スキャナーでいろいろできることがわかりましたので、先週に引き続き21年前の中国旅行のときの些末なグッズ(というか紙切れ)をご紹介したいと思います。

1985年3月8日の人民元と円の交換レートです。2万円が210人民元(兌換券)になっていますので、ざっと1元=90元くらいでした。前の日記で1元=40円くらいと書きましたが、これは1987年のときでした。思い出してみると、100元札が1万円札といったところです。85年はおそらく「プラザ合意」で急速な円高が始まった年だと思いますが、私が中国に行ったのはその前のようですね。

これは広州から香港まで乗ったときの搭乗券です。当時の記録を見ると100元払っているようです。日本円で9000円くらいですが、今はもっと安いのでは?

西安の兵馬俑の入場券。0.3元となっていますが、これは外国人料金ではないかも。10年くらい前まで、中国の観光地は外国人と中国人で入場料が別で、外国人料金は大体5~10倍くらいだったと思います。北京に駐在していた90年代後半までそんな感じで、私はよく中国人のふりをして安く済ませました。

これは北京で長城(八達嶺)の一日ツアーに乗ったときのもの。前門にいくつか店が出ていたのでそこから乗りました。料金はこの券の後ろに領収書が残っていたので見てみると6元でした。中国人向けなので(といっても外国人は拒否されない)、外国人は私と連れのもうひとりのみ。長城のほか、十三陵の定陵と長陵に確か行きました。長城の場末のローカルな食堂で他の客と一緒に昼食をとった記憶があります。

上海でタクシーに乗ったときの領収書。こんなのが残っていたことに自分でもちょっと感動しています。たぶん、他の都市でタクシーに乗っても小汚い紙切れの束の領収書というパターンだったはずですが、こと上海だけは乗車時刻、下車時刻まで書いてあったことに感動したのかもしれません。ただ、この当時はタクシーに乗れる中国人はほとんど皆無でしたので、サービスとしては却って今よりも良かったかもしれないと思われます。

筆談のメモが残っていました。左上に杭州の名産について書いてあるので、おそらく杭州から広州まで軟臥(一等寝台)に乗ったときに同室になった中国人と話したときのものと思われます(軟臥は学生には贅沢と思われるかもしれませんが、せっかくカネを払って来ているんだから、無理に座れるかどうかもわからない硬座などはやめようとすでに割り切ってました)。上のメモの中で、私の書いた字は右上でさかさまになっている「未完の大局」となぜか「みかん」(そういえば映画名を『蜜柑の大局』とすでにおやじギャグを言ってました)、「Superman」と書いてある部分、左の「お花見」だけだと思います。右下はたぶん、知っている日本の映画は何?という話であることは想像がつきますが、「寅さん」「蒲田行進曲」とか書いてありますね。一番下の「星球大戦」は「スターウォーズ」ですが、このころの軟臥に乗るような中国人は、結構日本のことを知っていたんですね。左下にも「松坂慶子」の字があります。
結構昔から記録好きでしたので、他にももろもろネタが出てきました。また次の機会に昔話させていただきます。では。
21年前の中国旅行の昔話、つづきです。当時は「地球の歩き方・中国自由旅行編」が出て確か2年目か3年目くらいのときでした。大学では中国語専攻だったので、すでに周りには留学経験者や何人かリュックを背負って旅行してきた人がいましたので、当然のことながら必ず在学中に一度は行こうと思っていました。やろうと思えばすべて自分で手配も可能でしたが、海外は全く初めてということや、一応慎重派だったりするので、「地球の歩き方」が主催する「ダイヤモンド・スチューデント・ツアー」という中の香港経由入出国で往路の香港・広州1泊ずつがセットになったメニュー(途中は完全フリー)に、友人3人とともに申し込みました。夜のCP(カナダ太平洋航空)で香港入国というパターンでしたが、しめて99,800円だったはず。
これに参加すると以下のような旅行用ダイアリーがもらえて、3ヶ月くらい前から何を準備したらいいかとか、もろもろの注意事項が書いてあります。また、旅行計画や支出を書き込みできるようなページなどがあります。

海外旅行が初めて、それもいきなりバックパッカーとして行く人のために、かつ金のない学生のために結構細かく注意事項が書いてあります。でも、当時は欧米に行く人が大半だったので、中国のようなところに行く場合はあまり考慮されていなかった気がします。

まあ、こんな感じで書いてありますが、「最後の電話は彼女にかけよう」とか「ぼくらはファーストクラスでなくエコノミークラスです」などと結構大きなお世話なことまで書いてあります。他のページには「旅先からお母さんに電話しよう」などと書いてあるところもあります。これは、ちゃんと行き先を言わないで参加する学生が結構いるので、旅行社に「今うちの息子はどこにいるんでしょう」という電話がよくかかってきたからだということだそうです。でも当時の中国からはそんなに簡単に電話できませんでしたけどね。今のように直接ダイヤルしてかけられず、申し込んでから相当待たされる上に品質も最悪、料金も高額でした。

