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2/6NEW!ワールドカップ物語

ワールドカップ物語


ワールドカップ物語とたいそうな名前がついておりますが、私の好きな選手を勝手に語るだけのものです。ちなみに内容はサッカーのワールドカップです。昔バレーボールのワールドカップ(日本開催)の会場設営のバイトをしていた事があり(益子・斉藤・中田久美が全盛だった頃)こちらも少々語りたいところもありますが、ここでは敢てサッカーに限定したいと思います。

そもそも私とワールドカップとの出会いは82年のスペイン大会でした。
当時私はサッカー少年だったのですが、サッカー自体はそれほどメジャーでもなく、テレビ放映も「ダイヤモンドサッカー」がある位で、中々プロのプレーに触れる機会が少なかったのです。
ワールドカップという大会があるのは雑誌等で知ってましたが、放映は深夜、ビデオも当時は高級でうちには無かったため、見ることができませ。
そんな折サッカー部の顧問の先生が、「今日は練習の開始を遅らせ、ビデオでワールドカップを見る。」と言い出し、それから数日は「ワールドカップのビデオを見てから練習」という日々が続きました。

そのビデオの内容は、まさに「感動」でした。その後のサッカー部のプレイスタイルにも大きく影響を及ぼしたのは言うまでもありません。今までのキック&GOスタイルのプレイを一変させ「繋ぐ事」「見せる事」を意識しプレイするようになり、結果、地区大会優勝、練習試合ではありましたが全中優勝のチームに勝利する等、様々な栄光を手に入れることができたのです。


82年大会 (スペイン)
この82年の大会は、黄金の中盤と言われたジーコ・ソクラテス・ファルカン・トニーニョセレーゾ率いるブラジル(ジーコジャパンは今この当時のブラジル代表の様なチームを目指しているのでしょうが、選手のレベルが違いすぎます。日本代表には+αが無いと・・・それだけでは勝てないでしょうね。)をどの国がストップをかけるかという大会で、あのマラドーナが苦いデビューを飾った大会でもありました。西ドイツのルンメニゲというスーパースターがいた事も忘れてはなりません。しかしながら、私のアイドルはイタリア代表(以下アズーリ)の パウロ・ロッシ でした。

パウロ・ロッシは、セリエAの所属チームでサッカー八百長疑惑に関わり、2年間の出場停止処分を明けての出場。アズーリは本大会に入り得点力の無さを露呈し低迷、ぎりぎりで1次リーグを勝ち上がったのですが、2次リーグは黄金の中盤のブラジル、マラドーナのアルゼンチンと同グループに入ってしった。誰もがアズーリの惨敗を予想したのですが、ここで一次予選不振のパウロ・ロッシが復活する。
174cm、66kgと体格には決して恵まれていなかったが、天性のゴールに対する嗅覚を持っていた。努力だけではどうすることもできない、まさに天賦の才である。日本でも「ごっつぁんゴール」で名高い元日本代表武田選手がそれに分類されるのだが、ロッシは世界最高の舞台でも才能を発揮するのだから格が違う。

注目のブラジル戦、イタリアは必ず勝たなくてはならなかった。一方のブラジルは引き分けで決勝トーナメントに進出が可能だった。
この死闘のHEROはもちろんロッシ!ハットトリックを達成したのである。シーソーゲームではあったが、ヘディングで1点、「ごっつぁんゴール」で2点、まさに天性としか言いようのないゴールだった。
その後ポーランド戦でも2点、決勝のドイツ戦で1点を加え、合計6点を上げ、大会の得点王に輝くまで、勢いは止まらなかった。
なおこの年ロッシは欧州年間最優秀選手を獲得した。

その後ロッシは数々のクラブを渡り歩く。ロッシは怪我も多く少しはやめの31才で現役生活を引退する。孤独が好きなロッシは引退後サッカー界から姿を消し趣味のダイビングに没頭。私は、何年か前イタリアのスポーツ番組でコメンテイターとして出演していたのを見たのが最後である。

生涯成績は、
イタリア代表:出場48得点20
セリエA:出場215得点82得点
この見事な成績が、異能のストライカー、パウロ・ロッシの結果である。

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86年大会 (メキシコ)
この大会はよく『マラドーナの大会』と称される。まさにイングランド戦での『5人抜き』は圧巻であり、違反行為である『神の手』ゴールを差し引いても彼を紛れも無い世界一のサッカー選手に押し上げた大会となった。決勝で当たった西ドイツの監督ベッケンバウアーが「マラドーナを止めるには12番目の選手が必要。」と言った程ですから。
また、ヨーロッパ選手権を制し優勝候補にあげられたフランスの将軍プラティニ、ブラジルの白いペレジーコ、西ドイツのベッケンバウアー、デンマークの猛牛エルケーア等のスーパースターが去り、ラウドルップ、リネカー等新世代のスターを多く輩出した大会でもあった。
そのスターの中に大きく光り輝く新星がいた。ベルギーの代表の シーフォ である。
ベルギーというと、2002年ワールドカップで日本と対戦した「赤い悪魔」として有名であるが、当時はさほど強国では無かった。その後シーフォと共にベルギーはサッカー強国となっていくのだが、2002年日韓ワールドカップにはシーフォの名前は無かった。もしシーフォが居たベルギーと日本代表が戦うことになっていたら、日本代表は惨敗を喫していただろう。

