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「永代供養付個別墓「やすらぎの郷」。「永代供養付納骨堂「光明寿」」「永代供養付納骨堂「光明寿」を横から。この石仏は?「仏舎利奉安殿」インド大菩提会事務総長ジナラタナ師が奉載して昭和41年8月6日当山に伝授されここに奉安 と。「■仏舎利奉安殿■教主釈尊のご遺骨を仏舎利と申しインド大菩薩会事務総長ジナラタナ師が奉戴して昭和四十一年八月六日当山に伝授されここに奉安されてあります。一心に頂礼して仏の教えに随順して仏願に随順しましょう。■仏足石■釈尊ご入滅の後ガンダーラ文化以前の古代インドでは教主釈尊の尊像を作ることは恐れ多いとして菩提樹、金剛宝座、仏足石を通して釈尊を追慕崇敬礼拝していた。この仏足石は釈尊ご成道の地ブッダガヤの大塔に奉られている型のもので平成七年四月インドブッダガヤより贈られてきた物である。■菩提樹■境内に植えられております。 浄土宗 誓欣院」「仏足石」。近づいて。「水子地蔵尊」。水子地蔵尊は、流産や死産、中絶などで亡くなった子どもたちの魂を慰めるために祀られる地蔵菩薩。地蔵菩薩は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡りながら人々に救いの手を差し伸べる仏様ですが、水子地蔵は特に幼い命のために祀られた特別な地蔵様。水子供養は、この世に生まれることが出来なかった我が子に「正式な御葬儀」をし、供養すること と。「南無阿弥陀仏」碑。「南無阿弥陀仏」碑。そして「法界山 誓欣院」の「本堂」を正面から。善譽誓欣上人(ぜんよせいごんしょうにん)により承応3年(1654年)に千葉常周の持念仏であった恵心僧都作「阿弥陀如来」を本尊として、この地に遷化(せんげ→仏を移し祭ること)し開山した と。元は真言宗「道光寺」であり、天正17年(1589年)浄土宗明珠庵と改めたが、開山の徳をしたい誓欣院と呼び、浄土宗 法界山「誓欣院」となりました。万治3年(1660年)の大火で焼失したが、徳川家菩提寺、芝増上寺の聞誉随範上人により、寛政9年(1757年)今の湯前神社東側に本堂、庫裏が再建された。この寺も火災をこうむり、いよいよ廃寺ならんとするときにも芝増上寺の了諦上人により、現在地に安政7年(1778年)初島の松材を使って、本堂、庫裏が再建された。本院は昔から芝増上寺との関係が深く、本堂屋根には「葵の御紋」が使用されている と。見事な彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。内陣をネットから2枚。「常香炉」。「奉納額 観世音菩薩」と。「奉納額 十一面観世音」と。「南無阿弥陀仏」。「誓欣院中興願誉了順和尚碑銘井序」と。この碑文は願誉了順和尚の寺院再興に関する事績を記した石碑であり、その序文(前書き)であることを示しているのであろう。崇徳培仁其勝于恭敬三寶積善招福靡超于起立堂塔為伊豆熱海誓欣院寛永年中擔欣上人而創建奉安観音大士靈驗遍遐邇然堂宇既閲三百餘歳柱梁頽圮且閒架狭隘不便于周旋道友願誉了順和尚大正十三年十一月為住持有概于此與壇徒協力企圖再建昭和六年秋起工拮据経營五閲年功竣工費三萬五千餘圓輪奐極善荘嚴盡美面目一新屹為熱海名刹十二年四月修慶讃法要盛儀竭丹誠以成就宿願実十四年九月和尚偶為二豎而侵以十月廿九日溘為入寂壽六十五和尚生于美濃不破郡赤坂郷資性豁達趣味多方尤好土木而關與頗多就中斯院本堂再建其特著者也見住順海和尚與諸䄠越肯謀欲建碑以旌其功績需余文余與了順和尚結忘年交乃應之銘日 山臨豆海 地沸靈泉 圓通慈視 博度有縁 重修寶殿 纉美先賢 中興遺徳 遠及萬年昭和十六年十月二十九日 大僧正勧學 香楳樹撰 祖洞大澄嘱書」上記の意味を「chatGPT」に訪ねて見ました。【この碑文は、伊豆・熱海の誓欣院(せいごんいん)に関する記録ですね。大まかな内容は以下の通りです。1.誓欣院の創建誓欣院は、寛永年間(1624–1644)に担欣上人によって創建され、観音菩薩が奉安されました。霊験あらたかで広く知られるようになりましたが、300年以上の歳月を経て建物が老朽化しました。2.再建の経緯大正13年(1924年)11月、了順和尚が住職となり、再建の計画を立てました。昭和6年(1931年)秋に工事を開始し、5年の歳月をかけて完成。総工費は35,000円で、壮麗な堂宇となりました。昭和12年(1937年)4月には、修慶讃法要が盛大に行われました。3.了順和尚の功績了順和尚は、美濃国不破郡赤坂郷(現在の岐阜県大垣市赤坂町)出身で、気性が豪快で多才な人でした。特に建築に関心があり、誓欣院の本堂再建に尽力しました。しかし昭和14年(1939年)9月、病に倒れ、10月29日に65歳で遷化しました。4.碑の建立現在の住職・順海和尚と信徒たちが、了順和尚の功績を称えて碑を建てることを決意。大僧正勧学 香楳樹(こうばいじゅ)が文を撰し、祖洞大澄が書を担当しました。5.銘文碑文の最後に、了順和尚の功績を称える詩が刻まれています。・伊豆の海を臨み、霊泉の湧く地にあり・観音の慈悲が広く縁ある人々を救う・再建された本堂は、先人の功績を受け継ぐ・この中興の偉業は、永遠に伝わる 誓欣院が長い歴史を持ち、昭和初期に立派に再建されたこと、そしてその 中心人物である了順和尚の功績が称えられていることがよくわかる碑文です。さらに詳しく教えて下さいには大まかな意味1.誓欣院の由来と創建(前半部分)・「崇徳培仁其勝于恭敬三寶 積善招福靡超于起立堂塔」 → 徳を高め、仁を培うことは、仏・法・僧の三宝を敬うことに勝り、善を積んで福を招くには、 堂塔(仏堂や塔)を建立することに優るものはない。・「為伊豆熱海誓欣院」 → これは伊豆・熱海の「誓欣院」のためである。・「寛永年中 擔欣上人而創建 奉安観音大士」 → 寛永年間(1624~1644年)に、担欣(たんきん)上人が創建し、観音菩薩 を安置した。・「靈驗遍遐邇」 → その霊験(ご利益)は広く遠くまで知られた。・「然堂宇既閲三百餘歳 柱梁頽圮 且閒架狭隘 不便于周旋」 → しかし、建物は300年以上経ち、柱や梁が崩れ、さらに構造が狭く、動きづらい状況になっていた。2.本堂の再建(中盤)・「道友願誉了順和尚 大正十三年十一月為住持」 → そこで、道友(仏道を共にする仲間)である「願誉(がんよ)了順和尚」が、 大正13年 (1924年)11月に住職となった。・「有概于此 與壇徒協力 企圖再建」 → この状況を考え、信徒たちと協力して再建を計画した。・「昭和六年秋起工 拮据経營五閲年 功竣」 → 昭和6年(1931年)秋に工事を開始し、苦労を重ねて5年かけて完成した。・「工費三萬五千餘圓 輪奐極善 荘嚴盡美 面目一新」 → 費用は35,000円以上かかり、壮麗で美しく、新しく生まれ変わった。・「屹為熱海名刹」 → こうして、熱海の名刹(由緒ある寺)として再び立派にそびえることとなった。3.了順和尚の最期と功績の称賛(後半)・「昭和十二年四月 修慶讃法要盛儀 竭丹誠以成就宿願」 → 昭和12年(1937年)4月に、完成を祝う法要を盛大に行い、全身全霊で念願を成し遂げた。・「実十四年九月 和尚偶為二豎而侵 以十月廿九日溘為入寂 壽六十五」 → しかし昭和14年(1939年)9月、和尚は偶然にも病に侵され、10月29日に亡くなった。 享年65歳。・「和尚生于美濃不破郡赤坂郷 資性豁達 趣味多方 尤好土木 而關與頗多」 → 了順和尚は、美濃国不破郡赤坂郷(現在の岐阜県大垣市赤坂町)で生まれ、気性は 豪快で、多趣味な人だった。特に建築(土木)に関心が深く、多くの関わりを持っていた。・「就中斯院本堂再建其特著者也」 → その中でも、誓欣院の本堂再建は特に際立った功績だった。4.碑の建立と称賛の詩(最後の部分)・「見住順海和尚與諸䄠越肯謀 欲建碑以旌其功績 需余文 余與了順和尚結忘年交 乃應之」 → 現在の住職である順海和尚と信徒たちが、了順和尚の功績を称える碑を建てようと相談し、 私に文章を依頼した。私は了順和尚と親しい間柄だったので、喜んで引き受けた。最後の銘文(記念の詩)山臨豆海 地沸靈泉→ 山は伊豆の海を望み、大地には霊泉が湧く。圓通慈視 博度有縁→ 観音菩薩の慈悲深い眼差しは、広く縁ある人々を救う。重修寶殿 纉美先賢→ 本堂を再建し、先人たちの功績を受け継いだ。中興遺徳 遠及萬年→ この偉業は永遠に伝わり、万年の後まで称えられるだろう。まとめこの碑文は、誓欣院の歴史・本堂再建・了順和尚の功績・彼の死後に建てられた記念碑について記しています。特に了順和尚の建築への情熱と、彼の尽力によって立派に再建された本堂が、後世に長く伝わることを願って書かれています。】「子安地蔵菩薩」像であっただろうか?再び鐘楼を。御朱印を頂きました。石段を下る。石段の下、「翠橋」の手前左にあったのが「永代供養墓」案内所。様々な色合い、形状の墓石が並んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.31
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今日・2025年3月30日(日)の我が家の庭そして菜園の花々です。まずはユキヤナギ。ユキヤナギは春、枝垂れた枝先の長い穂に、たくさんの花を咲かせてひときわ目を引き、花壇や公園によく植えられている植物。春に小さい白い花を咲かせる。和名の由来は、ヤナギのようにしだれる枝に白い小さな花が咲き乱れる様子を雪に見立てて「雪柳」の名がついたとされる。手を掛けなくても成長し、大きくなると1.5mほどの高さになる。幹は株立ちし、地面の際から枝がいく本にも枝垂れて、細く、ぎざぎざのある葉をつける。樹皮は灰褐色で滑らかであるが、老木では縦に裂ける。小枝は軟らかい毛が多くあるが、表面が剥がれて無毛になる。栽培品は野生種よりも株も大きく、幹も太い[。花期は春(3月~4月)5弁で雪白の小さな花を小枝全体に群がってつける。秋には紅葉し、黄色や橙色、ときに赤色に色づくのだ。そしてムスカリ。ムスカリは鮮やかな青紫色の花が春の花壇を彩り、チューリップなど、ほかの花を引き立てる名わき役といってもよい花。丈夫で育てやすい秋植え球根で、丸い壺形の小花が、ブドウの房のように密集して咲く様子も愛嬌があります。花壇の縁取りやマッス植えなど、ある程度数をまとめて群生させると、さらにそのよさが発揮されます。植えっぱなしでも毎年よく咲き、グラウンドカバーとしても利用しやすく、青いカーペットを敷いたような景観がつくれます。ムスカリ属には40~50種がありますが、M・ボトリオイデスとM・アルメニアカムが最も多く一般的で、濃紫から淡青、白花などいくつかの品種があり、香りの強いものも見られます。そのほか、羽毛のような花が咲くハネムスカリや、花房の上部と下部で色が異なる2色咲きなど、ユニークな種類もあるのだ と。そして、花のピークは終わったが、ニワウメ。ニワウメはバラ科スモモ属の落葉低木。庭などに植えられる。和名の由来は、庭園に植えられウメのような花が咲くことから名付けられている実は甘い香りがし、径1cmほどの大きさになり、赤く熟して食べられる。パイやジャムなどに利用されることもあるが味はスミミザクラと似て酸味が強い。ニワウメの花は先端が丸い5枚の花弁でできています。原種はピンクの花が枝いっぱいに咲きますが、品種によっては白い花が咲くものもあるとのこと。そして、数々の種類のスイセンも開花しています。「八重咲きホワイトライオン」。「小型のラッパ水仙」。「黄色花カップ」黄色の花弁にオレンジ色の口紅カップ。八重の黄水仙。「ラッパ水仙白、口紅水仙」。カップ咲き 白に橙「ピンクチャーム」。「タヒチ」黄色の八重咲き。大輪の大型。名前の通り明るい陽気な印象の花。「黄色シボリ」。花弁に黄色と白のシボリ模様が入ってます。房だけ薄い黄色のラッパ水仙。マウントフッドは徐々にクリーム色に変わるスイセン。そして、様々なパンジー。「スノードロップ」。「アマドコロ」。「ヒヤシンス(白)」。「ヒヤシンス(紫)」。「クリスマスローズ(白)」。「クリスマスローズ(赤)。」「ボケ(木瓜)」。そして我が菜園の「イチゴ」。多くの「イチゴ」の白い花が咲いています。そして、「雪白体菜」の花。「ブロッコリー」の花。我が趣味のミツバチが大好きな花なのです。近づいて。そろそろ、片付けて、トマトやキュウリを植え込みたいのですが、ミツバチ嬢が毎日訪花しているので、なかなか片付けられません。 ・・・おわり・・・
2025.03.30
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次に訪ねたのが「温泉寺」の北側・隣りにあった「誓欣院(せいごんいん)」。熱海市上宿町6−3。寺号標石「浄土宗 誓欣院」。「寺名 法界山 誓欣院善譽誓欣上人(ぜんよせいごんしょうにん)により承応3年(1654年)に千葉常周の持念仏であった恵心僧都作「阿弥陀如来」を本尊として、この地に遷化(せんげ→仏を移し祭ること)し開山しました。元は真言宗「道光寺」であり、天正17年(1589年)浄土宗明珠庵と改めたが、開山の徳をしたい誓欣院と呼び、浄土宗 法界山「誓欣院」となりました。万治3年(1660年)の大火で焼失したが、徳川家菩提寺、芝増上寺の聞誉随範上人により、寛政9年(1757年)今の湯前神社東側に本堂、庫裏が再建された とネットから。開山 聞誉随範上人本尊 恵心僧都作阿弥陀如来・・・持念仏であった所在 万治三年の大火で消失し・・・寛政九年現在地に移転す仏舎利 昭和四十一年六月インド・・・から・・持され奉安山本瑞宮作(熱海市出身)・・・・本堂・面の頭・の上に献納「赤い橋(観音橋)」を渡った先に誓欣院があった。「観音橋」。下を流れるのは「糸川」。「糸川」の擁壁・石垣には温泉移送用のホースが。「観音橋」の先、左側には石碑が2基。「観音靈場」と。この石碑には???石段の先には山門、その右側には鐘楼の姿が。「山門」。扁額「法界山」。「鐘楼」。この梵鐘は作法に従えば鐘を打つことが出来るようであった。しかし、この辺りはマンション、旅館が多い街中にあるため大きな音を立てないほうが良いと思い・・・・。「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起」の文字が。『「天下和順」(国中すべてのものが和らぎ)「日月清明」(日や月が大空に輝き)「風雨以時」(時に応じて雨が降り、風が吹き)「災厲不起」(災害や疫病が発生せず)』とネットから。大きな石碑。「寺院は市井にあっても 解脱門として山号を用い 法界山と号す昭和六十二年六月 光誉順海」「永代供養墓やすらぎ五輪塔」。近づいて。「供養塔 熱海割烹調理師會 池田勇人謹書」、「魚鳥供養包丁塚 池田勇人書」。門には左側に熱海旅館組合、右側に味の素株式会社 と。池田勇人はあの有名な政治家・総理大臣??「子宝の松」。「子宝の松樹齢推定800年 幹周 約4メートル 樹高 約27メートル当院開山 承応3年(1654年江戸時代)以前よりこの地に生育していたクロマッ(雄松)です2012年に初めて子松が生まれ 現在元気に成長し続けておりますこの年に浄土宗開山以来初めての子が 第19世心譽明頼代にも授かりましたこの松の大木に触れ参拝祈願することにより子に恵まれない人に子が授かると言われたため『子宝の松』と命名いたしました」「金指家」と。「ペット供養」ズームして。長年一緒に生活した家族の一員のペット、「亡くなったときにも家族同様の丁重な供養してやりたい」との皆様のご要望に応えて、当院でペット供養を致します。「ありがとう」と刻印されていて像の周囲には鳥、犬、猫がいます。中央には球状の石に心の文字があります。」石仏・地蔵尊。樹木葬墓。振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.30
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そして境内の奥にあったのが「地蔵堂」宝形造、銅板葺、桁行4間、梁間4間。「湯河原堂地蔵大菩薩」と。向拝を見上げて「地蔵堂」の見事な彫刻を追う。向拝柱上部。正面唐獅子、側面象の頭貫木鼻彫刻。木鼻の象は、鼻の表現が特徴的。扁額「能化園」。のう‐け【能化】《「のうげ」とも》仏語。1 師として教え導く者。衆生を教化する仏・菩薩ぼさつをいう。⇔所化しょけ。2 一宗派の長老・学頭などのこと。正面に、完成して間近い、生まれたての仏様「温泉寺 立木三尊仏」(通称「生木仏」)。倒木の危険を避けるため伐採しなければならなくなった境内の木々だったのですが、木を切られる姿に胸をいためた住職が作業を中止し、職人に依頼し3つの生木の幹に仏様を掘り上げてもらったそうです。(「薬師如来像」、真の悟りを求める「釈迦出山仏(しゃかしゅっせんぶつ)」、「大日如来」の3体)。樹齢350年、600年などの木々に彫られたこの3体の仏様が完成するまでの4か月ちょっとの間、住職は、堂にこもって座禅をし、連日お経をあげたとのこと。薬師如来。大日如来。釈迦如来「立木三尊仏薬師如来左手に薬壺を持ち、現世の体、心、社会の病をすべて治してしまう霊妙なる薬を以て衆生救済をして下さる仏様。大日如来宇宙そのものを表し、この世の全てのものに智慧の光をおよぼし、普く一切を照らし出し不滅永遠に慈悲の活動をして下さる仏様。釋迦出山仏老い、病、死といった人を苦しめるものからの解放を探しめる為に入山し、難行苦行の末、真の悟りを得て出山した時のお釋迦様のお姿。樹齢六百年の槙二本、樹齢三五〇年の銀杏一本を伐採するにあたり、その生命を断つことがいかに人間の身勝手であるかと感じ、三本の木に仏様を彫らせていただきました。これにより少しでも精霊が安んじて下さることを願う次第であリます。球形の供養塔。左の碑の文字は全て漢字だけで書かれていたが大正12年の関東大震災で亡くられた方の供養塔だと思われます。境内の枯山水の庭をズームして。小さな石仏の姿も。「歴代塔」と。歴代住職の慰霊塔か?「地蔵堂」を横から。「神光宗照禅師 藤原藤房公碑」と。温泉寺の創建は後醍醐天皇の忠臣授翁(藤原藤房:京都妙心寺2世、後醍醐天皇の信頼が篤く建武の新政では恩賞方筆頭となった人物)によって開かれたのが始まりとされます。授翁宗弼👈️リンク(じゅおうそうひつ、永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は宗弼、字は授翁。諡号は神光寂照禅師、円鑑国師、微妙大師。父は藤原宣房、万里小路藤房と同一人物とする説もある と師匠が解読して下さいました。「本堂」前の庭を見る。「地蔵堂」の見事な曲線美の「海老虹梁(えびこうりょう)」。「本堂」前のソテツ・蘇鉄を横から。幹の頂端に大きな葉が多数密生。この場所は「水琴窟」👈️リンク。「水 音鳴るもよし 琴 音聴くもよし 窟 みなわが心」と。住職の言葉をネットから『水琴窟と聞けば、「知る人ぞ知り、知らない人はまるで知らない」と言っても過言ではないであろう。私自身も水琴窟に出会い、水琴窟を設置しなければ、どのような物か正直分からなかったと思う。いま、庭師でもあり水琴窟師でもある彼(田村氏)と出会ったことにより、水琴窟の良さが初めて分かり、そこから学び得る静寂さの「音の中」で、己の心に「水一滴」が何を語り、一滴音が「わが心」を清浄し、人として心の有るべき豊かさを教えてくれる思いがする。ひとつの出来事を人それぞれが色々な考え方、捉え方をするのと同じように、水琴窟の音がそれぞれの人生を通して、何かを語るような気がする。水 音鳴るもよし琴 音聴くもよし窟 みなわが心 合掌 熱海温泉寺住職』と。白梅も開花を始めていた。近づいて。客殿・寺務所を再び。唐破風山門を境内側から。糸川に架かる「翠橋」を渡り、「温泉寺」を後にしたのであった。「名品展 MOA美術館」ポスター。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.29
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もどる次に尋ねたのが「清水山 温泉寺」。熱海市内を流れる糸川沿いに建つ臨済宗の寺院。後醍醐天皇の忠臣で、後に京都妙心寺第2世を継いだ藤原藤房改め授翁(じゅおう)の開基と伝えられている、700年以上もの歴史のある寺。石段の先に木造の唐破風が築かれた山門が。熱海市上宿町2−19。「開山微妙大師藤原藤房公遺跡清水山 温泉禅寺」。「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号石(みょうごうせき)。寛永5年(1852)銘。これが、国定忠治の供養のために建てられたといわれている「南無阿弥陀仏」の六字の名号を刻んだ唯念上人の碑であっただろうか。境内左側の階段にはそのものズバリ「温泉寺」。この石碑には??唐破風の見事な山門。中央部が凸型、両端部が凹型の曲線状の形状をしている。装飾性が高く、日本の城郭や寺院、門や玄関などに多く見られるのだ。石段の踊り場に建つ唐門形式の山門をズームして。扁額「清水山」の左右に風神雷神像。右:木彫りの「風神」像。左:木彫りの「雷神」像。山門の真下には大きな「仏足石」。近づいて。仏足石(ぶっそくせき)とは、仏の足跡の形を石に彫りつけた石造物。仏像が制作される以前から、仏の象徴として礼拝の対象とされてきたのだと。山門の先、左手には「六地蔵尊」。右手の南天の木の下には、石祠が。この石碑には古詩が末には右藤公題藤房卿手栽松之詩陸軍大将 小磯國昭書」「藤公」は伊藤博文のことと。近づいたが・・・・。「古寺留遺跡 千載弔忠魂 披衲豈公志 脊戀望天閽 乾坤仗正気 叔季少讜言 仰見後凋節 凛〃與松存」と師匠から。句ごとの解釈・古寺留遺跡 千載弔忠魂 古い寺には遺跡が残り、千年の時を経ても忠義の魂が弔われている。 ・披衲豈公志 脊戀望天閽 僧侶としての衣(衲衣)をまとったとしても、果たしてそれは公の志によるものだろうか (真に忠義を貫いた者と比べれば自分はどうか)。 背を伸ばして天の門(=天界・神仏の世界)を仰ぎ見る(忠義を尽くした魂に思いを馳せる)。・乾坤仗正気 叔季少讜言 天地は正しき気(正気・正義)によって支えられているが、 (しかし)今の世では、叔季(=末世、時代の末期の意)において正しい言葉(讜言)が 少なくなってしまった。 ・仰見後凋節 凛〃與松存 後世においても、衰えた節義(気高い精神)が残っているのを仰ぎ見ると、 それは松のように凛として今もなお存在している (節操を貫いた者の精神は、今も生き続けている)。大意は この詩は、古寺・温泉寺に残る遺跡を前にして、その地に眠る忠義の士たちを弔う心情を 詠んだもの。 詩の中では、忠義を貫いた魂を敬い、それに比して自分が果たして公正な志を持っているのか 自問する姿勢が見られます。また、時代が下るにつれて正しい意見が少なくなっていることを 嘆きつつも、忠義の精神は松のように凛として今も生き続けていることを述べています。詩の背景 ●「右藤公」 → 伊藤博文のこと。 ●「陸軍大将 小磯國昭 書」 小磯國昭(こいそ くにあき、1880年 - 1950年) は、日本陸軍の大将であり、戦時中に 内閣総理大臣(1944年-1945年)も務めた人物です。立派な事務所が右側に。「観世音菩薩」像であろうか?ズームして。「萬里小路藤原公記念碑」。「萬里小路藤原公記念碑平安朝の季世武人權を専らにせしより滿朝衣冠の◯柔惰狡侒得失を計較して附熱随炎する者のみ獨り萬里小路藤原公の忠毅誠鯁屹然として史上に聳え字を知り書を讀む者皆其進退の跡を知らさるなく知って而して其高風清莭を咨嗟咏嘆ささるなし公か皇權を恢復せんと欲し身を挺して大難に當り楠正成を民間に訪うて大事を托し遂に北條氏滅亡の機を作りしを見ては以て其補袞の識度を卜すへし其大亂再ひ起らんとするを察知し大内裏の造營と天馬の嘉納とを非とし龍顔を犯して諌奏として憚る所なきを見ては以て其靖獻の誠忠を看るへし然れとも誠忠も識度も遂に朝政を救ふ可からさるを見るや脱然として世を捨て身を雲水に托するに至りては實に英雄首を回せは即神仙の概あり公の◯跡としてへ傳へらるもの随所に之ありと◯熱海の温泉寺の開山たること㝡も顯著なり大正十四年の秋余温泉寺に公の遺蹟を訪ふ一聲の◯響夕陽盡くる時數縷の香畑秋氣来る所公か色相を空となして幻念を忘れ弧月を友として白雲を伴へる光景を懐うて嗟嘆限りなし公か親しく植えし長松は依然として半空に聳え公か手澤の存する七條の袈裟は猶ほ保存せらる唯た公か常に懐にしたる虚空蔵菩薩は昔年伊藤博文公に貸與せられ今朝鮮の博文寺に在るを遺憾とするのみ境内に公を記念する漢文の舊碑ありと雖磨損して讀むへからす今城珀山和尚公の遺蹟顯彰を以て己の任となし新碑を建てんとして努力することを數年貴族院議員藤原銀次郎君其熱意に感動し和尚を助けて茲に此碑を建つ公の人品山と共に髙く公の心泉海の如くに深し豈區區の記傅と讃辭とを須たんや即ち舊事を録して以て記とす昭和十五年五月 枢密院顧問官 竹越與三郎 竹蔭 近藤髙美書 東京青山 石勝 刻」客殿・「大観閣」。「本堂」を斜めから。「本堂」に向かい合う石碑。線刻?で描かれた像は?境内には様々な南国風の木々が植えられており、温かみを感じる寺。「本堂」を正面から。本尊は如意輪観世音菩薩。入母屋、銅板段付本瓦葺き、平入、桁行7間。両脇に花頭窓。扁額「温泉寺」。「本堂」を横から。特徴的な桟構成の腰付硝子障子。花頭窓、喚鐘(かんしょう)をズーム。右:宝篋印塔(ほうきょういんとう)左:庭の石、それとも石碑?ズームして。さらに右には五重石塔も。「本堂」前の石碑。詩碑であっただろうか?碑の下部には僧侶の絵が描かれていた。我が師匠が解読して下さいました。「寒山拾得」で有名な「拾得」の漢詩であると。「東洋海水清 水清復見底 靈源涌法泉 斫水無刀痕 正四位山岡鉄太郎書」山岡鉄太郎は山岡鉄舟の通称であるとのこと。読み『東洋海水清し 水清くして復び底を見る 霊源より法泉(ほっせん)涌く 水を斫(き)るも刀痕無し』意味 【この詩句は禅的な悟りや自然の清浄さを象徴的に表現したもので、次のような意味が 読み取れます。 1. 「東洋海水清 水清復見底」: 東洋の海の水が清らかで、さらにその清らかさが底まで見通せるほど澄みきっている様子。 これは真理や悟りの境地が透徹していることを喩えています。 2. 「霊源涌法泉」: 霊的な源から法(仏法の真理)が泉のように涌き出ている様。自然の営みそのものが 仏法の現れであることを示しています。 3. 「斫水無刀痕」: 水を斬ろうとしても刀の痕は残らないという意味。禅の無執着を表現しており、 すべての現象は水の如く流れ去り、執着すべき痕跡を残さないという悟りの境地を 表しています。】 全体として「清浄な心の境地では、すべての現象がそのまま真理として現れ、執着する ことなく自然のままにある」という禅の悟りを、水の比喩で表現したものと解釈できます 特に「斫水無刀痕」は、禅の公案(修行課題)としても用いられることがある典型的な表現で 「真実は形がなく、何をしても痕跡が残らない」ことのたとえであると。 水に刀を入れても形が残らないように、悟りの境地もまた跡をとどめぬものだという、 無執着・無分別の教えである と教えていただきました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.28
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観光案内所「宮坂の結び葉」を後にして、「宮坂」をさらに上る。神社はもともと情報を発信する役割を担っていた。昔 神社の祭事や神楽奉納に参拝客が集まり、互いが情報を交換し、参拝者が縁を結ぶ茶屋や休憩施設が出来、門前町が出来上がって行った。宮坂は、神様が来られた海と本殿を結ぶ参道にある坂で、そのために「宮坂」と呼ばれており、熱海の中でも急な坂でも知られている。例大祭のときの御神輿はこの坂を下るのだ と。「宮坂今井写真館~来の宮ガード350m大乗寺温泉寺誓欣院来の宮神社の参道」そして「宮坂」を下る。「熱海来宮の湯 松月」前。橋を渡り、糸川を右に見ながら進む。糸川の擁壁には温泉移送用?のパイプが。ズームして。保温材が捲かれていたので温泉湯であろう。そして前方に見えたのが「熱海教会」。十字架をズームして。「熱海教会は、1919年に、日本同盟教団熱海教会として創立されました。 1940年に日本基督教団に編入。以降は日本基督教団熱海教会として、熱海の地で福音の灯を継承しています。」と。掲示板。その先にあったのが「天理教 東伊豆分教会」。静岡県道11号線・あたみ梅ラインに合流すると「日本キリスト教会 熱海教会」案内板が。そして、右折してJR来宮駅方向に向かう。ここは「恋人坂」と。右手にあったのが「熱海芸術座」。「熱海芸術座」👈️リンク。全国作曲コンテスト、作詞コンテスト、芸能タレント発掘養成を軸に、熱海芸術座を運営 と。そして「福道町」交差点を左折。左手にあったのが「静岡県 熱海警察署」。「すぐ、そこ。初島」案内板。下が北側、右が熱海海岸方向。「周辺のご案内」。JR来宮駅前の熱海桜。二本のフェニックスの樹。駅前花壇。「來宮神社」案内板。「来宮駅」は全面改修工事中であった。引き返して、来宮駅前の坂道を海に向かって下る。山の上に見えたのが「二本山 妙法寺 仏舎利塔」。日本山妙法寺とは、藤井日達という僧侶が創設した日蓮系の宗教団体だ と。糸川に沿って坂を下っていくと、左側にあったのが「熱海郵便局」。熱海市水口町13−14。「総合庁舎入口」交差点の角には馬の像が2頭。今では目印や待ち合わせ場所になったり、噂のポケストップにもなっている。コルト山田ビルの象徴でもある二体のお馬さんであると。後方から。このビルには畳屋「ランハート㈱」👈️リンク があったが、そのオーナー?の趣味であろうか??北側に見えた「温泉寺」を訪ねることにした。この濃いピンクの花、植物の名は?「カランコエ 胡蝶の舞」か。そして、この後に訪ねた「御殿稲荷神社」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.27
