卑劣な旧日本軍! 餓死のヤマを築き上げ、何が「武士道」笑わせるな 2025-10-15 はんぺん
「アジア・太平洋戦争」 では数多くの餓死者が、発生した。
それは、 戦犯ヒロヒト(裕仁) による無謀な戦争に、真の原因がある。お坊ちゃん天皇ヒロヒト(裕仁)を篭絡した 旧日本軍指導者たちは、成算の無い侵略戦争を始めたが、その結果、多くの惨状を見ることになった。
その惨状の最大のモノの一つが、 餓死や戦病死による(地獄) だったのは、間違いない・・・・
「戦病死者が全戦没者のなかに占める割合は、 1944 年以降は実に 73.5 % にもなる(『支那駐屯歩兵第一連隊史』)。戦病死者や自殺者が、栄誉ある戦死として報告される事例も」(本文)
戦後日本人は、「一億総ざんげ」という事で(仕方なかった)(みんなが迎合してしまった)との言い訳で、ごまかし(真の反省)を避けてしまった・・・・
「アジア・太平洋戦争では数多くの餓死者が発生している」(本文)
これを見て、戦国時代の城攻めなどの際の 「兵糧攻め」 を思い出した。 「腹が減っては、戦(いくさ)は出来ぬ」 は、当たり前に、正しい!
食料の無い兵隊は、闘えない・・・戦術的に敵の兵糧を絶つ、この戦術は、悲惨を究める!! 秀吉による 鳥取城の城攻め の話は有名で、「 『鳥取城の渇え殺し』 と言われる程凄惨な兵糧攻めであった。」(ウイキペディア)
・・・・この戦後期時代の兵糧責めの話は、ゴマンとある!!!
そもそも兵站を軽視した旧日本軍の起こした戦争で、もっとも影響を受けたのが末端の兵士たちだ。 中国戦線 では、自分たちの食料を確保するために、 現地調達(現地の住民から強奪するという蛮行) が一般化していた。そのため、住民から (恨み) を買い、孤独な戦いを強いられたのだ。(反抗する現地住民による襲撃にも悩まされたという)
これは、 (戦争を知らない)東京の戦争指導者たち の(大甘な)戦争指導による災難と断言できる。
東京にあって、机上で作戦計画を練る彼らは、 兵士たちの食料調達などの、戦争遂行における最低条件などを軽視してしまった ・・・これが、(お粗末な)戦争を始めた旧日本軍隊の真実だった!!
この失敗を隠すために持ち出されたのが ( 精神主義 ) だった。物質的充足を満足させずに、 (やれば、出来る!)(やる気が、あれば勝てる!) とばかりに、 ( 物質 ) よりも ( 精神 ) を持ち出して、ごまかした!!!!!!
これが (卑劣な武士道の日本軍) だった。こんなイロハも知らない軍隊が、戦争に勝てるワケが無い。
日本は、戦争に負けて、良かった。本当に良かった!!!
8/15 や、 9/2 は、(おめでたい日)(祝勝記念日)なのだ!!!
