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「内堀通り・都道301号線」の「大手門」交差点を渡る。右手に折れて「和田倉噴水公園」👈️リンク を訪ねた。江戸のまちは、日比谷入江の埋め立てや外濠の整備など江戸城の建設とまちづくりが一体的に進められ、ここ和田倉噴水公園の位置は、日比谷 入江内に位置していた。「和田倉」と呼ぶようになったのは、慶長12年頃からと言われており、名の由来は、海の名称「わた」からきたもの。日比谷の入り江がここに及び、その入江にのぞんで倉がならんでいたので、あわせてこの地を和田倉と呼ぶようになっ たとされている」と。江戸~大正~明治和田倉噴水公園がある地域は、江戸時代には、「和田倉御門内」あるいは「馬場先御門内」、「西丸下」などと呼ばれていました。江戸幕府にとって重要な地位をしめた大名の居住地であり、この地域の開発は、家康入府後すぐに進められたと考えられ、譜代大名の屋敷として割り与えられていました。江戸から明治まで、この土地の変遷は、大名屋敷、厩(うまや:馬を飼育するための小屋)等を経て、明治には内務省図書館が設置されていました。「球体噴水(モニュメント)・・・永遠」水が形づくる球体。それは地球、それは心。生きとし、生けるものの永遠の営みを表します球体噴水。投げれ落ちて水の壁に。昭和34年4月に、皇太子殿下と美智子妃殿 下はご結婚の式典をあげられ、当日元首相吉田茂氏を会長とする財団法人皇太子御結婚記念 大噴水建設委員会から、大噴水を皇居前広場 に建設する計画が発表されました。 昭和35年4月に、日本国立公園協会副会長であった田村剛博士から設計プランが明らかにされ、5月から土木工事を間組が、機械、動力照明工事一式を日立製作所が担当しました。 昭和36年4月に、皇太子殿下ご夫妻のご結婚2周年記念日を期して、盛大な竣工式を行い、一般公開されました。公園のシンボル、大噴水のテーマは「再生」。3基のうち最も高いものは8・5メートルにも吹き上がります。鏡のように静かな水面の静、ほとばしる水の動から、今を映し、歴史を語る様を表現して造られました と。「御製歌碑」👈️リンク今上天皇の和歌を標した御製碑。『学舎に ひびかふ子らの 弾む声 さやけくあれと ひたすら望む』。上皇陛下の和歌『いにしへの 人も守り来し 日の本の 森の栄を 共に願はむ』「皇太子殿下御結婚記念」碑。「この噴水は 皇太子殿下明仁親王の御結婚を記念し 全國民の慶祝の熱意によって建設されたわれわれは この現代造形美の結晶を 平和日本の象徴として 永く後世に遺さんとするものである 昭和三十六年四月十日 財団法人 皇太子御結婚記念 大噴水建設委員会」公園を特徴づけているのがスターバックスも入っている施設で、曲線を描いた屋根とガラス張りの外観が公園と美しく調和するデザインの建物。向かって右側がスタバ、隣接する建物が無料休憩所。「大噴水建設記念碑」。無料休憩所内の案内板「皇居東宮御苑の自然」。「「春夏秋冬」の生きもの」。「皇居東御苑のご案内」。①天守閣の天守台 ⑨平川門②富士見櫓 ⑩北桔梗門③巽櫓 ⑪バラ園④百人番所 ⑫果樹古品種園⑤大手門 ⑬野草の島⑥二の丸雑木林 ⑭梅林坂⑥二の丸雑木林 ⑮三の丸尚蔵館⑦二の丸庭園⑧諏訪の茶屋「皇居の森---都心の多様な生き物がすむ森---皇居の中には、手入れされた庭園、水田、桑畑、雑木林のような里山的な自然や江戸城の庭を基に、この土地に元々ある植物や新たに入り込んだ植物が混じり合い成立する自然があります。このような多様な環境にタヌキのような哺乳類、オオタカをはじめとする鳥類、昆虫類、樹木、草花、コケ類、キノコ、地衣類、藻類など様々な種類の生物がすんでいます。この豊かな森のある皇居のうち、皇居東御苑は、旧江戸城の本丸、二の丸等を庭園として整備したもので、一般に公開されています。」「皇居外苑の楽しみ方皇居外苑は、皇居前広場、北の丸公園、お濠などからなり、皇居の前庭としての性格を持つ国民公園で、江戸城の歴史を受け継ぐとともに、都心の貴重な水と緑の場として、多くの人が訪れる場となっています。春はお花見、秋は紅葉春は、千鳥ヶ淵のサクラをはじめ様々な花や新緑が楽しめます。サクラには、馬場先広場のヤ工ザクラ、桜田濠のサクラなどもあります。秋は、北の丸のモミジ、苑内各所のイチョウなど鮮やかな紅葉を楽しめます。」「案内地図」。「噴水公園のご紹介和田倉の大噴水は、昭和36年、当時皇太子殿下であった上皇陛下の御結婚記念として創建されました。造園家の田村剛氏による設計で、周辺の景観と調和するよう、全国名地の石材を使川し、日本独特の石材工芸品の手法を活かした、円と直線によるシンプルで荘重な墳水公園でした。大噴水の吹出口は、菊の花とつぼみを表現した形状になっており、空中に打ち上がる水が互いにぶつかり合う姿は、大自然を流れる繊細な滝をイメージしていました。夜間は、噴水に水中照明の光が照らされ、優雅な黄金色に染められていました。これらの噴水手法と水中照明の技法は、日本で初めて採用されたものでした。阜居外苑の主要施設として永く親しまれた和田倉噴水公園は、平成5年の今上天皇の御結婚を機に、改修整備が進められました。「継続性と新たな発展」をテーマに、大噴水の意匠を継承するとともに、かっての休憩施設跡地に落水池を整備し、球形噴水のモニュメントや霧噴水、架け橋などを設置し、新しい休憩施設と共に平成7年に完成しました。その後、平成22年に休憩所の屋根一面に太陽光バネルを設置し、続く平成27年の改修工事で省エネ化を図ったことで、使用エネルギーをそれまでの5割以下まで削減しました。平成23年には、技術的に難しいとされていた高出力の水中照明のLED化に日本で初めて成功し、噴水の水のきらめき、ゆらぎまで忠実に再現することが可能になりました。和田噴水公園は、昭和の大噴水を継承すると共に、技術者たちの幾多のすぐれた技術を取り入れ、平成、令和の時を経て現在に至っています。」「和田倉噴水公園について近代的な技術と伝統的な美観が融合した和田倉噴水公園は、昭和36年(1961)の建設以来、国民公園皇居外苑の主要施設として広く国民に親しまれてきました、このたび「継続性と新たな発展」を主題に、和田倉地区が水と緑で構成された表情豊かで風格のある空間として今後も末永く国民に親しまれるよう、新たな整備を行いました。この整備にあたっては「皇居外苑和田倉噴水施設整備に関する懇談会」の提言をもとに、これまでの噴水施設は原形を活かしつつ新たな息吹をもって再生し、装いを一新した噴水とともに、躍動感あふれる滝や、静かに流れるせせらぎなどを新たに加えることにより、周辺の緑とあいまって、「継続性と新たな発展」を象徴する変化に富んだ水と緑の風景を創出しています。 環境庁 平成七年六月竣工」見事な「大噴水」。「和田倉噴水公園」の東側「和田倉濠」の「和田倉門跡の石垣」。「江戸城跡制札」「特別史蹟 江戸城跡江戸城は長禄元年(一四五七)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四四年からは北の丸の地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。 環境省皇居外苑管理事務所」廻り込んで「和田倉門跡の石垣」を。「和田倉濠」で羽根を休めていたのは白鳥か?「日比谷通り」との交差点の角にあった「元宮城和田倉門守衛所」と。ここが皇居の入口に当たるため、行幸啓の折に、歩哨(ほしょう)が立った所と考えられます。四阿(あずまや)は安山岩造りで銅板葺きの屋根に夜間照明もつけられています。行幸通りを挟んで反対側の馬場先濠側にも確認できた。「和田倉濠」の先「パレスホテル東京」が左側に。「和田倉橋」。「和田倉橋この橋を、和田倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長12年(1607)の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されています。警備は、譜代大名で二万石から三万石の者が担当していました。この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。 平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会」在りし日の「和田倉橋」、「和田倉門」の写真をネットから。1924年(大正13年)1月15日に発生した関東大震災の余震により和田倉門の渡櫓門部分が崩壊したので解体したとネットから。「元宮城和田倉門守衛所」を振り返って。超高層ビル「東京ミッドタウン八重洲」の40階から45階までのフロアに展開する「ブルガリ ホテル 東京」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.28
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「正門石橋」手前の「丸の内警察署 祝田町見張所」まで戻る。重厚な石造りのポリスボックス。「正門石橋」に向かって進む。ブロンズ製の高欄(人止柵)。「正門石橋」の先の「正門」を見る。二重橋の手前側に、お濠に沿い設置されたブロンズ製の高欄(人止柵)。ギリシャ建築コリント様式で使われるアカンサス(ハアザミ)の葉をモチ-フとしており、1889年(明治21年)に完成した明治宮殿へのアプローチとして造られた と。現在の二重橋前高欄は平成7年に原形復元されたもので、復元前の高欄の老朽化が進み高欄としての役目を果たすには危険な状態になっていたために、人止柵を青銅製に台座を新しい石に置き換えられた と。その際に交換した古い台座石は、皇居前広場内に点在するベンチとして再利用されている と。正面に「皇居正門(旧:西の丸大手門)」「二重橋」を見る。ズームして。「二重橋」の欄干も「唐草模様」。正門へと続く橋の欄干や6基の「青銅鋳造飾電燈」にみられる西洋建築の意匠もみごと。「青銅鋳造飾電燈」。もともと、この場所には江戸時代から「西の丸大手橋」と呼ばれる木橋が架かっていた。明治宮殿の造営につき、石橋に架け替えられた際に、橋とともに造られたのがこの電灯。設計は皇居造営事務局の技手であった久米民之助、欄干の装飾は河合浩蔵によるもの。岡山産の大島花崗岩造りによる眼鏡橋でした。両側に高さ114cmの石の手すりを備え、その間に高さ174cmの男柱を備えた造りに。さらに片側3本の計6本、それぞれの男柱石の上に、青銅鋳造の飾りが6基取り付けられていました。灯器には、四方に旭日(あさひ)と獅子の頭がデザインされ、腕木はアカンサスを模しています。電球グローブは真球を採用しています と。ズームして。さらに台座部をズームして。獅子頭と旭日をあしらい、脚に獅子の足を取り込んだ飾電燈下部の姿は、近代以前のバロックのデザインであるとのこと。登録有形文化財。こちらは昨年の11月末に愛知の博物館明治村を訪ねた時に移設展示されていた二重橋飾電燈(かざりでんとう)👈️リンク の写真である。台座の部分の模様が現二重橋のデザインと異なるようであったが。再び「正門石橋」をズームして。その先、「皇居正門」の両脇にも重厚な石造りのポリスボックスがあった。「皇宮警察本部」の所掌なのであろう。様々な角度からカメラで追う。さらに北に進むとあったのが「坂下門」。ズームして。「坂下門門の名は、西の丸から低地に降りる坂下にあたることに由来します。この門は、江戸城西の丸造営直後に築造され、江戸時代は木橋が架かっていましたが、現在は土橋となっています。現在、正面から見ると渡櫓門があり、本来は、高麗門を備えた枡形でした。1887年(明治20年)に高麗門が撤去され、渡櫓門を現在の場所に設置しました。現在の皇居外苑は、江戸時代は西の丸下と呼ばれ、幕府老中などの屋敷がありました。明治維新後は一時、明治政府の官衙・兵営に利用されましたが、明治10年代以降、広場として整備され現在に至ります。」「坂下門。手前の門が坂下門渡櫓」「明治時代の坂下門(左)と宮内省庁舎(右)の様子」。「江戸城を取り巻く地形と文化財」。右側には坂下門の北側にある内濠の「蛤濠(はまぐりぼり)」。「蛤濠」と南側の「二重橋濠(湟池)」の間に土橋の「坂下門橋」が架かっているのであった。「坂下門」を正面から。「坂下門」は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられている。西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていたが、今は宮内庁の出入口として利用されている。文久二年(1862)一月、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名である。ズームして。「坂下門」は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられている。西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていたが、今は宮内庁の出入口として利用されている。文久二年(1862)一月、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名である。令和6年11月30日(土)から12月8日(日)までの9日間、秋季皇居乾通り一般公開を実施。各日、入場時間は午前9時から午後3時までとし、皇居坂下門から参入、皇居乾門から退出となったのであった。さらに「桔梗門」に向かって歩く。正面には千代田区丸の内2丁目の高層ビル群が。左折して進むと正面に現れたのが「桔梗門」。「皇宮警察本部坂下護衛署桔梗門警備派出所」もあった。「桔梗門(内桜田門)この門は、江戸城本丸南ロの通用門て、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登城の門でした。門の警護は6 ~ 7万石の譜代大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門という別称が用いられていました。門は1614年(慶長19年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣は1620年(元和6年)に築造されています。現在も高麗門と右手の渡櫓門からなる枡形門が残っています。」「桔梗門前の登城の様子「江戸城年始登城風景図屏風」「江戸城を取り巻く地形と文化財」。江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登下城の門でした。そのため、門の警護は譜代でも6~7万石の大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門(ききょうもん)という別称が用いられていました。別称の由来は定かではありませんが、寛永の頃、上洛する際に御帰京の祝儀を表したから、あるいは、徳川家康入府の際、太田道灌時代の名残を残す桔梗紋の瓦が残っていたからといわれています。門の鬼瓦には、現在でも桔梗紋が施されています。門は1614年(慶長19年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣も1620年(元和6年)に造築されています。現在も手前の高麗門(こうらいもん)と右手の渡(わたり)櫓門(やぐらもん)からなる枡形門(ますがたもん)が残っています と。高麗門の「桔梗門」をズームして。「桔梗門」をネットから。「桔梗門」・「渡櫓門」を見る。「内堀通り・都道301号線」に向かって進む。「桔梗門」を振り返る。左手に見えて来たのが「巽櫓(桜田二重櫓)」。隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」で、「桜田二重櫓」ともいわれます。狭間や石落としが備わっており、実戦的な櫓としてつくられました。白い壁が水面に映り、優美な姿を見せる櫓です。「桔梗濠」にボートを浮かべ、浮き草を清掃する作業員の姿。「桔梗門」~「巽櫓(桜田二重櫓)」を振り返って。柳と「巽櫓(桜田二重櫓)」のコラボ。「内堀通り・都道301号線」沿いの柳並木の歩道を「大手口」方向に進む。右手に「パレスホテル東京」。そして大手門入口が現れた。濠には浮き草・水草の除去用の機械船が作業中であった。「皇居東御苑」案内板。「大手門の高麗門」。「大手門の高麗門」は「閉鎖」していた。「月曜日、金曜日は休園日です」と。「大手門👈️リンクこの門は、江戸城本丸登城の正門て、城門警護は10万石以上の譜代大名が務めていました。門の建設は1606年(慶長11年)に藤堂高虎が行ったとされ、1657年(明暦3年)明暦の大火で消失した後1659年(万治2年)に再建され引ました。現在の門は、手前の高麗門が1659年、渡櫓門は1966年(昭和41年)に再建された建築物です。門内には「明暦三丁酉」の記銘がある旧大手門渡櫓の鯱が置かれています。」「江戸時代の大名登城の様子 市岡正一「徳川盛世録」博文社、1889年」。「江戸城を取り巻く地形と文化財」。「大手濠」を見る。「今日の東御苑」「三の丸尚蔵館」👈️リンク 案内板。毎週金曜・土曜は夜間開館 と。「皇居東御苑」案内地図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.27
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「枡形」の先にあったのが「外桜田門」の「高麗門」。「高麗門」は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造された。柱の構造は、鏡柱2本と内側の控柱2本から構成されている。4本の柱は直立しており、2本の鏡柱上に冠木を渡して小さな切妻屋根を被せ、鏡柱と内側の控え柱の間にも小さな切妻屋根を被せる。慶長年間までは姫路城「への門」や名古屋城「本丸二の門」のように直接、冠木に屋根をかけていたが、江戸時代初期以降に、この江戸城「外桜田門」の高麗門のように冠木の上に束が立てられ、小壁が立ち上がった姿のものが造られるようになった とウィキペディアより。「外桜田門」の「高麗門」の扉。現在地◯はここ。「高麗門」を潜り右側の石垣。その先も。「桜田濠」方向を見る。「凱旋濠」の石垣の付け根上に建つ「渡櫓門」。「高麗門」を振り返って。「重要文化財(建造物)指定 昭和三十六年六月七日 旧江戸城 外桜田門現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防御のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~1644)とされ、現存する門は、寛文三年(1663)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。万延元年(1860)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。」1.外桜田門2.西の丸3.内桜田門「内桜田門」は、江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登下城の門でした。そのため、門の警護は譜代でも6~7万石の大名があたっていました。内桜田門とは、外桜田門(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、江戸時代から桔梗門(ききょうもん)という別称が用いられていました。別称の由来は定かではありませんが、寛永の頃、上洛する際に御帰京の祝儀を表したから、あるいは、徳川家康入府の際、太田道灌時代の名残を残す桔梗紋の瓦が残っていたからといわれています。門の鬼瓦には、現在でも桔梗紋が施されています。門は1614年(慶長19年)に造られたもので、桔梗濠沿いの石垣も1620年(元和6年)に造築されています。現在も手前の高麗門(こうらいもん)と右手の渡(わたり)櫓門(やぐらもん)からなる枡形門(ますがたもん)が残っています と。「高麗門」とその右奥に「渡櫓門」。「桜田門」交差点の手前から「法務省旧本館(中央合同庁舎6号館赤れんが棟)」を見る。霞が関中央官庁案内現在地は●ここ。「東京メトロ有楽町線の「桜田門駅」入口にあった案内板。外桜田門国指定重要文化財 1961年(昭和36年)6月7日指定桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されています。門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)真壁藩(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624~1644)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。1860年(万延元年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件です。1923年(大正12年)の関東大震災で門が壊れましたが、再建され現在に至っています。」「外桜田門「旧江戸城写真帖」1871年(明治4年)撮影」。「外桜田門前から櫻田堀方面を描いた明治初期の錦絵「東京三十六景 外さくら田」千代田区教育委員会」「江戸城を取り巻く地形と文化財」。正面に「警視庁本部庁舎」。「旧警視庁」の写真をネットから。「桜田濠」を見る。横断歩道を渡り、桜田門交差点南側からから国会議事堂をズームして。この日はここまでとして、引き返して、再び「高麗門」とその右奥の「渡櫓門」を振り返って。再び「法務省旧本館(中央合同庁舎6号館赤れんが棟)」を見る。「桜田通り・国道1号」の日比谷方向をを見る。「警視庁本部庁舎」の屋上からヘリコプターが飛び立つ。。引き返して、「高麗門」を潜り、「枡形」から「渡櫓門」を見る。「枡形」から「渡櫓門」をズーム。「高麗門」を振り返る。「渡櫓門」下から「皇居外苑」を見る。皇居の大きさは、宮内庁管理部分の敷地が約115万m2で、東京ドーム約25個分もあります。濠の面積も含む東京都千代田区千代田の面積は1,425,500m2、皇居外苑も含めた総面積は約230万m2もあるとのこと。引き返しながら「丸の内2丁目」の高層ビル群を見る。「丸の内1丁目」・「大手町1丁目」の高層ビル群。「丸の内警察署 祝田町見張所」に向かって濠に沿って進む。「渡櫓門」右側の濠の水面は水鏡に。さらにズームして。「皇居 内濠・外濠」名称案内。「外桜田門」の「渡櫓門」を再び。野鳥の姿が。再び「正門石橋」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.26
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「馬場先門」交差点を渡り、「和田倉橋(わだくらばし)」の上から「和田倉濠」方向を見る。正面左側の建物が「パレスホテル東京」。右手にあったのが「和田倉濠」の石垣。久々に見たくっきりとした影絵。こちらの石垣は、石同士がピッタリあうよう目地無しで接合面が加工され「切込接(きりこみはぎ)」で横の目地(継ぎ目)を通す「布積」で積まれていた。そこに反り出した松の枝と葉が影絵となってくっきりと。ここまでくっきりとした影絵が出来るのも、1日のうち日の光が当たる決められた時間のみ。都道406号線を渡り、反対側に「特別史跡 江戸城跡」案内板。「特別史跡 江戸城跡江戸城は長禄元年(一四五七)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭に整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三〇日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。 環境省皇居外苑管理事務所」再び戻り、「正門石橋」方向に向かって進む。「皇居外苑」。美しく管理された松の植栽が拡がっていた。「都道301号線・内堀通り」の「二重橋前」交差点を渡る。「二重橋前」と。前方に皇居内の濠の上に「伏見櫓」の姿が確認できた。横断歩道を渡る。前方左手が「牧野家上屋敷跡」。正面に「丸の内警察署 祝田町見張所」。近づいて。「特別史跡江戸城跡指定 昭和三十八年五月三十日正門と二重橋」案内板。「正門と二重橋ここは、皇居の正門に当たります。手前に見える橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。後方に、現存する数少ない江戸城の櫓の一つである伏見櫓が見え、その右手には、樹木に隠れて見えませんが、宮殿があります。正門鉄橋は、かつては木橋で、その下に橋桁を支えるもう一つの橋があったため、二重に架けられた橋という意味で「二重橋」と呼ばれます。しかし、正門石橋と正門鉄橋の二つの橋を総称して、二重橋と呼ぶ人も少なくありません。これらの橋は、天皇陛下が国会開会式などのため外出される際や、外国の君主、大統領、大使来訪などの特別な場合のみ使用されますが、新年や天皇誕生日の一般参賀では一般の方々も渡ることができます。正門石橋と正門鉄橋が重なり、その奥に伏見櫓が見える皇居外苑からの眺めは皇居を象徴する景色として親しまれています。」「明治時代初期の二重橋「伏見櫓と西の丸御所院門」都立中央図書館特別文庫室所蔵」。「二重橋」の手前に架かる「正門石橋(西の丸大手橋)」。明治22年(1889)明治新宮殿の造営に伴って木製の西丸大手橋は、久米民之助の設計で皇居正門石橋に架け替えられ、高麗門を取り外し渡櫓門のみとなった。寛永元年(1624)に西丸大手橋が架橋されたときの擬宝珠が平川橋の欄干に移設され現存している。岡山産の大島花崗岩で造られ、橋長は35.3m、幅員は12.8m。俗称として「眼鏡橋」とも呼ばれていますこの「正門石橋」が「二重橋」だと誤認されることがあるが、厳密には奥にある正門鉄橋が「二重橋」であるのだ。花崗岩で造られた「正門大橋」の先に見えるのが「伏見櫓」。「正門大橋」と「伏見櫓」。「正門大橋」を渡った、左の門が「正門」。ズームして。ネットから「正門大橋」の先の「二重橋(にじゅうばし)」の写真を。皇居のこの「二重橋」と呼ばれる橋の正式名称は「正門鉄橋」。「二重橋」と呼ばれる理由は、もともとこの場所には二重構造の橋があったからです。由来江戸時代、この場所には木造の橋が架かっていましたが、石垣との高さの関係で一度下に橋を渡し、その上にもう一つ橋を架ける「二重構造」の橋(木造の「二重橋」)になっていました。このため、「二重橋」と呼ばれるようになりました。明治時代になって木造の橋は撤去され、現在の鉄橋(正門鉄橋)が架けられました。しかし、古くからの呼び名が残り、現在でも「二重橋」として親しまれています。実際の二重橋との誤解実は、現在の皇居にある橋で「二重橋」と呼ばれるのは、正門鉄橋と、その手前にある「正門石橋(眼鏡橋)」の2つがあります。本来の「二重橋」という名称は、奥の鉄橋(正門鉄橋)を指しますが、手前の石橋(正門石橋)を含めて「二重橋」と呼ぶ人も多いです。そのため、写真などでは手前の石橋が「二重橋」と紹介されることがありますが、厳密には奥の橋が元々の「二重橋」です。現在の橋は昭和39年に架け替えられたのですが、無論、江戸時代は木でできた橋でした。鉄橋であれば強度は十分に保てるのですが、木橋であれば、堀の水面から橋までの高さ20mを支えるには不安定です。そこで造られたのが、人が通る部分の下にさらにもう一つ橋を造り、下段の橋が上段の橋を支える二重橋構造の橋でした。一階部分も渡ることが出来たようです。元々は、この橋の特異な形状から二重橋と呼ばれるようになったのです と。これが「二重橋」の謂れ と。「旧江戸城西丸二重橋明治4年太政官の役人であった蜷川式胤(にながわのりたね)の申し出を受け、横山松三郎らによって撮影されたもの。エディンバラ公はこの旧西丸大手門をくぐり、二重橋を渡って参内した」と。写真には、武士の姿も。現「伏見櫓」をズームして。徳川氏の前の政権である、豊臣秀吉が築いた京都・伏見城から移築されたと言われていますが、確実な証拠はなく伝承の域を超えません と。「正門大橋」を後にして、「桜田門」に向かって進む。濠越しの「桜田門」。ズームして。江戸時代には内桜田門(桔梗門)と外桜田門の併称だったが、現在は外桜田門のみが桜田門と呼ばれる。小田原街道の始点にあたったことから、小田原口ともよばれてた。昭和36年(1961年)に国の重要文化財指定 と。この石垣の奥に「正門石橋」を渡った場所にある「正門」そして急カーブして「二重橋」へ通ずる道があるのだ。隅部の石垣は積み方が難しく、さまざまな工夫が重ねられた結果、最良の工法とされたのが「算木積(さんぎづみ)」👈️リンク という積み方を見ることができたのであった。皇居ランナーへの案内板と時計塔。健康マラソン時計塔皇居ランナーのスタート地点となっている。皇居周辺歩道利用マナー周回は反時計回り、周回コースは1周 約5km。1,日本武道館、2,科学技術館、3,東京国立近代美術館、4,和気清磨呂像5,宮内庁、6,国立劇場、7,最高裁判所、8,国会議事堂、9,千鳥ヶ淵「外桜田門 櫓門」 を西から望む。外桜田門の櫓門には入母屋屋根があり、妻(屋根の側面)には銅板に青海波などの伝統的な文様が描かれています。外桜田門は、江戸城の門のひとつで、小田原街道の始点に位置していました。1620年に石垣と枡形が完成し、1636年に現在の形式になりました。関東大震災で破損しましたが、大補強工事によって修築され、1961年に国指定重要文化財に指定されました。ズームして。「外桜田門の鯱」。ズームして。「外桜田門 櫓門」の石垣(右側)。石垣の先に、先程訪ねた、ポリスボックス・「丸の内警察署 祝田町見張所」が見えた。約27×38メートル(15間×21間)と、現存する江戸城の枡形門のなかで最も広く、櫓門上部の渡り櫓の長さは約35メートルもあるのだ。 この門は現在、皇居宮殿がある西の丸の守りを固める位置にあり、また江戸初期には小田原口と呼ばれ、小田原街道の始点だった。「皇居外苑 案内図」。「現在地」はここ。「二重橋皇居前広場から宮殿へ至るまでに2つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」奥の橋が「正門鉄橋」です。奥の橋はかつて「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるために二重構造となっていたことから、「二重橋」の名がつきました。和田倉噴水公園上皇陛下のご成婚を記念して昭和36年(1961)に完成し、今上天皇のご成婚して平成7年(1995)に改修されました。昼間は水と緑で構成された風格ある空間として親しまれており、夜間は黄金色に輝くLED照明が東京の夜間景観を優雅に彩ります。「桜田門桜田門は、1620~1630年頃に創建され、大正12年(1923)の関東大震災で破損した際、今の鉄鋼土蔵造りに改修されました。大老井伊直弼が水戸藩浪士らによって暗殺された「桜田門外の変」で著名な門です。現存している旧江戸城門の中では最も広い規模を有していることなどから、国の重要文化財に指定されています。北の丸公園北の丸公園は、江戸時代に江戸城北の丸が位置していた場所であり、明治時代から第二次世界大戦の終わりまでは旧近衛師団の駐屯地でした。昭和44年に森林公園として開園し、現在は水と緑が広がる都心には珍しい自然の宝庫となっています。公園内には、旧江戸城の遺構である田安門・清水門(共に重要文化財)が残されており、”歴史と自然の森”として親しまれています。」「皇居東御苑旧江戸城の本丸等の主要部分が宮殿の造営にあわせて庭園として整備され、昭和43年(1968)から公開されています。皇居東御苑へは大手門、平川門及び北桔梗門から入門することができます。」「外桜田門」前の両脇にある石垣。石垣前に「桜田門」という文字が彫られた石碑が。正面から。こちらの石垣は、少しのすき間がない切込接(きりこみはぎ)で乱積された見事な石垣。これまで見た皇居の石垣の中でも一番美しい色合いをしているのでは。実はこちらの石、伊豆半島産の安山岩に白やベージュの石、瀬戸内方面から運ばれてきた花崗岩が混ざっている と。「枡形」。約27×38メートル(15間×21間)と。
2025.02.25