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次の目的地の「日蓮宗・大乗寺」に向かって、ナビに従い擁壁の下の細い道を進む。そして「日蓮宗 大乗寺」に到着。熱海市上宿町13−43。寺号標石「日蓮宗 大乗寺」。石段下の「掲示板」。石段の上には、「日蓮大聖人像」。日蓮聖人が弘長元年(1261)に伊豆流罪(伊豆法難)となった翌年、日興上人が給仕へ向かい、当地の真言道場にて行き合った。その際、道場に住持し、日蓮宗に改宗したのが当寺の始まりであるとのこと。近づいて。「大乗寺縁起當寺其の開創を尋ぬるに其の由緒最も深く其の創立最も古く儼として聖祖御靈跡の一に列す史を按ずるに宗祖日蓮大聖人伊東御法難の砌弘長二年(一二六二)四月伯耆坊日興上人宗祖謪居流竄「の給仕に向かわせ給ふ途次當熱海の郷を通過せられる折偶と此の地に真言の道場あり住持行満其の教化を蒙り若年拍耆房日興上人に歸正す是れ當寺開創の濫觴なり是に於て山號を通廣山寺號を大乗寺と稱す宗祖大聖人伊東の館に置かせられ此の経緯を知らしめし伯耆坊日興上人の教功を嘉賞すると共に亦行満の學徳を洞見せられ弟子の一分に加へ㕥って日行と改め阿闍棃の號を授く加ふるに御自ら水鏡に御影を映し給ひ御尊像一軆を御彫刻遊ばされ十界大曼陀羅御本尊一軸を賜はる宗祖大聖人時に御壽四十二歳世人之を以って水鏡厄除けの祖師と唱へ驗炎八方に徧ねし爾来茲に星霜七二十餘年法燈相傅へ衣鉢相承け千載高潔今に至る昭和丙寅年桂月 第五十世 日境代」『弘長2年、日興上人が宗祖日蓮聖人の伊東法難の為、給仕へ向かう際に当地の真言道場に行き合い、その節にこちらの住持を教化され、日蓮宗に改宗したのが当寺の始めである。これを聞いた宗祖が阿闍梨の称を与えた。』と。「撥扇塚(はっせんづか)」と。昨年は4/19(金)、熱海花柳界の始祖である故・坂東三代吉師匠の菩提寺「大乗寺」(だいじょうじ)にて「撥扇塚(はっせんづか)供養祭」が執り行わたと。これは、日頃芸事に欠かすことのできない太鼓や三味線の皮・撥(ばち)・糸・扇子などを供養し、合わせて、組合員一同の芸道と繁栄を祈念する恒例行事。住職による法要・回向、芸妓代表者:琴千代さんによる祭文の後、熱海市副市長による挨拶、熱海市議会議長による祝辞、そして最後に西川芸妓置屋連合組合長より謝辞が述べれた と。「撥扇塚供養祭」をネットから。「本堂」を正面から。この紋は?寺紋か?輪寶紋の一種?」扁額「通廣山」。「斯人行世間 能滅衆生闇(この人は世間に行じて、能く衆生の闇を滅す)」。「この人が世に現れることによって、人々の無知や迷いを消し去ることができる。」仏教的な文脈では、「斯人」は仏や菩薩を指し、仏の教えによって人々の無明(無知や迷い)が払われるという意味になります。「斯人行世間」「能滅衆生闇」本堂の内陣。山号 通廣山創建 弘長2年(1262)開山 白蓮阿闍梨日興聖人本尊 十界大曼荼羅ズームして。さらに。寺務所方向を見る。「喚鐘(かんしょう)」小さな鐘の形をしており、修行僧を呼び集める際に鳴らされます。特に座禅や法要の開始を告げる合図として使われます。この石碑は??????「厠(かわや)」入口 と。立派な山門付きのトイレが併設されていたのが印象的。「本堂」の「前庭」には石仏が。「五重石塔」。掲示板には「今月の聖語修行の肝心は不軽品にて候日蓮聖人ご遺文 「崇峻天皇御書」」近づいて。「「今月の聖語」解説=敬いの心が肝心=「いい人に乗ってもらえてよかったです」。丁寧な運転と対応をしてくれたタクシーの運転手へお礼を言うと、こんな言葉が返ってきました。客という優位な立場からのハラスメント、SNSへの誹謗中傷の書き込み…。聞けば精神的に追い込まれている運転手もいるのだとか。さまざまなハラスメントが取り沙汰される昨今です。嫌がらせを受けたときは上手に聞き流しましょう。嫌なことを言う人もどこかで同じ仕打ちを受けてきたのかも…、と少し気を落ち着かせて観察してみるとこちらの心にも余裕が出るはずです。悪い行いは別の悪い行いを生み、優しい言葉は別の優しい言葉を生みます。どちらもやがて自分に返ってきます。常に相手を思いやり、互いに敬い合うことを忘れずに生活していくことで、みんなが幸せになれます。◎日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』日蓮聖人の熱心な檀越・四条金吾に宛てた礼状で、殺害された崇峻天皇の例をあげ、法華経常不軽菩薩品に説かれる「我汝等を敬う」という行いを大切にするように教示されています。 建治3年(1277) 聖寿56」再び「糸川」に出会う。路地の角にあったのが観光案内所「來宮神社👈️リンク 宮坂の結び葉」。「結び葉」とは春に御神木大楠にも見られる親の葉と子の葉が重なっている状態の事を指し、「繋ぐ」という意の枕詞である と。宮坂の周囲には寺社・史跡が多く、神社へと繋がるこの宮坂の『結び葉』で、神社参拝前のプロロ-グを感じたり、お参りの後、旅の仲間同士で無料Wi-Fiを使いながら地域の情報を共有するなど、観光拠点を線で結ぶ流れを創っていただきたい と。「來宮神社 宮坂の結び葉」。熱海の観光情報や歴史を発信!旅の途中の休憩スポット。来宮神社と中心市街地を結ぶ宮坂の途中にある散策サポート施設。内部には休憩用のベンチがあるほか神社に関する映像や天気、ニュースなどを放映するモニターを設置。観光パンフレットや周辺の観光案内図なども提供していた。「結び葉」とは春に御神木の大楠にも見られる親の葉と子の葉が重なっている状態を指し、「繋ぐ」という意の枕詞であると。神社へと繋がる『結び葉』参拝前のプロロ-グを感じ参拝後、旅の仲間同士で無料Wi-Fiを利用して地域の情報を共有する事ができる と。「来宮神社 案内図」。内部。様々なパンフレット・マップが。休憩用のベンチも。「漲(みなぎ)る生命力 樹齢二千年超 御神木「大楠」に逢う。」「大楠」。近づいて。「国指定天然記念物 本州一の巨樹」「大楠」前の「小社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.26
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そして次の目的地の「湯前神社」に向かって「湯汲坂」をさらに上って行った。そして「湯前神社(ゆぜんじんじゃ)」に到着。石鳥居の扁額「湯前神社」。「熱海市指定文化財湯前神社 石鳥居・石灯籠 平成十八年十二月四日熱海市教育委員会指定(第建三号・第建四号)<認定理由> 湯前神社石鳥居、石灯籠(境内中段左右二基)は、江戸時代に熱海温泉に当時した大名が寄進した石造物で、熱海温泉の歴史を考える上で特に意義のある資料です。熱海市内には、江戸時代に遡る石丁場がいたるところに存在し、産石業が盛んであったと考えられるが、伊豆東海岸で多く産出される安山岩を使用して作られた石鳥い、石灯籠は熱海市の産石業を考える上で貴重な資料です。<由来> 石鳥居安永九年(1780)八月に第七代久留米藩主有馬頼徸(よりゆき)公が来湯し、九月に御帰館する際、湯前権現(現湯前神社)に寄進されたものです。石鳥居の高さは345cm、横幅410cm、柱の太さは105cm(直径35cm)で両柱の石をくり抜き造りあげた石の鳥居は、全国的にも稀な建造物です。石灯籠宝暦八年(1758)夏に第七代久留米藩主有馬頼徸公が熱海に来湯した際、湯前権現(現湯前神社)に寄進されたものです。石灯籠の高さは205cm、横幅75cm、柱の太さは105cm(直径35cm) 石鳥居・石灯籠とも関東大震災等多くの自然災害にも倒壊することなく今日に至っていますが 石鳥居は、柱に捩れが生じたことから平成15年5月に基礎部分の修復工事を行いました。寄進の時期は、石鳥居・石灯籠の本体に刻印があります。」〈頼徸公〉正徳4年11月24日~天明3年10月23日(1714~1783年)有馬頼徸公は、久留米に生まれ享年14年に久留米に生まれ享保14年に久留米藩第7代藩主となり、治世は11代藩主中で最も長い55年間でした。(享年70歳)関流算学の大家として日本数学史上に特筆され、その功績により明治44年11月15日、明治天皇より従3位を追贈されました。年譜(熱海関連)宝暦8年(1758)4月28日 腰痛の為歩行困難、願い出て豆州熱海へ御湯治宝暦8年(1758)5月26日 御帰殿明和元年(1764)8月8日 豆州熱海、宮ノ下御湯治のため御出駕明和9年(1772)9月7日 御帰館安永9年(1780)8月8日 豆州熱海湯治御願済安永9年(1780)8月16日 御出駕安永9年(1780)9月18日 御帰館、熱海御湯治中熱海権現へ常夜灯油代御寄附 平成20年10月 湯前神社奉賛会」「湯前神社由来記祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ) 玄古(いにしえ) 大巳貴神(おおなもちのかみ)、少彦名神の二柱我が秋津洲民が夭折 (わかじに)することを憫(あわれ)み禁薬(くすり)と温泉の術を制めたまいき (伊豆風土記)とある如く温泉の神として古代から尊崇されている。例祭 二月十日。十月十日。由緒 旧記に依れば「今から一千二百余年前(天平勝宝元年)神、小童に託して曰く、 諸人此なる温泉に浴せば諸病悉く治癒せんと 因って里人祠をたて少彦名神を祀る」と あり。 然れども往古熱海に温泉の湧出せし時には既に祀られしものと考えられる。永正十八年、 寛文七年に再興している。平安朝の頃より徳川明治に至るまで公家、将軍、大名等を 始め入浴者及び一般庶民の崇敬が篤い。特殊神事 献湯祭(けんとうさい)。湯汲み道中。 毎年春秋二季節の例祭に当り神前に元湯の温泉を献湯して浴客の健康安全を祈り併せて 江戸城へ当温泉を献上し往古を偲んで古式に則り「湯汲み道中」が行われ 此の日は 市中が賑わう。 撰文 雨宮治一 書 鈴木丹陽」社号標石「湯前神社」。右手に「手水場」。ところがこの水が温泉で ・・・ あちち という熱湯であった。水盤の上の段に子を抱く夫婦神のように見える像があったが、こちらの祭神は 「少彦名神と大巳貴神(大国様)」であるので手前の像は少彦名神?久留米の殿様が寄進なさったという石灯籠か。拝殿に向かって石段を上る。この石柱は?狛犬(右)。狛犬(左)。正面に拝殿。扁額「湯前神社」。拝殿には細かい彫刻もされていて綺麗に管理されていた。内陣。「源実朝の歌碑「都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ」「源実朝の歌碑」について建仁三年(一二○三)九月一五日、鎌倉三代将軍となった源実朝は、初代源頼朝によって始められた箱根権現と伊豆山(走湯)権現の「二所詣」を、最も真摯に受け継ぎました。この歌は建保二年(一二一四)正月、実朝二十三歳、第四回目の二所詣のとき、箱根権現から三島社を経て伊豆山権現に向かう途中、熱海のこの地にさしかかり、海岸に湧出する温泉(大湯)を見て、崇め讃えて詠んだものと思われます。天和元年(一六八一)に描かれた「豆州熱海絵図」にも湯前神社を示す絵図とともに実朝のこの歌が記されています。 案内板提供・湯前神社奉賀会」「都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ鎌倉右大臣 源 実朝」と。「顕彰碑」と「奉納碑」。「顕彰碑神戸千三氏は安政元年六月二十日埼玉県北企郡小川町に生まれる。十九歳にして・志を立て上京し刻苦勉励により信盛堂を創立す。・・・」明治三十一年(1898)、火災によって当社の社殿が焼失してしまい、氏子一同が再建を企画したものの資金不足で社殿の建設する事が難しい状況が続いていた。その頃、病気療養のため熱海温泉に逗留していた実業家・神部千三氏が事情を知って大枚千円を寄進されたと。明治四十四年(1911)、氏子念願の社殿が再建されたのだと。「一金 壱阡円也東京神田神部千三明治四十三年二月」。明治40年代の1000円は今の200万円程度か?石段上から境内を見る。「湯前神社」を後にして、さらに坂を上る。左側の空き地にあったのは温泉掘削機であろうか?以前にテレビでやっていたが、地温は地下100mに掘下げるごとに約3℃づつ上昇すると。温泉法では25℃以上が温泉と認められるため、単純に地下深く1000m掘削すれば地下水温度が約30℃上昇することになり温泉井となるのだと。これは非火山性温泉といわれ、現在では掘削技術の進歩による大深度掘削にて高温度の地下水をくみ上げる温泉が多数あるのだと。また含有成分により10種類の泉質が定められているのだ と。そして先程訪ねた「湯前神社」を横から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.25
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「第15回あたみ桜糸川桜まつり」を大いに楽しんだ後は、熱海の社寺、名所を訪ねることに。「湯汲坂(ゆくみざか)」を上って行った。熱海ニューフジヤホテル北の角から、湯前神社前まで長さ80mのやや急坂が「湯汲坂」。北西に向って少し左右に曲がりながら上って行った。「湯汲坂温泉通の角~湯前神社80m湯前神社大湯間歇泉オールコックの碑と愛犬トビーの墓日本初の公衆電話(明治22年)湯汲道中(秋)献湯祭(春・秋)」そして「小沢の湯(平左衛門の湯)」に到着。熱海の街を歩くと、坂道のところどころから湧き出す湯気が発見できるのだ。「熱海七湯」といわれる源泉。源泉を巡り、長い歴史と温泉情緒に触れることが出来るのであった。熱海七湯の一つ、「小沢の湯」。この「小沢の湯」では、吹き出す蒸気で温泉卵を作って食べることができます。地元の人も旨いと太鼓判を押す、熱海のちょっとした名所なのであった。2023年7/1リニューアル完了。蒸し釜が2つになり、ベンチも新設されていたのであった。蒸し釜に近づいて。「高温注意蒸気が高温のためご利用の際は火傷をしないようご注意ください。たまご以外のものを温めたり、調理するこをしないでください。天然温泉のため、蒸気が出ない場合があります。」と。折しも、卵を茹でている家族連れが。ゆで卵の写真を撮らせていただきました。「小沢の湯(平左衛門の湯)沢ロ弥左衛門、前井文次郎、米倉三左衛門の立の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また、土地の人は小沢にあったので「小沢の場」とも称しました。「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いにき、小さな声てべば小さく湧き出たといわれています。」そして「ニューフジヤホテル」の角まで進むと「大湯間歇泉(おおゆかんけつせん)」案内板があった。そして「湯汲坂」の途中、左手にあったのが「大湯間歇泉(おおゆかんけつせん)」と「電話ボックス」。こちらが「大湯間歇泉」。「大湯間歇泉と噏滊館熱海温泉には、江戸幕府を開いた徳川家康が二度、熱海に来ています。最初はまだ天下をとる前の慶長2年(1597)二度目は征夷大将軍となったあと慶長9年 (1604) 3月で、この時には義直(のち初代尾張藩主)と頼宜(のちの初代紀伊藩主)の二人の息子を連れて今井半太夫の本陣を訪れ、大湯で7日間の湯治を行いました。家康はこの湯をたいへん気に入り、同年7月には伏見城に参勤にきた周防の古川広家のために熱海から大湯5桶を取り寄せています。 4代将軍家継の時代には、江戸の将軍家にこの大湯を献上する「御汲湯(もくみゆ)」が始まり、8代将軍吉宗や10代将軍家治の時代にも多くの湯が運ばれました。当時、大湯は昼夜6回、ほぼ同じ時刻に蒸気と熱湯の噴出を繰り返し、その様子を江戸後期の戯作者(げさくしゃ)山東京山(さんとうきょうざん)は「石龍熱湯を吐くがごとく 湯気雲のごとくたち昇り泉声雷(せんせいらい)のごとし。本朝第一の名湯なり。」(『熱海温泉図彙』)と記しています。 また、およそ一か月に一度、「長湧き」といわれる昼夜続けざまの噴出があったといわれています。 「明治に入り、維新で活躍した政治家や実業家らが熱海温泉に続々と訪れるようになると、明治18年(1885)、この地に日本の近代的な温泉療養医学センターともいうべき「噏滊館」が建設されました。これは地元から土地の献納を受けてつくられた宮内省直轄の施設で、規則正しく噴出する大湯間歇泉からの蒸気を患者が吸入し胸部疾患治療を施すというものでした。さらに館内には、体重計、身長計、肺活量計、寒暖計、温度計、 気圧計、雨量計など医療及び測候に必要な当時の最新機器も備え、別に浴室を設けて入浴療法などもおこなわれました。 また、明治22年(1889)噏滊館内に日本最初の市外電話 (東京一熱海間) が設けられ、大日本帝国憲法発布の報道も全国で熱海にだけ電話で通報されたといわれています。 明治24年(1891)、噏滊館は宮内省から温泉業者一同に払い下げとなりましたが、昭和9年(1934) に焼失するまで、 熱海の名所の一つとなっていました。 噏滊館に噴出する蒸気を提供していた大湯は、明治以降、周辺で新たな源泉が開発されるとしだいに湯量や噴出回数が減少し、大正12年(1923) 関東大震災で一時的に噴出量が増したものの、再び衰え、とうとう休止してしまいました。 現在は、昭和37年(1962)の工事により人工的に湯を噴出させ、往年の大湯噴出の様子を再現しています。昭和52年(1977))4月25日、 史跡 「大湯間歌泉跡」として、 熱海市指定有形文化財に指定されました。」「オールコック」関連の石碑が並ぶ。「初代駐日英国公使サー・ラザフォード・オールコックSir Rutherford Alcock熱海ライオンズクラブ60周年記念事業 23th JAN.2018」右の石碑は「南無阿弥陀仏 徳本〔花押〕」 むかしこの噴出口に甲虫が群がり、熱湯に吹かれて死ぬ様が哀れであった。たまたまこの地に巡錫された徳本上人が梵法をおこないこの名号石を建てたところ、ふたたび虫は来なくなったという。文化12年(1815)のことであろう(『あたみの碑と像とレリーフ』熱海市観光施設課編、発行年不明)。左:オールコックの碑 碑文は「 予奉國命寫日本荏土府十有六月公暇無事茲萬延元年 庚申七月十八日發江都廿六日登冨士山廿九日到豆州 RA(September 1860) 羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留 浴熱海温泉十有四日愛玩山海奇勝之餘建此石使後人 知英人遊干此自吾輩始矣羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留」と。碑文の内容はchatGPTから 予、國命に奉じて日本荏土(えど)に寫(うつ)る。十有六月、公暇無事なり。 茲(ここ)に万延元年庚申(かのえさる)七月十八日、江都(えど)を発し、 廿六日富士山に登り、廿九日豆州(伊豆)に到る。 羅多保津斗安有留古津久(ラザフォード・アルコック)英國美仁須登留(イギリス・ ミニスター)熱海温泉に浴すこと十有四日。山海の奇勝を愛玩するの餘(かたわら)、 此の石を建て、後人をして英人の此に遊びしこと吾輩より始まるを知ることを使む。現代語訳 私は、国(イギリス)の命を受けて日本の江戸に駐在している。 1860年(万延元年)の7月18日に江戸を出発し、7月26日に富士山に登り、7月29日に 伊豆に到着した。 その後、熱海温泉に14日間滞在し、山や海の美しい景色を楽しんだ。 これを記念してこの石碑を建て、後の人々に、ここを訪れた最初のイギリス人が私である ことを伝えたい。右:愛犬トビーの墓 「Poor Toby! 23 Sept. 1860」と。 この墓石はいちど行方不明になったので、大正7~8年の大湯改修工事のとき、熱海館主の 岡野さだ氏が寄贈した2代目らしい とネットから。「オールコック滞在記念碑とトビーの墓碑初代駐日英国公使サー・ラザフォード・オールコック (1809~1897) は万延元年(1860) 7月、外国人として初めて富士登山をした際、帰路熱海に立ち寄り、本陣今井半太夫方に2週間ほど滞在しました。この滞在記念碑には「熱海温泉に浴し、山海奇勝(自然)を愛するあまりこの石碑を建て、後の人に熱海に遊んだ英国人は自分が最初であることを知らせる」ということが漢文で刻まれています。また、本国から連れてきた愛犬トビー(スコッチ・テリア)が、噴出した大湯に触れて大火傷を負い死んでしまった際、里人は人の死を悼むのと変わらない葬儀を行い、丁重に弔いました。オールコックは江戸に戻った後、自らの滞在記念碑とともに、「Poor Toby (かわいそうなトビー)」と刻んだ墓碑をこの地に送り届けました。攘夷派による外国人襲撃事件がたびたび起こり、日本人への印象が悪化していたこの時期に、オールコックは愛犬の死への里人の懇切な対応に心を動かされ、帰国後に執筆した著書「大君の都」 (1863年発刊)の中で 「日本人はまことに親切な国民である」と記し、英国世論が親日的となるきっかけをもたらしました。」現在は人工的に、定期的に噴出させているとのこと。人工間歇泉・「大湯間歇泉」をカメラで追う。「大湯古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。しかし、その後も噴出回数は減少しつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。昭和3 7年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至ってます。」と人工的な間歇泉であることが書かれていました。「熱海温泉湯源沸湧之図(大湯)」。左にも石碑があった。「市外電話創始の地明治22年(1889年)1月1日 この場所にあった内務省の 噏滊館と 東京木挽町の東京電信局との間に わが国で初めて公衆用の市外通話が行われました。これはアメリカのアレクサンダー・グラハム・ベルが電話機を発明してから 13年後のことであります。 昭和37年3月 日本電信電話公社」。復元された「日本初の電話ポックス(白ぬり六角形)」。「市外通話発祥の地 熱海温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明治の頃、多くの政治家や政府高官が保養や会談のため来遊し、東京との連絡が頻繁に必要であったことから、東京~熱海間に電話回線が敷かれ明治22年(1889)1月1日に開通しました。電話器は、東京側では木挽町の東京電信局に、熱海側では宮内省の噏滊館内に設置され、通話料と呼出手数料をとって公衆電話の取扱いが開始され、これが日本で最初の市外通話となりました。東京~横浜間で電話交換業務が始まったのは、この2年後の明治23年(1890)の12月のことです。この電話ボックスは、熱海市が市外電話にゆかりの深いことから、明治33年(1900)に東京の京橋のたもとに設置された日本初の電話ポックス(白ぬり六角形)を模して復元したもので、昭和43年(1968) 10月に「明治百年」を記念してつくられ、その後、2度にわたり改装しています。 平成31年4月 熱海市」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.24
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3月21日(金)に続いて、昨日3月22日(土)の我が家の近くからのダイヤモンド富士をカメラで追う。時間は17:34。ズームすると、富士山の裾野の稜線が僅かに確認できた。夕陽をズームして。そして富士山の山頂に沈む太陽・この日もダイヤモンド富士。一昨日・3月21日(金)に比べて、太陽の半径分が右にずれた感じのダイヤモンド富士。しかし、なんとかギリギリで山頂に沈むダイヤモンド富士なのであった。富士山頂に沈む太陽をズームしながらカメラで追う。遠景を。山頂と裾野の稜線に沈む太陽。そして裾野の稜線上に輝く太陽を追う。そしてこの日もエピローグへと。太陽の輝きは完全に隠れて。僅かに、富士山の裾野の稜線上が点線上に輝いていたのであった。そして完全に輝きを失った富士山の山頂そして裾野の稜線。遠望して。そして再びズームして。時間は17:49前。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.03.23
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「桜橋」を過ぎてさらに上流に向かう。青空を背景に。「ドラゴン橋」に到着。ドラゴン橋に円形のフォトスポットが出来ていた。夜桜用の円形ライトであっただろうか。セルフタイマーで撮影出来るようにカメラやスマホをセットする台もあり皆さん順番に記念撮影されていたのであった。さらに満開の「あたみ桜」の並木を上流に向かって進む。このオブジェの水溜まりには多くのコインが。そして蟹・カニの姿も。「新柳橋」の上から。ピンクのブーゲンビリアも負けじと。メジロが激しく飛び回っていた。「メジロ」くんの追って。この写真の中にもメグロがいるはずだが。ヒラメの姿も。私が訪ねて、1ヶ月以上経過したが、既に散って葉桜になっているのであろうか。そして、この日の散策の「スタート」地点の「御成橋」まで戻る。「御成橋」。今年の「糸川遊歩道」の「あたみ桜」も見納め。そして、最後に「メジロ」を追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.23
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ムーンテラス先端の北側の丸い地球儀を模した中には、「北極」、「アンカレッジ」、「ロトルア」「シドニー」等の方向を示す名前があった。北方向に「北極」、「ウラジオストック」と。ムーンテラスにある「恋人の聖地」のモニュメント。頂部は熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインで噴水の水が流れ落ちる。再び熱海城と熱海後楽園ホテルを見る。熱海サンビーチ方向の高層マンション群を見る。再びムーンテラスにある「恋人の聖地」のモニュメントを。スカイデッキとスパ・マリーナ熱海そして熱海城。「大島」の姿も。再びカモメを。熱海~伊豆大島、神津島航路の高速ジェット船「セブンアイランド大漁」👈️リンク。熱海~伊豆大島を45分で結んでいると。そして引き返して国道135号に架かる「熱海渚橋」方向へ。「熱海渚橋」。「熱海渚橋」。円形のガラス部には魚の姿もデザインされて。その先に「渚遊歩道」。「渚遊歩道」から糸川遊歩道の桜並木を見る。前方に「柳橋」。ザバーン!波をモチーフにしたダイナミックなデザイン。 工事現場前の「熱海桜」。フェンスにも美しい陰が。「柳橋」の波頭。波頭の上ではカモメがサーフィン中。花の色は淡い紅色で、花径25ミリから35ミリくらいの中輪。一重咲きで花びらは5枚、花びらの形は楕円形。一総につく花の数は1から3輪。散りぎわには花芯が赤味を帯びて来るようである。前方に「糸川橋」。「あたみ桜」の「花」をズームして。メジロを。「糸川橋」の上から。「柳橋」を振り返って。川面を覗き込むがごとくに。「糸川橋」近くの老木の「あたみ桜」も元気に。「桜橋」に向かって進む。再び鮮やかなピンク色の花びらにズームして。右岸にもランプ付きの石のベンチの如きオブジェが。近づいて。「桜橋」に近づいて。「桜橋」上から。赤のブーゲンビリアをズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.22
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今年2025年の春彼岸は3月17日(月)から3月23日(日)、中日は3月20日(木・祝)お彼岸とは、春分の日、秋分の日を中日(ちゅうにち)とする前後3日間のこと。仏教では「極楽浄土に想いをはせ、善行を積むべき大切な時期」だとされています。私は、実家の墓地の墓参りは、3月17日(月)に済ませました。今日は3月21日(金)、天候が良ければ、我が家からダイヤモンド富士が見えるのであった。無料ソフト「ダイヤモンド・パール富士マップ」👈️リンク で、この日のダイヤモンド冨士を見ることが出来る場所を確認。拡大して、場所を再確認して外に出る。紫の直線が、ダイヤモンド冨士の中心線。昨日は、残念ながら富士山の姿が見えなかったが、今日は太陽が富士山に近づくに連れて富士山の姿が、刻々と浮かび上がって来たのであった。少し移動して。ズームすると富士山頂の稜線がはっきり確認できた。冨士山頂にジワジワと近づく太陽。そして富士山頂の稜線に接触。時間は17:36。ズームして。「ダイヤモンド富士」とは、富士山頂に太陽が重なる瞬間、ダイヤモンドのように輝く光学現象。日の出と日没時に見ることができるのだ。ダイヤモンド富士は年に2回しか見られないのはなぜ?富士山が見える地域なら、どこからでもダイヤモンド富士が見られるというわけではない。富士山が東か西の方向に見える場所で、気象条件がよければ、年に2回、ダイヤモンド富士が見ることが出来るのだ。我が家は、富士山山頂のほぼ「真東」にあたるのだ。ジワジワと富士山頂中央に向かって沈む太陽を追う。天と地が一瞬の約束を交わすが如き奇跡?の光景。ズームして。さらに。富士の頂に太陽が重なるその瞬間、光はまばゆく輝き、まるでダイヤモンドが天空に舞うかの如くに。黄金の光が山の輪郭を包み込み、影と輝きが交錯するのであった。神秘的な静寂の中、時が止まったかのような感覚に陥る瞬間であった。眩い光が次第に溶けていくにつれ、心には余韻だけが残り、自然の偉大さと宇宙の調和を感じさせるのであった。ウクライナ侵攻、パレスチナ問題・・・等の早期平和の実現を!!そして富士山頂中央に太陽の半分が隠れて。これぞ「ダイヤモンド富士」の瞬間。ダイヤモンド富士には様々な解釈があるようだ。今日の如く、富士山頂のフラットな部分のど真ん中と太陽が重なる場合のみダイヤモンド富士とする考え方が一般的であるが、富士山頂のフラットな部分のどこかと太陽が重なる場合もダイヤモンド富士としている場合も多いと。従って、富士山の稜線と太陽が重なる場合はダイヤモンド富士と呼ばないのが前提であるのだ。時間は17:38。電線が無ければ・・・と我儘にも。そして、今日の「ダイヤモンド富士」もエピローグへと。山頂で生まれた雲も黄金に輝いて。沈み行く太陽を、後ろ髪を引かれながら見送るが如くに。そして「祭りの後の静けさ」の如くに。その寂しい余韻に浸るのもまた風情だと感じる、後期高齢者カウントダウンの爺さんがいたのであった。「後期高齢者」の四文字が、じわじわと自分の肩にのしかかってくるのを感じながら、それでも、部屋に戻り、このブログを書きながら、今日も一杯の熱いコーヒーをすすり、「まあ、まだ先の話だ」と心の中でそっと小さく笑う男がいたのであった。 ・・・つづく・・・
2025.03.21
