しあわせのかたち

しあわせのかたち

チェチェン年表(簡易引用版)


1991年9月1日 「主権ソビエト共和国連邦」創設合意。 バルト3国、モルドバ共和国を除く11主権共和国
1991年9月2日 、「主権共和国による国家連合への移行を宣言」ソ連臨時人民大会で。ソ連の中央集権体制崩壊。ゴルバチョフと11主権共和国代表からなる国家評議会に全権委任
1991年9月6日 、「バルト三国の独立承認」国家評議会。ソ連併合以来51年ぶりに独立回復
1991年9月 、エリツィン、チェチェン人に対し法秩序の維持を呼びかけるが・・・・

1991年10月27日 、「全チェチェン国民投票」憲法の規定を満たし実施。「チェチェン国民独立宣言承認」。ドゥダエフ将軍、独立チェチェン共和国の初代大統領として選出(大統領候補者3名中の得票率は84%)(イングーシ人はボイコット)
1991年11月 、「チェチェン共和国独立宣言」ドゥダエフ大統領は1990年4月10日法律と「連邦離脱法」に基づきソ連からの独立を宣言。(イングーシ人は住民投票により、イングーシ共和国 の創設を選択)
1991年11月 、 ナゴルノ・カラバフ民族紛争
1991年11月8日 、エリツィン大統領、チェチェン・イングーシ共和国の非常事態宣言
1991年11月9日 、ドゥダエフ将軍、大統領に就任。地元テレビで自由を守るために国民の結束を求める。6百人から1千人の ロシア内務省軍 が9機の飛行機でグロズヌイ郊外の飛行場に到着。チェチェン側包囲
1991年11月10日 、包囲されたロシア内務省部隊、飛行機をチェチェン側に没収された上、バスを使って撤退する
1991年12月8日 、緩やかな「独立国家共同体」(CIS)を創設決議。エリツィン・ロシア大統領、クラフチュク・ウクライナ大統領、シェンケビッチ・ベラルーシ最高会議議長の3首脳がミンスクで会談
1991年12月9日 、ロシア連邦、チェチェノ・イングーシ共和国の双方が、イングーシ共和国の分離独立を承認する
1991年12月21日 、11主権共和国代表からなる国家評議会は「独立国家共同体(CIS)」への8カ国の加入とロシア共和国など4共和国による核兵器の統一管理に合意。カザフスタン共和国の首都アルマアタで開催
1991年12月25日 、ゴルバチョフ、ソ連大統領辞任
1991年12月26日 、「ソ連邦消滅宣言」。ソ連最高会議共和国会議
1991年12月31日深夜 、69年間続いてきた「ソヴィエト社会主義共和国連邦」はついに正式に消滅した

1992年3月 、ハズブラートフ、ロシア・ソビエト最高会議議長「ロシア連邦条約」へ参加促進しロシア連邦の崩壊防止に成功
1992年3月13日 、「ロシア共和国」崩壊、「ロシア連邦」として再生
「新連邦条約」に21共和国中19国が署名しロシア連邦に参加。ロシア共和国は崩壊を免れロシア連邦として再生
チェチェン共和国、 タタールスタン共和国 の2国のみ不参加だった。
チェチェン共和国は、チェチェン国民の自由意志で「ロシア連邦条約」に署名せず、ロシア連邦に加盟しなかった
1992年6月 、ロシア連邦大統領令により、チェチェン共和国から イングーシ共和国 が分離独立
1992年10月 、イングーシ共和国と北オセチア共和国との間で武力紛争が勃発

1993年 、分離独立派とモスクワ派が対立、内戦に
1994年2月15日 、タタールスタン共和国、ロシア連邦に加盟。未加盟国はチェチェンのみに
1994年5月27日 、ソルジェニーツィン、亡命先の米国から帰国
1994年12月 「第一次チェチェン紛争」(第一次ロシア・チェチェン戦争)
ロシア連邦のエリツィン政権、大規模な軍事介入。「憲法秩序の回復」のためチェチェンへの侵攻を開始と主張するが・・・・

1995年 、首都グロズヌイが陥落
1996年4月21日 、ドゥダエフ大統領、ロシア軍のミサイル攻撃で戦死
1996年5月 、後継の ヤンダルビエフ 大統領代行らエリツィンと停戦交渉。7月一杯までの短期停戦が実現
1996年8月 、チェチェン軍グロズヌイを奪還
1996年8月末 、「ハサブユルト和平合意」独立派のマスハドフ参謀総長がロシア連邦のレベジ安全保障会議書記と停戦合意。チェチェン独立は5年間凍結し、国家としての地位は2001年に再度検討すると合意した
1997年1月 、ロシア軍撤兵。 チェチェン紛争では10万人が死亡した。チェチェン難民22万人隣接3共和国ダゲスタン、イングーシ、北オセチアに逃亡