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「世田谷区の淨真寺」の見事な紅葉を楽しんだ後は「東京駅」に向かう。「東京駅丸の内駅前広場」に出て「東京駅」を見る。1914年(大正3年)に竣工した赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計した。2003年(平成15年)に丸の内駅舎は国の重要文化財に指定されており、重要文化財指定の駅建築物は当駅と門司港駅(福岡県北九州市門司区)のみである。また、「関東の駅百選」認定駅でもある と。駅舎は辰野金吾と葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった。中央停車場建物展覧図 / 辰野金吾、葛西萬司 / 1910年(明治43年)。品川白煉瓦製の赤煉瓦を外観に使用、構造煉瓦として埼玉県深谷市から鉄道輸送されたレンガと鉄筋造り、3階建て総建坪9,545平方メートル・長さ330メートルの豪壮華麗な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。中央の玄関は皇室専用とされ、規模は小さいものの、細かい装飾が各所に施されていた。中央玄関と東西の一般出入り口との間に、各1つ別の出入り口があるが、これは荷物の搬入搬出口として設けられた。開業年の1914年(大正3年)は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、青島の戦いを指揮した陸軍司令官神尾光臣中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。式典では、鉄道の草創期から建設を牽引してきた大隈重信首相が演説した。アムステルダム中央駅が当駅舎を設計する際のモデルになったという説があるが、1988年(昭和63年)以降に藤森照信らをはじめとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、否定的な意見も出ている。辰野は英国留学の経験があり、首都ロンドンのターミナル駅を参考にした可能性もある と。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)では丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。同年8月の終戦直後から修復計画を立案し、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行った。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更。軒蛇腹・パラペットや壁面、柱型、窓枠などは2階建てになっても忠実に復元した。南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更、といった内容だった。仮の修復だったが、当時の鉄道省や大林組の努力で日本の中央駅として恥ずかしくないデザインで修復をした逸話が伝えられている。中央部高さは28mと。軒高さ約17m、切妻部頂部高さ約23m。北ドーム高さは約35m。東京駅改装後に営業を再開した「東京ステーションホテル」は休館前に58室だった客室が150室と増え、ラグジュアリーホテルとして質も大きく向上した。改装された丸の内駅舎43,000平方メートルのうちホテルは20,800平方メートルと丸ノ内駅舎の半分近くを占め、駅舎の3階部分の大半と4階の一部はほとんどがホテルの客室で、2階にも客室の一部、1階と地下にはホテル宴会場が入っている。東京駅南北のドームの中心の空間を駆り囲むように客室が配置されたドームサイドが28室、駅舎の丸の内側に面して並ぶパレスサイド81室、他にクラシックタイプ29室や室内二階建てのメゾネット7室、スイート4室、ロイヤルスイート1室の合計150室。「新丸の内ビルディング」。「新丸の内ビルディング」は、東京都千代田区丸の内一丁目に所在する超高層ビルである。三菱地所のオフィスビルで、地下1階〜7階は商業施設となっている。略称は新丸ビル。2007年(平成19年)4月19日に竣工、4月27日に商業施設フロアがオープン。「丸の内ビルディング(丸ビル)」は、「行幸通り」を挟んで向かい側に所在する。「JPタワー(ジェイピータワー)」「JPタワー」は、東京都千代田区丸の内二丁目(東京駅前)にある超高層ビル。日本郵政グループの初の不動産事業である。建築物としては、旧東京中央郵便局舎を一部保存した低層棟と最高軒高200.0 mの高層棟から構成され、旧局舎の保存部分は免震構造で構造躯体を保存している と。「KITTE 丸の内」は昭和6年に竣工した旧東京中央郵便局の局舎を一部保存・再生した区画と新たに建築した区画からなる、過去と現在がつながる空間。地下1階から地上6階までの7つのフロアには「Feel JAPAN」をコンセプトに、日本の“心地よさ”“奥深さ”“愉しさ”を伝える98のショップ&レストランを揃えた。東京丸の内で、人と人、街と街、時代と時代を結びつけ、たくさんの「ワクワク」を提供し、いろいろなヒト・モノ・コトとの出会いをつないでいく。開業:2013年3月21日所在地:東京都千代田区丸の内2-7-2敷地面積:約11,600㎡延べ床面積:約212,000㎡(店舗面積 9,400㎡)建物構成:地下4F 地上38F(商業ゾーン 地下1F〜地上6F)施設構成:商業、オフィス商業ゾーン店舗数:総98店舗(物販 46店舗、飲食 27店舗、食物販 25店舗)と。「大名小路・都道402号線」を南に進む。江戸期の丸の内・大手町一帯は、大名屋敷が建ち並ぶ武家の町であった。この一帯は、江戸期以前には浅瀬の海(「日比谷入江」)が広がっていたが、江戸期に入り、江戸の普請を命じられた有力大名たちは、ここを干拓し広大な屋敷を構えた。図は江戸末期、1849(嘉永2)年に描かれた『御江戸大名小路絵図』の一部で、右が北、上が「江戸城」(現「皇居」)。図の中央付近に「大名小路(こうじ)」の通り名が見える。【図は1849(嘉永2)年】。「KITTE 丸の内」を左に見ながら進む。「三菱 ビルディング」前を歩く。竹林の如き内装に銀杏並みが映り込んで。その先に、「屋根が開いている赤いバス」でおなじみのスカイバス・SKY BUSの1️⃣停留所。「三菱ビルディング」を振り返って。左手に「丸の内二丁目ビル」。1974年8月30日には、本ビル正面玄関付近のフラワーポットに仕掛けられた時限爆弾が爆発し、8名が死亡、385名が重軽傷を負うテロ事件が発生した・「三菱重工爆破事件」👈️リンク。2003年に三菱重工業は品川グランドコモンズ内の三菱重工ビルに移転し、その後本建物の名称は三菱重工ビルヂングから文部科学省ビルを経て、丸の内二丁目ビルに変更されている。ビル建替え中の仮移転先として、2004年から2008年にかけて文部科学省、その後、みずほフィナンシャルグループの本社を経て、2015年から2018年11月まで東京商工会議所が使用していた。現在は一般の貸しビルとして使用されている とのこと。。そしてその先に赤レンガの「三菱一号館美術館」の北面。三菱一号館は、1894年(明治27年)、東京市麹町区八重洲一丁目(現在の東京都千代田区丸の内)に建設された洋風事務所建築で、煉瓦造の建物内に銀行や商社、郵便局が入居していた。1968年(昭和43年)老朽化のため三菱地所が解体したが、2009年(平成21年)同社により美術館として復元されたのだ。そして東面。「三菱一号館 歴史資料室営業時間 10:00~18:00休館日:毎週月曜日・年末年始」。「南側」・「都道406号線・皇居前鍛冶橋線」沿いに入口があった。「三菱一号館美術館」は、常設展はないと。「三菱一号館」が建設された19世紀末の美術品や工芸品を収蔵している。特に、ロートレックのリトグラフ・ポスターのコレクションは有名。また当時のヨーロッパで流行したジャポニスムをテーマとした陶磁器、銀器、ガラス作品なども収蔵している。年に3~4回の企画展が開かれているとのこと。2024年11月23日にリニューアルオープンした、「三菱一号館美術館Cafe 1894」。赤レンガの壁が続く南側を追う。「再開館記念『不在』―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル会期: 2024年11月23日(土)〜2025年1月26日(日)本展は、19世紀末のパリで活躍したアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)の多彩な版画・ポスターの表現にフォーカスし、当館のコレクションを中心にフランス国立図書館所蔵のロートレック作品と併せて展覧します。また、フランスを代表する現代アーティストのソフィ・カル(1953- )が当館のコレクションの中からディロン・ルドンの《グラン・ブーケ(大きな花束)》に着想を得て制作、当館に新たに寄贈された作品を世界初公開します。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《メイ・ミルトン》、1895年、リトグラフ/紙、館の中核をなすコレクションであるロートレックの展示に、時代を映す鋭敏なアーティストの視点を取り込むために招聘されたのが、現代フランスを代表するアーティストのソフィ・カルさん。「不在」という主題を提案して自らの作品とロートレックの作品を協働させる展覧会を作りあげたソフィ・カルさんのトークイベントが、リニューアルオープン当日に開催された と「」。「三菱一号館美術館」の「入口」、「一号館広場」への南側入口。「三菱一号館美術館」の「入口」。さらに「馬場先門」交差点に向かって進む。「丸の内仲通り」を見る。重要文化財「明治生命館」が右手に。「明治生命館 重要文化財竣工 1934年(昭和9年)指定 1997年(平成9年)」アーチ型の窓枠そして見事な「外周の窓」。重要文化財「明治生命館」を見上げて。優雅なアカンサスの葉飾りが印象的な柱頭部。「日比谷通り」側に回り込んで。「日比谷通り」側から「明治生命館」の内部に入り、美術館「静嘉堂@丸の内」を訪ねた。左手に「曜変天目茶碗」、右手に「重要文化財 明治生命館」案内板。「重要文化財 明治生命館昭和初期、岡田信一郎が設計した明治生命館【下写真、竹中工務店所蔵】が二号館【左上図】跡地に建設され、平成に重要文化財に指定、令和4年10月、岩崎彌之助(三菱2代社長》・小彌太(三菱4代社長)親子の美術品コレクションが静嘉堂@丸の内として世田谷から、明治生命館に移転(明治半ば、彌之助が構想して、コンドルに設計された美術館 Art GalleriesMaru no Uch Tokio【右上図】は未完に終わり、彌之助・小彌太親子のコレクションは世田谷の静嘉堂に所蔵されていた。」目的は「曜変天目茶碗」を見ること。「静嘉堂@丸の内」入口。しかし「本日は店休です」との案内板が。この日は観ることが出来なかった「曜変天目茶碗」をネットから。「曜変天目茶碗」は、天目茶碗のうち、最上級とされるもの。曜変天目と略称され、「曜変」は「耀変」と書かれることもある。焼き上げる過程で黒釉が変化して斑紋が生じているのが特色。漆黒の器で内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばり、斑文の周囲は暈状の青色や青紫色で、角度によって玉虫色に光彩が輝き移動する。「器の中に宇宙が見える」とも評される。曜変天目茶碗は、現在の中国福建省南平市建陽区にあった建窯(中国語版)で作られたとされる。現存するものは世界でわずか3点(または4点)しかなく、その全てが日本にあり、3点が国宝、1点が重要文化財に指定されている。いずれも南宋時代の作とされるが、作者は不詳である。日本では室町時代から唐物の天目茶碗の最高峰として位置付けられている。この紋様が意図的に作り出されたものか、偶然によるものかは議論が分かれている。「曜変」とは「天目」という言葉と同じく日本で作られた言葉で、中国の文献には出てこない。南宋時代の作品だが、日本で曜変という言葉が使われた最も古い文献は室町時代の『能阿相伝集』であり、次の使用例は『君台観左右帳記』である と。「平安文学、いとおかし国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ11月16日【土】~1月13日【月・祝】」と。その先にあったのが「明治安田ヴィレッジ丸の内 2024 Christmas Tree (明治安田ヴィレッジ丸の内 2024 クリスマスツリー)」。時計や歯車のオーナメントで彩られたツリー。ツリー中央の時計は時計が一周するごとにイルミネーションが変化する特別仕様 と。時計に近づいて。見上げて。重要文化財である明治生命館が竣工90周年を迎えることとあわせ、今年のコンセプトは「時を奏でる」。時計・歯車をモチーフにしたオーナメントや螺旋状のリングで、これまでの時の流れを煌びやかに演出するのであった。明治安田イメージキャラクター「めいやす ペンタン」。「丸の内仲通り」にあったイルミネーションモニュメント「Tiffany Holiday 2024 Bird on a Box」夜になると。この後、再び訪ねた時の写真。「馬場先門」交差点を渡った現在地はここ。近づいて。振り返って「日比谷通り」の先の「明治生命館」を。 ・・・つづく・・・
2025.02.24
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「本堂」 の右側の廻り廊下に出て、「天然記念物 九品仏のイチョウ」を見る。晩秋の冷たい風が吹き抜ける中、巨樹のイチョウはついに全ての葉を手放した。つい昨日まで黄金に輝いていた枝々は、今は裸になり、空へ向かって静かに伸びているのであった。地面には無数の葉が降り積もり、まるで陽の光を閉じ込めたかのように、一面が黄金色の絨毯となって枯山水の水面に広がっているのであった。枝先には冬の到来を告げるように微かな寒気が宿り、青く澄んだ空にその影をくっきりと描いていた。静寂の中、木はただ立ち尽くし、来るべき春を待っているのであった。「仁王門」方向を見る。枯山水の庭。白砂の上に描かれる「砂紋(さもん)」と呼ばれる見事な模様。「枯山水」とは日本式庭園のうち、水を用いず石や砂で山水の風景を表現する様式のことを指す。 飛鳥・奈良時代から作庭されてきたものが、室町時代に中国(宋・明)から渡ってきた山水画の影響で、禅宗寺院で抽象的に発展したのだと。ズームして。砂紋には、直線や波線、円、曲線、渦巻きなどさまざまな種類があり、水の流れや波、川や海などを表現しているのだ。どの位の頻度で砂紋を描き直しているのだろうか?再び「本堂」の内陣に戻り、見上げて。大きな梁の上にも、小さな黄金仏・観音様が並んでいた。ズームして。移動して。「九品佛像光背に奉祀される化佛です。ご寄進頂きますと、貴方の名前等が次回修繕(三百年後)に確認されることでしょう」。御本尊「釈迦如来像」を祀る祭壇を再び。「本堂」の左側の紅葉を廻り廊下から。「本堂」を後にして、階段上からイチョウの樹の方向を。再び「三仏堂」の「上品堂」を正面に見る。本堂横の「仏足石」。天保年間(1830~1844)造立の仏足石と。「仏足石大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。 ※浄眞寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」植松壽樹(ひさき)歌碑。「掃きよせて 落葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を 壽樹」大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。裏面には、短歌一首が冒頭に。『雷鳥は いろ(色)まぎらはし 指さして をし(教)ふる方(かた)に さ霧のうごく 壽樹』歌碑銘植松壽樹 明治二十三年二月十六日東京四谷に生れ長じて慶應義塾大学理財科を卒業実業界に入り 後に芝中学校(現芝学園)に職を転じ 爾来歿するまで教職にたずさわる 歿年 昭和三十九年三月二十六日明治三十八年窪田空穂の十月会に参加 若くしてすでに歌人としての風格を備え 大正三年「国民文学」創刊と同時に参画したが 昭和二十一年自ら「沃野」を創刊し主催する 著書のうち 歌集には碑面の一首を含む「庭燎」(大正十年八月)を始め 「光化門」「枯山水」「渦若葉」「白玉の木」など 研究には「近世万葉調短歌集成」其他 近世歌人の研究書数冊がある また能書家であった父千春に学び 若きより壽樹もまた書をよくした ここに頭刻の一首をのこして永くとどめることとする 碑面の一首は「庭燎」所収のもので 当時好んでこの地を逍遥した折の所産である 昭和四十五年六月吉日 植松壽樹歌碑建設委員会 編」と。上記の植松壽樹氏の歌は、以前に同じ内容のブログをアップ時に我が学友が地元の市民図書館から、「植松壽樹全歌集」の本をレンタルして、第四歌集「渦若葉」所収の歌であることを、見つけて下さいました。彼女の調査力に今日も驚愕、敬意、感謝です。【雷鳥は、その色が周囲と紛れて見分けにくい。そこで、指さして教えようとするが、その方角に霧が動いていく。】と。雷鳥の保護色と霧の動きが織りなす幻想的な風景が、簡潔な言葉で見事に表現された歌なのであった。枯山水の庭を再び。手前は、イチョウの落葉が水の流れや波の姿を隠して。白砂の上に描かれる「砂紋(さもん)」をズームして。静寂な寺の庭に広がる枯山水の砂紋。丁寧に引かれた白砂の波が、流れる水のように揺らめくのであった。そこに一枚、黄金色のイチョウの葉がそっと舞い降りる。砂紋の流れに寄り添うように、葉の影が淡く滲み、ひとひらの光が宿るように鮮やかに映えるのであった。風がそっと葉を揺らせば、砂の上にわずかな跡を残し、やがてまた、静けさが庭を包み込んでゆくのであった。いつまでも佇んでいたい時間と空間!!「都天然記念物 九品仏のイチョウ」。見上げて。「仁王門」に向かって進む。「本堂」を「イチョウと枯山水」越しに。「本堂」の南側を見る。前方に「仁王門」。「仁王門」を額縁にズームして。「仁王門」に近づいて。「仁王門」裏の風神像。雷神像。「仁王門」下から「東門」方向を見る。葉脈の一本一本まで透けるような光が差し込み、朱や深紅、時に黄金を帯びた色彩が、風に揺れてきらめくのであった。晩秋の秋の空の青さと対照的に、その紅葉はまるで炎のように映え、微かな風にそよぐ度、光の粒を散らして踊っているかの如くに。参道横に建てられた木製燈籠の火袋の窓に描かれた鷺草の花をカメラで追う。近づいて。そして右折して総門への参道へ。右奥には「焔魔堂」。「淨真寺」の2024年の紅葉も見納め。「焔魔堂」前の参道を振り返って。そして「総門」前から。「総門」前を「六地蔵」方向に移動して。そして「総門」を潜り、「九品仏」駅に繋がる参道を進みながら振り返る。黒松並木の参道を進む。そして「九品仏駅」に到着。改札を通過。次の目的地の東京駅を目指す。大井町線を利用して「大井町駅」へ。そして大井町駅で京浜東北線に乗り換えて、東京駅に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.02.23
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「雁坂トンネル」を通過し埼玉県から山梨県に入り「国道140号」をひたすら南下する。右手に見えて来たのが「広瀬湖」。広瀬湖上流には「平成の名水百選」に選ばれた「西沢渓谷」があり、下流には信玄公の隠し湯として有名な天然の「三富温泉郷」がある。そして「広川橋」を渡り直ぐ右折して、展望用駐車所に車を駐め散策。記念碑「水源の碑」。山梨県山梨市三富川浦404。近づいて。碑の裏面には「甲武信岳、国師岳に源を発する源流笛吹川は数々の悲しい伝説や民話を生みその清流は渓谷や山岳を紹介しながら広瀬湖に注いでいる広瀬湖の水は峡東地域をはじめ、甲府盆地の治山治水に重要な役割を果たし、県企業局の発電事業や、畑灌用水として塩山市、山梨市、牧丘町、勝沼町、春日居町、一宮町、石和町、八代町、御坂町、中道町、三珠町、豊富村、境川村に、また上水道として塩山市など幾多人々の豊かな暮らしを支え、安らぎを与えている平成元年を機に、先人の遺徳を偲び、未来の三富村の躍進を請い願い、ここに水源の碑を建立するものである 平成元年十二月吉日 三富村長 日原 日原競捷」「広瀬ダム案内図」。「広瀬湖 広瀬ダム」碑。「広瀬ダムの概要 👈️ リンク一.位置 山梨県東山梨郡三富村大字川浦字広瀬二.ダム建設の目的 (イ)洪水調節 (ロ)畑地かんがい (ハ)上水道 (ニ)発電三.ダムの型式及び規糢 中央遮水型ロックフィルダム 堤髙 七五・〇米 堤頂長 ニ五五・〇米 堤頂巾 一〇・〇米 堤底巾 三八〇・〇米 堤体積 約一、四〇〇、〇〇〇立方米四.広瀬湖の規糢 集水面積 七六・六四平方粁 湛水面積 〇 ・五五平方粁 総貯水量 一四、三〇〇、〇〇〇立方米 有効貯水量 一一、三五〇、〇〇〇立方米 堆砂容量 ニ、九五〇、〇〇〇立方米五.移転家屋 三ニ戸六.工期 着工 昭和四四年四月 竣工 昭和五〇年三月七.総事業費 五九億ニ、五〇〇万円」「取水塔」。「取水塔(発電・かんがい及び水道に使用する水を取る)取水塔の中に、望遠鏡形の筒が水をとるシリンターゲートになっています。このシリンダーゲートは伸び縮みし、水面下3メ一トルの所のきれいな水を取り、この先のトンネルに流して行きます。」塔の高さは52m、塔の太さは7m。上図では良く解らなかったのでネットから。左側が、シリンダーゲートのイメージなのであろう。伸び縮みする望遠鏡形の筒を上からシリンダーで上下させ、取水水位を変更できるのであろ。「広瀬湖」を見る。 有効貯水量 113,500,000 m3 広瀬湖から見た常用洪水吐ゲートとその右側(写真中央)は非常用洪水吐。常用洪水吐は2門のローラーゲートの開閉により放流量の調節を行っているとのこと。非常用洪水吐は常用洪水吐のゲートが故障した時は、ダム湖が高水位にならないようここから自然越流して放流するのであろう。「水神」碑。「故郷の碑」。「一、「故郷の碑」由来 笛吹川流域一帯は、古くより多くの水害に見舞われる反面、常習的な干ばつに悩まされて 来ました。 このため山梨県は、「笛吹川総合開発事業」を起こし、この地に広瀬ダムを建設することと しました。 そのため、湛水区域の東山梨郡三富村広瀬に居住する方々をはじめ土地及び墓地等の所有者の 深いご理解とご協力をいただきましたことを銘記し感謝の意を捧げます。 ニ、ダム建設のため転出された協力者 ・・・・以下 略・・・」「広瀬ダム建設の協力感謝の碑広瀬ダムは、着工以来多くの方々の深い御理解と御協力によって完成しました。永年住みなれた故郷の地が湖底となるため他の地へ転出された32戸の協力者をはじめ伝来の貴重な墳墓・畑・山林などを提供された協力者は62名に及んでいます。特に亀田林業所殿には、15㌶に及ぶ山林提供、広瀬事業所及び墳墓の移転、ダム本体の芯を形成する233000立方mに及ぶ山土の無償提供等のほか、ダム周辺緑化のために多数の苗木を寄贈されました。広瀬ダムの完成にあたり、以上を銘記し、深く感謝の意をささげます。 昭和五十年三月 山梨県」裏面には「土地等を提供された協力者・・・以下略・・・」「ロックフィルダム」👈️リンク 方式の「広瀬ダム」ロックフィルダム(Rock-fill dam)はダムの型式の一つで、岩石や土砂を積み上げて建設する型式のダムである。「ダム標準断面図」。ロックフィルダム天端(75m高)通路から下流側を見る。ロックフィルダム天端(75m高)通路から、再び常用洪水吐ゲートとその右側(写真中央)は非常用洪水吐 を。そして「広瀬ダム」を後にし、中央自動車道に向かって進む。山梨県山梨市牧丘町室伏にある「室伏トンネル」を進む。山梨県山梨市牧丘町倉科にある「牧丘トンネル」を通過。国道140号「雁坂みち」の「笛吹川」に架かる「新鍛冶屋橋(しんかじやばし)」からは富士山の山頂が姿を現した。JR中央線のガードを潜るとその前方には、例年に比べて積雪の少ない山頂が姿を現したのでズームして。西の空には夕焼けが始まる。時間は16:53。夕景を追う。この先を右折して、甲州街道・勝沼バイパスへ。前方の夕景を。ズームして。そして「勝沼IC」から「中央自動車」へ。合流車線へと向かう。左手には「山梨市」、「塩山市」の街並みが見えた。順調に進み「笹子トンネル」に。「小仏トンネル」を通過。そして「八王子JCT」を通過。「圏央道 厚木」方面へ。圏央道の「海老名JCT」から「東名高速道路」へ。そして「秦野中井IC」から一般道へ。右折して二宮の大先輩の邸宅へと。そして茅ヶ崎の先輩宅経由して、19:30過ぎに帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.02.22
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「淨真寺」の「本堂・龍護殿」前に到着。「本堂・龍護殿」を正面から。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に願い事を結ぶことができるようであった。移動して。今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。「三仏堂」の中央の「上品堂」を見る。もう一体の白鷺(しらさぎ)の「さぎ草絵馬」。以下ネットから。さて、姫路城を白鷺城という名前にもあるように、われわれ日本人は色の白いサギを「シラサギ(白サギ)」と呼んでいます。でも実は、正式な種名としてシラサギという鳥はいません。ダイサギ、チュウサギ、コサギなどの白色のサギの総称としてシラサギと呼んでいるだけです。シラサギという名前の鳥は、いないのです!どうしてこういうことになったのか、都市鳥研究の第一人者で自然観察大学の学長でもある唐沢孝ー先生は、次のように説明します。「もともと白いサギを総称してシラサギと呼んでいたところ、標準和名を付ける時、大きさによって区別するためにダイサギ、チュウサギ、コサギなどという種名、標準名がつけられました。その結果、シラサギという名のサギはいないことになってしまいました。」と。移動して。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。「浄眞寺と白鷺浄眞寺は奥澤城跡に建立されました奥澤城常磐姫にまつわる伝説の白鷺は鷺草に姿を変え今では世田谷区花に指定されています白鷺の翼部分に「おみくじ」「絵馬」を結ぶことができます」「本堂・龍護殿」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。「本堂・龍護殿」を斜めから。「本堂本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第ニ世珂億上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。 本堂はまた「龍御殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会(おめんかぶり)」は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏とニ十五菩薩が、来迎・往生・還来と3回橋を行道するものである ※淨眞寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」「五重相傅會記念寄付 金五百圓 日本橋千部講」と刻まれた石碑。「五重相傅會とは、津上宗の教えの神髄、つまりは専修念仏の教えを正しく身につけ、阿弥陀さまのみ光のもと、人間としての正しい生活の基礎を身につけていただき、誤りなく次代へと伝えていくための法会で、勧誠師上人の勧誡(お説陂、法話)を聴いて頂き、また礼拝回向、式をとおし身に実踐して頂きます法会です。今年は、法然上人8 0 0年御遠忌の記念の年でもあります。数多くの善男善女の入行をお勧め申し上げます」と。「本堂」前から歩いて来た方向を振り返る。正面奥に先程訪ねた「河口慧海師碑」。再び「本堂・龍護殿」を。「本堂本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第ニ世珂憶上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。本堂はまた「龍御殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「おめんかぶり・来迎会」は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏とニ十五菩薩が、来迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。」扁額「龍護殿」。「常香炉」九品仏浄真寺の寺紋は源頼朝の紋で知られる 「竜胆車(りんどうぐるま)」。「九品仏浄真寺(淨眞寺)の寺紋である「竜胆車(りんどうぐるま)」は、竜胆の花と車輪を組み合わせたデザイン。この紋様は、平安時代に始まり、鎌倉時代には家紋として定着した。 竜胆車の紋は、特定の家系や寺院と関連付けられることが多く、例えば曹洞宗の永平寺では寺紋として竜胆車を使用しています。 また、源氏の家紋としても竜胆が用いられることがありました。 浄真寺が竜胆車を寺紋として採用した具体的な経緯については、公開されている情報が見当たりませんでした。しかし、竜胆車が仏教寺院や貴族の間で広く用いられていたことから、その伝統や象徴性を尊重して採用された可能性があります。」とネットから。「御朱印をお求めの方へ勧進写経の勧め淨眞寺では現在、九品佛像修繕事業の為「大勧進」を呼びかけております。その一環として「勧進写経」(一口千円以上のご寄付)をされた方にはその証として金紙の御朱印を授与いたします。本日はご参拝いただきましたご縁に「勧進写経」をお勧めします。」本堂内陣に入る。写真撮影は可とのこと。正座しお祈りする方の姿も。内陣に鎮座する法界定印(禅定印)を結ぶ釈迦如来坐像。浄真寺の開祖の珂碩上人の作と伝わる像で、江戸時代の作 と。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」をズームして。御本尊の左側の部屋に移動して。扁額は「霊瑞(れいずい)」と。「霊瑞」は浄土宗京都知恩院の僧。号は鳳誉。日野氏。信濃更科郡の人。蓮光寺仁説の下に投し、後江戸に出遊し増上寺学寮主慈専に学び、寮主となり学頭に進む。文政3年下総生実大巌寺に住し、後上野新田大光寺に転住し大教正に補せられる。明治19年増上寺に進み、21年知恩院に昇る。明治21年(1888)歿、70才。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」「病が治ります。自分の患部と賓頭盧尊者の同じ所をくり返し撫でて下さい」と。私も頭をしっかりと撫でて。正面の祭壇。中央に世田谷区指定有形文化財・「五劫思惟像」。左に「三尊仏像」。右に「地蔵菩薩像」。「宗祖 法然上人像」。左に、多くの「御位牌」が祀られていた。左側から「御本尊」の「釈迦牟尼仏」を。ズームして。本堂内の欄間の「極彩色の見事な彫刻」を追う。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」の裏の部屋を覗いてみた。白象に乗る「普賢菩薩」画像。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」の裏奥の通路を見る。九品仏浄真寺のマスコットキャラクター「きゅっぽん」と。「きゅっぽん」の名前は、寺院の名称である「九品仏(くほんぶつ)」に由来。「九品(きゅうほん)」を「きゅっ」と縮め、「仏(ぶつ)」を「ぽん」と音読みに変えて組み合わせたもの。このキャラクターは、九品仏浄真寺に安置されている九体の阿弥陀如来像をモチーフにしているのだ と。「七言絶句」の漢詩であろうか。「題九品山淨真寺 雲風詩書」。『城西浄域 絶無塵 法統連綿 三百春 緬想高僧 留錫日 一鐘破夢 響清晨 (よみかた)城西の浄域 タエテ塵なし法統連綿 三百春ルカニ想う高僧 錫を留むるの日一鐘夢を破って 清晨に響く』 【城の西にあるこの清らかな寺域には、俗世の塵や煩悩が一切ない 仏法の教えは連綿と受け継がれ、三百年の長きにわたって続いている 往時の高僧が、この地に留まり修行した日々を偲ぶ 遠い昔の高僧がこの地に滞在し、修行した日々を偲ぶ。 朝の鐘の音が夢を破り、澄み渡る朝に響き渡る。この詩は、城の西に位置する清らかな寺院の静謐さ、長い歴史、かつて修行した高僧の存在を讃え、最後に朝の鐘の音が煩悩を払うという仏教的な悟りの象徴として表現ています】とChatGPTから。昔の「三仏堂」の姿であろうか。龍神の姿が。「弘宣正法」と。「正しい仏法を広く宣(の)べ伝えること」 という意味か。「この寺が仏法を広める場である」という意味を込めているのであろう。「三界萬靈」と書かれた位牌、そして「南無妙色身如来(なむみょうしきしんにょらい)」、「南無廣博身如来(なむこうばくしんにょらい)」とも。「南無妙色身如来」:美しい身体の如来(仏さま)に感謝します「南無廣博身如来」:のど元を広く開けて飲食させる如来(仏さま)に感謝します と。「大日如来」に帰依することによって、自分の中に生じた醜いものを取り除き、清浄な状態を保ちなさい との教えか。仏絵に近づいて。そして御本尊の右側の部屋に移動して。扁額「松露斎」と。開山の「珂碩上人」の遷化法名が「大蓮社超譽珂碩松露大和尚」ということから来ているのであろう。祭壇中央に「開山大蓮社超譽上人珂碩松露大和尚位」と書かれた位牌が置かれていた。「開山 珂碩上人倚像」。「高祖 善導大師像(西紀六一三~六八一)唐(中国)の人、浄土教を宣布せられ浄土門の高祖を鑽仰せられている」と。鑽仰:聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶこと。右手には「阿弥陀仏像」が奥に。多くの位牌が安置されていた。ズームして。本堂内の右側の部屋から欄間の「極彩色の見事な彫刻」を追う。見事な美しい「天蓋」を追う。肌を露わにして浮遊する飛天が画かれていた。もどる ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.22
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引き返してさらに、「三十槌の氷柱」の人工氷柱を追う。上方をズームして。「ここまで天然氷柱ゾーン」、「ここから人工氷柱ゾーン」と往路用の表示板。所々に荒川の人工段差も。「天然氷柱」を再び追う。ズームして。さらに。そして「三十槌の氷柱」を後にして、国道140号・秩父往還を西に進む。秩父往還(ちちぶおうかん)とは、中山道熊谷宿がある石原村(現、熊谷市)を起点として荒川渓谷沿いを通り、秩父大宮(秩父市)のある秩父盆地を横断し、雁坂峠を越えて甲州に入り甲府に至る街道である。秩父往還道、秩父甲州往還とも呼ばれ、甲州側からは雁坂口、秩父路、秩父側からは甲州路、信玄路などの呼称が見られる とウィキペディアより。この先を左折すれば、二葉ダムの天端には埼玉県道278号が通っており、国道140号と多くの観光客で賑わう三峰山・三峯神社を結ぶルートとして利用されているのだ。我々は左折せず直進。「二瀬ダムから0.28km」で車を止める。「秩父湖」の水位が低いことに驚いたのであった。12月は我が住む地域には1日だけ雨の日が。大先輩は、メンテナンス工事で水位を低くしているのではないかと。上流側を見る。途中から水面が消えていたのであった。遠くに見えたのは「大洞川吊り橋」か?2017年に走った140号線を走り、「栃本関所(とちもとせきしょ)跡」👈️リンク 前を通過。「大滝道路」を進む。「滝川峡隧道」。「天狗岩トンネル」。そして国道140号に架かる「豆焼橋」、「雁坂大橋」の姿が現れた。「豆焼橋(まめやきばし)」は埼玉県秩父市大滝の豆焼川に架かる国道140号(大滝道路)の道路橋。橋の標高は約1000メートルである。橋長220メートル、総幅員10.75メートル、有効幅員9.25メートル(車道7.25メートル、歩道2メートル)最大支間長149.6メートルのアーチ橋。豆焼川の名前の由来は沢で遭難した旅人が豆を焼いて食べたことで一命を取り留めたという伝承によると。「雁坂大橋」は上路式4径間連続トラス橋、橋長:248.6m、幅員:15.50m。「豆焼橋」の手前にあった「又のお越しを彩の国 自然の宝庫 大滝」と。「豆焼橋(まめやきはし)」。「豆焼橋」を通過。右手に見えたのが「雁坂大橋」。「奥秩父トンネル」の入口。この先耐震補強工事にため片側交互通行と。「奥秩父トンネル 744m」「豆焼橋」の終点が「奥秩父トンネル」の入口になっていた。「奥秩父トンネル」内でも通行規制中。「雁坂トンネル」・6,625mの入口が見えて来た。「雁坂トンネル」入口で片側交互通行で停止。「雁坂トンネル」を走る。前方に「広瀬トンネル」。「雁坂トンネル」の料金所を通過し振り返る。北側の山肌には残雪が。「笛吹川」に架かる「西沢大橋」。日本でも珍しいV脚ラーメン橋という構造を採用しています。スレンダーな主桁、湾曲したラインにリズミカルなV脚がアクセントとなり、周囲の美しい景観に調和するとともに、埼玉方面からの玄関口のシンボルとなっています。ほぼ楕円を描くような「西沢大橋」。このループ橋の「笛吹川」を2回目に渡った場所の左側に「西沢渓谷」への駐車場入口があるのだ。「西沢渓谷」への駐車場の写真をネットから。 「西沢渓谷」の見事な紅葉写真をネットから。「西沢渓谷は、秩父多摩甲斐国立公園内に位置し国内屈指の渓谷美を誇る景勝地です。巨大な花崗岩(かこうがん)を清流が浸食してできた渓谷は、天然の芸術のごとく、原生林を流れる渓流がいくつもの滝を作り、神秘的な魅力に満ちあふれています。「日本の滝百選」にも選ばれた名瀑・七ツ釜五段の滝を筆頭に、三重の滝、竜神の滝、恋糸の滝、貞泉の滝などさまざまな滝が織りなす渓谷美は、まさに圧巻です。渓谷内は遊歩道が設けられ、渓谷ならではの四季の変化が楽しめます。特に5月のシャクナゲや秋の紅葉の時期には、多くの観光客が訪れます。また、西沢渓谷は森林浴のリラックス効果が実証され、森林セラピー基地に認定されているほか、「平成の名水百選」「森林浴の森100選」「水源の森百選」などにも選定されています。」 と。 楕円を描くようなループ橋・「西沢大橋」の位置づけを理解できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.21
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「三仏堂」を後にしてその奥の墓地の中にある「開山歴代上人御廟」に向かって「中品堂」の先へ進む。角右手には再建なった「地蔵堂」が建っていた。「浄眞寺開山珂碩大和尚は 元和四年(一六一八 )武蔵の国に生まれ 十二歳で江戸覺眞寺圓嚴上人につき 薙髪し下総生実の大厳寺で珂山上人に師事のち江戸霊厳寺に住し 宿願とした丈六の九躰阿弥陀佛像と釈迦像一躰ぼ造立を完成した さらに延宝六年(一六七八)に奥澤の地に浄眞寺を開き住すること十六年 里民に医療を施し珂碩佛と称され元禄七年(一六九四)十月七日七十七歳で示寂什寶物「九品山縁起」に詳述される如く 上人は地蔵菩薩の化身として地蔵因位の本地の姿を顕すること数度に及べりと伝えられる これに因みいつの歴代か不明なるも 今時平成令和の阿弥陀佛大修大勧進事業に併せ 新築の地蔵堂を 発眼し本日ここにその落成慶讃の法会を勤修せんとす願わくば無辺身菩薩 威光を倍加し照臨して化導の源泉を示し人皆利楽せしめんことを 維新 令和七年春 十七世 信譽英碩」「このお地蔵さまは、地蔵菩薩の化身と言われた珂碩上人の御廟と対面しております。」と。「地蔵菩薩」像。これが、以前の建物の写真であるが。「開山歴代上人御廟」の案内に従って進む。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。「開山歴代上人御廟」への参道を進む。突き当りの左側にあった石碑・石仏。中央の石仏の左側には歌が刻まれているようであったが・・・。石仏には「延宝丁巳(5)年(1677)ニ月四日 浄譽一廟?元水居士」と。下部には多くの戒名が刻まれていた。「見る(累)からに(而) あ(阿)は?れ◯かし 吾は(八) ◯つき(幾)◯◯◯いつこの(能) 人も? ◯◯◯◯◯」と。「本堂石墻(せきしょう・塀)建立供養塔」(左)、「寄付 本堂永代疊替資料」碑。正面に「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寶塔」。「延命地蔵尊」であろう。「延命經日 一者女人泰産」と刻まれた石仏。女人泰産とは、女性がやすらかなお産が出来ること。「先祖代々一切精靈 清智院大譽浄倫超運居士 大智院觀譽照妙壽善女」と。「南無阿弥陀佛」碑。横には「文化十酉年七月二十日」と。左側には墓地が広がる。「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓石。ここにも「南無阿弥陀佛」碑。「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地の右側には歴代住職の墓石・無縫塔が並ぶ。こちらの無縫塔墓石は?どなたの?こちらの無縫塔墓石は比較的新しかったが。墓誌碑には「中興十五世、中興十六世」 と。現在の上人は、十七世 信譽英碩氏。北側の広大な墓地を望む。ネットには「浄真寺の裏手にはかなり広い墓所があります。墓所なので当然のことですが檀家および墓参の人以外の入場を禁ずる、という注意書きが掲げられています。この墓所には、第1回芥川賞の受賞作家である石川達三のお墓、山本五十六の2つ前の聯合艦隊司令長官である永野修身のお墓、そして東急グループの創出者である五島家の墓所があります。墓所に入ってすぐ右手に手桶所があるので、そこで手桶を借り水を汲み、石川達三、永野修身、五島家のお墓にお参りをしてきました。」と。上記のそれぞれの墓所がこの場所かは不明であるが。そして、「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地の前から新装なった「地蔵堂」を再び見る。引き換えして再び「三仏堂」の前の参道へ。「本堂・龍護殿」に向かって進む。角にあったのが「河口慧海👈️リンク師碑」。「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲 学館に学ぶ 廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学 に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を 将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等多数を携えて大正四年 帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を退け 在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記 等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業 半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十昭和三十二年二月二十四日 文学博士 椎尾弁匡撰 日本芸術院会員 桂月松林篤書」塔身部237×136×22cm、真鶴の石とのこと。「本堂・龍護殿」北側の見事な紅葉を移動しながら。「和」と刻まれた球状の石碑。「平和の塔(へいわのとう)」であると。台座には「經日 超世無倫」と刻まれていた。「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。昭和四十年(1965)建立と。「本堂」の北側の林の中にも石仏や庭石が並んでいた。ズームして。奥には建物の姿も。奥にも御堂・「五社殿」の姿も見えた。大正2年に建造された奥沢神社の前代の本殿も五社殿として浄真寺に移築されているが、覆屋内に納められており見ることはできないのだと。淨眞寺の鬼門を守護する御社で、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮、住吉大社、熊野大社の五社の御分身をお祀りしている と。「本堂・龍護殿」北側の見事な紅葉をさらに追う。なだらかな曲面には落ち葉が敷き詰められていた。本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。陽光に照り輝くモミジ葉をしばしカメラで追う。「南無阿弥陀佛 傳通院四十九世 騰譽實海(花押) 金三拾両」と刻まれた石碑。伝通院(でんづういん)は、東京都文京区小石川にある、徳川家ゆかりの浄土宗寺院。浄土宗知恩院派。関東十八檀林の一つ。徳川家康の生母伝通院殿が眠る。小石川伝通院。山号は無量山。「騰譽實海」は増上寺57世。1820年(文政3年)死去。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.21
