～２～

　　しんと静まりかえったマンションのエレベーターホール。
　　1年前のリアクションとはまったく違う、
　　奈緒が目の前に立っていた。

　　リアクションとかじゃないな。
　　無表情でこっちを見ていた。

　　まさかと思ったけど、会いたくないときに限って会うんだよな。
　　奈緒もそう思ってるみたいだった。

　　こっちを指差して、笑って憎まれ口をたたく。
　　そんな今までの奈緒とは別人のような気がした。

　　言葉も交わさず、同じエレベーターに乗り込む。

　　奈緒はすぐに11階と15階のボタンを押した。

　　そっか・・・。
　　さっさと降りて帰れっていうことか・・・。

　　不自然な沈黙の箱の中、11階でドアが開いた。

　　降りる気になれずに、そのままドアが閉まるのを待った。
　　奈緒は気にせず背中を向けてる。

　　15階に着いた。
　　まるでひとりで乗ってたかのように、
　　こっちのことを気にする気配もなく素早く降りて行く。

　　　「奈緒！」

　　思わず名前を呼んでエレベーターを降りた。
　　何も考えずに、呼び止めてしまった。

　　無表情のまま、振り返る。
　　ふたりでしばらく睨み合っていた。

　　　「・・・なに？　やっぱお説教？」

　　めんどくさそうに、ため息まじりでつぶやく。
　　こんな投げやりな態度の奈緒を見るのも初めてで、
　　すごく疲れて、逃げ出したい気分になった。

　　でも・・・
　　言わずにはいられなかった。

　　　「こないだのあの・・・オヤジさ・・・。」
　　　「・・・・・。」
　　　「なにやってるか知ってんのかよ。」
　　　「・・・・・知ってるよ。」
　　　「どーいうヤツかってことも・・・？」
　　　「なにそれ・・・。」
　　かったるそうな返事。

　　　「売れてるけどさ、とんでもないヤツだってことだよ。
　　　　自分のドラマに好みの女優使ってさ、
　　　　なんか・・・とっかえひっかえ遊んでるって・・・。」
　　　「・・・・・だから？」
　　　「えっ・・・。」
　　　「知ってるよ、そんなこと。
　　　　別になんとも思ってないもん。
　　　　あたしだって利用してるとこあるし。」
　　　「はぁ？　どういうことだよ・・・。」
　　　「だって・・・、トシの割にはかっこいいし、やさしいし。
　　　　お金持ってるし、なんでも聞いてくれるし・・・。」
　　　「マジで言ってんのかよ・・・。」

　　冗談だろ・・・？　
　　奈緒の口からそんな言葉が出てくるなんて、信じられなかった。

　　その時、エレベーターが上がってくる気配がした。
　　13・・・14・・・ここに停まる・・・？

　　思わず奈緒の手首を掴んで、すぐそばの階段を駆け上がった。

　　　「ちょっと・・・、痛いっ！」

　　去年、誕生日のプレゼントを渡した踊り場にいた。
　　あの時とはまったく違う気分で・・・。

　　　「そんなんでいいのかよ・・・！」
　　　「・・・ばっかじゃないの？　なんで潤が口出しすんのよ。」
　　　「・・・それは・・・。」
　　　「カンケーないじゃん。　あたしの勝手なんだから。」
　　　「・・・・・。」
　　　「ほっといてよ・・・。」
　　見たこともない冷たい表情に、へこみそうになりながら、意地にもなってきた。

　　　「あんなのと付き合ってたら・・・。」
　　　「あんなのなんて言わないでよ！　
　　　　やさしいもん・・・！　ちゃんと話し聞いてくれるし。」
　　　「そんなの今だけに決まってんだろ！？」

　　人の噂なんて本気で聞くことなんか今までなかったけど、
　　あの時の奈緒とオヤジを見てからなぜか頻繁に耳に入るようになった。
　　できれば信じたくないくらいの、思いやりのかけらもない素顔・・・。

　　　「だいたいなんで潤がいちいち口出しすんの？　親じゃあるまいし。」
　　　「・・・・・。」
　　　「・・・オトコ運悪いんだよ。　あれからず～っと・・・。
　　　　とんでもないヤツばっかしでさ・・・。
　　　　だから今がすっごい楽しいんだもん。　いいじゃん。」
　　　「・・・・・誕生日・・・。」
　　　「えっ？」
　　　「ハタチの誕生日、そいつと過ごすのかよ・・・。」
　　　「・・・・・うん。　もう決まってるし。
　　　　初めてなんだ・・・。海外行くの・・・。」
　　　「海外？」
　　　「・・・ヨーロッパ、ぐるっと回るって・・・。」
　　　「・・・はぁ？」
　　　「取材旅行に連れてってもらえるんだ・・・。」

　　それって・・・。　ホントに愛人じゃねーかよ・・・。

　　　「・・・なにやってんだよ・・・。」　
　　　「・・・関係ないじゃん。」
　　　「ばっかじゃねーの・・・？
　　　　たった1年くらいでオトコ運ないなんて投げやりになってさ・・・。
　　　　そんであっさりオヤジの愛人かよ・・・。」
　　　「やめてよ、そんな言い方・・・！」　
　　　「だってそーじゃねーかよ！　金とか物に釣られてんだろ！？」
　　　「・・・・・ひどい・・・。」

