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※このエントリーはフィクションであり、実在の人物、大会等とは一切関係ありません。千歳の翌週の土曜日になった。体調不良は続いていて、練習は全く出来ていなかったが日曜日に八雲の大会に出るために、室蘭に来ていた。遡ること3週間前のこと、室蘭の母が市立病院へ緊急的に入院していた。肺炎からくる発熱で、体力が消耗していたのとリンパ腫の検査のためだった。検査の結果はやはり悪性のリンパ腫ということで、本人の落ち込み様ときたらそれはもう、なんといって慰めたらいいのかこちらが戸惑うほどだった。いきなり「命」というものを眼前に突き付けられた母の気持ちを思えば今までの入院のように、治療すれば家に帰れるとお気楽に言えずさりとて、一緒に悲しんでばかりもいられないわけで…。リンパ腫の検査で、内臓を調べたら今度は「胃がん」が見つかった。ごく初期の小さな胃がんだったけれども、今度も母は嘆いた。時間を作って、平日の仕事終わりに母のところへ行った。「こんな時こそ信仰でしょ」と話した。常日頃から信仰を厚くしている実家の母と義父に「気持ちが落ち着くなら、一生懸命拝んだらいいんじゃないの?」と言った。「なんのための信仰なのよ?、こういう時こそ必要なんじゃないの?」とも。病気をなかったことにすることは出来ないし、治療は始めなければならない。けれど落ち込んだままでは、病気に取り組んでいけないのじゃないか?病は気から。と言うではないか今すぐ命に関わるわけではない。そうは言っても、気持ちを切り替えるのは容易いことではない。76歳になる母でも「死」は身近なことじゃないんだなと思った。しばらくして、主治医から話を聞く機会を得た。「肺炎の熱が治まったら、リンパ腫の治療を始める」「治療は抗がん剤の投与だが、時間が掛かる」「入院が長引く可能性があるが、体調が良ければ投与の合間に自宅に帰れる」「胃がんは初期のもので、このまま放っておいても命に係わるまでには何年も掛かる」ことなどを、丁寧に説明してくれた。母は、この説明を何度も聞いていたらしく、主治医の話に一々頷いていた。そして、最後には「先生に全てお任せします」と言った。何度も説明を受けるうちに、どうやら当初の不安から解放されたようだった。ようやく、病気に対して前向きになれたようで、私はそんな母の様子にホッとした。そして、そこから週に一度は室蘭へ通うようになった。体調不良で寝込んでしまった週を除き、平日だったり週末だったり出来る限り、実家へ行って食事の支度、母の見舞いをした。大会を控えて、しかも体調不良で、その上母の入院…。こんな時はこういうものだと思う。全てを受け入れて、抗わない方がいいのだと思う。だから、練習もしよう。体調不良の時は休んでいよう。娘として、出来るだけ母の力にもなろう。気負うことなく、今まで通りでいよう。無理はしない。そう思えば、やれるような気がする。八雲で10kmのレース後、少しずつ体調が戻ってきたように思った。朝ランを少しずつ再開することにした。無理はしない。無理はしない。心にそう言い聞かせて。次の週末、すでにサロマまで三週間前。最後のロング走と決めた。ホントは6月の頭に、超ロング走の予定だったが体調不良で叶わずようやく体調が戻ってきたこの日、朝から雨が降っていた。前日、予報では雨になっていて、けれど雨でも走ると思っていたが実際目の当たりにすると、雨の中を走り出すには躊躇した。昼近くになってようやく雨が上がった。「よし!行こう」小銭と、携帯とドリンクをポーチに入れて走り出した。去年の夏、一度走ったことのあるコースだ。車の往来は多いが、ほとんどが郊外に当たるためすれ違う人もない道を淡々と走った。40km弱走って、夕方家に戻ってきた。これで最後のサロマ練かと思うと、非常に心もとない感じがする。けれど、これ以上はどうすることも出来ない。残り2週間で、出来ることはそう多くない。サロマに向けて、疲れを溜めてはいけない。万全に、とはいかないまでも気持ちだけは高めていこう。やれることはやったのだと思いたい私がそこにいた。
2013年07月06日