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さらに熱海・糸川のあたみ桜遊歩道左岸を下流に向かって進むと、右に見えて来たのが「あたみ桜基準木」。「あたみ桜基準木 平成二十年十二月選定」と。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって、熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。」メジロがここにも。「糸川橋」から糸川の上流を振り返る。今年は、赤のブーゲンビリアの花はほとんど開花していなかった。昨年2024年1月31日のブーゲンビリアの花の写真。「糸川橋」から白のカモメの姿の欄干越しに下流方向を見る。「柳橋」の欄干を見る。糸川の堤防壁には熱海の海の姿・魚やカモメが。ズームして。「糸川橋」を振り返って。「柳橋」上から、海の姿が現れた。欄干の波頭の上にはカモメの像が。前方に「渚歩道橋」。昨年よりは色合いが薄い今年の「熱海桜」。昨年2024年の写真を。昨年2024年の写真を。そして「熱海城」をズームして。国道135号に架かる「熱海渚橋」を渡り「熱海親水公園(ムーンテラス・スカイデッキ・レインボーデッキ・渚デッキ)」へ。「熱海城」を再び。豪華なヨットが停留中。北イタリアのサンレモ市リビィエラ海岸をイメージした「レインボーデッキ」から「ムーンテラス」方向を見る。「初島」を見る。初島(はつしま)は、静岡県熱海市に属する島である。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。ズームして。伊豆半島東方沖の相模灘に位置しており、熱海市の本土から南東に約10キロメートルの海上、 熱海から高速船で約30分にあるため、静岡県の最東端でもある。2018年(平成30年)時点での人口は193人、114世帯である。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住している。火山島が活動を終え、浸食されて海中に没し、その後に隆起してできた島と考えられている 。最高地点が33.5 m(三角点)と平坦で、これは波によって削られた海底の平坦面が隆起したことによる。島内には数段の隆起段丘があり。1923年の関東地震では1.8-2 m隆起し、これが最新の隆起となる と。古来より島の北部に位置する宮の前地区が選ばれて移動しないのは次のような原因があると思われます とネットから。1.生活していくには水が必要です。昔、島でただ一つの自然湧水がここにありました。2.せまい島なので、昔は自給自足で、耕地を確保するために一個所に固まった方が 土地の有効な利用がはかられたからだと思います。3.漁をするのに便利な港がこの北西側でありました。。4.熱海、伊豆山、小田原が見渡せるところがここでありました。航空写真をネットから。上が北方向。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住していることが判るのであった。「レインボーデッキ」のカモメの姿を追う。幼鳥は全身が灰褐色の羽毛で被われ、肩を被う羽毛や翼上面の外縁(羽縁)が淡褐色。和名は幼鳥の斑紋が籠の目(かごめ→カモメ)のように見える事が由来とされる。尾羽の先端が黒い。嘴は黒い。後肢の色彩は淡ピンク色。再び熱海城とその下中央に「熱海後楽園ホテル」と左「ホテル ニューアカオ」。「ムーンテラス」。サンビーチ及びムーンテラスは「恋人の聖地」に認定されており、テラス尖端の噴水には恋人達が愛を誓い合う事の出来るモニュメントがある。テラス尖端の噴水をズームして。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザイン。「国道135号」への石段の壁には水族館の如くに多くの魚やカメの姿が。そして「熱海桜」の木の下にあったのが「釜鳴屋平七夫婦像」。移動して。台座には「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起こった漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳 武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」左手を上げて「伊豆大島」の方向を見つめて。ズームして。さらに。「熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑大正14年京城(ソウル)生まれ。戦後映画界で、女性脚本家の草分けとして執筆を開始。後に黎明期のテレビに活躍の場を移し、ドラマの発展を支えた。日本人の心と家族の絆を温かく描き、多くの視聴者に感動を与え、愛された。ドラマは海外でも放送され、文化を超えて高評価を得る。壮絶な戦争体験から物語には平和への祈りも込められた。熱海を慈しみ、この地で多くの作品を生み出した。熱海市名誉市民、テレビ界で初の文化勲章を受賞。従三位。主な作品おしんおんな太閤記春日局愛と死をみつめて女たちの忠臣蔵源氏物語渡る世間は鬼ばかり 橋田壽賀子。」「釜鳴屋平七夫妻」を横から。海の先を見つめる「釜鳴屋平七夫妻」像を後ろから。移動して。熱海サンビーチの先のマンション群を見る。真鶴半島・真鶴岬をズームして。真鶴岬の先に浮かぶ「三ツ石」をズームして。再びモニュメント「恋人の聖地」に向かって進む。陸から沖に突き出すようなかたちをしているムーンテラスの先端にある「恋人の聖地」。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザイン。ズームして。「熱海ムーンテラス」と。再び熱海城を「スパ・マリーナ熱海」👈️リンク 越しに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.21
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ポスター「第15回あたみ桜 糸川桜まつり」 令和7年1月11日(土)~2月9日(日) ライトアップ 16:30~23:00「第81回熱海梅園 梅まつり」 令和7年1月11日(土)~3月2日(日) 8:30~16:00 入園料 一般300円「御成橋(おなりばし)」に到着。家康公が熱海を訪れた際に通った橋・(「ここを通って御成りになった」ことから名付けられたとされる)「御成橋」。「糸川遊歩道マップ」。御成橋~桜橋までが車両通行止めとなっていた。「御成橋」上から「糸川」に流れと両岸の「熱海桜」。⽷川沿い(57本)、さくらの名所散策路(87本)、梅園前市道(23本)、海浜公園(11本)、渚⼩公園(15本)、親⽔公園渚デッキ(17本)ほか、サンレモ公園、釜鳴屋平七像、梅園内、市役所花ひろば、貫⼀ホテル斜め前、伊⾖⼭国道交番前、姫の沢スポーツ広場駐⾞場前、来宮駅前などで開花中と。ここ「糸川べり」には熱海市中央町の「赤線」があったことを知ったのは初めてこの桜を見に来た時。この日は雲一つない晴天で、「あたみ桜」が昼の陽光に輝いていた。タコのオブジェ。水を求めて這うタコの姿が。リアリティのあるオブジェに近づいて。吸盤はないし色は白、でもなぜだかとっても可愛らしい!「新柳橋」から。見上げて。熱海ザクラの特徴は1.開花時期が早い ・例年 1月中旬~2月下旬 にかけて咲き、河津桜よりもさらに早く開花します。 ・静岡県熱海市を中心に植えられ、冬の花見を楽しめる桜として知られています。2.花の色と形 ・淡紅色(薄いピンク)で、やや濃いめの色合いを持つものもあります。 ・花びらは5枚 で、一重咲き。3.花の咲き方 ・長く咲き続ける(約1か月間楽しめる)。 ・房状にまとまって開花するため、ボリューム感のある花姿になります。4.由来と歴史 ・原木は、江戸時代末期(1850年頃)にインドから持ち込まれた桜が元になった。 ・その後、熱海で育てられ「熱海ザクラ」として広まる。5.ソメイヨシノとの違い ・ソメイヨシノよりも 開花が2か月ほど早い。 ・花の色がやや濃く、持続期間が長い。 ・樹形はソメイヨシノよりも自然に広がる傾向がある。メジロを発見。全長11.5cm。日本では全国の平地から山地の林にすんでいます。西南日本の常緑広葉樹林に多く、北海道では少ない鳥。市街地の庭や公園にもいます。特徴は、目のまわりの白いフチドリ(これも短い羽毛です)。からだのあざやかな黄緑色から、鶯と間違える人もいます。市販のウグイス餅のキナコがメジロのからだに似ている、というややこしいことも、その原因になっているのでしょうか。ウグイスはやぶの中にいて、なかなか姿を見せてくれませんが、メジロは椿などの花の蜜が好き(舌が人の使う筆のようになっており、花蜜にさし込んで舌の先に含ませるようにして食べています)。「ドラゴン橋」近くから。「ドラゴン橋」の上から。竜を題材にした迫力ある欄干が特徴。「新柳橋」方向をズームして。移動して。橋の入口にあったのが「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成25年1月吉日 熱海市長 齋藤 栄」「ドラゴン橋」上に列が。「ドラゴン橋」には自撮り用のスマホ置き場が用意されていた。糸川遊歩道にはいろいろなオブジェが飾られていたのであった。上部には波の姿が。近づいて。歌碑があった。坪内逍遥 歌碑「ちかき山に ゆきはふれれど 常春日 あたみのさとに ゆげたちわたる」「ちかき山に ゆきはふれれど 常春日 あたみのさとに ゆげたちわたる熱海をこよなく愛した坪内逍遥は、明治四十五年春ここ糸川べり荒宿に別荘を新築した。やがて時移りこの地も栄え、夜ごとのざわめきを避けて、大正九年水口に移り双柿舎を営み、ひたすら文筆に明け暮れ、昭和十年、七十七歳の多彩多難な生涯を終えた。シェークスピアの完訳をはじめ、小説「当世書生気質」戯曲「役の行者」舞踊「新曲浦島」「お夏狂乱」等の名作を世に送り、劇文壇、さらに早稲田大学文科の創設など教育面にも多くの先駆的な足跡を残した。ここに先生の熱海を詠まれた歌一首を刻して、先生の敬慕のよすがとした。 昭和六十ニ年六月七日 逍遥協会」そして「桜橋」へ。赤のブーゲンビリア。背景にして。ズームして。糸川の川岸にも遊歩道が。房状にまとまって開花するため、ボリューム感のある花姿に。これぞ八重の鈴なり、いや鈴咲き。石のベンチの如きオブジェは草木に覆われていた。「熱海桜」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.20
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この日は2月14日(金)、テレビのニュースで静岡県熱海市の糸川遊歩道の「熱海桜」が満開を迎えているとのことで、電車を利用して向かう。小田急線、JR東海道線を利用してJR熱海駅に到着。時間は11:50前。「熱海桜」の咲く糸川遊歩道に向かって進む。「熱海温泉 仲見世通り商店街」の中を進むことにする。「熱海温泉 仲見世通り商店街」の手前にあったのが「熱海軽便鉄道7号機関車」。明治時代に小田原と熱海を結んだ軽便鉄道の機関車熱海駅前に保存されていた。移動して。「熱海軽便鉄道7号機関車この機関車は明治40年から大正12年まで、熱海=小田原問の25キロメートルを2時問40分かかって走っていたものです。この鉄道は、関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍したのち、神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げを受け修復して、ゆかりの深い故郷へ貴重な交通記念物としてかえってきたものです。機関車の規格車輌の長さ 3.36m、高さ 2.14m、幅 1.39m、重さ 3.6t、時速9.7km 客車定員 40~50名◎熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分」「熱海温泉 仲見世通り商店街」入口。熱海駅前には「平和通り」とここ「仲見世」、2つの商店街があり、創業60年、70年といった老舗店もある。ショッピングモールとはちがい、小さい個性的な店が集まっていて、日本独特のショッピングが体験できるのだ。飲食店、カフェ、寿司店、干物屋はもちろん伊豆半島の土産が勢ぞろいのお土産屋さんも! 熱海温泉ホテル旅館協同組合公式キャラクター「あつお」グッズも各種あった。仲見世商店街のアーケードに入ったところ、左手にある蕎麦専門店。「戸隠楚者(そば)」という看板が掲げられている店・「成木屋本店」。右下には「生楚者(きそば)」の看板も。「熱海温泉」の懐かしき昔の写真が。近づいて。「熱海名勝 大湯の歴史熱海温泉の歴史は古く、伊豆風土記の記述(713年)が一般的に知られています。それによれば「天孫降臨に先立って大己貴命は、秋津の国の民が若死にするのを憫んで少彦名命に製薬温泉之術を与えて伊豆国の神の湯に遺わされた。この湯は普通の湯ではなくて一昼夜に二度烈しく沸騰して噴出する。これを桶に入れて身を浸すと諸病が悉く治った」とあります。この記述が熱海七湯の大湯間歇泉を示すとされています。現在の湯前神社前に間欠泉跡が残されています。」下記は「熱海大湯」の間欠泉の写真。「大正時代初期 軽便鉄道 熱海駅にて」。「熱海ジェラートキング」には長蛇の列が。ネットから。「又一庵 熱海ばたーあん」の店にも。こちらもネットから。あんこぎっしり。バターとろける。フンワリしているけど張りのある薄皮のパン生地の中には、たっぷりの又一庵の粒あんと、少しレトロなコクのあるバタークリーム。400円(税込)と。「昭和42年? 仲見世海側入口」写真と。「昭和40年代といえば、社員旅行で多くの方がおとずれたのでは」ポスター「RESORT CITY ATAMI」。「熱海温泉 仲見世通り商店街」を過ぎて、「田原本町」交差点を左折すると「熱海桜」が迎えてくれた。これぞ満開!!例年の開花時期は1月中旬〜2月中旬であり、最も有名な早咲き桜であるカワヅザクラ(河津桜)より1ヶ月ほど早く、沖縄のカンヒザクラ(寒緋桜)や、伊豆市土肥のトイザクラ(土肥桜)などと共に、日本において(年明け後の)最も早咲きの桜の一種とされる。しかし、今年は1週間以上、開花が遅れたのであった。ズームして。また通常の桜が開花期間が1〜2週間であるのに対し、アタミザクラは2段階で開花するため、1ヶ月程度開花を楽しむことができるのだ。熱海市内では、市街地の糸川沿い(糸川遊歩道)、親水公園周辺、熱海梅園周辺、さらに南熱海(上多賀)の「さくらの名所散策路」(四季の道)の4箇所を中心に植栽されており、特に糸川沿い(糸川遊歩道)では1月中旬〜2月中旬の開花時期に合わせて「糸川桜まつり」が開催されているのだ。糸川遊歩道(58本)親水公園周辺(渚デッキ17本、渚小公園15本)熱海梅園周辺(園内4本、園前23本)さくらの名所散策路(四季の道、87本) - 伊豆多賀駅と熱海高校をつなぐ遊歩道。他にヒマラヤザクラ15本、ソメイヨシノ5本 と。「名品展 The Best of Museum Collection MOA美術館」ポスター。前方に温泉旅館「大江戸温泉物語Premium あたみ」。大江戸温泉の右側には案内板と人車のレリーフが描かれていた。「豆相人車鉄道 熱海駅舎跡」。実際の人車鉄道熱海駅の終点の地は現在の大江戸温泉。実際に3人で手で押している光景。「豆相人車鉄道「豆相人車鉄道」は雨宮啓次郎氏と、地元の有志20余名の努力によっ て、 明治29年(1896)3月,熱海-小田原間(25km)全線が開通した。 所要時間は4時間ほどであった。この人車鉄道は定員6名あるいは 8名の客車を3名の人夫が押すという、きわめて原始的なものであ った。明治29年当時の運賃は熱海から小田原まで、下等40銭, 中等 60銭, 上等1円、3歳未満は無料、10歳未満は半額というものであ った。「豆相人車鉄道」は日本最初のもので、 明治40年(1907)12月、 軽便鉄道にかわるまでの12年間、貴重な交通として利用された。」その先にあったのが「長壽の湯」。湧き出す湯が病を治し長寿に効験があるとされ、古くから信仰されて来た と。「湯名 長壽の湯 泉質 ナトリウム・カルシウム『塩化物温泉』性状 無色透明・無臭効能 神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩 リュウマチ・冷え症・慢性消化器病・病疾 疲労回復・健康増進・慢性婦人病・切り傷 やけど・うちみ・捻挫・慢性皮膚病・蕁麻疹 静岡県衛生環境センター分析」湯口。左に曲がり坂を下ると熱海七湯 「清左衛門の湯」があった。熱海七湯の一つ、「清左衛門の湯」は、昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壷に落ちて焼け死んだので、その名が付いたといいます。明治までは、昼夜常に湧き出てたえることがありませんでした。人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。その先にあったのが「古屋旅館」。右奥に唐門。古屋旅館の玄関である門は、黒澤明監督の映画『影武者』で使用されたもので、古屋旅館のシンボルと。創業1806年の古屋旅館を200余年にわたり守って来た内田家の先祖が武田系列の武士であったとの言い伝えもあり、門上部には武田菱が。「熱海四等郵便取扱所開設旧跡」碑。熱海郵便局は当初、古屋旅館の敷地内にて開設された。 現在郵便局は市中に移っているが、古屋旅館の歴史を語る一つ。1871年の郵便制度発足時の「三等郵便局」制度に由来する。三等郵便局とは明治時代に公費で郵便局を全国に設置することが財政的に難しかった中、全国にいち早く郵便制度を浸透させるため地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供させ郵便の取り扱い事業を委託する形で設置された郵便局。1875年(明治8年)1月に郵便役所及び郵便取扱所は郵便局と呼称し、一等から五等までに区別されたと。ヘアピンカーブにある「坂町の寺桜」が右手に。昔、この場所が医王寺の境内であったことから「寺桜」、「坂町」は当時の地名に由来しているのだと。この桜は樹齢およそ140年の大寒桜で、昭和に起きた2度の大火を生き抜いたことから「幸運の桜」としても知られています未だ蕾も小さく。糸川に向かってさらに坂を下る。「熱海七湯 風呂の湯・水の湯」。「風呂の湯」は、かつての坂町(現在の咲見町)にあった高砂屋・大木円蔵の邸宅の庭から湧き出ていた。ちょうど福島屋旅館の西側にあたる。この源泉は外傷にいいといわれたほか、盛んに噴き出す湯気で饅頭を蒸したり、酒を温めたりして販売していた。そして、風呂の湯から1.5mほどの場所には塩分のない温泉も湧き出ていた。この源泉は温度も低く、仏教学者の大内青巒(せいらん)が明治11年にまとめた『豆州熱海誌』には、「淡白無味常水を温めたるものの如し故に水の湯」と記されている。江戸時代は「目の湯」以外の源泉を「熱海七湯」と称していたが、明治期に「水の湯」をのぞいたものを指すようになったとのこと。湯口に近づいて。「八重寒梅」も開花を始めていた。「熱海七湯巡り」と「風呂の湯・水の湯」案内板。「熱海七湯巡り古来から数ある源泉の中でも、熱海温泉の歴史に重要な位置をしめてきた「熱海七湯」。その七つの源泉をめぐり「熱海七湯」にまつわる話と歴史にふれ、湯の町情緒を楽しんでみてください。」「風呂の湯・水の湯「風呂の湯」は、昔の坂町高砂屋の庭から湧き出ていました。今の福島屋旅館の西側です。この湯は外傷に良いといわれ、また、湯気の上騰が盛んで饅頭を蒸したり酒を温めたりして販売していました「風呂の湯」の傍ら1 . 5メートルほど東のところに塩分のない温泉が湧き出ていました。明治11年、大内青巒の熱海史誌には、淡白無味常水を温めるもののごとし、故に「水の湯」と名付くと記されています。」交差点角右側にあったのが「熱海 本家ときわぎ」。大正7年(1918)創業の老舗。折上小組格天井、雀や蝶の釘隠、鬼瓦など、昭和の宮大工の技術を惜しげなく使った宮造りの建物が目を引く。看板商品は、小豆本来の風味が感じられる「羊羹」。伝統の製法と味を守り、創業当初から幅広い年代に愛され続けている。店頭は他にも、「きび餅」や「うぐいす餅」など様々な和菓子が並ぶ。 様々な商品が並んでいた。人気の「百年羊羹」も。昭和23年完成の先代の「熱海 本家ときわぎ」の写真。向かいの同じ読みの漢字の店があったが、全く経営は別のようです。こちらは「常盤木羊羹店 總本店 (ときわぎようかんてん)」。「熱海で誕生した、鶴吉羊羹。常盤木羊羹店の代表銘菓、鶴吉羊羹シリーズです。伊豆山神社御用達の羊羹屋として、食の神様である伊勢神宮外宮に奉納しております。また、平成30年度より伊勢神宮内宮にも奉納しております。」と。「マカロンモナカ」。第26回全国菓子大博覧会 全菓博栄誉大賞受賞おみやげグランプリ2017 各国審査員賞受賞 と。 ・・・つづく・・・
2025.03.19
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「隨神門」右側の「脇門」。「脇門」から再び境内に入ると右手にあった「石碑群」。「神田神社(神田明神)・御防講(おふせぎこう)記念碑」。御防講は、警護団体の一種で、江戸町火消しの先駆けといわれる。神田明神は、江戸総鎮守で、江戸三大祭りの「神田祭」を執り行う神社として知られているのだ。右手に「火消しの纏」碑も。「生命の言葉 令和七年二月山かげに したたり落つる 山の水 大河となりて 野を流れゆく今上陛下 ー宮内庁 平成二十九年歌会始め お題「野」」「第22回 神田明神薪能明神能幽玄の花 石橋」ポスター。【あらすじ】中国・インドの仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師[大江定基]は、中国の清涼山(しょうりょうぜん)[現在の中国山西省]にある石橋付近に着きます。そこにひとりの樵の少年が現れ、寂昭法師と言葉を交わし、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であること、この橋は狭く長く、深い谷に掛かり、人の容易に渡れるものではないこと[仏道修行の困難を示唆]などを教えます。そして、ここで待てば奇瑞を見るだろうと告げ、姿を消します。寂昭法師が待っていると、やがて、橋の向こうから文殊の使いである獅子が現われます。香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れ、獅子舞を舞ったのち、もとの獅子の座、すなわち文殊菩薩の乗り物に戻ります。「尾上菊之助 改め 八代目 尾上菊五郎襲名披露 尾上丑之助 改め 六代目 尾上菊之助襲名披露お練り於 神田明神」ポスター。「さざれ石」。「さざれ石国家君が代に詠われている。永久の団結と繁栄の象徴名峰伊吹山山麓産出さざれ石美濃坂 謹撰」さざれ石(細石)は細かい石・小石のことで、それが巌(いわお)となった状態のものが”さざれ石”と呼ばれている。 学術的にはさざれ石(細石、さざれいし)は、小さな石の欠片の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などにより埋められ、1つの大きな石の塊に変化したもので 「石灰質角れき岩」 と呼ばれる。「さざれ石の巌となりて」は、日本国歌「君が代」の歌詞にある一節で、「長い時間を経て小さな石が積み重なって大きな岩となり、苔がむすほど子々孫々と国の平安が続くように」と祈る思いが込められています。「明神男坂 大公孫樹この公孫樹(いちょう)は、向い側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒ある樹木である。大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹であった。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和20年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲ったが、昭和9年建立の鉄骨鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造を持つ神社建築であったため焼失を免れた(国登録文化財)。その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます。災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。ひこばえの生育が後世までも受け継がれてゆくことを心より願うものであります。」近づいて。「本殿」を振り返って。西側にあった「神田明神男坂」を見る。神田神社の境内にある明神会館のわきから、東に下る石段の坂です。天保の頃、最初に作られたと伝えられています。「明神石坂」の別名もあります。「明神男坂『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた『町方書上』によれば、当時高さは4丈余り(約12m)、幅は2間(約3.6m)、石段数は68段と紹介されています。明治時代に入ると、「明神男坂」と呼ばれるようになりました。」「神田文化史」には「天保の初年当時かんだの町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名ですと。そして「JR御茶ノ水駅」に向かって進む。「東京下水道 合流 マンホール蓋東京都の花「ソメイヨシノ」、木「イチョウ」、鳥「ユリカモメ」がデザインされたマンホール蓋です。ソメイヨシノは中央に大きく。そして、花びらの間にイチョウの葉、それらをぐるりと囲むように13羽のユリカモメが描かれています。ユリカモメは別名「都鳥」とも呼ばれ、古代から詩歌や絵画の題材とされてきました。言問橋(隅田川)の由来とされる在原業平の歌にも登場しますから、いかに古くからこの地に馴染んだ鳥であるかがわかります。」「聖橋」を渡る。「聖橋」は神田川に架かり、昌平橋の上流約350mの所にあります。ニコライ堂がある神田駿河台四丁目と湯島聖堂がある文京区湯島一丁目を結んでいます。昭和2年(1927)9月8日に関東大震災の復興橋の一つとして架けられました。立体的な橋脚美は東京の新名所となり、北区滝野川の音無橋のモデルともなりました。橋の名は一般から懸賞募集してつけられました。長さ92.0m、幅22.0mの鋼及びコンクリ-ト橋です。こちらは、JR総武線、JR中央線、地下鉄丸の内線の車両が立体交差する絶景トレインビュースポット!なのであった。赤い地下鉄丸の内線の車両が上下線に。JR中央線が御茶ノ水駅のホームに。そしてJR総武線、JR中央線、地下鉄丸の内線の車両が。ニコライ堂(日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂)のドームが前方に見えた。そして「大崎駅」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.03.18
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「神田明神」の「本殿」の周囲を1周しながら数々の末社を巡り「本殿」の左側まで来て「本殿」の屋根を見上げる。 「昇殿参拝受付・資料館」。近づいて。入口ロビー内にあった「江戸城寛永度天守(模型)」近づいて。「江戸城寛永度天守(模型)私たちが再建を目指す徳川三代・家光の天守は、明暦3 (1657)年の"振袖火事"で焼失し、その後再建されず、江戸城は"天守なき城"となりました。模型は寛永度天守の72分の1ですが、実物は天守台を含めた高さが59mで、2 0階建てのピルに相当します。城模型創作者・長谷川進氏が主に段ボールなどて制作した傑作で、江戸城総鎮守・神田明神に奉納されました。(東京・神田明神資料館所蔵)」イメージ図をネットから。江戸城の天守は、初代将軍の徳川家康、2代将軍の秀忠、3代将軍の家光と、3代にわたって3度築かれました。それぞれの天守は元号にちなんで「慶長度天守」「元和度天守」「寛永度天守」と呼ばれています。中でも、寛永度の天守は寛永15年(1638年)につくられました。ですが、完成後わずか19年後の1657年(明暦3年)、「明暦の大火(振り袖火事)」での飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。(その後、前田綱紀によって天守台のみが再建されています。)再建されることのなかった寛永度の天守ですが、その設計図の基とも言える1枚の「建地割図」は今も遺されています。それによると、寛永度天守の高さは45メートル、天守台の高さは14メートル。合わせると59メートル、ほぼ20階建てのビルに相当する巨大なものでした。豊臣秀吉の大阪城天守は30メートルほど、現存する姫路城天守が31メートルほどの高さのため、天守の面積を比較してもから、寛永度天守は、姫路城の約2倍、体積は約3倍という、高さも広さも、他の城と比べて、まさに圧倒的な大きさでした。木造建築でこれ以上の高さの天守は不可能と考えられています。そして「江戸神社」。浦安稲荷神社の前にある「江戸神社」。もともとは現在の皇居内に創建された、大江戸最古の地主の神として崇められていました。古くは「江戸大明神」「江戸の天王」と称されていたそうです。そんな江戸神社の御祭神は、「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」です。建速須佐之男命は荒ぶる神として有名ですが、疾病防除や災厄防除の神様として信仰されています。扁額「江戸神社」。「三天王 一の宮江戸神社 御祭神 建速須佐之男命祭礼日 五月十四日大寶二年(七〇二)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長八年(一六〇三)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(一六一六)に当地に遷座された。江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(一八六八)に須賀神社と改称、更に明治十八年(一八八五)に江戸神社と復称された。この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(一六八四~)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について慶長十八年(一六一三)より始まったと伝えられる神興の神幸は六月七日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して十四日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称 千貫神輿 として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。」「江戸神社(詳細は由緒板をご覧下さい)殿内に御帳台として納められおります大神輿は 神田祭に市場発祥の地 神田多町への巡行渡御が行なわれます。千数百人の担ぎてにより手古舞・大獅子と共に宮入参拝が行なわれます。神田神社の三体の御祭神をお乗せした鳳輦・神輿を中心にした神幸祭には 時代行列・付け祭の行列を従がえ 土曜日夕方のご還座時には一キロ以上に及ぶ最大の行列となります。翌日曜日には早朝より夜間に至る迄宮入参拝の神輿が境内を埋め尽くします。大小二百台以上の神輿が街中で担がれる江戸っ子の姿は実に壮観なものです。今年の神田祭は五月十一・十二日の土・日曜日に斎行されます。」内陣には「神輿」が安置されていた。大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されている。慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に移った。江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称された。