　　しばらく睨みつけたあと、奈緒が階段を下りようとした。
　　無性に腹が立って、咄嗟に手首を掴んだ。
　　　「離してよっ！　もーいいじゃん！！」
　　　「・・・オレが・・・！」

　　自分でもワケわかんないまま口走っていた。

　　　「誕生日、オレが祝ってやるから・・・！」

　　奈緒の目の色がみるみる変わっていく。
　　とんでもないことを言ったのかもしれない・・・。

　　目をそらすことができなかった。
　　奈緒の目が、初めて怖いと思った。

　　　「・・・なに言ってんの・・・。
　　　　いいかげんなこと言わないでよ・・・！」
　　　「・・・・・。」
　　　「余計なお世話だよ！
　　　　ぜんぜん価値ないよ！　潤と誕生日過ごしたって！！」

　　胸の奥で何かが音をたてて壊れたような気がした。
　　その破片がつきささるような痛みを感じて、
　　それを振り払うように力任せに奈緒を引き寄せた。

　　勢いでお互いの身体がぶつかって、奈緒が小さな悲鳴をあげた。

　　思いやる気持ちなんか少しもなかった。
　　悔しさと、悲しさと怒りとが、残酷な気持ちに変わっていく。

　　いっそ殴ることができたらよかった。
　　感情を抑えようとするほど、それがいびつな形となって
　　予想もしない方向へと導いていく・・・。

　　必死で逃れようとする奈緒を、締め付けるように抱きしめていた。

　　このままでいると、殺してしまうかもしれないと思いながら・・・。

　　どんな感情なのか、自分でもわからないまま、
　　でも、奈緒を傷つけてるという意識だけは頭の中にあった。

　　壊れた何かが胸の奥を突き刺す痛みと
　　奈緒の全身が抗う身体の痛み・・・。

　　罰を受けているようだ・・・。

　　でも、腕を緩めることができない・・・。

　　・・・不意に奈緒の身体から力が抜けた。

　　気がつくと、腕の中で小さく震えてしゃくりあげていた。

　　1年前のあの日・・・。

　　たいせつなものを包み込むように抱きしめた・・・。
　　この場所で・・・。

　　あの時も、泣いてた・・・。

　　なんで、今も泣いてるんだ？

　　あの時とは違う・・・。

　　こんなに辛そうに泣くなんて・・・。

　　スッとチカラが抜けて、頭が真っ白になった。
　　憎しみや怒りがトツゼン消えて、子どもみたいに奈緒の顔を覗き込んだ。

　　何か声をかけたくて、でも言葉が出てこないもどかしさに・・・、

　　うつむいて、小刻みに震える奈緒の唇に、
　　無意識に自分の唇を押し当てた。

　　次の瞬間、思いっきり胸を押し返されて初めて我に返った。
　　それと同時に頬に熱いものを投げつけられたような感覚。

　　痺れるような痛みに呆然としたまま、
　　涙でぐしゃぐしゃになった奈緒を見つめた。

　　　「・・・最低・・・。
　　　　あんたがイチバン最低！！！」

　　泣きながら叫んで、階段を駆け下りて行く・・・。

　　走っていく、奈緒の靴音を聞いてた。
　　ドアが乱暴に閉まる。

　　自分でも、なんでこんな流れになってしまったのかわからなかった。

　　ただ心配なだけで、元の奈緒に戻ってほしかっただけなのに・・・。

　　心配・・・？
　　考えてみたらホントに関係ない。
　　奈緒が誰と付き合おうと、どんなことになろうと。
　　命に関わるワケでもないし。

　　ムキになってる自分がどうかしてる。
　　今はもう年に何回か偶然会うだけの幼なじみに。

　　でも、もう戻らない。
　　奈緒との関係は、たぶんもう元には戻らない・・・。
　　最悪の結末へと、自分で導いてしまった。

　　そして、身震いするほどの寒さと静けさ・・・。

　　15階の踊り場から、いつもと同じ夜景を見ていた。

　　息ができない。
　　うまくできない・・・。

　　呼吸する度に喉が引き攣れる。

　　頭は冷めていた。
　　自分の変化を遠くから眺めていた・・・。

　　呼吸は不規則に、どんどん乱れていく。
　　耐え切れず引きつるような声が漏れた。

　　それがきっかけのように、不意に夜景が揺れ始める。

　　大きく大きく膨らんで、揺れて・・・。

　　支えきれなくなって流れて・・・。

　　その繰り返しを遠くから見ていた。

　　涙・・・？

　　何度目かの繰り返しで初めて気づいた。

　　泣いてたんだ・・・。

　　奈緒の笑顔を思い出そうとしても、
　　真っ暗な闇しか浮かんでこない。

　　どんなに楽しかったことも、面白かったことも、
　　何も思い出せなかった。

　　すべてが、
　　奈緒との思い出のすべてが、
　　幻だったかのように、消えてしまっていた・・・。

つづく　　　　22,Sep. 2006

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