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「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」に向かって進む。右手にあったのが「売店・カフェ ウッドルーフ」。暖炉付きの休憩ベンチ。しばし温まりたかったが。可愛いトナカイもライトアップされていた。こちらにも。「三十槌の氷柱」入場券売機。300円を支払って入場。「しばらくは つらゝと呼ばれ 岩清水 平成拾八年壱月 理磯」。奥秩父の冬の名所「三十槌の氷柱」は、岩清水が凍り作り上げられる氷の芸術 と。「額渕水天宮」石鳥居の扁額も「額渕水天宮」。「額渕水天宮」の石の社殿。「額渕水天宮この下方に底無しの渕ありその余りの深さに額(ぬか)ずいてそこを見たことから、その渕を額渕と呼称し、今も地名として残っている。古より人々が水天宮を奉り、水難除け・安産・家内安全を祈願して額渕水天宮と称したと云う。大正畤代以降に下流に建設された水力発電用の取水堰堤により砂石が堆積して渕は埋まり昔日の面影はなくなったが、霊験あらたかな水天宮の信仰は人々の心の寄りどころとして現在に至っている。」「額渕水天宮」の先代の案内板か?坂道の下に「荒川」そして「天然氷柱エリア」が現れた。三十槌氷柱は、岩肌からの湧水によってつくられていると。ここでは自然にできた氷柱と人工の氷柱が見られるのであった。人工の氷柱は渓谷の上から水を流してつくっていると。人工の氷柱の方が、大きかったのであったが。荒川の流れの先に、天然の氷柱が現れた。自然の雄大な氷柱!氷柱といえば、屋根から長くても30cmくらい?のものしか見たことがなかったので。また、氷柱は最大8mにも達すると言われていると。8mは想像を絶する大きさ。「共通甘酒割引券使用 売店・カフェ➔」案内図。「三十槌の氷柱 案内図」。「秩父 三十槌の氷柱 2024」の「ポスター。天然の氷柱をカメラで追った。ズームして。さらに。屋根や岩肌から垂れる氷柱は、冬の寒さに閉じ込められた涙の如くに。移動して。この「三十槌の氷柱」の天然氷柱のライトアップ時の写真を、これもネットから。ズームして。そして「人工氷柱ゾーン」へ。斜面の高い場所にも氷柱が現れた。移動して。荒川の水面近くの氷柱を追う。氷柱が川面に映り込んで。そして人工氷柱もここまで。引き返して。荒川の白き流れを。そして再び人工氷柱を追う。氷柱が荒川の水面に潜り込むが如くに。上方を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.20
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さらに参道を西・「三仏堂」の方向に進む。左手に「五重石塔」。初層軸部は後補のようであった。陽光が射し込まないと紅葉の輝きが・・・。「本堂」脇の枯山水の庭の先の「銀杏」の老木は、既にほぼ完全に葉を落としていた。銀杏の黄葉の最盛期には、ネットから。参道左側の黄葉+紅葉。「銀杏」の老木の根本には黄金に輝く銀杏の葉が降り積もって。こちらの銀杏の大木にも同様に。ここにも「大勧進」案内板。振り返って。「三仏堂」の「下品堂」に向かって進む。そして右側には小さな舞台が。「日照王菩薩」「華蔵菩薩」「金剛蔵菩薩」の文字があったが・・・。「二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)」に使用する舞台であろうか?そしてさらに真っ直ぐ進むと、本堂に相対する形で、中央に上品堂、左手に下品堂、右手に中品堂、の3つの阿弥陀堂が建っていた。浄土宗は、その経典の中の「観無量寿経」において、浄土に行く者には9つの階位があると説いている。それが、上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(下品)の3つで、さらにそれぞれが上生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)の3つに分かれて9つの階位になる と。3つの阿弥陀堂にはそれぞれの階位を体現する阿弥陀如来像が安置されていいた。ちなみに下品下生は悪行を重ねたが教えにより悟りを開き往生した人、上品上生は仏の修行を成し得た人、つまり仏門に帰依し大乗経典を暗唱(「読誦(どくじゅ)」といいます)できる人。上品はないなぁと思いながら、3つの阿弥陀堂全てにお参りをしたのであった。正面に「下品堂」。各堂とも 桁行7間(17.1メートル)、梁間5間(10.7メートル)、一重、寄棟造、銅板葺。「三仏堂」は真東に向いて建っている。という事は、浄土、彼岸に当たる区域という事なのであろう。彼岸の地においては全て生前の行いにより三つの品階に区別され、それが又それぞれ三ランク、計九ランクに分類されるのだと。そしてそれぞれ専任の阿弥陀如来が付き、上のランクに引き上げて呉れるのだと。最終的には全員が上品上生に達するそうですが、子孫の供養の仕方、行いによりスピードが異なると。境内の「三仏堂」の配置図。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。「九品(くほん)の印」と呼び、指で輪を作っているのが特徴。膝の上で、左右の手を組んでいるもの 上品親指と人差し指で輪を作っていれば上生親指と中指なら中生親指と薬指なら下生となる下記はネットから。「下品堂(げぼんどう)」。右手を上に、左手を下に向ける衆生を迎えに訪れる様を表わした来迎印(らいこういん)と呼ばれ下生(げしょう)そして、親指と人差し指で輪を作っていれば上品親指と中指なら中品親指と薬指なら下品となる と。正面に「下品上生」仏。右手に「東京都有形文化財 下品阿弥陀如来像 三體」と。「祝 下品上生佛大修繕完了 下品堂本座還着」と。修繕が完了し、「下品堂」の自分の場所に戻って来たのであろう。正面から。多くの化仏をつけた金色の舟形光背を背負う。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)と。ズームして。右手に「下品中生」仏。左手は空座に。「淨眞寺「平成令和」九品佛大修繕事業」大勧進 下品下生佛像 御還座中 令和六年から二ヶ年間」と。以前に訪ねた時・在りし日の「下品下生佛像」。「下品堂」前の紅葉。「九品仏と三仏道珂碩上人(1617~94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。」「下品 阿弥陀如来像 三體」大勧進 案内。手摺には「紫雲」が施されていた。「上品堂」に向って進む。右手への参道の先に有るのが「本堂・龍護殿」。そして「上品堂」。「上品上生」仏。中央の扁額「上品上生」。「来迎会(おめんかぶり)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来ニ十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏業者が臨終の夕ベに、阿弥陀さまがニ十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください」「上品上生」仏をズームして。右手に「上品中生」仏。左手に「上品下生」仏。「中品堂」が前方左に。加藤楸邨の句碑。「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸(ばった)とぶ」「人の気配を感じてか、草むらにじっと動かない螇蚸がいる。こちらも動かずに息をひそめ目を凝らしている。動かないのは力が抜けているのではなく、全身に力を漲らせているのだ。と、次の瞬間、螇蚸は勢いよく跳躍、飛翔したのだった。昆虫の思いがけない力強い飛翔に、作者は心を打たれたのではなかったろうか。内への充実と外への飛躍、静と動の鮮やかな対比が螇蚸の命の輝きを捉えている」とネットから。石碑の裏面には「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸とぶ「螇蚸(はたはた)」は昆虫のバッタの異称 と。しかし、虫偏の漢字、“虫”のある漢字って意外と多いので調べて見た。以下、ネットから「手元の歳時記で、秋の季語/動物編に出てくる虫偏の漢字または“虫”のある漢字を含む季語を拾い上げてみましょう。・秋の蛇(へび)・秋の蛍(ほたる)・秋の蠅(はえ)・秋の蚊(か)・秋の蜂(はち)・秋の蝶(てふ、ちょう・秋の蝉(せみ)・蜩(ひぐらし)・法師蝉(ほふしぜみ:ツクツクボウシのこと)・蜻蛉(とんぼ)・蜉蝣(かげろふ、かげろう)・虫(むし:秋鳴く虫の総称)・蟋蟀(こほろぎ、こおろぎ)・蛬(こほろぎ、こおろぎ)・蛼(こほろぎ、こおろぎ)・螽蟖(きりぎりす)・螇蚸(ばった)・飛蝗(ばった)・蟿螽(はたはた:バッタのこと)・蝗(いなご)・螽(いなご)・蟷螂(かまきり)・螻蛄(けら)・蚯蚓鳴く(みみずなく:ケラの鳴き声のこと)・秋蚕(あきご:秋に飼い育てるカイコのこと)」と。以上25件、30種類の漢字があるのだと。上品堂と中品堂の間の奥にあったのが「阿育王塔(あしょかおうとう)」。「阿育王塔」は、分骨した釈迦(シャカ)の遺骨を納めるために作られた仏塔。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの。「阿育王塔(あしょかおうとう)阿育王は、紀元前三世紀のインド王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。 淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」その先に「中品堂」。「中品堂」を正面から。「中品 阿弥陀如来像 三躯」。「中品上生」の扁額。「中品堂」の3仏。中央の「中品上生」仏。両脇には献花が。名前があるのか?花纏?花万灯にも似て。右の「中品中生」仏。左の「中品中生」仏。「中品堂」前の紅葉。「本堂」・「龍護殿」への参道が右手に。「三仏堂修覆元禄11年~ 12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有形文化財) ※淨眞寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.20
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そして「尾ノ内氷結」の係り員のオジサンにオススメの昼食場所を教えて頂き車で向かう。国道299号をひたすら戻り、左折して坂道を上って行くと左手にあったのが「観音茶屋」。埼玉県秩父郡小鹿野町飯田2359。駐車場の大型の観光バスが駐まっていた。駐車場の脇にあった「仲良し夫婦・双体道祖神」。「観音茶屋」の店内に。様々な民芸品が並ぶ。素朴な人形が並び心が和らぐのであった。茶碗、取り皿、箸置き。「干支 吉祥飾紙干支の吉祥飾紙は、新年を迎え、家運隆昌や招福開運を願うために玄関や仏の間などに飾られる魔よけ・招福の飾りです。古くから縁起物として各ご家庭に祀られて参りました。【家内安全】【無病息災】【商売繁盛】などご祈願し、原則として南もしくは東の方角を向くように貼ります。」吊るし雛。「観音茶屋 うどんそば抄」。「観音茶屋 うどんそば抄さてさて皆様 召したるものは、ご當地名物 観音うどん 観音そばでございます。手でこねて 足でふみつけ 手で伸ばし ものの 手によりぶったぎる真心こめて茹であげたこれぞ手打ちの由縁でござる。さては汁は極上のかつお節にて だしをとり昔風味もあでやかにズルズルズルと召していただけば 四季の薬味が深山の味も伝えます。観音山は菜の宝庫 旬の薬味にこと欠きません。秩父しめじの天麩羅と山◯や柚子をぴりりと利いてまずは客先ご賞味ござれ。さてさて皆様の召したるものは地粉からなる観音そばと観音うどんにございます。當店婆の細腕で年ほど知らぬ力ナリとしぼりエッサヤホイサヤ打ちまし味を自慢にしてまする。 主」多くのワイン、日本酒、地酒も。地産の土産物コーナー。折しも、大型観光バスで来られていた方たちが、昼食を終え、土産物コーナーへ。クラブツーリズムの「冬の秩父を楽しむ!三大氷柱めぐりバスツアー2025」の参加者とのこと。「はちみつ」コーナー。「たかださんちのはちみつ」。そして「味噌煮込みうどん」を楽しんだのであった。年寄りには量が多かったですが、美味しかったので頑張りました。お面。こちらにも。ド迫力の般若面。様々な果実酒。ふくろう。ダルマ。「神変獄刀天大延寿神」(神変大菩薩役の行者)の由来弘法大師空海より百数十年も古い時代に密教・道教・神仙思想、さらには陰陽道をはじめ中国伝来の医薬術などを体得していたと思われる役の行者は我が国正史にも記録され、修験道の開祖に位置づけられて後年「神変大菩薩」と尊称されてきました。昭和六十三年五月手嶋了凰師は「吉野大峯山役の行者堂裏山に雷に打たれし倒木の根元にニ尺ばかりの木株ありて、我は神変大菩薩化現の霊木なり直ちに秩父神変嶽に飛翔祀るべし」との霊示を受けた了凰師は即日吉野蔵王堂に参じ一心にて祈りて、その霊験により吉野修験者による一大勝縁を得てこの霊木は見出されたのであります。ここ神変嶽は、北頂玄武 南麓朱雀 東流青竜 西道白虎の四神相応の聖山聖地として神変大菩薩御自身が千三百年余の時空を超えて選ばれた一大勝縁の浄地であります。 平成六年六月二十八日「神変嶽刀利天大延寿神」と霊告いただいた至尊の御霊格の御神体として山頂にお祀りされたので有ります。この霊木自体が真姿なる信仰登拝者に神変大菩薩の絶妙不可思議な救済御加護力を体現下さるのであります。故にこの聖山を神変嶽と崇めてその周辺の自然の神域を穢すことなく心身清浄なる登拝行をすることによって神変嶽刀利天大寿神の不可思議威神力を感得させて戴くのであります。 宗教法人光珠院(岩殿沢たらちね観音) 手嶋了凰 神変講奉賛会神変嶽参道入口」「観音茶屋」で昼食を済ませた後は、皆野両神荒川線を下り「三十槌氷柱」に向かって進む。荒川の手前にある国道140号に出て右折。この先を左折し秩父湖方向へ。そして「三十槌の氷柱」入口に到着。 「三十槌の氷柱 荒川右岸 1月中旬~2月中旬」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.19
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「開山堂」を後にして、「薬医門」に向かって進む。額縁付きの絵画の如き光景。「仁王門」への参道に出て、「焔魔堂」方向の紅葉。「参道」の紅葉をカメラで追う。正面に巨大な「仁王門」。母屋造銅板葺で三間一戸の仁王門(紫雲楼)....寛政五年(1793)建立。扁額は「紫雲楼」と。楼門形式の、ニ階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たない門。ニ階部分には高欄が配置されていて二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。桁行3間(8.1mメートル) 梁間2間(4.2メートル)、入母屋造、銅板葺。石段中央の手摺は「金剛杖」を表していると。「仁王門重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」「紫雲桜(仁王門)楼上のニ十五菩薩当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」「おめんかぶり 二十五菩薩来迎会」案内板。三年に一度行われる九品仏の二十五菩薩来迎会、通称「おめんかぶり」👈リンクは5月5日に開催。来世に見立てた本堂と、浄土に見立てた上品堂との間に橋を架け、浄土から二十五菩薩が迎えに来る様と、西方極楽浄土へと往生人を救う(連れていく)様を表しているのだと。楼門で凄みを効かせる阿形吽形の仁王像。「金剛力士像(右・阿形像)」。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにして。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表わしているのだと。「阿」には「物事の始まり」、「吽」には「物事の終わり」という意味がある。そのため、阿形像は口を開けて「物事の始まり」を表現していると。「金剛力士像(左・吽形像)」。吽形像は怒りを内に秘めた表情。吽形像は口を閉じて「物事の終わり」を表現していると。見上げると見事な彫刻。中央の虹梁に精緻な虎と龍の彫刻が乗る。「境内境内周囲の土手はこの地がかて奥沢城であたときからの名残りで、鎌倉期にける築城学上「土塁」の形を示すものとして貴重な資料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高尾マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。参道・惣門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われてゆく都内の現状の中できわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。 ※淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」「仁王門」を潜ると、左手斜め奥にあるのが「鐘楼」。入母屋造銅板葺の「鐘楼」、宝永五年(1708)の建立。「鐘楼仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖が二親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十二支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。 ※淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」ズームして。軒廻は二軒扇垂木、組物は三手先で中備は台輪上の中央に詰組と両側に蟇股。軒廻は二軒扇垂木、組物は三手先で中備は台輪上の中央に詰組と両側に蟇股。鐘楼の四周に刻まれた十ニ支は見事な彫刻。梵鐘は深沢村の谷岡重頼が父母の菩提のために寄進したもの と。木鼻と飛貫に獅子・龍・兎・虎・鳥・花などの精緻な彫刻が施されていた。そして「鐘楼」の手前、左手にあったのが「奥沢城跡」碑。奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる と。仁王門(楼門)の北側(右手)に4基の「庚申塔」が並んでいた。この石碑には「玻璃摩権現」と刻まれていたが、左の庚申塔との関係は?4基の「庚申塔」を正面から。一番右の「駒形青面金剛像」は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていなかった と。造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中ではかなり古い部類に入る。青面金剛、日月瑞雲、ニ鶏、邪鬼、三猿が彫られており、「奉青面金剛講中…奥沢村」とある。「武州荏原郡世田谷領」という文字もあるので、奥沢村のものである。左から3番目は、同じく板状駒型で青面金剛と日月瑞雲、ニ鶏、三猿、造立年は元禄17年(1704)である。ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の古さからであろうか。左から二番目の庚申塔は青面金剛、邪鬼、三猿がきれいに描かれている板状駒型。造立は享保4年(1719)、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。一番左の庚申塔は、青面金剛像に日月瑞雲、三猿、元禄3年(1690)の造立である。板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものであるとのこと。「玻璃魔権現」前から「仁王門」への参道を斜めから。「仁王門」の先の参道を進む。仁王門をくぐると、「阿弥陀堂」と「本堂」のエリア。見事な黄金の輝き。金色に染まったモミジの葉は、まるで光そのものが地上に舞い降りたかのよう。澄んだ晩秋の陽射しを受けて、葉の一枚一枚が黄金の輝きを放ち、風に揺れるたびにキラキラと反射するのであった。その姿は、静かな境内中に暖かさと生命の息吹を吹き込むかのよう。青空を背景に透ける黄葉は、光を透過しながらもその鮮やかさを失わず、自然が描く見事なグラデーション。葉が揺れる音さえも、どこか軽やかで優雅に感じられるほど、晩秋の美しさが詰まっているのであった。「阿弥陀堂」と「本堂」のエリアの参道を進む。右手に石畳の路があった。奥には手水鉢が。「本堂」を斜め後ろから。手前には「枯山水庭園」が。「手水鉢」。どなたかが写真撮影用に・・・?しかし、これぞ「落葉舟」。沈んでしまっていたが。紅葉のモミジ葉とともに。鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の「句碑」があった。『天碧き 日は鷺草の 天に翔つ』。その奥、本堂の裏手に「鷺草園」が。池には菖蒲や水草も植栽されているのだと。「サギソウ(鷺草)」案内板。「花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁(しんべん)とよばれるものです。がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、花の頃から数本の匐技(ふくし)をのばし、その先新しい球茎をつくり、繁殖します。斑入りの銀河という園芸品種もあります。サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州~九州の低地の湿地に生え、食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かっては世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬~ 9月上筍で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。」と。美しく仕上げ、管理されている「鷺草園」。「鷺草(さぎそう)について鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。」。この2枚の写真は5年以上前に、夏に訪ねた時、この場所で撮ったの写真。奥まで続く「鷺草園」。浅い池に浮かぶ小島にサギ草が植えられているのだが、この時期には姿が見えなかった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.19
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「仁王門」への参道の右手に「開山堂」への「薬医門」が。その手前には石碑が。「珂然和尚編珂硯(かせき)上人行業記に曰く元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む 九月二十三日高弟珂憶上人河内国より来る 師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり 堂宇荘嚴志有って遂げず老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく建て立せよ 身後の事は皆汝に付嘱す汝それ忽にすること勿れ 又門人に告げて曰く我が後に珂憶あり憶はわれに異なる所なし 汝等謹みてその教命に従ふべしと 十月七日夜半合掌し弥陀の宝号を唱し寂す珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ材木一式を河内王手山にて切り舩にて下し元禄十一年十月十五日現本堂三佛堂の揚棟を成し給えり閲世二百七十年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これを昭和大修理と称しいさゝか祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血汗の御労苦を偲び 之を碑面に刻し以って記念とす 乞ふ来山の諸氏弥陀の名号を唱し 恭敬礼拝し給はん事を 昭和四十一年五月七日佛歓喜日 九品山唯在念佛院浄眞寺第十六世 心譽順碩(花押)」以下、chatGPTに意味を尋ねた回答です。「この文は、珂硯上人が自分の願いを弟子の珂憶上人に託し、彼がそれを成し遂げた経緯を記録しています。また、後世の人々がその堂宇を修復し、祖先の労苦に感謝を捧げる様子を描いています。仏教の精神や師弟関係の大切さが表現された内容です。1.元禄七年(1694年)珂硯上人の病気と遺言 ・珂硯上人は病気が進み、自分の死期を悟ります。 ・彼は弟子の珂憶上人に、自分が果たせなかった堂宇の完成(仏像を安置する本堂の建設)を 託します。 ・「身後の事は皆汝に付嘱す」とは、「自分の死後のことはすべてお前に 任せる」という意味です。 ・門人たちにも「珂憶上人に従うように」と指示しています。2.珂硯上人の最期 ・元禄七年十月七日の夜半、上人は阿弥陀仏の名号を唱えながら静かに亡くなりました (往生)。3.珂憶上人の行動 ・珂憶上人は師の遺命を受け、堂宇の建設を進めました。 ・河内国(現在の大阪府東部)で材料を調達し、船で運搬。元禄十一年(1698年) 十月十五日に三仏堂の棟上げを完成させました。4.後世の修復と記念 ・それから約270年後、昭和の時代に大規模な修復が行われました。 この修復は「昭和大修理」と称され、祖先の恩に報いるためのものでした。 ・修理の記録を碑面に刻み、訪れる人々に阿弥陀仏を礼拝するよう呼びかけています。境内案内図。「開山堂当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄7年(1694年) 10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。 ※淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」「薬医門」には「九品山寺務所」と。正面に「開山堂」。近づいて。屋根上の黄金の「宝珠」宝珠とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?ズームして。「開山堂」の内陣をネットから。開山堂安置の「木造珂碩上人坐像」もネットから2枚。開山堂の前にある「手水舎」と「手水鉢」。「手水鉢」には寺紋の「龍胆車(りんどうぐるま)」が刻まれていた。鷺草(さぎそう)がモチーフに。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並ぶのだ と。さらに近づいて。「洗手喝以水盥掌 當願衆生得清浄手 受持佛法」と。・洗手喝 手を洗いながら一種の「喝」(注意喚起の声)を入れる行動。仏教では、「喝」は師や修行者が 悟りや注意を促すために用いる強い声や短い言葉を指します。・以水盥掌 「水を用いて手を清める」という動作を指します。これは、仏教の儀式において肉体と精神の 両方を清浄にする象徴的な行為です。・當願衆生 「衆生のために祈る」部分です。この祈りは自己のためだけでなく、他者や世界全体に向けた 願いを込めるもの。・得清浄手 受持佛法 「清らかな手を得て、仏の教えを守り行うことができますように」と、修行者だけでなく すべての衆生が仏法に従って正しい行いをすることを願っています。「薬医門」を振り返る。「珂碩上人 開山堂」碑。「淨真寺 案内図」を再び。「水子(子育)地蔵尊」。近づいて。「水子(子育)地蔵尊建立趣旨九品佛幼稚園を創立してより満三十年の星霜を閲した。この間仏教保育の網領である。一、慈心不殺(生命尊重の保育)一、仏道成就(正しきを見て絶えず進む保育)一、正業精進(よき社会人をつくる保育)の三網領に則り、園の関係者一同力を戮せて保育の聖業に精勤して今日に至っている。近時世相の変移は、身籠れる胎児の扱いにつき真に遺憾の念を禁じ得ない。嬉々として遊ぶ園児に接する毎に生れるべくして、その小さな尊い命の絆を絶たれた闇冥に叫ぶ水子に思いを致し、憐憫の情、転、切なるものがある。茲に、多くの水子の菩提を薦め、併せて、可憐なる幼児の健全な成育を祈念しつつ、本地蔵尊像建立、発願の趣意を述ぶと云爾。維時昭和五十五年十二月七日 九品佛浄真寺第16世 心譽順碵 合掌」「観音堂」方向の紅葉。「浄大供養地蔵」。近づいて。小さな石垣の上には「三十三観音」像が並ぶ。反対側から。「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。「観音堂」。羂索を手にあらゆる衆生を救済する誓いを立てた「不空羂索観音菩薩」をお祀りしている。「西國三拾三番札所供養塔」碑。西国三十三所は、観音巡礼の一つ。観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場。日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れている。「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。文化庁の令和元年度「日本遺産」の16件(累計83件)の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された とのこと。「三十三観音」石仏に守られるように木立の中に「三十三観音堂」が建つ。近づいて。「不空羂索観音菩薩」をネットから。観音堂の本尊・不空羂索観世音菩薩。元禄四年(1691)造立の舟後光型「千手観音像」。造立年不明の丸彫りの「如意輪観音像」。「水子(子育)地蔵尊」その奥に「手水舎」「開山堂」の右側を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.18
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「吊橋」から左側下部をみると、以前は散策道になっていた場所が、全面凍結し通行不能になっていたズームして。白き流れを追う。奥が一番滝、手前が二番滝というらしい。ズームして。連なった氷柱が日光を受けて煌めく様子は、豪奢なシャンデリアのような輝きを放つのであった。透明の氷柱にズームして。凍結温度によって透明度が変わるのであろう。細く鋭く伸びる氷柱は、冬の空気を切り裂く銀の剣のような輝きを放っていた。この氷柱(つらら)はどのように成長して行ったのか?「注意夕方は周辺が暗くなるため危険午後4時以降の見学はご遠慮ください」と。吊橋には午後4時以降は入らないで欲しいと。様々な氷柱(つらら)の姿を追う。滴る水が静かに凍りつき、時間の流れを止めたかのよう。「尾の内自然ふれあい館 0.3k 油滝 2.7km」と。そして「尾ノ内氷柱」からの帰路に。そしてこの後に訪ねた「奥秩父 大滝 三十槌(みそつち)の氷柱」ポスター。売店まで戻り、甘酒をいただいて(無料)、たらし焼き(お好み焼き。たらして作るから、たらし焼き)を食べた。美味しかった。見事な彫刻の休憩ベンチ。地元の方の作品なのであろうか?「尾ノ内氷柱」の2025年版。散策道から「二子山」の姿を。左手にあったのがログハウス(Log house)「尾ノ内自然ふれあい館」。両神山を源流とする尾ノ内渓谷の入り口にある農林業の体験学習の場である と。内部。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.18
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そして「尾ノ内渓谷駐車場」に車を駐める。「尾ノ内渓谷氷柱入口」案内。「尾ノ内渓谷氷柱」に向かって進む。2024年の「尾ノ内渓谷氷柱」ポスター。この場所から8kmほど手前の「小鹿野市街地」の「西秩父料飲店組合」の店舗案内図。「尾ノ内渓谷」案内図。尾ノ内(おのうち)渓谷は、日本百名山のひとつ「両神山」をその源流とする尾ノ内沢が深い谷を形成した渓谷です。手つかずの自然が残る尾ノ内渓谷は、一番滝・油滝に代表される大小の滝が数多く見られ、まさにマイナスイオンの宝庫です。沢登りファンの隠れたスポットとなっておりましたが、近年、自然を満喫できる癒しのトレッキングコースとしても注目されております。ここは、奥地に原生林を残す大自然の真っ只中です。どうぞ十分な準備と細心の注意をもって尾ノ内渓谷をお楽しみください。尾ノ内百景氷柱尾ノ内渓谷に人工的につくられる氷柱。吊り橋からの眺めは圧巻です。氷柱の開催期間は1月初旬から2月下旬。期間中の週末には夜間ライトアップも行います(詳細は要問合)。入場券売場にて500円を支払って入場。「子鹿野町河原沢の冷っけぇ~スポット 尾ノ内氷柱 入口」イメージキャラクター「つららん」の姿も横断幕に。「2025年 雑記帳」。ご自由にお書きください。 と。「尾ノ内氷柱」への通路にあった小鹿野高校の生徒さんが制作した作品ライトアップされると美しく輝く竹あかり。「注意 熊出没」と。売店で使用する水タンクであったか?そして眼の前に氷柱が現れた。大きな氷柱(つらら)!!。ここは「尾ノ内氷柱(おのうちひょうちゅう)」。モンスターの如き氷柱。この枝には、氷柱(つらら)が白き流れの如くに。ズームして。吊橋をズームして。この「尾ノ内氷柱」のライトアップは見学しなかったの、ネットからライトアップの写真を。振り返って。「尾ノ内渓谷マイクロ水力発電所」案内板。「発電所諸元位置:埼玉県秩父郡小鹿野町河原沢定格出力: 317W (TRG40)使用水量: 1OL/s有効落差:7.85m運用開始:2021年1月30日事業名:尾ノ内渓谷マイクロ水力発電事業施設管理者:尾ノ内渓谷氷柱実行委員会設計・施工: 篠田株式会社 株式会社グリーン設備」尾ノ内渓谷に町で初めてとなる小水力発電所を設置。沢の水を使用して発電し、発電量は約300ワット。1月上旬から2月中旬の厳冬期には、斜面に水を吹きかけ、氷柱を作る。吊り橋から眺める斜面に氷柱が広がる光景は幻想的。その規模は周囲約250m 高さ60mにも及び、小鹿野を代表する冬の観光スポット と。吊橋の前には小さな木製社を安置。近づいて。前方に吊橋が現れた。吊橋前から氷柱をズームして。見事に整列するが如き氷柱(つらら)。こちらは丸くなった氷柱(ひょうちゅう)。吊橋を正面から。吊橋を渡る。吊り橋が高く、揺れた。ちょっとスリル!!。手摺に捕まりながらおそるおそる渡る旅友の姿が前方に。吊橋の長さは30m前後であっただろうか。吊橋上から氷柱をカメラで追う。両神山を源流とした尾ノ内沢から、500mもパイプを引いて人工的に作った氷柱。その規模は周囲約250m、高さ60mにも及び、今や小鹿野を代表する冬の観光スポット。下方前方に小さな滝が凍らずに流れていた。こちらの流れは凍結。ズームして。凍らずに頑張る流れをズームして。渡って来た吊橋の入口方向をズームして。下方に、以前は歩けた場所も、全面凍結して。氷柱(つらら)の姿を追う。「つらら」の語源は「つらつら」からと。・古くは氷など表面がつるつるし光沢のあるものを「つらつら」と呼んでいた・氷が下に向かって垂れる様子から「垂氷(たるひ)」と呼ばれていた・連なって並んでいるということから「連連(つらつら)」に転じ「氷柱(つらら)」になった と。吊橋にはライトアップの発光ランプも。ネットも氷結して。様々な場所をズームして氷柱の姿を。吊橋に人の姿がない時にシャッターを。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.17