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※このエントリーはフィクションであり、実在の人物、大会等とは一切関係ありません。点滴を二本、ゆっくりと体に注入したあと家に戻って休んだ。翌日になっても、めまいは治まらずまた点滴に行った。医師からは、収まるまで何度でも点滴に来てくださいと言われていたが日曜日になって、めまいはようやく治まった。日曜日、夜中に何度も目があいた。そのたびに壁に掛かった時計を見た。まだ朝じゃない。。。めまいさえ起こさなければ、本当は4時に起きて5時には家を出るはずだった。サロマに向けての最後のロング走。50Km走る予定だった。この日は千歳JAL国際マラソン。走り始めてからずっとエントリーしてきた大会に、今年は申し込まなかった。レースはせずに、千歳まで応援と称して走っていくサロマ練。金曜、土曜と点滴を受けた体は、まだ元通りになっていない。目が覚めるたび、「今日は走らなくていいんだ…」と思った。「走れない」ではなく「走らなくていい」そう思うほどの倦怠感が全身を覆っていた。それでも、千歳で約束が二件あったので車で出かけることにした。お昼頃、携帯がなった。着信はチームのYoUちゃんからだった。「姐さん、今どこ?」私は苫小牧から。YoUちゃんたち10名ほどの札幌組とは千歳で合流するはずだった。今頃どこを一人で走っているのか?と心配して電話をくれたようだった。「今ね、自宅なの」「えっ!?なんで?」「体調不良でね、走れなかったのよ。でも、これからそっちに向かうから」しばらくして無理しなくて来なくていい旨の電話があったのだけど、出かける準備も出来ていたし車の運転は娘がしてくれるので大丈夫と言って、千歳に向かった。会場近くの、私が毎年車を停める駐車場へ行ってみると空きがあったのでジムニーをそこに停めてブラブラと歩いて間もなく、ゴール地点のざわつきが聞こえ出したとき、また電話が着た。出ると、hanaさんからで近くのコンビニでビールを一ダース買ってきてほしいと言う。札幌から走ってきて、すでに酒盛りが始まっているようだ。お安い御用だと引き受けて、ゴールとは反対方向へコンビニを探しに行く。すぐにコンビニを見つけて、ビールや私たち親子の飲むジュースやポテトチップスなどを購入して会場に向かった。体育館の裏側には、ビールや焼きそば、焼き鳥などを売るテントが並び皆は会場の中ほどで、今かとビールを待ち構えていたようだ。YoUちゃん、さんこさん、meruちゃん、seiさん、hanaさん皆、朝早くから走ってやってきたのだ。思わず、「今日は何キロ走ったの?」と聞いてしまった。走れない自分が、聞いたところで焦りの気持ちが増すだけなのに、聞かずにはいられない。「オレは30Kmちょいかな~?」「私は50Kmくらい」スタート地点が違い、ところどころで合流しながら行くから走った距離はマチマチだ。今日走れなかった私は、サロマに向けて着々と準備が進む仲間が羨ましくてしょうがない。焦っても仕方ない。と頭で理解出来ても、心の奥底のほうで皆から遅れをとってしまった気分は否めない。そんな私の気持ちが透けて見えたのか、hanaさんが言った。「今まで走った貯金があるから大丈夫だよ」と励ましとも慰めともつかない言葉を掛けてくれる。そうなんだろうか?いや、きっとそうなんだ。逆の立場になれば、同じことを私も言うはず。不安が消えることはないけど、今はその言葉を信じるしかない。もう追いこんだ練習は出来ないんだから。とにかく、今の状態ではジョグで走るのも躊躇われるがサロマに向けて、なんとか調整していかなくてはいけない。今の体調不良が一か月も続くわけがない。サロマにピークを持っていければいい。そう思うことで、心の平穏を保つことにしよう。帰る間際まで、ゴール付近でしばらく応援をした。淡々と走る人、いかにもきつそうな人、ゴールが近いと笑顔で走る人。さまざまな表情で走るランナーを見ていると、やっぱり自分も走れば良かったなと思う。今日のこの体調不良では、間違いなくDNSになっただろうが…。チームのコバッチが走ってくるのが見えた。はっきり目立つ蛍光グリーンのTシャツを着ているおかげで遠くにいても分かる。思わず走り寄っていって、「コバッチ!!頑張って!!あと少しだよ!!」と声を掛ける。ここまで体力気力を使い果たしてきたコバッチに「もっとガンバレ」はさらに鞭打つようなものかもしれないけど、彼の本当の実力はこんなものじゃない。練習不足でありながら、フルマラソンを走りきることが出来るのはやっぱり、「今まで走った貯金がある」からなんだろうか?皆のゴールを見届けたあと、千歳を後にした。体調不良の体に太陽の日差しは少し強すぎたようで、帰りの車の中ではまた居眠りをした。