慶長10年6月7日に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われた。明治元年(1868)に神社名を「須賀神社」に改めた。同18年2月の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座した。その時に社名を今の名称である「江戸神社」に三度改めた。平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年、鹿野喜平・作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っている。今も江戸神社奉賛会の人々により崇敬されている。2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿が宮入している。写真はネットから。この石碑は?「新歳枝松之碑」「・・・・・」新年に欠くことのできない松の枝についての逸話かもしれません。「銭形平次」の顔出しパネルか?「小舟町八雲神社」。「三天王 三の宮 小舟町八雲神社御祭神 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)祭礼日 六月六日この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町[貞享年間(一六八四~)までは小伝馬町]お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目にはなな、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。神輿は六月十日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは十三日か十四日その間の里程は十三里に及んだといわれる。このことから十三里天王ともいわれた。近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。」近づいて。「魚河岸水神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。扁額「水神」。「魚河岸水神社御祭神 弥都波能売命(みつはのめのみこと)祭礼日 五月五日日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋群柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治24年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遙拝所が建てられ、市場に関わる当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。その後、昭和30年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久2年(1862)当時そのままの山車を再現した。隔年の行われる神田祭には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。」「神田 日本橋 桶工水溜講」碑。なお社殿の周辺には、神田日本橋の人々により大正13年(1924)12月に建立された「神田日本橋桶工水溜講」の石碑が建っていた。石碑裏によると人名は以下の通り。・・・以下略・・・「本殿」を1周して。「随神門」方向を。そして御札を販売する場所「神札授与所」。「御朱印授与所」も。「神田明神文化交流館」内を覗く。神田明神創建千三百年記念事業として、参拝者の憩いの場として神田明神文化交流館「EDOCCO」が建設された。1階の江戸っ子カフェ「マスマス」では、縁起の良いランチやスイーツをはじめ、夕方にはおでんや日本酒を楽しむことができる。神田明神様からの声援を届ける「神社声援」(ジンジャエール)を購入することもできるので、合格祈願などのお守りをボトルの首にかけ、贈答用として購入される方もいる と。エントランスの右手には神札授与所があり、御朱印(初穂料300円)などもこちらで頂ける。同フロアのショップでは、江戸グッズや神酒などここでしか買えないオリジナル商品が揃っていた。その他のフロアには、伝統芸能を楽しめるスタジオ、イベントホールや多目的ラウンジスペースなどが併設され、日本文化の活性化に繋がる活動の場として利用されているとのこと。土産物売り場。神輿。「江戸総鎮守 神田明神」カラーマンホール。マンホール蓋は兵庫県姫路市の鋳造大手、虹技株式会社さんより2020年6月に神田明神に奉納されました。奉納式も執り行われ、同社の山本社長も出席されました。神田明神は古くからその時代時代の文化に寄り添う神社として庶民に親しまれています。江戸時代の神田祭では、当時の流行であった能や浄瑠璃などをモチーフとした踊屋台や曳き物が町を練り歩いたそうです。近年でも、小説・時代劇で人気のあった『銭形平次』の碑が立てられたり、人気アニメ『ラブライブ!』とのコラボがあったり、初代タイガーマスクに関する特別展が開催されたり、将棋のタイトル戦「叡王戦」が行われたりなどなど、さまざまなジャンルの庶民文化に寄り添っています。マンホール蓋もその一環のようで、神田明神から虹技さんへ製作依頼が出され、虹技さんがそれを快諾し奉納されたということです。」と。「東京神田神社祭禮之圖」。ウッドデザイン賞を受賞した、木製の梁が天井一面に。「神社声援(ジンジャエール)」と。本物のすりおろし生姜を使ったこだわりの神社声援(ジンジャエール)。そのままでも割りものにしても美味しく飲める逸品 と。外に出て「少彦名命(えびす様)ご尊像」を訪ねた。神田明神境内に新たに建立された鳳凰殿のとなりに、二の宮のご祭神『えびす様』のご尊像が建立されていた。えびす様は正式のお名前を少彦名命(すくなひこなのみこと)と。神話に木の実を舟にして海の彼方にある常世から来訪された小さな神様と伝えられている と。ズームして。さらに「少彦名命(えびす様)ご尊像」をズームして。移動して。今回建立されたご尊像は、海の仲間(イルカやタイやトビウオ)に守られて大海原を渡られる『えびす様』の姿が造形されていた。東京芸術大学学長・宮田亮平教授によって、鍛金工芸の優れた技術で美しく完成した と。「少彦名命(えびす様)ご尊像神田明神の二の宮・少彦名命(えびす様)として親しまれ、篤い崇敬をお受けになられております。えびす様 は七福神 のお一人で「商売繁盛」の神様として、また魚群を岸に追い込み大漁をもたらすイルカやクジラにも例えられる海の幸を象徴する神様です。少彦名命 は、海のかなた「常世(とこよ)の国」からこられた、小さいお姿の神様ですが、大きな「だいこく様」(一の宮・大己貴命)と力をあわせて、日本の国をお造りになり「国土開発・事業繁栄」の神様として仰がれております。また医薬の教えを全国各地に広めたところから「病気平癒・健康増進」の祖神とも言われております。このたび鳳凰殿竣成記念として、多くのご神徳をお持ちになる「少彦名命(えびす様)」のご尊像を、鍛金・鋳金作家で東京藝術大学学長・宮田亮平先生に制作していただきました。 この少彦名のお姿は、皆様の願いを掌におのせして神様にお伝えし、さらに神様からの御恵みを掌におのせして皆様にお届けくださるお姿を表現しています。 皆様が少彦名命(えびす様)の御神徳を載かれ幸多きことをお祈り申しあげます。 平成17年12月吉日 神田神社社務所」「二の宮・少彦名命「えびす様) Blue・Bleu・ブルー宮田亮平 : 鍛金・鋳金 松井守男 : 油絵海の彼方から、小さな小舟に乗って来臨された「えびす様」のイメージを表現した彫金作品(宮田亮平作)と、青色の表現にこだわりぬいた抽象画「Blue・Blue・ブルー」(松井守男作)の軌跡のコラボレーション。国際交流の意を込めて、作品名の青色を「英語・仏語・日本語」の3か国語で表現。」「随神門」前の大きな石灯籠「江戸 国学発祥の地 社殿右脇に碑文建立」。江戸時代中期頃までは、学問といえば、中国からの輸入された儒教等、外国のものでしたが、江戸中期にようやく日本のことに目を向ける文化が醸成されていました。京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満が、江戸に出て初めて国学を説いたのが神田神社神主の芝崎邸内でした。そのため、江戸における国学の発祥地が、神田明神であるとされてきました。国学は、荷田春満~賀茂真淵~本居宣長と引き継がれ、本居宣長は、『古事記』を研究することにより、国学を大成の域に達成させ、本居宣長の門人である平田篤胤がさらに発展させました。この国学の考え方は、幕末から明治時代にかけ、日本の政治や学問の世界に大きな影響を及ぼしました と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.17
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さらに、「神田明神」の」境内社を巡る。一番奥にあった「祖霊社」。神田明神を尊崇なさった氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。平成16年に創建。毎月1日には祖霊社祭を、春と秋には例祭が執り行われている と。扁額「祖靈社」。左に進む。「合祀殿」。平成24年に旧・籠祖神社社地に建立。籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀している。扁額「合祀殿」。「合祀殿」社殿。合祀された「神田明神 末社 案内板・籠祖神社 御祭神 猿田彦神・塩土老翁神 御神徳 導きの神・海上安全の神・籠造り職人始祖の神 御由緒 寛政七年(一七九五)亀井町(日本橋小伝馬町周辺)の籠職人たちによりお祀り された。塩土老翁神は、山幸彦(神武天皇の祖父)に竹籠の船を与えた神で、 そこから籠職人たちに崇敬されたのであろう。現在も籠祖神講の人々により祭祀が 行われている。・八雲神社 御祭神 誉田別命(応神天皇) 御神徳 必勝祈願・心願成就の神 御由緒 江戸幕府が崇敬した境内の旧社で、連雀町(神田須田町淡路町周辺)の町人により お祀りされた。八幡神社は武の神として有名で、源頼朝や徳川家康など歴代の武将が 崇敬したため、全国各地にお祀りされている。・富士神社 御祭神 木花咲耶姫命 御神徳 安産・子育て守護・火難消除の神 御由緒 文化十二年(一八一五)神田塗師町(鍛冶町周辺)の町人によりお祀りされた。 富士山に祀られた神で、海幸彦・山幸彦の母神様御神名は「桜や梅の花が咲くように 美しい女性」を意味する。・天神社 御祭神 菅原道真命・柿本人麻呂命 御神徳 詩歌・文筆・学問の神 御由緒 菅原道真公は、平安時代の貴族で、右大臣や太政大臣を歴任し政治家としての手腕を 発揮する傍ら、学者・詩人としても優れていたことから、学問の神様として 崇敬された。 柿本人麻呂公は享保年間(一七一六~)に、「江戸砂子」の著者菊岡沾凉により 御神像がお祀りされた。柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人で歌聖と呼ばれ三十六歌仙の 一人である。・大鳥神社 御祭神 日本武尊 御神徳 海運招福・国土安穏・文武の神 御由緒 文政年間(一八一八~)に社殿が建立され、柿本人麻呂命の神像と共に合祀勧請された と伝えられています。日本武尊は国内を東奔西走し、大和朝廷の統一に貢献された 日本の英雄神です。各地の大鳥神社は、おとりさまと親しまれ、十一月の酉の日には、 酉の市が行われている。・天祖神社 御祭神 天照大御神 御神徳 日本の総氏神・皇祖の神 御由緒 古来より神社境内にお祀りされ、湯島横町の町人により崇敬されていました。 天照大御神は、伊勢神宮の御祭神で、皇室の祖神であるとともに日本の総氏神でも あります。全国的に天祖神社・神明宮としてお祀りされています。・諏訪神社 御祭神 建御名方命 御神徳 五穀豊穣・交通安全・開運長寿の神 御由緒 古来より此の地にお祀りされていたが、淳和二年(一八〇二)日本橋本町三峰講中に より社殿が造営されお祀りされた。建御名方命は、神田神社の一の宮御祭神大己貴命の 御子で、大己貴命とともに葦原中津国を治めた武勇の神様である。江戸時代に勧請された、右の神々は、関東大震災・戦災により社殿を消失し、以来神田神社の本殿を仮御座として奉斎されていたが、平成二十四年十一月二十四日に七社の御神霊をまいりました。「平成の御造替事業」の締め括りに、七社の御神霊をほう奉鎮する「合祀殿」を建立し、お祀りしている。 令和三年五月吉日」「籠祖講関係石造物群」。「籠祖講関係石造物群千代田区指定文化財2005年(平成17年) 4月1日指定籠祖神社は、塩土翁神と猿田彦大神が祭神て、社伝によれば、1798年(寛政10年)に神田神社境内に鎮座したとされています。籠祖講は神田青物市場や日本橋の魚河岸などて使われる籠や笊をつくっていた亀井町(現在の千代田区岩木町一丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)の籠職人や葛籠(つづら)職人たちによって結成されました。現在も両神を職神として、籠祖講の活動が続けられており、毎年11月に例大祭が行われています。籠祖神社内には1850年(嘉永3年)から1961年(昭和36年)に奉納された石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。」「籠祖神社御縁起御祭神 猨田彦大神 塩土翁神猨田彦大神は、天孫ににぎの尊降臨の時日向の髙千穂の峰に御先導申し上げた神で、営業の方向や土地の方位等に霊験あらたかな神として崇められて居ります。塩土翁神は、竹工の神、塩の神、又船の神として古事記に、山幸彦(火遠理命)が兄海彦(火照命)から借りた釣針を失いお困りの時無間勝間の小舟(すき間なく編んだ竹籠の舟)を作り与え海神の宮に渡り給えと教えられた神で器物を産み造る始祖として古くから崇め祀られて居ります籠祖神社は、古く寛政七年卯年五月亀井組(現小伝馬町)の籠職人及び、つヾら職の人々斯業の祖神として神田明神境内に鎮座されたのが始まりで、商賣繁昌招福開運の御利益を願い祖神講を設けて今日迄百六拾六年の間絶ゆる事なく毎年十一月五日に盛大な御祭祀を致して居ります 籠工商祖神講 昭和三十六年十一月吉日」さらに奥に進む。右手に「納札碑」。200枚以上もの「千社札」が刻み込まれた碑で、平成12年に建立。千社札は、江戸時代中期より流行した「千社詣」からはじまったと言われている。参拝者が、自分の名前・屋号などを記した紙札を社寺に貼ることで御利益が得られるとされた。はじめは手書きであった。その後、浮世絵の技術が発展して木版多色刷りの札がつくられるようになると、デザイン性の高い彩り豊かな千社札が多く見られるようになった。平成12年に建立。「小唄塚」碑と「小唄作詞塚」碑。小唄塚は1956年(昭和31年)3月1日も準古典小唄創始者である吉田草紙庵の偉業を称えるため建立されました。吉田草紙庵は1946年(昭和21年)にこの世を去っているため、亡くなってから10年後に小唄塚が建立されたことになります。吉田草紙庵は当時の小唄人に広く関りを持ち、芝居小唄というの新たな小唄のジャンルを確立したり、100曲以上の小唄を創作するなど小唄史に大きな影響を残しました。神田明神の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田際は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名 吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、昭和31年(1956)3月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。その後昭和62年(1987)6月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立30周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。「水野年方顕彰碑」「水野年方君は本姓野中氏通称粂次郎 慶応二年一月江戸神田に生る月岡芳年に学び後諸派を研究し 率先浮世絵の向上に努力せり 屡展覧会審査員に選ばれ 其画筆致精微 気品最も高し 忠信参館図は忝くも御府に入れリ明治四十一年四月七日病没も年僅かに四十三平生情義に厚く門下秀才に富む茲に胥謀りて塔を建て永く其徳を紀す嗚呼君芸に游びて筆を■ひ根を培い筆精に韻高し 稟命永からざりしかど 芬芳は窮りなからむ大正十二年四月同庚の友 關巌二郎 撰并書」「水野年方顕彰碑千代田区有形文化財2001年(平成13年)4月1日指定水野年方(としかた)は、1866年(慶応2年)に江戸神田で左官の棟梁の子として生まれました。当初、歌川派の月岡芳年に入門し、浮世絵の「歴史画」を数多く制作しました。明治時代半ばから、「やまと新聞」をはじめとする新聞挿絵、『文芸倶楽部』などの木版彩色の口絵を盛んに描き、上品で繊細な美人画を得意としました。1908年(明治41年)、年方は42歳の若さで逝去します。その十七回忌の前年にあたる1923年(大正12年)5月、門人や縁故者が年方の氏神である神田神社に顕彰碑を建立しました。年方の門人からは、鏑木清方を筆頭に、池田輝方や蕉園(しょうえん)ら、近代日本画を代表する画家たちが多く輩出されています。」「水野年方「三十六佳撰」国立国会図書館提供」。そして「末廣稲荷社」。扁額「末廣稲荷社」。「社殿」。狛狐(右)。狛狐(左)。近づいて。白梅が香り豊かに。「末廣稲荷社御祭神 宇迦之御魂神祭礼日 三月午の日当社御創建の年代は不詳でありますが、元和二年(一六一六)頃のもので、極めて古い神社であります。昔より、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして尊崇されている。現社殿は、昭和四十一年二月二十八日に東京鰹節類卸商組合の有志により再建された。」白梅をズームして。「金刀比羅大神 三宿稲荷神社」。扁額「金刀比羅大神 三宿稲荷神社」。「社殿」。「三宿稲荷神社御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)祭礼日 10月初旬創建の年は不詳。江戸時代より神田三河町2丁目(他に皆川町・蝋燭町・旭町の一部が合併され、昭和10年(1935)に司町1丁目に改称。更に昭和41年(1966)より住居表示に関する法律により、内神田1,2丁目の一部に編入され、内神田司一会となる)の守護神として奉斎されていた。その後当社12代神主芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和41年(1966)10月7日に再建され、金刀比羅大神と共にご鎮座された。宮刀比羅大神御祭神 大物主命(おおものぬしのみこと) 金山彦命(かなやまひこのみこと) 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)祭礼日 10月10日天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋2丁目旧両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が齋行されていたが、明治6年(1873)7月に村社に定められた。住吉は、隅田川往来の船人達の守護神として崇敬され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業、遊芸を職とする人々の篤い信仰を集めている。昭和41年(1966)10月7日、宗教法人を解散して氏神のこの地に社殿を建立し、三宿稲荷大神と共にご鎮座された。」「水盤」。「水盤千代田区指定文化財1997年(平成9年) 4月1日指定この水盤は、1805年(文化2年) 2月に伊勢屋治兵衛によって奉納され、1856年(安政3年) 6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む人々により再建されたものてす。再建の時には、炭薪問屋・人宿・六組飛脚問屋などの町人が関わっています。神田神社や末社の金刀比羅神社・三宿稲荷神社と、江戸の町人たちの関わりを知るこどができる貴重な資料です。「奉納 金拾萬圓也」碑。「記念碑東京市神田・・・・」「鳳輦・神輿奉安庫」。扁額「鳳輦・神輿奉安庫」。一の宮鳳輦、二の宮神輿、三の宮鳳輦、神社大神輿の奉安展示中 と。「浦安稲荷」。扁額「浦安稲荷」。「社殿」。「鎌倉町鎮守浦安神社由緒・・・解読不能・・・御祭神:宇迦之御魂神/祭礼日:3月午の日この神社は、往古江戸平川の河口に近き一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573〜)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し鎌倉町の成立と共にその守護神として勧請された。寛政9年(1797)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵により、社殿が造営され、爾来、浦安稲荷社として伝えられている。その後天保14年(1843)8月、町割改めに際し神田明神社境内に遷座、さらに明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷社五社を合祀し今日に至っている。」とネットから。狛狐(右)。狛狐(左)。社殿に近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.16
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正面に「本殿」。入母屋、正面千鳥破風付、向拝5間 軒唐破風付、銅瓦葺。正面の唐破風(左下)と千鳥破風。唐破風、千鳥破風の破風板には飾り金具がつき、懸魚が下がっていた。千鳥破風の妻飾りは二重虹梁のような構造になっており、欄間には格子が張られていまる。狛犬(右)。狛犬(左)。「唐破風」下を正面から。そして内陣を。左手奥にあった「大伝馬町八雲神社」。「三天王 二の宮大伝馬町八雲神社御祭神 建速須佐乏男命(タケハヤスサノオノミコト)祭礼日 六月五日この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王のニの宮の天王祭は、六月五日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(一六一五)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。尚、東京の風詩「べったら市」神田神社兼社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝繞文化行事として継承されている。」「社殿」。扁額「八雲神社」。「七つの石鳥居をくぐり お参りできる 境内末社めぐり」案内板。末廣稲荷神社金刀比羅神社三宿稲荷神社浦安稲荷神社旧神田市場 千貫神輿大田市場 江戸神社大伝馬町 八雲神社小舟町 八雲神社築地魚河岸 水神社社日参り春秋の彼岸の中日に一番近い戊(つちのえ)の日のお参り。この日神社に詣でて、五穀豊穣・身体健康を祈る信仰がある。この時石の烏居を七つくぐってお参りすると、中風・ぼけ封じにもなるという古くからの信仰と慣習がある。都内では、七つの石鳥居が揃った神社は、なかなか見当らず、この日には、多くの参詣がある。毎、戊(つちのえ)の日のお参りには、古例にならい家清めの「お砂」を授与致しております。その横に「句碑」と「力石」。「白うおや はばかりながら 江戸の水 竹冷」この句は、白魚が江戸の水を飲む様子をユーモラスに表現しつつ、当時の江戸の水の状況に対する皮肉や風刺を込めていると考えられます。「透き通るような白魚が、ちょっとためらいながら江戸の水を飲んでいる」――そんな情景が浮かんできます と。「角田竹冷の句碑白うおや はばかりながら 江戸の水安政三年(一八五六)五月に静岡県冨士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。明治二十八年十月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て「秋声会」を組織し、翌年十一月俳詩「秋の声」を創刊した。明治三十年六月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に熱中した。いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。竹冷は大正八年(一九一九)三月二十日六十六歳で没す。」「大伝馬町八雲神社鉄製天水桶」。「大伝馬町八雲神社鉄製天水桶千代田区指定文文化財2004年(平成16年) 4月1日指定大馬町八雲神社は、神田神社境内の神社(摂社)て小舟町八雲神社、江戸神社とともに江戸時代には祇園牛頭天王三社と呼ばれていましました。天水桶は防火用水などに使うため、雨水を溜めるためのものてす。深川大島の鋳物師・太田近江大掾藤原正次(通称・釜六)の作てす。反物などの流通を一手に担う間屋仲間が1839年(天保10年) 6月に奉納したものてす。彼らは祭礼費用を賄うなど、神社と深い結び付きを持っていました。」「力石 千代田区指定文化財」神田明神の力石「大盤石」。刻まれた文字から、文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが判るのだと。「力石」。千代田区指定文化財1991年(平成3年) 4月1日指定カ石とは、一定重量の円形または楕円形の石て、神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う場所)などにあって、若者達がカ試しに用いたと言われています。神田神社境内にあるカ石の由来は銘文があリ、1822年(文政5年) 12月に神田仲町ニ丁目(現在の外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と娯楽を知るうえて貴重な資料です。「新歳枝松之碑」。近づいて「新歳枝松之碑」。記入内容は??????都筑平吉 、力車、高砂屋等の文字は確認できるが・・・。新年に欠くことのできない松の枝についての逸話かもしれません。その左にあったのが「小舟町八雲神社」。「社殿」。扁額「小舟町 八雲神社」。「三天王 三の宮小舟町 八雲神社御祭神 建速須佐之男命祭礼日 六月六日この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町(貞享年間(1684~)までは小伝馬町お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋橋上に神輿を奉安し、祈祷が行われた。東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ5丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。神輿は6月10日に明神境内を発輿して氏子180ヶ町を巡り遷輿するのは13日か14日その間の里程は13里に及んだといわれる。このことから13里天王ともいわれた。近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。」 「小舟町八雲神社鉄製天水桶」。「小舟町八雲神社鉄製天水桶千代田区指定丈化財2005年(平成1 7年) 4月1日指定小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって、1811年(丈化8年)に奉納されました。深川大島の鋳物師で当時「釜六」ど呼ばれた太田近江大掾藤原正次の作とされていますが、左右ー対の天水桶のうち、本殿左惻のものは失われ、1857年(安政4年)に再建されています。小舟町八雲神社は江戸時代には祇園牛頭天王社(三の宮)ど呼ばれていました。魚間屋仲間が集住していた小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)の人々により崇敬されるようになり、現在に至ります。」神田明神を訪れたら、たとえ柵越しでも会ってほしいアイドルがいる と。それは神馬(しんめ)、あかりちゃんだ。あかりちゃんの本名は神幸号(みゆきごう)。平成22(2010)年5月15日、神田祭の日に生まれたメスのポニーだ と。厩舎の中で顔を隠して。「神馬 神幸(みゆき)号 愛称 明(あかり)」と。「あかりちゃんは怖がりです。静かに見守ってださい。」「あかりちゃん」の写真をネットから。拝殿の正面に向かって左にあった「鉄製天水桶」。1847年(弘化四年)頃の奉納で、区指定文化財とのこと。「鉄製天水桶千代田区指定文化財1999年(平成11年) 4月1日指定神田神社拝殿前にある鉄製の天水桶ー対は、地上からの高さが約1.3メートルあり、1847年(弘化4年) 9月、摂州灘大石(現在の兵庫県)と筋達外(現在の外神田一丁目)の酒屋が発起人となり、神田あるいは新川(現在の中央区)辺りの酒屋5名を世話人として奉納されました。天水桶の鋳造には、2人の鋳物師が関わっていて、神田在住の堀口武兵衛が仕事を請負い、川口(現在の埼玉県)在住の永瀬源七に鋳造させたと考えられます。」「祭務所」。本殿前右側にあった「明治天皇御臨幸記念碑」。裏面には「1874 (明治7 )年9月19日明治天皇( 1852ー1912 )が神田明神に御親拝になられた。当時の記録によると、明治天皇は祠官本居豊頴の案内により前の大床において御立礼で御拝礼遊ばされたという。東京の神社で明治天皇が親しく御参拝なさったのは靖國神社と神田明神のみであった。1874 (明治7 )年という年は、二の宮に少彦名命が迎えられ平将門霊神が本殿から摂社へ遷座されるなど様々なことが起こった年で、非常に慌しい中での明治天皇御親拝であった。碑は紀元2600年奉祝として1940 (昭和15 )年建立された。」と。「獅子山」(文化財)。「獅子山再建」碑もあった。能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したもの。今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与えるたとえとして知られているのだ。下にいる子どもと思われる獅子の色が白いのであった。「御即位大典祝記念 獅子再建 平成二年十一月十二日」碑。「石獅子 夫婦2頭千代田区指定文化財1991年(平成3年)4月1日指定この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つです。享保年間(1716~1735)に下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。あり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。1862年(文久2年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録がます。3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落とした子獅子を見る構図となっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は1923年(大正12年)の関東大震災で失われ、1989年(平成元年)に天皇即位を記念して再建されました。」「神田神社の図(部分) 『新撰東京名所図会』神田区之部、東陽堂、1900年十代田区教育委員会蔵」谷底へ突き落とした子獅子を見る親獅子の姿を。ここにも「境内案内図」。「明神会館」。「明神会館」前から「本殿」の屋根を見る。奥にむって進むと左側にあったのが「銭形平次」碑そして「八五郎」碑。近づいて。「銭形平次碑銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。平次の住居は、明神下の元台所町ということになっている。此の碑は、昭和45年(1970)12月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。」石造り寛永通宝の銭形の中央には「銭形平次の碑」。発起人名にはそうそうたるメンバーが並んでいた。「八五郎」碑。「阿部筲人(しょうじん)の句碑」「山茶花の散るや己の影の中」。筲人 (1900〜1968)は、俳句雑誌『好日』を主宰し俳句論をおこなった人物。その著『俳句―四合目からの出発』は、俳句の入門書として多くの俳句愛好者に読まれている。昭和47年11月12日、好日俳句会により建立。「國學發祥之地」碑。国学は、荷田春満(1669〜1736)により江戸において始められた学問である。春満は伏見稲荷大社神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちにひそかに情報を提供し討入をたすけたというエピソードもある。その春満に最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめた。また春満の弟子・賀茂真淵(1697〜1769)も、神主芝崎家の邸に一時住んでいた。真淵は、御三卿・田安宗武に仕え、その一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めた。碑は春満・真淵そして芝崎神主ほか明神神職による国学の発祥を記念して、昭和53年12月に建立された。題字は当時伏見稲荷大社宮司・守屋光春、撰文は直木賞作家・今 東光氏による。「國學發祥之地 東光撰文荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仏道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して後学の為に伝ふ(裏面) 題字 伏見稲荷大社宮司 守屋光春 書 協賛 國學院大學 伏見稲荷大社 靖國神社 湯島神社 龜戸天神社 神田神社 羽倉 信也 発起 羽倉 敬尚 池田 良八 莵田 俊彦 大鳥居 吾朗 今永 利男 昭和五十三年十二月吉日」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.15