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「焔魔堂」を正面から見る。入り口の両側に「うそはつくな」「わるいことはするな」の真っ赤なノボリが立っていた。閻魔様はやる気十分なのであった。「焔魔堂」の前には「三途の川」が。向かって左が急流、右が深い淵、中央が橋で深い淵には「亀」がいた。「三途の川」に架かる橋・「太鼓橋」の上から「焔魔堂」を見る。スピーカーから「閻魔様の声」👈️リンク が聞こえて来た。「知らず知らずのうちに罪を犯してしまうのが人間じゃそれは、貪り、怒り、愚かさによる心 事は態度から生じておる包み隠さず罪を悔い改めよ」と。どうやら、お祈りしている人に向かって音声が流れているのだ。お賽銭を入れると、閻魔大王からのお告げがある仕組みとなっていた。幟「わるいことはするな!一月十六日 八月十六日 地獄の釜蓋開放 閻魔大王の斎日」と。1月16日と、8月16日は閻魔大王や地獄の鬼もお休みで、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのであろう。幟「うそはつくな!」。扁額「閻魔堂」。中央に「閻魔(えんま)大王」。「閻魔大王」は、仏教の地獄、冥界の主であり、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。閻王ともいう。インドにおける死者の主であるヤマが仏教に入ったものである。お顔をズームして。閻魔王は、地獄などのいわゆる冥界をつかさどる鬼神の王で、「地蔵菩薩発心因縁十王経」には、冥界で亡者の罪を裁くとされ、十人の王の裁判を受け、残忍な獄卒(地獄で亡者を苦しめるという鬼)を使って、すべての亡者を審判します。閻魔王の法廷には、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録(閻魔帳)し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。それでもなお亡者が嘘をつき続けると、閻魔王によって舌を抜かれてしまうのだ。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐しているのだと。さらに。地獄の閻魔大王と言えば、死後に、生前犯した罪を裁く番人としてよく知られているが、実は、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身であるのだと。そもそも、地蔵菩薩は六道の世界「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六世界に現れて、人々を救済する仏様として信仰されている。地蔵菩薩は、時には閻魔大王に姿を変えて私たちに、救いの手を差し伸べているのだと。これでもかと。地獄の十王一覧。十王は、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の裁判官的な尊格。亡者は初七日を終えた後、死出の山を越え、賽の河原、三途の川に辿り着きます。三途の川には水が急流をなしている所を渡る、入江が深い淵をなしている所を渡る、橋を渡る、の三つの方法があり、生前の罪に応じて渡る方法が異なるとされます。左手にいたのが「奪衣婆(だつえば)」三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。お顔をズームして。右手にいたのが「懸衣翁(けんねおう)」。「奪衣婆(だつえば)が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゅ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。」また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓る(しなる)のであろうか?カメラを持つ手が震えて・・・・。上段:「極楽浄土」絵。下段:「等活地獄」絵。八熱地獄の第一。南瞻部洲の下、千または五千由旬の所にあるという。獄卒により身を裂かれ骨を砕かれて殺されるが、涼風が吹くと生きかえってまた同じ責め苦を受け、これを繰り返すので、その名がある。殺生などの罪を犯した者がここに堕ちるという。上段:「極楽浄土」絵。下段:「大叫喚地獄」絵。叫喚地獄の下で、叫喚地獄までの四地獄の苦を一〇倍にした苦しみを受けるところ。五戒(ごかい)を破ったものがおちるとされる。五戒とは不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい) ・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の仏教徒が守るべき基本となる5つの戒めのこと。各戒めはそれぞれ不殺生戒:殺生(生き物を殺すこと)してはならない。不偸盗戒:盗みを働いてはいけない。不邪淫戒:不貞行為(不倫)を行ってはいけない。不妄語戒:妄言(嘘)をついけはいけない。不飲酒戒:飲酒(お酒)をしてはいけない。という意味を持っている と。「焔魔堂」前の陽光が降り注ぐ「赤の世界」。手前には三途の川に架かる朱の太鼓橋。「総門」 方向を見る。さらに境内の奥に進む。前方、左側に石碑が。「愛心講 講元 鳥海はま先生 頌徳碑十六世 正阿順碩」。両脇に並ぶ燈籠には、白い「サギソウの花」が。「延命地蔵」が乗っている江戸十夜講の「三界万霊塔」。「三界万霊塔」とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、次のような意味を持っている。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。「十夜講」と。「十夜講」とは、浄土宗の寺院で行われる秋の念仏法会で、「お十夜」「十夜法要」「十夜念仏」とも呼ばれます。正式には「十日十夜法要」や「十日十夜別時念仏会」と呼ばれます。十夜講では、阿弥陀如来に感謝の念仏を唱え、ご先祖様への追善供養を行います。十夜講の起源は、室町時代に京都の真如寺で平貞国が10日10夜念仏を唱えたことにあります。十夜講の特色は次のとおりです。・浄土宗の経典である「無量寿経」の一文に基づいている・秋の収穫期に行われるため、自然の恵みへの感謝を捧げる意味がある・亡くなった方々への追善供養を行う・僧侶と信者が輪になって座り、大きな数珠を手繰りながらお念仏を唱える「百万遍念仏」と 呼ばれることもある とネットから。「延命地蔵」をズームして。別の場所から。ここにも「禁銃猟 警視廳」と三面に刻まれた石碑があった。「東門」に向かって進む。右側の紅葉。左側の駐車場入口前の紅葉。「東門」を出て正面から。「九品佛浄真寺東門」。扁額には『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』と。意味は『 お釈迦様が説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』ここにも「大勧進」の案内が。そして「仁王門」方向に引き返す。ズームして。「延命地蔵」が乗っている江戸十夜講の「三界万霊塔」の東側の紅葉。「延命地蔵」の後ろ姿を。「2014年~2034年 浄真寺 「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進」案内板 がここにも。「未来に残す『貴方の化佛(けぶつ)』2,881軀の化佛寄進をお願いしております。三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。詳しくは本彙内交付・寺務所にお尋ねください」「2014 ~ 2034浄財を喜捨された方の芳名は、九品佛像の臺座内に奉納し、永代保存します。各位のご支援ご援助をお願い申し上げます。詳しくは寺務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。」と。「仁王門」への参道左側にあった石造宝塔.周辺の紅葉。軸部四方に扉が刻まれていた。十三重塔。十三重塔は塔身に四方仏、基礎部に輪郭を巻いて格狭間を設けていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.17
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「あしがくぼの氷柱」を後にして、次の目的地の「尾ノ内氷柱」に向けて、国道299号を西方向に進む。秩父郡横瀬町655にある、「そば処手打ち麺正庵」の看板。左側に見えたのが、我が神奈川県の大山に似た姿の「武甲山」。「武甲山(ぶこうざん・ぶこうさん)」は、埼玉県秩父地方の秩父市と横瀬町の境界に位置する山である。秩父盆地の南側にあり、標高は1,304メートル[1]。日本二百名山の一つに数えられる。秩父地方の総社である秩父神社の神奈備山である。無形文化遺産の秩父夜祭は、武甲山と強い関わりがあるとされている。別名を秩父嶽、妙見山、武光山ともいう。固有種のチチブイワザクラをはじめ石灰岩地の高山植物が群生し、「武甲山石灰岩地特殊植物群落」として国指定の天然記念物となっている。武甲山は北側斜面が石灰岩質であり、石灰岩の採掘が盛んに行われている。石灰岩採掘により山容の変化が著しく、旧山頂は既に失われている。またこれにより旧山頂にあった縄文時代から近代までにいたる歴史のあった信仰遺跡、巨岩群も消滅している。」とネットから。左側の小高い丘が「羊山公園」(ピンボケ)。左側の小高い丘が「羊山公園」。「100m先左折 芝桜の丘」と。「羊山公園 あさんぽMAP」をネットから。武甲山の裾野に広がる羊山公園の芝桜の写真をネットから。「埼玉県秩父市の東部に位置する「羊山公園」。緑豊かな自然に囲まれる色鮮やかに彩られた花畑を求めて、毎年多くの観光客が訪れます。秩父の桜の名所として知られる羊山公園内で、特に有名なのが関東有数の植栽面積を誇る「芝桜の丘」です。40万株以上の芝桜が植えられた花畑の総面積は約17,600㎡。散歩をしていると風にのって運ばれてくる花の香りは、疲れを忘れさせ心を穏やかにしてくれます。」とネットから。一度行ってみたい場所・「芝桜の丘」なのであった。2017年に訪ねた「秩父神社👈️リンク ←300m」と。「秩父神社周辺マップ」。2017年8月に訪ねた「秩父神社」👈️リンク 入口が右手前方に。国道299号「本町」交差点。前方左にあったのが「秩父ふるさと館」。「秩父ふるさと館」は、大正時代に繁栄した銘仙問屋の店舗・主屋。現在は、喫茶スペース、土蔵を活かした地域の物産展示販売、郷土料理もお出しする手打ちそば屋、そして夜間はお酒が楽しめる観光拠点にリニューアル と。埼玉県秩父市宮側町17国道299号「本町」交差点を右折。「秩父神社」西側・秩父市のメイン道路を走る。「ほっとすぽっと秩父館」。この施設は、明治時代初期に建築された商人宿「秩父館」をなるべく昔の姿を残すよう改装後、地域の交流・観光拠点として開設された。1階は大きないろりがある無料休憩所となっており、市民の方々が手芸品や陶芸品を展示販売するスペースとなっている と。「秩父駅入口」交差点。「武甲酒造 柳田総本店」。「秩父の名峰武甲山を酒銘とした武甲正宗の醸造元・柳田総本店は、江戸中期・宝暦三年創業以来、秩父の歴史と共に勤しんで参りました。現在の建物は八代目亀吉翁が酒造蔵・穀蔵・枯らし蔵と数年にわたって築かれ、又店舗は更にその先代の遣構といわれ、今日の秩父谷に残る最も古い店構えの面影を残しております。酒造りは常に良質の水が要求され、より良い醸造水を求め、数度の移転を経てここに店を構えました。秩父民話の「七ッ井戸」に知られるように、どんな日照りにも涸れることのない質,量共に素晴らしい名井戸の水系にあります。酒一筋、伝統と名杜氏の秘技に育くまれた武甲正宗は永年にわたり、数多くの品評会、鑑評会において幾多の受賞の栄に輝き、その品質は武州秩父に銘酒ありと知られております。今後共更に『武甲正宗』は小蔵の手造り酒として励んで参ります。」とホームページから。「荒川」に架かる「秩父橋」を渡る。右手に「旧秩父橋」。「旧秩父橋 1基 付 初代秩父橋橋脚2基及び親柱2本」こちらはネットから。「旧秩父橋(二代目の秩父橋)は、昭和6年5月に竣工した鉄筋コンクリート造りの三連アーチ橋で、橋長134.6m、幅員6m、現在は橋上公園として利用されている。県内では初期の大型コンクリートアーチ橋で、貴重な近代化遺産の遺構である。また、初代秩父橋は明治18年に架設され、我国でも最も古い時代のトラス橋に属している。現在は橋脚2基、親柱2本だけが残っているが、明治期の築造技術の粋を集めた橋梁技術史のうえからも貴重な構築物といえる。親柱に明治18年12月築造銘があり、橋脚は小鹿野町産の岩殿沢石を使った切石積構造となっている。」と。「千束峠」を過ぎ見晴らしの良い場所を通過。奥秩父の山々を見る。右手に見えたのが「両神山」。深田久弥の「日本百名山」に選ばれた両神山は、秩父多摩甲斐国立公圏の一角にある標高1,723mの山です。奥秩父の山々は、山麓から山陵まで、深い原生林に覆われた山が多い中で、両神山は秩父連山の多くの山々と異なり、岩が砦のようにそそり立ち、のこぎり歯のように見える男性的な山として有名です と。右手前方に現れたのが「小鹿神社 大鳥居」。 埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野。国道299号を群馬県との県境に向けて進む。前方に「両神山」に繋がる尾根の山々が。道路工事中の片側交互通行の信号。昔はタイマー表示がなかったが、現在は青まで2秒との表示があり、改善されているのであった。そして目的地の「尾ノ内氷柱↑2.0Km」の案内板が現れた。「赤平川」に沿って国道299号の山道を進んで行った。「尾ノ内氷柱↑1.5Km」と。「尾ノ内渓谷氷柱入口←」の案内板に従い左折。「尾ノ内つらら」案内板。「尾ノ内渓谷氷柱」の駐車場に向かってさらに進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.16
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この日は2024年12月23日(月)、都内・有楽町で10数年来の海外旅行の旅友との飲み会に参加しました。毎年、この時期に都内に行く時には、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年は『等々力渓谷』、『等々力不動尊』はパスして東京・世田谷区奥沢にある『浄真寺』を訪ねました。小田急線、田園都市線、東急大井町線を利用して「九品仏」駅で下車し、徒歩にて直ぐに『浄真寺』の参道の入口に到着しました。この地にはサギ科のシラサギ(白鷺)とラン科のサギソウ(鷺草)にまつわる悲話が伝わります。そのサギソウは世田谷区の花とされ、境内の「さぎ草園」では毎年8月上旬に多くの花を咲かせるそうです。「シラサギ」とは、ほぼ全身が白いサギ類の総称であり、シラサギという名前のサギがいるわけではないようです。『浄真寺』の山号は九品山(くほんざん)で、九品仏(くほんぶつ)とは後ほど触れるように、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来坐像のことを言うのです。「浄真寺参道」碑。「ニ〇一四~ニ〇三四年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内。「浄眞寺」のHPには「昭和三十八年(1963)に九躰の阿弥陀佛像と釈迦牟尼佛像の計十躰が東京都重要文化財に指定されました。保存状態として、各十躰の漆箔の浮き上がり、矧ぎ目の損傷や化佛の脱落割損が多く認められ、東京都と世田谷区の文化財関係者が綿密なる協議の上、平成二十六年(2014)より一躰ずつ、計十躰の修繕を公益財団法人「美術院」国宝修理所に遷座し二十年以上に亘る大修繕を実施する運びとなりました。つきましては、この仏縁により未来に引き継ぐ希代の大修繕事業(大勧進)の趣意をお汲みとり下さり、絶大なる御協力と御支援を賜りますよう懇願申し上げる次第でございます。」と。「九品佛参道界隈」案内碑。「九品佛参道界隈」案内図。文字がハッキリ見えるように、2枚の写真を繋げています。「浄真寺」のHPよりも案内図を。九品仏淨眞寺 境内図<昔> 参照:江戸名所図會。案内図にあった切絵図。「総門」の切絵図。「せたがや界隈賞世田谷区では、昭和59年から平成4年までの隔年で、区民の皆さんに愛され、親しまれている世田谷区の街なみ形成のモデルとなる、魅力的な界隈を「せたがや界隈賞」として表彰してきました。「九品仏参道界隈」は浄真寺境内と参道周辺で良好な界隈が形成されていることから、昭和63年に「第3回せたがや界隈奨励賞」として表彰しました。」絵の右下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだ。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。「おもいはせの路おもいはせの路とは、玉川地域の緑と水の資源や歴史・文化資源をめぐるルートを、散歩道として提案したものです。この路には季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までのさまざまな顔が見えます。この路を歩くとき、人はいろいろと思いをはせるということで、この名を付けました。友達と、恋人と、親子で、夫婦で、あるいは一人で歩いてみてはいかがですか。」五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館」 と。参道の入口右側にあったのが「玉川警察署 九品仏交番」。世田谷区奥沢7丁目34−1。「総門」に向かって、黒松並木の参道を進む。右手には「禁銃猟 警視廳」と三面に刻まれた石碑があった。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていたのであった。ここにも「2014年~2034年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内が。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄眞寺は、上品上生仏より下品下生の九品阿弥陀仏が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。未来に受け継ぐ、この大修繕事業に値遇を得ることは、稀代の勝縁と思し召し、大勧進に広く皆様のご協賛を賜りたく存じます。浄財を喜捨(きしゃ)された芳名は、結縁交名帳に記録し九品佛像の臺座内に永久保存します。詳しくは事務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。 九品佛浄眞寺 住職 清水英碩」参道の紅葉したモミジを見つけて。「総門」が前方に大きく見えて来た。約200mの長さの参道には黒松を中心に植栽されていた。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味している と。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し成長しているのであった。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気の良い、子供達の遊び場となっていた。その先左手には、三界萬霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石塔・石仏が並んでいた。左側の石碑群に近づいて。中央に「奉寄進庚申供養塔」と刻まれた石碑が。右側の石碑・石仏群に近づいて。「お地蔵様」(左)と板状駒型庚申塔「・青面金剛像」(右)で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文十二年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代のものである。反対側から振り返って。モミジ葉が朝の陽光に輝いていた。そして「浄眞寺 総門」前に到着。「掲示板」。2024年末、2025年正月の予定が書かれていた。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。総門前の石段の中央の手摺には「舟の櫓」を表した手摺が。「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧、仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「九品佛浄眞寺総門」と。書体は篆書体か?「新東京名勝 選外十六景 奥沢 九品仏」と刻まれた石碑。右手に「創建の由来」案内板が置かれていた。「創建の由来当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2 ( 3万6十坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年( 1678 )に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺きを銅板葺に改修した。」「創建の由来」案内板の後ろに「筋塀(すじべい)」という種類の塀があり、そこには定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い線が5本引かれていた。もともとは門跡寺院(もんぜきじいん)の証として5本の線を引いたのが始まりと。定規筋の数が寺の格式を表すようになり、3本、4本、5本のうち5本が最高ランクとされていると。門跡寺院とは、皇室一門や公家の方が出家して住職を務める寺院のことをいい、古くより皇室と関わりのある格式高い寺院とされているのだ。「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。そして「総門」下から、紅葉に輝く境内を。紅葉のピークを迎えた境内。例年より2週間程遅れていたのであった。左手にあったのが後ほど訪ねた「焔魔堂」。「焔魔堂」の参道右側の紅葉を追う。赤い帽子、前掛けの石仏に近づいて。「淨真寺」碑。「焔魔堂」その手前に「三途の川」に架かる橋。「三途の川」に架かる橋の前の石仏。「焔魔堂」の前を右に折れた奥にも5体の石仏が並んでいた。六体の石仏に向かう参道の紅葉を追う。「総門」を境内から見る。三体の石仏が仲良く並ぶ。こちらにも石仏が。「筋塀」前の紅葉。「六地蔵」であっただろうか?六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難い地蔵様たち。そして引き返しながら見上げて。ここにも石仏群が。ズームして。こちらにも。 ・・・つづく・・・
2025.02.16
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「あしがくぼ氷柱」の間から西武秩父線の電車が走るのを見ることができるので電車好きな方にはたまらない空間なのであろう。私もトンネルから出てくる電車を待って。なかなか良いタイミングでシャッターを押せなかったのであった。近くの方から、単線であるので直ぐに反対方向から下り線がトンネルに入って行くとスマホを見ながら教えてくれたのであった。下にも鳥居が確認出来た。ライトアップ時には。そしてトンネルに入る電車を追う。今度は上手く撮れました。ロウバイも寒さに耐えて黄色い花を。近づいて。氷柱に負けずに、陽光を浴びて、黄金色に輝いていたのであった。撮影スポットには♡が。そしてこの時間にも、氷結用のミスト発生器が作動中。白き雲が流れ落ちるが如くに。再び斜面から芽生えた如き氷柱をズームして。人工ミストが斜面を下る。雲が斜面を下る姿そのもの。その下には白き世界が雪の如くに拡がっていた。正面がミスト発生装置であっただろうか?「横瀬川」の川面に向かって下るミスト。その結果がこの姿に成長するのであろう。そしてサービスの甘酒をご馳走になる。ノンアルコールと。「紙コップはこちらへ重ねて置いてください」との心遣いも。氷柱の如くに成長する紙コップの白き姿が。ミストの行方を追ってカメラに。特急列車の姿も。「水利使用標識」。 平成35年→令和5年(2023年)が許可期限であったが。昭和が終わって、平成は西暦1989年1月8日から2019年4月30日までなのであった。そして帰路に。小さな石祠を。チケット売り場を振り返って。様々な案内から、「あしがくぼ氷柱」関係者の熱き想いを感じることが出来たのであった。「←登山道入口(二子山)」案内板。「二子山」は、埼玉県秩父郡小鹿野町にある山である。群馬県多野郡神流町との境界に近い。石灰岩からなる岩峰である。西岳(1,165.8m)と東岳(1,122m)から成る双耳峰。双耳峰(そうじほう)とは頂上がほぼ同じ標高で二つの耳のように並んでいる山の事。ロッククライミングの登攀(とうはん)の対象とされている と。西岳(1,165.8m)と東岳(1,122m)から成る双耳峰・「二子山」の写真をネットから。西岳(1,165.8m)の姿をネットから。「道の駅 果樹公園あしがくぼ」の建物の外にあったのは「体験研修室 メダカ 氷の下で冬眠中」と。氷が張っていたので、メダカの姿は・・・。大きな休憩所もあった。昔ながらの日本の風情を感じることができる四阿風の建物。夏には涼しげな風が吹き抜け、穏やかな時間を過ごせるのであろう。「横瀬川で遊ぼう!」案内板。「道の駅 果樹公園あしがくぼ」店内を散策。我が家のお土産に新鮮な「なめこ」を購入。帰宅して数日間、「なめこ」の味噌汁を楽しんだのであった。駐車場から、芦ヶ久保の街を優しく見守る観音様の姿を発見。源寿院埼玉別院が管理している納骨堂やらお墓がある場所で、この観音様は「芦ヶ久保大観音」というと。台座込みで全長18.5メートルあると。 ・・・もどる・・ ・・・つづく・・・
2025.02.15
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「潮騒の像」の近くにあった「比翼歌碑 」。下記の解読は、我が師匠に依頼しました。『御前崎の こゝ岩鼻爾(に) 風をい(以)た(多)み(三) 伸び立ち(知)か(可)ねる 幹ゐの松や 太』『岬山を 染むる茜の 匂ひた(多)ち ひとゝき(支)燃え(衣)ても(毛)の 恋ほしも(毛) 富士子』「若山牧水門 阿部先生比翼歌碑」この歌碑は、若山牧水の門下生である阿部太先生と、その妻である富士子氏の和歌が刻まれたもの。「比翼歌碑」とは、夫婦や親しい者同士の和歌を並べて刻むことで、二人の絆や共作の意味を表すものである と。白く美しい「潮騒の像」。「潮騒公園」から「御前崎市B&G海洋センター」を見る。「御前崎市B&G海洋センター」は体育館、会議室、プールのある施設。B&G海洋センター(457ヵ所)は、体育館・プール・艇庫(ボートハウス)などからなる、公共のスポーツ施設。B&G海洋クラブ(291ヵ所)は、ヨットやカヌーなどの海洋性スポーツを楽しむクラブ組織です。全国の海洋センターや海洋クラブは、誰でも利用・参加できると。「潮騒公園」から「御前埼灯台」👈️リンク を。「御前埼灯台 530m」と。「ねずみ塚広場 230m」👈️リンク と。引き返して、再び「潮騒の像」を。見上げて。「この聖地で多くの若者たちが結ばれることを願います。」と。夕日が水平線に近づいて来た。西の空は一面、赤く染まって。波打ち際の水面にはオレンジ色の帯が。赤の世界の中に貨物船が迷い込んで。その後ろからも。水平線の上に広がる真っ赤な空の色は、燃えるような深紅からオレンジがかった朱色へと続き、さらに淡い金色が溶け込んでいくような美しさを。その光景は、太陽がゆっくりと沈むにつれて刻々と変化し、空の端にある暗い藍色と混ざり合いながら、まるで絵画のように空全体を染め上げているのであった。この赤色には、力強さと穏やかさが共存し、一日の終わりを告げる感慨深い雰囲気を感じさせてくれたのであった。「日脚伸ぶ 友と語らう 遠州路」・・・・詠み人知らず。残念ながら、水平線の上には黒い雲が。そしてこの日の夕日が姿を隠したのであった。白いビル群は夕日による蜃気楼であっただろうか?そして車に戻り、この日の全ての訪問予定地を巡り、帰路に。「御前崎灯台」の下を通過し北方向に廻り込む。駿河湾の先に、この時期にしては積雪の少ない富士山の姿が現れた。これも「地球温暖化」の影響か。手前に「三保の松原」👈️リンク が駿河湾に突き出ていた。右手前方に「御前崎市観光物産会館 なぶら館」。「御前崎海鮮なぶら市場の東側にある御前崎市観光物産会館「なぶら館」。なぶら館内にある御前崎市観光協会では、御前崎市の遊びスポットや宿泊の案内をしています。また、展望室からは駿河湾が見渡せます。なぶら館1階展示スペースや、2階大研修室を貸し出しています。」と。「なぶら」は「なむら【魚群】」から来ており、海中の魚の群れを表す言葉と。東名高速道路「相良牧之原IC」に向かって、ヤシ並木の下を進む。「相良牧之原IC」から東名高速道路に入る。「牧之原 サービスエリア(上り)」でトイレ休憩。そして「秦野中井IC」までひたすら走り、東名高速道路を下りる。二宮の大先輩の御自宅手前・「すき家二宮」で夕食。「牛すき鍋定食 卵2個」を楽しむ。そして茅ヶ崎の先輩宅に無事到着し我が愛車に乗り換え、21時前に帰宅したのであった。今回の旅行の走行距離は2泊3日で856kmと。茅ヶ崎の先輩Sさん、全行程の運転ご苦労さまでした。ありがとうございました。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.02.15
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そして奥秩父の最初の氷柱「あしがくぼ氷柱」の駐車場に到着。トイレのある建物に向かう。トイレ棟の壁には「奥秩父の氷柱」のポスターが並んでいた。ここ「あしがくぼの氷柱(ひょうちゅう)」。この後に訪ねた「尾ノ内氷柱(おのうちつらら)」。「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」。これも「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」。「道の駅 果樹公園あしがくぼ」。『国道299号線に面し、秩父への旅のスタート地点として最適な「道の駅 果樹公園あしがくぼ」。清流が流れる里山に囲まれたロケーションは、心を癒す贅沢な時間を過ごせます。四季折々の豊かな自然を存分にお楽しみください!地元農家が大切に育てた新鮮でリーズナブルな野菜・果物が豊富に揃っています。氷柱や紅葉、水遊びといった季節に応じた観光スポットやアクティビティが満載。一年を通して、さまざまな魅力を楽しめます。』とネットから。「あしがくぼ氷柱」入口。「氷柱」には「ひょうちゅう」とふり仮名が。「チケット売場」に向かって進む。「あしがくぼの氷柱2025年1/9(木)~2/4(月・祝) 日中9:00~16:00ライトアップ 木金土日祝日土日祝のみ事前予約17:00~20:00料金 中学生以上 500円 小学生 300円」「あしがくぼの氷柱 チケット売場」「氷柱会場内甘酒・紅茶無料サービス16時に終了です。」と。未だ観光客の数は少なかった。時間は9:50過ぎ。「氷柱会場➔」「あしがくぼの氷柱マップ」。奥秩父の厳しい寒さが創り出す冬の芸術、「あしがくぼの氷柱」。前方に、白い世界が高さ30m幅200mにわたって、壮大な氷の世界が拡がっていた。木の枝から垂れ下がっているものや、地面から生えて上に伸びているように見えるものもあり、冬の寒さが作り出す氷柱の造形美が楽しめたのであった。「あしがくぼの氷柱」は、「秩父三大氷柱」のひとつで、他には以下の2つがある。●三十槌(みそつち)の氷柱(自然氷柱)●尾ノ内(おのうち)の氷柱(人工と自然の混合)その中でも、あしがくぼの氷柱はアクセスしやすく、観光客に人気があるのだ と。秩父横瀬町の芦ヶ久保地区に広がるこの「あしがくぼの氷柱」は、地元の人々が沢の水を散水して作り上げる人工氷柱であると。氷柱は、湧き水を人工的に凍らせることで作られ、自然の氷柱とは異なり、安定して大きな氷の造形を楽しめるだ と。水を散水している場面も見たいが!?真夜中に人海戦術で!? スプリンクラー&ミスト散布もされているようであったが。ズームして。まるで氷のカーテンが山肌を覆うかのような壮大な光景を見せてくれたのであった。「あしがくぼの氷柱」案内用の横断幕。「冨士浅間神社」の木製鳥居。夜間のライトアップは見なかったので、ネットから、同じ場所近くからのライトアップ写真を掲載させていただきます。以下ライトアップ写真は同様です。寒さの厳しさが生み出す一冬限りそして1回限りの姿の人工芸術。「あしがくぼの氷柱」は、奥秩父の冬の魅力を存分に味わえる絶景スポットなのであった。枝からの氷柱を追う。秋の紅葉を終えて、丸裸になった枝に、白き葉が生えているかの如くに。斜面から生えだしたが如くに。繊細な氷の結晶が陽の光を受けて輝き、日中は青白く澄んだ静謐な美しさを放つのであった。前方の谷間の氷柱を。氷柱の先には西武秩父線の線路が。夜になるとその美しさは一変。ライトアップされた氷柱は、青・紫・ピンク・緑といった色とりどりの光を受け、まるで別世界のような幻想的な光景を生み出すのだ と。山の斜面に沿って巨大な氷の壁が連なるこの氷柱群は、まるで冬の神秘を閉じ込めたかのような圧倒的な存在感を放っていたのであった。細い枝に纏わりつくが如くに氷の結晶が。秩父の厳冬がもたらす自然と人工の融合によって生み出される壮麗な氷の世界。自然が作る氷瀑とは異なり、管理された環境で作られるため、規則正しく美しい氷の層が形成されるのが特徴なのであろうか。見事な氷柱(つらら)。ズームして。表面が球状に。散水が造った芸術品。氷の透明感と光のコントラストが織りなす風景は、まるで氷の宮殿のような荘厳さを持ち、静寂の中で光が揺らめく様子は息をのむ美しさ。特に冷え込んだ夜には、氷柱がよりクリアになり、ライトの光を透過して輝く姿はまるで宝石の如くに輝く と。撮影スポット「あしがくぼの氷柱 2025」。廻り込んで。U字谷の氷柱。見上げて、山の斜面を。山の上から散水しているのであろうか?ズームして。移動して。滝の如き流れが、氷柱となって。カオス(混沌)・無秩序の世界。この氷柱はどのように成長したのか?「横瀬川」の流れへと。西武秩父線と夜のライトアップとのコラボ。これは氷柱ではなく氷球。寄らば大樹の陰氷柱(よらばたいじゅのかげつらら)。その奥には、西武秩父線の単線路が。先ほど、カメラを向けた広場が眼下に。眼下の白い立方体は、角砂糖ではなく夜間照明用のライトの保管箱? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.14