今となってはリコンファームは特殊なケースを除きどこも不要になっていると思いますが、初めての海外旅行のときはそれまで英語で電話などかけたこともありませんでしたから、結構緊張感がありました。言う方は決まったセリフを言えばいいでしょうが、想定外の質問をされるとパニック状態になり、しどろもどろになった記憶があります。

当時のレート表が出てきました。「昭和59年1月5日現在」となっています。昨日の日記でも書きましたが、この時点では1ドル=233.90円となっています。1人民元は118.95円、1香港ドルは30.32円になっています。
当時の中国はまだ「未開放地域」というのがたくさんあって、外国人が行けないところが多く、行き先も限られていましたが、みんな同じ「地球の歩き方」を持っていくので、たまたま応対がよかったレストランなどに日本人旅行者が集中していったりして、味をしめたその店がぼりまくったなんて話も結構ありましたね。このときが初めての海外旅行でしたが、「汚れてもいい格好で」とかほとんど「探検」に行く感じで、最初は無事に帰って来れるのか、本当心配でした。
そんなことで、だらだらと昔話でした。まだ明日につづきます・・・
今日はいろいろあって、今帰ってきました。ずっと21年前の中国旅行の昔話が続きますがお付き合いください。
香港から陸路深セン経由で中国に入国したあと、汽車で広州に行き2泊。このときは春だということもあり、街中で長細い サトウキビ がたくさん売られていました。当時の人民はこのサトウキビをかじって、その食べかすをところ構わず撒き散らすので、広州駅前の広場はそれで一杯になっていました。それが中国国内に下り立った最初の印象です。
広州では同行者とローカルな食堂に入りました。そこでまず出てきたお茶でまずびびりました。お茶の表面に油がぎらぎら見えています。さらに、箸。当時は割り箸などはありませんでしたが、どうみても色が黒く見えるので、これを持っていったティッシュで拭いてみるとティッシュが真っ黒。皿も拭いてみましたがやはり真っ黒。あまり細かいことは気にしない方でしたが、 衛生観念がまったくないことに愕然としました 。このあたりでは、もう何故こんな国の言語を勉強してしまったのか、真面目に後悔を感じ、他の同行者も言葉少なく、恐らくみんな相当なショックを受けていたものと今になってみれば思います。
途中は若干省きますが、広州の次は桂林に行きたいと思っていましたのでその足の確保に向かいました。桂林に直通する汽車は切符がとれない状況でしたので、やむなく長距離バスに乗ることにして梧州という町で一泊、2日間ほとんどバスに乗りっぱなしでようやく桂林に着きました。このときのバスはかなりの山道を途中通過するのですが、どう見ても 坂道を下るとき、ガソリン節約のためか、エンジンを切っていました 。当時私は車の免許をとって間もなかったので、下り坂はエンジンブレーキを使うということが当然と思っていましたが、こんな運転の仕方がありうるのかと驚きました。ガードレールもない山道をこれで下るので、生きた心地がしませんでしたし、仮にこんなところで事故に遭っても誰も助けに来てくれないだろうと思いました。私も同行者もますます口数が少なくなっていきます。
これは広州~梧州のバスの切符。
続いて梧州~桂林のバスの切符。1日10時間は乗っていたと思います。途中停まったトイレ休憩では家畜と一体方式のトイレにまた愕然。
それでも、気を取り直して桂林に着き、バス停に雲霞のように集まってくるチェンジマネーの嵐を何とか交わしつつも、「丹桂飯店」というホテル(今はあるのでしょうか)に宿泊することになり、翌日の璃江下りの船の予約を何とかすることができました。確かに桂林の奇岩怪石や山水画のような景色はきれいで、船内で見知らぬ中国人と火鍋をつつきながら、何とかみんな元気を取り戻すことができました。
これは璃江下りの船の切符。往路の船と復路のバスの切符込みです。
ついでに桂林で乗ったバスの半券も出てきました。当時はまだ「分」という単位も結構使われていました。
桂林では次に向かう昆明までの汽車の切符を買いに行きます。この当時は桂林始発の長距離汽車は一本もなかったので、やむをえず特快(特急に相当)の 硬座 、それも 無座 という切符をみんな買いました。この汽車に乗れば車中2泊で昆明に着くことができます。確か汽車は夜の11時過ぎに桂林駅に入線する広州方面始発のものでしたが、到着が遅れていました。さて、悲惨だったのはこのあとです。やっと本題に行き着きますが、続きは明日にします。あまり期待しないでお待ちください・・・
続きです。別にオチがあるわけではありませんので、期待しないでご覧ください。さて夜の11時ごろ出発予定の 昆明 行き特快を 桂林 駅の待合室で同行者(この時点では3名)と待っていました。ちょうど他にアメリカ人の学生3人(日系人男女1名ずつ、白人男性1名)が同じ汽車を待っていたので彼らと適当におしゃべりをして過ごしていました。今思うと、この待合室は外国人専用の待合室だったかと思います。周りに中国人がいた記憶がありません。
ちなみに切符はこんな感じでした。