2013年07月05日
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※このエントリーはフィクションであり、実在の人物、大会等とは一切関係ありません。朝ジョグは、スピードが上がらないまま自宅に戻ってきた。昨日夜にジムで走ったり泳いだりした疲れが残っているのだろうと思った。シャワーを浴び、そのままバタバタと支度をして家を出た。会社は車で10分ほどのところにあって、通勤途中に陸橋の上から樽前山や風不死岳、恵庭岳、紋別岳そして空気が澄んでいる時には札幌方面の山々まで見渡せる。毎朝、その風景を見るのが楽しみだ。秋から冬に掛けては、空気が澄むせいか樽前山などは稜線までがはっきり見えることがあった。麓の木々の様子まで見えたりすることも多々ある。春から夏へ向かう今の時期の苫小牧は、海霧が掛かったりして朝も晩も、薄く低く垂れ込めた霧で鬱々とした天候がなることが多い。だからか、晴れた日の山々の風景は私の心をホッとした気持ちにさせてくれる。「おはようございます」デスクの上に鞄を乗せると、すぐに事務所内の掃除を始める。毎朝、たっぷりのコーヒーをドリップで淹れる。自分の分とお客様用だ。社長は、なぜかインスタントしか飲まない。コーヒーが出来上がった頃掃除も終わる。最近は、クリームだけを入れてコーヒーを飲んでいる。5月の最終日の金曜日。今日は、月末の支払日で午前中に準備することがたくさんあった。9時を少し過ぎた頃、早くも集金に現れた取引先があった。まったく…準備が出来ていないというのに。心の中つぶやいた。とは言え、早くにやってくるのは集金にかこつけて社長と話がしたいのだと分かる。しばらく仕事の話をしていたと思ったら、いつのまにか話は二人の共通の話題パチンコ談義に変わっていた。あっちの店はこうだ、こっちの店はどうだ、そんな話をしているうちに小切手の準備が出来て、朝一の支払いを済ませた。今はネットを利用しさえすれば支払いも銀行へ出向くことなく済ませられる時代だけど外回りと称して、銀行へ出掛けたり集金へ出たりするのは一日デスクに座ってる私のいい気分転換になっていたりするのでネットをご利用くださいと言われるたびに断っているのは、そういうことなのだ。午後からの銀行周りに備えて、準備をし終えた頃なんだか頭がぼんやりしてきた。頭を持ち上げているのが辛くなって、肘をついて両手で頭を抑えた。なんだろう?調子が悪いな…めまい?じゃないよね?1時間経っても良くならない。とうとうデスクの上に突っ伏してしまった。工場から戻った社長が、そんな私を見かねて「帰れ」と言ってくれた。「月末の支払いがあるから帰れないです」「そっか、じゃ俺が代わりに行ってこようか?」「全部、銀行振り込みですけど」「あ、無理。じゃ、取引先に電話して支払いは来週になるって言っておけ」こんな時だけは、ネットで決済が出来たら便利だなと思う。私と一つしか違わない社長はぶっきらぼうだけど、気持ちは優しい人だ。デスクに突っ伏したまま、動くことも出来ず昼が過ぎ、午後の業務時間になっても体調は悪化するばかりだ。めまいじゃない…そう思いたかったけど、トイレに行こうと立ち上がった瞬間吐き気が襲ってきた。あぁ、やっぱりめまいだわ…そのままいつものように休憩室に倒れこんでしまった。これでもう何度目だろう。今年になってからでも、すでに二回目のめまいの発作だ。3月の初めにめまいで倒れたとき、点滴をしてもらい薬を処方してもらってそれでもめまいが治まるのに、三日も掛かった。名古屋ウィメンズマラソンの直前の体調不良だった。散々悩んだ末、走ったものの結果は惨憺たる有様。