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「湯島聖堂」を後にして、「湯島聖堂前」交差点を右折して。次に「神田明神」に向かう。左側にあったのが神田明神鳥居前の「甘酒屋」の江戸老舗「天㙒屋」。神田明神参道、大鳥居際の天野屋店舗は170年超の商いの歴史。「明神甘酒」は、当店の地下6mの天然の創業当時からの土室(むろ)より作り出される糀(米かうぢ)をもとに、さらに手を加えて生成し熟成を待って作り上げられたもの。「明神甘酒」は“生きている自然の甘味”です と。「あまさけ」の文字が。古狸像と「今日是好日」と刻まれた石碑。近づいて。1938(昭和13)年生まれの信楽焼の大きな古狸像。狸は(他を抜く)と言われ、旅館、料亭、商家等に縁起が良いのだと。鬼の持つ棍棒には、「はらいたのくすり」「熊膽木香丸」と。昔の薬の看板であろうか。角のショーケースに中には神輿が鎮座。そして「神田明神・神田神社」の巨大な「一の鳥居」。一見、明神鳥居のように見えるが、島木と柱の間に台輪があるので、こちらは「台輪鳥居」と呼ぶのだと。「鳥居の部分名称」をネットから。扁額「神田神社」。銅製の鳥居(腐食防止のカバー付き?)の藁座と言われる柱の下部に文様が施されていた。社号標石「神田神社」。「幸せの縁を結ぶ神田明神結婚式」案内。「天㙒屋」前から「随神門」を見る。。名物「明神甘酒」の看板。ここにも「天㙒屋」の古狸様が。近づいて。これぞ狸の下半身。「千代田区指定有形文化財(建造物) 糀室 附 明治37年糀室之図」「千代田区指定有形文化財(建造物) 平成21年4月1日指定 糀室 附 明治37年糀室之図 所在地 千代田区外神田ニ丁目18番15号 所有者 糀室 株式会社天野屋 明治37年糀室之図 千代田区天野屋の糀室(こうじむろ)は、明治37年(1904)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室(むろ)は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。天野屋の創業は、弘化3年(1846)と伝えられ、明治37年糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期に増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成3年(1991)に「床場」(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。現存する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造施設の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても稀少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。」「糀室内部(床場)」。「明治37年糀室之図」。「随神門」を正面から。「神田明神境内図」👈️リンク。「神田明神 境内マップ」、いずれもネットから。「献燈台奉献之碑奉納 献燈台壹対 神田明神献燈会今般神田市場の有志相議りて氏神である神田神社の廣前に御燈を献じ以て神田市場の隆昌と関係各位の安泰を祈念すべく 神田明神献燈会を結成し随神門前の左右に銅板葺反屋根造り朱塗飾金具付献燈台壹対を奉献御社頭神域に一層の威を添える事となった ここに奉賛者各位の芳名を記し 永く久しく其の徳をたたえるものである 昭和55年(1980)11月吉日 神田神社宮司 大鳥居吾朗誌」随神門の外に「手水場」、以前は龍がいて「手水舎」があったような気がするが。「水盤」には「眞心」と刻まれた「手水場」後ろの建物は「神門回廊」「神門回廊」の屋根には極彩色の「鳳凰」。大きな提灯「神田明神」。「元准勅祭神社 東京十社めぐり」案内板。元准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)とは、明治時代に東京近郊に定められた12の神社で、東京十社として知られています。【元准勅祭社(東京十社)の神社】・根津神社(文京区)・神田明神(千代田区)・亀戸天神社(江東区)・白山神社(文京区)・王子神社(北区)・芝大神宮(港区)・日枝神社(千代田区)・品川神社(品川区)・富岡八幡宮(江東区)・赤坂氷川神社(港区)【東京十社について】・明治元年(1868年)11月8日に明治天皇が皇城(今の皇居)を守る「准勅祭社」に定めました。・東京の鎮護と万民の平安を祈願されました。・昭和50年(1975年)に昭和天皇の即位50年を奉祝して、東京十社を巡拝する 「東京十社巡り」が企画されました。・各社では小型の絵馬や「東京十社巡り」専用の御朱印が授与されています。「随神門」に近づいて。「江戸総鎮守 神田明神 神田神社 御由緒御祭神一の宮 大己貴命 おおなむちのみこと(だいこく様)二の宮 少彦名命 すくなひこなのみこと(えびす様)三の宮 平将門命 たいらのまさかどのみこと(まさかど様)正式名称・神田神社。東京都心-0八町会の総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々からもあつく崇敬されております。縁結び、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。当社は、天平二年(七三〇)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。さらに、明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。当社の御社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート • 総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の隨神門や伝統文化の継承や新たな文化発信の拠点として平成三十年に竣工した文化交流館、令和二年にリニューアルした結婚式場 • 明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。当社の祭礼 • 神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭 • 江戸三大祭の一つにも数えられております。現在は鳳輦(ほうれん) • 神輿をはじめとする祭礼行列が神田 •日本橋 • 秋葉原 • 大手町丸の内の一〇八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約一〇〇基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。当社は令和十二年(二〇三〇)に創建一三〇〇年の節目を迎えます。創建一三〇〇年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に一三〇〇年の記念事業を推進してまいります。 令和三年夏 神田神社社務所」随神門入口側の彫刻(右)。朱雀(右)をトリミングして。随神門入口側の彫刻(左)。朱雀(左)をトリミングして。「随神」(右)。神社の随神(ずいじん)とは、神社の左右の神門に安置される守護神で、神を守る者として安置される像のことも指す。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言う。神社の門のうち、門の左右に随神を安置した門のことを随神門・随身門(ずいしんもん)と呼ぶ。寺の「仁王門」に相当するものであろう。斜めから。内側には、御祭神の大己貴命(おおなむちのみこと)・大国主之命にちなみ、「いなばのしろうさぎ」など、大黒様の神話をモチーフにした彫刻を飾っていた。ここには大黒様と因幡の白兎が彫刻されていた。「随神」(左)。斜めから。ここにも黄金の大黒様と因幡の白兎が彫刻されていた。「随神門」北面を境内側から振り返る。ズームして。隋神門(北面)(右)。 内側には躍動した馬が鎮座(右)。上部の彫刻をズームして。馬はガラス面が反射して・・・。ネットから。「玄武(右)」をトリミングして。。内側には躍動した馬が鎮座(左)。ガラス面が反射して・・・。ネットから。「玄武(左)」をトリミングして。「随神門欄間彫刻随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大国主之命の神話が描かれている。四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍(蒼龍)西は白虎(白虎)南は朱雀(朱鳥)北は玄武(玄武亀)夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(七〇一年)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。」東は青龍(蒼龍)。青龍(境内側から右)。ズームして。青龍(左)の全景ズームして。青龍(境内側から左)青龍(左)の全景。随神門(西面) 白虎(右)。白虎(西面)の左。「木鼻」はダブル獅子。奉納された清酒菰樽(こもだる)。中身が入っていない樽がボトルに入った酒とともに神に奉納されるのであろう。そして「本殿」に向かって右側にあったのが、一際鮮やかな建物「神楽殿」。シャッタ-には「神田祭」の光景が描かれていた。催し物が無い時でも、描かれた絵画で周囲に華やかさを演出しているのであった。「絵馬掛所」。神田明神には、多くの種類の絵馬が。絵馬のデザインを見るのも楽しみのひとつ。アニメ「ラブライブ」や「ソードアート」のコラボ絵馬などもあった。絵馬に近づいて。こちらはご祭神の大黒様の絵馬。十二支・兎。今年の干支・「巳(み)」。「だいこく様」。境内の反対側にあった絵画。「子供遊天王祭」。巨大な「大黒様」像。正面から。大己貴命(おおなむちのみこと) とも。国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(ゆうめい)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります と。「開運招福」と。高さ6m、重さ30トン と。「御社殿」を正面から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.14
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石段を上って行くとその先にあったのが「杏壇門(あんだんもん)」。巨大な「杏壇門」。「杏壇門」は、湯島聖堂の最も重要な建物である孔子廟(大成殿)の、すぐ前にある門。杏壇門の名称の由来としては、孔子が学問を講じた壇のまわりに、杏(あんず)の木があったことから、学問を教える場所や、学問所の建物を、杏壇と言うようになった と。中国山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址の周囲には、杏の樹が植えられ、杏壇門の名称が付けられているとのこと。間口20m、奥行4.7m、入母屋造り。 杏壇門:杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。杏壇門の金文字の額。徳川宗家第16代徳川家達公の筆 と。杏壇門から、北側の孔子廟(大成殿)の建物と前庭が見えた。杏壇門の右側。「ご案内 (財)斯文会」。屋根の一番上には、しゃちほこらしきものが見られた。湯島聖堂の「杏壇門」と門前に掛けられた絵馬。「合格祈願」の絵馬。「合格」。「祈」。「大願成就」。「すだじい」の巨木。「すだじい」ぶな科。常緑広葉樹の高木で、樹高20 - 30メートル (m) 、直径1 - 1.5 mに達する。成長すると樹冠がドーム状に丸くなり、スダジイ林を上からみると、まるでブロッコリーが集まっているように見える。幹は黒褐色で直立し、若木の樹皮は滑らかであるが、成長すると樹皮に縦の切れ目が入ることが特徴で、次第に深く割れる。若い枝は灰褐色をしている。杏壇門の左側。「野球報道写真展 2024」が行われたようであった。この霊廟は「大成殿」といい、開口20m、奥行き14.2m、高さ14.4m。1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している。扁額「大成殿」。この文字は、伏見宮博恭王により書かれました(※元々は徳川綱吉によって書かれていました) と。再び、湯島聖堂大成殿の屋根の棟に置かれた鴟尾(しび)を見上げる。一般的な虎頭魚尾の鴟尾と異なり、竜頭魚尾で頭から水を噴き上げる鬼犾頭(きぎんとう)の形状をしているのだと。水の神であり、屋根の上に据えることで火を防ぐといういわれがあるのだと。反対側をズームして。北斎『新板浮絵神田明神御茶の水ノ図』(伊勢屋利兵衞版)をネットから。屋根の部分の拡大したものもネットから。屋根上の装飾は、現在の湯島聖堂の屋根にもある鬼犾頭(きぎんとう)。往時のものは関東大震災で焼け落ち、大成殿内に保存されているとのこと。鬼犾頭は、鯱(しゃちほこ)同様に、龍頭魚尾の架空の霊獣で、頭から潮を噴き上げている水の神。火防の象徴的な存在 と。墨の様に黒い社の屋根の上、そこには異形の獣が。「獣・鬼龍子(きりゅうし)」と。獅子の躰に竜の爪を持つその異形のモノは、相手を射つくすかのようなその鋭い視線を来訪者へと向けているのであった。「大成殿」横の「回廊」。子供が柄杓で水桶に水を満たすと・・・「宥坐之器」👈️リンク。桓公の墓にあった器は「水が入っていない空の時は傾き、水を適度に入れるとまっすぐに立ち、水が満ちるとひっくり返り全てこぼれる」という。これを見た孔子は「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て。」と説いた故事から。「湯島聖堂」案内書。「湯島聖堂・昌平坂学問所徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。」「湯島聖堂と斯文会斯文会は、明治13年〈1880〉、東洋の学術文化の交流を意図した岩倉具視が、谷干城らとはかって創設した「斯文学会」を母体とし、これが発展して大正7年(1918)公益財団法人斯文会となったもので、孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などを中心に活動を行ってまいりました。関東大震災で消失した湯島聖堂についても斯文会が中心となって聖堂復興斯成会を組織し、全国に募金を展開して昭和10年〈1935〉再建を果し、その建物を国に献納、国はその管理を斯文会に委託いたしました。昭和31年〈1956〉、新たに制定された文化財保護法に基づき、改めて本会は史跡湯島聖堂の管理団体に指定されております。会の名の「斯文(しぶん)」は、『論語』子罕(しかん)篇の中の孔子のことば「斯の文(このぶん)」(周の文王の時より伝えられた文化の意)から取ったものですが、この文章には周の文化の継承者として、また、儒学を大成した思想家・教育者としての孔子の烈々たる気概が述べられています。「斯文」という名にはこの孔子の気概を心とし、伝えられた学問、文化を継承し現代に創造していこうとする本会の基本理念が託されています。このような次第で斯文会の事業活動の第一は、史跡湯島聖堂の歴史環境をいっそう整備し維持管理に万全を期するとともに、これを公開活用して江戸時代以降聖堂が果たしてきた役割を社会一般に認識していただくことにあります。」「財団創立100年事業斯文会は大正7年(1918年) 9月に創立されて、平成30年(2018年)には100年を迎えます。財団法人として100年続き、公益事業を継続している団体は貴重であリます。この創立100年を契機にさらに東洋の文化学術振興に寄与するとともに、来会者の利便性を高めるために、環境整備を行います。また、100年記念事業を実施すべく、委員会を立上げております。」「1.聖堂・昌平坂学問所の前身尾張中納言徳川義直は、徳川幕府の儒臣林羅山のために、羅山の上野忍ヶ同の邸内に孔子廟を建てた。その際、孔子の聖像と顔子・曽子・子思・孟子の四賢像や祭器等を寄附し、「先聖堂」の扁額を書いて与えた。ここに見えるのは、林氏住宅、先聖殿、書庫のみで、まだ、家塾が林田主宅内にあったことが判る。先聖殿も、西向きに建てられており、諸門は不忍湖方面よリーの門、ニの門と続いている。」「元禄辛未改作昌年廟學圖」。「2 .宝永甲甲前年の江戸大火により大成殿ほか焼失し、この年再建。大成殿・杏壇門・入徳門・仰高門、齋室・学舎・廟幹舎など規模拡大、整備された聖堂となった。また、仰高門の東側・西側に、それぞれ舎が建てられ東舎・西舎と名付けられた。この東舎が事保年聞に日講が行われた場所。」「3.元昌平坂ニ於テ博覧会図昇斉ー景は、初代歌川廣重(1797ー1858 )の弟子。滑稽味を帯びた明治の風俗画・風物画を得意とする浮世絵師。ここに描かれている博覧会は日本で最初(明治5年〔1872〕)に湯島聖堂で催された時のものである。大成殿を中央に東・西両廡(回廊部分)に展示品を配し、中庭中央には名古屋城の金の鯱が置かれ、人々の賑わいを写している。」「4.高等女子・高等師範・湯島聖堂この写真は建設中の二コライ堂よリ撮影された東京全市で、360度のパノラマ写真の部分図である。撮影は、ニコライ堂建設期間中(明治17年(1884)~ 24年(1891))に仮設された足場を利用して行われたという。撮影者は未詳、一説にW. K.バルトン。この写真には、右より、森の中に湯島聖堂の大成殿の屋根が見え、左隣に東京高等師範学校、東京女子師範学校の校舎が見える。神田川を挟んで駿河台の元武家屋数群がある」「5.現在の湯島聖堂緑青のふいた鋼板屋根の美しい大成殿と樹木が整備された聖堂」「6 .大成殿[孟子』万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央の神龕(扉子)に孔子像。左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀る」「7.仰高門仰高門ー仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎日、仰之彌高、鑽之彌堅。」による。曲阜の孔子廟では、西方にある。一般見学者用の入り口になる門。上野林家の先聖殿創建時には無い。元禄3年、湯島移築の際には見える。」「8.杏壇門杏壇門一杏壇とは、山東省極阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が、「杏壇ニ字碑」を建立、のちそこに門扉か設けられ、杳壇門の名称が付けられた。」「9 .入徳門入徳門ー入徳とは、朱熹の『大学章句序』「子程子日、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ケ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有リ。曲阜の孔子廟には無い。江戸宮学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。」「10.楷の由来楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが、性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできなかったが、幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他(黄棟樹、黄連、蓮連木など)の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。台湾では爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名された。孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。」「11.孔子銅像昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈。11月3日除幕式を挙行した。」「12.神農廟元禄11年(1698)4月、聖堂構内東北の隅に祠堂を建て、神農像を祀った。この神農像は、寛永17年(1640)徳川家光の命により、山下宗琢が建立。作者は、明石清左衛門、藤原真信。雑司谷薬園に祀る。明治16年(1883)浅田宗伯が医生の養成のため温知黌を開き、その労により浅田家に神農像が下賜された。のち、木村博昭が浅田家を継ぎ、像は本郷曙町の木村家に移る。昭和18年(1943)神農像が木村家より斯文会に寄贈され、6月末、敷地内東角に神農廟を移築。これより毎年、11月23日に神農祭を挙行。」「13.明神門鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。延面積7.05m2昭和10年(1935)4月竣工。寛政11年聖堂・学舎の規模拡大時に創建され、現在も旧中山道沿いに建ち、神田神社(神田明神)へ通ずることから明神門の名がある。」「湯島聖堂略志」👈️リンク。杏壇門の扉の上部に刻されている紋章。黒漆に映えていたのであった。「杏壇門」前から「入徳門」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.13
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そして右手にあった「湯島聖堂」の「正門」に到着。「正門」とのことだが、門もゲートも何もなかった。「史蹟 湯島聖堂」案内図。孔子廟、神農廟と昌平坂学間所跡SHRINE OF CONFUCIUS, SHRINE OF SHINNOAND THE SITE OF SHOHEIZAKA COLLEGE・所在地 東京都文京区湯島一丁目4番25号・敷地面積13 , 915m2「配置案内図」。・国の史跡指定 大正11年(1922) 3月8日・所管 国有財産 文化庁・東京都教育委員会・文京区教育委員会・管理者 公益財団法人 斯文会(しぶんかい) ■湯島聖堂と孔子 孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に 生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した 徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」 や学舎を建て、自ら「論語」の講択を行うなど学問を奨励した。 ■昌平坂学問所跡 寛政9年(1797)幕府は学舎 の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって 「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。 学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代 の文教 センターの役割を果たした。 学問所教官としては、柴野栗山 、岡田寒泉 、尾藤二洲 、古賀精里 、佐藤一斎 、安積艮齋、 鹽谷宕陰、安井息軒 、芳野金陵 らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮齋らはこの地が 終焉の地となっている。 ■近代教育発祥の地 明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、 国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校 (現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館(しょじゃくかん)」(現国立国会図書館)などが 置かれ、近代教育発祥の地となった。 ■現在の湯島聖堂 もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923) 関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造で 寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。人徳門は宝永元年(1704)に建てられた ものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。東側に「斯文会館」、「仰高門」を入り西に進むと、北に向かって「孔廟大成門」への参道があるのだ。こちらが「入徳門」、「杏壇門」そして「孔廟大成門」への参道があるのだ。「七言絶句」碑。「帝關艮方殊有天 後昆紹道慕先賢 請看今日茗溪畔 楷樹青々一百年 恭賀斯文會創立百年 令和元年五月 石川忠久」この漢詩は、令和元年(2019年)5月に石川忠久氏(漢詩人・漢文学者)によって、斯文会創立百年を祝して詠まれたもの意味は帝關艮方殊有天(帝都の東北に、特別な天の恵みがある)▶ 「帝關」は江戸(東京)、「艮方(ごんぽう)」はうしとら(丑寅)の方角・北東を指し、 湯島聖堂がある方向を意味します。儒学の中心地である湯島聖堂が、特別な学問の場である ことを示しています。後昆紹道慕先賢(後の世の子孫が道を継ぎ、先賢を慕う)▶ 「後昆」は後の世代、「紹道」は道(儒学)を継ぐことを指します。 儒学の教えが受け継がれ、先人を敬う精神が続いていることを表現しています。請看今日茗溪畔(どうかご覧ください、今日の茗溪のほとりを)▶ 「茗溪(めいけい)」は湯島聖堂の別称で、ここでは聖堂を指します。「今日の茗溪畔」とは、 斯文会が百年の歴史を経た現在の姿を見よ、という意味になります。楷樹青々一百年(楷樹は青々として、百年の時を刻む)▶ 「楷樹(かいじゅ)」は孔子の墓所にも植えられている樹木で、儒学の象徴です。 斯文会が百年の間、儒学の精神を守り続けてきたことを、青々とした楷樹にたとえています。よって「江戸の重要な学問の地・湯島聖堂は、特に天意を受けた場所である。ここでは代々、学問が継承され、偉大な学者たちの精神が受け継がれてきた。今もなお、湯島聖堂とその周辺には学問の気風が漂っている。学問の象徴である楷樹は、百年の歴史を持ちながら、今も立派に生い茂っている」 と。「斯文会館」の入口を正面から。公益財団法人斯文会(しぶんかい)は、日本の公益法人。主な活動内容は、東京都文京区にある史跡湯島聖堂の維持管理、孔子祭(釈奠)の挙行、漢文関係の公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行など。会名の「斯文」は、『論語』子罕(しかん)篇に由来する言葉で、「儒教」の同義語。1923年(大正12年)に関東大震災で湯島聖堂が消失した際は、斯文会が中心となって「聖堂復興期成会」を組織し、全国に募金を展開して1935年(昭和10年)に再建を果たした。それ以来、政府から湯島聖堂の管理を委託され、戦後の1956年(昭和31年)には、新定の文化財保護法に基づいて、改めて湯島聖堂の管理団体に指定された とウィキペディアより。そして「仰高門(ぎょうこうもん)」。