SARSの思い出 <OUTBREAK 1>
SARSのニュースが頻繁にテレビから聞こえてくるようになり、香港市民の間に手洗い、マスクの着用などのSARS予防が序所に広まってきた頃、ある4人か5人の家族が全員SARSの疑い有りということで病院に運ばれていく様子がニュースで流れた。確か、おじいさんとその孫もふくまれており、一つの家族全員がかかるなんてこれはただ事ではないぞという恐怖感を持ったことをよく覚えている。実はこれが、香港を本当の意味で恐怖におとしいれた、アモイガーデンアウトブレイクの始まりだったのだ。
アモイガーデンはカオルンサイドの住宅密集地にある、香港内では一般的な住宅地だ。このアモイガーデンに住む住民がバタバタとSARSに倒れ病院に運び込まれ、結局329人の感染者が出て、そのうち42人が亡くなるという大惨事となった。
今調べてみると、3月26日に某病院が、「アモイガーデンの住民15人(7家族から)がSARSの疑い有りで病院に運ばれている。」と発表した。これが私が見たニュースだろうと思う。そしてその住民のほとんどがアモイガーデンBlockE(E棟)の限られた数フロアから出ていることがすぐにわかった。感染者数のグラフを見てみると3月22日あたりからいきなり増えていて3月24日にピークを記録しており、この時期の感染者のほとんどがアモイガーデンの住民たちだ。
この後、アモイガーデンでのOUTBREAKが明らかになり、E棟の、感染者が多かったフロアを消毒したりしている様子がテレビでながれていた。感染者はE棟以外からも出ていて、E棟の付近の棟から多くの感染者が出た。結局19棟あるうちの14棟から感染者が出たのだ。すぐに原因をつきとめるべく、WHOのエキスパートがアメリカから派遣されてきて調査を行っていたけれど、その当時はSARSがコロナバイラス種のバイラスのせいで起きているということはわかっても、それがどのような経路をたどって感染していくのかがはっきりしていなかったのだ。
しかし、アモイガーデンの建物の建ち方、感染者数の多い棟の配置関係などを調べていくと、どうもトイレや生活廃水のパイプからコロナバイラスを含んだ水が飛び散って各家庭に広まっていったのではないかということに落ち着いた。その間にはねずみが感染媒体になっているといわれたり、ゴキブリが犯人にされたりとさまざまだったけれど、猫にも感染していたこともわかって、このまま香港全土に広がるのでは?という恐怖を誰もが持っていたと思う。
政府は感染を食い止めるために、アモイガーデンの住民を隔離することになった。つまり感染者が出た棟に住む健康な住民も既に感染している可能性があると言う事で、外出禁止にしたのだ。このニュースを受けて早々と親戚の家に避難を始めるふとどき者も相当いたようで、その追跡に政府も大変だったようだ。住民は水、食べ物、生活備品はすべて政府から支給してもらい、棟のまわりには防護服を来た人がいっぱいいる様子が毎日のように映し出された。それでも感染者は減ることなく、毎日毎日アモイガーデンから病院に運び込まれ続けたのだ。
小学生など子供も感染をはじめたと言うのを受けて、ついに3月29日から香港の全部の学校が一時休校となった。娘の通う学校も例外ではなく、きっちり29日から学校が休みとなり、その後の授業のおくれを少なくするため、子供たちは毎日学校のホームページにアクセスして、各教科のやるべき内容をチェックして、家庭学習を続けていた。
アモイガーデンの大感染の元になったこれまた3人目のSuperSpreaderがいるわけだけれど、この話はOUTBREAK2に書き記したい。
それよりもアモイガーデンが隔離状態になり、学校が一時休校になったすぐあと、4月1日にエイプリルフールのいたずらとしてある事件が起きる。
その日の日記をまずは読んでもらいたい。
Get a life! SARSで町中騒然!
お昼過ぎにスタッフの電話が鳴った。この日、スタッフの電話は鳴り捲り、仕事で電話をしようにも電話ラインがパンクしているのか電話がかからない時間があった。とにかく、このまま行くと香港が孤立状態になるのでは?という恐怖は実際にあったし、バカバカしいとは思いながら、ひょっとしてと考えることもできた。それぐらいSARSの恐怖はすごかったのだ。
その日、夜遅くスーパーマーケットに行ってみると、ほとんどの食べ物が売り切れ状態で米もほとんどなかったのを覚えている。うちはトイレットペーパーがきれかかっていたので、休みで家にいた娘に電話をかけて、トイレットペーパーのみ確保させた。娘の話では、レジの列でもけんかが起きたりと香港人が殺気立っていたことがよくわかったということだった。
そしてこの日は、なぜ日記に書き残していないのか不思議に思うのだけれど、この騒ぎが嘘だということをみんながわかり、ほっとしていた夕方頃、今度は香港人にとってはSARSよりもショックではないかというような事件が起きたのだ。
香港でも日本でも人気のレスリー・チャンがセントラルのホテルのベランダから飛び降りたのだ。もちろん即死だったわけだけれど、それでなくても暗く落ち込んでいた香港に、もう一つ恐怖をたたきつけるように彼は飛び降りたのだ。だから私はこの2003年4月1日のことは一生忘れないと思う。
そして、確かこの4月1日の夜遅く、隔離作戦をしいたのにも関わらず、感染者が減ることのないアモイガーデンE棟の住民達は、アモイガーデンにそのままいることが危険ということで、香港のトレセンのような施設(キャンプ村みたいな)に完全隔離されることとなった。アモイガーデン脱出作戦のような感じで、みな無言でマイクロバスに乗り、香港サイドにある施設に移っていく様子がテレビで報じられていた。まるで、夜中にプルトニウムを運ぶトラックが映し出されているような緊張感だった。
香港はとにかく大ブレイクを押さえるために次々と新しい政策をたてて、すぐに実行していたと思う。大きな混乱もなくアモイの住民達もよく恐怖の中で冷静に政府の指示にしたがっていたなと今となっては感心してしまう。
<OUTBREAK 2>では なぜこれほどまで一つのエリアでこの病気が広まっていったのかについて書きたい。