それでもレース途中で倒れたりしなくて良かったと、心底思ったものだ。めまいの症状はもう何年も続いている。初めの頃は一年に一度くらいだったのが、だんだん周期が短くなり前回は5ヶ月後、今回はたったの3ヵ月後に症状が出てきた。前回は、徹底的に検査を受けたのだけど、どこも悪いところはないと言われた。めまいの自覚症状があるときは、傍からみても目が回っているそうだ。一度鏡で見てみようとしたが、鏡をジッと見るとさらにめまいが悪化しそうで止めた。倒れこんでいた私に、工場の入江君が「病院へ送っていこうか」と言ってくれたので「ごめんね、そうしてくれる?」と答えて、支度を始めようとしたらまた吐き気が襲ってきて慌ててトイレに駆け込んだ。空っぽの胃の中から出てくるのは胃液くらいだったけど、少し吐いたら楽になった。「いつもの病院でいいんだよね?」もうこれで何度目だろう?入江君に病院まで送ってもらうのは…。10分ほどで、掛かりつけの耳鼻科に到着した。「終わったら電話して、迎えに来るから」そう言って入江君は会社に戻っていった。建物の二階にある耳鼻科の階段をふらふらしながら上り、受付で症状を話した。「今日、お薬をもらいに来る予定だったんですけど、めまいが酷くて…」そうなのだ。前回のめまいの後からずっとめまい止めを服用していた。服用していながら、めまいの発作を起こした…。すぐに診察を受けて、奥にあるベッドに横になり点滴を受けることになった。吐き気止めも入れてくれた。すぐに吐き気が収まって、空腹を感じたのには驚いたが。そういえば、朝からほとんどなにも食べていなかったっけ…。朝ジョギングへ行って、帰ってシャワーを浴びて、そのまま会社へ。朝食抜きはいつものことだけど、お昼も食べていなかった。看護師さんに家族を呼んでください。と言われてそれほど大ごとなのか?と思ってビックリしたけれど、後で聞いたら来院したときのようにふらふらだったら、一人では帰せないからとの事だった。たまたま近くのビルで仕事の研修中だった娘に電話をして、病院まで来てくれるように頼んだら娘は「すわ!?母の一大事!?」と思ってしまったようで、いらぬ心配を掛けてしまった。点滴を受けながらウトウトしているところに娘がやってきて、受付で事情を聞いたらしく、割と落ち着いた表情をしてた。時々、看護師さんが点滴の様子を見にきたときに、一緒になって私のくるくる回る目の玉を見て、「ホントにくるくる動いてるわ~」と笑った。
2013年07月04日
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※このエントリーはフィクションであり、実在の人物、大会等とは一切関係ありません。朝はいつもより少し遅く目覚めた。昨日の夜遅くにジムから帰って、ハイボールを二杯軽く飲んでから寝たのが零時を回っていた。眠いな…と一瞬思ったけど、やっぱり起きて支度することにした。トイレへ行って、リビングの物干しに掛かったままのスポーツ用下着を着て、同じように掛かったままのウェアを適当にハンガーから外して着た。汗をかくのだからと、洗わないままの顔に日焼け止めを塗った。どうせ誰も見ちゃいない。数日前に壊れてしまったGPS時計を横目で見ながら、古い時計をカバンの中から出した。ラップが取れるだけの安いスポーツウォッチだ。帽子を被り、頭にはサングラスを乗せた。思い出して、耳に掛けるタイプのウォークマンも付けた。家の外に出て、今日も天気が良くなりそうだなと思いながら軽くストレッチしてゆるゆると走り出す。朝のジョギングは気持ちがいいけど、走り出しは体が目覚めていないのでゆっくりスタートする。そのうちに体の重さも取れて、少しだけスピードを上げられるはず。走り出したのは、もう7、8年くらい前になる。きっかけは?とたまに聞かれることがあるけど、その都度返答に困る。大層な理由はなかったし、あえて言うなら「それまでやってたウォーキングに飽きたから」だった。二年間、同じ道を行ったり来たり。飽きたな…と思った頃、ほんの気まぐれで走ってみた。思わぬことに、いつもの7kmのコースを走れてしまった。そう、走れてしまったと言うのが相応しい。もちろん、スピードなんかありはしない。それでも、走れてしまった自分に驚いた。