外堀通り沿いにある仰高門(ぎょうこうもん)が湯島聖堂の正門とのこと。その他に聖橋門と西門、通常は閉鎖されている北側の明神門がある。徳川家康の代から四代にわたって幕府に仕えた儒学者・林羅山が、上野忍ヶ岡の廷内に設けた先聖殿という孔子廟。湯島聖堂は、元禄3年(1690年)に五代将軍・徳川綱吉が、この孔子廟を現在の場所に移したことによって始まる と。「史蹟 湯島聖堂」碑。側面には「史跡名勝天然記念物保存法ニ依り大正十一年三月内務大臣指定」と。「仰高門(ぎょうこうもん)」を正面から。扁額「仰高」。湯島聖堂の仰高門の名称は、論語における君子の徳が仰ぐほど高い事例から、名付けられた名称です。仰高門とは、論語の子罕第九の顔淵の一節に、顔淵喟然歎曰 仰之彌高とあり、「君子の徳は高山のようなものだ。仰げば仰ぐほど高い。」との名言があり、それを湯島聖堂の正門に当たる最初の門の名称としています。仰高門の文字は、水戸徳川家第13代当主で公爵、陸軍少将、徳川圀順(元、持明院基臨(藤原基臨))の筆によるもの と。「外堀通り」沿いにあった石碑には「聖堂」と。その近くにあったのが「相生坂(昌平坂)神田川對岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地也。南神田川に沿ひて東より西に上る坂を相生坂と云ひ、相生坂より聖堂の東に沿ひて湯島坂に出るものを昌平坂と云ふ。昔時は之に並びて其西に猶一条の坂あり。之を昌平坂と云ひしが、寛政中聖堂再建の時境内に入り、逐に此坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。 これやこの孔子聖堂あるからに いく日湯島にい往きけむはや 法月歌客 文京区教育委員会 令和5年3月」「外堀通り」の「聖橋」方向を見る。境内に戻り「仰高門」を潜る。右手に「斯文会館」の南側出入口。「築地塀」を振り返る。正面には大きな石碑が。建立由来記碑を覆うように枝を広げている大木は、「楷(かい)の木」。「楷樹の由来楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科PISTACIA CHINENSIS BUNGE楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で初め子貢が植えたと伝えられ 今日まで植えつがれてきている 枝や葉が整然としているので 書道でいう楷書の語源ともなったといわれているわが国に渡来したのは、大正4年(1915)、林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが 生来雌雄異株であるうえ 花が咲くまでに三十年位もかかるため わが国で種子を得ることはできなかったが 幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので 今後は次第に孫苗が増えてゆくと思われる中国ではほとんど全土に生育し 黄連木 黄連茶 その他の別名も多く 秋の黄葉が美しいという台湾では燭心木とよばれている 牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された孔子と楷とは離すことができないものになっているが 特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える 昭和四十四年巳酉秋日 矢野一郎 文 平成二十年戊子秋日 松川玉王 書「」「楷(かい)の木」の上部。「楷(かい)の木」の根本。「孔子銅像建立ノ記」碑。「孔子銅像建立ノ記孔子ハ約二千五百年前ノ春秋時代ノ魯ノ國ノ人デアル 幼ニシテ父ヲ喪ヒ下級官吏ヨリ身ヲ起シ國王定公ニ用ヒラレ大夫トシテ國政ニ参與シテ十數年大イニ治績ヲ擧ゲタガ後ニ意見ガ合ハズ退任シ門弟ト共ニ諸國ヲ周遊シテ容レラレズ晩年故郷ニ歸リ人ノ人タル所以ノ道ヲ説イテ七十餘歳デ逝去シタ ソノ子孫ハ治亂興亡ヲ經テモ相傳ヘテ直系七十七代孔徳成ニ至ツテ居テソノ孔子廟ト孔家歴代ノ墳墓ハ山東省ノ曲阜ニ今猶嚴然トシテ存シテ居ル 孔子ノ言行録デアル論語ハ今日ても廣ク世界中ニ讀マレテヰル カクノ如キハ他ニ比類ガナイ 今ヤ洋ノ東西ヲ問ハズ人類ガ擧ゲテ混迷ニ陥ル時ニ萬世ノ師表タル孔子ノ忠恕ノ道ヲ傳ヘ仁義ノ徳ヲ明ラカニスルノハ喫緊ノコトデアリマタ吾人ノ責務デアルコノ孔子ノ銅像ハ昭和四十九年臺北城中らいおんずくらぶ周宏基會長等ガ湯島聖堂ニ参拝シ元禄以来三百年ノ由緒アル史跡ニ感銘ヲ受ケ國立臺灣師範大學開明徳教授ニ依嘱製作シ寄贈シタモノデ唐ノ呉道子ノ筆ト傳ヘル孔子畫像ヲ基調トシテ鋳造シ昭和五十年十一月三日文化節ニ建立シタ丈高十五尺重量ニ噸ノ世界最大ノ孔子像デアル茲ニ聊カ建立ノ由來ヲ記シ世ニ傳ヘル 昭和五十七年十月先儒祭ノ日 財團法人 斯文會」「孔子銅像」。高さは4.57メートル、重量は約1.5トンは世界最大 と。1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈された。お顔をズームして。寒椿であったか?そして右手に「入徳門」。「入徳門」は、焼失などで失われた湯島聖堂の中で、再建されたコンクリート造りの建物と異なり、江戸時代から伝わる数少ない木造の建造物。木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2宝永元年(1704)建造。入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物 と。扁額「入徳門」。入徳門の名称は、四書の中の大学の中に、孔子之遺書而初学入徳之門也との文言によっているとされています。その意味は、大学は、孔氏の遺書にして、初学徳に入るの門なりとのお教えだそうです。入徳門は、湯島聖堂の最も重要な建物である大成殿に至る第一関門の場所にあたります。つまり、孔子廟の別名である大成殿に至るには、事前に、門を経る必要があるのでしょう。順番として、入徳門~杏壇門を経て、大成殿に至るのです。最初の関門が、入徳門になる構成なのです。「入徳門」の門扉。神社仏闇ではないですが、「手水舎」もあった。参道横の「白梅」も満開。近づいて。さらに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.12
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「万世橋駅跡」の南側の「御成道・旧中山道」を「昌平橋」に向かって進む。次の目的地は「湯島聖堂」。「神田郵便局前」交差点。右手に「中央快速線」のガード。御茶ノ水駅を出た東京駅行きの中央快速線は、総武線と別れ外堀通りを橋梁で跨ぐ。この橋梁が「昌平橋架道橋」で「東京鉄道遺産100」に橋梁の部で認定されているとのこと。旧昌平橋駅と旧万世橋駅間にあるプレートカーター鉄橋で、明治45年(1904年)ころに架けられているとのこと。プレートカーター鉄橋とは鋼板や形鋼を組み合わせて断面がI形状となるようにした橋 と。「昌平橋」を渡る。前方に「総武線」の「昌平橋架道橋(しょうへいばしかどうきょう)」。昌平橋の親柱。万世橋から上流の神田川右岸には旧・万世橋駅の高架駅舎の赤レンガが続いているのであった。「昌平橋」を渡ると、右手に小さな広場があった。「昌平橋昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624 ~ 44年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、1691年(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平揶にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。」「昌平橋聖堂 絵本江戸土産 1850年(嘉永3年)」をネットから。絵には「右に出(いだ)せる筋違橋(すじかいばし)と並び架(かか)るを昌平橋(しょうへいばし)といい、西の方へ昇(のぼ)りを昌平坂(しょうへいさか)という。ここに聖堂(せいどう)あり。大成殿(たいせいでん)には孔子及び十哲(じってつ)の像を祀(まつ)らるるよい、春秋(しゅんじゅう)釈奠(せきてん)の礼(れい)あり。学問修行のものここに寄宿(きしゅく)す。本朝(ほんちょう)第一の学校(がくこう)なり」と。下の絵に見える川は神田川で、先に見えるのが、昌平橋。画面の左側の丘の上にみえるのが聖堂の壁で、その前の道が昌平坂 と。こちらが、現在の聖堂前の昌平坂(ネットから)。上の絵の丘の上に見える様子に極めてよく似ているのであった。「神田旅籠町(かんだはたごちょう)この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。昌平橋の北側に当たるこの地は、中山道の第一宿場である板橋宿)、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備に特に力を入れていました。また、日光御成街道は将軍日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。しかし、天和二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町(ばくろちょう)・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)昌平橋と筋違橋(すじちがいはし)の北側にあった幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょつきまちやしき)が神田旅籠町三丁目と改称されました。さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳(しょといやなまえちょう)』によれば、嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として生長をとげたのです。」「昌平橋」を振り返って。再び前方の「総武線」の「昌平橋架道橋(しょうへいばしかどうきょう)」。見上げて。「中央本線が昌平橋駅から万世橋駅まで延長された際、昌平橋駅 - 万世橋駅間(紅梅河岸高架橋 -万世橋高架橋間)の一等道路第二類の道路(現在の外堀通り)に架けられた橋梁である。本橋梁は1904年(明治37年)製造のドイツ・ハーコート(Harkort'sche Fabrik)製で、「HARKORT. DUISBURG-GERMANY. 1904.」と記された銘板が付けられている。本橋梁の御茶ノ水方の煉瓦造りの橋台は紅梅河岸高架橋と一体になっており、神田方の煉瓦造りの橋台は万世橋高架橋と一体になっている。本橋梁の北側には昌平橋が神田川に架かっている。なお、本橋梁は現用、現位置でバックルプレート(凹鈑)桁のまま残る日本最古の桁とされる」と。本橋梁は1904年(明治37年)製造のドイツ・ハーコート(Harkort'sche Fabrik)製で、「HARKORT. DUISBURG-GERMANY. 1904.」と記された銘板が付けられている。「ふるさと文化と散歩道」マップ。「ふるさと文化の散歩道」は千代田区が整備したコースで、全3コース全てが九段下スタートとなる と。ここは「駿河台コース」の「昌平橋」。JR秋葉原駅近くからスタートしたこの散策であったが、ルートは異なるが、まだ350m と。「昌平橋通り」を「湯島聖堂」に向かって進む。左にあったのが、「鎧兜甲冑工房丸武産業」👈️リンク のショーウィンドウにあった見事な甲冑。ガラス面に風景が映り込んでしまったが「武田信玄」の甲冑・木彫本金箔魅前立を模して制作したもののようであった。これであっただろうか?(写真はネットから)。こちらは兜。その先にあったのが「助六流宗家 大江戸助六太鼓」👈️リンク正面から。「助六太鼓(すけろくだいこ)は、東京初のプロ奏者による創作和太鼓集団。1960年代に、東京の盆太鼓スタイルであった斜台(斜めの太鼓台)を使った打法を初めて組太鼓に取り入れた。のちの和太鼓ブームの火付け役となった初期の太鼓集団のひとつ。創設メンバーの一人が1980年代に大江戸助六太鼓を新たに結成し、助六太鼓を名乗る団体は2016年現在2つある。」と。そして正面に「湯島聖堂」の石垣が現れた。石垣の角に古跡「昌平坂」碑。近づいて。「昌平坂」を見る。「江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉は、学問や文化を振興する政策を進めた。その中で綱吉は、1630年(寛政7年)に上野忍丘(現在の上野恩賜公園付近)の地に、幕府の援助のもとで林羅山の私塾として創建されていた聖堂を、移転拡張することを決定した。綱吉は上野の地には寺が多く、また林家の私塾扱いであった聖堂が狭隘であったことを問題視していた。移転拡張先として神田台の一角である湯島の地が選ばれ、1691年(元禄4年)に移転が行われた。移転後、聖堂は「昌平黌」と呼ばれることになったが、「昌平」の名は儒教の祖・孔子の故郷である中国山東省曲阜の昌平郷にちなんだものである。聖堂の移転直前の1690年(元禄3年)12月、移転予定の聖堂周辺の坂は綱吉によって「昌平坂」と命名された。なお、綱吉が命名した昌平坂が具体的にどの坂を指しているのかについては、はっきりとしない。記録上でも聖堂の下、前後の坂というものと、聖堂前後の坂としている文献がある。聖堂の東側境界の、神田明神からまっすぐ降りる位置にあった坂と、聖堂の南側にある坂が昌平坂と呼ばれていたと考えられている」とウィキペディアより。「築地塀」の並ぶ「昌平坂」は、湯島にある名所。歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.11
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JR東日本の「旧万世橋駅」・旧交通博物館跡地「JR神田万世橋ビル」を見上げる。メタウォーター㈱ 本社がこのビルにあることを知る。「JR神田万世橋ビル」の南側の広場には様々な展示が。この場所はかつて旧万世橋駅前広場があったところで、「記憶の広場」と名付けられた と。在りし日の「交通博物館」。裏側には案内文が写真入りで。背面図版.「交通博物館外観」鉄道博物館 所蔵図版1〜5. 鉄道博物館 所蔵1. 開館当時の鉄道博物館 4. 吹き抜けの様子 2. 展示の様子(昭和20〜30年代) 5. 閉館時D51、0系新幹線 並び 3. 昭和50年頃の展示「閉館時D51、0系新幹線 並び」の写真をネットから。「交通博物館(昭和・平成時代)関東大震災の復興計画による区画整理で、須田町交差点が中央通りと靖国通りの交差する現在地に移され、それにともない路面電車の経路も変わったため、万世橋駅前は裏通りになり、かつての繁華街の賑わいは失われていく。1932年(昭和7)に御茶ノ水〜両国間の高架線が完成して秋葉原駅が開業すると、万世橋駅の重要性はさらに薄れ、2本あったホームは1本に減ってしまう。1936年(昭和11)、かつての駅舎の基礎を利用して鉄道博物館(後の交通博物館)の建物が建てられた。昭和戦前期を代表する鉄筋コンクリート造りのモダニズム建築で、2つの円弧状の階段室が特徴的だった。この際、駅の機能は大幅に縮小され、駅長室や事務室、改集札口は鉄道博物館の一画になり、ホームにつながる階段も位置が変更された。その後も利用者の減少は続き、戦時中の1943年(昭和18)には不要不急駅とされて営業を休止し、開業からわずか31年で万世橋駅は姿を消した。終戦後には駅前の銅像も撤去されたが、博物館は戦火を逃れ、70年もの長きにわたり多くの来館者で賑わい、鉄道への夢を育み続けた。しかしさいたま市への移転が決定し、2006(平成18)年5月14日、惜しまれつつ閉館した。2枚目のパネルには「広瀬武夫中佐像」。広瀬武夫海軍中佐と杉野孫七兵曹長の銅像が建てられていた所がこの場所。戦前で東京の代表的な観光地のひとつといえばここであったと。裏面。「旧万世橋駅(明治・大正時代)中央本線のターミナル・万世橋駅は、当時東京でも屈指の繁華街だった須田町交差点前に、1912年(明治45)4月1日に開業した。当時の最新の技術で作られた煉瓦アーチの高架橋を背にして建てられた駅舎は、後に、東京駅丸の内駅舎の設計を手がけた明治建築界を代表する建築家、辰野金吾と葛西万司の設計で、壮麗なレンガ・石積(一部鉄骨造り)の2階建てで、駅舎内には食堂も併設されていた。駅前広場には日露戦争の英雄、廣瀬武夫と杉野孫七の巨大な銅像が建ち、須田町交差点には東京市電の各系統が集まり、中央線電車と市電の乗り換えターミナルとして、ますます賑わいを増していった。しかし、1914 (大正3 )年に東京駅が開業し、1919 (大正8 )年、中央本線が東京駅まで開通すると、万世橋駅はターミナルとしての役割を終えて中間駅となり、乗降客も減っていった。そして1923 (大正12 )年の関東大震災で駅舎が焼失してしまい、1925年(大正)年には2代目駅舎が完成したものの、初代駅舎の壮麗さは全く失われてしまった。」「関東大震災で被災した万世橋駅」。「ニ代目駅舎と駅周辺」。「東京名所 萬世橋停車場」。「萬世橋駅舎立面図」。一番奥のパネルは「筋違門(江戸時代)」。筋違見附の江戸期の「地図」。パネルの裏側。「筋違門(江戸時代)江戸時代のこの場所は、筋違門(すじかいもん)と門前の広場であった。この門は、寛永13年(1636)金沢藩主前田利常によって石垣が築かれ、寛永16年(1639)普請奉行村上三正・若林三山によって門が建築された。江戸城三十六見附といって、江戸城には多くの城門があり、このうち外堀や神田川には外郭門を置き、江戸市中を出人する人々を監視していた。その構造は、枡形門といって石垣と櫓門で囲まれた構造であった。筋違という名は、日本橋から本郷に通じる中山道(なかせんどう)と、江戸城から上野寛水寺に至る将軍家の御成道(おなりみち)が斜めに交差していたことによる。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田橋門)を渡り、この道を通って行ったことからつけられた。筋違門内の広場は筋違八ッ小路(やつこうじ)といって江戸で最も賑やかな場所で、その名は、筋違門、昌平橋、淡路坂、駿河台紅梅坂、御成道、須田町、柳原上手、小柳町の八方向の道に通していたからだといわれる。御成道の道筋の西側には旗本や雄藩の譜代大名屋敷が立ち並び、東側には主に神田の町屋が広がっていた。なお、筋違門は、萬世橋が建設された明治5年に石垣などが取り壊された。」「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます と。「筋違の八ッ小路八ッ小路は、明暦の大火後に設けた八辻原とも呼ばれる火除明地の一つである。この地には、背負子や荷縄を造る連尺職人の住む連雀町があった。連雀町住人は、火除明地に明渡すため筋違御門の南側の一区画に移住した。残った連雀町の25世帯は、三鷹の替地へ移転して、上連雀町、下連雀町と発展した。図の中央に筋違御門に入る渡櫓門に向かう馬印を掲げた大名行列が見える。左下に筋違御門と筋違橋、神田川上流の右端に昌平橋がある。」筋違御門と筋違橋 明治初期、御門解体前の写真。中央にぽつんと線路を垂直に立てたようなモニュメントがあった。「広瀬武夫中佐像跡」の位置を示すポール(レール)が。近づいて。ポールを中心に同心円状に様々な鉄道の歴史的事象を年号と共に刻んでいた。片隅には、万世橋駅舎や交通博物館の写真パネルが3枚等間隔に並び、アクセントとなっているのであった。日本の鉄道の歴史的な事柄を記した”渦”。ここには「1976 交通博物館の年間最多入場数を記録 The number of the visitors of Transportation Museum was the largest ever.」と書かれていた。さらに「神田川」、「昌平橋」に向かって進む。右手、ビルの西側、御茶ノ水寄りのスペースは「憩いの広場」と言う と。「万世橋駅のにぎわい日本橋から今川橋、神田を経て筋違門(すじかいもん)に至る大通りは、江戸市中を縦断するメインストリートであった。江戸時代初期の筋違門前の神田の町は、60間四方の碁盤目のように区画された整然とした街並みか広がり、通りに面して城郭風の三階櫓など立派な店舗か軒を並へていた。この通り沿いの町は、連雀町(れんじゃくちょう)、鍛冶町、鍋町など商人や職人に関わるものが多く、江戸域築城や城下町整備に際して集められた諸職商人の町であった。このうち連雀町は、明暦3年(1657)の大火後に火除地(ひよけち)となり、町は西側に移転し、その住民の一部は郊外(現在の三鷹市下連雀付近)に移された。明治維新後、明治45年(1912)に辰野金吾設計の万世橋(まんせいばし)駅が開業し、駅前広場には明治の軍人廣瀬武夫(ひろせたけお)中佐の銅像がそびえ、多くの東京市電路線系統の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしよう)として栄えた。神田川には荷揚場が点在し、須田町や多町の青物市場、松屋(鍛治町)や伊勢丹(呂平橋畔)といった百貨店、寄席(よせ)の白梅亭、旭楼などの旅館が立ち並んでいた。このようにこの界隈は、近世には城下の中心をなす町屋や物資流通の拠点である荷揚場があり、近代となり万世橋駅を中心とした繁華街が広がるなど、人やものが集積し賑わいをみせてきた地域である。」歩道面に大きな円形の透明ガラスが。ガラス張りの板を広場にはめ込み、上から見ることができるようにした「遺構サークル」。その下には「万世橋駅舎レンガ基礎」が。ガラス面にレンズを付けて撮影。「万世橋駅舎基礎万世橋駅舎の基礎を展示しています。基礎の構成は階段状断面の布基礎の上に、矩形断面の基礎が載っているものです。このレンガ基礎は万世橋駅舎の後、交通博物館をも支えるものとして、約18年近くにわたり、役目を果たしてきました。」「万世橋と神田祭り外神田にある神田明神は、平将門(たいらのまさかど)を祀った江戸の総鎮守として、古代以来芝崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸城築城にあたり慶長8年(1603 )に神田駿河台、元和2年(1616 )に現在地に移った。江戸時代の神田祭は、山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将車が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭と神田祭は、隔年で執行され、各町が自前で山車(だし)と御輿(みこし)を仕立てた行列が町を練り歩くもので、祭礼番付と呼ばれるパンフレットか毎年作られるなど、名所化されていった。神田祭は、9月15日に庶民の祭礼として執り行われ、雉子町の町名主である斉藤月笒(げっしん)が著した「江戸名所図会」や「東都歳事記」によれば、贅をくした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷(さじき)を造って見物したとある。明治時代の「新撰東京名所図会」によれば、明治17年の神田祭は、40余りの山車か八辻(筋違八小路・すじかいやっこうし)に集合し、萬世橋を渡り、聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向かったとある。電線の設置など都市の近代化によって、明治期後以降山車行列が難しくなり、巡行が少なくなっていく。」「東京神田祭礼之図」。「御成道(筋違門跡)御成道とは、徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを言います。江戸時代、この場所には江戸城外郭門のひとつ筋違門があり、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷 ・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していたためです。門内には火除けの広小路があり八つのロに通じていたため、俗に「八つ小路 」と呼ばれていました。」筋違門「旧江戸城写真帖」1871年(明治4年)撮影。江戸城を取り巻く地形と文化財。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.10
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「神田川」に沿って「柳原通り」を進むと「国道17号・中央通り」に合流。正面に見えたのがビジネスセンター「JR神田万世橋ビル」。「JR神田万世橋ビル」は、JR東日本の旧万世橋駅・旧交通博物館跡地の再開発プロジェクトによって建設されたビル。そして右に曲がるとあったのが「神田川」に架かる「万世橋」。秋葉原電気街の南端に位置し、神田駅周辺とを結ぶ橋。橋の北は東京都千代田区外神田一丁目、南は千代田区神田須田町一・二丁目で、南へ渡ってすぐ、JR中央線の万世橋架道橋ガードを潜る。万世橋南詰のすぐ西にあった交通博物館(2006年閉館)の前を通る細い道が、1930年までの旧中央通りだった。神田駅へ向かう新中央通りと、九段・両国橋を結ぶ靖国通りが交叉する、現在の須田町交差点は1929年に作られたものである。上流には昌平橋が、下流には鉄道橋の神田川橋梁や人道橋の神田ふれあい橋が架かる。南詰には万世橋駅や広瀬武夫と杉野孫七の銅像があったが、どれも現存しない。神田須田町一丁目と外神田一丁目を結ぶ橋です。最初は明治17(1884)年に架けられた木橋で「昌平橋」と呼ばれ、その後、「新万世橋」→「万世橋」と名称を替えた。明治36(1903)年にほぼ現在の位置に架けられたが、関東大震災で被害を受け、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36mのRC造アーチ橋が完成した。この橋は、巨大でアールデコ調の橋灯付き親柱が特徴。「萬世橋」の銘板も嵌め込まれていた。RC造アーチ橋「万世橋」を斜めから覗き込んで。「万世橋現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門(すじかいもん)がありました。1872年(明治5年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが、萬代橋(よろずよばし、萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。1903年(明治36年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の1930年(昭和5年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が1912年(明治45年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝として大変な賑わいを見せました。」「萬世橋附近の図」。明治33年(1900)新撰東京名所図会。右の眼鏡橋が万世橋、現在よりやや上流にある。左は昌平橋。「万世橋駅石版画」。「広瀬中佐銅像」の文字が。横断歩道に向かって「万世橋」を渡る。「神田川」の下流側を見る。正面に「神田川橋梁」、山手線や京浜東北線のJR神田駅とJR秋葉原駅間にある鉄道橋。北側・「万世橋」交差点側の「橋灯付き親柱」。国道17号「万世橋」交差点。正面に見えたのが総武線の鉄道橋。横断歩道を渡りながら、国道17号の手摺を見る。「汽車」と「燈籠」がデザインされていた。再び「万世橋」を渡る。ここにも橋名板「萬世橋」。親柱に嵌め込まれた銘板にも歴史の重みと威厳とが感じられたのであった。「昭和五年三月完成」。そして右側前方に見えて来たアーチ状の続く建物が「万世橋駅跡」。「神田川」の上流側を見る。「昌平橋」と「総武線鉄道橋・神田川橋梁」。・「昌平橋」万世橋から約250m上流にある。最初は寛永年間(1624~1644)に架けられたといわれている。古名に「かり橋」・「新し橋」・「相生橋」、また一口坂に近いので「芋洗橋」などがあった。昌平橋の名の起こりは、元禄4年(1691)将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を造営し、孔子の故郷である中国の魯の国昌平郷にちなみ、昌平橋と名乗るように命じたことによるといわれている。明治維新後、相生橋と改めたが、明治6年(1873)に洪水で流されてしまった。明治32年(1899)に再建され、再び昌平橋と命名された。現在の橋は、昭和3年(1928)12月8日に架けられたもので、長さ22.7m、幅30.1m、コンクリ-ト橋。・「総武線鉄道橋・神田川橋梁」は総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅 - 秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁。橋脚は八の字形のラーメン形式であるのが特徴。本橋梁の御茶ノ水方はコンクリート製橋台が中央本線上り線を跨ぐ形となっている。秋葉原方はコンクリート製橋台を挟んで松住町架道橋へと繋がる。本橋梁は、松住町架道橋と並び秋葉原電気街のランドマークにもなっている。このため、本橋梁を含めた秋葉原の風景は色々なドラマ・映画にも登場し、また松住町架道橋・総武線隅田川橋梁とともにデザインも優れているため、日本の鉄道橋の象徴的存在にもなっている。「マーチエキュート神田万世橋」は、交通博物館(旧万世橋駅)跡に完成し、平成25(2013)年9月14日にグランドオープン。物販店や飲食店が入っていた。また、旧万世橋駅のホーム部分が「2013プラットホーム(デッキ)」とし蘇り、中央線がすぐそばを走るガラスで囲まれた展望カフェデッキもあった。「万世橋駅跡」の神田川に張り出したオープンウッドデッキを歩く。「万世橋駅跡」の内部を散策。大きなジオラマが展示されていた。「万世橋駅ジオラマ 大正初期 縮尺1/150 2013年10月制作」。「旧万世橋駅 ジオラマ模型JR中央線神田駅~御茶ノ水駅間にあったことをご存知ですか? 現在は東京駅を運行上の起点としている中央線ですが、1912年の開業当時、中央線はこの万世橋駅が終始点のターミナル駅で、東京駅と同し建築家辰野金吾の設計による赤レンガ駅舎も存在しました。その旧万世橋駅の鉄道遺構であるレンガアーチ高架橋部分をリノベーションした空間がマーチエキュート神田万世橋です。そんな旧万世橋駅が営業していた往時の賑わいをジオラマ模型で再現し、展示しています。・・・以下略・・・」「東京のターミナル駅「万世橋駅」江戸期より、主要街道、橋、水路が集中する交通の要衝であったこの地は、明治末期から大正前期にかけて、鉄道の発達に伴い、東京における最も隆盛をきわめた場所の一つになりました。このジオラマは明治・大正の先人たちが、夢と希望をその活動の原動力としていた時代の、駅と街並み、そして人々の躍動をイメージ、再現したものです。 万世橋駅ジオラマ」一瞬東京駅?と思ったが、これが開業当時を再現した万世橋駅 と。初代の駅舎は東京駅と同様に辰野金吾氏の設計による赤煉瓦造りだった と。なるほど!!廻り込んで。さらに。万世橋駅の開業後に東京駅が完成して1919年(大正8年)に万世橋〜東京間が開通した。万世橋駅が中央本線の起終点だったのは、たったの7年であったと。同年に神田駅が開業。下の写真のごとく、万世橋駅が中央本線の起終点だったことがジオラマから理解できたのであった。当時の写真をネットから。神田川越しに。レンガアーチ高架橋部分が見事に並ぶ姿が。正面から。1936年(昭和11年)4月25日、東京駅から鉄道博物館が移転。これに伴い駅舎が解体縮小され、博物館に併設された小屋となった(閉鎖後は博物館の事務室に使われた)。ホーム上に設けられた従前の階段は博物館へ直結する特別連絡口となり(駅閉鎖後は休憩所に転用)、代わりに駅出入用の別の階段が1935年(昭和10年)に新設されている。また、この解体縮小の直前には駅構内の食堂が営業を終了した。その後、1943年(昭和18年)11月1日(鉄道省から運輸通信省への再編と同日)に休止、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊されたのだと。幾重にもアーチが繋がったトンネル状の空間。巨大アーチ下部はレンガ積みの壁で仕切られていた。通路の上部には、鉄骨構造物が残っていた場所もあった。「旧万世橋駅 1912階段1912年(明治45年)4月、万世橋駅開業の時に作られた階段。1936年(昭和11年)4月の鉄道博物館(後の交通博物館)開館後は、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として使われ、交通博物館時代は一部が休憩室として活用されていました。階段は、厚い花崗岩や稲田石を削りだした重厚なもので、壁面のタイルも、東京駅のレンガなどに見られる「※覆輪目地(ふくりんめじ)」という、高級な施工がされているのも特徴です。」※覆輪目地=タイルやレンガなどの仕上材の先端が丸みを帯びた形状に仕上げる工法。「旧万世橋駅 1912階段」。「旧万世橋駅 1935階段」入口。8年後廃駅になった不運な階段であると。「旧万世橋駅 1935階段鉄道博物館(後の交通博物館)の新館が、ここ万世橋駅に建設されることになり、新たに1935年(昭和10年)に設置。1943年(昭和18年)10月の駅休止までの間、ここが駅の階段として使用されました。なお、階段の踏面はコンクリート、壁面のタイル目地も平目地と、駅開業時に設置された階段とは仕上げが異なっています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.09
