さて、本日から先週金曜日8月18日に行った金門島日帰り旅行についてご紹介します。ご存知ない方のために、金門島は下のような位置にあります(地図は金門県政府のサイトから拝借しました。 http://tour.kinmen.gov.tw/default.aspx なお、このサイトには日本語サイトもありますのでご関心ある方はご覧ください)。
金門島と馬祖島は中国大陸側に張り付いていますが、いずれも台湾(中華民国)の支配下にあります(さらにマイナーな金門県に属する烏丘というところもあります)。金門島の大きさは日本でいえば小豆島くらいでしょうか。これらの島は1949年の中華人民共和国成立後も、中華民国側が最後の砦として死守したところです(こんなに大陸から近いのになぜ攻撃されなかったのかというと、当時の人民解放軍は海軍がほとんどなく、攻める能力がなかったとも)。しかし、朝鮮戦争などが終わって大陸側の「大躍進」など失政から目をそらす目的もあったといわれていますが(台湾側にはそういう説明あり)、1958年の8月23日(今日です)に大陸側の四方八方から金門島砲撃が行われ、雨のように砲弾が降り注いだとされています。中華民国側はこれに耐えて島を死守したということでこの日が記念日になっています。あまりにたくさんの砲弾が来たので、その後金門島はそれを使って作る包丁の産地になったということです。
その後1987年に台湾の戒厳令が終了すると、92年に金門島でも戒厳令が終わり、観光向けにも開放されることとなりました。2001年元旦からは金門に原籍を持つ大陸側住民の金門訪問(小三通)が認められ、対岸のアモイから直通の船で金門経由での台湾訪問ができるようになっています。
そんなことでマイナーな地域、国境、紛争地好き(別に軍事おたくではないです)な私としては、いつか行ってみたいところのひとつになっていました。今回日本からネット経由で台北からの直行便を予約(最初は現地で予約しようと思っていましたが、どうも満席になる可能性があったもので)、電子チケットを購入しました。
朝6:45発の金門行きのフライトです。話はそれますが、金門の英語表記は「Kinmen」。大陸式ピンインJinmenでもなく、台湾の従来のウェード式表記Chinmenでもありません。これは現地ビン南語の発音から来ているものです。古い文献では英語表記はQuemoy、廈門XiamenをアモイAmoiというのと同じといえます。
本題とはあまり関係ないですが、台北松山空港で食べた朝食。
これが搭乗した華信航空(マンダリン・エア)の飛行機。この日朝は雨が降っていました。金門行きは台湾海峡でよく霧が発生するため、欠航になることも多いと聞いていましたが、順調に時間どおり飛びました。機内はほぼ満席。約55分のフライトで到着します。
金門島に到着。ここが金門の玄関口、尚義空港。
空港ロビーには搭乗を待つ軍隊の人たちがたくさん。戒厳令が終わったあと、軍隊の数は相当減ったそうですが、今でも若い兵士を中心に数千人が駐屯しているとのことです。
空港は上の地図の(1)です。ここから番号順に回ります。今日はさわりだけで申し訳ありません。この後小金門(烈嶼)を目指して(2)の水頭に向かいます。ここは元々小金門に行く小型フェリーの発着場のみだったところですが、「小三通」が始まってからは対岸のアモイまで行く定期船のための港になっています。
立派なターミナルビルです。上に「金門歓迎nin」の文字が見えます。左側に上下船するところがあります。大陸側から来る人はこれをどのような思いで見るのでしょうか。
アモイ行きの船です。結構きれいな船でした。両岸の現在の関係を象徴する意味も当然あるでしょうから、ターミナルビルや船そのものなど、ハード的にはかなり気を使っているものと思われます。
ちょうどアモイ行きの船がもうすぐ出港するタイミングでした。見た目大陸の人か台湾の人かはわかりませんが、朝一番の船ということもあり結構混雑している方なのではないかと思われます。
