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高橋信次先生に学ぶ
人間釈迦と如来壽量品
お釈迦さまは、
全ての人々は皆如来になるのである
、ということを説かれた。
この「如来藏」の真理は原始仏典の中にはない。
それなら高橋信次先生は、どう説いていられたのであろうか。
それがはっきり出てくるのは
「人間釈迦第4巻135頁、解脱への道」
である。
この「人間釈迦」という本は第1巻の「はしがき」に書かれてあるように、霊的示唆と自動書記現象によって書かれたもので、高橋信次先生が目を瞑ると、2500年前のインドのお釈迦様の時代のことがパノラマのように瞼の裏に展開される。
すると手が自然に動いて書かされたというもので、この本を読んだ人達はみな高橋信次先生を、お釈迦様の生れ変りであるというようになった。
「解脱の道」という章は、お釈迦さまが出家をされて、12年ぶりに生れ故郷であるカピラ城へ帰られて、自分の父親であるシュットダーナー王をはじめ釈迦族の主だった人達に説法をされたことが書かれてある。
「釈迦族の友よ、多くの衆生は盲目の人生を送っている。
城内の友は、なに不自由なく優雅な生活を送っているが、一歩城外に出ると、生活に疲れた賎民たちの群れがいる。
同じ太陽の下で生活しながら、カースト制度によって社会悪をつくり出している。
人は、生まれによってその価値が定まるのではない。
また、聖者というものは、慈悲の心と行いで、いかに多くの人に生きる喜びを与えたかということで定まるものである。
人が敵味方に分かれて争いに走るのは、自己の利益のみにとらわれるからである。
武力によって他を支配しても、いつの日かまた武力によって支配されよう。
しかし、心の価値、不変の神理を理解するならば、いかなる大国の王たちといえども、争いと破壊の空しさを悟ることができよう。
人間は、闘争と破壊の歴史を繰り返すために生まれてきたのではない。
より豊かな心と、調和された杜会を作るために生まれてきたのである。
それが同胞相争い、自己の権益を守るために一生を終ってしまう。
いったいどこに人生の目的と意義があるのであろうか。
おろかというほかはない。
旧来の信仰では、自らを救うことはできない。
(ここのところを読むと、2500年前の世界と、現在の世界とが全く同じであって、人間の心というものは少しも進歩していないということがよく分かる。
信仰の世界でも同じである。
一つの神に生かされている人間が、救われる道は一つであるべきである。
なのに、現在、日本には約二十万近くの宗教法人があって、それぞれに人が救われる道を説いているのである。
人間が救われる終局の神理が、二十万通りもある箸がない。)
自分を救う者は、自分以外にない。
思うこと、行なうことが神理=法に適った生活以外に道はない。
なぜなら、人それぞれの心の中にアートマン(真我)というものがある。
その真我に目覚めることなのだ。
真我なる自分は、天地創造のすべてを知っている。
真我以外に他に頼る必要のない自分、正しい自己こそ頼るべきすべてである。
偽りも憎しみもなく、赤子のような安らぎのある自己。
天真爛漫な素直な心。
これこそ、アートマン(真我)の姿である。
しかるに、人は生まれた環境、教育、思想、習慣に溺れ、自己保存の偽我に蔽われ、自ら苦悩をつくり出して行く。
苦界のままで人生を送れぱ、死後の人生もまた苦界である。
苦界とは地獄である。
(地獄は神がつくったのではない。
神が悪いことをした人間を懲罰するために地獄をつくられたと説く人があるがそれは間違っている。
人間には想念の自由が与えられてある。
だから人間は、善を思うことも悪を思うことも自由である。
人間が自らの想念することの自由によって悪を描いた、その想念があの世で地獄として現わされているのである。
だから、人間は自分が勝手に想念した悪の中で、自分で勝手に苦しんでいるのである。
いくら他に助けを求めても、自分が心の中で悪なる想念を描いていれぱ、どこまで行っても悪は消えることはない。