1997年1月28日 、「チェチェン大統領選挙」 国際的に承認された民主的な選挙でアスラン・マスハドフが大統領に選出された。日本のNGO、市民平和基金も選挙監視員を派遣
1997年5月12日 、「平和と相互関係に関する条約 」マスハドフ大統領とエリツィン大統領の間で締結。両国間の400年に及ぶ戦争の終結を宣言

1999年2月 、マスハドフ、チェチェンでイスラム法を発効させる
1999年3月 、コソボ空爆、プーチン、ロシア安全保障会議書記に就任
1999年8月7日 、チェチェンの一部イスラム原理主義勢力が、隣接するダゲスタン共和国をロシアの支配から解放すると称して越境侵入、ロシア軍との間に戦闘再開
1999年8月9日 、連邦保安局(FSB)のプーチン長官、エリツィン大統領の指名で、第一副首相、首相代行に就任。後日議会承認。エフゲニー・プリマコフ、セルゲイ・ステパシンに次ぐ3人目の情報機関出身者
1999年8月13日 、ロシア政府「チェチェンなどのイスラム武装勢力の拠点」に対する攻撃を警告
1999年8月15日 、マスハドフ大統領、チェチェン国内に非常事態宣言
1999年8月16日 、ロシア下院、プーチンを首相として承認
1999年9月4日 、「ダゲスタンで軍人家族用アパート爆破事件」64人死亡、133人負傷
1999年9月9日 、「モスクワのアパート爆弾事件」94人死亡、164人負傷
1999年9月13日 、9日のテロの犠牲者の「追悼の日」と定められたこの日、モスクワで再び119人の死亡者を出す爆弾事件発生。モスクワ当局は、これら一連の事件(計5件、死者約300人)はチェチェンのイスラム原理主義者が関わっていたと断定。エリツィン、全国的な「対テロリズム作戦」開始を宣言
1999年9月14~20日 、2万から3万人強のロシア軍がチェチェン国境に集結
1999年9月16日 、「南ロシア・ヴォルゴドンスク爆破事件」。17人死亡、72人負傷

1999年9月29日 、「第二次チェチェン紛争」(第二次ロシア・チェチェン戦争)
1999年10月1日 、ロシア地上部隊、チェチェン侵攻開始。「マスハドフ政権は合法とは見なさない」とプーチン首相言明
1999年10月5日 、マスハドフ大統領、チェチェン全土に戒厳令
1999年12月4日 、ロシア軍、首都グロズヌイを完全包囲と発表
1999年12月25日 、ロシア軍、本格的なグロズヌイ制圧作戦開始
1999年12月31日 、エリツィン大統領辞任。プーチン、ロシア連邦大統領代行に就任
2000年2月1日 、チェチェン武装勢力、首都グロズヌイからの撤退表明。ロシア側戦死者は1500人以上
2000年4月1~4日 、メアリ・ロビンソン国連人権高等弁務官、チェチェン訪問。後に国連人権委員会でチェチェンでの人権侵害はロシア軍によるものと非難
2000年4月6日 、欧州評議会議員総会、ロシア代表の投票権停止。評議会からの追放も議題に
2000年5月7日 、プーチン、ロシア連邦大統領に就任

2001年9月11日 、「アメリカの同時多発テロ」ロシア連邦のプーチン政権もアメリカの反テロ同盟に加入。以後、ロシア連邦のチェチェンに対する攻勢が一段と強まる。武装勢力のアルカイダなどとの連携が指摘された

2002年9月 、イングーシ共和国でチェチェンの独立派武装勢力がロシア軍と衝突、94人死亡
2002年10月10日 、「グロズヌイ警察庁舎爆弾事件」25人以上死亡
2002年10月23日 、「モスクワ劇場占拠事件」チェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠。同月26日特殊部隊が突入して犯人一味を射殺、人質を解放。その際に使用された特殊ガスの影響により人質が130人死亡
2003年6月5日 、「北オセチア・モズドク、軍用バス自爆事件」16人死亡
2003年7月5日 、「モスクワ・コンサート会場自爆事件」16人死亡。50人以上負傷
2003年8月3日 、「北オセチア、モズドク、軍病院自爆事件」42人死亡
2003年10月 、親露派の アフマド・カディロフ が大統領選で初当選
2004年2月6日 、「モスクワ地下鉄爆破事件」240人以上死亡
2004年5月9日 、「カディロフ 事件-チェチェン大統領爆殺事件」40人以上死亡
2004年8月24日 、「ロシア旅客機同時墜落事件」90人死亡
2004年9月1日 、「北オセチア、 ベスラン学校人質事件」354人以上死亡

ウィキペディア日本語版、 「チェチェン共和国」 より引用


(04/9/13作製)
(04/9/15に細かい誤字修正)

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