ちょっと撮影に失敗しましたが、金門~アモイ間の出発便の表示。午前中はほぼ1時間に1便。アモイまでは時刻表を見ると約50分で到着するようですが、日帰りも容易にできます。この桟橋からアモイまでは数kmなのでもっと早く着きそうな気もします(先日乗った東京湾フェリーの久里浜~金谷間35分と比べると、速度は違うのでしょうが50分はちょっと長い気がします)が、多少迂回する航路なのかもしれません。現在は乗船資格に制限があって外国人は特殊なケース以外は乗れませんが、もっと往来が自由になれば私のような物好きは大陸側日帰りをするかもしれません。「小三通」というと大陸側の人は台湾本土まで行けないのかと思っていましたが、金門に来る飛行機で前に座った親子らしき人が「大陸人士入出境・・・」という渡航証明のようなものを持っていたのが見えたので、台湾本土まで意外と簡単に来れるようなことを改めて知りました。後で乗ったタクシーの運転手の話では、福建省以外でも上海から団体であれば金門経由で台湾訪問ができるようになる(なった?)ということだそうです。ただし、いずれの場合でも台湾側には受け入れ人数の制限がある模様です。
ターミナルの中にある台湾元から人民元への両替所。こういうのはここでしか見られない景色だと思います。
さて、こちらは私の乗る小金門行きの乗り場。アモイ行きと違ってシャビーな建物を通って乗ります。30分に一本の頻度で出ています。確か料金は48元だったかと思います。
船の中はこんな感じ。ややシャビーな船です。フェリーと言っても車が2~3台乗れば一杯で、満席でも30名ちょっとくらいしか乗れません。復路で乗った船はもう少し大きく、冷房つきでした。
船は15分くらいで小金門に着きます。約10年前にアモイから小金門を見たことがあったので、上陸がちょっと待ち遠しかったです。
小型フェリーは(2)の水頭碼頭を出発し、15分くらいで小金門側の(3)九宮碼頭に到着。前日に台北駅の観光情報センターで金門の地図を入手していましたが、そこに小金門のサイクリングルートが書いてあったので、自転車で一回りでもしてみようかとも一瞬思いました。でもやはり40おやじにその体力はなさそうなので、客引きに来たタクシーのおばさんに進んで引っかかりました。島1周約2時間で500元(2000円以下)、大陸だったら絶対値切りますが、ここでは気持ちよくOKしました。
港から10分もかからないところにこの「823勝利記念」のモニュメント(地図上の(4))があり、ここが小金門の凱旋門といった風情でしょうか。一昨日の日記にも書きましたが、「823」は1958年8月23日、大陸側人民解放軍が四方八方から一斉に金門島に向け砲撃を開始、台湾側がこれに耐え、島を死守したことを記念するものです。
ここは先ほどの(4)から数分車で北上したところにある「八達楼子」(5)。ここから島の四方へ道が伸びており、島の中心地的存在。周りには戦時を思わせるスローガンが並んでいます。88年に初めて台北に行ったとき、総統府の周りには「滅共反攻」「光復大陸」(ちょっと違うかも)とか激しいスローガンが当時はまだたくさん並んでいましたが、そのころの雰囲気を彷彿とさせます。
さらに北上すると、「国姓井」というのがあります。「国姓」は「国姓爺」、鄭成功のことです。ここ小金門は、明が滅亡したあと、鄭成功が大陸反攻の根拠地にしたところでもあり、その関係の名所も残っています。
地図上(6)の湖井頭戦史館(「頭井湖」ではないです)。小金門で一番行ってみたいところでした。ここは小金門の北西寄りにあり、天気が良ければ2km少々しか離れていない大陸側のアモイを眺めることができます。
坑道の中が展示館になっていますが、上から蒋介石がここに何度も視察に来たことの紹介、大陸側から着弾した砲弾、大陸からどのような攻撃を受けたのかなどの資料が展示されています。
湖井頭の先端の砲台から除いた大陸側。残念ながらこの日午前中は霧がかかっていて、対岸は見えませんでした。右側の小島は大陸側の島ではないとのこと。
その後湖井頭を出発、タクシーはかつて戦車の通った道だというところを通って行きます。