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「浜松まつり会館」を後にして、天竜川に架かる国道1号・新天竜川橋を渡り、「JR磐田駅」に向かって進む。そして「JR磐田駅」に到着。この日の旅行に付き合ってくれた、岡崎に住むクマちゃんともこの駅でお別れ。たくさんのお土産を頂き、又の再会を約束して。駅前の「善導寺大クス」。JR磐田駅前に大きく枝を広げた大クスで、以前ここにあった善導寺(現在は東大久保に移転)の境内に生えていたもの。昭和33年に県の天然記念物に指定されています。樹齢約700年と推定され、大きさは目通り周囲8.2m、樹高28mあります。初夏の緑は特に鮮やかです と。JR磐田駅構内にあった「七重塔」の模型。国指定特別史跡『遠江国分寺跡』へのご案内」一度訪ねたいと思っていた場所であるが、未だ。しかしこの日が「今だ」にはならなかった。「国指定特別史跡『遠江国分寺跡』へのご案内」『国指定特別史跡 『遠江国分寺跡』遠江国分寺は、天平13年(741)に聖武天皇が発した「国分ニ寺建立の詔」により建てられました。昭和26年(1951)、発掘調査の結果、奈良の東大寺に以た伽藍配置であることがわかりました。寺院は近年の発掘調査により、東西約180m、南82 mと考えられ、10世紀後半から11世紀まで続きました。現在は公園として整備され、市民のいこいの広場として親しまれています。磐田駅舎は遠江国分寺の建物をイメージしてつくられています。』奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の勅命により日本国内60数ヶ所に国分寺を建立。遠江国分寺(静岡県磐田市見付)は、東西180m、南北253mの範囲に築垣が巡らされ、南大門、中門、金堂、講堂、僧房、七重塔(しちじゅうのとう)などがあった と。下記の写真はネットから。静岡県道357号線・佐倉御前崎港線を海岸に向かって進むと、前方左右に風力発電装置が姿を現した。「遠州掛川風力発電所」と。「国道150号」の「上ノ原」交差点の手前から。「上ノ原」交差点を直進しその先を左折。「筬川(おさがわ)」の先にも「御前崎風力発電所」の風車が3基あった。「御前崎風力発電所」東西の海岸沿いに立地し、2,000kWの風車発電機が11基設置されており、発電所出力は22,000kW。羽根の直径は80m・取付高は80m。風力発電システム👈️リンクは日立製作所と富士重工業の共同開発によるダウンウィンド方式の風車「SUBARU80/2.0風力発電システム」。アップウィンド方式は、風向に対してローターがナセルの風上で風を受ける方式になります。ダウンウィンド方式は、逆となり風向に対してナセルの風下でローターが風を受ける方式になります。2つの風車が並ぶとローターが逆の向きになるので、不思議な光景になります と。ダウンウィンド方式の風力発電のメリットの詳細については、次のとおりであると。・ロータ軸の角と吹上風角との差が小さくなるため、発電量が増加する・ナセルとロータの干渉の影響をほとんど受けていない・タワーとブレードをなるべく遠ざけ、接触を避けることができる・ロータがうつむき加減になった結果、斜面をのぼってくる下からの吹上風を正面で受けとめる ことができる・横風を受けにくく、強風や乱気流を受け流す効果がある と。十分に理解できませんが。そしてローターの位置が2種類の風力発電装置があることを初めて知ったのであった。県道357号線・御前崎サンロードの海岸線に入る。「ここは御前崎海岸エリア」、御前埼灯台まで6.8kmと。御前埼灯台だけ「崎」ではなく「埼」で表記されているのであった。これはどうしてなのか?ネットで調べてみると下記の如きページが。「「国土地理院の前身である「陸軍陸地測量部」では、山へんの「崎」を使用しており、今も国土地理院の地図には「崎」が使用されています。ところが海上保安庁では、「海軍水路部」の時代から、土へんの「埼」を海図に採用しています。そのため、海上保安庁が管理している灯台は、名称に「埼」という文字が使われているのです。※ちなみに「碕」と表記されている灯台もあります。石が海岸に突き出した所という意味で使用されているそうです。」 と。通称・御前崎サンロードが海岸に出る手前の下り坂に入ると「御前埼灯台」が姿を現した。この場所は風がやや強く、遠州灘の海岸は白波が。左側、山の上には球形の建造物が。ズームして。ゴルフボールの如き外見。これは「航空自衛隊 御前崎分屯基地」のレーダードーム。さらにズームして。『1949年にアメリカ軍のレーダーサイトとして建設され、1958年に航空自衛隊へ管理運営が移管された。第22警戒隊が配置され、J/FPS-2レーダーが運用されている。』と。J/FPS-2レーダーというのは、警戒管制レーダー装置で、レーダーサイト用の大型固定3次元レーダー とWikipediaには。ロシアや中国の戦闘機等が太平洋を領空侵犯しないかとかを見張っているのであろうか!?静岡県の最南端に向かって進む。「市営 潮騒の像下駐車場」に駐車し散策開始。駐車場にあった「御前崎灯台 周辺案内図」。「みどころ散策ルート1⃣ 御前崎海岸 2⃣ みさきの広場 3⃣ 御前崎 渚の交番 4⃣ 地球が丸くみえるん台 5⃣ 見尾火燈明堂 6⃣ 灯台前広場「ウミエール」 7⃣ ねずみ塚広場 8⃣ 潮騒の像・恋人の聖地 」歩いてかヵる時間(分)も書かれていた。現在地はここ。「国指定天然記念物御前崎のウミガメ及びその産卵地 指定 昭和55年3月6日御前崎の海岸は花崗岩の白い砂粒とゆるやかな傾斜の広い砂浜で、アカウミガメの産卵に好適地である。毎年5月から8月にかけて上陸し、1回の産卵で120個ぐらいの卵を産み落とします。卵は約50日から60日でふ化し、子ガメは大海原に帰って行きます。カメは豊漁万作の前兆として昔から市民に親しまれ、カメにお酒を飲ませて海に帰してやるとの古話も今もなお語り継がれているほど大切にしています。 御前崎市教育委員会★ アカウミガメの捕獲等(卵の採取を含む)は、静岡県希少野生動植物保護条例により禁止 されています。 静岡県自然保護課」「御前埼灯台」をズームして。御前崎市御前崎。御前埼灯台御前埼灯台は1874年、イギリス人技師の監督のもとに誕生した白亜の洋式灯台である。150年近くの間、海を見守る白亜の塔。御前埼灯台は、当時国内初の回転式ー等閃光レンズ(高さ259cm)を搭載し明治7年(1957年)5月1日に点灯を開始しました。第ニ次世界大戦中の昭和20年7月に攻撃を受け、戦後昭和24年の戦災復旧工事により、現在の三等大型の2面レンズ(高さ157cm) が搭載され今日に至っています。昭和32年(1957年)公開の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台としても知られ、多くの観光客が訪れています。日本の灯台50選、のぼれる灯台として人気が在ります と。「御前崎ケープパーク 潮騒の像(恋人の聖地)」に向かって遊歩道の坂を上る。駐車場には我々の車が1台のみ駐車。県道357号線・サンロード下の海岸線をズームして。西の空には夕日が。空は次第にオレンジ色に。時間は15:56。遠州灘の西側方向の水面にはオレンジ路の帯が姿を見せようとしていた。南の方向には青い水面が拡がっていた。この場所からは、年末には、気象条件が良ければ、水平線での日の出と日の入りが同日の朝夕で同じ場所から楽しめるのであろう。再びオレンジ色に染まる遠州灘をカメラで追った。灯台から続く遊歩道の展望台「夕日と風が見えるん台」に到着。太平洋に向かって手をかざしている「潮騒の像」。太平洋に突き出した御前崎は、海から昇る朝日と海に沈む夕日が見える場所。御前崎ケープパークの西にあるこの展望台は絶好のビュースポット。ここに立つ潮騒の像は「恋人の聖地」の認定を受け、カップルにも人気と。展望台「夕日と風が見えるん台」に立つ「潮騒の像」。近づいて。この像が持つ鳥は「ウミガラス(ウ)」であるとChatGPTから。ウミガラスは、海鳥として知られ、御前崎の自然や海洋環境を象徴していると言われている と。「潮騒 堤 達男 作」。「恋人の聖地 桂 由美」。恋人の聖地は、特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェク」により選定された観光スポットである。観光庁およびJTBが後援する。2006年4月1日に選定を開始。同年4月19日に最初の発表がなされた。現在、全国に約200箇所の「恋人の聖地」👈️リンク が点在している と。オレンジ色の空と染まりつつある雲を背景に。美しい夕日が眺められる場所が多い御前崎。「夕日と風が見えるん台」は海から昇る朝日と海へ沈む夕日が見える絶好のビュースポット。展望台に建つ「潮騒の像」は恋人の聖地として認定され、日本の夕陽百選に選ばれた場所。黄昏時には大自然の中、夕日が沈んでいく素晴しい景色が拡がるのだと。下の写真はネットから。こんな光景に出会いたかったが。「潮騒の像」の近くに「展望台 夕日と風が見えるん台 平成元年 御前崎市」と。この日に走って来た方向を振り返って。「潮騒の像」を後ろから。「斜陽」を背景に。日が傾き、柔らかな黄金色に染まった陽光が遠州灘に射し込む。茜色の輝きを背景に「潮騒の像」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.14
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テレビのニュースで奥秩父の氷柱が見頃になっていると。「奥秩父の冬の名勝は、岩肌にしみでる湧水が創り上げる大規模な氷のオブジェ。天然の氷柱のため毎年、姿も変わるのだと。荒川源流の大自然の中にできあがるこの氷柱は1年で最も寒さの厳しい1月中旬から2月中旬までが大いに楽しめる見頃 と。また、ライトアップにより昼と夜で全く違った風景を楽しめる」と。この日は1月31日(金)、いつもの先輩二人を誘い、奥秩父に向かう。茅ヶ崎のSさん宅に我が愛車で向かい、いつものようにSさんの車に乗り換え、二宮の大先輩宅へ。国道134号で相模川に向かう。相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」手前。いつものように車窓から富士山の勇姿を。この日も快晴。前方には箱根の山々の姿が。右から標高1,438mの箱根の最高峰・神山(かみやま)、その左に駒ヶ岳・1356m、そして二子山。その名のとおり、双生児のように二つの峰が並んでおり、北、右側が上二子山1,099m、南、左側が下二子山1,065mとなる。再び富士山を「トラスコ湘南大橋」の上から。左側には湘南平展望台(TV塔)の姿が。湘南平は標高約180メートルの台地で、古くは泡垂山千畳敷ともいわれ、「かながわの景勝50選」の地で湘南の海岸線と丹沢連峰から富士山や箱根・伊豆の山々まで見渡せる眺望の名所。左手に相模湾、そして大磯港の「大磯港西防波堤灯台」を見る。「大磯港」には漁船の姿が。二子山の左に「大観山」。「大磯西IC」手前。背景には「神山」、「駒ケ岳」。右手に「大山」。ズームして。標高1252mのピラミッド型の美しい山容。そして予定時刻の7:30過ぎに、二宮にお住まいの大先輩と合流し、東名高速道路の「秦野中井IC」に向かって進む。「秦野中井IC」から東名高速道路に入る。時間は7:51。「海老名JCT」から「圏央道」へ。「八王子JCT」に向かって進む。「八王子JCT」を青梅方向に直進。左手奥に秋川沿いにある「東京サマーランド」を見る。カーナビに従い「入間IC」で「圏央道」を下りる。「入間市街」方向に進む。国道16号に入る。国道299号で北に向かう。国道299号は、埼玉県入間市から埼玉県秩父市、群馬県多野郡上野村を経由し、長野県茅野市に至る一般国道。「滝不動尊北」交差点を通過。「高麗川」、「西部池袋線」と並行して国道299号を進む。この先、左に折れると「西部池袋線・東吾野駅」と。西部秩父線👈️リンクの高架下を通過。西武秩父線(せいぶちちぶせん)は、埼玉県飯能市の吾野駅と同県秩父市の西武秩父駅とを結ぶ西武鉄道の鉄道路線。国道299号・あじさい街道を進む。「小鹿野」、「秩父」方向へ。「正丸トンネル」を通過。延長:1,918m、開通年次:昭和57年「横瀬川」に沿って進むと「道の駅 果樹公園あしがくぼ ↑1km」案内板。最初の目的地「あしがくぼの氷柱」へ残り1km強と。 ・・・つづく・・・
2025.02.13
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「浜松まつり」の様子が一面に。入口へと引き返しながら「御殿屋台」の全景をカメラで追う。「唐破風軒搦入母屋造 二重屋根御殿屋台」と「底抜け屋台」方向へ。「唐破風軒搦入母屋造 二重屋根御殿屋台」方向を。「模型屋台」の展示コーナーと「底抜け屋台」方向を。「参野町屋台」方向を。「曳綱 (御殿屋台を引く綱) 糸枠 (凧を揚げるために必要な麻の凧糸を巻いている糸車) 実際に使用していたものです。「成子町御殿屋台曳綱展示昭和28年作成 麻製 太さ 2.3cm 長さ 約100m」 「ペットボトル提灯制作秘話浜松まつりが大好きな一家に生まれた息子は、まつりが終わった後もDVDを見ながら一人で練りの真似をする程のまつり好き。大人が持っている提灯を持ちたくて持ちたくて仕方がない様子を見て貸してあげたところ・・・。高価な提灯は見るも無残に破壊され、挙句、持ち手の部分で頭をぶつけて大泣きする始末。そこで、身近にあるPETボトルを利用しておもちゃの提灯を作ってあげたところ息子は大喜び。そんな思い付きで我が子のために作り始めた提灯。せっかく作るなら「それなりに強度があり、雨にも強く、夜には光らせることもできて、見た目はそっくりに・・・。そんな提灯を格安で作ろう」と、主婦目線から家にある物や100円ショップで入手できるものを使い、壊れても簡単に作り直せるようにと試行錯誤し、マイナーチェンジを繰り返した結果、この作品の形に収まりました。作品の制作にあたり、知人友人をはじめ多くの方々のご協力により約2年の歳月をかけ、浜松まつり参加町全174ヶ町の提灯柄を収集することができました。」。ズームして。全部の町内がありそう! ナイスアイディア!!「御殿屋台引回し」👈️リンク。「2024年 浜松まつりフォトコンテスト入賞作品及び応募作品浜松まつり会館では毎年ゴールデンウィークに開催される浜松まつりの魅力を発信すべく、フォトコンテストを実施しています。2024年は5年ぶりに制限無しでのまつり開催となり、応募作品も89点ありました。多数の応募ありがとうございました。今回は入賞作品及び応募作品をすべて展示させていただきました。ぜひこの機会に浜松まつりの魅力や熱気・臨場感を作品から感じていただけましたら幸いです。(一部選外となっている応募作品(規格外)は除く) 浜松まつり会館 館長」作品「【2024 浜町市長賞】草野成憲様 『開幕』」 と。「昔の屋台」の写真展示。九谷焼「飾皿」👈️リンク。絵画「浜松まつり」。「浜松まつり👈️リンク のあらまし (昭和60年4月1 7日開館)五月を彩る浜松凧あげ合戦👈️リンクは毎年5月3・4・5日の三日間中田島砂丘で盛大に開催されます。古くは農作物の吉凶や、人の運勢を占ったり、又、戦国時代には軍事的にも利用されたりしてきましたが、やがて子供の成長や息災を凧に託して祈ったり、祝ったりするようになりました。個々に揚げていた凧も互いに竸いあい派手なもの、大型のものとなり団体競技へ移行してきました。明治中期以降屋台の誕生に伴って、各町豪華絢爛たる屋台が続々とお目見得すると共に、昼は百数十枚の大凧の切りあい合戦が繰り広げられ、夜の訪れともなれば灯火に浮出された彫刻は幽玄の世界へ誘い、将に数十台の動く不夜城の再来と云ってよいでしよう。この全国に例を見ない昼夜の演出は海外の観客を含めニ百数十万人に及ぶ有数の祭りと発展してまいりましたが、当館ではこの祭りの興奮を映像と音響で居ながらにしてその全容をご覧いたける仕組となっています。」絵画に近づいて。寄贈:井上市三郎様。さらに近づいて(左)。さらに近づいて(右)。受付まで戻る。ポスターと浜松名産土産物。土産物展示。懐かしい「井伊直虎」、井伊直虎を演じたのは柴咲コウ。「浜松まつり会館」を後にして、風車公園👈️リンク に立つタワーを。これは「浜松まつり会館」のシンボルタワー。「浜松まつり会館」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.13
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「御殿屋台展示室」には、時代ごとの屋台の模型が展示されていた。また、浜松市制80周年記念で製作された実寸の御殿屋台も展示されているのであった。「底抜け屋台」。大正期になると底抜け屋台が造られるようになった と。文字通り床面がない屋台。屋台の中の人は歩いて移動した と。「底抜け屋台大八車から屋台に変身・・・やがて荷車の上に簡単な小屋組みをし、太鼓、鐘などを取付け凧を屋根にして曳き廻すようになった。遠州気質の「やらまいか」根性で派手さも加え.小屋そのものに車をつけて綱て曳く型式となって町内全員が参加できるようになりました。屋根も障子骨とし紙を貼り市松模様に塗り分け、軒先や腰回りに提灯や造花を飾り軒行灯に町名を記し、灯火を入れ夜の街を流した。底抜け屋台といえど屋根も唐風としたりニ層ものと段々と手のこんだもの、各町競いあって造り、大正年代には30数台の屋台が並んだといわれた。これらの屋台に火がともり揃って繰りだされ、当時の人々は華麗さに息をのむ感であったろう。正に不夜城への演出で、昼の凧合戦・夜の屋台曳回しのニ大イベントの幕があく。屋台の引き綱の中で若衆や子供連が肩を組み一団となリ練りに気勢をあげる。縄などを練り合わせる姿から輪となっていく動きが以ているところから練りと呼ばれるようになったとか、・・・明治43年頃(1910) 人気役者による道囃子の始まり大正3年(1914) 底抜け屋台初お目見え大正4年(1915)以降 各町こぞって底抜け屋台続々新造30数台勢揃い大正末期 屋台に床を貼り、お囃子連が乗れるようになる 昭和4年(1929) 彫りもの組みこみ、本格的屋台完成、ご殿屋台への幕あけ」正面に、町名を記した軒行灯が並ぶ。「唐破風軒搦入母屋造 二重屋根御殿屋台」👈️リンク。建造:平成03年(1991)東梁:小池清彫刻師:早瀬宏、鈴木嘉ー御殿屋台には重厚な彫刻が施されていた。二重の唐破風の上弦部分の鬼板の上部と下部・懸魚に見事な彫刻が。お囃子は、戦前は青年若衆が演奏していたが、戦後になると子どもたちが担当するようになる。楽器の編成は、四拍子(太鼓、大鼓、小鼓、笛)と、鉦、三味線で、笛と三味線を大人が担当し、それ以外は小学校高学年の女子児童が中心となっている。演奏曲は『小鍛冶』『鞍馬山』『四丁目』『花見踊』『楠公』『四季の山姥』『越後獅子』などの歌舞伎音楽が中心で、曲中の「合方(あいかた)」と呼ばれる舞台効果を高めるための部分が演奏される。町によっては、民謡やオリジナル曲なども演奏されているが、全体的には歌舞伎囃子が主体となっている「唐破風搦入母屋造り ニ重屋根御殿屋台形状 間ロ 三・三メートル 奥行 四・五メートル 高さ 四・八メートル 材料 ケヤキ・ヒノキ 総工費 六千万円 製作期間 平成元年十月~平成四年三月主な彫刻(正面) 簾脇 右 挑太郎 左 金太郎 鬼板 上屋 風神 中屋 鶴・懸魚 亀 下屋 市章と獅子 懸魚 獅子 棟梁 小池 清 浜松市 彫刻 早瀬 宏 浜松市 鈴木嘉一 浜松市 彫金 村井幸雄 刈谷市 板金 松井竜作 浜松市 車 辻村勝三 浜松市 水引幕 ㈱川島織物 大阪市」「御殿屋台之図」案内。御殿屋台の各種名称👈️リンクについてさらに学びました。上部から正面上屋(大上)鬼板:鶴と二階鬼板:亀。正面下屋:市章と獅子浜松市の市章の上下対称的なデザインは、自然環境の循環と共生の形であり、上部は浜松市北部の豊かな森林を、下部は浜名湖と遠州灘の美しい「うみ」を表している。また、白い波の形は、遠州灘の白波であり、浜松市の躍動と発展を表現している と。正面懸魚 : 獅子。正面上部は鳳凰。その下に雀の姿が。正面簾脇 『日本昔話』の金太郎と桃太郎。ズームして正面簾脇 右:金太郎。金太郎が動物たちと栗拾いに出かけた時に、突然、茂みの方から大きな熊が現れた。動物たちは震え上がったが、金太郎は怖がることなく熊とがっぷり組み合った。山で一番強い熊が相手では流石の金太郎もなかなか勝負がつけらない。動物たちの応援に励まされ金太郎はついに熊を持ち上げ勝ったのだ。熊は降参して、金太郎と他の動物たちと仲良くなったと。この金太郎はのちに坂田金時と名を改め、源頼光四天王のひとりに数えられる立派な武士になったのであった。これは坂田金時の子供時代の物語。ズームして正面簾脇 左:桃太郎桃の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子(きびだんご)をもらって、イヌ、サル、キジを家来にし、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。移動して。脇障子の鯉(左)。反対側・後面の下記写真をネットから。後面上屋鬼板 :雷神後面中屋鬼板 :飛竜後面 懸魚 :飛竜後面 欄間 :鳳凰後面下屋鬼板:鍾馗の鬼退治。後面欄間:獅子に牡丹後面簾脇:上り龍と下り龍。後面袖障子(右):松後面袖障子(左):松ここから、当日の私の撮った写真。左側面の十二支の彫刻。右からズームして。寅、未。下段には獅子の彫刻が。中央。亥。左。酉・戌。右側面の彫刻。廻り込んで。左から未、申。左から巳、午。卯、辰。「御殿屋台の模型(御殿屋台の原型)」の展示コーナー。ズームして。「浜松市御殿屋台の原型昭和四年野口町と八幡町に一層屋根で彫刻入りの本格的な御殿屋台が初めて制作されました。当時八幡町に屋台に熱心な鈴木九郎丸という方がいて、掛塚の屋台の模型を造ってから八幡の屋台を造ったと言われています。それがこの展示してある屋台と思われます。」一層型の屋台の模型。「ご殿屋台模型 縮尺五分の一昭和60年4月吉日」。これも豪華な御殿屋台。横から。4層か?これは子供屋台。北田町自治会への塚本好司氏手造りの寄贈品と。新聞記事。「贈呈北田町自治会殿品目 「子供御殿屋台 一式」子供たちの健やかな成長と町内安全を願うとともに祭りがより楽しめるよう手作りの安普請の屋台ではありますが、ご活用いただければ幸いです。 平成二九年四月吉日 塚本好司」廻り込んで。出世法師「直虎ちゃん」と。移動して。さらに。子供用でも立派な彫刻が。兜?。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.12
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次に「二宮町役場」を訪ねた。「二宮町町民憲章わたくしたちは、美しい自然に恵まれた「長寿の里」二宮の町民であることに誇りと責任をもって、より明るく豊かな町づくりのために町民憲章を定めます。1 郷土を愛し、自然をいかすきれいな二宮町をつくりましょう。1 ふれあいを深め、ことばをかけあうさわやかな二宮町をつくりましょう。1 きまりを守り、良習をはぐくむ住みよい二宮町をつくりましょう。1 幸せを願い、健やかな明るい二宮町をつくりましょう。1 教養を高め、文化のかおる豊かな二宮町をつくりましょう。」昭和53年7月5日制定 とのこと。日本国旗、二宮町旗を見上げて。「二宮町役場」入口の彫刻。母子像。「役場内」町名は相模国の二宮である川勾神社👈️リンクがあることに因む。「役場内」・〒259-0196 神奈川県中郡二宮町二宮961番地・北緯35度17分58秒 東経139度15分20秒・町の木:ツバキ 町の花:カンナ 町の鳥:ヤマガラ(2010年制定)・面積 9.08km2・総人口 26,610人(推計人口、2025年1月1日)「祝 ユネスコ無形文化遺産 登録 「伝統的酒造り」」ユネスコは日本酒や本格焼酎、泡盛などの「伝統的酒造り」を2024年12月5日に無形文化遺産に登録。登録理由は「酒造りの知識と技術が社会にとって強い文化的意味を持ち、酒が日本の祭りや結婚式などの行事に不可欠である」と 指摘。二宮町内にも酒蔵があるのだろうか?「吾妻山 菜の花ウォッチング」ポスター。再び国旗、町旗をズームして。「二宮駅」前の駐車場の料金。40分/200円、MAX1000円 と。 次回検討用にとシャッターを押す。そして「吾妻山斜面」のツツジで造られた町章を見上げて。そして、二宮町にお住まいの会社の大先輩と駅前の喫茶店「カルチャー」で会う。店内の壁には多くの「絵手紙」作品が展示されていた。「吾妻山の菜の花」を描いた絵画。二宮漁港物揚場附近の光景か?白鳥?この鳥はユリカモメ?。JRポスター「氷瀑、温泉、奥入瀬」。そして、喫茶店で1時間ほど会話して再会を約束して、二宮駅へ。再び二宮駅通路の菜の花を。いたる場所に「吾妻山 菜の花ウォッチング」ポスター。そしてホームに面した建物の壁には「おかえりなさい にのみやまち」「JT13 Ninomiya 二宮 니노미야」と。中国語がないと思ったが、「二宮」が日本語と中国語であり4ヶ国語表示。駅名標。路線記号(アルファベット2文字)と駅番号(数字2桁)の組み合わせを路線ごとに設定している路線カラーを用いて表示。緑:JR東日本のコーポレートカラーオレンジ:東海道線(湘南色)JT:東海道線の13番目の駅・二宮。冬の澄んだ空気の中、吾妻山山頂に広がる菜の花畑は、まるで春の先駆けを告げる黄金の絨毯の如し。陽の光を受けて輝く黄色の花々は、優しく風に揺れながら、訪れた私を温かく迎え入れてくれたのであった。その先に目を向ければ、冴えわたる青空を背にそびえる真っ白な富士山。清冽な雪をまとった山頂、そして丹沢、箱根の山々、伊豆半島は、まるで神々の息吹を感じさせるかのような荘厳な姿を見せてくれたのであった。快晴の下、菜の花の鮮やかな黄色と、富士山の凛とした白、相模湾の青のコントラスト!!それはまるで日本の四季の美を象徴する一幅の絵画であった。自然が織りなすこの壮麗な光景に、誰もが息をのむ瞬間がそこに!!。来年も、この日本の四季の美を象徴する一幅の絵画!!を見に来ようと。そして帰路に。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.02.11
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「凧のできるまで1️⃣骨格づくります、1本の真竹か淡竹を割って、平らに削り子骨をつくります。の子骨をそろえて図Aのように間隔を割りふって墨をつけ、のこぎりで切れ目を入れ、図Bのように組みます。この切れ目は、後で麻でしばって固定します。骨格を組む場合は、凧の全体のバランスをとるため、竹の根と先を交互に組みます。次に横骨(子骨)のみに糊をつけて、和紙を貼ります。糊が乾いてから絵・文字などを書き、紅で色をつけて仕上げます。」「凧のできるまで2️⃣糸目つけ凧本体が完成すると、糸目がつけられます。浜松まつりに参加する各町にはそれぞれの指導者がいて、凧合戦の戦略を考え、糸目つけにあたります。糸目の焦点には基準があります。この基準より上に焦点を合わせることを「ノシ」といい、凧はやや下向きに揚がります。また、下に焦点を合わせることを「タチ」といい、凧はやや上向きに揚がります。同大の凧でも焦点によって、尻尾のつけ方も違っています。」「凧合戦その技と用具五月晴れの大空、勇壮に乱舞する大凧------。凧合戦は、糸の摩擦で相手の凧糸を切り、勝敗を競います。空中で凧糸が絡み合うと、合戦が始まります。相手凧に勝つには、糸先(組長)の合図によって行われる転機(滑車)の操作や、この時の強いチームワークがポイントとなり、各町組員の団結力が勝敗の如何を左右します。凧合戦の熱気あふれるムードをさらに盛りあげるのが、高らかに鳴る進軍ラッパです。この音によって、若衆たちの血は一層たぎり、合戦はますます白熱化します。」「凧合戦の基本技術420余年にわたる長い凧揚げの歴史から、各種の凧揚げ技術(わざ)が生み出され、いまに伝えられています。その基本となる技術としては「釣り揚げ」、「のん乗り」、「ちょん掛け」の3つがあります。風向きや風の強さを考えながら、これらの技術をあやつります。」創作和紙人形「凧揚げまつり」。「創作和紙人形「凧揚げまつり」 創作和紙人形 華扇会 寄贈華扇会は、1974年浜松市美術館で第1回華扇会展を開催。その後全日本和紙人形展(東京・大阪)や県立美術館移動展(静岡)に参加するなど活躍。現在はニ代目華扇が指導。なお、当展示品は1998年、ウィーンジャパンフェスティバル展に出品されたものです。華扇会 指導:田畑華扇 制作:大石小扇・大山寿扇・北田芳扇。小松永扇。永田舟扇。宮島」「凧揚げまつり」・「凧合戦」の写真をネットから。再び「大凧展示室」の大凧を見上げる。このあたりは文字一文字の凧が多い。移動して。「浜松まつり」の絵画作品。「「浜松まつり」寄贈 吉永敏子 氏」「大凧展示室」振り返って。ズームして。大凧「幸福」。「「政令指定都市幸福度ランキング」で永年にわたり首位を争っている浜松市を顕彰し、2022年10月「YES !家康プロジェクト浜松」の後援を受け、中田島で揚げられた大凧です。 揮毫 中澤希水」「174ヶ町の凧絵・手拭い 一挙展示中!」と。「凧絵・手拭い」「手拭」。再び「大凧」を。再び「法被」の展示コーナーを。この正規の法被着用者のみが凧揚げに参加できる とのこと。近づいて。手前には凧揚げ合戦の道具を展示。大凧を揚げるために欠かせない道具が「糸枠」👈️リンク。特に糸切り合戦では糸を出したり引いたり、忙しく動き回る為の必須道具と。。「大正時代の【か組】の法被」「大正時代の【か組】の法被故山田有ー氏より寄贈山田氏は、大正14年誕生、翌年の初凧の祝いの時にお父様か着用した法被であり、昭和21年より、この法被を山田氏が着て祭りに参加した。したがって、よく見ると背中が合戦の凧糸で擦り切れて、他の法被から柄合わせし縫い合わせた跡か残っている。」「鍛冶町法被」。「故山田 有一様が所有していた昭和3年御大典昭和天皇即位の年に製作された鍛冶町法被お孫様より浜松まつり会館に寄贈していたたきました」凧の展示コーナーから御殿屋台展示コーナーへ。通路の両脇に参加各町の御殿屋台の写真が並んでいた。「浜松まつり 各町の御殿屋台」。「浜松まつり 各町の御殿屋台」がパネル展示されていた。両側で総計92台?を紹介。中央をズームして(左)。「東田町」の御殿屋台の写真。中央をズームして(右)。「和合町」の御殿屋台の写真。「ご殿屋台の由来夕暮れと共に、祭りの舞台は市内中心部へと移り、ご殿屋台の引き回しが始まります。屋台の歴史は、明治末ごろ、凧揚げ会場へ弁当や湯茶を運んだ大八車に、凧を積んだのが始まりといわれています。大正期になると、造花や提灯を飾りつけた”底抜け屋台”が作られ、昭和4年には彫刻で飾りたてたご殿屋台が登場しました。年々屋台は豪華なものとなり、伝統の祭りは一層華やかさを増して、市民や観光客の目を楽しませています。」明治末頃:荷物を積んだ大八車大正期:底抜け屋台昭和初期:御殿屋台 と進化。「新町ご殿屋台様式・・・二層桃山大唐破風造り彫刻テーマ・・・日本昔ばなし」。正面の「御殿屋台展示」が床にも映り込んで。「御殿屋台展示」は、浜松まつり会館にある御殿屋台展示室で、浜松まつりの御殿屋台を展示・再現する施設。展示内容・浜松市制80周年記念の御殿屋台など、伝統技が冴え渡る重厚な彫刻を施した御殿屋台wo展示。・御殿屋台の行列と夜のまつりを音と映像でリアルに再現していた。浜松まつりの御殿屋台・浜松まつりの御殿屋台は、明治の末頃に始まった。・凧合戦の帰りに大八車の四隅に柱を立てて凧を屋根がわりにして引いていたところ、役者が 芸者衆と一緒になって鐘や太鼓ではやしたてたのがきっかけと言われている。・造花や提灯を飾りつけた底抜け屋台が登場したのは大正4年「参野町(さんじのちょう)屋台」。提灯には「さん連」👈️リンクと。「参野町屋台明治5年に建造され、浜松最古といわれる屋台。立て掛けてある車輪は当時のものです。(平成26年12月14日に当館に搬人)記先覚者達が当時三十戸許りの僅かな戸数を以て長年に亘り夜業に縄細工に励みこれを資金に営々として積み上げ遂に明治五年十月念願の屋台を建造し今日に受け継がれたものと傳えられる。 昭和五十八年十月 保存会長 上村正司」立て掛けてある車輪は当時・明治5年のもの と。「大八車」。荷物運搬用だった「大八車」に、凧を屋根にしたのが屋台の始まり。「大八車と道囃子明治後期までは市内や近在で凧合戦が随所で行なわれていいたが明治34年(1901)伊場町国鉄用地において全町が初めて揃って盛大な合戦絵巻が繰りだされ現在の凧あげの基となる。同年4月29日付の新聞に「浜松の新凧あげ会場、菅原町西、国鉄工所敷地・・・」と記載されている。今までは近い場所であったのが会場が遠くなリ凧や弁当等運搬に困難となり大八車や荷車を利用、弁当、酒樽入れた湯茶、上に凧を乗せて運ぶようになった。やがて枠組みをして凧が安全、容易に運べるよう工夫され、提灯も掛けたりと整って曳き網もつけられた。明治43年頃(1910)伝馬町、若松座の人気役者、森三之助は芝居を休演してまで応援に出向く程の凧好きであげくは疲れた若衆を励ますためー座の囃子方が鳴り物で賑やかに帰路についたが沿道の人々驚き、旦つ大好評であった。以後、これに刺激されて各町お囃子連を編成し道中を競演、道囃子と呼ばれるようになった。各々にテーマの音曲を特ち、この曲が聞えてくると、町内の者は酒肴や煮もの、にぎリ飯を用意して待つのである。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.11
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「吾妻神社」を後にして、「吾妻山公園 管理棟」に向かって進む。左側は子供達の遊び場「ジャンボエイトツー」になっていた。いろいろな遊具が合体した、子どもたちに人気の大型複合遊具がそろっていた。「ジャンボエイトツー」の名前の由来は??そして左手にあったのが「管理棟」。休憩所、トイレ、飲物の自動販売機、管理事務所があった。右側にあったのが「トイレ」。ここにも「募金箱」が。「休憩室」を覗く。ポスター「海と山に育まれた癒しのふる里 二宮町」。「にのみや 観光 絵はがき」「吾妻山公園草木マップ」「この季節こんな草木が見頃です」「関東の富士見100景富士山の見えるまちづくり地点名 吾妻山平成16年11月国土交通省関東地方整備局寄贈 (社) 関東建設弘済会」「吾妻山公園の花木(役場口~公園管理棟)」。「自然と愛の伝承が息づく吾妻山物語」「二宮の鳥(1) 留鳥」「二宮の鳥(2) 夏鳥・冬鳥」再びトイレ棟を休憩所前から。休憩所を振り返って。ニホンスイセンの群生地の間の路を「浅間神社」に向かって進む。管理棟、トイレ棟を振り返って。そして「浅間神社」の社殿前に到着。扁額「浅間神社」「内陣」「浅間神社祭神は木花咲耶媛、二宮町上町地区の祭神で、土地の人には浅間さんとして親しまれ、本社は富士浅間神社です。木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曾我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉の二宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて、自分の住まいの前のこの山上に、浅間神社を祀ったと言われています。この度社殿老朽にともない新築、内宮は大修理を施し装いも新たになりました。尚、修復した内宮(一部の彫り物も含む)は千七百年後期寛政の頃の作といわれています付記 修復されし内宮の各部1.柱 2.象鼻 3、側面蛙股 4、左海老虹梁」 以上。平成十九年三月吉日 二宮町二宮 上町町内会」「浅間神社」の社殿を斜めから。そして往路にも撮した「浅間神社」石鳥居。役場口に向かって坂を下る。一方通行の左側を進む。木々の上部には球状のヤドリギの姿が。ズームして。この樹は?「ヤマモモ」と。実がなると(写真はネットから)この樹は?「シャリンバイ」花が咲くと(写真はネットから)そして「神奈川県二宮町民センター」が左奥に。「町制施工50周年記念長寿の里 二宮昭和60年11月3日」「庁舎竣工記念」と。ライオンの像が神社の狛犬の如くに。反対側にも。「町制50周年記念植樹 昭和60年11月3日 二宮町議友会」ブロンズ像の少女の裸婦像「清新」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.10