シーフォは、イタリアのシチリア出身の両親のもとで生まれた。その後両親はベルギーに渡ったため、彼はサッカーをする上でイタリア代表とベルギー代表という二つの選択肢を持つ事ができた。サッカーの上では世界に名だたる強国のイタリアとさほど強くないベルギーである。しかし彼は18歳のときにベルギー人としての道を選んだのだが、これは彼の才能を早々に見抜いた当時のベルギー代表監督、ギイ・ツイスが、無理矢理(?)彼にベルギー国籍をとらせたためと言われている。
彼は、ベルギー代表となり、期待通りワールドカップメキシコ大会では目覚ましい活躍を披露した。スーパーMFとして彼は、自ら3ゴールを決めるだけでなく、盟友クーレマンスに最高のパスを供給し続け、ベルギーを初のベスト4に導いた。この時弱冠20歳、弱小国ベルギーにファンタジスタ誕生の瞬間である。
その後シーフォが築いたベルギーサッカーは、4大会連続でW杯出場を果たし、あのプラティニに「20世紀最後のゲームメーカー」とまで言われる様になったのです。

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(2004/1/29作成)



90年大会 (イタリア)

ワールドカップ90は、個人的に最も華やかな大会だったと思っている。当時のイタリアの国内リーグ(以下セリエA)は、自国でのワールドカップ開催を睨み強化していたため、その豊富な資金により、世界中のキラ星のようなスター達を獲得、集結させていた。世界のスター達はレベルの高いセリエAでプレイする事で更に技を磨き、同様にイタリアの選手達も実力を上げていった。
 この様な状況下、当然このワールドカップで注目のチームはセリエAで活躍する選手のいるチームとなる。
 まずは、88年のヨーロッパ選手権を制したオランダ代表。このチームにはセリエAの強豪ACミランを世界一のクラブへ押し上げたフリット・ファンバステン・ライカールトのオランダトリオとクーマンがいた。
 次にACミランのライバルでインテルミラノで活躍する選手を多く有する西ドイツ。
 ナポリに所属しているマラドーナ、カレッカを擁するアルゼンチンとブラジル。
 そして何よりもホストカントリーのイタリア代表。

 どうも私は82年のロッシの影響か、アズーリが好きである。
 90年のイタリアは自国開催という事もあり「優勝」を必ずしなければいけないチームだった。また鉄壁のカテナチオを形成するバレージ・マルディーニを中心としたバックス陣、ローマの司令塔ジャンニーニ、得点王の最右翼ジャンルカ=ビアリ等、それを実行できるタレント揃いのチームだった。
 しかし本戦に入った途端、イタリアのアタッカンテ達は沈黙する。一次リーグで点が取れない。イタリア代表は地元のサポーター、マスコミから叩きまくられる。
 ここで救世主が現れる。 この大会の得点王に輝いたサルバトーレ=スキラッチと ロベルト=バッジョ である。
 なおここではバッジョについて触れる。  
 ロベルト・バッジョは北イタリアのカルドーノで生まれ育つ。彼はイタリアの大部分の子供がそうである様に、サッカー漬けの毎日を送る。
 14歳の頃近くのビチェンツァのクラブに入り、セリエCで3年間プレーした後、セリエAのフィオレンティーナに行く。
 その後めきめきと頭角を現し、早々にアズーリに選ばれる事となる。
 90年ワールドカップで彼は、一次リーグの第2戦まで控え選手だったが、レギュラー陣の不振によりバッジョ待望論が高まる。そして、第3戦のチェコスロバキア戦で途中出場し、いきなりビューティフルゴールを決めてしまう。この時のイタリアスポーツ紙の見出しは「バッジョ、社交界へデビュー」でであった。その後不振のアズーリはバッジョ・スキラッチと共に調子を上げていき、決勝トーナメント1回戦(対ウルグアイ)準々決勝(対アイルランド)ではスキラッチと2トップを組み勝ち進む。
 準決勝は生憎バッジョには出番がなく、マラドーナが率いるアルゼンチンにPK戦で敗れたが、イングランドとの3位決定戦では再びバッジョ・スキラッチのコンビが復活し、バッジョは1得点を決め、世界にその実力を知らしめた。
 この大会は華やかだった反面、前大会で英雄となったマラドーナを潰した「汚れた大会」でもあるため、私は準決勝・決勝には何の興味も無い。ただホスト国のイタリアとイングランドの間で行われた、この3位決定戦は、フェアで爽やかで、見ていて本当に楽しいサッカーだった。恐らくこれがワールドカップイタリア大会のベストゲームであろう。




94年大会 (アメリカ)



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