途中で見た海岸にあるくさび状のもの。名前を何というのかよくわかりませんが、敵の上陸を防ぐためのものであることは明白です。金門の海岸は基本的に美しいところが多いのですが、長年戦地であったため、開放されたのはまだ最近のことで、この写真のように立入禁止のところもまだあります。海岸が開放できなかったことで、本来こういう島なら当然盛んなはずの漁業もほとんど行われていないそうで、内陸部の農業(高粱)が主要産業とのことです。仮に両岸の対立関係がなくなれば、リゾートなどの観光資源として使えるところは多いと思います。
地図中(7)の将軍廟というところです。
将軍廟の近くの民家はこんな感じ。
途中に寄った土産物屋。かつて大量に撃ち込まれた砲弾を使って、包丁の生産が盛んになったということです。にわかに信じられない部分もありますが・・・
桟橋近くの九宮(四維)坑道(地図の(8))。タクシーからはここで下車。坑道とは戦時の防空壕かつ軍事物資、武器等を格納する倉庫と考えればいいでしょう。
中はこんな感じのトンネルになっています。手すりの向こう側には海水が流れています。
さて、再び(9)の桟橋に戻り、帰りの船を待ちます。先ほどのおばさんの運ちゃんも次の客を待っています。試しに大陸で買った中国製ケータイを見てみると、大陸側ケータイ事業者「中国移動」の電波を受信しました。大陸からは数km離れていますが、大陸の国際識別番号「00」を頭につけて日本の自宅の留守電にかけてみたらつながりました。金門本島の内陸側でも電波を受信できましたので、基地局が実は金門内にあるのではないかと一瞬よくわからなくなりました。
小金門に別れを告げ、船は金門島に戻ります。
再び小型フェリーで(10)の水頭碼頭に戻ってきました。時間は11時半ごろ。船の到着に合わせてやって来た路線バスに乗って、金門県の中心部、金城鎮行きにとりあえず向かいます。
これが金城の中心部ロータリー。蒋介石の銅像が立っています。それほど古いものではないようです。左奥が島内各所に向かうバスのターミナルになっています。街としては人通りはそんなに多くはないですが、この左側の方に細かい商店街などもあり、それなりに賑やかなところではあります。ちなみに金門県の人口は約7万人、うち軍人が1万人くらい、小金門は4000人弱で軍人が1000人くらいとのことです。昔は人口の半分近くが軍隊だったといわれています。
金城中心部にあった廟です。大陸でも福建や広東にはこんな感じのがよくありますね。金門島は軍事関連の名所のほか、華僑の故郷ということも一応売りにしています。金門島含む福建沿岸地域からかつて東南アジア方面に向かって華僑がたくさん海を渡りました。
さて、街中にあった現地人経営のファーストフード的寿司屋で軽く昼食をとり(客には「いらっしゃいませ」と日本語で言っていました)、午後の観光に向けて足を確保しないといけないので、まずバスターミナルで時刻表らしきものを見てみましたが、本数や行き先も限定されるので客待ちしていたタクシーと交渉して足をキープしました。4時間で1500元(5500円前後)という料金でしたが、午前の小金門での時間と距離を考えればまあこんなものだろうと思って、OKしました。いろいろ観光ガイドもしてくれたのでコストパフォーマンスはよかったと思います。
車は(11)の金城を出発、島の真ん中を東に向かって突き抜け、北東端(12)の「馬山観測所」に30分くらいで到着しました。運ちゃん(私と同年代くらいのおやじ)は道中スピードを落としていろいろ説明してくれました。
馬山観測所の入口。「還我河山」、日本語では「我々の山河を返せ!」ということですが、すでに時代錯誤的感覚に陥ります。この観測所は金門北側にある大陸側泉州方面と数kmの距離のところにあり、もともと大陸側の動きを見張る目的で作られたものです。
これが観測所の入口。左側には高射砲などの兵器が並んでいました。
突端の観測所までこのようなトンネルを通って行きます。前にいるのはタクシーの運ちゃんです。
