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2006年10月27日
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カテゴリ: 偉そう

今、京極夏彦の 『絡新婦の理』 を読んでいるのだが、ふと気づかされたことが有る。

いや、普通のことなのだが。


木場修が、飲み屋でくだを巻いていて、そこでお姉さんにいわれて気づく当たり。

結局法や国家、価値、道徳などは恣意的なものだ。それはつとに指摘してきたことだ。もはや自明であろう。

ただ、そのことを主張するだけでは立ち行かぬ。

リアリズムというものがある。
そうでなければ生きていけぬ。

今思ったが、前にも こんなこと を書いている。


一旦、括弧に入れた上で、なるたけのものを捨象して観察し、その上で、括弧を消して生活する。

この括弧も外す作業も、やはり実際のためにはとりあえずという意味で必要なのだ。

特に警察や検察がここを疑いだすと碌なことにならない。
いちいち、法の正当性に懐疑を持っていたら、務まらぬ。


そんなことを思った。
『絡新婦の理』はかなり面白い。



六輝=友引 九星=八白土星 中段十二直=平 二十八宿=婁 旧暦九月六日





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最終更新日  2006年10月27日 21時47分43秒
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