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
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日本軍兵士の「死に方」が悲しい…「無策の参謀」が引き起こした“生ける屍”になる病の正体 吉田 裕 2025 年 8 月 15 日 ダイヤモンドオンライン
日本軍兵士たちは、どのようにして死んでいったのか。戦場における兵士の死といえば、戦闘による死をまず思い浮かべるのが普通だが、一橋大学名誉教授の吉田裕さんによると、 アジア・太平洋戦争の特徴として「戦病死者が異常に多いこと」 という――。※本稿は、吉田 裕『日本軍兵士 ― アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)の一部を抜粋・編集したものです。
戦病死者が異常に多い…太平洋戦争の異常な実態
日本軍兵士たちは、どのようにして死んでいったのだろうか。
戦場における兵士の死といえば、戦闘による死をまず思い浮かべるのが普通だろう。しかし、この常識が通用しないのがアジア・太平洋戦争、特に絶 望的抗戦期の戦場の現実 だった。
まず指摘できることは戦病死者が異常に多いことである。戦闘による死者と病気による死者の両方をあわせて戦死者という場合もあるが、ここでは、両者を区別して、 戦闘による死者を 戦死者 、病気による死者を 戦病死者 と呼ぶことにする。
近代初期の戦争では、常に 伝染病などによる戦病死者 が戦死者をはるかに上まわった。それが、軍事医学や軍事医療の発達、補給体制の整備などによって戦病死者が減少し、 日露戦争 では、日本陸軍の全戦没者のうちで戦病死者の占める割合は 26.3 %にまで低下した。 日露戦争は戦死者数が戦病死数を上まわった史上最初の戦争になった(「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」)。
ある部隊の 1944 年以降の戦病死の割合は 73.5 %にもなる
ところが、日中戦争では、 1945 年 11 月に第一復員省が作成した資料によれば、 戦争が長期化するにしたがって戦病死者数が増大 し、 1941 年の時点で、戦死者数は 1 万 2498 人、戦病死者数は 1 万 2722 人(ともに満州を除く) 、この年の全戦没者のなかに占める 戦病死者の割合は、 50.4 % である(『近代戦争史概説(資料集)』)。
アジア・太平洋戦争期に関しては、包括的な統計がほとんど残されていない。しかし、のちに詳しく見てゆくように、アジア・太平洋戦争が日中戦争以上に苛酷な状況のもとで戦われたことを考慮するならば、前者の戦病死の割合が後者のそれを下まわるとは、とうてい考えられない。
戦病死の実相にせまるために、初めに部隊史を検討してみたい。部隊史のなかには自らの調査に基づいて作成した戦没者名簿を掲載しているものがあり、そのなかには、戦死・戦病死の区別を明確にしたものが数は少ないものの存在しているからである。
支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう。 日中戦争開始以降、一貫して中国戦線で戦ったこの連隊の日中戦争以降の全戦没者は、 「戦没者名簿」 によれば、 2625 人である。
このうち 絶望的抗戦期 にほぼ重なる 1944 年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて 戦死者 =533 人、戦病死者 =1475 人、合計 2008 人 である(戦没年月日不明者 =14 人、不慮死 =2 名を除く)。
戦病死者が全戦没者のなかに占める割合は、 1944 年以降は実に 73.5 % にもなる (『支那駐屯歩兵第一連隊史』)。
戦病死者や自殺者が、栄誉ある戦死として報告される事例も
だが実際には、この数字以上に戦病死者が多い可能性も否定できない。現場では、 戦病死を戦死にいわば 「読み替える」事例 があったからである。そのことは、軍隊内部にも一般社会のなかにも、 戦病死より戦死をより価値のある死、より名誉ある死とみなす風潮があった ことを示している。
支那駐屯歩兵第三連隊の補充兵として、 1942 年 6 月に中国戦線に出動した鳥沢義夫は次のように書いている。支那駐屯歩兵第三連隊は、支那駐屯歩兵第一連隊と同じく第二七師団に属していた部隊である。