ウォーキングで少しは鍛えられていたのかな?と思ったけど、それで気持ちを入れ替えて、翌日からも走り続けるほどの気持ちはなかった。たまに、極たまに走ってみる程度でその年は暮れていった。翌年になり、今年はウォーキングではなくジョギングをやろうと雪が融けて舗装道路が出だした春先。早速走り出したら、足首を痛めた。半年以上なんの運動もしていなかったのだから当然だった。そして、当分はウォーキングで足を鍛えることにした。6月になって、日差しが強くなりだした頃また走ってみた。今度は大丈夫だった。足首も膝も痛くない。スピードもないからか筋肉痛にもならなかった。週に2、3回、5km程度を走ってる話を会社に出入りしている取引先の柴田さんに話した。彼も、朝と夕方毎日ジョギングしていて、今年は初めてマラソン大会に出るのだと聞いていた。隣町の千歳市で行われる千歳JAL国際マラソン。主に林道を走る大会だ。私が走ってる話をすると、大会に出ようと言う。大会に出られるようなレベルじゃないし、とてもとても。。と尻込みすると、そんなことは関係ない、たくさんで走ると楽しいし、練習する励みにもなると言って、熱心に口説かれた。「じゃ、来年まで冬も休まず練習出来たら、来年大会に出てみます。」そんな守れるかどうかも分からない約束をした。ウォーキングですら、冬の間は休んでいたし、一年通して走れるなんてその時は思いもしなかった。秋が来た。一気に日暮れが早くなり、会社を出る夕方5時にはすでに真っ暗になる11月。外を走るには真っ暗だし、寒いし、走らない理由はいくつでも思いついたけどその頃になると、私は会社帰りに近くの体育館に通うようになっていた。体育館内のトレーニング室にはバイクやランニングマシーン、筋トレ用のマシーンがいくつも備えてあり、仕事帰りのサラリーマンや明らかにダイエット目的な奥様たちが黙々と汗を流していた。始めの頃はとても場違いな感じがしたけれど、数日通ううちに私もその中の一人に溶け込んだ。週に数回トレッドミルで走り、少し筋トレをしてシャワーを浴びて午後9時前には体育館を後にする。そのようにして、冬の間も細々と走り続け翌年の2月になった。北海道のマラソンの開幕戦と言われる伊達マラソンの申し込みが始まった。柴田さんとの約束通り、伊達マラソンを走ることにした。距離は5km。エントリーフィを支払って走る、初めてのマラソン大会。2007年4月、ラン友の悦ちゃんに乗せてもらって伊達の会場に私はいた。寒い日だった。たったの5kmを走るのでも、ドキドキしながらスタートを待っていた。周りの人は皆自分より速く思えたし、そんな皆に置いていかれる不安で少しでも前からスタートしたくて、真ん中辺りにいた。初号砲。ほとんど同じ道を折り返してくる5km。往路はゆるゆると上っている。一生懸命、もがくように足を進める。こんなに苦しかったっけ?と思う。いつものジョグとは違う、息遣いの荒さもレースだからなのか?たったの30分走ることが、とてつもなくきつく感じられた。ようやく折り返しを過ぎ、今度はやや下りになる。そこからスピードを上げられるような走りが出来るはずもなく、ただひたすらにゴールを目指す。ゴールまで後1kmくらいのところになり、後ろから来た高校生ランナーにアッと思うまもなく抜かれた。5kmのスタートより少し早くスタートした10kmの選手だった。陸上部の監督と思われる人が、高校生に向かって「ここから!ここから上げていけ!!」と声を掛けたのが聞こえて「そうか、ここから上げていくのか…」と思ったが、追い抜いていく高校生ランナーをただ見送るだけだったような気がする。ようやくゴールにたどり着いて、初レースに感動するのかと思ったが記録証をもらったら、30分をあと少しで切れていなくてちょっとガッカリした。この後、たくさんのレースに出場するようになるがあと数秒に何度苦笑いすることになるか、このときは知る由もなかった。こうして私の市民ランナーとしての小さな歴史が始まった。自分だけが知る、ランナーとしての小さな小さな軌跡の物語だ。
2013年07月03日
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