JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.05
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カテゴリ: JINさんの農園
​「 ​◆​ 身分を超えた信任---小田原城下の時代」​
文化8年(1811) 25歳
頼りにされた金次郎

金次郎は向学心やまず、小田原城下での武家奉公に出ると、ほどなく小田原藩家老服部家に、
最上位の奉公人「若党」として仕えた。
そこでは若殿につき添い、藩の儒者の私塾に通って講義を陪聴(ばいちょう)しながら、子息の
教導にもあたっていた。その内、服部家の使用人たちが借金生活で苦境にあることを知り、
互助的金融による「五常講」を組織して救済指導を始めたが、さらに破綻に瀕していた服部家の
財政再建まで依頼されるという、思いがけない展開となる。
その頃の小田原藩は、度重なる災難もあって財政難に陥り、家臣の俸禄米は三分の一に減少、
藩士の生活は厳しさを増していた。
金次郎の救済策は服部家にとどまらず、日常生活に困窮する下級藩士にも及んだ。
その一方で、藩主の改革への良策の求めに応じて升の統一を提言し、それが実現した。
その理財の才能と計画性のある実行力が認められ、金次郎は藩主から荒廃した領地・農村の復興
という大役を任(まか)された。」



五常講



五常講
金次郎は小田原藩家老・服部家の使用人らへの融通や、藩士への無利息貸付の制度を「五常講」
と称した。
こに展示した母の実家・曽我別所村(小田原市)川久保太兵衛家の家政再建指導書(上・金次郎
自筆)、栢山村の人々への田畑貸出・用水普請の指導書(下・写本)の表紙にも「五常講」と
記されている。金次郎は「五常」すなわち、人として守るべき「仁義礼智信」を重んじた
のである。」



◆​ 服部家の財政再建と藩士の救済
文政元年(1818)」32歳

服部家の財政再建
調べると、本来1300俵ほどの給米(きゅうまい)が、藩財政悪化のため実際は400俵近くにまで
減給されていた。ほかにに収入はない。
否応なくその範囲での生計が必要であった。そこで屋敷内の)竹、野菜、果実などの産物のほか、
余剰品は売り払い、生活を徹底的に切り詰めて借財を返却し、3年程度で立て直す計画を立てた。
一介の農民が、家老の生活にここまで立ち入ることは異例だったが、幕末の武士社会の生活は
そこまで逼迫(ひつばく)していた。

五常講で困窮藩士を救済
服部家はその後、諸事情から借財を増やす事態となったため、金次郎は改めて、藩に低利貸付救済
資金の融資を求める大胆な提案をした。その一部を服部家の借財返済に充てると共に、一方では
内職資金にも困る下級藩士への救済無利息金融資にまわし、五常講方式で運用した。
五常講とは、儒教の説く倫理的な五つの徳目、「仁義礼智信」による貸借の保証行為を義務付けた
組織で、それは後に、日本型信用組合の原型とも評されている。」



酒匂河原表彰の図  文久元年(1861)」



酒匂河原表彰の図
文久元年(1861)
小田原藩主大久保忠真は、文政元年(1818)に老中となり、江戸にむかう際、酒匂川右岸の河原に
関係者を集め、領内に6カ条の告諭を発するとともに、出精奇特人ら13人を表彰した。
この絵はその状況を描いたもので、かごの中にいるのが忠真である。忠真にむかって右側(川側)の
前の方に土下座している者が13人おりこの中の一人が「栢山村金次郎」のはずである。また、
付近の農村の様子もよく描かれている。この場所に今は国道1号線より北側にあたる。
                                     観雲筆」



大久保忠真表彰状  文政元年(1818) 11月



大久保忠真表彰状
文政元年(1818) 11月
金次郎32歳のとき、藩主大久保忠真からもらった表彰状。彼は農業に精を出し、心掛けもよく、
村の為にもなり奇特であるとして褒められた。
殿様から直々に表彰されるだけでも大感激だが、特に「村為にもなり」という1句は彼の心を
とらえて、人生観を深めるきっかけとなった。また、後々の彼の仕事のなかで表彰制度を大いに
取り入れ、村興しに活用したことも見のがしてはなるまい。」



◆​ 小田原の斗升(とます)の改正
文政元年(1818) 32歳

金次郎宿願の斗升の改正
表彰から2年後、藩主忠真から「末永く御領内百姓どものためになるような事」の提案を求める
仰せがあった。これは金次郎にとって斗升の改正・統一を果たすためのまたとない機会となった。
その頃藩内では年貢納入に18類ほどの枡が使用され、米一俵の基準が定まらず、不利益となる
農民たちには憤適(ふんまん)やるかたない間題であった。
改正案は家老服部氏のロ添えもあって取りげられ、早速新たな枡の創作に臨んだ。「米」の字に
ちなんで深さ8寸8分( 26センチ余)、3杯で米4斗1升入り、1俵となる独創的な枡を設計し、
城下で腕利きの建具職人に作らせた。これが藩主の英断で採用された。その結果農民たちは、
藩にお礼として冥加(みようが)米を納めたいと喜んだという。」
冥加米は「領主が支配する山野河海から何らかの利益を得た者からも冥加を徴収する」に類する
冥加米とのこと。



