JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.03.15
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カテゴリ: JINさんの農園
正面に「 本殿 」。
入母屋、正面千鳥破風付、向拝5間 軒唐破風付、銅瓦葺。



正面の 唐破風(左下)と千鳥破風
唐破風、千鳥破風の破風板には飾り金具がつき、懸魚が下がっていた。
千鳥破風の妻飾りは二重虹梁のような構造になっており、欄間には格子が張られていまる。



狛犬(右)



狛犬(左)



唐破風 」下を正面から。



そして 内陣 を。

5/1(日)神田明神月次祭(つきなみさい)とあかりちゃん☁ | 大好きな神田明神に参拝しているブログです

大伝馬町八雲神社 」。



「三天王 二の宮
大伝馬町八雲神社
御祭神 建速須佐乏男命(タケハヤスサノオノミコト)
祭礼日 六月五日
この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王のニの宮の天王祭は、六月五日
明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このこと
から大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(一六一五)頃より行われて、江戸時代には
他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の
有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
尚、東京の風詩「べったら市」神田神社兼社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により
祭礼伝繞文化行事として継承されている。」



社殿 」。



扁額「 八雲神社 」。



七つの石鳥居をくぐり お参りできる 境内末社めぐり 」案内板。
末廣稲荷神社
金刀比羅神社
三宿稲荷神社
浦安稲荷神社
旧神田市場 千貫神輿
大田市場  江戸神社
大伝馬町  八雲神社
小舟町   八雲神社
築地魚河岸 水神社
社日参り
春秋の彼岸の中日に一番近い戊(つちのえ)の日のお参り。
この日神社に詣でて、五穀豊穣・身体健康を祈る信仰がある。この時石の烏居を七つくぐって
お参りすると、中風・ぼけ封じにもなるという古くからの信仰と慣習がある。
都内では、七つの石鳥居が揃った神社は、なかなか見当らず、この日には、多くの参詣がある。
毎、戊(つちのえ)の日のお参りには、古例にならい家清めの「お砂」を授与致しております。


その横に「 句碑 」と「 力石 」。



白うおや はばかりながら 江戸の水  竹冷
この句は、白魚が江戸の水を飲む様子をユーモラスに表現しつつ、当時の江戸の水の状況に
対する皮肉や風刺を込めていると考えられます。
「透き通るような白魚が、ちょっとためらいながら江戸の水を飲んでいる」――そんな情景が
浮かんできます と。



角田竹冷の句碑
白うおや はばかりながら 江戸の水
安政三年(一八五六)五月に静岡県冨士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)
であったが、俳人として名を知られていた。
明治二十八年十月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・
戸川残花らの参加を得て「秋声会」を組織し、翌年十一月俳詩「秋の声」を創刊した。
明治三十年六月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。
正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に
熱中した。いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。
竹冷は大正八年(一九一九)三月二十日六十六歳で没す。」



大伝馬町八雲神社鉄製天水桶 」。

大伝馬町八雲神社鉄製天水桶(神田神社)|東京都千代田区の歴史

大伝馬町八雲神社鉄製天水桶
千代田区指定文文化財
2004年(平成16年) 4月1日指定
大馬町八雲神社は、神田神社境内の神社(摂社)て小舟町八雲神社、江戸神社とともに
江戸時代には祇園牛頭天王三社と呼ばれていましました。
天水桶は防火用水などに使うため、雨水を溜めるためのものてす。深川大島の鋳物師・太田近江
大掾藤原正次(通称・釜六)の作てす。
反物などの流通を一手に担う間屋仲間が1839年(天保10年) 6月に奉納したものてす。
彼らは祭礼費用を賄うなど、神社と深い結び付きを持っていました。」



力石 千代田区指定文化財」
神田明神の力石「 大盤石 」。
刻まれた文字から、 文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げた ことが
判るのだと。



力石 」。
千代田区指定文化財
1991年(平成3年) 4月1日指定
カ石とは、一定重量の円形または楕円形の石て、神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う
場所)などにあって、若者達がカ試しに用いたと言われています。
神田神社境内にあるカ石の由来は銘文があリ、1822年(文政5年) 12月に神田仲町ニ丁目(現在の
外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と
娯楽を知るうえて貴重な資料です。



新歳枝松之碑 」。



近づいて
新歳枝松之碑 」。



記入内容は??????
都筑平吉 、力車、高砂屋等の文字は確認できるが・・・。
新年に欠くことのできない松の枝についての逸話かもしれません。



その左にあったのが「 小舟町八雲神社 」。



社殿 」。



扁額「 小舟町 八雲神社 」。



三天王 三の宮
小舟町 八雲神社
御祭神 建速須佐之男命
祭礼日 六月六日
この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町(貞享年間
(1684~)までは小伝馬町お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。
明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋橋上に
神輿を奉安し、祈祷が行われた。
東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、
二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ5丈の杉の木を植込み、
鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、
天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。
神輿は6月10日に明神境内を発輿して氏子180ヶ町を巡り遷輿するのは13日か14日その間の
里程は13里に及んだといわれる。このことから13里天王ともいわれた。
近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の
神幸祭が不定期に斎行されている。」



小舟町八雲神社鉄製天水桶 」。



小舟町八雲神社鉄製天水桶
千代田区指定丈化財
2005年(平成1 7年) 4月1日指定
小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって、1811年(丈化8年)
に奉納されました。深川大島の鋳物師で当時「釜六」ど呼ばれた太田近江大掾藤原正次の作と
されていますが、左右ー対の天水桶のうち、本殿左惻のものは失われ、1857年(安政4年)に
再建されています。小舟町八雲神社は江戸時代には祇園牛頭天王社(三の宮)ど呼ばれていました。
魚間屋仲間が集住していた小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)の人々により崇敬されるようになり、
現在に至ります。」