裏はこんな感じ。

当時の切符は、硬い切符の裏に乗車する汽車の番号を書いた紙を貼り付けるか、またはスタンプで押すかどちらかの形をとっていたと思います。貴陽駅で乗り継いだことを示す紙が貼ってありますが、これは普通に乗っていれば貼り付けられるものではありませんでした。
その先に起こることも知らず、呑気に待合室で待っていると、1時間遅れくらいでようやく汽車が到着する旨、連絡がどこかからありました(駅員が言いに来たのか、掲示板が出たか覚えていませんが、少なくとも電光板のようなものはありえません)ので、同じ汽車に乗る他の大勢の中国人客と列に並びました(日本のような整然とした列は思い浮かべないでください)。
汽車がホームにゆっくり入ってきました。並んでいた位置(ホームの外です)から乗車位置までは100m以上。入口が開放されると周りの中国人客が大量の荷物を抱えながらも一斉に全力で走り出します。我々や米国人客はあっけにとられ、状況がつかめないまま、我々もとりあえず走りました。でもどこが「硬座(自由席)」の乗車位置なのか全くわかりません。何がなんだかわからないまま、殺到する中国人と一緒にドア(手動)付近に走ります(ちなみにホームは車両よりかなり低い位置)。周りはドアに殺到してもみくちゃになっている客のほか、開いている窓から無理やり車内に入り込む者、車内に目を向けると別に帰省ラッシュ時でもないのに長距離列車とは思えないほどの満載になった客の数、激しい怒号、この生き地獄のような様子を見て、我々4人と米国人客3人は完全にあっけにとられ、そうこうしている間に乗れない客を無視しつつ汽車は発車してしまいました。我々はホームに取り残され、しばし茫然とその場に立ち尽くしました。
自由席とはいえ、汽車に乗れないということは全く想定外でした。まだ中国に入国して1週間も経っていないのにこのあと1ヶ月近くどうしたらいいのか途方にくれました。我々はしかたなく駅舎にもどり、確か怒り狂う米国人客とともに他にどういう方法があるのか、駅員に罵声を浴びせつつ、何とか5時間後に到着する途中の柳州(広西チワン族自治区)まで行く汽車があることがわかったので、これに乗ることにしました。
でも次の汽車に本当に乗れるのかわかりません。切符をもっていても、客の数が常にオーバーフローしているので乗れる保証がないので、不安なまま同じ待合室で今度はほとんど無言のまま汽車が来るのを待ちました。すでに真夜中ですが、眠るほどの余裕もなく、未明の4時ごろに到着する汽車を待ち続けました。
やがて、また汽車がもうすぐ到着するという知らせが来ました。我々はさっきと同じ轍を踏んではならないと緊張しながら、汽車が入線してくるのを目にしました。今度は絶対に乗ってやる、と悲しい決意を胸に汽車に向かって100mくらい全力疾走で走ります(私は足が遅いうえに足ももつれ、遅れをとりました)。汽車の周りはさっきと同じように大量の中国人客。車内もすでに満員。それでも今度は何とか無理やりドアに体をねじ込み、背中に背負ったリュックの圧力で窒息しそうになりながらも、我々4名と米国人学生3名は車内に押し込まれました。
とりあえず乗れたことで一瞬ほっとしたのもつかの間、車内を見ると通路に折り重なって横たわる乗客、網棚の上で寝ている乗客、さらに窓からも乗ってくる輩、ひまわりの種、食べかすなどの多量のゴミがちらかった床、便所から垂れ流されているナゾの液体。これは正直言って家畜が無理やり押し込まれた状態と変わらないのではないかと思いました。両親から戦後の買出し列車というのは大変だったんだよね、という話は子供のときから聞いていましたが、きっとそれよりもひどい状況なのではないかということが頭をよぎりました。
それでも何とか横たわっている客の間に無理やり体を入れ(混んでいるのは事実ですが、みんな自分の場所を決めたら譲らないのもこうなる一因)、もうすでに肉体的にも精神的にも疲れの極地に達していたので、体育座りのような形で床に座りました。となりに寝ていた老人(女性)は死んだように寝ていましたが、これがまた臭い。一度乗ってしまうと人が多すぎて動けず、場所を少しでも移動してしまうとすぐとられてしまうので動こうにも動けず、したがってトイレにも行けず、こうなると垂れ流ししかないわけです。
そんな苦しい形でスピードも出ない汽車に押し込まれた状態で7時間くらい、眠れず、トイレも行けず、食事もできず、この汽車の終着、柳州駅に昼前くらいに辿り着きました。まだ昆明ははるか遠く・・・