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この日は2月18日(火)、私用で秋葉原駅近くにある生命保険会社を訪ねた。この夜は大崎にて元同僚他との宴が予定されており、時間が早かったので、面談終了後神田を散策し、おおてまち「神田川」に架かる「和泉橋(いずみばし)」。「和泉橋(いずみはし)」から「神田川」の「万世橋」方向を見る。「いずみばし」ではなく「いずみはし」とのこと。濁らない橋名表記の理由は洪水や反乱で川が濁らないようにと、意図的に濁点をとることで験を担いでいることが多いと。手前右岸には防災用?の船着き場が整備されていた。「柳原土手跡と和泉橋(いずみはし)柳原土手は、筋違門から浅草門までの約1.1キロメートルにわたり、江戸城外堀(現在の神田川)南岸に築かれていた土手です。昔は町屋が土手の南側下まで建ち並び、人は土手の上を通行していました。土手下には柳森稲荷(現在の柳森神社)や、古着や古道具を扱う葦簀張(よしずばり)の床店(とこみせ)が並び、繁昌していたといわれます。1873年(明治6年)に土手は崩されましたが、岩本町周辺には古着屋が集中し、また軍服を扱う羅紗(らしゃ)問屋が神田須田町にできたことで、岩本町・神田須田町・東神田の一帯は、現在に至るまで衣料の町として発展してきました。和泉橋は、江戸城外堀(現在の神田川)にかかる橋の一つです。伊勢津藩(現在の三重県)の藤堂和泉守(とうどういずみのかみ)の上屋敷前に向かう通りに架かることが橋名の由来です。1892年(明治25年)に鉄橋となり、関東大震災後の1927年(昭和2年)には帝都復興事業の一環で拡張され、東京を南北に走る防火帯の役割も兼ねた場所でした。」表面:帝國在郷軍人會「國旗掲揚所」第拾班神田區分會側面:陸軍中將赤井春海書 昭和八年八月建設 寄贈 大熊柳三「星と錨」が掲げられた。国旗掲揚台。星と錨は「帝国在郷軍人会」のシンボルマーク。「帝国陸軍の五芒星」と「帝国海軍の錨」と。そして国道4号に架かる歩道橋を渡る。歩道橋を下りると、反対側の小さな広場には案内板が。「既製服問屋街発祥の地江戸時代後期、昌平橋から淺草橋の間にあった柳原土手に沿って古着を扱う床店(とこみせ 露店)が設けられ、日木橋富沢町とともに、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。明治維新後の1881年(明治14年)、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し洋服の町へと変貌していきました。」「神田柳原川岸通りの図「新撰東京名所図会」神田区之部 東陽堂、1900年 千代田区教育委員会蔵」。「千代田区町名由来板 岩本町三丁目江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手 」と呼ばれていました。岩本町(いわもとちょう)周辺は、江戸城から見れば鬼門(きもん)(北東方向)にあたります。柳森(やなぎもり)神社(現・神田須田町二丁目)の社伝によれば、太田道灌 (おおたどうかん)が鬼門除(よ)けに稲荷を祀(まつ)り、柳を植えたのが始まりといわれています。そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本(はたもと)などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881年)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒(のき)を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋(いずみばし)ダンスホール」が併設されました。このように洒落(しゃれ)て小粋(こいき)な雰囲気を醸(かも)していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎(いしずえ)を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。」「江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町」(歌川広景)和泉橋の橋名由来となった津藩藤堂和泉守上屋敷が描かれています。上屋敷表門前では、男が烏帽子を凧の糸に絡めとられています。「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年)神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。転んでいる女性はゴザを持っているので夜鷹でしょう。左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でした。そして再び「歩道橋」を戻り、「柳原通り」を神田川に沿って西・「万世橋」方向に進む。右手にあったのが、「柳森神社」の石鳥居。「柳森神社」。「柳森神社」は、東京都千代田区神田須田町にある神社。祭神は倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)。稲の精霊が神格化した神で、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全などのご利益があるとされている。室町時代に、太田道灌が江戸城東北方面の鬼門除けとして京都の伏見稲荷大社を勧請して創建したとされ、椙森神社・烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれた。境内の福寿神祠は徳川綱吉の生母桂昌院が江戸城内に建立したといわれている。東京都千代田区神田須田町2丁目25−1。「柳原通り」から石段で下がった境内を見下ろす。境内右手にあったのが「富士講関係石碑群」。「三柱乃大神」碑。「富士講関係石碑群千代田区指定文化財1998年(平成10年) 4月1日指定5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講のなごりを今日に伝える石碑群てす。富士講とは富士山信仰をもとに成立した民間信仰の一種で、江戸時代特に町民や農民の間で流行しました。 柳森神社は、1680年(延宝8年)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を、合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。『東都歳事記』には、天保年間(1830~1844年)頃の「富士参」(富士浅間神社への参詣)の例として柳森神社のことが取り上げられています。 1930年(昭和5年)には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960年(昭和35年)に取り壊され現存していません。石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字があり、このころに富士講を再興させようという動きがあったことがわかります。」「冨士塚」の如き岩山に多くの石碑が立つ。「富士山本宮 浅間大社神」と書かれた御札。「三柱乃大神」碑の下に「小御嶽大神」碑。「小御嶽大神」は、富士山小御嶽神社の祭神で、富士山登山者の守護神として知られています。「冨士淺間神社再建記念 神田講社」碑と「大正拾四年 六月再建 神田八講」碑。「手水場」。「力石群」。境内の一角には、丸くて大き目な謎の石が、ゴロゴロと?13個の力石が集められ並んでいた。案内看板によると、これらは「力石群」と呼ばれる、千代田区指定文化財 と。「力石群千代田指定文化財1989年(平成元年) 4月1日指定江戸時代には、若者達の間で、重量の有る石を持ち上げて力自慢を競う事が流行しました。明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりを見せます。柳森神社の境内に在る力石の一群は、当時の力士で大関として名を上げた『神田川徳蔵』こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝える為に集められた物です。」「明徳稲荷神社」。「秋葉大神」。「水神 厳島大明神 江島大明神」。「金比羅宮」。石鳥居の扁額「金比羅宮」。社殿に近づいて。さらに。鳥居「福寿神」。鳥居の両側には親子の狸の像が座していた。右「たね神様」。やや狐っぽいが、妊娠中?の狸と。左「たぬ神様」。「福寿神」。「おたぬきさん 福寿神御由来江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉 公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりと称して創建された。桂昌院様は、京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公のご生母となる。大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお犬さまを崇拝したという。後世、元倉前甚內橋際 向柳原の御旗本 、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。なお当社において頒与する、"おたぬきさん"と呼ばれる土製の親子狸 のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。」右:狸(鉄製)。左:狸(鉄製)。「幸神社」。稲荷様が祀られていた。そして「柳森神社」の「神楽殿」であっただろうか。「神楽殿」の横壁の「こて絵(こてえ、鏝絵)」。「柳森神社」の「本殿」を見る。ポスター「桜田門外の変」前夜を描いた歌舞伎『大老』を読み解く安政7年3月3日(旧暦)に江戸城・桜田門外で、江戸幕府の大老・井伊直弼が暗殺されました。劇作家・北條秀司は歌舞伎作品「井伊大老」(1953年初演)で「桜田門外の変」前夜の井伊直弼を描きました。その後、北條秀司は京都・水戸藩を中心とした国内情勢と、江戸幕府に反発する人を弾圧した「安政の大獄」から「桜田門外の変」までを描いた『大老』(1970年初演)を発表します。この2つの作品について、1970年と2008年に国立劇場で上演した『大老』の演出に携わった講師が紹介・解説します。」聴きに行きたいが!! ・・・つづく・・・
2025.03.08
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宴会場のあった「aune有楽町」ビル前の「晴海通り」交差点を渡る。前方には「有楽町マリオン」が現れた。マリオンクロック前のエリアには緑のイルミネーションが。有楽町マリオンの愛称で知られる有楽町センタービルは、JR有楽町駅や銀座駅に近く、1984年の開業以来人々に親しまれている。ビルの愛称は、ガラス窓を縦に仕切る建具である「方立(ほうだて)」の英語「マリオン(mullion)」に由来する。美しい流線型の巨大なガラス建築の周辺では、11月14日(木)から2025年2月16日(日)までグリーンのイルミネーションが彩りを添える。正面の大型からくり時計を囲むように、晴海通り側三角公園の植栽にイルミネーションが飾られる。」とネットから。有楽町マリオン前を進む。「ルミネ有楽町」前のクリスマスツリー「LUMINE CHRISTMAS 2024」。「LUMINE」入口。ete ルミネ有楽町店有楽町センタービル 7階 別館にある「I’M A SHOW」で開催される元ピンク・レディーの増田恵子(KEI)のコンサートのポスター。植え込み、植栽の緑のイルミネーションを追う。有楽町マルイのショッピングモール内を進む。カラフルな包装紙に包まれた箱が並ぶ。「麻の葉/あさのは」文様があったのは何処?麻は丈夫ですくすくと育つことから、子どもの産着に用いられるなどの習慣ができ、長襦袢(ながじゅばん)や帯にも多く使用された。歌舞伎の演目「八百屋お七」の衣装では、鹿の子絞りの文様として、地の緋と浅葱の麻の葉があらわされている と。「TOKYO KOTSU KAIKAN」。「有楽町マルイ」のエントランス装飾。ズームして。「Aoyama Flower Market 有楽町 マルイ店」クリスマスツリーとたくさんのプレゼントが。段ボール製の家も飾って。段ボール製の家を覗き込むと。サンタクロースの姿と手前には???多くの種類、大きさのSNOOPYが並ぶ。2024年12月6日から24日(火)まで、有楽町マルイ1Fのカレンダリウム(イベントスペース)に、スヌーピータウンショップの期間限定ショップがオープン!「スヌーピークリスマス催事」と題された今回のイベントは、限定グッズやノベルティも用意されており、 スヌーピーファンにとって見逃せない19日間となっているのだ と。装飾された柱には投影された何かの映像が。花びらが散るが如き映像。こちらにもクリスマスツリーが。そして有楽町駅に向かう。有楽町駅前広場にあった「東京都指定史蹟 南町奉行所跡江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつ。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していた。名奉行大岡越前守忠相は、1717年から1736年にかけて南町奉行としてここで執務していた。※南町奉行所は1707年に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にあった。その範囲は有楽町駅および東側一帯にあたる と。2005年の発掘調査では「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土した と。正面から。南町奉行所で使われていた2段の石垣である と。「東京都指定旧跡 南町奉行所跡」案内板。「東京都指定旧跡 南町奉行所跡江戸町奉行 は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府 の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前 守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。南町奉行所は、宝永4年(1707)にに常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。所在地 千代田区有楽町二丁目旧跡指定 大正7年4月平成19年(2007)年10月 千代田区」「有楽町駅 中央口」に向かって進む。「阪急メンズ東京」。現在地。「有楽町センタービル(通称:有楽町マリオン)」の赤い帯の上には「朝日新聞」と。「朝日新聞東京本社跡朝日新聞社は一八七九(明治十二年)大阪で創業九年後に東京に進出し本拠を現在の銀座六丁目に置いた。社勢の伸張に伴ってここ有楽町に東京本社を移したのは関東大震災の復興なお半ばの一九二七年(昭和二年)三月であった。その建物は当時の最高傑作とうたわれ外濠に影を落とした景観は東京の新名所となった。以来半世紀戦争と敗戦をふくむ波乱の時代を通じて朝日新聞の言論・報道活動の中心であり続けた。今日世界有数の新聞となるに至った歴史はこの有楽町の地を抜きにしては語り得ない。しかしながら社業の発展とともに社屋の挟隘と不便さは限度に達し一九八〇年(昭和五十五年)九月をもって築地に移転した。創業者村山龍平はじめ万余の社員・関係者の汗と感慨のにじむこの地に新時代を象徴する巨棟を建設したのを機に一文を掲げて末永く記念するものである。 一九八四年一〇月 朝日新聞社」この写真は以前に訪ねた時の写真。在りし日の「朝日新聞東京本社」ビル をネットから。「JR有楽町駅」から京浜東北線に乗車。またの再会を約束して、旅友と分かれる。新橋で東海道線に乗り換える。新橋駅構内には、鉄道発祥の地としてふさわしいステンドグラス『くじゃく窓』👈️リンクが飾ってあった。左側にはまさに新橋〜横浜間を走った一号機関車の正面像、そしてド真ん中には孔雀(くじゃく)が描かれているのだ。そして地元藤沢駅南口のイルミネーション。横浜の「アメリカ山 ROOFTOP ILLUMINATION ~Night Rose Garden~」ポスター。そして地元の小田急線駅のロータリーのイルミネーション。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.03.07
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「東京ミッドタウン日比谷」6階にある「PARK VIEW WINTER GARDEN」のイルミネーションを楽しんだ後は、地上に戻り再び「東京ミッドタウン日比谷」前の青のイルミネーションを見る。再び青のイルミネーションを追う。「東京ミッドタウン日比谷」から日比谷仲通り南側の「テレキューブ東京宝塚ビル」方向へ進む。「テレキューブ東京宝塚ビル」の地下にある「TOHOシネマズ日比谷」は、東京ミッドタウン日比谷内に11スクリーン/約2200席、東京宝塚ビル地下に2スクリーン/約600席を一体運営化した、都心最大級となる13スクリーン/約2800席の映画館がある と。美しいショウウィンドウ。前方の青のイルミネーションの先には「帝国ホテル・ Imperial Hotel」が姿を現した。「東京宝塚劇場」の角にあったのがパブリックアート笹戸千津子作の「微風」女性的な優しさ、生命力、優しさを感じ取ることが出来たのであった。「東京宝塚ビル」を見上げて。1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝が保有していた映画館。別名:宝塚会館。跡地には2代目劇場を保有するこの東京宝塚ビルが建っているのだ。「IMPERIAL HOTEL」。1890年(明治23年)、欧米各国からの賓客の接遇・宿泊にふさわしいホテルとして建設された帝国ホテル。隣接する鹿鳴館と深い関わりを持ち、諸外国からの迎賓館としての役割を果たすだけではなく、日本における西洋文化の先駆けとしての役割も果たした と。「IMPERIAL HOTEL」を見上げて。「IMPERIAL HOTEL」に向かって横断歩道を渡る。「IMPERIAL HOTEL」前の落ち着いた照明。「IMPERIAL HOTEL」内の1階ロビーへ。メインロビー中央にあったクリスマスツリーと真紅の装花。オーナメントをふんだんにあしらった大きなクリスマスツリー。近づいて。高さ4mの生のモミの木の周りに、2mのモミの木を配置して1つの大きなクリスマスツリーに仕上げました。縁起が良く華やかな赤とゴールドのオーナメントと、帝国ホテル開業135周年のロゴプレートが付いたオリジナルの巾着型オーナメントで飾り付けています と。さらに。「今月のロビー装花」と。赤バラのプリザーブドフラワーを約1,000輪使用した人気のドーム型ロビー装花である。廻り込んで。「IMPERIAL HOTEL」のフロント。「渋沢栄一」の顔が正面に。「渋沢栄一のコルクアート肖像画ボルドーワインを愛したとされる渋沢栄一にオマージュを込めて作られたコルクアートです。抜栓済みのコルク2,400個が再利用されています。SDGs活動の一環として帝国ホテルで抜栓し収集したワインコルクも一部、制作に使用されています。2020年1月制作/コルクアーティスト 久保友則氏」「帝国ホテル本館」、「帝国ホテルタワー」案内。「帝国ホテルタワー」館を見上げて(ピンボケ)。約1時間半近くの「丸の内仲通りのイルミネーション散策」を大いに楽しみ、この日の宴会会場へと向かったのであった。JR高架下の道を歩く。右手に「Baden Baden 有楽町店」。ドイツビール、ドイツ料理が楽しめるビアホールのようであった。入口のイルミネーション。JR高架下のトンネル?を潜る。JR高架の東側を進む。「日本食市」日本全国各県より選抜したローカルメニュー・県民ソウルフード・名産料理・B級グルメ集結!地方色豊かな「餃子」「ラーメン」「焼鳥」「唐揚げ」「丼」等、王道メニューの食べ比べ!日本全国「食」の祭典!毎日通えるランチにも!有楽町、新橋にて展開 と。右折して晴海通りに出る。そして「aune 有楽町」内にあった、宴会会場7F「全席個室ウメ子の家 有楽町駅前店」に到着したのであった。青のイルミネーションが迎えてくれた。ズームして。そして、5人で久しぶりの再会を、2時間飲み放題で楽しむ。前菜。海老とクリームチーズのマリネ。カルパッチョ2種とサーモンのミモザ仕立て白身魚と鳥賊のフリット トマトジェノベーゼ豚肩ロースのオーブン焼き オニオンソースフォンデュチーズのミートソースペンネデザートそして、愛知県岡崎にお住いのクマチャンから、香嵐渓の紅葉見物の際にお預かりしたお土産の抽選会を行ったのであった。当たった品物を手に、「クマチャン お心遣いありがとう ❤❤❤❤❤」と。飲み放題2時間の終了時間になり19:15に、お土産を片手に席を立ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.06
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「丸の内仲通り」と「都道304号線」の交差点から「東京ミッドタウン日比谷」前の青のイルミネーションを見る。“魔法のような瞬間”をコンセプトに、東京ミッドタウン日比谷や日比谷仲通り、日比谷シャンテなど日比谷エリア全体で開催されるイルミネーションイベント。日比谷仲通りが美しい光の演出に彩られる「HIBIYA AREA ILLUMINATION」、東京ミッドタウン日比谷の玄関口にあたる日比谷ステップ広場「HIBIYA WINTER SQUARE」、東京ミッドタウン日比谷6階にある「PARK VIEW WINTER GARDEN」と異なる魅力で彩る3つのエリアでイルミネーションを楽しむことができるのであった。日比谷仲通りが美しい光の演出に彩られる「HIBIYA AREA ILLUMINATION」。日比谷仲通りのビルの合間に「東京宝塚劇場」ビル。宝塚歌劇団の若さと躍動感、上昇の勢いを表現した「ライジング・ステップ」というビルのコンセプトをもとに、高層部コーナーに塔を設けて都市のランドマークとし、全体が塔に向けて階段状に上昇していくシルエットが形づくられたのだと。「ゴジラ像」。ゴジラ生誕40周年を記念して1995年に作られた旧ゴジラ像は2018年に「TOHOシネマ日比谷」に移設され『シン・ゴジラ』(2016年)のゴジラをベースにした新しいゴジラ像が設置された と。移動して。青の輝きを追う。2014年のノーベル物理学賞は、高効率青色発光ダイオード(LED)を発明した赤﨑勇終身教授、天野浩教授、中村修二教授の3氏に贈られた。LEDは、1960年代に赤色や黄緑色が開発されたが、青色は実用化が困難で「20世紀中の実現は不可能」とさえ言われていたのであったが。「東京ミッドタウン日比谷 TOKYO MIDTOWN HIBIYA」👈️リンク。こちらは白色のイルミネーション。鮮やかに輝く東京ミッドタウン日比谷の階段。そして有楽町1丁目3・ 日比谷ステップ広場に拡がる「ミッドタウン日比谷イルミネーションメインとなる日比谷ステップ広場では、映画『モアナと伝説の海2』に登場する広大な海を想起させるブルーを基調にしたライトやオーナメントが特別な空間を演出。7本のクリスマスツリーを中心として、映画の世界に入り込んだかのような体験を味わえるフルカラーイルミネーションを期間中に楽しめるとのこと。」7本のクリスマスツリーをカメラで追う。ディズニー映画『モアナと伝説の海2』のクリスマスイルミネーション。イベント開始日から12月25日(水)までは、日比谷ステップ広場にてディズニー・アニメーション映画『モアナと伝説の海2』とのコラボレーションイルミネーションが実施されていた。ハイビスカスや貝殻のオーナメントで装飾された7本のクリスマスツリーを中心に、映画に登場する美しく広大な海をイメージし、ブルーを基調にしたライトやオーナメントを用いた幻想的な空間が展開されていたのであった。「Disney モアナと伝説の海2👈️リンク 12月6日(金)劇場公開」と。映画『モアナと伝説の海2』に登場するモアナの妹の名前はシメア・3歳と。再び「ミッドタウン日比谷イルミネーション」を。そして東京ミッドタウン日比谷6階にある「PARK VIEW WINTER GARDEN」に向かう。「6F BASE PARK VIEW GARDEN RESTAUTANT」と。RESTAUTANT➔RESTAURANTの誤りか?入口の床に、「一面に広がる光のステージ 心踊る華やかな空間PARK VIEW WINTER GARDEN 6F」2024.11.18 MON 〉〉〉 2025.2.28 FRI点灯時間/16:00~23:00TOKYO MIDTOWN HIBIYA」「日比谷」交差点、「皇居・日比谷濠」を眼下に。移動して、「皇居・日比谷濠」を。「日本生命丸の内ガーデンタワー」が「皇居・日比谷濠」の水面に輝いて。ズームして。「武道館」の緑の屋根をズームしたのだが・・・・。上空には羽田空港へ着陸態勢?の旅客機の姿が。先ほど訪ねた「東京ミッドタウン日比谷」前の青のイルミネーションを。東京ミッドタウン日比谷の空中庭園、6F「パークビューガーデン」の輝きを追う。「HIBIYA Magic Time Illumination」は、“魔法のような瞬間”をコンセプトに、昨年約420万人の方が来街した冬の日比谷の街全体を彩るイベント。日比谷の各エリアで、エンターテインメントの街・日比谷を表現した華やかなイルミネーションを楽しめたのであった。芝生エリアはフルカラーイルミネーションで光り輝くステージを表現し、周囲にはスターダムを駆け上がっていくスターロードをイメージしたホワイトカラーイルミネーションが登場。"エンターテインメントの街 日比谷"らしさのあるイルミネーションがパークビューガーデンを彩っているのであった。芝生エリアのフルカラーイルミネーション前で旅友4人を。スターロードをイメージしたホワイトカラーのイルミネーションをカメラで追う。再び「皇居・日比谷濠」を、カメラの設定を変えて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.05