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そして以前に訪ねた「中田島砂丘」の北側にある「浜松まつり会館」の駐車場の到着。車を降りると、上空には数個のタコ⇦が揚がっていた。色とりどりの「浜松まつり会館」と書かれた幟旗が風にはためいていた。「浜松まつり会館」入口が二つの建物の間の奥に。「もてなしの町浜松 歓迎 Welcome to Hamamatsu元禄時代からの歴史と伝統を誇る「浜松まつり」を再現!大凧と御取屋台の展示館内のご案内●ハイビジョンによる浜松まつりの紹介●凧糸製造過程の見学(凧糸製造資料室)●音と映像によるまつりの再現 凧あげ合戦・ラッパの音色と激練の声に包まれて 夜のまつり・華やかな御殿屋台の行列●浜松まつりグッズ・郷土土産の売店コーナーなど」「入口 浜松まつり会館」。開催済みのポスターが2枚・「浜松まつり 2024 5/3(金 祝)、4(土 祝)、5(日 祝)」。「浜松まつり 2017 5/3日(祝)、4日(祝)、5日(祝)」。「浜松まつり会館」。エントランスホール。ありがたいことに、高齢者(70歳以上)は無料と。移動して。「ご殿屋台👈️リンク 模型 縮尺五分の一」。「浜松まつり会館案内図」。「浜松まつり会館案内図」。1.ハイビジョンルーム2.浜松出世太鼓3.凧糸製造室4.大凧展示室5.御殿屋台展示室そして最初に1.ハイビジョンルーム を訪ねた。浜松まつり👈️リンク を8分間のダイジェスト映像にまとめました。鮮明リアルなハイビジョン映像で浜松まつりをご紹介します と。凧揚げ合戦👈️リンク。御殿屋台の引き回し👈️リンク。2.浜松出世太鼓👈️リンク「遠州のひびき浜松出世太鼓元亀3年(1572年)12月、三方原の戦いに勝った武田勢が、徳川家康の居城の~浜松城を取り囲みなした。この時、徳川勢の志気をたたかめるために、酒井左衛門尉忠次が気魄あふれる「時の太鼓」を、打ち鳴らしました。すると武田勢は、燃えさるかがり火の中に響きわたる太鼓の音におそれをなして、兵をひきあげてしまいました。家康は命を救われ、その後の運命を変えるきっかけになったのです。この故事にならって誕生した「浜松出世太鼓」は、家康ゆかりの地、浜松にふさわしい郷土芸能として注目を浴びています。」「浜松まつり 5/3.4.5」「浜松まつり」とは、毎年5月3,4,5日に開催されるおまつり。昼間は中田島砂丘で凧揚げ合戦を、夜間は市街地で御殿屋台が引き回されパレードなどがおこなわれる。熱気と興奮に満たされるまつりの開催には、住民に限らず100万人以上の観光客が訪れるほどの規模。現在は浜松市内の170もの町が参加しており、盛り上がりの絶えないまつりのひとつとして知られている と。3.凧糸製造室。「方撚り機械」とその手前には「現代版?の糸巻き機」が。「凧糸製造機械」。「撚り糸状のものをひねる。又は、数本の細い糸などをひねって、からみ合わせて、1本の紐などを作る。」「凧糸製造機械(凧糸製造最終工程)片撚り(より)機械で撚った糸をニつのドラムに移し、右回転で、2本の糸を編み、1本の太さ約5mmの凧糸が完成する」「方撚り機械(旧型)」(左)と「方撚り機械(改良型)」(右)近くに置かれたテレビ画面には「方撚り機械」の動きが映像から理解できたのであった、「凧糸製造室のご案内」。「凧糸製造室のご案内ここでは浜松まつりの凧揚げ合戦に使用する麻糸(規格品直径5mm )製造機を展示しています。数年前迄ここで実際に凧糸を製造していました。麻は一年草で大変成長が早く、毎年3月に種を蒔き、8月末頃に収穫されます。(高さ2m位)この麻は古くから縁起の良いものとされ、神事・結納などの祝い事や赤ちゃんの産着の模様等色々なところに使われています。」手前に凧糸の原料の原麻。栃木県鹿沼地区の原料となる原麻を使用します。「浜松凧の揚げ糸は、統一されています。浜松まつり 凧合戦の凧糸各町内公平を期すため、浜松まつり保存会によって原料が同じ麻の糸を使用し作られています。各町それぞれ2 , 000n ~ 3 , 000mを専用の糸枠に巻いて使用します。」1️⃣原麻 栃木県鹿沼地区の原料となる原麻を使用します。2️⃣麻こき 繊維をやわらかくし、3~5mm程度にほぐします。3️⃣片撚り ほぐした原麻を片撚機にかけ、直径2mmの糸をつくります。4️⃣本撚り 方撚りされた糸を2本合わせ、本撚機にかけ、直径4mmの凧糸をつくります。直径4mmの凧糸。様々な種類の「関東、東海地方の凧」が展示されていた。「凧あげ合戦用 八帖凧」と。「凧の大きさ」案内。浜松まつり会館の大凧展示室には、畳2帖(約1.5m四方)から10帖(約3.64m四方)までの大凧が展示されていた。浜松まつりの凧揚げ合戦では、約170か町の凧が揚げられ、そのうち4帖と6帖(1辺2.9m)が適していると。浜松まつり会館の大凧展示室では、凧揚げ合戦の様子が再現された展示や、凧のデザインが展示されていたのであった。「凧の大きさ」。10帖凧:□3.64mと。「浜松まつり徹底解説・浜松まつりはどんなお祭りですか?・浜松まつりは何をしますか?・ラッパはふけなくていいの?・凧を揚げるのって難しいの?・浜松まつりって危ないの?・子供でも参加できますか?・コロナ禍以前に、浜松まつりが中止された事はありますか?・凧揚げを支える3つの担当・浜松まつりの揚げ糸・浜松まつりの意外なルール」それぞれの詳細説明は写真がピンボケのため、転記不可。「浜松古凧絵」を見る。江戸時代後期から昭和初期にかけて使われた古凧絵。今では見ることのできない幻の凧絵 と。そして「4.大凧展示室」の様々な凧を楽しむ。「大凧展示室」では凧揚げ合戦の様子👈️リンク「を大小60数町の実物大の凧や激練りの映像、ラッパの音色など音響装置によるダイナミックな構成で再現していた。凧合戦の模様を音と映像でリアルに体感できたのであった。近づいて。「光る君へ」。NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部を描いた3帖凧。浜松まつり(5月3~5日)を訪れた観光客に凧を揚げてもらおうと、浜松市民有志がNHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんだ3帖(じょう)凧など3枚を制作したのだと。「フォトスポット砂子秀志さん・松嶋孝志さんお二人共同て作成された三帖凧です。大河ドラマにちなみ紫式部を題材にした絵柄になっております。新聞にも紹介され、お祭り期間中に揚げられた実際の凧です。浜松まつり会館に来た記念にお写真をいかがですか?」新聞記事。「熱き凧揚げ ぜひ体験を浜松まつり(5月3~5日)の観光に訪れた親子連れらにも凧(たこ)場げを体験してもらおうと、浜松市中央区西町の大工砂子秀志さん(67)と、同区芳川町大橋の電気工事業松嶋孝志さん(69)の2人が協力し、体験会用の3帖凧1枚と1・5帖凧2枚の計3枚を製作した。凧の題材には、大河ドラマ「光る君へ」にちなんで紮式部こ、「望月」の和歌を詠んだ藤原道長を選んた。砂子さんの工房で2カ月ほどかけ、竹の骨組みづくりや日本画の顔料を用いた着色などを進めた。ともに手先が器用で、ものづくりが好きな砂子さんと松嶋さんは、長年にわたって凧の自作や凧揚げを続けてきた。7年ほど前にその趣味を通じて知り合い、意気投合。それぞれがこれまでに培った技術を共有しながら腕を磨いている。砂子さんは「子どもたちが楽しそうに凧糸を引く姿を見るのが一番の喜び」、松嶋さんは「今後も話題性のあるデザインを施した凧づくりを続けていきたい」と顔をほころばせた。観光客向け凧揚げ体験は祭り期間中に連日、凧揚げ会場から1キロほど離れた浜松まつり会館近くにある芝生広場で開催する。」と。観光客らを対象にした体験用の凧3枚を完成させた大工・砂子秀志さん(右)と電気工事業・松嶋孝志さん。3帖凧1枚と1.5帖凧2枚の計3枚を制作した と。「凧糸」案内。凧合戦で摩耗した凧糸、凧糸が切れた場合の繋ぎ方等が判る展示。「激闘の凧糸(凧合戦での摩擦による切れ口)」。左側は喧嘩凧の凧糸の切れ口が示されていた。右側は「凧糸のいろいろ」昭和12年~昭和58年の「凧糸のいろいろ」が展示され凧糸の歴史が解るのであった。私も、「糸の切れた凧」にならぬように気をつけたいもの。「糸の切れた凧」とは、どこをほっつき歩いているのか分からない者などの喩え。これまで一直線に向かっていた目標がなくなるなどし、方向性が定まらず、不安定なさまを言うのだ。浜松まつりに参加する町の様々な「法被」を展示。近づいて。日本独自のデザインに引き込まれるのであった。「中沢町「中組」法被。大正期の「初代」のデザインに戻した!中沢町(中区)の「中組」は今年(2019年)に法被の代紋を、大正期に使用していた「初代」のデザインに戻しました。新たな時代の始まりとともに原点に立ち返り、伝統を引き継いでいく強い意志を示しています。「中組」の関係者より当館に寄贈されました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.10
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「海辺の文学記念館」内部の見学を終え、常磐館の趣きを再現した記念館を振り返る。ズームして。「八百富神社 篠津遥拝所」の西側、「三河湾オレンジロード」の南側には句碑が2基。鈴木半風子の句碑。「初凪の 海をへだてて 伊勢の国 半風子」。句碑の裏側には俳誌「陽炎」三十周年記念 鈴木半風子先生喜寿祝賀昭和六十一年四月吉日 陽炎会建立 と。鈴木半風子は・明治42年4月15日 岡崎生れ・岡田耿陽、松本たかし、高浜虚子等に指導を受ける・俳誌「陽炎」主宰 と。山田牛歩の句碑。「ふくらめる 芽をいいたわりて みくじ結う 牛歩」 句碑の隣りにあったのが「三河湾国定公園」碑。その右には「世界連邦平和宣言都市 蒲郡市 世界は一つ 湯川秀樹書」と。「竹島園地」の中にあった鳩を左手に載せた「裸婦像」。「青春」と。作者は斉藤勝弘氏 と。「海辺の文学記念館」館内で配布していたマンホールカード。三河湾に浮かぶ竹島と竹島橋、カモメを描いたデザインマンホールで、市のシンボルカラーである「青」を基調としています。観光交流立市として都市景観を足元から整えるだけでなく、美しい海を次の世代に強すという強い決意を込めて制作しました。竹島は、島全体が国の天然記念物に指定されており、長さ387mの竹島橋で陸地と結ばれています。島の中央部には、日本七弁天のひとつであるハ百富神社があり、開運・安産・縁結びのパワースポットとして知られています。季節ごとに違った顔を魅せる竹島と美しい三河湾を眺めて壮大な自然を感じてください。駐車場におられたオジサンに本物のマンホールがある場所を教えていただき向かう。この住宅街の交差点の先にあると。そしてなんとか発見。三河湾に浮かぶ竹島と竹島橋、カモメを描いたデザインマンホール。旅友から別の場所も教えてもらいました。「蒲郡観光マップ」。「蒲郡の主な行事 潮干狩 3月上旬 ~ 6月下旬 竹島・三河大島・三谷・形原・西浦海岸 あじさい祭 6月1日 ~ 6月30日 形原温泉あじさいの里 海水浴 7月1日 ~ 8月31日 三河大島・西浦温泉パームビーチ 蒲郡まつり 7月最終土・日 納涼花火大会は日曜日 三谷祭 10月第3又は第4土・日」と。最後に「竹島園地」の駐車場の近くにあった「竹島水族館」をズームして。そして「竹島園地」の駐車場に戻り、車に乗り込み次の目的地の「静岡県浜松市中央区中田島町」にある「浜松まつり会館」に向けて国道247号をひたすら進む。「国道247号」の「永久橋」を渡る。下を流れる川は「音羽川」。道の駅「潮見坂」で昼食。国道1号・潮見バイパス、白須賀海岸沿いにある道の駅「潮見坂」。道の駅「潮見坂」は静岡県の最西端の浜名湖西岸、湖西市白須賀にある。潮見坂は東海道五十三次の白須賀宿👈️リンクにほど近く、京(都)から江戸(東京)に向かうときに、初めて太平洋が見られる場所で、この太平洋の大海原を見ると「江戸の町まであと半分」と言われていたのだと。昔の人たちはこの眺めを見て何を感じていたのだろうか。因みに、京都から江戸へ向かう東海道の旅では、旅人が初めて富士山を目にする場所は、現在の静岡県袋井市の「見附宿(みつけじゅく)」付近だとされています。この宿場の東側には「小夜の中山(さよのなかやま)」という峠があり、ここを越えると視界が開けて富士山を望むことができるようになったとのこと。「湖西市・道の駅案内市の紹介湖西市(こさいし)は、静岡県の最西部に位置し、東を浜名湖、南を遠州灘に接し、西北には赤石山系から続く湖西連峰の山々を有する自然豊かなまちです。当道の駅がある白須賀(しらすか)は、江戸時代に東海道五十三次の宿場として栄えたまちで、品川から数えて32番目の宿にあたります。宝永4年(1707年)の大地震による大津波のため、壊滅的な被害を受け、翌年、宿場は潮見坂上に所替えとなりました。当地は、白砂青松の風光明媚な所で、国道1号を阪神方面から東へ向かう時、初めて太平洋が望める場所です。太平洋(遠州灘)の雄大な景色を、ごゆっくり堪能してください。道の駅について「道の駅」潮見坂は、湖西市の申請に基づき、国土交通省道路局長により「道の駅」に平成17年8月10日登録されたものです。「道の駅」潮見坂は、湖西市と国土交通省により一体型として整備された、休憩・情報発信・地域連携の機能を持つ施設です。情報収集、休憩等にご利用下さい。」「施設案内図」。店内の野菜売り場。「カレーうどん」を楽しんだ。「道の駅 潮見坂」の「足湯」。足湯からの眺めは素晴らしく、遠州灘のパノラマは地球の丸さも実感できるのであった。しかし足湯に客の姿はなく。潮見坂の足湯は温泉ではなく太陽熱を利用したものであった。再び「潮見バイパス」を「浜名バイパス」に向けて走る。「白須賀I.C出口」手前を通過。「浜名湖カントリークラブ風力発電所」。「浜名バイパス」から「浜名湖」を見る。前方に「舞阪灯台」。静岡県浜松市中央区舞阪町舞阪にある白色の灯台。 浜名湖の入口付近の防風林の中に建つ。「弁天島観光シンボルタワー (赤鳥居)」。旧東海道「弁天橋」👈️リンク方向を見る。「舞阪灯台」横を通過。左手前方に「浜松市西部清掃工場」。再び「浜名湖バイパス」から「浜松アクトタワー」を。浜松駅北東にある浜松アクトタワーは、地上45階建、最高部の高さは212.77mの超高層ビル。静岡県で一番高いビルであり、中部地方では5番目に高い。日本三大都市圏以外では最も高いビルである。外観は「音楽の町・浜松」を意識して、ハーモニカをモチーフにしている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.09
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「吾妻山公園」の「菜の花畑」を後にして、「芝生広場」の南・海側に向かって進む。「梅沢海岸 吾妻神社」への案内板。細い山道を下ると、「吾妻神社」の境内に。境内の隅にあった石碑群。中央の庚申塔:三猿 笠付高さ:132センチメートル造立年月日:元禄4年(1691年)9月上旬銘文:「汝等前行是菩薩道」(正面種字3種)「漸々修學悉當成佛」「奉新造立庚申供養四面塔祈願」 「成就所」「相刕淘綾郡梅沢村/元禄四辛未天九月上旬」左側の石仏。以前はお顔がなかったが、お顔の如き石が載せられていた。廃仏毀釈の頃、仏像を壊す運動がおこった。明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で石仏の顔を壊したのであろう。この石仏も同様に以前はお顔がなかったが。「湯殿山講中供養」と刻まれていた。下部には奉納した12名の氏名も。割れかけている石碑には「奉納 吾妻神社改築寄附 金参阡五百圓也」と。社殿への参道の左側にあった「手水舎」。狛犬(吽形)。狛犬(阿形)。二の石鳥居。廻り込んで。珍しい松の巨木のようであったが。「奉献 日本大相撲協會 武藏山武」と。「武藏山」👈リンクは、神奈川県横浜市港北区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。「武蔵山」は今でも神奈川県出身唯一の横綱第33代横綱。本名は横山 武(よこやま たけし)。扁額「吾妻宮」は地上に安置されていた。落下したが割れなかったと。こちらは、この日は訪ねなかった「梅澤口」の一の石鳥居。社殿に向かって進む。「吾妻神社の深イイはなし吾妻神社は梅沢自治会が運営しています。自治会が推任した12名で宮係を構成、境内や清掃、社殿の維持管理を奉仕活動で行っています。元禄4年(1691年)一枚石彫の三猿日光東照宮の三猿を模倣して彫刻 山頂登り階段入口附近にあり 可愛く人気者ですよ」大鳥居を寄贈したのは武藏山 武(本名:横山 武)。第33代横綱。186cm、116キロ県横浜市港北区日吉出身 出羽海部屋 1909年(明治42年)12月5日生貧しい農家の5人兄弟の長男として生まれ、幼い時に父親が・・・・昭和5年に吾妻神社で奉納相撲し、大鳥居を寄贈する。昭和10年第33代横綱となる。神奈川県出身で横綱になったのは武藏山1人です。以下略・・・石灯籠(右)。昭和5年建立。石灯籠(左)。昭和5年建立。「吾妻神社 由緒記吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子である。天皇にそむく蕃族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るき暴風突如に起り、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往時を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」」正面に「吾妻神社(あづまじんじゃ)」の拝殿・社殿。創建は第12代景行天皇(在位西暦71 ~ 130年)の時代たと伝えられてます。言い伝えには日本武尊(やまとたける・景行天皇の第2子)が東征の途中、海路上総(千葉県)へ渡ろうとすると突如として暴風が起こリ、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は海の神の怒りを鎮め、夫の武運を祈るため荒れる海へ身を投じるとたちまち海は穏やかになりました。その後、海辺に流れ着いた命の櫛と小袖を人々が山頂に運び埋めました。この場所が吾妻神社であり、前一帯を埋沢(うめさわ)、海岸を袖が浦と言うようになったと伝えられています。日本武尊が東北平定の帰路、相模の国から甲斐へでる途中の峠で遥か東の海を眺めながら「あずまはや(吾が妻の意)」と嘆き、亡き妻を偲んだところから命(にこと)を祀った山を吾妻山と呼ぶようになったと言います。」と。境内の桜の蕾も膨らんで来ていた。社殿に近づいて。唐破風下の彫刻。社殿を設計したのは「伊東忠太」氏とのこと。「吾妻神社社殿について現在の社殿の建立 上棟 明和17年10月17日 完成 昭和18年11月 7日設計 昭和5年(1930年)4月設計者 工学博士 伊東忠大 山形県米沢市出身 東京帝国大学名誉教授(1867年~1954年)伊東忠太が設計した有名な建物橿原神宮(奈良県)平安神宮(京都府)弥彦神社(新潟県)築地本願寺(東京都)など多数「吾妻神社 社殿について」110年(景行天皇)頃 弟橘媛命を祭神として創建741年(天平13年)頃 僧 行基が千手院、東光寺を創立824~834年(天長)頃 僧 空海の弟子 杲隣が神願寺梅澤山を建立1218年(建保6年) 源実朝 雄剣を奉納1580年(天正)頃 本社を修造 (小田原城主北条氏直)1714年(正徳4年) 石灯籠 奉納 (現存)1750年(寛延3年) 再建改築1883年(明治16年) 吾妻神社奉納和歌額 奉納 (拝殿内現存)1930年(昭和5年) 吾妻神社 社殿設計完了 社殿改築等奉員会 発足1942年(昭和17年) 上棟1943年(昭和18年) 完成「吾妻神社拝殿側面之圖 昭和五年四月」。「吾妻神社の由来吾妻神社は、二宮町吾妻山の山頂(標高百三十六m)にある神社で、創建は第十二代 景行天皇の時代と伝えられております。皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)が三浦半島の走水から上総の国に船で渡る時、突然荒波に遭い、妃である弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は、身代わりとなって海に身を投げられ、波浪を静めたと伝えられております。後に今の梅澤の海岸に姫の櫛が流れ着き、その櫛を埋めて御陵を造ったところからこの地域を埋澤と呼び、現在は梅澤町内の氏神様となっております。また弟橘媛命の小袖が浜辺に漂着しこれを山頂に祭ったと伝えられており、この辺の海浜は、袖ケ浦海岸と呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命であり、【縁結びの神様】として有名です。」拝殿の唐破風下の懸魚の彫刻を再び。「本殿」を横から。祭神 橘姫命 ( たちばなひめのみこと ) 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )「本殿」右の彫刻。この吾妻神社の彫刻は、彫刻師 小林直光 1943(昭和 18)年の作と。近づいて。「本殿」左側の彫刻。近づいて。拝殿内部。祭神 橘姫命 (たちばなひめのみこと)。「五七桐紋五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かった」 と。この五七桐紋も下賜されたものであろうか!?「感謝状」。移動して。祭神 日本武尊 (やまとたけるのみこと)「十六葉菊紋」十六葉菊紋は、16枚の花弁を持つ菊を描く。別名『十六菊』。多くは皇室や豊臣秀吉より下賜された家が用いる と。鷹。武田晴信入道信玄川中嶌川百勇将戦之内 合戦図。令和7年の元旦の写真。「弟橘媛命入水から七日目に(二宮海岸)現袖ケ浦海岸に漂着」。「本殿」への入口。ズームして。「弟橘媛入水の図」。「本殿正面」。近づいて。「鏡」日本は古来から「八百万の神」(やおよろずのかみ)という自然のものすべてに神が宿っているという考え方があります。人にも神が宿っておりますので、神社でのお祈り事は鏡に映る自分の神様への誓いでもあるということです。神社に参拝に行かれました時は鏡に映る姿を意識されましてお祈りして下さい。もしも鏡が見当たらなかった時は、鏡に映る自分の姿をイメージしながら神様にお祈りを致しましょう と。本殿の龍の彫刻。そして拝殿の脇障子(右)。拝殿の脇障子(左)木鼻(右)。木鼻(きばな)は、日本の伝統的な建築において特徴的な部材で、柱を貫通する頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)、虹梁(こうりょう)の柱から突き出た部分を指します。この名称は、「木の端」を意味する「木端」が変化して「木鼻」と呼ばれるようになったものです。もともとは、頭貫や肘木、虹梁の柱から飛び出る部分を直接加工していたのですが、江戸時代以降、装飾目的が強まり、これらの部材とは独立した部品として取り扱われるようになりました。この独立した部品は、柱に引っかけて固定することから、「掛鼻(かけはな)」とも称されます と。賽銭箱には「五三桐紋」が。本殿の内部には「五七桐紋」が額に入って掛かっていたのであったが・・・。「本坪鈴(ほんつぼすず)」を見上げて。「拝殿」前から境内を振り返る。拝殿に向かって境内右側の石碑群。「三武社」碑。この石碑の詳細な意味や由来については不明。歌碑「吾妻山純情 二宮町 梅沢 袖ヶ浦に伝わる 日本武尊と弟橘姫の神話白峰紅葉清秋を飾る 敵兵野原火謀を図る 建命静かに草薙剣振るい 救軍迎え火平定仇せり 暴風遮断す走水の浜 愛妃鎮座す水神の前 さねさし相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問いし君はも 風凪ぎ全軍雄途に発す 静謐夕陽関津に映ゆ 建命人を恋う吾妻山 探訪漂着山関に到る 愛姫静立主君を迎う 相い約す両人永遠の綸」歌の大意はChatgptから【●「白峰紅葉清秋を飾る」 → 白く輝く峰(山々)の紅葉が美しく秋を彩っている。●「敵兵野原火謀を図る」 → 敵軍が野原で火攻めの計略を巡らせている。 (これは日本武尊が東征の際に、敵に囲まれて野に火を放たれた場面を指す。)●「建命静かに草薙剣振るい 救軍迎え火平定仇せり」 → 日本武尊は落ち着いて草薙剣を振るい、迎え火を用いて火を制し、敵を討った。 (草薙剣とは、日本武尊が天皇から授けられた霊剣であり、火を切り払い窮地を脱した とされる。)●「暴風遮断す走水の浜 愛妃鎮座す水神の前」 → 走水(はしりみず)の海で暴風に阻まれたとき、愛する妃(弟橘媛)が海神を 鎮めるために入水した。(この場面は有名な伝説で、弟橘媛が海に身を投じたことで嵐が収まり、日本武尊の船は 無事に進むことができた。)●「さねさし相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問いし君はも」 → 相模の野で火攻めを受けた際、日本武尊が火の中で立ち向かい、神に問いかけた。 (この部分は、上記の「草薙剣」の場面と関連している。)●「風凪ぎ全軍雄途に発す 静謐夕陽関津に映ゆ」 → 風が収まり、全軍が勇敢に進軍し、夕日が静かに関所の水面を照らしている。●「建命人を恋う吾妻山 探訪漂着山関に到る」 → 日本武尊は亡き妃を思い、「吾妻よ(ああ、妻よ)」と嘆いた地が吾妻山 (現在の神奈川県)である。 (「吾妻(あづま)」の語源になったとされる。)●「愛姫静立主君を迎う 相い約す両人永遠の綸」 → 愛する妃が静かに立ち、主君(日本武尊)を迎え、二人は永遠の誓いを交わした。 (ここは死後の再会を暗示しているとも考えられる。)この歌碑は、日本武尊の東征と弟橘媛の献身的な愛、そして二人の絆を讃えたものです。特に「走水の海」「草薙剣の火攻め」「吾妻の嘆き」といった、日本武尊伝説の重要なエピソードが盛り込まれています。日本武尊の東征の物語を描きつつ、特に 弟橘媛の自己犠牲と二人の永遠の絆 を強調した内容になっています。吾妻神社は弟橘媛の霊を慰めるために創建されたともいわれるため、この歌碑の最後の部分 「相い約す両人永遠の綸」(二人は永遠の契りを交わす)は、まさにこの神社にふさわしい言葉ですね。】と丁寧に。「吾妻神社」は、日本武尊と弟橘媛を祀る神社であり、「吾妻(あづま)」の地名の由来とも深く関わっていることを再認識したのであった。その境内を振り返って。昨年は通行止めになっていた参道を下る。前方に修復された法面が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.09
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「真白き富士の嶺」の勇姿と手前に菜の花のコラボ。少し移動して。ズームして。「四阿」?方向、その先には相模湾。丹沢山地の山々とのコラボ。「吾妻山公園の由来」碑とその後方に白き富士山の姿が。「吾妻山公園の由来相模路の淘綾の濱の眞砂なす 児らは愛しく思はるるかも (さがむじの よろぎのはまの まさごなす こらはかなしく おもはるるかも) (萬葉集 巻十四 東歌)『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の濱の 眞砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」と。万葉の昔から 淘綾の里 二宮の美しい海浜と それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありました。 しかし、第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で山は顧みられることもなく、次第に荒廃が進んでいきました。 町はこれを深く憂え、子孫に誇れる山として残したと思い、地権者六十五名の協力と五年の歳月をかけて整備し、 昭和六十二年七月十八日に吾妻山公園として開園しました。現在では健康づくりと自然とふれあう やすらぎの場として人々に喜ばれています。この公園は 名誉町民 第十七代柳川賢二町長の尽力により完成しました」淘綾(よろぎ)の浜とは、神奈川県の国府津から東へ、大磯にかけての海岸のことで、現在は「こゆるぎの浜」と呼ばれているのだと。「吾妻山の名は、中腹に吾妻神社があることからこう呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で日本武尊(やまとたけるのみこと)が配祀(はいし)されています伝承では、日本武尊が東征の途中、三浦半島の走水から海路上総に渡る際、突然海が荒れたため、妻である弟橘媛命が 海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈願しながら海中に身を投じると、たちまち海は穏やかになりました。7日後に命の櫛が海辺に流れつき、これを埋めて墓とし、又磯辺に漂う命の小袖を取り上げて山頂に祭りました。日本武尊は東征の帰路、この地の峠ではるか東方の海をながめ、海路を開くために犠牲になってくれた妻を偲んで「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆かれたと云ういうことから吾妻神社の名がつき、小袖が漂着した海岸を袖ヶ浦と云うようになりました。このような由来から、縁結びの御利益もあるようです。」とネットから。その下に「二宮みどり基金」の「貯金箱」。裏側にが「この碑は 公園開園五周年を記念し 柳川賢二顕彰会の有志の寄付により建立されました 平成四年十二月吉日 顕彰会会長 村山正雄」と。再び光る海・相模湾を。菜の花をズームで。「春といえば?」と聞かれたら「菜の花」というキーワードが必ず出てくるほど、日本の春を表すものとしてポピュラーな菜の花。ミツバチの姿は今年も見当たらなかった。我が趣味のセイヨウミツバチ養蜂の巣箱をこの場所に直ぐにでも置きたいのだが、違反行為となるのである。下記の写真はネットから。この日は、この様な姿は見ることが出来なかった。「吾妻山公園」内を移動しながら、菜の花、富士山をカメラで追う。展望台を振り返って。ズームして。山頂にある吾妻山のシンボル「エノキ」を背景に。四阿(あずまや)を見る。「四阿(あずまや、しあ)、東屋(あずまや)とは庭園などに眺望、休憩などの目的で設置される簡素な建屋。「四阿」の「阿」は軒の意味で、四方に軒を下ろした寄棟、宝形造などの屋根を持つ建造物を意味する。唐風に「亭」(ちん)とも呼ばれる。和語の「あずまや」は東国風の鄙俗(ひぞく、田舎びている)な建屋を意味する。」とウィキペディアより。いや、写真をよく見ると、四阿(あずまや)ではないことに今、気が付きました。「傘堂」風の休憩用の建物 と言うべきか!?「傘堂」風の休憩用の建物をズームして。展望台方向を振り返って。ズームして。人が少ないのであった。これぞ満開の菜の花。そして菜の花をズームして暫し追いかける。桜が咲いていればと・・・。桜と菜の花のコラボをこの場所で同時に見る方法は?桜の木をソメイヨシノから河津桜に変え、菜の花を遅咲きにかえることか? と我儘にも!!撮影スポット「吾妻山公園 二宮町」と。芝生広場の主(あるじ)の「エノキ」を再び。「エノキ 榎ニレ科 エノキ属分布=本州~九州、朝鮮 中国実は食べられる 野鳥も好み、方々に運んでゆく。材は建築や器具などに利用する」神山、明神ヶ岳、二子山とのコラボ。伊豆半島の付け根とのコラボ。そして丹沢の山々とのコラボ。展望台の奥にも常緑樹の大木があったが、名は?鮮やかな木目?の板の下には?「神奈川県下外国人遊歩規定第四十号測定標石👈️リンク外国人遊歩規程とは1858年(安政5年)、幕府が外国と結んだ安政の五か国条約のうちの規定の一つで、外国人が開港場の居留地から出て自由に活動できる範囲を、原則10里(約4Okm)と定めていました。横浜開港場においては、西の限界は酒匂川東岸とされていましたが、綿密な測量に基づくものではなかったため、内務省地理寮が1876年(明治9年)から翌年にかけて横浜小田原間で三角測量を行い、測量原点となる標石を埋設しました。この標石は当時のもので、測量の結果、現在の国道1号線吾妻山入口付近が10里と確認されました。 二宮町」※標石はここに埋まっていますが、標石の劣化を防ぐため、現物を見ることはできません。写真はネットから。赤い実?のなった樹とのコラボ。移動して菜の花も。ズームして。マユミの実ではなかろうか。大山とのコラボ。丹沢の山々と。相模湾とのコラボ。光る海・相模湾を〆に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.08
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そして「蒲郡クラシックホテル」の展示コーナーへ。「蒲郡クラシックホテル」の建物の内部装飾の案内。左にエレベーターの階数表示、その隣に1階宴会場「桜の間」にあるシャンデリア と。「塔屋(とうや)建物の屋上から突き出した部分。元々は展望室(現在は非公開)で、天守閣とも呼ばれています。図面上は5階になり、4階はエレベーターの動力室になっています。」「千鳥破風(ちどりはふ)屋根の斜面に設けた小さな三角形の造形のこと。」「唐破風(からはふ)中央部を弓の様な曲線で丸味をつけた屋根の造形のこと。」「ホテル館内は、洋風に仕上げられていますが、2階と3階の階段協には館内て唯一の和風の箘所として、畳を敷いた2畳ほどの小さな和風スペースがあります。この空問は、どのような目的で設けられ、どのように使われていたのてしようか?ホテルの歴史や意図を感じさせる、この不思議な和のスペースの使われ方を探ります。」「ボーイコーターとは?長い間「コーター」という言葉については、調べても明確な意味が見つかリませんでした。しかし、古いパンフレット(英語版・日本語版)を調べていると、この畳のスペースには文字の記載はないものの、通路を挟んだ小部屋(ピンク色で示した部分)に(BOYS QUARTER)や「ボーイ室」と記載されていました。※この部屋は現在存在しません。日本語の表記が右から左なので恐らく戦前のものであり、掲載されている地図の内容から昭和初期(開業当時)のものと考えられます。「コーター」は「QUARTER(クォーター)」の昔の発音なのでしょうか?「QUARTER」の意味を辞書で調べると、「場所、宿舎、部屋、部署、持ち場」などがあり、これにより「ボーイの詰所」としての用途が明らかになりました。昭和30年代の従業員の証言などには、「火鉢があり待合室のようだった」「女性従業員がここでお出迎えをしていた」「客室係がお茶を点てて到着した客をもてなした」とあります。これらはこの場所の過去の利用状況を示す貴重な証言です。」「屋根の色の違いについて左:白っぽく見える方が、オリジナルの銅板葺きの屋根です。右:濃い色の屋根は、蒲郡プリンスホテル時代に竜巻で屋根が破損した際に銅板以外の建材で 葺き替えられたものです。下部に屋根裏の建築構造写真。「景観重要建造物蒲郡クラシックホテル指定番号 第1号令和4年2月25日指定蒲郡市」「登録有形文化財第23-0668-0571号この建物は貴重な国民的財産です文化庁」。「工レベーターの階数表示板は蒲郡ホテル時代からの物を使用しています。現在のエレベーター本体は、プリンスホテルの開業時に取り替えられたものです。蒲郡ホテル時代のエレベーターは、運転手による手動式で、蛇腹方式扉の開閉や昇降を従業員が操作していました。エレベーターを正確にその階に止めるのは難しく、地下に止める際に失敗すると4階(天守閣のすぐ下の機械室)の電源を入れ直さなければならないこともありました。なぜエレベーターに雷紋が?現在のカゴ上部には雷紋の装飾があります。なせプリンスホテルは雷紋の装飾を施したのでしようか?蒲郡ホテルのエレベーターには雷紋の装飾が施されていました。古い写真や調査によると、雷紋はカゴ内の換気用グリルの装飾でした。おそらく、エレベーターる取り換える際に、元のデザインを模様として再現したものと思われます。」「映画とドラマの舞台 蒲郡クラシックホテル「蒲郡ホテル※現蒲郡クラシックホテル」は、戦前から現代まで多くの映画やテレビドラマのロケ地として使用されています。壮麗な建築と歴史ある風景が多くの作品で登場し、その魅力を伝えています。映画やドラマに登場するスポットを巡り、特別な時問をお楽しみください。」「子安弘法大師抱いている子どもは七代 滝富夫氏がモデル。」と。「蒲郡開発の祖 藤原俊成」のコーナー。「藤原俊成卿銅像と歌碑竹島の対岸・俊成苑内には、平成3年に建立された藤原俊成卿銅像がある。高さ2.8メートル、プロンズ製、文化勲章受章者・富永直樹氏の制作による。台座の「藤原俊成卿御詠」銘板は、冷泉布美子氏の筆による。岩間もる 玉かげの井の すゝしきに 千歳の秋を 松風のふく世の中よ 道こそなけれ思ひ入る 山のおくにも 鹿ぞなくなるどちらも『長秋詠藻』からとられた歌で、前者は俊成が52歳の時に大嘗会を寿いで詠んだ歌、後者は俊成の子・定家が編さんした「小倉百人一首」にも撰ばれている。このほか、市内には俊成の歌碑が2基ある。「ものあはれ」歌碑(平成5年建立) 八百富神社遥拝所玉垣内側何となく ものあはれにも みゆるかな 霞や旅の こゝろなるらむ 俊成のうた「浦つたふ」歌碑(平成11年建立)特別養護老人ホーム形原眺海園浦ったふ 磯の苫屋のかち枕 聞もならはぬ 波の音かな」先程訪ねた「藤原俊成卿像」。「藤原俊成と竹島『三河国名所図会』の「竹島弁天社」の項目には、昔俊成が江州(ごうしゅう・滋賀県)竹生島の竹を移植したから竹島という、と記されている。竹島弁天社は、現在の八百富神社の前身であり、養和元年(1181)の創建と伝えられている。江戸時代の享保20年(1735)に「八百富神」の御神号を賜った。境内には、八百富神社のほかに、宇賀神社・八大龍神社・大黒神社・千歳神社が祀られている。藤原俊成は千歳神社の祭神であり、昭和6年10月28日に鎮座の儀式が行われた折には、俊成を先祖とする冷泉家・入江家の当主らを招き、おごそかな歌会も行われた。」「竹島」、「竹島橋」。竹本油脂本社の一角に立っている「凉みが杜」碑。「藤原俊成伝承地 凉みが杜平安時代後期、久安元年から久安五年(一一四五~一一四九)まで、三河の国司をつとめた藤原俊成は、海に面した温暖な景勝地の竹谷・蒲形地区(現在の蒲郡市)を大変好み、開発に尽力したといわれている。俊成が当地で詠んだと言い伝えられる歌に、大島や 小島がさきの ほとけ島 すすめの森に 恋の松原という歌がある。かつて、このあたりには清水の湧き出る小さな池があり、その周囲は小高い丘の森になっていて、そこにはスズメが群れをなして棲みつき、俊成は夏の猛暑をその森で涼んだという伝説がある。以後、その丘は、「雀ケ森」「涼みが杜」と永く呼ばれて伝承されていた。この石碑は、昭利初期、蒲郡の観光事業の発展を目指した有志の集いであった「保勝会」が、竹本油脂株式会社の協力で冷泉為系氏(藤原俊成家系ニ十三代)の揮毫によりこの付近に建立したものを、平成七年の当地周辺整備により移設再建したものである。 