まだ続きます。 桂林 ~ 昆明 間は当初乗れるはずだった直通の特急列車で行っても車中2泊だったわけですが、これを途中2回乗り継いで行くはめになったので、 車中3連泊 になってしまいました。もちろん、新疆方面に行く場合などは4泊とか5泊かかりますし、チベットに陸路で入った方などはもっと大変だったでしょうから、それらを経験した方に比べればこの程度は大したことはないのかもしれません。でもほとんど汽車の中でまる3日近く動けないで過ごすというのは相当辛いです。それに輪をかけて下手に場所を動こうものなら、その場所を掠め取って微動だにしない輩がいるために、トイレに行くのも最低限(同行者がいて場所を押さえてもらったので助かりました。一人だったらどうなったことか)の回数、食事も弁当を売りにくるわけでもなく、途中停まった駅で窓から手を伸ばしてゆで卵を買うくらいのものでした。
柳州 で数時間過ごしたあと、次は貴陽(貴州省)行きの汽車に乗りました。このときは運よく「対号(席あり)」の切符がとれました。しかし、自分たちの席であるはずのところには先に占領している輩がいて、いくら言っても無視するばかりで動く素振りも見せません。こちら側は4人いましたので袋叩きにするぞといったような態度で圧力をかけるとやっと動きましたが、上で言ったように隙を見せればそのほかにもたくさんの「無座」の客がいるのでいつ席をとられるかわかりません。席自体も木製そのものでクッションなどなく、背もたれは直角ですわり心地は最低。常に警戒していないと何をされるかわからないので緊張感が続き、精神的に落ち着く余裕はまったくありませんでした。
柳州 ~ 貴陽 間は車中泊で翌日の午前中に到着。駅で 昆明 までの切符を何とか手配し、列車の発車まで5時間くらい駅で待っていました。ここは貴州省の省都ですが、観光地でもないので外国人はほとんど来ないためか外国人用の待合室などはなく、だだっ広い駅のホールの床に座って時間をつぶしていました。そうすると、我々のところに障害者の浮浪児が物乞いにやってきました。同行者の一人がよせばいいのに、日本の5円玉をその子供にやってしばらくすると今度は老人女性の物乞いが近づいてきました。そうこうしているうちに我々の周りにはいろいろな障害を持つ物乞いが10人以上集まってきて、取り囲まれてしまいました。これはやばい、と思った我々は走って退散しましたが、そもそもそういう人たちが集団になって少しでもカネを持っていそうな人間がいると数の圧力で攻めまくるパターンのようです。
こういう光景は今でも多くの都市であると思いますが、当時の中国はこてこての社会主義であったはずなのに、なぜこういう人たちが誰からの庇護も受けず、こんなことでしか生活ができないのかとわかって、この国は絶対にどこかおかしいと思いました。
貴陽駅 の待合室では他にもさらに、たくさんの人がいるど真ん中で子供に小便をさせる輩もいたりなど、最悪の都市という印象が残りました。今でも貴州省は中国で最も貧しい省ですが、どの程度改善されているものなのか、行きたくはありませんが少々関心はあります。
そんなことで 貴陽 ~ 昆明 間もさらに車中泊で、まる3日かかって昆明にたどり着きました。この3日間ほとんど飲み食いもしなかったので、 昆明で体重を量ったら5kg痩せていました 。ダイエットしたい方は中国で「硬座」に乗って3泊ぐらい車中泊をされることをお奨めします(ウソ)。
昆明以降は、もうこのような地獄絵図は見たくなかったですし、そもそもバックパッカーといっても修行に来ているのではなく遊びに来ているのだからカネを使うべきところでは使えばいいじゃん、と思って原則一等寝台「軟臥」で通しました。物事は柔軟に考えないといけないということを学びましたし、最悪の状況を最初に経験しましたので、後の行程はある意味快適に過ごせた印象が強く残っています。
あまりオチもなく、文章だけになってしまいましたので面白くない話かなとも思います。でも私としてはこの3日間の経験がその後の中国に対する厳しい見方の始まりということでいまだに忘れられない最も印象深い最悪の思い出だったというわけでした。今は物質的には豊かになりましたが、人心の面ではそんなに変わっていないような気がします。この国が自分の国の国民を大事にするときが来るのはいつのことなのか、依然として憂いを感じています・・・