それが即ち因縁因果の法則である。
因縁の法則を説いていながら、一方で他力信仰を説く間違った宗教指導者がいかに多いことか。)
地獄といい、極楽といえども、神が造られたものでははい。
人ぴとの想念と行為が生み出したものだ。
(ここでいう極楽とは、神が造られた天上界ではなくて、人間が想念によって造り出した極楽のことである。
努力する必要のない、寝ていて食える、欲しいものは何でも手に入る、怠惰な世界のことである。
仕事をしなくても食える世界を夢見た人達は、そういう世界へ行く。
すると、仕事が無いことがどんなにつらいか、食うだけで何もしないということがどんなに空しいものであるかを知らされるのである。)
恐れてはならない。
自らを卑下してはならない。
希望を持って謙虚に、与えられた環境を十分に生きようと努カする者に、神仏の慈悲が惜しみなく与えられるのである。
(
あの世とこの世とを通じて、もっとも尊いことは明るい感謝の心を持って努力することである。
努カの価値がどんなに尊く大事なものであるかということは、あなた方の周囲に、何の信仰も持たないがいつも明るい心で感謝して、一所懸命に努力して成功し幸福になっていられる人がある筈である。
その反面に、一所懸命に信仰していても、いつも暗い顔をして、仕事も努力せず、何かあると拝んだりお詣りばかりしていて、一向に幸せにならない不幸続きであるという人もある筈である。
信仰とは何か、拝んだりお詣りしたりすることではなくて、
明るい感謝の心で努力することなのである。
努力する人にの慈悲加護が与えられるのである。
)
釈迦族の友よ、
目覚めよ。そして、起て。」
ブッダの法は解脱の法であった。
輪廻から解脱するというものであった。
もう一つは現象界にとらわれない生き方であった。
如来になれぱ、転生は己の意思に委ねられる。
この場合は転生の粋から完全離脱したといえるわけだ。
(転生の絆から完全に離脱して転生は己の意思にゆだねられるということは、如来になれぱ過去、現在未来の三世を見通す力が得られるから、この世の助きのすべてが分かり、自分の思う時と所に白由に肉体を持つ事が出来るということである)
現象世界にあって、一切の物に囚われが無くなれぱ、生きながらにして解脱の境地にあるといえる。
一方、転生の永久運動には、生命の循環と因縁因果がある。
生命の循環(あの世とこの世を循環する)とは、生ある者の天命であり、生命として現象世界に現われた者は、循環の法の外にはみ出ることは出来ない。
これを、生の天命という。
ただし、個の魂が神に近づき、仏に至ると法の施行者となり、転生は個の魂の意思に委ねられる。
因縁因果は、カルマの輪廻であり、苦楽は永遠につづく。
大部分の生命は、循環の法の作用のなかで、因縁因果を繰り返しているわけである。
シュット・ダナーがブッダの法を聴聞し、感動した点は転生の粋から完全離脱出来るということであった。
「個の魂が神に近づき、仏に至ると法の施行者となる」
ブッダというのは、神の心を完全に知り、神の心をそのまま人に伝える力を持たれた人のことで、日本では「神仏一体」ということを、神のことを仏とも言うである、という意味に解釈している人が多いが実際はそうではない。
お釈迦様の事をブッダと言うのは、お釈迦様が完全に法を知って、神の心の全てを知っていられたからブッダと言うのであり、お釈迦様が出生される以前、三千年も前からインドにブッダが出られるということが言い伝えられていたのである。
お釈迦様が悟りをひらかれた後、忽ちにして中インド全体に広がって、多くの人がぞくぞくと帰依してきたのは、やがてブッダがインドに出られる、という、ブッダの出生を待望する空気があったからである。
ブッダが、やがてインドに出生されるという言い伝えはギリシャから伝えられた。
ブッダと言う悟られた方が亡くなられる時は、この次はどこに生まれる、ということを予言をされることになっている。
ブッダと言うインドの言葉が、中国では「仏陀」と訳され「仏」ともいい「如来」とよぱれたのである。