服部十郎兵衛書状  文政3年(1820) 10月23日付
「服部十郎兵衛書状  天保7年(1836)   1月28日付



服部十郎兵衛書状
   文政3年( 1820 ) 10月23日付
金次郎は3杯で米4斗1升入り1俵となるような年貢納入枅を自ら職人に指図して作らせた。
この書状は、江戸の小田原藩邸にいた家老・服部十郎兵衛が、その枡の供用開始が正式に決定した
ことを金次郎に急報したものである。領内の農民を苦しめてきた年貢納入枅の不統一が改正された
のであった.」



服部十郎兵衛書状
    天保7年(1836) 1月28日付
金次郎が服部家を去った後も、同家は借金を重ね、金次郎に救済を求めていた。
この書状は、十郎兵衛の不心得を叱責し、貸付金100両の返還を迫った金次郎に対し、
十郎兵衛がその猶予を懇願したものである。」



◆​ 藩主の期待、覚悟の旅立ち
文政6年(1823) 37歳

藩主の期待
幕府老中になった藩主忠真にとって、藩財政の立て直しは最大の課題であった。
加えて分家の旗本宇津家の荒廃著しい下野国(栃木県)桜町領の救済は急を要した。
長年、小田原藩役人を派遣し多額の助成金を投入してきたが状況は悪化の一途。
忠真はこの問題に対処可能な人材として、金次郎に期待した。金次郎は驚き固辞したが、
重ねての依頼に抗しきれず、現地に度々足を運び数理に基づく詳細な調査を行った。
公称4千石の桜町領の現実は、その四分の一にまで低落していた。」

覚悟の旅立ち、「一家を廃して万家を興す」
金次郎は、桜町領のこれまでの生産高や財政収支を統計的に分析、10年で生産高を倍増させると
いう綿密な仕法計画を立て、小田原藩に提出した。
それは領主宇津家の年貢高を一定におさえ、年々の増収分を村の復興と生産高向上の資金に充てる
という、当時の封建社会では考えられない画期的な内容であった。金次郎はさらに身をもって
覚悟を示す。苦労して再興した自身の田畑家屋全てを売却し、復興資金に拠出した。
「一家を廃して万家を興す(尊徳語録)」という志(こころざし)の旅立ちであった。」



34歳「 入作反別控 文政4年(1821)
寺送状



入作反別控 文政4年(1821)
Oからスタートした金次郎は体得した「小を積んで大となす」という理にもとづき、徐々に、
自分の土地をふやしていった。この資料は、文正4年(1821) 35歳のときに、所持反別を調べて
一応書き上げた草稿で、総反別は2町6反8畝歩、うち、自分で耕作する土地が8反1畝2 0歩、残る、
1町8反6畝1 0歩が小作地になっている。小作地が多いのは、前年の末までは服部家の仕法など、
この年には桜町領の調査などで忙しかったためであろう。」



寺送状
金次郎の桜町(栃木県真岡市)赴任に当たり栢山村の菩提寺・善栄寺が作成した送籍証文。
桜町へ引き移る金次郎一家を「貴寺」の仮檀那にしてほしいと記されている。ただし、
具体的なあて名がなく、この証文は執行されかった」ものと考えられる。」



