横行している時代はありません、まさに成熟社会の中で「あり余る豊饒の中にあって人々は餓死する」(カーライルの言葉)状態です。

 実際の餓死ではなく、心が餓死しているのです。

 「信頼」という言葉がこれほどむなしく聞こえる時代はないと思います、論語に「民、信なくば立たず」という一節があります、「信」ということは、社会存立の基盤であり、これが失われたら、社会は崩壊するほかはありません。人間への不信、友人への不信、親子、兄弟、夫婦間の不信に終始するならば、人はこの世で生きていくことはできない。「信」という字は「人のことばと心が一致する」、「まこと」の意を表すとあります。言い換えれば、「嘘・偽りなく」、相手を思いやり、相手の立場にたって行動することだと思います。
「頼」という字の成り立ちは、金銭を表す貝と、もうけを表す刺→利から成り立っているので、金銭をもうける意を表し、転じて、「たのむ」・「たよる」の意に用いるようになったもののようです。この字に秘密がありそうです、最近の偽装問題は「もうける」ことだけを優先し、信(まこと)を忘れたことによるものでしょう。本当にもうけるためには、「儲」という字が示すように「信」ずる「者」、「信者」を作ることなのです。

 孟子に「朋友信あり」とあります、意味は「朋友の関係は信義を元としなければならない」ということです、14期生の皆さんが一生「信頼」という絆で結ばれて、折にふれて交流されて、実り豊かな人生を送られることを願って、お祝いの言葉とします。

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