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2011/09/14
あまりにひどい基地政治経済論
テーマ:
政治について(20277)
カテゴリ:
沖縄に内なる民主主義はあるか
「1950年代、沖縄の全雇用者のほぼ2人に1人が軍雇用で、その賃金はというと、沖縄人の『最高』時給36セントに対し米国人の米国人の『最低』時給は1ドル20セント、基地建設のため来沖した日本人の『最低』時給は83セント。このような差別的賃金体系だけでも了解されるように、沖縄人は米軍にとって基地維持のための安上がりでしかも使い捨て可能な『物資』だった」
現在、中国の労働者の賃金は一万円くらいである。日本の賃金の二十分の一くらいだ。賃金格差というのは地元の経済力に左右される。アメリカの経済と沖縄の経済では大きな格差があり、それが給与に反映したのだ。豊見山和美さんはアメリカと沖縄の経済格差を調査しないで、単純に米国人と沖縄人の給料格差を差別と断定するのは間違いだ。
豊見山和美さんは、なぜ、沖縄人の2人に1人が軍雇用員であった理由を述べていない。アメリカ軍は沖縄人に強制労働をさせたのではない。軍作業をするかしないかは沖縄人の自由であり、軍作業に不満なら辞めることができた。それなのになぜ2人に1人という脅威的な率で沖縄人が軍雇用者だったのか。
答えは簡単だ。沖縄の産業は農業くらいしかなく、仕事がなかったからだ。それに他の仕事に比べて軍作業は楽であり給料もよかったからだ。沖縄は戦前から農業はさとうきびで産業は精糖業くらいで、産業らしい産業はなかった。沖縄は貧しかったから移民が盛んだった。
豊見山和美さんは、沖縄人時給36セントアメリカ人時給は1ドル20セントという大きな給料の格差が沖縄人の経済を潤した現実を知らない。沖縄人に比べて高い給料をもらっている家庭のあるアメリカ人は沖縄人のメイドを雇った。多くの沖縄女性がメイドの仕事をした。アメリカ人は陽気で気さくな人が多い。たとえ英語を使えない女性でもメイドに雇った。
あの頃、沖縄女性の仕事はほとんどなかった時代だ。メイドの仕事は沖縄女性に仕事の場を与えた。
アメリカ人の多くは基地外の外人住宅に住んだから建設業やアメリカ人相手の商売も栄えた。沖縄の経済が発展したのはアメリカ人と沖縄人の給与格差が大きく影響している。
「沖縄人は米軍にとって基地維持のための安上がりでしかも使い捨て可能な『物資』だった」というのは、アメリカは悪だという先入観が強いせいであり、当時の沖縄の現実を知らないために述べている。豊見山さんは基地維持のためにだけ沖縄人を雇用していると思っているが、それは違う。失態事業の一つしてアメリカは必要以上に軍作業員を雇用していた。
復帰直前の沖縄の失業率が1%未満であった事実を富山さんは知っているだろうか。それに軍作業が楽であったことを知っているだろうか。アメリカは沖縄人の生活を援助するために軍作業員を必要以上に雇っていたのだ。
アメリカ軍基地があるから軍雇用があるのであり、アメリカ軍基地がなければ軍雇用員は全員職を失う。豊見山さんは軍事基地に替わる労働の場をつくればいいというが、沖縄にアメリカ軍基地の雇用に匹敵する産業をつくることができたのか。それは不可能だった。原因は政治の貧困の問題ではない。沖縄という島の大きさ、場所、沖縄人の経営能力の問題だ。沖縄にアメリカ軍事基地がなかったら、沖縄で生活できない人が増え、貧しい生活に耐えられない多くの人たちは県外・国外移住をしていただろう、戦前と同じように。もし、沖縄にアメリカ軍基地がなかったら、沖縄の人口は半分くらいだったろうし、生活水準はもっと低かっただろう。
基地のない島を思い描くのは簡単だ。基地のあった場所を野原にし、アメリカ人を消せばいい。難しいのは基地で働いている人間たちが沖縄で働いている様子を想像することだ。
復帰後は日本政府の本土格差の解消や振興策等の名目で莫大な金が沖縄に投下されたから、軍から解雇された人たちが公共工事の仕事にありつけた。豊見山さんはアメリカや日本政府に文句ばっかし言っているが、アメリカや日本政府のお金が投下されなかった場合の沖縄を想像したことがあるだろうか。戦前の沖縄の人々の生活の様子の写真をじっくり見たことがあるだろうか。戦前の沖縄の経済状況を調べたことがあるだろうか。戦前の沖縄にはどんな産業があったか調べたことがあるだろうか。
戦前の沖縄は非常に貧しかった。だから海外移住が盛んだった。
写真はヘルメットを被った全軍労牧港支部のデモ隊であるが、沖縄にはヘルメットを被る労働運動はなかった。沖縄で最初にヘルメットを被るようになったのは学生運動だが、沖縄の学生もヘルメットを被ってデモをすることはなかった。ヘルメットを被るようになったのは沖縄の学生運動が本土の左翼運動の党派と連携するようになったからだ。1970年前後から本土の左翼運動家がどんどん沖縄にやってきて、沖縄の学生運動や労働運動に影響を与え、学生運動や労働運動が過激になった。
学生運動や労働運動が過激になったということは思想も過激になったということだ。ヘルメットには写真のような白いヘルメットや、白いヘルメットに線が一本は行っているヘルメット、赤や青のヘルメットと党派によってヘルメットが違っていた。だから、ヘルメットを見れば党派がわかるようになっていた。写真の白いヘルメットは武力革命を目指している党派のヘルメットで、学生運動も過激だった。コザ騒動を「革命前夜」と吹聴したのもこの党派だった。
豊見山さんは、「武装決起した若者らのイコンー武装決起した若者らの図像―を見つめなおすまなざしの深さをも獲得しなければならない」と「武装決起」した若者を美化しているが、「武装決起」を美化しないでほしい。 「武装決起」は単に怒りが高じたというような単純なものではない。「火炎瓶闘争」や「武装決起」をするということは、労働運動を大衆運動や条件闘争とは考えないで、上のランクの革命を目指した運動と考えていることである。つまり、資本主義国家を打倒してソ連や中国のように日本も武力革命をするのだという思想が「火炎瓶闘争」や「武装決起」の裏にはある。そのような過激な党派は思想対立が発展すると党派闘争をやるようになり、内ゲバという殺し合いまで発展している。「武装決起」の美化は避けるべきだ。
アメリカ軍基地がアジアの平和に貢献していると発言する基地労働者も出てきて、基地労働者の主張も変化してきている。アメリカ軍基地が沖縄に存在するのは、アジアには中国などの社会主義国家があり、社会主義国との対立があったからだ。社会主義国家との緊張が低下するに従ってアジアのアメリカ軍基地は減っていき、沖縄のアメリカ軍基地も縮小されていった。中国が社会主義国家である限り、沖縄のアメリカ軍基地が完全に撤去するということはないが、中国は市場経済を導入してアメリカや日本との貿易が盛んになって、対立緊張はゆるくなってきた。これからも沖縄のアメリカ軍基地は減少していくだろう。
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Last updated 2011/09/14 11:51:59 AM
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