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クレア1846『仮面の下』



『仮面の下』

その日は突然やってきた。
あの方が半地下室に閉じこもって、例の未亡人の大家のための薬草を調合していたときのこと、
前触れなしに当の本人が目当てのものを取りにきたのである。
薬草は、いつも昼間は人前に出ることを避けていたあの方のために、
父や私から患者に渡されるのが常だったが、未亡人は待ちきれなかったのだろう。
彼女にしてみれば、自分の持ち物であるアパルトマンの、間借り人に過ぎないあの方の部屋に
侵入することなど、何の躊躇もなかったかもしれない。
また、通常の場合なら、あの方も驚きはしたにせよ、闖入者を紳士的に向かえたことだろう。
ところが、その時は普段と同じではなかった。
あの方が、仮面を取った状態でいたからだ。
水蒸気蒸留法という、湿気と熱気の篭る抽出を試みていたため、一人でいるのを幸い、
無防備になっておられたのだと思う。

一目みた未亡人は、恐怖の叫び声を上げて逃げ出し、父のもとにやってきた。
「あの、あの化け物は、いったい誰?」
父もあの方の素顔を見たことはなかったけれど、何を言っているのかは理解した。
未亡人は、気味の悪い化け物に部屋を貸すように促した父を散々に責めたて、
即刻ここを引き払わせるようにと言い渡した。
父は憤慨し、賢明に弁明したけれども、すっかり恐怖に取り付かれ、
興奮している老女を思い直させることはできず、ただ引き払うまでの期間を
少し伸ばすだけで精一杯だったという。

父から連絡を受け、私はオペラ座の舞台が引けてすぐに実家に向かった。
あの物置部屋に帰っておられるのでは、と覗いては見たが誰もいなかったからだ。
半地下室のドアをそっと叩いたものの、返事はない。
鍵はかかってはおらず、声をかけながら私はゆっくりと部屋に入っていった。

あの方は、ベッドに突っ伏していた。
部屋には薬草の入ったビンが砕けて散乱しているし、壁には呪い文句が殴り書きされている。
デッサンは部屋中にばら撒かれ、足の踏み場もない。
たくさんの物に囲まれてはいても、いつもある一定の規律をもってきちんと整頓されている部屋だったのに。
未亡人の叫び声を聞いたあとの、あの方の感情の嵐。仮面は床に落ちたままだ。

私はベットの傍らにしゃがみこみ、懇願した。
「どうぞ許してくださいね。」
ビクリと体を起こす気配がして、あの方は私の肩を強くつかむ。
「何を許せというのだ?あの無神経な腰痛持ちの老女か?
それとも私のこの、醜く歪んだ顔のことか?」
深い深い絶望に満ちた声と泣き腫らした顔が私に迫る。
「さあ、この顔を見据えて返事を。何を許せというのだ?」
「すべてを。あなたの回りにある、あなたを傷つけたもの一切を。」
「馬鹿げたことだ!許して何になる。望むものを与えてやったのに、裏切りで報いるような奴を。
人は皆、そうなのだ。醜いといって産んだ我が子を蔑み、自ら近づいておきながら、
思う通りの顔でないと恐怖の顔を晒して去ってゆく。
幾度裏切らればいいのだ?許したところで、裏切られ続けることに変わりはない!」
神様、私に力を。この方の心を鎮めるための勇気を。

力なく戻ってきた私の姿を見て、父はほんの少しのスコッチを渡しながら話しはじめた。
「今日の出来事は災難だったが、そうでなくても出て行ってもらわなくてはいけなかったかもしれないんだよ。
近所に刑事がやってきていてね、彼のことを嗅ぎまわっているらしい。
顔色が変わったな。私も覚えているよ、3年前、カストラードの代役で歌った常に仮面を外さない少年のことを。
相当な評判で、急にいなくなったあと、オペラ座に刑事がきていたことも。
彼が仮面をしているからって、最初からそのときの少年だと思っていたわけではないが、
あの歌を聴いたとき、どうして刑事がこのあたりにやってきたかがわかったんだ。
彼は母さんとルイーズの命の恩人だ。彼がもし、逃げ出さねばならないようになったときのために、
馬車の手配はしてあるから安心おし。」

次の日の夜には、あの方は落ち着いていた。
仮面を身につけ、慇懃に私を部屋へ導く。
「パリを離れる前に、君に素晴らしい魔法を見せよう。きっと気に入る。」
めくるめく不思議な世界への扉が、開かれようとしていた。

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