ニ宮尊徳先生回村の像



ニ宮尊徳先生回村の像(等身大、五十六才前後)
立像制作にあたって
日府展彫塑部理事・旺玄会委員 横山七郎
絵画や彫刻は説明しないで、見て感していただくのが本来だと思うが、今回の像は普通の作品と
少し違うので、二三お話ししたい。
ます二宮先生は身長一八二センチ、体重九四キロの、偉大な体格の持ち主であったから、同大の
一八二センチで芯(しん)づくりをしてみると、あまりにも大きく、し」れに九四キロの肉づけを
したらどうなるかと、心配になった。そこで一たんは一七〇センチの芯に替えたが、また眺めて
いるうち、やはり等身大の一八二センチ・九四キロでやるべきだ、それが相撲取りのように
なったら私の至らぬところだ、と覚悟して芯を一八二センチにした。
次にモデルだが、まず同じ身長・体重の高校生を探し出し、二十枚の立体写真を撮った。次に
三十代の、柔道をやっている人と、五十代の、農業で鍛えた人を探して、それぞれ同じ枚数の
写真を撮り、肉づきをはじめ、いかに肉体が変化をきたすかを調べた。
それから裸像をつくったが、まず両手の位置に引っかかったいろいろやってみたが満足できず、
最後に、右手を帯にあて、左手を下げてしっかりと握った形に落ちついた。
次に脚の開き方は、自由に動かせるような装置をして、いろいろ動かしてみて決めた。握った
左手は意志・実行力を、帯の右手は静かに考る態度を表わしたつもりである。顔は、岡本秋暉の
スケッチと画像を基にして、眼は先を見とおす眼光を、額は英知と洞察を口は意志の強固を表現
しようとした。
それから着衣にかかった。記念館にある「回村の画像」の複写を持って、川越市在住の時代考証家
稲垣史生氏のところに出向き、自信をつけた。それからはスピードが出て、着物や羽織を着せ、
脚絆をつけた。わらじのはきかたが分からぬので、湯本の大名行列の関係者に教わり、モデルにも
穿(は)かせてみて、確かなものにした。
こうして半年、年内に粘土像ができあがり、石膏どり、ブロンズと進んで、二月一杯に像が完成、
三月一日に据えつけた。
一五センチの台石は、銅像としては最も低い部類と思う。大地に根をはった尊徳先生の強さ、執念
を表す・・・・・・・:」





尊徳坐像  作者 岡本秋暉



「この肖像は、小原藩士で花烏画家として知られている岡本秋暉(祐之丞)が小田原市曽比村の
有力者であった釼持広吉の依頼を受け、天保十三年(1842)江戸の小田原藩邸内で藩士・
矢野筈右衛門と対談中の尊徳をひそかに写生して、仕上げたものである。
当時、尊徳は五十六歳。着衣の裃(かみしも)には家紋「石(こく)持ち地抜き木爪(もっこう)」が
つき、拝領品の小袖には藩主・大久保家の紋「上り藤に大の字」がついている。」



尊徳肖像画 下絵



尊徳肖像画 下絵
岡本秋暉が尊徳の肖像を完成させる過程で描いた下絵。
花烏画家として著名な秋暉であるが、その作画姿勢は粉本(手本の模写)主義ではなく、
写生を基本とするものであった
                   (小田原市尊徳記念館蔵)」
<顔かたち>
尊徳は色が「赤く黒き方」であったという。仕事がら村々を回ることが多く、赤黒くなって
いたのは日焼けのためもあったかと考えられる。
目は小さい方であったと記されており、優しい目をしていたと思われる。とくに困窮した農民を
見る目は優しかったであろう。だが、その目をとおして見る現実や人の心、将来への展望は
じつに大なるものであった。耳および耳たぶは大きく、多くの人々の話を聞くにはふさわしい
耳ではなかったろうか。怒った時の尊徳は大声で怒鳴ったといわれており、そのロは「大なる」
ロであった。鼻は丸形で高い方であったとされている。
<身長・体重>
尊徳最晩年の弟子岡田良一郎は「先生(尊徳)、身の丈6尺有余(約182cm)、体重24 ~ 5貫
(約94kg)を下らざるべし」と記している。
晩年に使用した衣類の丈が鯨尺で3尺7寸=約140cmと記録されていることからも、これが
うなずける。当時としては大男であるが、背が高いというより、横幅の広い、がっちりした
体格だったようである。遺品の足袋は26 . 6cm (約11文半)で、これも大男だった証拠である。



足袋(たび)



足袋
金次郎が使用したと伝えられる足袋で、十一文半(約26. 6cm )と大きい。明治27年(1894)
創建の小田原の報徳ニ宮神社にニ宮家から奉納された遺品のひとつである。」



「二宮家略系図」。



ズームして。



尊徳木像
尊徳の門人で、小田原領曽比村(小田原市)の釼持広吉が、常州青木村(茨城県桜川市)の領主・
川副勝三郎の用人・荒川泰輔(寛斎)に依頼して作った尊徳木像は、尊徳の死後2年目の安政5年
(1858)に子息・弥太郎(尊行)に贈られた。弥太郎は「父に再会した心地がする」と像の
出来ばえに感嘆した。木像は3体作られ、ニ宮家ほか、相馬中村藩主の相馬家(後に今市の
報徳ニ宮神社へ奉納)・剱持家がそれぞれ所有したが、釼持家の像は後に紛失している。
こに展示した像は荒川作の像を昭和14年(1939)に斎藤誠一が模刻し、その翌年、露木清司が
小田原の報徳ニ宮神社へ奉納したものである。露木は元神奈川県農業技師だが、酒田村
(開成町)の生まれで、釼持広吉の「血族」であったという。おそらく、露木は当時釼持家に
あった像を斎藤に見せ、模刻させたのであろう。」




                                 ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.11.05 07:58:57
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