大漢和の李日さんへ反論



読ませていただいております。

道の認識においてはほとんど同じです。
トップの”他力本願”は、良いな~
そのほかは相当見解が違います。
例を挙げます。
>「自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、
 これを享受するに値する人間といえるのだ」
 道の考えからは”闘い取って”は、?
そのほかの発言にも、異なる見解を持っています。
でも、よろしければ是非、語り合いましょう。
互いに、異なる考えは大切だと思います。(5月6日11時9分)



私はゲーテが「ファウスト」の中で言った(登場人物に語らせた)言葉を引用したのであり、実際そのように断って書いたまでのことで、それをこのように言うのは単に上げ揚げ足取りである。
この部分は、「真に生活者の名に値するものは、生活のために日々戦うもののみ」
という訳もありえます。
サハロフ博士が、この言葉を好きだということです。それが自分が「ファウスト」を読むきっかけになりました。

さらに言うと、この人は「道」などという概念があってそれを基準にして、そこからはみ出しているかどうか、ということを問題にしているようだが、それはまったくナンセンス。(そんなことは儒家がやることだ)

道家とは、儒家、墨家に対して異議を申し立てる、つまり攻撃対象があって初めて成り立つという自ずからに限界を内包した立場であり、別な言い方をすると、「いちゃもん」の家である。

それをこのように言っているところを見ると、大方何か「単行本」の一二冊にでも目を通したか、誰かにレクチャーされたぐらいのものだろう。

また、道家と道教の道士とは違う。
儒家と宗教の儒教信者が違うように。




道の認識においてはほとんど同じです。
トップの”他力本願”は、良いな~
しかし、あなたは道や念仏とは全く関係ない。
対極そのものだ。
是非とも、道の名を使うことを止め、修験者やお題目を名乗っていただきたい。
そうすれば、あなたの主張と名が合致する。
そうして、反対側どうしとしてお話できませんか? (5月6日23時40分)




このような意見は、数年前なら、自分も抱いたであろう物で、ある程度は予想していたことです。
一応、書き込みをした方のサイトには、とりあえずの反論を書いておきましたが、長くなると、「あらし」などと言われかねないので、こちらでページを作ることにしました。

まず基本的にこの方は、何か「道」というものがあって、その基準に照らしてここがおかしい、式の論を展開してます。さらにものの言い方として、「私」という基準からおまえのは受け入れられないと言っています。

初めに断っておきますが、顔も姿も無い「あなた」の基準など私には何の意味も無い。
「お話できませんか」などと交際を求められれていますが、お断りします。

道家とは、「その時代の社会を支配する社会(集団)力学に挑戦した人々である」というのが私の意見です。したがってその時代に特有の「道家」がいたのです。
「荘子」にしても一貫した意見で貫かれているわけではありません。

大体百五十年から二百年の歳月をかけ、かなりの数の人間が書き継ぎ、写し継ぎ、語り継ぎ、編纂編集、削除等々を経た書物が、一貫した主張を持っているというのは「言葉の綾」でしかない。

その意見に賛成できない人に対して、それを改めるようにすすめることはしませんが、攻撃されれば反論はします。

以下、これからページを作っていきます。


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