神田明神を訪れたら、たとえ柵越しでも会ってほしいアイドルがいる と。
それは 神馬(しんめ)、あかりちゃん だ。あかりちゃんの 本名は神幸号(みゆきごう)
平成22(2010)年5月15日、神田祭の日に生まれたメスのポニーだ と。



厩舎の中で顔を隠して。



神馬 神幸(みゆき)号 愛称 明(あかり) 」と。



あかりちゃんは怖がりです。
静かに見守ってださい。



あかりちゃん」の写真 をネットから。



拝殿の正面に向かって左にあった「 鉄製天水桶 」。
1847年(弘化四年)頃の奉納で、区指定文化財とのこと。



鉄製天水桶
千代田区指定文化財
1999年(平成11年) 4月1日指定
神田神社拝殿前にある鉄製の天水桶ー対は、地上からの高さが約1.3メートルあり、1847年
(弘化4年) 9月、摂州灘大石(現在の兵庫県)と筋達外(現在の外神田一丁目)の酒屋が発起人となり、
神田あるいは新川(現在の中央区)辺りの酒屋5名を世話人として奉納されました。
天水桶の鋳造には、2人の鋳物師が関わっていて、神田在住の堀口武兵衛が仕事を請負い、川口
(現在の埼玉県)在住の永瀬源七に鋳造させたと考えられます。」



祭務所 」。



本殿前右側にあった「 明治天皇御臨幸記念碑 」。
裏面には
「1874 (明治7 )年9月19日明治天皇( 1852ー1912 )が神田明神に御親拝になられた。
当時の記録によると、明治天皇は祠官本居豊頴の案内により前の大床において御立礼で御拝礼
遊ばされたという。東京の神社で明治天皇が親しく御参拝なさったのは靖國神社と神田明神のみで
あった。
1874 (明治7 )年という年は、二の宮に少彦名命が迎えられ平将門霊神が本殿から摂社へ
遷座されるなど様々なことが起こった年で、非常に慌しい中での明治天皇御親拝であった。
碑は紀元2600年奉祝として1940 (昭和15 )年建立された。」と。



「獅子山」(文化財)。
獅子山再建 」碑もあった。



能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、
はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したもの。
今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与えるたとえとして知られているのだ。
下にいる子どもと思われる獅子の色が白いのであった。



御即位大典祝記念 獅子再建 平成二年十一月十二日 」碑。







石獅子 夫婦2頭
千代田区指定文化財
1991年(平成3年)4月1日指定
この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つです。
享保年間(1716~1735)に下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。
あり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
1862年(文久2年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録がます。
3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落とした子獅子を見る構図となっています。このうち
江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は1923年(大正12年)の関東大震災で失われ、
1989年(平成元年)に天皇即位を記念して再建されました。」



神田神社の図(部分) 『新撰東京名所図会』
神田区之部、東陽堂、1900年
十代田区教育委員会蔵



谷底へ突き落とした子獅子を見る親獅子の姿 を。



ここにも「 境内案内図 」。



明神会館 」。



明神会館 」前から 「本殿」の屋根 を見る。



奥にむって進むと左側にあったのが 「銭形平次」碑 そして 「八五郎」碑



近づいて。



銭形平次碑
銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
平次の住居は、明神下の元台所町ということになっている。
此の碑は、昭和45年(1970)12月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を
見下ろす地に建立された。
石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が
建てられた。」



石造り 寛永通宝の銭形の中央には「銭形平次の碑」。



発起人名にはそうそうたるメンバーが並んでいた。


「八五郎」碑


万歩計 散策点描 湯島天神、亀戸天神の満開の梅を楽しむH270227 新御茶ノ水駅~神田明神~湯島天神(梅が咲く神田明神H270227)

阿部筲人(しょうじん)の句碑
山茶花の散るや己の影の中 」。
筲人 (1900〜1968)は、俳句雑誌『好日』を主宰し俳句論をおこなった人物。
その著『俳句―四合目からの出発』は、俳句の入門書として多くの俳句愛好者に読まれている。
昭和47年11月12日、好日俳句会により建立。



「國學發祥之地」碑
国学は、荷田春満(1669〜1736)により江戸において始められた学問である。春満は伏見稲荷大社
神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちにひそか
に情報を提供し討入をたすけたというエピソードもある。その春満に最初に入門したのが神田明神
神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめた。
また春満の弟子・賀茂真淵(1697〜1769)も、神主芝崎家の邸に一時住んでいた。真淵は、御三卿・
田安宗武に仕え、その一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めた。
碑は春満・真淵そして芝崎神主ほか明神神職による国学の発祥を記念して、昭和53年12月に
建立された。題字は当時伏見稲荷大社宮司・守屋光春、撰文は直木賞作家・今 東光氏による。




「國學發祥之地 
 東光撰文

荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光
五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仏道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して
江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり 
その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を
借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に
亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸の
ために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 
殊に元禄十五年門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を
扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して
今日に至る 今その遺跡に記して後学の為に伝ふ

(裏面)  題字 伏見稲荷大社宮司 守屋光春 書
      協賛 國學院大學
         伏見稲荷大社
         靖國神社
         湯島神社
         龜戸天神社
         神田神社
         羽倉 信也
      発起 羽倉 敬尚
         池田 良八
         莵田 俊彦
         大鳥居 吾朗
         今永 利男
   昭和五十三年十二月吉日」



                                 ・・・​ もどる ​・・・




                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2025.03.15 07:20:43
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