だから、「神仏一体」と言うのを、宇宙創造の神の事を、仏教では「仏」と言うのであると解釈しているのは間違いである。
神の心を完全に知っている方を仏と言うのであるから、その心の面に於ては「神仏一体」ということも言えるのである。
如来の事をキリスト教ではメシヤという。
菩薩の事を光の天使といっている。
仏教でいう如来と菩薩、キリスト教でいうメシヤと光の天使は、我々と同様に個生命である。
我々と違う点は、それらの個生命を持たれた方々は、あらゆる経験を通して悟られた範囲が、地上の我々が依然として煩悩迷妄の暗い雰囲気の中に留まっているのに反して、宇宙の「一なるもの」即ち「神」を悟っているということである。
我々が全て悟りによって完成されてゆくように、如来、メシヤ、大指導霊と言われる方も、自分自身の体験と悟りによって完全に自己統制をされて、善いことのみをし続けて来られた人達であるのである。
我々が神を想うことが出来るのは、我々が神と一体であるという何よりの証拠なのである。
だから、我々を神の子というのであり、我々は「神の意識」のまがうかたなき延長であり、「神の意識」そのものなのである。
人生の、永い輪廻転生の旅路というものは、神の意識の延長である人間の意識が、色々な体験をして、また神の意識であったことを自覚して、神の意識に帰る道程なのである。
その人が神の意識に目ざめず、どんなに悪を犯そうとも、その人もまた神の意識なることを知るまでは永い輪廻転生をくり返さなけれぱならないのである。
だから、どんな悪人でも、全ては救われることが約束されているのであるが、それは自分が悟る以外に救われる道はないのであって、救われるのはあくまでも自力であって他力では救われないのである。
如来、メシヤといわれる方は、神の法の全てを知っていられる法の実践者なのであって、法の講義をする人ではないのである。
だから如来、メシヤは自ら実践して、斯くの如く生きよと示されるのであるから、説かれることと行うことが一致しているのである。
法の一部分を知っている人達は、ある程度法を講義はするが、実践の出来ていない面があるから、言うことと行うことが一致しないのである。
頭で知的に法を知ることが出来ても、実践していなかったら、それは法を知ったとはいわれない。
だから、高橋信次先生が、
「言うことと行うことの一致しない者はニセモノである。そういう者を信じてはならぬ。」と言われたのである。
我々は「罪の子」でもなければ「罪悪深重の凡夫」でもないのである。
人間の不完全な、神の子であることを自覚していない想念と行為とのみを見れば、「罪の子」であり、「罪悪深重の凡夫」と見える。
しかし、そう見えている表面の姿の奥に、
未だかつて汚れたことのない、神の子の意識があるのであることを見ないといけないのである。
人間が救われる原理は、そこにあるのである。
われわれはみな、如来に到達しなければならない。
必らず如来になることを神に約束されている神の子なのである。
それがお釈迦様の言葉であり、この一大事が釈尊減後の弟子達によって伝えられず、お釈迦様が亡くなられて九十日目に、迦葉を中心として阿難の記憶によって結集が行なわれた時に、その結集を不満として去って行ったのが文殊と普賢である。
この文殊と普賢が説いたことが後に拾い上げられて大乗仏教となって行った。
であるから大乗仏教ではこの二人が主体になって、智恵第一といわれた舎利仏も、文殊には頭が上らなかったということになり、文殊の智恵といわれるようになった。
普賢のことは「妙法蓮華経」の最後の締めくくりとして「普賢菩薩勧発品第二十八」というものにまとめられ、お釈迦様が直接普賢菩薩にこのように説かれたという形で書かれてあり、文殊菩薩は智の象徴であり、普賢菩薩は理を象徴する菩薩であるということになっているのである。
法華経で、お釈迦様だけでなく、すぺて人は如来になれるのであるということを取り上げたことは実に素晴らしいことであった。
ところが法華経が素晴らしい神理が説かれているという余りに、余分なことを付け加えてしまった。
「普賢菩薩勧発品」の中にも次のように書かれている。