見えました。大陸側です。突端部の小窓から見たところです。この日午後になって霧が晴れてきたのでようやく見ることができました。見えるのは泉州市郊外の海岸とのこと。人の気配は全然ありません。
これも大陸側。先ほどの場所からやや左側(西方向)に向きを変えています。先ほど人影はないと言いましたが、この写真の真ん中あたりに漁船らしき小船が浮かんでいました。ちなみに台湾の新聞で見ましたが、大陸の漁民は台湾側に結構たくさん出稼ぎに来ていて、正式に上陸できないため港の中の劣悪な環境で暮らしているといった内容でした。
観測所の中はこんな感じです。右側の穴から撮った写真が前の2枚です。
観測所を出るとこのような石碑がありました。「民国70年」とありますが、西暦では1981年にあたります。台湾に行くと「中華民国○○年」という年号が使われるので一瞬とまどいますが、今年は民国95年です。辛亥革命の年が起点になっています。
観測所を出たところにあった立入禁止のバリケード。このあたりはまだ軍事施設が多くあるのでこういうのがたくさんありました。
さっきの写真の反対側は海なのですがここも立入禁止。海や砂浜は結構きれいなのですが少々もったいないです。
馬山を出発、近くにある(13)の「民俗文化村」というところに行きました。ここはかつて明治~昭和初期ごろ、金門島出身のある華僑(王敬祥という人)が日本の神戸で事業に成功し、その後故郷に帰り多額の金を出してビン南式の町を作ったそうですが、それを記念して金門風民家をテーマパークのような形で開放しています。中には土産物屋も多いですが、実際人の住んでいる家もあります。
このあと、(14)の「823戦史記念館」というところに向かいます。
金門島訪問の主たる目的は小金門の(6)と大金門の(12)から大陸側を見ることにあったので、とりあえずその目的は計画どおり達しました。あとは運ちゃんに任して帰りの飛行機の時間まで主要なところを回ってもらうことにしました。
島の南東部にある(14)823戦史記念館。ここには1958年8月23日の砲撃に関する各種資料が展示されています。
これは同じところにある「兪大維先生記念館」。兪大維氏とは、蒋介石時代の国民党政権で国防部長をした人です。全然知りませんでした。中には同氏の戦跡ほか、蝋人形などがありました。
展示を見た後、運ちゃんの知り合いと思われる土産物屋のおじさん、おばさんと少し世間話をしました(土産は何も買いませんでしたが)。かつて大学のときに台湾語を少し勉強したことがあったので、「我是日本人(ゴアシージップンラン)」と台湾語で言ってみたら喜んでました。運ちゃんによれば、金門では「台湾語」とは言わず、「ビン南語(「ビンは門がまえに「虫」)」といい、両者は微妙にイントネーション等で違いがあるとのことです。そういえば、前にアモイに行ったときも同じことを試しましたがちょっと違和感を感じました。また福建省でも北の福州では方言の系統が違うのでビン南語は全く通じず、数字の数え方を聞いてみたらまるで違っていたことを思い出しました。
(15)に向かう途中立ち寄った海岸(南の方角)。なかなかきれいなところですが、他に人はほとんどいませんでした。
(15)の金門国家公園(日本流に言えば「国立公園」でしょう)の中にある金門島に関する観光展示のひとつ。ここは軍事的な話でなく、どちらかといえば金門の自然環境や古代からの歴史などに重点を置いていろいろな説明がされています。
とはいうものの、同じ敷地内には軍用機や高射砲などもろもろの兵器が展示されています。やはり島全体が軍事博物館といった趣です。ちなみに10年前くらいに北京の人民解放軍の射撃場で下の高射砲を1発50元くらいで撃ったことがあります。今は解放軍の商売は禁止されているはずなのでもうないと思いますが(私は軍事オタクでも射撃オタクでもございません)。金門島もそのような商売をすると集客効果があるような気もします(かつて北京の射撃場には日本のヤ●ザが大挙して射撃の練習に来たという噂もありました)。
