ヒジャイ        日々の詩

     ヒジャイ        日々の詩

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2011/06/20
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 沖縄の教育は戦前、戦後の復帰前、復帰後の三度主義主張が変貌する。
 戦前は皇民化教育を率先してやり、軍国主義の一翼を担ったのが沖縄の教育であった。中里氏は「すまん。許してくれ。戦時中あんな教育をしたことを許してくれ」と懺悔しているが、ほとんどの教育者は自分たちが皇民化教育をしたことには触れない。教え子を戦場に送り、死なせてしまったことへの懺悔とそれゆえに戦争に反対を唱える教育者はいるが、皇民化教育をやり軍国主義に加担したことを認める教育者はほとんどいない。

 その理由は、軍国主義が高揚している最中に日本は戦争に負けたので、ほとんどの国民が天皇制を受け入れ、軍国主義思想に埋没していた状態で戦後に入ったことである。日本は戦争に負けたのであって、思想闘争に負けたのではなかった。ほとんどの国民が軍国主義が悪いとは思っていなかったし、沖縄の教育者も皇民化教育が悪いとは思わなかっただろう。戦後の沖縄の教育者は軍国主義を否定していたわけではなかった。むしろ、戦争に負けたことへの無念のほうが強かっただろう。
 仲里氏が皇民化教育を反省することができたのは熱心なキリスト教信者だったからだろう。天皇制の教育を受けて育った人が戦争に負けたからといって思想を変えることは簡単にはできない。
 しかし、「自分はうその教育をしてしまった。罪ほろぼしのために、神様へのおわびのためにこれからは本当の教育をしなければならない」とキリスト教にのっとった教育を本当の教育と考えるのは傲慢である。

 戦後の沖縄は日本が祖国であるという教えが教育の始まりであった。アメリカ軍の施政権下に置かれた沖縄で沖縄の子供たちがアメリカに慣れ、沖縄を日本と思わなくなるのを沖縄の教育者は一番恐れた。だから、戦前から徹底して行われた日の丸と君が代と共通語励行の教育を沖縄の教育者は徹底してやった。
 注意すべきことは、教員や公務員を中心とした祖国復帰運動は日本が祖国だから祖国に復帰するという運動であったことだ。祖国復帰運動は反戦平和運動でもなければ民主主義運動でもなかった。単純に沖縄は日本であり、日本復帰を目指した運動だったのだ。日本の憲法が反戦平和、民主主義であるのは関係なかった。極端にいえば日本が軍紺主義国家であっても祖国復帰運動はやっていたということだ。

 小学四年生の時、君が代の君とは誰なのかという質問を先生にやった。すると先生は、「友達に君とかお前とかいいうだろう。その君だよ。つまり君とはみんなのことだよ」と説明した。君が代の君は天皇であるとは先生は絶対に教えなかった。日の丸から軍国主義を消し、君が代から天皇を消して教えたのが沖縄の教育だった。

 「戦後沖縄教育運動史」の筆者奥平氏は、「米政府は沖縄の魂をズタズタ切り裂き愚弄し、それを日本政府は終始一貫追認・黙視したことへの激しい憤りと悲痛な思い」をしているという。そして、「戦禍による言語に尽くしがたい生活破壊と劣悪な教育環境の中で、やむにやまれず沖縄は教職員会が結成されたのが1952年4月。アメリカの『軍事植民地』に対抗して『平和と民主主義』をモットーに教職員会は、島ぐるみ闘争、教育四法、教育二法阻止闘争を展開していく」と述べている。



 戦後沖縄の法律はアメリカの法律を下地にして作った。琉球政府、立法院、裁判所と三権分立体制をつくり、主席はアメリカ民政府が任命したが、立法院の議員は選挙で選ばれた。しかし、立法しても民政府は拒否することができた。沖縄の発展に必要不可欠であるのが大学であるとするアメリカは琉球大学を設立した。戦前に比べると沖縄の社会はかなり民主化された。
 島ぐるみ闘争は、朝鮮戦争を体験したアメリカが社会主義の拡大を阻止するために沖縄のアメリカ軍を強化するために行った新たな土地接収に対する反対運動であり、島ぐるみ闘争は土地所有主義からくる反米軍基地運動であって「平和と民主主義」とは関係のない闘いだった。