後世、法華経を読んだ人達がみな間違えてしまったのは、みなお釈迦様がそのよう言われたのである、という形で書かれてあるから、お釈迦様がそのように説かれたのであったら、そのようにしなけれぱならない、ということでそのようになってしまったということであるが、心が伝えられずに形だけになってしまったところに、根本的な間違いがあるのである。
「普賢よ、もしこの法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者はまさに知るぺし。
この人は釈迦牟尼仏を見たことになるのである。
即ち仏教信仰の最も高い境地に入るのである。
だから、仏の口から直接に、このお経を聞くのと同じである。
釈迦牟尼仏を直接供養することになるのである。
その人を仏がお褒めになるのである。
その人は仏がみ手をもって、その頭を撫でて下さるのである。
その人は釈迦牟尼仏の衣に覆われることが出来るのである。
もし人がそしったり軽んじたり、汝は気違いである、そのような修行をしても、なんの結果もないであろうといった人は、眼が見えなくなるであろう。
もしまた、法華経を持っている者を見て、その人の過失や欠点を見出してあぱくようなことがあると、それが本当であってもなくても、そのようなことをする人は現世でライ病になるであろう。
また法華経を持っている人を軽んじたり笑ったりする人は、歯が欠け隙間だらけになり、唇は醜く、鼻や手足も醜くなり、目も体も人にきらわれるようになるであろう。
であるから普賢よ、もし法華経を持っている者を見たら、遠くからであっても、仏を迎えるようにしてその人を迎えなけれぱならないのである。」
私達は、高橋信次先生の本を読み話を聞いていたから、このような言葉に迷わされることはないが、尊いお釈迦様がすべて説かれたものであるといって見せられた過去の人々は、みなこれがお釈迦様が説かれたのであると、信じてしまったのも無理はないと思う。
日蓮上人も法華経が第一であると思われた。
日蓮上人はまた、法華経第一に思われる余りに、法華経の中に説かれてある法を大事にせよと言われるつもりで「南無妙法蓮華経」と唱えよ、「南無妙法蓮華経」と一回唱えることは、「妙法蓮華経」全巻を一回読んだことに相当すると説かれたために、日蓮宗の信者達は一回でも沢山唱題すれぱ救われると思って唱えるようになった。
いくら朝から晩まで休みなしに唱題してみても、心が分からなかったら悟ることはできない。
法然、親鸞の念仏が日蓮上人の唱題より先に言い出されたのであるが、念仏は人間の無力感に立って、救いは向うから阿弥陀如来様から来るというのである。
この念仏も法華経に書かれてある「受持し、書写し、憶念し」というところから導き出されている。
更にもう「唯願わくば世尊、わがこの陀羅尼を説くことを許したまえ。即ち仏前に於いて、呪を説きてもうさん……」
と言って「呪」を唱え、
「世尊、もし菩薩ありて、この陀羅尼を聞くことを得ん者は、まさに知るべし、普賢神通の力なり」
と、陀羅尼を唱えると仏に守られるというところから発したものである。
心なくして、ただ、読誦すればいい、写経すれぱいい、念仏や題目を唱えれぱいいというのは明らかに間違っているのであって、仏に通じ如来に通ずる綺麗な心を持ってするならぱ、それはまた、それだけの心の進歩があるのであるが、心を忘れての信仰は成り立たないのであることをよく知らなけれぱならない。
高橋信次先生が書かれた「心行」は、宇宙の法が説かれてあるのであり、高橋信次先生が「心行」を書かれたのは、この宇宙の神理を全人類に知らせたいという慈悲の心から書かれたものである。
これは仏典や聖書と同じように扱わなければならない。
どうしても精神が統一しないという娘さんがあった。
私(園頭先生)はその人に「心行」の意味をよく噛みしめながら毎日「心行」を書写することをすすめた。
それは三月であったが、九月にその方に逢った時、全く見違えるように落着いていられたのには驚いた。