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「丸の内仲通り」の「丸の内3rd Street」との交差点を通過。やや暗くなりイルミネ-ションの輝きが増して来た。右手角に「明治安田生命ビル」。左手に衣料品店「Brooks Brothers 丸の内」のショーウインドー(show window)。「明治生命会館」を再び訪ねた。この場所は、このイルミネーション散策前に皇居に向かった際に訪ねた場所。「明治安田ヴィレッジ丸の内 2024 Christmas Tree (明治安田ヴィレッジ丸の内 2024クリスマスツリー)」。時計や歯車のオーナメントで彩られたツリー。ツリー中央の時計は時計が一周するごとにイルミネーションが変化する特別仕様 と。見上げて。重要文化財である明治生命館が竣工90周年を迎えることとあわせ、今年のコンセプトは「時を奏でる」。時計・歯車をモチーフにしたオーナメントや螺旋状のリングで、これまでの時の流れを煌びやかに演出するのであった。先端の黄金の輝きをズームして。螺旋状のリングで、これまでの時の流れを煌びやかに演出。重要文化財「明治生命館」を見上げて。「重要文化財」と。入口には「Merry Christmas」と。「三菱一号館広場」への入口前にあったのが澄川喜一 日本 白のマスク 1969 ポリエステル樹脂 塗料【日本の近代彫刻を代表する彫刻家で、東京スカイツリーのデザイン監修など環境造形も手がけています。「白のマスク」は「MASK」シリーズの一つで、アフリカの仮面や日本の甲冑への関心と、古代人の顔の復元に携わったことが発端となっています。作品上部には凹みとノミ跡があり、有機的なかたちとシャープなフォルムが組み合わされています。彫刻の内部の構造を表面に出したいという作家の意図がこめられています。】三菱地所の丸の内ブリックスクエア 1 階一号館広場では、任天堂の「スーパーマリオ」とコラボレーションしたイルミネーションイベント「MARUNOUCHI BRIGHT HOLIDAY 2024」が開催されていた。このイベントでは、丸ビル1階マルキューブに高さ約13mの「スーパーマリオのパワーアップイルミネーション」が登場し、夜間にはライティングショーも実施。また、新丸ビルなど他の会場にもピーチやヨッシーなどスーパーマリオのキャラクターたちをテーマにしたオブジェやフォトスポットが設置されていたのであった。「キノピオたちのホリデーガーデン」。近づいて。巨大なキノコの上にカラフルなキノピオたちが乗っているのであった。廻りこんで。大きなカラフルなキノコの上に乗っている、赤・青・黄・緑・紫とさまざまなキノピオたち。「ティファニー 丸の内店」前には「バード オン ア ロック(Bird on a Rock)」が輝く。「バード オン ア ロック(Bird on a Rock)ティファニーは1965年に、ジャン・シュランバ一ジェによるパードオン ア ロックのブローチを発表しました。先見の明を持つシュランバ一ジェは、最愛の故郷となったカリブ海のグアドループで出会った黄色いオウムに着想を得ました。パードオン ア ロックは、1995年に伝説のザ ティファニー ダイヤモンドをセッティングしたことで、真のアイコンとして知られるようになリました。ユーモアれ溢れる鳥のモチーフと、様々なジェムストーンを組み合わせにデザインはプランドの最も印象的なコレクションとして愛され続けています。」と。近づいて。「馬場先通り」との交差点。暗さが増し、見物客の姿も増えて。「MARUNOUCHI STREET PARK」と。そして「丸の内二重橋ビル」前にあったのが草間彌生 (日本)われは南瓜 2013年 【南瓜(かぼちゃ)は、草間がもっとも好んで使っているモチーフ。これまで数多くの作品を生み出していますが、本作は初めて石彫で作られた作品。タイトルの「われは南瓜」と素材として使われた石の関係について、草間は自身のテーマである「永遠(とこしえ)」に例えています。半永久的に残る素材(黒御影石)に南瓜(草間自身)を重ね合わせて、永遠の命を作品に吹き込みました。】この野外彫刻の上にも、草間らしい南瓜模様のオブジェが乗っているのであった。さらに有楽町駅方面に進む。「丸の内二重橋ビル」前にあったのが中谷ミチコ 日本「小さな魚を大事そうに運ぶ女の子と金ピカの空を飛ぶ青い鳥 2022」ブロンズ 塗料【魚の泳ぐ水をスカートで大事そうに運ぶ女の子は妊婦です。全ての人は胎児だったから、この作品の主は魚です。虚と実を行き来しながら、揺らぎの中で確かなモノを探すためには、やはり物質とそれが作りだす凹凸を手探りすることが自分には大切で、だから私は彫刻を作っているのだろうと思います。凹凸に起こる無数の反転が、見る人の身体を取り込みながら、作品と一人一人の間に結ばれる関係を「唯一のもの」とする場所にしたいと思いました。Profile 1981年、東京都生まれ。2012年ドレスデン造形芸術大学修了。一般的なレリーフとは異なり凹凸が反転している立体作品を制作。物体の「不在性」と「実在性」を問い続けている。2014年より工場を改装した「私立大室美術館」で毎年敬老の日限定で個展を開催するプロジェクト「When I get old」を実施する。】とネットから。よく見ると、女の子も鳥も凹んでいるのであった。中谷ミチコさんは、粘土で作った原型を石膏で型取ると凹みが入れ替わることに注目し、モチーフの凹凸が逆転したレリーフ作品を数多く手掛けているとのこと。生で「これは凹面!」と自分に言い聞かせながら観れば凹面だとわかりますが、写真を撮る角度を変えても、もはや凸面にしか見えないのであった。見る場所によって、顔の向きが自然に変化する不思議な作品。この作品を私が観るというよりは、この作品に私が観られているのであった。右に移動して行くと・・・私を追って顔の向きが右方向に👈リンク。作者の顔にも似た女の子なのだと。さらに進む。「国際ビル」前にあったのがジム・ダイン アメリカ展望台 1990ブロンズ 塗料「アメリカを代表するポップアートのアーティストの一人。抽象表現主義的なタッチで描いた画面に、日用品を取り付けた絵画を制作しています。《展覧台》は、《ミロのヴィーナス》を実物よりも小さく模し、頭部を失くして面取りした2体を、ブロンズの台に乗せたもの。「私は自分の伝記の記述者であることにしか興味はない」と述べる通り、《ミロのヴィーナス》も作家の情感を反映したものに変貌させられています。」と。 街灯の灯りも点いて。「新国際ビル」の前にあったがキム・ハムスキー ヴェトナム-フランスルネッサンス 1985ブロンズ【1943年、北ベトナム生まれ。ハムスキーの作品は、フランスのポンピドゥ・センターなどにも所蔵されています。人間の顔や椅子などの表皮を部分的にめくったような幻想的な作風です。木彫を得手としていて、緻密で細やかなその手技は卓越した技術をうかがえます。めくれた頭皮がそのまま髪になり、枕代わりにもなっていて、細かいディティールを浄化させ、半眼で能面を思わせる表情は夢幻のように超現実的な雰囲気が漂います。】丸の内仲通りはアートの通りであるのだ。有楽町寄りから大手町までの1.2キロの両側に、色々な19人のアート作品が展示されている。ここは「丸の内ストリート・ギャラリー」と命名されている。ホームページによると『1972年より三菱地所㈱と公益財団法人「彫刻の森芸術文化財団」が、芸術性豊かな街づくりを目指し、丸の内仲通りを中心に近代彫刻や、世界で活躍する現代アートティストの作品を、数年に一度入れ替えながら展示して行くプロジェクトです』と。昨年の6月、4年ぶりにリニューアル。作品19点中、継続は2点で、新作が5点、入れ替えが12点に と有楽町駅前のT字路交差点が前方に見えて来た。「旧第一生命館ビル」横の植栽にもイルミネーションが。「旧第一生命館ビル」を見上げて。1938(昭和13)年 渡辺仁・松本与作終戦後、昭和20年(1945)に連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収され、マッカーサー総司令官は東京に進駐した当日に、都内を車で視察し、複数あった候補の中からこのビルを選んだといわれています。第一生命館では、現在でもマッカーサー総司令官室が保存されています と。 近づいて。「第一生命日比谷ファースト(旧第一生命館)」紅葉を見上げて。銀杏の樹であっただろうか。そして「丸の内仲通り」のイルミネーション散策もエピローグへと。「Step into Santa's Sleigh! ソリに乗って写真を撮ろう」と。「有楽町電気ビル北館」前の「THE PENINSULA」。「丸の内仲通り」出入口右側・日比谷交差点に面したホテル、ザ・ペニンシュラ東京の角のクリスマスツリー近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.04
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この日は2024年12月23日(月)、皇居の散策を終えて、東京駅丸の内地下中央改札口に16時前に集合。この日は15年来の海外旅行、日本旅行の旅友との久しぶりの再会・宴を行ったのであった。定時に5人全員集合。東京駅近くで仕事をされているEMIちゃんの案内で、開催中の「丸の内イルミネーション 2024」を宴の前に楽しんだのであった。まずは「KITTE丸の内」に案内された。1931年、日本最大級の郵便局として東京駅の丸の内口前に建造された東京中央郵便局が、建設から82年が経った2013年、当時の姿を可能な限り残しながら「キッテ(KITTE)」として生まれ変わりったのだ。東京駅に直結し、地下1階から6階まで7つのフロアに広がる館内は、日本のものづくりや心地よさを伝える100近くののショップ&レストランが集結。開業に合わせて日本郵便が初めて手がけた商業施設「KITTE」なのであった。KITTE(キッテ)という名前は、「切手」と「来て」の意味が込められているのだ と。商品やサービスに込められた想いを届ける施設でありたいという願いが込められている と。KITTEは、東京駅に直結する複合商業施設で、JPタワーの一部を構成.「ブリーズツリー(Breeze Tree)」は、東京・丸の内にある商業施設「KITTE」のクリスマスイベント「WHITE KITTE」で展示された、本物のモミの木を使用した高さ約13.5メートルのクリスマスツリー。「ブリーズツリー」は、英語の「Breeze(ブリーズ)」と「Tree(ツリー)」を組み合わせた言葉。ブリーズは「そよ風」や「微風」を意味し、ツリーは枝を広げた形をしたものを指す。ブリーズツリーには、枝の先端にLED球がはめ込まれているタイプのイルミネーションツリーなどがあると。約3万球のLEDライトで装飾され、リボンをモチーフにした全長約100メートルの純白のベールで包まれているとのこと。 期間中は、音楽に合わせてアトリウム全体が6色に光り輝くライティングショーや、高さ約2.2メートルの天使の羽をモチーフにしたフォトスポットなど、さまざまな演出が行われているとのこと。 床面近くには白のカーネーションが一面に。近づいて。見上げて。リボンをモチーフにした全長約100メートルの純白のベールで包まれて。近づいて。天井からリボンが垂れ下がって、まるでクリスマスプレゼントの如くに。「旧東京郵便局」をリノベーションした商業施設「KITTE」のVIの特徴は、従来のVIの概念を変えている点にあります。従来型が単体での使用およびその大小でバリエーションをつけるのに対し「KITTE」の長方形のパターンは自由に拡張することが可能。店頭ツールをはじめ、状況に応じていかようにも変容する大きな器のようなVIであると。VI(ビジュアルアイデンティティ)とは、企業やブランドの価値やコンセプトを目に見える形にし、視覚を通してブランドメッセージを伝えるあらゆるデザイン要素をいう。VIは、ブランドシンボル、ブランドロゴ、カラー、デザインエレメント(ロゴやアイコン以外のグラフィックパターン)、指定書体のようなデザイン素材などがあるのだ と。エレベータで6Fへ。6Fには約1,500m2に及ぶ開放的な屋上庭園「KITTEガーデン」があり、東京駅舎や駅構内を発着する新幹や電車を眺めることが出来たのであった。ライトアップされた東京駅や整備された東京駅丸の内駅前広場、丸の内ビル郡の窓明かりは非常に美しく、ぜひ東京駅に訪れたら脚を運んでほしい夜景スポットでもある と。ズームして。東京駅八重洲口の高層ビル群。左側「丸の内ビルディング」、右手「新丸の内ビルディング」。「東京ミッドタウン八重洲」の「ブルガリ ホテル 東京」。2023年にオープンした「ブルガリ ホテル 東京」は、日本初のブルガリ ホテルであり、ブルガリ ホテルズ & リゾーツコレクションの8番目の「宝石」。ホテルは超高層ビル「東京ミッドタウン八重洲」の40階から45階に位置。東京駅を見下ろす。次に訪ねたのは「丸ビル1階マルキューブ」。幅広い世代に親しまれている「スーパーマリオ」。『スーパーマリオ』シリーズのキャラクターたちのオブジェクトが、丸の内エリアの各会場に展示。メイン会場となる丸ビルには、マリオがハテナブロックを叩いてアイテムが舞い上がる様子をあしらったイルミネーションオブジェクト。近づいて。見上げて。「丸の内仲通り」を「有楽町駅」方向に進む。未だ明るさが残っていたので、イルミネーションの輝きはイマイチ。わずかに葉を残した木々にイルミネーションが飾られた「丸の内仲通り」。「丸の内三菱商事本社」入口にあった安田侃(やすだかん)氏の作品。作品名は「天空」と。世界的に有名な彫刻家で、イタリアで長年学び、ミケランジェロも使っていた大理石の産地、ピエトラサンタにアトリエを構えていた彫刻家である と。以前に訪ねた「丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)」👈️リンクの展示品ではないようであった。名和晃平 日本Trans-Double Yana(Mirror) 2012アルミニウム【3Dスキャンしたポリゴンの表面にエフェクトをかけ、そのデータを再び実体化する「Trans」は、2012年から続く彫刻作品シリーズ。人体モデルから読み取った情報が、質量をもつ物質に還元される過程において、流動性のある三次局面が生成され、情報データという表皮をまとった立像が形作られます。影と実体、現実とヴァーチャルの境をさまようTrans」は、虚ろなエネルギー体となって、現代における存在のリアリティーを問いかけます。Profile 彫刻家/Sandwich Inc.代表/京都芸術大学教授 2003年京都市立芸術大学大学院美術研究科博士課程彫刻専攻修了。感覚に接続するインターフェイスとして彫刻の「表皮」に着目し、セル(細胞・粒)という概念を機軸に、彫刻の定義を柔軟に解釈し、鑑賞者に素材の物性がひらかれてくるような知覚体験を生み出してきた。】「丸の内三菱商事本社」オブジェの前に、赤と白の箱が積み重なりイルミネーションが飾られていた。ビル関係者以外は中に入れないようですがクリスマスプレゼントをイメージしているようであった。さらに進む。舟越桂 日本 私は街を飛ぶ 2022 ブロンズ 塗料【舟越桂は、日本を代表する彫刻家のひとりである。人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、記憶や思い、自然、個人の心の中にもある距離や空間的広がりを表している。パブリック作品としての希少さもさることながら、着彩されたブロンズ作品としては自身の初作品となる。作品が設置される場所の日の動きまでも考慮し着彩された人物像は、静謐さの中にも華やかさと上品さを感じ、時間や季節の移り変わりと共に、街の喧騒と静けさに寄り添いながら、通る人々に「記憶」や「想い」を語りかけるであろう。Profile 1951年、岩手県生まれ。父は彫刻家・舟越保武。父の影響で彫刻家を志す。75年、東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業。77年、東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2005年からは人間と動物との混交像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。】頭部の、教会、本、並木道をズームして。顔に近づいて。丸の内15丁目PROJECT.ラグビーベンチアートリーチマイケルMICHAEL LEITCH身長/189cm 体重/113kg 生年月日/ 1988年10月7日 血液型/ A型日本ラグビー界を代表する闘将。彼の力強さとラグビーのもつ躍動感をベンチアートで表現。Team /Toshiba Brave Lupus Date o fbirth/October 7,1988Height/189cm Weight /113kg Blood type /AThis piece of bench art depicting a renewned Japanese rugby leaguechampjon communicates his power and the excitement of the sport of rugby.」丸の内1 5丁目PROJECT.は、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーを務める三菱地所が、ラグビーの様々な魅力に注目し、今までにない新たなラグビーの魅力を発信するプロジェクトです。2019年、ラグビー日本代表のパレードが行われた街・丸の内。ラグビーが日本の文化として根付き、更なる発展を遂げる為に、この街を舞台に、にわかファンもコアファンも、丸の内15丁目住民として一緒にラグビーを盛り上げていきましよう。」精悍な顔に近づいて。「丸の内2丁目ビル」前にあったのがH&P.シャギャーン 日本Matching Thoughts 2022ブロンズ 塗料「H&P.シャギャーン (日本)H&P.Chaguin (Japanese)Matching Thoughts 2022作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.03
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行幸地下ギャラリー(東京駅側)では「WINDOW GALLERY in Marunouchiーfrom AATM vol.2」が開催中であった。「2024年に18回目を迎えたアートアワードトーキョー丸の内(以下、AATM)は、若手アーティストの発掘・育成を目的に、全国の主要な美術大学・大学院の卒業制作の中から選抜作品展を開催し、これまで500名を超えるアーティストを紹介してきました。この度、AATM2024のグランプリ受賞者である高田マル氏、三菱地所賞受賞者の朝井彩華氏、そして過去のAATMに参加し現在も活躍を続ける3名のアーティストの作品を展示する「Window Gallery in Marunouchiーfrom AATM vol.2」を開催します。作品を通じて丸の内出身のアーティストを応援し、世界に羽ばたく機会を提供します。」と。【AATM2013 フランス大使館賞、オーディエンス賞 受賞】「野原万里絵絵画を描くプロセスを独自に分解することで、描くモチーフや形、線の組み立てかた、それを表すための道具づくりなどを拡張させ独自の絵画を創出している。1987年大阪府生まれ。2013年京都市立芸術大学大学院美術研究科絵画専攻油画修了。主な展覧会に、art resonance vol.01「時代の解凍」芦屋市立美術博物館(兵庫、2023)、「ホルベインスカラシップ成果展2023」N&A Art SITE(東京、2023)、「VOCA展2022」上野の森美術館(東京、2022)、Hikarie Contemporary Art Eye vol.15 3人のキュレーション「美術の未来」(東京、2021)、大阪府20世紀美術コレクション展「彼我の絵鑑」大阪府立江之子島文化芸術創造センター[enoco](2021)、個展「埋没する形象、組み変わる景色」国際芸術センター青森(2020)などがある。」とネットから(以下同様)。絵画を描く際の感覚的で曖昧な制作過程や思考に関心を持ち、絵画を描くプロセスに焦点を当てて制作してきた。これまでは、線や面を描くための雲型定規や型紙などを自作し、木炭や顔料を用いて大型の絵画を描いてきた。近年は、植物や石をはじめとする自然物の造形から着想したり、音や匂い等の目には見えないものから感じとる形状を、多数のドローイングの中で描く。色彩に関しては、インドの1ヶ月間の滞在で感銘を受けた、クトゥブ・ミナールの遺跡の岩や、青森県等の海岸で収集している錦石などをモチーフにしている。また、ワークショップを日本各地で開催し、協働制作による絵画作品も継続して発表。他者と自身を行き来しながら制作することで、絵画の制作や鑑賞方法への新たな可能性を模索している と。『日々の集積(ホーローのための原画)』『解体と構築01』これは今年の夏、制作中に南海トラフの臨時情報がラジオから何度も流れてきたことから制作した作品だと。地震情報を聞いて見えてきた形に着想を得ているとのことで、地盤の崩れる様子や地球の中心でマグマがうごめいているようなイメージにもつながったのだ と。『解体と構築02』【AATM2015 三菱地所賞、今村有策賞 受賞】『田中 彰木口木版のような繊細な版技法を軸に、立体作品から人とのコミュニケーションまで幅広く作品を展開している。樹木への関心から派生し、自然を作り出した壮大な時間軸が作品に現れ、魚、コーヒー、昆虫などさまざまなモチーフが作品に登場する。1988年岐阜県出身。2015年武蔵野美術大学大学院版画コース修了。主な展覧会に「VOCA展2024」上野の森美術館(東京)、主な個展に「町田芹ヶ谷えごのき縁起」町田市立国際版画美術館(東京、2019)、「project N 67 田中彰」東京オペラシティ アートギャラリー 4Fコリドー(2017)、「樹について」三菱一号館美術館歴史資料室(東京、2016)などがある』フィールドワークを通して木の持つ時間や社会における関係性をテーマに木版画をベースに制作。樹木の成り立ちを追っていくうちに森林そのものが形成されたデボン紀に着目するようになりました。現在まで形をほとんど変えることなく存在する、翅のない虫を探すことから始まり、当時最盛期を迎えた海洋生物への興味から釣りを始め、魚類図鑑と魚拓から着想を得た作品を制作しています。釣りは一見すると趣味性の高いものに思われがちですが、人々の生活や地域と深く結びついています。日本各地で釣りをしながら仲良くなった人たちとの繋がりを少しでも残すため、最近は釣りともカードを発行し、ナンバーをつけて配布する活動をしています。『Drifting Scope 白老を測る』という作品を展示糸で身長を測ることができる と。実際に身長を測った人たちの写真が並んでいる と。カヌーから長く出ている糸はポロト湖の深さを測ったもの と。カヌーに近づいて。子馬の高さを測ったもの。ここにはいなくても、なんとなく子馬の存在を感じるような気がします と。【AATM2020 野口玲一賞 受賞】『山口 由葉身近にある風景を、躍動感のある筆致と瑞々しい色彩で描く。空や樹々のざわめき、水辺など流れてしまうような一瞬の自然の風景を、油彩によって絵画空間に表出させる。1992年愛知県生まれ。2020年東京藝術大学大学院修士課程絵画専攻油画 修了。主な個展に「線をひっぱる」TAKU SOMETANI GALLERY(東京、2023)、「project N 90 山口由葉」東京オペラシティアートギャラリー(2023)、展覧会に「CAF 賞 2019入選作品展覧会」代官山ヒルサイドフォーラム(東京)などがある。港浸會大学アーチストインレジデンス滞在(香港/中国、2018)、第36回ホルベイン・スカラシップ奨学生(2023)』『私の絵のモチーフは私の日常の風景であり、具体的なテーマやメッセージ性はとくにない。しかしながら「ある対象を描いている」という意識はとても重要だ。「なにを描くか」は「どう描くか」に直結している。最終的にどうなるのかを考えてから逆算して色や艶の有り無し、筆の運び方やその順序を決め、描き始める。しかし、描く前にあれこれ考えた計画はその通りにはいかない。一手一手こうなったからこう描こうと反応し、考えながら描いている。初めの一手が何かによって絵は全く変わってしまう。私は考えながら描いた絵具の重なり、それが示すプロセスをもっとも大切にしている。』AATM2020に参加し、野口玲一賞を受賞した山口由葉さんは、5点の絵画作品を出展しています。すべてに共通するのは、山口さんがバスや車の窓から見た景色だということ。その時見た風景を短時間でラフにドローイングし、持ち帰って見た時に思い出せるものを油絵として作品にしています。『フロントガラスのワイパー跡』『半分開けたバスの車窓』『高速道路の下』『岩崎御岳山の木々』「夜の坂道」2024、1621×1621mm、キャンバスに油彩 Photo:Tamotsu Kido【AATM2024 グランプリ 受賞】『高田 マル日記や手描き文字などの個人的な描写や記述を、公的な場に描いて他者に見せることで、絵を描くという行為とは何かという問いに対する実践をさまざまな方法で深め制作を継続している。1987年神奈川県生まれ。2009年日本女子大学文学部史学科宗教学専攻修了。2013~2015年美學校にて複数の講座を受講。2016年から展示&対話企画「絵画検討会」呼びかけ人。2020年一人出版社「絵画検討社」発足。2024年京都市立芸術大学大学院美術研究科油画専攻修了。主な個展「この花、ダリア、ダリア、ダリア」NADiff window gallery(2024)、著書『忘れられない絵の話 絵画検討会2020-2021』(2022)。人間はなぜ、いまだに絵を描き、絵を見せ、絵を見ることを欲するのか。絵をめぐる人間の原初的な衝動や欲求を探るうえで、「絵画」を物質的なひとつの形式ではなく人と人のあいだで起こる出来事として捉え、ごく個人的な描写と記述、公の場におけるそれらの伝達と誤読のなかで何が起こっているのか実践を通して考えている。言説としての「絵画」は移り変わっていくが、絵を描く行為はどこまでもいつまでも私的だ。私はその私的さに付き合い続けている。『「わたし」「聞き做し」』『わたし』の一部すりガラスのようなくもったシートに字のような線が描かれていた。どちらも文字のような読めそうで読めない線が描かれていて、これは一体…?【AATM2024 三菱地所賞 受賞】『朝井 彩華版画技法を用いて、過去と未来を俯瞰するような想像世界の移り変わりを報じるメディアを創出し、架空の文明の変遷を描写する。現代の私たちにも通じるテーマや違和感をユーモアと共に引き出している。2001年宮城県生まれ。2024年 女子美術大学芸術学部美術学科洋画専攻卒業。主な展覧会に「Reflect 反射 反映 反芻」女子美アートミュージアム、神奈川(2022)、「東京五美術大学連合卒業・修了制作展」国立新美術館(2024)などがある『Doomsday records』という連作この作品では、架空の存在したかもしれない文明のなかで土化の病によりゆるやかに滅亡していく様子を描いています。その世界の新聞とポスターのような作品で構成されていて、作品をみることで終末を見届けるような作品です と。以上、私には理解が難しい絵画なのであった。そして「行幸地下ギャラリー」案内板。そして東京駅にある「動輪の広場」。歩いているといきなり大きな蒸気機関車の動輪が現れた。鉄道100年に完成した東京駅のこの地下に、C62形蒸気機関車の動輪をかざり、歴史を讃えることにしたと。「C62形蒸気機関車“みなさんの足”として親しまれてきた国鉄 は、今年で創業100年を迎えました。蒸気機関車は、この歴史とともに歩んできました。第2次世界大戦で戦災を受けた東京駅 が修復された昭和23年に、これと同じくして誕生したC62形蒸気機関車 は、日本復興のエースとして活躍し、世界最高の時速129キロを記録するなど、技術の粋をあつめた“栄光の名機”とうたわれました。このC6215 号機は、東海道、山陽、函館本線などをかけめぐり、昭和46年12月解体されるまで、約263万キロ(地球を65.7周)を走り続けました。“鉄道100年”に完成したこの東京地下駅に、同機の動輪 をかざり、その歴史をたたえることとしました。 昭和47年7月15日 日本国有鉄道」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.02
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「和田倉門」交差点を渡り、東京駅に向かって地下への階段を下る。東京駅前、「丸ビル」と「新丸ビル」をつなぐ地下通路は「和田倉門」交差点までのギャラリースペースになっていた。この地下空間は、皇居を含めた丸の内界隈に来街する方々に、安全な歩行通路の提供はもとより、快適で楽しい公共地下空間を提供することを目的に開設され、広々とした明るい通路の両脇には、全長220mものガラスショーケースを設置、「行幸地下ギャラリー」と名付けられた と。行幸地下ギャラリーでは、雨天の影響を受けずに、そのスケール間を生かした、様々な展示展開が可能で、絵画、写真、現代美術などのアート展示から、様々なパネル展示、ショーケースの奥行きを生かした立体物の展示など、幅広いご利用が可能。またイベント展示が行われていない期間には、常設展示と致しまして、丸の内界隈の歴史や自然、祭りの姿など紹介する写真パネルを展示、歩行される皆様にお気軽にお楽しみ頂けるギャラリーとなっています。行幸地下ギャラリーは、丸の内界隈の地下空間に快適な環境と賑わいを創出すると共に、東京の中心から歴史や文化を発信するギャラリースペースとして、街の活性化に寄与しています と。東京駅に向かって右側の展示を楽しむ。「丸の内フォットジェニック大手町、丸の内、有楽町エリアの素敵な風景を発見」。PHOTO BY rinbow00 #新丸ビルPHOTO BY rinbow00 #九の内ブリックスクェア・1号館広場PHOTO BY yuuu_days #新丸ビルPHOTO BY yuzof #大手町フィナンシャルシティグランキュープPHOTO BY megumi. S. fotografia #大手町フィナンシャルシティグランキュープPHOTO BY h1dekazz #大手町フィナンシャルシティグランキュープPHOTO BY jyasumina #大手町フィナンシャルシティグランキュープPHOTO BY takahashi_naoya #大手町フィナンシャルシティグランキュープPHOTO BY hakuchuuphoto #丸の内オアゾPHOTO BY onotch.x #丸の内オアゾPHOTO BY yuuu_days #丸の内仲通りPHOTO BY yuzopf #国際ビルPHOTO BY Jyasumina #国際ビルPHOTO BY yuuu_days #丸の内仲通りPHOTO BY yuuu_days #丸の内仲通りPHOTO BY takaphilography #三菱一号館美術館・Cafe1894PHOTO BY koujitomihisa #丸の内仲通りPHOTO BY koujitomihisa #丸の内仲通りPHOTO BY yu_ki_photo918 #大手町仲通りPHOTO BY yu_ki_ Photo918 #丸の内ブリックスクェアPHOTO BY yasufumi_phot #東京ビル TOKIAPHOTO BY yasufumi_phot #東京ビル TOKIAPHOTO BY yasufumi_phot #行幸通りPHOTO BY ryovu #晴海通りからの丸ノ内PHOTO BY ryovu #新丸ビルPHOTO BY ryovu #新丸ビルPHOTO BY ryovu #新丸ビルPHOTO BY ryovu #新丸ビルPHOTO BY ryovu #丸の内仲通りPHOTO BY ryovu #丸の内仲通りPHOTOBY ryovu #丸の内ブリックスクエアPHOTOBY ryovu #丸の内ブリックスクエア ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.01
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