〈中隊員の中には、病に斃(たお)れ、陣中に看病も碌(ろく)にできないで陣没した者があった。この醒陵にでも戦病死された者もあったが、 この様な状況ゆえ、気の毒なので病死であっても戦死とほとんど変りがないと判断を下し、後日、架空な戦闘状況を作り戦死として報告された方もあった 。また、 T 君の様に、実際は討伐中に 自決(自殺)であったが、やはり戦死として処理された者 もいた。(『大陸縦断八〇〇〇キロ』)〉
餓死者も、類を見ない異常な高率
戦病死の問題を掘り下げるためには、これと密接な関連がある餓死の問題を検討してみる必要がある。アジア・太平洋戦争では 数多くの餓死者が発生 しているからである。
日中戦争以降の 軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約 230 万人 だが、 餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した 広義の餓死者の合計は、 140 万人(全体の 61 %)に達すると推定 している (『餓死した英霊たち』)。
これに対し 秦郁彦は藤原推計を過大だとして批判し、 37 %という推定餓死率 を提示している。しかし、その秦自身も、 「それにしても、内外の戦史に類を見ない異常な高率であることには変わりがない」 と指摘している(『旧日本陸海軍の生態学』)。
フィリピン防衛戦の戦死者のうち、 6 割超は病没とされたがその半数は餓死
こうした悲惨な現実は、 1944 年 10 月に開始された フィリピン防衛戦 でも見てとれる。 1964 年時点での厚生省の調査によれば、 この防衛戦では、 51 万 8000 人の陸海軍軍人・軍属が戦没 している。そのうち、後述する 海没死 を除く陸軍の戦没者については、次のように指摘されている。
〈その内訳の正確なデータは資料に乏しいが、 巨視的にみると、その約 35 ~ 40 %が直接戦闘(対ゲリラ含む)によるもので、残り約 65 ~ 60 %は病没であるように思われる。 しかも、病没者のうち純然たる悪疫によるものはその半数以下で、 その他の主体は 悪疫を伴う餓死 であったと思わざるをえない。 (『大東亜戦争陸軍衛生史(比島作戦)』)〉
前線部隊に届く軍需品の割合は、 45 年には 51 %にまで低下
このような多数の餓死者を出した最大の原因は、制海・制空権の喪失によって、各地で日本軍の補給路が完全に寸断され深刻な食糧不足が発生したからである。
前線部隊に無事に到着した 軍需品の割合(安着率)は、 1942 年の 96 %が、 43 年には 83 %に、 44 年には 67 %に、さらに 45 年には 51 % にまで低下 し、 海上輸送された食糧の三分の一から半分が失われた。 積み出した軍需品の量自体が現地軍の要求を大きく下まわる状況下での安着率のこの低下である(『太平洋戦争喪われた日本船舶の記録』)。
マラリアにかかると体力が弱まり、食糧不足で極度の栄養失調になり死亡する
問題は、 栄養失調が前線での疾病と相互に関連していた ことである。陸軍主計中佐の田村幸雄は、すでに 1943 年 8 月の段階で、 「第一線における疾病は栄養の失調が最も大なる原因の一つとなって」 いたと指摘している(「第一線における戦力増強と給養」)。
また佐世保鎮守府第六特別陸戦隊の部隊史は、栄養失調とマラリアの関係について次のように記している。
〈〔 1944 年〕 4 月ごろから急に栄養失調症が増えてき、 栄養失調による死者、すなわち餓死者 が出始めた。 マラリアにかかると 40 度の高熱が出てそれが一週間ぐらいつづく。 それで体力が弱まったところへ食糧がなく、極度の栄養失調に陥って、その後は、薬も食事も、ぜんぜん受け付けない状態になって死んでゆく ―― それが典型的な 餓死のコース だった。 諸病の根源は、食糧不足だった。 (『ソロモンの陸戦隊 佐世保鎮守府第六特別陸戦隊戦記』)〉
米軍は DDT の大量使用によってマラリア原虫を媒介する蚊を駆除し、予防に成功した。だが日本軍の場合、マラリア研究自体はかなり進んでいたもののその対策面で大きく立ち遅れたため、特に南方戦線ではマラリアが猛威を振るった(『マラリアと帝国』)。
日中戦争初期から現れ、「戦争栄養失調症」と称された病気とは
栄養失調の問題で重要なのは、 戦争神経症 とも関連する 戦争栄養失調症 である。