写経も本当にその意味が分かってするならばよいが、意味も分からずにするのであれば、その事によって、心が統一され字が上手になるという利点はあっても、それによって悟ることにはならないから、写経されるならば、意味をよく噛みしめながら写経されることをお勧めする。
日本仏教は、法華経の形骸だけになっているといえる。
法華経を信ずるというならば「如来壽量品」と「授記品」をもっと信じて、「やがて人はみな如来にならなければならないのである」ことを知って、心を大事にしてゆくべきであると思う。
そうなるならば、信仰は心でするものであるから、
「月に千回、百年間祀るとも、たとえ、一時でも、よくこれを修めた一人を導くならば、その供養はまさに百年間の祭祀に優る」
とお釈迦様が説かれたように、仏教は祭祀することではなくて、法を実践するものであることを知って、祭祀仏教、葬式仏教、観光仏教であることをやめなければならないし、法華経の中の、お釈迦様が説かれたのではない、後世の作者がつけ加えた間違ったことを正しいとして伝えていることを信じている新興宗教も、これまでのあり方を大改革しなければいけないのである。
人間が神を求めずにはいられないのは、本来人間は神の意識の延長線上にある神の子であり、即ち如来になり得る意識を持っているからであり、本当の信仰はそこに原点を置かなければならないのである。
罪の子が次第に神の子になるのではないのである。
それは本来ダイヤモンドであるからこそ、磨けばダイヤモンドの光りを放つことが出来るのであって、石をいくら磨いてもダイヤモンドになることはないのと同じである。
どんなに美しい素晴らしい言葉を以ってしても褒め過ぎるということはないほどに、素晴らしい神の意識を持っている我々が、そのことをどれだけ自覚し実践しているかによって、その人の人格が違うということになるのである。
神はないといっている人は、神があることを自覚するまでに至っていない幼い魂の持ち主であることを知って、その人が早く神の意識に目覚められるように祈ってやらなければならないのである。
目を瞑って今から二千五百年前のインドの当時を想起し、現在の状態とを比較対照して考察する時に、神が創られた法、神理を、正しく伝える事がいかに難しいかを思わされる。
正法は大衆一般から大衆一般へと伝えられることはない。
正見することが出来る霊の次元の高い人から高い人へと、心ある一部の人々によって伝えられてゆく。
お釈迦様の説法を、直接聞いた人の中からお釈迦様を否定する人物が現われ、またお釈迦様の教を正しく伝えようとしながらも霊の次元の違いによって大事なことが抜かされてしまった。
お釈迦様の滅後七百年目に「人はみな如来にならなければならないのである」ということが法華経という形で拾い上げられた。
もし、この事が無くて原始仏教だけが残されたとしたら、今日、仏教というものがインドから中国を経て日本へと伝えられてきたかどうかは疑問である。
お釈迦様時代の、そのままの原始仏教のあり方を守ってきているのが現在スリランカに残っている南方仏教である。
この南方仏教即ち小乗仏教は日本には伝わってこなかった。
北方仏教即ちインドから北の方の中国へ、そして日本へと伝えられたのは大乗仏教であった。
大乗仏教にいろいろ間違った点はあっても、法華経という形で如来寿量品が伝えられた意義は極めて大きい。
これあるが故に仏教は正しいとして伝えられていったといえる。
お釈迦様滅後の直弟子達が犯した大きな過ちがもう一つある。
この事は、日本に仏教が伝来して以来千五百年になるがその間、誰も気づかなかったことである。
これは原始仏教時代の僧達が、「輸廻を超越して涅槃に入られた」という事を、本来は、輪廻を超越していられるから、思う時と所とに自在に肉体を持つことが出来られるという意味であるのに、輪廻を超越していられるから、もう二度とお釈迦様は肉体を持って生まれられることはない、それを涅槃に入られたというのであると解釈したことである。
正法誌16号1979.12より抜粋
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