 戦前の沖縄には平和や民主主義思想はなかった。三権分立や20才以上は身分や男女に関係なく選挙権があり、議員になれるのも身分や男女に関係ないようになったのは戦後であり、それもアメリカが法制化したものだ。復帰前の沖縄の教育は日の丸、君が代、共通語励行、日本が祖国であるという教育であり、平和、民主主義教育はやっていない。復帰前に教職員会が「平和と民主主義」をモットーとしたことには疑問であるし、島ぐるみ闘争、教育四法、教公二法阻止闘争は「平和と民主主義」とは関係のない闘争だった。

 教公二法は教師の政治活動を禁じた法律である。沖縄では教師は選挙運動が自由に行え、革新系の立候補者は学校に入り、教員一人一人と握手して支持を訴えるのが日常化していた。
 教公二法が立法化されようとした時、教師たちが立法院を取り巻き、立法院に入るのを阻止しようとした警官をごぼう抜きにして立法院に押し入り、「実力」で教公二法の立法化を阻止した。沖縄の教職員会はそのくらい強い組織であった。選挙で選ばれた議員の多数決を実力で阻止することが「民主主義」なのだろうか。教師は公務員である。公務員が自分たちの政治活動の自由を守るためにやった教公二法阻止闘争は大衆運動ではないし、民主化運動でもない。むしろ権力闘争であるといえる。

 奥平氏は、「日本国憲法の理念を教育に定着させるために『本土並み』が目指されていた」と述べているが、沖縄の生徒が使う教科書は全て本土で作られた教科書であり、教科書を教えることが日本国憲法の理念を教育に定着させることであり、なにも特別なことをしたわけではない。
 沖縄教職員会が主導した祖国復帰運動では、祖国復帰すれば「本土並み」に核も基地もない平和で豊かな沖縄になる。学校の設備も本土並みになるし、沖縄の学力も本土並みなると啓蒙した。しかし、復帰してみるとアメリカ軍基地は存在し、学校の設備と教員の給料は本土並みになったが、学力は全国最下位のままである。

 日本が祖国だから母なる祖国に復帰することが沖縄の悲願であるという主張から、祖国復帰すれば全て本土並みになると転換したのが1960年代だった。
 奥平氏は、「日の丸は米軍支配への抵抗、祖国復帰のシンボルであったが復帰運動の中で急速に日米共同体性の中に吸収され、その意味を失っていく」と述べている。それは復帰運動の中で意味を失っていくのではなく、復帰運動の外で意味を失っていった。復帰すれば沖縄は核抜きの基地のない平和で豊かになると復帰運動で吹聴してきたが、祖国復帰が現実になるとアメリカの軍事基地はそのまま残った。祖国復帰運動の主張が嘘であったという事実が明らかになり日の丸も色あせてきたのだ。
 しかし、祖国復帰運動のシンボルは最後まで日の丸であったし、日の丸を星条旗と交錯して燃やした琉球大学の自治会は祖国復帰運動の県民大会から排除された。

 復帰前に祖国復帰運動の象徴であった日の丸・君が代が、復帰後は反対の扱われ方をする。日の丸・君が代は軍国主義の象徴となり沖縄の教職員会から忌み嫌われる存在になったのだ。沖縄教職員会が表面きって軍国主義を否定するようになったのは、日の丸と君が代が用なしになった復帰後からである。


 戦後 祖国復帰運動 日の丸、君が代、共通語励行教育、反米主義、親社会主義。
 復帰後 日の丸、君が代の否定。軍国主義の否定。

 沖縄の教職員会は復帰前と復帰後では日の丸、君が代に対する態度が反対になっている。その裏の事情は、教員の待遇の問題がある。戦前は教員の待遇はよかった。しかし、戦後はアメリカ流になった。アメリカは教育税を徴収し、その税金で教育関係の予算をまかなう。沖縄は貧しかったから先生の給料は安かった。ところが本土の方は戦前と同じように教員を優遇し給料が高かった。
 教員の給料を高くするには「祖国復帰」する以外になかったのだ。日の丸、君が代は日本政府へ沖縄は日本なのだから早く復帰させてくれという懇願に使われた。
 だから、復帰すれば日の丸、君が代は沖縄教職員会には必要のないものになった。復帰した途端に、本土の教職員と仲良くなるために日の丸、君が代を突き放したのだ。






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Last updated  2011/06/20 12:30:01 PM
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