平成七年三月」「藤原俊成と蒲郡藤原俊成は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の中で、三河国の竹谷・蒲形庄(地区)を開発したと記されている人物である。優れた歌人であり、第7番目の勅撰和歌集である『千載和歌集』の撰者をつとめた。俊成から歌を学んでいた平忠度が、平家一門が都から落ちのびる際に、師匠の屋敷を訪れて自分で詠んだ歌を書きつけた巻物を託し、後年俊成がその中から『千載和歌集』に「詠み人知らず」として採りあげた逸話が「平家物語』や能『忠度』によって広く知られている。小倉百人一首で有名な藤原定家の父である。俊成は、今からおよ900年前、平安時代後期の久安元年(1145)12月に三河国国司(現在でいう県知事)に任命された。以後、久安5年(1149) 4月に丹後守を任じられるまで3年5ヶ月間つとめた。これは俊成が「顕広」と名のっていた32歳から36歳の時にあたる。俊成が両庄を開発したという話は、江戸時代後期に著された『三河国名所図会』という書物にも紹介されている。『吾妻鏡』の記事を引用しており、「俊成卿屋數跡」「恋の松原」「雀の森」などの項目が立てられている。恋の松原を描いた挿絵の傍らに大島や 小松がさきの ほとけ島 あわずか森に 恋の松原 俊成卿歌と云ふと記されている。蒲郡駅南の「港町3番」交差点、竹本油脂本社の一角には、「凉みが杜」碑が建てられている。「すずめのもり」「すずみがもり」いずれの響きからも、緑豊かな当時の光景が偲ばれる。」「藤原俊成」。「藤原俊成 略年表永久2年(1114) 中納言藤原俊忠の子として生まれる 親家と名づけられる保安4年(1123) 父が他界 姉の夫であった葉室顕頼の猶子(兄弟の子)となり、 名前を顕広と改めたのはこの頃だといわれている久安元年(1145) 12月三河国国司に任じられる 久安5年(1149)4月までつとめる応保2年(1162) 二男定家が誕生 仁安2年(1167) 正三位に叙せられる 本家に復して俊成と改名安元2年(1176) 出家し、法名を釈阿と名のる 養和元年(1181) (竹島弁財天創建と伝えられている) 文治4年(1188) 『千載和歌集』を奏覧する元久元年(1204) 11月30日没 91歳 臨済宗総本山東福寺(京都市)の塔頭・正覚庵から およそ400メートル南下した地に墓所がある」「常盤館」。そして見事な「透かし彫り欄間」の彫刻を追う。「十二支透彫額(じゅうにしすかしぼりがく)」と。「十二支透彫額 (じゅうにしすかしぼりがく) 裏面墨書:名古屋市西区木挽町七 彫刻師 小澤岩七郎 昭和十一年四月 三枚ノ内 旧蒲郡ホテル六角堂軒下にかけられていた」と。旧蒲郡ホテル 聚美堂(現:六角堂)の軒下にかけられていたとされていて、それぞれ十二支をかたどっています と。様々な展示品が所狭しと。手前のガラスケースの中には蒲郡を舞台にした作品の原稿が展示されていた。全国にその名をとどろかせた「蒲郡の常磐館」、そして蒲郡の海や竹島の素朴な美しさは大正から昭和にかけて多くの文人たちに愛され、その作品の中に幾度となく登場した。そのような蒲郡が登場する作品の数々が展示されていた。蒲郡ホテルの「上棟式棟札」、「奉納 天照皇太神宮 御札」他。「聚美堂棟札」。裏面に「昭和十一年」と記されていると。「蒲郡・竹島・常磐館・蒲郡ホテルに関わる主な文学作品および文人」池波正太郎 「よい匂いのする一夜」 庄野潤三 「三河大島」井上靖 「ある落日」 高浜虚子尾崎士郎 「人生劇場 青春編」 立原正秋 「船の旅」賀川豊彦 「一粒の麦」 谷崎潤一郎 「細雪」武田泰淳 「新・東海道五十三次」 南條範夫 「おれの夢は」川端康成 「驢馬に乗る妻」 廣津和郎 「師崎行」 「旅への誘い」 三島由紀夫 「宴のあと」菊池寛 「火華」 宮城谷昌光 「秋浦」佐々木味津三「蒲郡海岸」 山本有三 「無事の人」志賀直哉 書簡 与謝野晶子「蒲郡市制70周年記念「愛し 愛され 蒲郡」宮城谷昌光 講演会テーマ 蒲郡と文学 ~ 小説家から見た蒲郡 ~日時 令和6年11月30日(土) 開演 13:30 (開場 12:45)場所 蒲郡市民会館 大ホール定員 1,000名 聴講無料ポスターの下にはこの地を愛した文豪の名が紹介されていた。この地を最も早く作品内に取り上げた菊池寛を始め、志賀直哉、谷崎潤一郎、山本有三、川端康成、井上靖、三島由紀夫などの作家や文化人が滞在し作品やエピソードを残した。」その下には、各文人の案内板が並んでいた。左から「菊池寛」、「高浜虚子」、「志賀直哉」、「谷崎潤一郎」、「山本有三」、「賀川豊彦」、「川端康成」、「井上馨」。「志賀直哉」。「川端康成」。「井上馨」。天井の灯りも歴史を感じるのであった。ズームして。1934(昭和9)年11月に開催された日米野球の際の部屋割り表。「米國野球團御部屋割表」。接写して。一番上に「ジョウジ、エッチ、ルース様及夫人様」とあり、その下には「ジュリア、ルース嬢様」とある。米軍選抜チームが「蒲郡ホテル」、日本チームは「常磐館」に宿泊した。べーブ・ルースが監督より上等な部屋に泊まったことがわかります。さらに、よく見るとジョージ・H・ルースと、ベーブ・ルースの本名が書かれている!!本名は「ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア」だが、童顔だったことから赤ん坊を指す「ベーブ」や「バンビーノ」の愛称で呼ばれるようになったことを初めて知ったのであった。聚美堂(現六角堂)裏の池の橋で撮影されたべーブ・ルース夫妻の写真。下記はネットから「~ 1934年の日米野球~1934年にルース、ゲーリッグなどが来日した日米野球は、18試合が行われました。当時の読売新聞を見ると、”超満員の大観衆酔ふ! ”など盛況ぶりを表す言葉が目に付きます。神宮球場の入場券が指定席(ネット裏) 4円、内野券1円50銭、外野席50銭とあり、昭和12年頃の公務員の初任給が75円だったことから、高価な入場券であったと考えられます。それでも観客数の合計が45万人以上((Spalding OfficiaI Base Ball Guide 1935年」より)になったことから、大変な人気だったことがうかがえます。その人気振りから日本にもプロ野球をという気運が高まり、この時の全日本チームを母体に大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)が誕生し、今年で70年を迎えます。図書室ではこれらの資料のほかに、「野球界」など当時の雑誌も閲覧できますので、ぜひご利用下さい。」11月20日 静岡、11月22、23日 名古屋で開催されているので、移動日の11月21日に「常盤館」に宿泊したのであろうか。「昭和9年(1934年) 2月22日に挙行された落成祝賀会を伝える新聞 豊橋市図書館所蔵」「蒲郡観光ホテル竣工 けふ盛大な披露宴」。「聚美堂が建っていない、開業当初の頃の写真かと思われる。※聚美堂:現六角堂、昭和11年(1936)2月上棟、竣工時期は不明。」「蒲郡観光ホテル」の歴史年表👈️リンク。「時手紙」は、書いた手紙を指定された年月まで海辺の文学記念館で預かり、希望の宛先へ送るもの。2か月から10年後の未来に向けて送ることが出来るのだと。自分自身や大切な人に思い出やメッセージを送ることが出来ると。2001年(平成13年)から始まったこのサービスは20年以上がたち、現在は次々と手紙が送り届けられているのだと。美しい生花。復元された「常盤館の座敷」。三河湾国定公園の竹島に渡る竹島橋のすぐ近くにあったこの海辺の文学館。この建物自体は1977年に建てられたものだが、1912年に滝信四郎氏により竹島海岸に建てられた料理旅館「常磐館」再現したもの。竹島の対岸に建てられたこの料亭旅館「常盤館」からの眺めを多くの文人が楽しんだと。館内の売店。「写真で紹介「竹島」巡回マップ」。「竹島」を訪ねる前に、この「海辺の文学記念館」をまず訪ねるべきであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.08
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そして、「吾妻山」頂上・「吾妻山公園」の「芝生広場」に到着。入口から約20分であっただろうか。雲一つない快晴。人の数も少なく。「早起きは三文の徳」とはこのこと。宋の時代の中国からのことわざではあるが。早朝でもあり、外国の方々の姿はなかった。さすがに、SNSではこの「吾妻山」の情報は拡散されていないのであろうか!?光る海・相模湾。芝生広場の「エノキ」も存在感を!!そして展望台の先に富士山の勇姿が現れた。「吾妻山 標高 一三六・ニm」と。正面に一面の菜の花畑。展望台に到着。富士山と菜の花のコラボの撮影は後程とし、まずは丹沢山塊、富士山、箱根の山々、そして真鶴半島、伊豆半島をカメラで追う。円形の展望台の中央にも円形の案内表示が。近づいて。東西南北が解る関東地区の地図に中に現在地を表示。正面に見事な富士山の勇姿。パノラマ撮影、富士山の左側。パノラマ撮影、富士山の右側。後に訪ねた管理棟で頂いた「吾妻山公園山頂からの眺望」絵図の載ったパンフレットから。山の名の案内写真がここ展望台にも。丹沢山地の方向。近づいて。上記の写真案内板を見ながら。右から、大山、ヤビツ峠、岳ノ台をズームして撮影。大山をズームして。山頂付近は雪が残っていたが、いつの積雪か?案内写真に近づいて。右からヤビツ峠、塔の台、二ノ塔、三ノ塔、鳥尾山、丹沢山(奥)、塔の岳右から、鍋割山、檜洞丸、同角ノ頭、檜岳をズームして撮影。丹沢山、塔の岳、鍋割山をズームして。。鍋割山、檜洞丸をズームして。富士山、箱根の山々の案内写真。近づいて。今年は富士山の積雪が少ない。ジワジワとズームして。手前のお椀のような山は矢倉岳(870m)。矢倉岳は標高870mと低山ながら頂上では富士山の大パノラマが楽しめる、親子でも登れる人気の山だが、実は世界的にも珍しい地球活動の遺産が潜んだ山であると。貫入マグマが地下で冷え固まったもの(=深成岩)が隆起と浸食によって地表に現れ、海底から高さ870mまで隆起。その地表に出現するまでのわずか115万年というスピードが世界的に見ても珍しく「世界最速級」である と。115万年が〝わずか〟…地球を語るダイナミックな時間感覚。左に「宝永山」。山頂右手にはジグザグの下山道・吉田ルートも確認できた。ここまでが我がデジカメの限界。右のとがった山が箱根の金時山、その左に、明神ヶ岳。金時山をズームして。金時山は粘性の高い金時山溶岩から構成されており、他の古期外輪山と比べると山頂付近の傾斜が非常に急で、遠くから見るとひときわ高い峰が天を突いているように見える。この姿が、顔から急に突き出たイノシシの鼻のように見えるため、かつては猪鼻嶽(いのはなだけ)や猪鼻ヶ嶽(いのはながたけ)と呼ばれていた。江戸時代になると、坂田金時(坂田公時とも)の故郷が足柄山であるとした「金太郎伝説」ができ、この頃から金時山(別表記:公時山、きんときやま)と呼ばれるようになった。その後、1900年(明治33年)に童謡「金太郎」がつくられ、広く知れ渡るようになった と。右から神山、駒ケ岳、二子山、白銀山。神山は神奈川県足柄下郡箱根町にある標高1,438mの山で、箱根山の最高峰である。古くから神の山として崇められてきたことからこの名がついた。神山、駒ケ岳をズームして。箱根駒ヶ岳は、箱根山の中央火口丘のひとつの峰で、神奈川県箱根町にあり、標高は1,356メートル。頂上は草地で見晴らしがよく、箱根園から全長約1,800メートルの箱根駒ヶ岳ロープウェーで頂上部分まで登ることができる。頂上には、箱根神社の奥宮に当たる「箱根元宮(はこねもとつみや)」(1964年建立)がある。二子山、真鶴半島、伊豆半島方面の案内図。右側に近づいて。二子山(ふたごやま)をズームして。右:上二子山、左:下二子山。二子山は箱根火山のカルデラ内の南東側に位置し、約5,000年前の噴火で形成された溶岩ドームである。箱根駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘を構成する。その名のとおり、双生児のように二つの峰が並んでおり、北側が上二子山1,099m、南側が下二子山1,065mとなる。上二子山の山頂部には、NTT東日本やNTTドコモの二子山無線中継所があり、箱根の西側にある鞍掛山無線中継所とともに、東京方面と東海地方を結ぶ無線中継網の重要な拠点となっている。正月の箱根駅伝の際などは二子山無線中継所がTV放送の拠点となり、毎年紹介されている。現在は自然保護のため、一般の入山は禁止されている と。大観山とその下に国府津、鴨宮、小田原の街並み。大きな白き高層マンションは、国府津駅の手前にある地下1階、地上14階建の「ダイヤモンドライフ湘南」。建物最上階には温泉展望大浴場があり、ゆっくりと温泉に浸かりながら、相模湾を一望できる。 目の前の国道は、箱根駅伝のコースとなっている と。大観山👈️リンク をズームして。小田原市街をズームして。小田原城の姿も確認できた。さらにズームして小田原城を。山頂展望台にあった無料の望遠鏡からも。真鶴半島、伊豆半島 案内図。大観山、小田原城カントリークラブ。神奈川県小田原市から伊豆半島東海岸を経由して、静岡県下田市至る一般国道である国道135号の姿も確認できた。案内板をズームして。伊豆半島の天城山、そして手前に真鶴半島そして三ツ石の姿が。三ツ石をズームして。伊豆半島の大室山、小室山、石廊崎、そして手前に初島。残念がら大島の姿は見えなかった。こちらは2022年の時の大島の姿が見えた写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.07
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「八百富神社 篠津遥拝所」を海側から見る。八百富神社の創建は養和元年(1181)には藤原俊成が、竹生島から市杵島比売命(弁財天)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。遥拝所の創建は不詳ですが八百富神社が浜辺から約400m先の竹島に鎮座していたことから、当時、一般的に参拝に訪れのは困難とされ対岸で竹島の参道の対面に当たる篠津に遥拝施設が必要になったと思われます。宝永2年(1705)に旱魃による大飢饉が発生すると当時の領主松平義尭が雨乞い祈願を篠津遥拝所で行い、見事念願成就したことから和歌の奉納と元文3年(1738)には石鳥居を寄進し、その後、松平守惇は遥拝所の造営を行っています。建物は屋根と柱と遥拝所のみの構成で壁が無い為、正面に竹島を望む事が出来ます と。右側には石鳥居、扁額には「八百富神社」と。境内のクロマツが生い茂る下に各種の「案内板」が並んでいた。左から「八百富神社由緒略記神社名 正しくは八百富神社(やおとみじんじゃ) 通俗には竹島弁財天と申します。祭神 市杵島姫命(いちきじまひめのみこと)」由緒 当神社は養和元年三月十八日藤原俊成卿がこの地方開発のため、江州竹生島から 勧請奉斉されたのであります。 徳川家康公は当社の参拝せられ朱印四石八斗を寄進せられました。領主松平氏の崇敬は、 累代鄭重をきわめ鳥居其の他数々の品を奉納されました。祭日 例祭 十月第三土、日曜日 月次祭 毎月十八日境内神社 宇賀神社 祭神 宇賀御魂神 商売繁盛の神 大黒神社 祭神 大国主命 福の神 千歳神社 祭神 藤原俊成卿 長寿芸能の神 八大龍神社 祭神 豊玉彦命 厄除神竹島は総面積一八八〇〇平方米(五八〇〇坪)、島高二四米、周囲六八〇米、架けられた橋は、三八七、三米、うつ蒼たる林叢は暖地性植物二百余種が茂り為に文部省より天然記念物に指定せられ、農林省よりは魚類を集めるに必要だとのことで魚つき保安林に指定されております。」「篠津遥拝所 石の鳥居由来記宝永二年(一七〇五年)の水飢饉の折、西の郡(蒲郡市)の領主、松平義堯は篠津遥拝所(竹島八百富神社遥拝所)で雨乞いの祈願をしました。その甲斐あって恵みの雨が振り豊作となりました。義堯は、敬神感謝の念あつく和歌を奉納しました。 奉納和歌一首『ゆふたす起(き) 可(か)けてそた能(の)む ふる雨者(は) あま禰(ね)く三津(みつ)る 神乃(の)めく見越(みを) 義堯 』【ふゆたすき かけてそたのむ ふる雨は あまねくみつる 神のめくみを 義堯】「冬の襷(たすき)をかけて、あなた(神様)に祈りを捧げます。この降る雨が、すべての 場所に恵みをもたらす神様のご加護であるように。」また後年、元文三年(一七三八年)石の鳥居を寄進しました。われら厄年にあたり、この由緒ある石の鳥居に謹んで額(竹生島神社名誉宮司生嶋竹雄書)を奉納いたします。平成二年七月吉日 竹島丑寅会 昭和二十四年・二十五年 生 」。「竹島弁財天八百富神社の御祭神は天照大神の神子天真名井の三女神の一神、市杵島姫命である。この市杵島姫命は弁天さまとして人々に親しまれていて、当社も古くから竹島弁天の名で有名である。社宝の「弁財天十五童子画像」は室町時代の作であり、また、元文元年当地の領主松平氏の家臣小田藤太夫の著した竹島縁起に「八百富神社と申し奉るは、皇太后太夫藤原俊成卿江州竹生島弁財天勧請也」とあり、その歴史の古さを物語っている。この竹島弁財天さまは全国的にその名を知られ、日本七弁天の一つである。近郷では三河三弁天の一つでもあり、参詣の人々の多いことで知られている。 平成三年五月吉日 竹島寅卯会 昭和ニ十五・ニ十六年 生」冷泉為系(ためつぎ)伯御歌『竹志まの 緑久し く茂らなむ 宇ゑにしひとの 其の名もろとも』昭和六年十月二十八日、千歳神社鎮座祭式典の祭主 冷泉家二十ニ代当主、冷泉為系伯の御詠歌」「竹島の、青々とした緑が長く茂り続けてほしい。そのように、この地に縁のある人々の名前も共に、末永く伝えられてほしい。」と。平成五年十月吉日に竹島辰巳会(昭和二十七・二十八年生)が厄年を記念して建立したもの と。「藤原俊成の歌碑」がここにも。『何となく ものあはれにも みゆるかな 霞や旅の こころなるらん 俊成』蒲郡ゆかりの藤原俊成の歌は「羇中霞」という題の詠作で、「ものあはれ」は王朝時代、四季の移ろいと男女の仲、その他広くさまざまな情感を表現する言葉であった。「何となくしみじみとした趣が感じられるよ春霞のかゝった朧朧とした風景はまさに旅の情趣の極みであるなあ」と優艶に歌っている。 竹島巳午会」「八百富神社 篠津遥拝所」を廻り込んで山側から。扁額「八百富神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。賽銭箱、その先に御幣が3本。紙垂を木製の棒に挟んだ祓い具・ご神体。「五七桐紋」は、桐の葉3枚の上に、左右に5つ、中央に7つの桐の花を配したもの。「八百富神社」のご神体は竹島全体とされ、主祭神は「竹島弁財天」こと市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。五七桐紋が使われる理由は以下の可能性があるのだと■豊臣家との関係 豊臣秀吉が五七桐紋を好んで使用していたため、その影響を受けた 神社や寺院が紋を採用した例が多く見られます。竹島周辺は古来、海運や漁業で栄えた 地であり、秀吉がその地の守護神として八百富神社を崇敬した可能性もあります。■弁財天信仰 八百富神社の祭神である市杵島姫命は弁財天と習合しています。弁財天信仰は 繁栄や財運、芸術を司る神として広まり、その象徴として五七桐紋が採用された可能性が あります。■公的な地位の象徴 五七桐紋は朝廷や幕府とも関連が深く、神社が地域社会や国家的行事で 重要な役割を果たす場合、この紋が用いられることがあります。八百富神社が地域の重要な 信仰の拠点であったことを示しているとも考えられます と。こちらが「八百富神社 篠津遥拝所」の一の鳥居なのであろう。こちらは、裏山の上にある「御鍬神社(おくわじんじゃ)」の石鳥居。そして次に訪ねたのが「海辺の文学記念館」。竹島や三河大島を一望できる館内には、ノーベル文学賞を受賞した川端康成氏をはじめ、蒲郡市出身の直木賞作家・宮城谷昌光氏や、芥川賞作家・平野啓一郎氏の作品なども展示されていた。5年後、10年後の未来に向けて手紙を投函することができる「時手紙」も、静かな人気を集めているとのこと。県蒲郡市竹島町15−62。入口には「常盤苑(ときわえん)」と書かれていた。「海の眺めは蒲郡」と鉄道唱歌に歌われるほどの景勝地でもある蒲郡市の、特にシンボル的な存在である竹島とその周辺の海岸は、東海地方屈指の保養地として多くの人々に親しまれてきた。とりわけ、明治末期に竹島海岸に建てられた料理旅館「常磐館」からの眺めは格別なもので、大正・昭和期にわたり多くの文人たちに愛され、菊池寛をはじめ、志賀直哉、谷崎潤一郎、山本有三、川端康成、井上靖など錚々たる作家たちの作品の中で、常磐館や竹島、蒲郡の海の素朴な美しさが描写されてきた。「海辺の文学記念館」は、そんな常磐館の趣きを再現した文学歴史記念館である と。門に座ってるこの子供。指を咥えて素っ裸で遠くをみていて…哀愁が漂って来る?のであった。「海辺の文学記念館年中無休 入館無料営業時間 9:00~17:00」と。庭の植栽・松も美しく手入れされていた。「海辺の文学記念館」を正面から。「蒲郡クラシックホテル 90年の軌跡」が【第2展示室】にて開催中 と。「ごあいさつ2024年、蒲郡クラシックホテル本館は建築から90年を迚えます。名古屋の実業家、瀧信四郎氏が瀧家の別荘を基に1912年(明治45年)に料理旅館「常磐館」を間業しました。この常磐館はその後、瀧信四郎氏と当時の蒲郡町による海浜リゾート開発の中核となり、敷地内に多数の別館や付属施設を建てていきました。その中でも、1934年(昭和9年)建築の蒲郡ホテル(現 蒲郡クラシックホテル)は、日本政府の国際観光政策に則って新築された国際観光ホテルでした。第ニ次世界大戦中は陸軍病院として使用され、戦後は連合国軍の接收を受けました。接収解除後は、1980年まで蒲郡ホテルとして利用されました。その後、建物は一時閉鎖され、蒲郡市の所有となりましたが、蒲郡プリンスホテルを経て「蒲郡クラシックホテル」として営業され呪在に至っています。部分的な改修が施されているものの、竣工時の外観は維持され、2022年には国の「発録有形文化財」として認定されました。今回の展示は、ホテルの歴史を知っていただきたく、今年一年間展示をいたします。最後に、歴史資料・写真等を提供していただいた皆様や蒲郡クラシックホテルの歴史を探る会に深く感謝いたします。 海辺の文学記念館 スタッフー同」常磐館や蒲郡ホデル(現郡クラシックホテル)の開業、竹島橋や三谷の子安弘法大師像を寄付した「滝 信四郎氏之像」があった。「滝 信四郎氏之像」。明治中期に滝家が宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)の府相海岸に別荘を構えた。滝信四郎は別荘から見える三河湾の美しさに魅了され、隣接地の数千坪の土地を購入し、1912年(明治45年)には料理旅館の常磐館を創業した。当時の竹島は弁天の御開帳の時のみ木造の仮設橋が架けられていたが、1932年(昭和7年)には常設の竹島橋を建設して蒲郡町に寄付した。また、1934年(昭和9年)には多額の私財を投じて共楽館と蒲郡ホテル(現蒲郡クラシックホテル)を開業させた。1934年(昭和9年)には三谷海岸の裏山に子安弘法大師像の建立を発眼し、 5年後の1938年(昭和13年)春に開眼した と。常磐館オーナー「滝 信四郎氏之像」。「島崎藤村の詩「椰子の實」書 杏南 広中公彦名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月 舊の樹は生ひや茂れる 枝はなほ影をやなせる われもまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ 實をとりて胸にあつれば 新なり流離の憂 海の日の沈むを見れば 滾り落つ異郷の涙 思ひやる八重の潮々 いづれの日にか國に帰らん島崎藤村一詩 椰子の實を 杏南かく」。「滝 信四郎氏之像この銅像は、風光明媚な蒲郡をこよなく愛し、蒲郡の観光開発に多大な貢献をした、常磐館の創始者、滝信四郎氏の像である。名古屋で呉服商を営んでいた滝家の五代目当主となった信四郎氏は、先代から受け継いだ滝兵右衛門商店を大正元年(一九一二)に資本金五十万円で株式会社「滝兵商店」(現:タキヒョー株式会社)に改めた。同氏が手がけた事業を大別すると、観光関係と繊維関係に二分される。そのうち、蒲郡における主な事業は ・常磐館の開業 明治四十五年(一九一二) ・竹島橋を寄付 昭和七年(一九三二) ・共楽館の開業 昭和八年(一九三三) ・蒲郡ホテルの開業 昭和九年(一九三四) ・竹島館を寄付 昭和十二年(一九三七) ・子安弘法大師像を寄付 昭和十二年(一九三七) ・府相青年会への援助などで、同氏は多額の私財を投じて、蒲郡の観光の基礎を築いた。この像の建立は、蒲郡の観光開発の祖ともいえる滝信四郎氏の功績をたたえるとともに、常磐館が培ってきた歴史的・文化的価値を再評価しようとするものである。この「滝信四郎氏之像」が末永く市民に親しまれ、ふるさとの歴史や文化を大切にする心を養う礎となることを願うものである。 平成十二年五月二十八日 蒲郡市観光協会」奥の部屋に入る。「GHQ」時代の写真が展示されていた。「皇室」の方々のご訪問の写真。近づいて。「皇室蒲郡ホテル(現 蒲郡ラシックホテル)には、皇族の方々も宿泊されました.昭和30年(1955年) 3月30日 上皇様(皇太子時代)昭和31年(1957年) 10月 清宮貴子内親王昭和32年(1956年) 4月10日 昭和天皇皇后両陛下昭和28年(1953年)に上陸した台風13号によって大きな被害の出た蒲邵市の海岸復旧状況を視察昭和33年(1958年) 3月 義宮正仁親王昭和40年(1965年) 9月21日 皇太子明仁親王・同美智子妃行啓 ※第20回国体夏季大会ヨット競技会御臨場平成8年(1996年) 5月18日 高円宮憲仁親王陛下・久子妃礙下 トライアスロン・ワールド・カップ蒲郡大会御臨場 など皇族のための洋食器を、現在この「海辺の文学記念館」で展示しております。」竹島、竹島橋、木下恵介歌碑を描いた版画。「黄昏に 橋の灯ともりて なごみ見る 佐々木」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.07
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ニホンスイセンの群生地の中、ここにも「吾妻山公園案内図」が。近寄って。 寒咲き日本水仙(白・黄色/房咲)、フサザキスイセン。群生地をカメラで追う。ここにも「現在地ポイント」案内ボード。見上げて。「ヒノキ 檜ヒノキ科ヒノキ属分布=本州の福島県以西~四国 九州 葉裏の気孔線は白いY字形 樹皮は赤褐色でサワラより縦に幅広く裂け、はげる」と。「ツツジ園」が前方に見えた。ここから一方通行、左手に進む。こちらは真っ白なスイセン。純白のフサザキスイセンか?この赤い花はヤマツバキ?この先の路面にはウッドチップが敷かれ、足元がフワフワと。右手奥にあった「浅間神社」の案内板。「浅間神社(せんげんじんじゃ)祭神は木之花咲耶姫(このはなさくやひめ) 二宮町上町地区の祭神で、土地の人には、浅間さんとして親しまれ、本社は富士浅間神社です。 木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曾我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。 この時姉の二宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈っりました。 後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて、自分の住まいの前のこの山上に、浅間神社をまつったと言います。 平成十六年四月吉日 二宮町二宮・上町町内会」扁額「浅間神社」の石鳥居。近づいて。「浅間神社」の社殿には帰路にと。「浅間山は「あさま」と呼ぶのに、富士山の浅間神社はなぜ「せんげん」神社と言うのでしょうか? その疑問には、まず「あさま」の語源を調べてみることにしましょう。語源には色々な説がありますが、寺田寅彦博士の説が面白い。曰く:《「古語でアサマは火山を意味したのではないか」という。日本の火山の名称には「ア行音+サ行音(浅間、阿蘇、有珠、恐、恵山、雲仙、等)」という「音の類似」が多くある。》他には:《「アサマ」はアイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味から名付けられた。と言う説。》また南方説で:《マレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味するので、その言葉を火山である富士山にあてたとする説。》などなどです。いずれも「浅間(アサマ)」は古来「火山」を意味したようです。それでは「アサマ」がどうして「センゲン」と呼ばれるのか? これは、“元来、浅間は「アサマ」読みだが江戸時代に「センゲン」と読みならわされたようです。「仙元」とも書いたようで、「浅間嶺」にある浅間神社も以前は「仙元神社」とか言われていたとのことです。「センゲン」と呼び始めたのは鎌倉から江戸時代にかけて、中国文化の影響が大きく、熟語をむやみに「音読み」にしたためと言われています。山や地名だけでなく、学者や芸術家などもこぞって名前は支那くさい名をつけたからだといいます。そう思うと「アサマ」でも「センゲン」でもなんとなく納得が出来ますが、読みはやはり「訓読み」で「アサマ」の方が私は好きです。」とネットから。ツバキの花。「タチカンツバキツバキ科:属園芸品種 サザンカを母種とした寒椿の立性品種」と。さらに緩やかな坂・フワフワ路を進む。前方で三叉路に。左に行くと「吾妻神社」。昨年までは、以前のがけ崩れでこの路は青い土嚢袋が並び閉鎖されていた。これは、2022年の写真である。が、今年は復旧が完了し、開通していたのであった。前方に「ローラーすべり台」全長102メートル、傾斜約10度のローラーすべり台。相模湾を見下ろしながら、一気に下って行くのだと 。ここにもスイセンの群生地が。「吾妻山公園利用のご案内」。開園時間:午前8時30分から午後5時まで と。入口にゲート等の設置はなかったが、「吾妻山公園 休憩室」の隣の管理事務所に町の方が常駐している時間なのであろう。再び「吾妻山公園案内図」。★現在地はここ。あと100メートル近くで山頂に。「ローラーすべり台」のゴールを見る。ズームして。利用時間 午前9時 ~ 午後4時30分料金 無料ここにも菜の花が満開で。頂上の菜の花がますます楽しみになったのであった。最後の急な階段をラストスパート。このにもスイセンが所狭しと開花中。「管理棟」手前に設置されている遊具を見下ろす。「ローラー滑り台」の管理小屋が見えて来た。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.06
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「八百富神社」の左側奥にあったのが五つ目の「八大龍神社」。参道には「奉納 八大龍神社」の幟旗が参道に並ぶ。石鳥居を潜る。「八大龍神社」。「八大龍神社祭神 豊玉彦命(とよたまひめのみこと) 厄除の神」扁額「八大龍神社」。内陣。豊玉彦命は海の神様であり、綿津見国を主宰する豊玉姫命の御父神になります。『龍神略縁起』の記すところによれば、藤原俊成卿の夢で「この海底で年月が経過すること数百年に及んでいる。この島に社を建て私を祀るならば、永く守護をあたえよう」との託宣があり、その通りに海底に綱を入れさせたところ、龍神の御尊体が現れたという言い伝えがあります。雨乞いを始めとした霊験の著しい神様として多くの崇敬を集めています。「八大龍神社」の右側を奥に進む。前方に石碑が。「松百本 義勇軍 渡満記念」と刻まれた石碑が右手に。「龍神の松」と「龍神岬」碑。正面に波静かな「三河湾」が拡がっていた。さらに石段を下り岩場の方向に。ここが「龍神岬」。岩の上に立つ「常夜灯」。山の上に立つ「子安弘法大師」の姿を再び。「龍神岬」の先端に立つ石柱。廻り込んで。「八百富神社社叢」と。正面の島が「三河大島」。「三河大島」とは、三河湾にある三河湾国定公園内の島。全島が愛知県蒲郡市に属する。三河大島海水浴場があり、無人島ではあるが夏になると海水浴客などが訪れる。この島の近海に生息するナメクジウオが、国の天然記念物(大嶋ナメクジウオ生息地)に指定されている。南側には仏島と小島がある。遠くから見た形は、釈迦が仰向けに寝ている姿に見える事から、「寝釈迦」と呼ばれる。面積:21.6 ha周囲:4 km標高:44 m上空からの「三河大島」の写真をGoogle mapから。東側に「三河大島海水浴場」、南側には小島と仏島とがある。蒲郡観光汽船は蒲郡市の竹島桟橋と三河湾に浮かぶ三河大島を結んでいる。 7月~8月の夏季のみ海水浴客を定期運航で輸送するが、その他の期間は不定期の運航 と。蒲郡市西浦町・橋田鼻方向を望む。岩場へと下って来た石段を振り返る。「竹島遊歩道」案内板があった。竹島西側の岩場の遊歩道を「竹島橋」に向かって進む。太田鴻村の句碑。『岩めぐる 潮にしろき 身を沈む 鴻村』石碑裏側には「林苑二百五十号記念 昭和四十四年十一月三日建立林苑蒲郡支部代表者 近藤巨松 小田 近藤」と。太田鴻村は・明治36年6月2日 生~平成3年3月12日 没 88歳・豊川出身 ・俳句は臼田亜浪に師事 ・俳誌「林苑」主宰 と。ここ岩場の先端にも「常夜灯」。近づいて。「竹島橋」が一望できる場所まで進む。「竹島橋」の先に見えた「蒲郡クラシックホテル」をズームして。「蒲郡クラシックホテル」は、愛知県蒲郡市にある三河湾国定公園内の景勝地「竹島」の対岸、海沿いの標高30mほどの高台(鵜殿氏が築いた府相城址)に建つ、戦前に建てられたホテル。2017年(平成29年)に設立された「日本クラシックホテルの会」に加盟する九つのクラシックホテルの内の一つ。1912年(明治45年)創業の料理旅館「常磐館」の別館として、1934年(昭和9年)に建てられた「蒲郡ホテル」が前身である。鉄道省に設置された国際観光局が国際観光ホテル建設計画を発表した際に、全国から名乗りをあげた40の候補地の中から、横浜、雲仙、大津とともに選ばれた。島の全周に渡って「常夜灯」が設置されているようであった。「八百富神社社叢」下を進む。そして「竹島遊歩道」の散策を終え、「竹島橋」のふもとに戻る。「竹島」の周囲の岩場の遊歩道を半周以上歩いたのであった。ここにも「常夜灯」。奥には豊橋の湾岸工業地帯が望めた。再び「蒲郡クラシックホテル」をズームして。外観は破風造りを有する日本建築風であるが、内部は鉄筋コンクリート造の洋風で、一般客室33室、貴賓室、サンルーム、ダンスホール、展望室などの施設を有していた。ホテル本館が、経済産業省が認定する近代化産業遺産に認定、蒲郡市の景観重要建造物に指定されている。現在も敷地内に常磐館時代の建物が点在し、聚美堂(しゅうびどう、現在の六角堂)、梅別館(現在の料亭竹島)、茶寮 鶯宿亭にホテル本館を含めた4棟が国の登録有形文化財(建築物)に登録されている。庭園は、つつじの名所としても知られ、4月には「つつじまつり」が開かれる。春先の梅・河津桜に始まりソメイヨシノ・ツツジ・サツキと順に花が咲き、秋にはモミジの紅葉を見る事が出来る。蒲郡プリンスホテル時代には、フィギュアスケート選手小塚崇彦の父である小塚嗣彦が支配人を務めていた と。「竹島橋」を引き返す。静かな三河湾の水面に海鳥が羽根を休めていた。そして「竹島橋」を渡り終わると、この後に訪ねた「海辺の文学記念館」の案内板があった。奥にあったのが「木下恵介の歌碑」。木下恵介は大正元年生れの映画監督で、叙情的な美しい画面と心理描写を特徴とする。代表作は「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」「楢山節考」。折しも、碑面全体が影に隠れてしまっていたので、ネットから下記の写真1枚を。『竹島の 橋の長き が悲しくて 母の思い出 吾もその年 恵介』。「映画監督 木下恵介先生はかつて御母堂とこの橋を渡られた思い出をもつ。昭和五十五年この地に映画「父や母よ」のロケに来られ当時を偲び詠まれたもの。竹島橋の架け替えを記念しこの碑を建てる。 昭和六十二年四月 蒲郡市文化協会」「竹島橋」への入口を振り返る。旧竹島橋のハニワ像旧竹島橋の袂に取り付けられていたハニワ像 と。彫刻作家でニ科会会員の野水信の製作により、昭和29年6月1日に設置された。昭和59年、竹島橋の架替工事に伴い撤去され竹島園地の一角にあったが、平成18年、博物館敷地内に移された。そして現在はこの場所にさらに移設されたのであろうか?近づいて。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.06
