如月劇場

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~キリ~




 人はよく、物事を止めるときに「キリがない」と言う。

 しかし僕は思う。「この世界にキリがない物なんてないのだ」と。

 例えばここに二人の人間がいる。一人をA、もう一人をBとしよう。前提としてAは熱しやすく冷めやすい。すぐに物事に見切りをつける。すぐに止める。そして他の事へと興味が行き、その物へ少しの間、没頭する。それを繰り返す人間。Bは一つのことにとても長い間、集中する。一つやり始めたら徹底的にやる。忍耐強い人間である。

 ここに円周率がある。世間として「キリがない物」としての代表される物だ。これをAとBにやらせたらどうなるのか?考えてみようと思う。

 まずA。Aの方は円周率に取りかかったらすぐに「あぁ、これはキリがないな」と思う。このときのAの思考回路はこう。「円周率とは3,14で終わっても良いものだ。なぜならキリがないから。」これは確かに正当性のある発言かも知れない。しかし僕は違うと思う。こんな円周率にもキリはあるのだ。そしてそのキリは「本人が考え、導き出す物」だと僕は考える。つまり、このAの場合、「円周率は3,14」ここがAの考える「円周率のキリ」だ。これ以上も以下もない。

 ではBの方は?考えてみよう。まずBは「何故円周率はこんなにも長いのか?」そこから考える。Aの様にすぐに結論にはもっていかない。十分考えた上、「よし、ならば計算してみよう。」そう考える。そしてここからはひたすら計算。「3.14159265358214808651442881097572458700663305727036・・・・」ここではこれだけしか書かなかったが、Bは更にしぶとく計算し続けるかも知れない。もしかしたらずっとし続けるかも知れない。それは決して悪い事じゃない。しかしいずれ気づくだろう。「そうか、円周率は3,14159265358214808651442881097572458700663305727036・・・こんなに計算してもでてこないものなのか。これは数として無限に続くんだ」と。つまりBの「キリ」はここまでなのだ。

 結果から見ればどちらも円周率の真相にたどり着いたわけだから「円周率を考える」という同じスタートから同じゴールに見えるかも知れない。同じゴールかも知れない。しかし、そこまでの両者のプロセス(過程)や結果へ対しての理由は正反対だ。Aは早急に見切りをつけ、「円周率はキリがないから3,14」と考える。Bはじっくりと考えに考え、「円周率はどれだけ計算をしてもずっと続く。数としての限りはないから3,14と表されているんだ」と考える。この両者の違いが分かるだろうか?

 どちらが良いのか?というのはない。それはその本人が決めることだからだ。

 Aは確かに円周率はさっさと結果を導き終わらせた。ここでAの「円周率に対してのキリ」はついた。よって円周率についてAは「浅はか」かも知れない。しかし、その後はどうだろう?Aは更に他の興味深い「キリ」へ関心が行ったかもしれない。つまり、「新たなキリ」を探しに行ったのだ。それを見つけたなら。考えたなら。浅くても「キリ」を導き出したなら。Aは「自分の中のキリ」をたくさん持っている事になる。ここはBよりもAが勝っている部分だ。

 一方Bは根気強く「円周率に対してのキリ」を追求した。その中で培われた「円周率とはそもそも何か」「円周率の前提となる計算」「3,14で区切られている理由」などを持っている。つまり、Bはこの時点で「キリ」を一つしか持っていないが、その一つは「かなり奥深いキリ」だと言える。ここがBのAに勝っている部分だ。

 ここでは「勝っている」と表示したがそれでは語弊があるかも知れない。正しくは「違う」とでも言おうか。そして、その「違い」こそが「個性」であるのだ。

 分かっていただけただろうか。「キリ」は誰かが勝手に決めて良い物ではないのだ。自分なりに考え、導き出すという事。現在、それが出来ない人間が世界中に何億人いることだろうか。このような既に見に染みついた風習が個性を殺していくのだ。

 「キリ」とは「世界観」なのだ。









           2005・6/15   如月 拓。

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