同じ国家公園の敷地内にある「蒋経国先生記念館」。蒋経国氏はご存知のように蒋介石の息子、2代目の総統です。面白いのはこてこての反共のはずのかつての国民党の中で、蒋経国は若いころソ連に留学していたということ。あの時代、表向きにはいろいろ対立関係はあったものの裏では意外とつながっている部分も結構あったということの一例だと思います。孫文の別名孫中山の「中山」も日本留学時代に千葉の中山競馬場の近くに住んでいたとか、世話になった人が「中山さん」という人だったとかいう話もありますので、今のようにメディアが対立を煽り、各国政府もそれを利用する時代とは違って、ほのぼのとした部分も実はあったのではないかと思います。もちろん、当時も戦争に導いた偏ったメディアや一部の指導者の責任は否定するところではありません。
中はこんな風になっています。台北にある中正記念堂の小型版という趣もあります。衛兵などはここにはいませんが・・・
(16)の近くにある「金門酒廠」、酒の工場です。金門の主要農産物はこうりゃんで、蒸留酒を大量に生産しています。地ビールも生産しているそうです。
(16)のてき山坑道(「てき」の字は写真にあるとおり、「曜」の右側)。台湾式ピンイン(通用ピンイン)ではJhaishanと書きます。島の南西側にある大規模な坑道です。恐らく規模としては一番大きいと思われます。
中はこんな感じで結構真っ暗。突き出た岩に頭をぶつけました。大事にならなくてよかったです。トンネルの先は海につながっています。
さて、帰りの飛行機の時間が近づいてきました。運ちゃんがまだ大丈夫というので、空港に向かう途中にある海岸、(17)の後湖海浜公園というところに立ち寄りました。ここもきれいな海岸です。正面やや右寄りに空港があります。
後ろを振り返ると海岸にたたずむ戦車。ここに廃棄されて置いてあるということではなく、公園の展示物のひとつとして置かれています。でも、金門島を端的に象徴する風景であると強く感じます。
さて、夕方6時15分発の帰りの飛行機に合わせてその45分くらい前に空港にもどりました。タクシーの運ちゃんとはビジネスライクにさっさと別れましたが、効率的にいろいろ回ってくれて感謝です。定刻どおり飛行機は離陸し、台北に帰りました。なかなか充実した日帰り旅行になりました。
最後に、金門島に行って思ったことを少々。金門島は歴史的にも、現状でも両岸の間におかれた非常に特殊なところだと思います。少し違いますが日本でいえば沖縄のようなところであり、両岸双方の政策に翻弄され、本来あるはずの漁業などの地場産業が全く育たず、台湾本土からの各種支援に頼らざるをえない状況が長年続いてきたと思われます。したがって、道路などのインフラ整備は軍事、基地の島ということもあって充実してはいます。92年以降の開放、96年の台湾海峡危機を経て2001年の小三通開始以降は、どちらかというと対立時代の各種補助金もおそらく減少し、金門島側は軍事施設関係や過去の対立時代の遺産をもとに観光業を強化しようとしていますが、実際には通過する人は増えても、この島の経済自体はそれほど潤っていないと感じました。
また、両岸の対立関係が仮になくなったとしても、今度は別にこの島を経由する必要もなくなり、台湾からアモイあたりへ直行便を作れば済む話で、大陸側に極めて近いという地理的条件のためにアモイ側の属領のようになり、大陸側から大挙して人が来たりするとこの島の特徴もなくなってしまうでしょう。現在の大陸側中国人の多くは金門島を砲撃したことを知っている人も恐らく少ないと思われるので、別に台湾側の軍事施設を見ても何も思わないかもしれません。この島にあるのはかつての国民党の勇ましい部分を宣伝する要素は多いですが、今の民進党政権からすれば、「大陸反攻」など昔の遺物として金門島の存在そのものをすでも重視していない立場ではないかとも思ったりもします。
香港のように、大陸に入るための窓口のひとつとして、金門島が今後その特殊な立場を生かして発展することを心から望みます。
以上で金門島日帰り旅行記を終了します。全部ご覧いただいた方、ありがとうございました。