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昨日・2025年2月4日(火)、テレビのニュースでJR二宮駅前にある吾妻山山頂の菜の花が満開となっていると。起床して、我が家の上空を見るとかなりの雲が、これでは富士山の勇姿は見ることが出来ないので翌日に延期しようかと。しかしネットで吾妻山山頂からのライブカメラにアクセスするとその画面には、雲一つない富士山の姿が。よって向かうことを決断し、7時過ぎに自宅を出発し、小田急、東海道線を利用してJR二宮駅に到着。時間は8時前。JR二宮駅ホームからの吾妻山第2展望台・休憩所下の植栽で形どった二宮町の町章を見る。ズームして。「JR二宮駅」改札口を振り返る。JR二宮駅の連絡歩道にはプランターに植えられた菜の花が並んでいた。近づいて。「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。2025.1.11(土)~2.16(日)まで開催されるとのこと。昨年は、2024.1.6(土)に訪ねたが、今年は約1ヶ月、満開が遅れているのであった。このポスターの如き姿が眼前に拡がっていてくれることを願いながら歩を進める。二宮駅北口へ。これから登る「吾妻山」を。JR東海道線の二宮駅北口に降りると西側に見えるのがこの「吾妻山」 。「二宮町は昔吾妻村と呼ばれていました。吾妻村は(明治22年町村制施行により一色村 、中里村 、二宮村 、山西村 、川匂村の五村が合併し 、新しい村が誕生しました。 県から 「村の名前は、もともと郷名が二宮庄 、氏神が二宮明神であるから 、二宮村でよかろう」と指令があったそうです。しかし 、「二宮村に編入するようで嫌だ」という理由からか、三日三晩協議しても村名は決まらなかったそうです。その時に「村のどこからでも見える吾妻山があるから吾妻村としてはどうか」と意見が出て 、吾妻村になったそうです。今でも二宮町内の至るところから吾妻山は見えます。」 とネットから。北口階段下にあった「にのみや guide map」。この日の目的地・吾妻山公園に近づいて。「吾妻山公園」の入口に向かって坂道を登る。途中、「吾妻山 菜の花 ウォッチング 歩行者」案内板が立っていた。「吾妻山公園 役場登り口➔直進」と。「歩道を歩いて役場登り口へ(横断する際は車に注意)➔横断」と。この場所には「横断歩道」が欲しいのであった。右手にあったのが「二宮町役場」の入口。帰路に立ち寄ってみようと。「(市章) 二宮町庁舎 長寿の里」と刻まれた銘板石。(市章)は「宮」を図案化したマークに図案化した「二」を配し、円型と翼型とにまとめ、融和団結と飛躍伸長を象徴するのだと。「二宮町観光協会は、このままさらに坂を登り、左側(山側)の建物です。※こちらの建物(二宮町役場)にはありません。」と丁寧な案内が。そして正面に「吾妻山公園 役場登り口」が現れた。近づいて。「吾妻山公園」と。「吾妻山公園鳥獣保護区区域図」案内板。「二宮町みどり基金ようこそ 吾妻山公園へ 頂上からの眺望をお楽しみ下さい。素晴らしい 自然環境を 将来へ 継承するために 「二宮町みどり基金」へご協力を お願いいたします 二宮町」と。その下には「募金箱」。そして正面に急な石段が始まっていた。「左側通行」と。手すりを使う人の多くは、利き手で支えたいと考えます。日本人は右利きが多いため、「右手で手すりを使う=左側通行が合理的」 という考え方からであろうか!?。「かながわ公園50選👈️リンク 吾妻山公園」と。「吾妻山公園 案内図」。これからの吾妻山山頂へのルート。そして標高136.2mの「芝生広場」、「菜の花畑」へと。「吾妻山の季節の花」案内。石段を一歩一歩!!右手にあったのが「軽食喫茶 なのはな」。「町民センター1階」にあるようだ。障がいがある人や生きづらさを抱える人々の働く場であり、居場所であり、地域住民の交流の場とのこと。早朝につき、開店は未だ。さらに息を切らせながらゆっくりと。そして再び長い急な石段が。昔は手摺がなかったが。途中の「踊り場」には椅子が二つ。これも今年初めて見た「現在地ポイント」表示パネル。「緊急時は上記のポイント番号を伝えてください」と。訪問者、住民への配慮が行き届いているのであった。さらに。ここからは石段ではなく、登り部分に丸太を模したコンクリートの横木を渡して、段を作った階段が始まった。蹴上(けあげ)・段差が微妙に変化し、やや登りにくいと我儘にも。ここまで約300段の階段で中間地点、ここからは坂道になる。そして右手奥にあった展望台に立ち寄る。ベンチに座り、暫しの間、眺望を楽しんだのであった。二宮町街と相模湾の眺望。光る海・相模湾。JR二宮駅。西湘二宮IC近くの松林をズームして。二宮町立二宮中学校の南側か?昨日は、微妙に見通しが悪く、我が市内の「江の島」の姿は確認できなかった。下の写真はこの場所からの「江の島」の姿。「江の島」の手前左側には茅ヶ崎「烏帽子岩」も確認できた。湘南を歌った歌の中に数多く登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」。 正式名称は「姥島(うばじま)」という。茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6m。近くには可憐な白い水仙の花が。中心部の黄色い花びらが印象的な「ヤエザキニホンズイセン(八重咲日本水仙)」か。写真のように、スイセンの中心部の副花冠の部分に花びらがついていた。花の大きさは、ニホンズイセンほどで、少し小さめ。全体は白ですが、花の中心部が、ラッパスイセンのような筒状ではなく、花びらでクシャクシャとしていますが、印象的で面白いスイセン。 ・・・つづく・・・
2025.02.05
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「竹島」島内に入り、「八百富神社」の参道を進む。「奉納 八百富神社」と書かれた幟旗が参道の、奉納者、金額が刻まれた玉垣前に並ぶ。二?の鳥居。狛犬(右)。狛犬(左)。さらに石段を上る。石段横の斜面には「蒲郡の名木50選31 八百富神社社叢 蒲郡市教育委員会」と。左手に「手水舎」、右手に「休憩所」、そして正面奥には「宇賀神社」が見えて来た。左手には「手水舎」「水盤」に近づいて。「水盤」には「浄水」と刻まれていた。「水吐龍」。さらにズームして。「国指定天然記念物八百富神社社叢竹島は、対岸から約四百メートルの海上に浮かぶ面積約一・九ヘクタールの小島である。基盤は花崗岩質で、表土は浅く、海岸は岩盤が露出して断崖をなしている島全体が八百富神社の境内であり、対岸とまったく異なる植物相が自然植生の状態で群生しており、東海地方では他に見られない代表的な暖帯林である昭和ニ十八年七月からのニ十数回の調査によってシダ植物、裸子植物、双子植物、単子葉植物等合計二百三十八種の高等植物が自生していることが判明している植物分布上特に注目すべきものに「キノクニスゲ」「カゴノキ」「サカキカズラ」などがある 昭和五年八月ニ十五日 指定 蒲郡市教育委員会」「宇賀神社」に詣る岡崎の旅友。扁額「宇賀神社」。「宇賀神社祭神 宇賀御魂神 商売繁昌の神」。「宇賀神社」の内陣。御祭神:宇迦之御魂神宇迦之御魂神は穀物の神様であり、『宇賀神王略縁起』には寿永三年から建久四年(1184~1193)当地方の三河守であった源範頼公が深く信仰した神霊と記されています。海嘯により流されてしまい一時期は郡内国府村(現在の豊川市国府町)で祀られていましたが、享保十年(1725)に国府村の住人と竹島の神主が同時に「竹島に帰りたい」という霊夢を見たことにより竹島にお還り頂くことになりました。この出来事が元となって現在でも国府村の人々の崇敬は続いています と。海嘯(かいしょう)とは、満潮時に河口に潮波が押し寄せてくる現象 と。そして「宇賀神社」の右奥にあったのが「宝物殿」👈️リンク。そして向かい合う「大黒神社(だいこくじんじゃ)」。こちらは商売繁盛や経営の神様 と。正面から。扁額「大黒神社」。「大黒神社」の内陣。御祭神: 大国主神大国主神は国土を平定し、土地を開拓し、庶民に農耕の道を教え、医薬や禁厭(まじない)の法を授けるなど、国土経営にお尽くしされた多くの功績と多様な御神徳をお持ちの神様です。また七福神の一柱である大黒天と習合し、福の神としても一般衆庶に広く仰がれております。当社においては『竹島参詣滑稽鄙栗毛』に神社名を見ることはできるものの、創建が何時の世であったのかは詳らかではありません と。そして正面に「八百富神社」の社殿。右手に「授与所」。窓口に近づいて。「大黒神社」の右隣、神馬の像の横にあったのが「千歳神社(ちとせじんじゃ)」「御祭神 藤原俊成卿 千歳神社」。「千歳神社 祭神 藤原俊成 長寿芸能の神」。「千歳神社」の社殿。藤原俊成(しゅんぜい)は権中納言藤原俊忠の子として永久二年(1114)に御誕生されました。和歌に秀でられ『千載和歌集』を撰じ、歌聖と呼ばれた藤原定家(ていか)の御父上にあたります。元久元年(1204)九十一歳で薨ぜられ、当時としては大変な長命でした。久安元年から同五年(1145~1149)当地方の三河守として竹谷蒲形の両庄の開発の任にあたられた際、風光明媚にして竹生島を髣髴とさせるこの竹島に、江州竹生島より弁財天を勧請されたことが八百富神社の起こりになります と。歌人である佐佐木信綱が、歌人藤原俊成ゆかりの竹島を訪れて詠んた歌碑が、藤原俊成卿が祀られる「千歳神社」の鳥居の左横にあった。佐佐木信綱 は明治5年 三重生~昭和38年没 91歳。明治から昭和期を代表する歌人で文学博士(国文学者)。その横に「カゴノキ」案内板。「歌人の 国の司の みたまこもり 千歳さかゆる これの竹島」『歌を詠む私が、地方を治める国司として、この竹島の神々の霊を大切に守り、その加護のもとで、この地が千年もの長きにわたって栄えるように祈ります。』の意と。「カゴノキ」は茨城県及び石川県以西の暖地に分布するクスノキの仲間。鹿の子供のような模様の幹を持つため「鹿子の木(かごのき)」と呼ばれると。歌碑の手前に「神馬」。「神馬」の後ろから「五重石塔」を見る。そしてこちらが「八百富神社」。「八百富神社(通俗 竹島弁天)」案内板と「八百富神社ご祈祷ご案内一、商売繁盛 一、学業成就 一、病気平癒一、初宮参り 一、家内安全 一、開運厄除一、縁結び 一、安産 一、交通安全 ご祈願受付中車輌ご祈願についてお知らせ以下・・・ 略 八百富神社」。「八百富神社(通俗 竹島弁天)祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 開運の神 縁結び安産の神」扁額「八百富神社」。狛犬(右)と豊臣秀吉の家紋「五七の桐」が画かれた提灯(右)。本殿の右手、狛犬の後ろにあったのが「元竹(もとだけ」。これは八百富神社を創建した藤原俊成が、琵琶湖の竹生島から持ち込んだ島唯一の人口植栽だと。狛犬(左)と豊臣秀吉の家紋「五七の桐」が画かれた提灯(左)。「八百富神社」の内陣。岡田耿陽の「夜光虫」の句碑。『漂へる もののかたちや 夜光蟲 耿陽』「水面に漂う夜光虫の姿が、ぼんやりとした不定形でありながらも、美しく印象的だ」という情景を詠んでいる と。この句には、自然の美しさや神秘に対する感動が込められている。耿陽はこの句を通して、自然の中に潜む小さな存在が生み出す美しさを繊細に描写し、それを俳句の短い形式で象徴的に表現しているのであった。岡田耿陽は、織物販売を生業としながら俳句を嗜(たしな)んでいたが、1926年(大正15)、知人の紹介で高浜虚子の門に入った。以来,商売の関係で上京するたびに虚子を訪ね、寝食を忘れるほどに俳句に熱中した。彼の句は、1927年(大正16)には早くも「ホトトギス」の巻頭を飾った。入選するだけでも難しいことであるのに、巻頭に掲載されるということは、新人にとって快挙であ った。虚子という良き師を得て感激した耿陽 は、一層努力精進を重ね、「日本に蒲郡あり、 蒲郡に耿陽あり」と名を高め、50余年にわたって東三河のホトトギス系を支えた。1942年(昭和17)から昭和53年まで俳誌「竹島」発行 とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.05
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この日は2024年11月29日(金)、「小牧山城跡・明治村・香嵐渓への2泊3日の旅」の3日目・最終日。ホテルを7時に出発し、帰路へ。この日は、三河湾に出て海岸線を御前崎灯台までひたすら走り、途中「竹島」周辺、「浜松まつり会館」、「御前埼灯台」等に立ち寄ることにしたのであった。2泊した「ホテルリブマックス岡崎」。正面から見上げて。そして、この旅で活躍してくれた、先輩の愛車。この日は、岡崎にお住まいの15年以上の旅友・クマちゃんも御前崎灯台まで参加していただけるとのことで、岡崎市内にある「コメダ珈琲店 岡崎上和田店」にて合流。「コメダ珈琲店 岡崎上和田店」の店内。ゆで卵付きのモーニングを楽しみました。愛知県道293号・桜井岡崎線→愛知県道78号線・安城幸田線を利用して蒲郡市内に向けて進む。正面に「宮地山脈」。そして「三河湾国定公園 竹島園地」の駐車場に到着。愛知県蒲郡市竹島町31時間は9:35。オープンデッキを歩く。右手に「展望休憩所」、正面に「ホテル竹島」を見る。そしてデッキ下・竹島橋の袂(俊成苑)に建立されていた「藤原俊成卿像」。この後、下に降りて。移動してズーム。藤原俊成卿は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した歌人であり、『千載和歌集』の選者として知られている。息子藤原定家も、父同様、歌人として有名。名前は「としなり」とも「しゅんぜい」とも。大変長命な方で、元久元年(1204)に91歳で亡くなられた と。俊成卿が三河国司をつとめたのは、久安元年(1145)12月から同5年(1149)4月までの3年5カ月の期間であった。32歳から36歳までの間、藤原顕広と名乗っていたころ と。そして「竹島橋」入口に向かって移動。「竹島周辺観光案内図」。「ようこそ蒲郡へ」案内板。近づいて。「竹島竹島は、島全体が国の天際記物に指定されている蒲郡のシンボルです。竹島には5つの神社があります。開運・安産・縁結び・商売繁盛・経営・長寿・勉学・家内安全などの神がまつられており、5つの神社を全てお参りすると一度にたくさんの幸を得られるとも言われるパワースポットです。島の中央部には、日本七弁天のひとつである竹島弁天がまつられている「八百富神社」があります。竹島と陸を結ぶ竹島橋(387m)は縁結びの橋と呼ばれています。竹島の神社をお参りし、島の西側を周遊するコースの所要時間は約50分です。」竹島と陸を結ぶ竹島橋(387m)は縁結びの橋と。竹島入口の石鳥居。先程訪ねた「藤原俊成藤原俊成は三河守を務め、竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)を開発した平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。」「海辺の文学記念館ノーベル賞作家の川端康成をはじめ、日本の文人達に愛された、旅館「常磐館」の趣を再現した文学歴史記念館。←100m先入場無料 年中無休 9時~ 17時」芝生の石庭越しに「竹島橋」、「竹島」を見る。「竹島橋」入口を正面から。「竹島橋は縁結びの橋と呼ばれているので、相手と中央を開けない、渡りきるまで振り返らない…など気をつけて渡ってください。夫婦・カップルで訪れた際には、ぜひ仲良く手をつないで歩いてみてはいかがでしょうか。冬にはシベリアからユリカモメなどの渡り鳥が飛来し、心を和ませてくれます。」とネットから。「景観重要建造物竹島橋指定番号第2号令和4年2月25日指定蒲郡市」蒲郡市の地名は、「蒲(がま)」という植物に由来していると言われています。また、蒲郡市は、蒲形村と西之郡村という2つの村を合併して誕生した合成地名でもあります と。竹島と陸を結ぶ「竹島橋」は全長387m と。竹島は我が江ノ島と同様に「トンボロ現象」が発生するのだと。干潮時には浅瀬が海上に姿を現し、海岸から対岸の竹島へと歩いて渡ることができるとのこと。こうした現象を「トンボロ現象」と言うのだ。天童よしみの歌「珍島物語」👈️リンクで知られている韓国・珍島のトンボロなどが有名ですが、トンボロとはイタリア語で、「海を隔てた島が、沿岸流でできた砂州で結ばれた陸繋島(りくけいとう)」のこと。こちらは、昨年2024年5月26日(日)の我が江の島のトンボロ現象👈️リンクそして動画👈️リンクを見に行った時の写真です。こちらは、タウンニュースの写真。「竹島橋」を「竹島」に向かって歩く。昔は船で渡っていたのだ。昭和7年に名古屋の繊維問屋が自費で橋を架けて市に寄贈したことで参拝しやすくなったのだと。「ウミネコ」であっただろうか?この日は風もなく、波静かに。正面に島の入り口に立つ大きな石鳥居が見えて来た。竹島全体が神社の境内であると。扁額「八百富神社」。この烏居に掲げられている扁額は、初代は東郷平八郎元帥が奉納したものだったそうなのですが、太平洋洋戦争時の金属供出で無くなってしまったと。昭和六十三年、地元との方達が新たに奉納されたと。重さは190kgもあるのだと。この鳥居には『大正四年(1915)九月奉建』と刻まれていた。1915年、第一次大戦まっただ中の頃・船で行き来していた頃に寄贈・奉納されたようだ。よって海中に立つ石鳥居、干潮時の突貫工事であったのだろう。右手に「八百富神社」碑。石灯籠の先に「竹島弁財天」碑。「御由緒一 祭神 市杵島姫命 (弁財天)一 由緒 當神社ハ安徳天皇ノ養和元年三月十八日藤原俊成江州竹生島ヨリ勧請創立シ 奉レル所ニシテ古来竹島辨天ト称シ日本七辨天ノ一ツタリ 享保二十年神祇伯雅富王ハ八百富神ノ神號ヲ考ヘ賜リ同時ニ滋野井中納言ノ手ヲ 経テ禁中ノ御翠簾并菊御紋提灯ヲ奉納セラル 徳川家康ハ當社二参拝シ神領四石八斗ハ歴世ノ徳川将軍朱印状ヲ以テ寄セ奉レル所ナリ 領主松平家ノ崇敬ハ深厚ヲ極メ累代毎年ノ正月及江戸表ヘ出立并歸郷ノ際ハ金紋先箱二テ 列次ヲ整ヘ領主自ラ参拝シ例祭并毎月十八日二ハ必ス家士ヲシテ代参セシメタリ。 加ヘ第十代清當ハ天和三年石鳥居ヲ第八代清昌ノ女圓通院ハ御初尾ヲ奉リソノ夫 松平清行ハ寛文八年繒額ヲ奉納セリ。 第十一代義尭ハ寛永二年法華経ヲ獻シテ雨乞祈願ノ報賽ヲ輸シ元文三年ニハ遙拜所ニ 石鳥居ヲ建テ奉レリ。 第十三代義峯ハ明和九年石燈籠一對ヲソノ女ハ石鳥居ヲ獻シ第十四代守惇ハ當社禰宜ニ 命シテ竹島対岸二遙拜殿ヲ造ラシメタリ。 輓近二至リテハ各宮殿下ヲ始メ奉リ貴顯名士ノ参拜寶物ノ奉納等擧ケテ数ヘ難シ」振り返ってはいけないという「竹島橋」から「三谷弘法山 金剛寺」に立つ東洋一の大きさの「子安弘法大師」を振り返ってズームして。安産、子授かり、諸願成就の子安弘法大師像。像の背丈は空海の世寿が62歳であったことにあやかり、62尺(18.7m)、釈杖の長さは竹島の標高に合わせ22m、抱いている子供の丈が5m、耳たぶの大きさ1m、目の長さが1mと。弘法大師の近くには、ラバーズヒルがあり、三河湾の絶景や美しい夕日を眺めながら、永遠の愛を誓う鐘を鳴らすことができるとのこと。この日に同行した岡崎に住む旅友が下の写真を送ってくれました。最近、行かれたようです。お顔がやけに大きいような気がしますが。「八百富神社境内ご案内」「竹島橋」先の左側にあった石碑と案内板。「天然記念物 八百富神社社叢史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ昭和五年八月二十五日文部大臣指定」愛知県蒲郡市の三河湾に浮かぶ竹島に鎮座する八百富神社(通称:竹島弁天)の常緑広葉樹に覆われた緑豊かな社叢で、島全域の植物相が国の天然記念物に指定されている」と。「天然記念物 八百富神社々叢」。「天然記念物 八百富神社々叢説明蒲郡の海岸を距る僅に四〇〇メートルに過ぎざる竹島にあり暖地性樹種より成り對岸の陸地に於けるものと林相を異にするによりて著し注意一、土石を採収せざる事一、竹木草類の伐採並に栽植を為さざる事一、濫に工作物の建設をなさざる事一、其の他指定地域内の現状變更を為さざる事右犯す者は國法により處罰せらるべし昭和五年八月二十五日 文部省」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.04
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朱の「通用門」から「高月院」の総門に向かって進む。句碑「鶯の 達人鳴きと なりにけり 克郎」と。案内板。「鶯の達人鳴きとなりにけり 克郎 高橋克郎(本名 加藤・・・・) 平成十一年豊田市文化振興財団・ 文化功労賞受賞 平成十二年四月吉日 豊田市民俳句会建立」。句碑「笹子鳴く 高月院の 昼澄めり 芳雪」と。加藤芳雪氏の句碑 と。「笹子鳴く 高月院の 昼澄めり 芳雪 加藤芳雪 (本名 明治) 昭和五十六年豊田市文化協会より 文化功労賞受賞 昭和五十六年四月吉日 豊田市民俳句会建立」。二つの句碑を振り返る。シダレザクラが「山門」と「通用門」との間に。同じ場所から春の絶景をネットから再び。再び「山門」を見る。再び「総門・将軍門」方向に向かって。両脇に美しい漆喰の白土壁その上に屋根が。高月院に至る250m の遊歩道沿いの「室町塀」を望む。再び「山門」、「本堂」を振り返る。ズームして。「総門」を潜って振り返る。「倒木注意」と。総門、山門、本堂。そして「総門・将軍門」の先の石段を下って、「室町塀」の参道を下る。「イワブキ」の花に近づいて。「散策路←」案内板があったので「室町塀」の間から入る。「天下池」に向かって細い清流が。清流に沿って「散策路」が設けられていた。太鼓橋の先に高月院の参道、その先に工場の建物が。水田跡の如き空き地があった。あやめ恋路沿いのこの場所は、ここで天然氷を切り出していたという。「氷池跡氷造りは明治20年頃に始まり、昭和16年太平洋戦争開戦に伴う中止まで行われた。池に水を張り、一月から三月頃まで三回ほど氷を切り出していた。切り出した氷は山影の氷室に夏まで保存し、岡崎方面に出荷された。こうした氷池は真垣内と東宮口にも存在していた」と。冬場はここに水を張って氷を作っていたと。木道が上部に。「天下茶屋」を横から。そして「松平太郎左衛門親氏像」への路の太鼓橋、石柱が見えた。「髙月院」への参道との合流地点に。「松平東照宮」の濠、石垣を再び。「松平東照宮」を正面から再び。右手奥にあったのが「松平郷亭」。「松平郷亭」。内部。ここにも「徳川の始祖 松平氏発祥の地 豊田市松平郷」と。内部は無料トイレ・休憩所にもなっているようであった。「松平郷亭」を後にする。そして駐車場に戻る。ここにもトイレが。「松平の郷ウオーキングコース」案内板。奥にあったのが「松平郷ふるさとづくり委員会 松平郷多目的休憩所」と。「リサイクルの家」と。家庭から排出される古紙・古布・飲料缶・ペットボトル等の「資源」を回収し、一時保管する常設の拠点回収施設(ステーション)なのであろうか?車に戻り、この日の予定を完了し「松平郷入口駐車場」を出て、東岡崎駅前のホテルへの帰路に。県道341号線・岡崎足助線を利用してひたすら南下。途中「豊田東JCT」近くの「新東名高速道路」下を通過。そして、ホテルに到着し、前日の店の近くの店でこの日夕食・反省会を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.03
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次に訪ねたのが「本堂」左側の高台にあった「松平氏墓所」。「松平氏墓所 国指定文化財 (史跡) 国指定 平成一二年二月四日徳川家康(松平氏九代)の祖先である松平氏の墓所です。歴代住職の墓地より一段高い石垣上にあり、中央に松平氏の始祖である親氏の墓塔、右に二代泰親、左に四代親忠夫人の墓塔が配されています。墓塔は三基とも花崗岩製の宝篋印塔で、室町時代中期から後期のものと思われますが、いずれも一部が欠損しています。四代親忠夫人の墓があるのは、親忠の第四子超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)上人が高月院第七代住職(1575年入山)であるため、母を祖先の陵墓の地に葬ったものと思われます。墓域は五〇平方メートルあり、文政年間に一一代将軍徳川家斉、明治二三年に旧大和郡山城主柳沢保申(やすのぶ)がそれぞれ修築して現在に至っています。 豊田市教育委員会」石段方向に進む。上段から松平家霊廟、歴代住職、松平郷松平9代尚栄・10代重和など一族墓となっている と。石段を上がっていくと歴代住職の墓が右手に。「本松山高月院」の文字が。高月院は貞治6年(1367)松平太郎左衛門家の菩提寺として創建された浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。7代住職超誉存牛は松平4代親忠の第五子にあたり知恩院25世を退いてから高月院で隠居生活を送り天文18年(1549)入寂、のちに第121代孝明天皇より〝高顕真宗国師〟の国師号を賜ったという。その奥に塔身が卵形という特徴のある数々の無縫塔墓石が並ぶ。中央の墓石をズームして。私の理解を深めるために、松平一族の略系図を再び。正面にも歴史を感じさせる多くの墓石が並ぶ。松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地である と。左:「太郎左衛門中興の祖 松平太郎左衛門 第九代尚栄(なおよし) 慶応三年(一六五四)二月十四日没 八十四歳」右:「松平太郎左衛門 第十代重和(しげふさ) 寛文四年(一六六四)正月十五日没 五十八歳」墓石の戒名からすると、案内札が左右逆のような気がするが・・??「松平太郎左衛門 第十代重和 寛文四年(一六六四)正月十五日没 五十八歳」 源徳院殿善誉祐源・・・第九代尚栄(なおよし)の墓石。その右側の墓石。上段へと進む。石扉が開いていた。松平氏祖先の墓所歴代住職の墓地の一段高い石垣上にあり、墓域は50m2。室町時末期の形式を備える。墓塔は花崗岩製の宝篋印塔で、いずれも塔身や屋蓋の突起等が欠損している。文政元年(1818)に11代将軍徳川家斉(いえなり)が修繕。明治21年(1888)に元大和郡山藩主柳沢保申の500余円の寄進で石門と石塀を築造、木柵の玉垣を花崗岩の塀に改築した。明治23年(1890)3月にも保申は墓地永久保存のための土地を寄付した中央:松平太郎左衛門尉源親氏公墓(松平氏の始祖/ちかうじ)右 :従五位下三河目代三河守松平太郎左衛門尉源泰親(松平2代泰親/やすちか)左 :松平4代親忠正室・閑照院(松平5代長親の母) 閑照院の墓塔が併置されているのは、その子で第7代住職の超誉存牛が 実母を先祖の墓所に祀ろうとしたためと考えられている と。右 :2代泰親の墓石。戒名:「良祥院殿秀岸祐金大禅定門」と。 永享二庚戌年(1430)九月二十日逝去 年七十五中央:初代親氏の墓石。戒名:「芳樹院殿俊山徳翁大禅定門」 と。 應永元申戌年(1394)四月二十四日逝去 年六十三左 :松平4代親忠正室・閑照院戒名:「閑照院殿皎月珠光」大禅定尼 と。 永正三丙寅年(1507)八月二十二日逝去松平4代親忠正室・閑照院もこの位置に自分の墓石があることにビックリしているのであろう。下段に見えたのが、「松平郷松平9代尚栄・10代重和など一族墓」。下段に下りて。海軍大尉 正七位勲五等 近藤厚墓川住家先祖累代の墓。近藤家之墓。海軍少尉近藤鎌吉之墓。昭和十年十二月十日 没享年二十七才 と。満洲事変勃発が昭和6年であったが。夕日が境内に射し込んで。ここも庫裡であっただろうか。再び境内から「山門」越しに「参道」、「総門・将軍門」を見る。朱印所が前方に。石庭の先に庫裡?。十三重塔。ここにも建物の入口が。「本堂」を振り返って。朱の高麗門形式の「通用門」から「総門」方向を見る。右には春に美しく咲く「シダレザクラ」が。春に「通用門」を振り返ると、下の写真(ネットから)の如きシダレザクラの絶景が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.02
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そして石段の上左に「高月院」の「山門」が見えて来た。「高月院」にはこの門の下まで車で来ることができるのであったが。「国指定史跡 松平氏遺跡 高月院 平成8年3月 豊田市」と石碑には。1641年、家光公より寄進された「総門」・「将軍門」と。「法然上人三河二十五霊場 第一番 高月院」碑。山号を本松山、院号を高月院、寺号を寂静寺(じゃくじょうじ)と称する知恩院末寺で、本尊として阿弥陀如来を祀る寺。門の正面右側には「愛知高原国定公園高月院愛知県知事 桑原幹根書」と。「高月院 (こうげついん)高月院は貞治六年(一三六七年)の創建で、徳川氏の始祖、松平家の菩提寺です。慶長七年(一六〇二年)寺領、一○○石を徳川家康より下賜され、以後幕末に至るまで厚遇されました。境内は、国指定史跡「松平氏史跡」になっており、初代親氏(ちかうじ)、二代泰親(やすちか)、四代親忠(ちかただ)夫人の墓所があります。 」扉のない「高麗門」形式の「総門」・「将軍門」の扁額は「高月院」と。参道を「山門」に向かって進む。元の名を「寂静寺」といい、見誉霓立上人が建立したといわれています。1377年に親氏が本尊阿弥陀仏を寄進、堂・塔を建立してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となっています。境内には、松平家墓所があり、親氏、泰親、親忠夫人の墓が並んでいます。山門や本堂は1641年に徳川家光の命によって建立されたと伝えられています と頂いたパンフレットから。正面に新装なった「山門」が現れた。「参道」の左側を見る。「下乗」碑。境内への馬や籠での乗り入れ禁止と。神聖なる境内への立ち入りを禁じたのだろう。祠の中には「本松山三十三観音」が。手前には「百度石」と刻まれた石柱もあった。今から150年前に火事により失明された方が仏さまに願をかけ、ここより誰にも知られないように百度お参りした。願いが叶い目が見えるようになったお礼の意味を込めてこの百度石を建立したのだと。ここから本堂へは中門の石段を経て結構な距離があり、それを百度ということ。近づいて。中央上段に阿弥陀如来仏が鎮座。さらに。「延命十句観音経觀世音 南無佛 與仏有因(かんぜおん なむぶつ よぶつういん)與仏有縁 佛法僧縁 常楽我浄(よぶつうえん ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう)朝念觀世音 暮念觀世音。(ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん)念念従心起 念念不離心(ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん)」手をあわせてこの延命十句観音経三回念じて下さい。 山主」意味は『観世音菩薩に帰依します。我々は仏と因縁でつながっています。三宝の縁によって、「常楽我浄」を悟ります。朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます。観世音菩薩を念じる想いは我々の心より起こり、また観世音菩薩を念じ続けて心を離れません。』とその先に「手水舎」。「山門」下にあったのが「仏足石」と「石仏」。「佛足跡」。「仏足石お釈迦様の足跡です。インドにおける仏足石は、お釈迦の代理を意味し、そこで説法されたことを示します。仏足石はお釈迦さまの遊行転法論を表し、足裏に描かれている図を千輻輪相といいます。仏法石のお守りをお授けします。石段を上がって右、朱印所までお越しください。」足裏に描かれている千輻輪相図をズームして。足の裏にはいろいろな紋様が描かれているが、興味深いのは魚がいる! 釈迦の足の指と指の間には水かきのようなものがあったらしい と。観音様。「山門」の右横の「シダレザクラ」を見る。「名木指定 第71号 バラ科シダレザクラ 胸回り 1.70m 根回り 4.00m 樹 高 8.0m 豊田市」春になると。ネットから。徳川家康のルーツに当たる松平家の菩提(ぼだい)寺として知られる豊田市松平町の高月院で、山門が86年ぶりに建て替えられた。費用の約2千万円は全額、観光などで訪れた参拝客や地元関係者の寄付という。2024年10月27日に門の開通式が開かれた と。「本堂」側から。山門は何度か建て替えられたとみられるが、これまでの1938年建築の山門は、高さ約5m、幅3mほどの木造。立派な切り妻屋根が特徴だった と。小形で単層の四脚門で、両側に土塀を巡らせながら本堂の正面に南面して建つ。様式からみて18世紀前半の建立と推測される。切妻造・桟瓦葺の屋根、二軒(ふたのき)本繁垂木(ほんしげたるき)の軒、蔐懸魚(かぶらげきょ)を吊った破風の拝みを持つ。「開通式」の写真はネットから。そして「高月院」の「本堂」。折しも夕日が本堂に射し込んで。本堂は、1641 年に徳川家光によって建てられたものと言われている と。寺域の中央に南面して建つ比較的大型の堂で、桁行実長9間(約16.4メートル)、梁間実長7間(約12.7メートル)、入母屋造、桟瓦葺で、正面には実長1.5間(約2.7メートル)の向拝と木階四級を付し、庫裏との通路を除いて正面と両側面の三方に濡縁が回る。間取りは堂前半に35畳敷の外陣、後方中央には間口・奥行き共に実長3間の内陣、その両脇に間口実長2間の脇の間が配され、周囲に切目貼の広縁がまわる。全室が等しい床高、内陣・外陣・脇の間の境に建具が無いなどの特徴は古式とされる一方、結界柵や上段框を持たない点、外陣や内陣正面の大虹梁の絵様は18世紀末頃の様式と合致する西三河地方における浄土宗系本堂ではもっとも理想型で格調高い建築様式と見なされ、近隣の寺堂建築の規範として影響を与えたとされている と。本堂内陣の扁額「本松山」。内陣。本堂内陣の向かって左側。向かって右側に置かれていた八基の厨子は松平八代の位牌であろうか。本堂の祭壇をズームして。御本尊:阿弥陀如来像。本堂の左側にあったのが「鐘楼」。「梵鐘」。ここにも夕日が射し込んで。鐘楼の前には「利他の鐘」と書かれた石碑も立っていた。自分の願いではなく他者のことを思いながら鐘をつくように!!の意であろう。夕日をカメラで。本堂左にある「宝物庫」の横に鎮座した赤い社は「松平弁才天」。正面から。移動して。「松平弁才天」碑。内陣には小さな弁才天像が。そして「本堂」横には「ぼだいじゅ」の木が。「ぼだいじゅ」と。そして松の木。「昭和十二年 春 徳川義久公 御手植松」。我が師匠が今話題のDEEPSEEKに質問して下さいました。その回答は以下。『徳川義久(とくがわ よしひさ)は、江戸時代中期の人物で、徳川御三家の一つ「尾張徳川家」の分家(美濃高須松平家)に連なる旗本です。尾張徳川家2代藩主・徳川光友の五男として生まれ、高須松平家の祖となりました。 高月院は、徳川家康の祖父・松平清康ゆかりの寺院で、松平家(徳川家)の菩提寺の一つとして知られています。義久公がここに松を植えた背景には、先祖への敬意や信仰が込められていたと考えられます と。徳川義久公が江戸時代中期(17~18世紀頃)に植えたとすれば、樹齢約300年を超える古木となる。 松は「長寿」「不変」の象徴とされ、武家の権威や家系の繁栄を願う意味も。高月院の松は、徳川家と地域の結びつきを示す文化的なシンボルとして大切にされているのだ。』と、今話題のDEEPSEEKの回答であった と。しかし、境内の松は 樹齢約300年を超える古木ではなく、数十年程度に感じられた。よって昭和12年(1937)に御手植えの松とは考えにくい。さらに、徳川義久は尾張徳川家2代藩主・徳川光友の五男??上記写真の本堂の濡れ縁には松の幹の切断されたものが展示されていたが、これは先代以前、または徳川義久公の御手植えの松であった可能性が考えられるのであった。よって写真の松は徳川義久公の子孫が昭和12年に植樹を行ったとも考えられますが。真実は如何に??。お判りの方は書き込みをお願いいたします。我が師匠が、この後も引き続き調査してくださいましたが、やはりこの松は慶久(1884~1922)が植えたけれど、枯れたので昭和12年に子孫・関係者が植え替えたと考えざるを得ない と。豊田市役所美術・博物部文化財課に問い合わせしましたら、後日、下記の如き丁寧な回答を頂きましたのでそのまま掲載させていただきます。『①徳川義久公について この方は徳川慶喜公のご子息(7男)になります。 経緯は分かりませんが当地に来られお手植えをされています。②濡れ縁の松の幹について 〇〇さまが拝見されたものが特定できないためお答えは難しいですが、 徳川家康公のお手植えなど古くからお寺に伝わる松などの樹木があり、 残念ながら枯れてしまった際に木の一部残したとご住職からお聞きしました。 〇〇さまが拝見されたものもお手植えとお寺に伝わり、大切に保存された樹木の一部かも しれません。』 と。ウィキペディアによると、徳川慶喜公の7男は徳川慶久と。義久➔慶久と改名したのであろうか?しかし、慶久公は大正時代に亡くなっていますので、徳川慶喜公のご子息(7男)・徳川義久公が別にいらっしゃったと理解すべきなのでしょう。ここにも松が。「秩父宮妃殿下御手植(昭和四十五年)」。「宝物庫」。ここにも。「徳川宗家第十八代恒孝公👈️リンク 御手植」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.02.01
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