この病気はすでに日中戦争初期から現われていた。 1938 年 4 ~ 6 月の徐州作戦に従事した兵士のなかから、 極度の痩(や)せ、食欲不振、貧血、慢性下痢などを主症とする患者 が多発した。治療はきわめて困難で死亡に至るケースが多かった。
体はミイラ状となり「生ける屍」の如くになる
この間題について、陸軍軍医中将の梛野巌(なぎの・いつき)は、「戦争栄養失調論」と題された論文を執筆している。刊行年は未詳で、「陸軍軍医学校(北支那方面軍編)」と表紙に記されたタイプ印刷の資料である。
梛野は、この論文のなかで、 「高度の羸痩(るいそう)」(痩せ衰えること)、食欲不振、下痢を「三主徴候とす」る とした上で、患者の状況について、「下痢止まず漸次全身栄養の低下を来し、羸痩加わり皮下脂肪消失し筋肉細小となり」、 ついに体はミイラ状となり、「脈搏緩徐、体温正常以下となり、四肢厭冷(けつれい)し、顔貌無表情となり活気を失い、嗜眠性となり惰眠を貧りほとんど言葉を発せず、『生ける屍』の如く」 なる、ついには燃えつきるロウソクの「火の消ゆるが如く鬼籍に入る」、時には栄養の失調がそれほど深刻でないもかかわらず、「突然虚脱状態となり、心臓麻痺もしくは呼吸麻痺を呈し死亡するものあり」と書いている。きわめて生々しい描写である。
伝染病原因説も有力だったが、それだけでは説明がつかない
こうした患者が多発したため、「陸軍では戦線で長期にわたり食糧の不足と身心の過労のため、高度の栄養障害を起したものを、ひとまず『戦争栄養失調症』と称していたが、これらの患者に アメーバ赤痢、細菌性赤痢、マラリア等の疾患を併発している場合が多かった ので、研究初期の段階では意見がまとまら」ず、伝染病原因説も有力だった(『戦争栄養失調症関係資料』)。
しかし、梛野軍医中将が前掲論文のなかで、「昭和 17 年頃より戦闘行動に全く関係なく内地におけると同様なる教育訓練により該症と全く同一の症状経過を取るもの発生し逐年増加の傾向あり。これ全く意外なる事実なり」と指摘しているように、苛酷な戦場の状況と伝染病などの罹患だけで原因を説明することには無理があった。
ストレスや不安、緊張、恐怖などで 摂食障害を起こした
結局、原因を突き止められないまま陸海軍は敗戦によって崩壊するが、その後、戦争栄養失調症に関する新たな説が登場するようになる。
たとえば、軍医として戦争栄養失調症の研究に取り組んでいた青木徹は、「陸軍軍医の大半は、アメーバ赤痢が戦争栄養失調症の元兇である、という説に偏っていたと思われるふしがある」としながら、「脳幹視床体」下部にある食欲中枢の存在に注目して、次のように主張している。
〈しかし、こと戦争栄養失調症についていうならば、その症状の前半は〔補給を無視した参謀などの〕 偏執病的な作戦至上主義者 によって加えられた受動的なものであり、この受動的原因による体力の消耗が進行した後半は、患者自体の脳幹視床体下部内に宿命的に存在する、調節機能の失調という能動的な因子が加わることによって、ここにホメオスターシスの崩壊が起こり、遂に死に到るものであると結論したいのである。(『秘録・戦争栄養失調症』)〉
書影吉田 裕『日本軍兵士 ― アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)
吉田 裕『日本軍兵士 ― アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)
つまり、 食糧などの給養の不足、戦闘による心身の疲労など、戦場の苛酷さに起因するものではあるが、ストレスや不安、緊張、恐怖などによって、ホメオスタシスと呼ばれる体内環境の調節機能が変調をきたし、食欲機能が失われて摂食障害を起こす ということだろう。
最近では、精神科医の野田正彰が、戦争栄養失調症について、 「実は、兵士は 拒食症 になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた」 と青木と同様の指摘をしている(『戦争と罪責』)。
いずれにせよ、 戦争栄養失調症 は、単なる栄養失調ではなく、 戦争神経症 の問題と確実に重なり合っている。
以上のように、さまざまな角度から戦病死の問題を見てきたが、 戦死ではなく、餓死を中心にした戦病死が兵士の死の最大の原因であった ことは間違いないだろう。
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