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気がつけばあっという間に2ヶ月以上が過ぎ、年は変わっているのでした。最後に書いた日記が10月下旬。それからの3週間はばたばたとただゴスペルコンサートのチケット売りと準備に明け暮れました。11月16日に13人の団員と付き添い兼通訳のTさんを迎えてからはもっとあわただしく過ぎました。チケットは既に夜の部完売で、昼の部も会場定員を軽く突破、準備したチケットの8割が売れ、ケチケチ大作戦の予定を大幅に変更、団員が泊まる予定だったユースホステル(一泊2000円!)から、会場に隣接したメルパルクへとレベルアップしたのです。名古屋のコンサートは大成功。司会を頼んでいた人(DJの卵)を特訓して本番に備えたのですが、当日リハでやってもらうと、とてもこれではお客さまに聞かせられないと私が独断で決定、急遽自分で何年ぶりかにマイクを握ったのでした。司会者には気の毒だったけれど、やはり結果的にはこれでよかったとつくづく思います。観客の反応(感動している)がびんびん伝わってくる、素晴らしいコンサートになったのでした。その前後2週間彼らに付き合い、全てのコンサートが大成功。海部郡佐屋町へは南ア大使も来てくれました。私は隣に座ったので話をしたのですが、文化に理解のある、素敵な方でした。終わった後、ボランティアのみんなが、「楽しかった、またやりたい」と言ってくれたのも嬉しい驚きでした。この力をバネにして、今年も突き進もう、と思っています。コンサートの後始末が思いのほか時間を取り、年末までかかったのは深くでしたが、黒字になったし、また今年も呼べる予感のするこの頃です。(その前に本来の仕事もがんばらねば・・・)
2005年01月05日
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さて、先週の土曜日、くだんのレストランでお話会をしたのです。しかも、朗読だけでなく、アフリカの素朴な楽器の伴奏つきです。奏者は足助町に住む音楽家であり大道芸人であり、はたまた瞑想家でもあるサットさん。ひょうたんを木琴の下につけたバラフォン、親指ピアノ“カリンバ”、バオバブのシェーカーに木の実で出来た鈴、そして金属パイプの鉄琴のようなもの、果ては赤ちゃん用のラッパまで・・・前日にリハーサルをして、どこで音を入れるか確認しあいました。以前同じ話をしたときは、バラフォンの音が気になって朗読できなくて、2,3ヶ所にとどめて貰ったのに、今度は違います。バラフォンの音が低く流れると読みやすかったのです。後で聞くと、私の音域に合った音を出したからだそうです。邪魔をしないよう、本当に効果を出してくれました。さてお話の方は、もう殆どあたまに入っていたのですがもう一つ自信がなく、本を片手にやったのですが、とてもいい調子で始まりました。3歳のいたずら坊やがいて心配しましたが、聞きながら、反応してくるのです。「だれが?」とか「どこに?」とか、話をちゃんときいているのです。最初の話は大成功。ところが、大人に聞かせたい「かまきりと月」はやはり3歳には難しかったみたいです。私の目の前に来てふざけたり、楽器をさわって音を出したり。でもその時はまだまだ余裕のあった私でした。いたずらっ子を連れ去った大人が、彼を説得している声が気になり、(ああ、放っておいて欲しい)、そう思った瞬間、だれかがあくびをしました。(退屈なのかしら)と不安になる私。(そんなはずはない、他の人は熱心に聞いている、集中しよう)そう思ったとたん、今度は誰かの携帯がなりました。その人があせって止めようとした時、メニューを書いた黒板に触り、それが倒れかけたのを別の人がハッシと手で支え、その一部始終に気を取られた時に一瞬声が止まった私は、まだまだ未熟者なのでした。15人定員のところ、全部で20人も入ったお客さまたち。未熟なトチリも気にせず、静かに聴いてくれたのです。その心優しい感想は、“新鮮だった”のだそうです。
2004年10月26日
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お話会をやってほしい、アフリカの民話か童話で、そんなことを頼まれました。ついこの間オープンしたばかりの薬膳料理のレストランで。もちろんオーナーのMさんとは知り合いです。来年の万博用のリニアモーターカーの線路が直角にグルッとまがっている、長久手町のあの辺です。お店の名前は、アリス・ベジタリアン。住宅街の真中で、長く放ってあった一軒家を、Mさんの仲間たちが素敵な空間に変身させました。玄関を入ったすぐの部屋はギャラリーに。今月一杯は私、アフリカンハートの持っている南アのカロス刺しゅうが展示してあります。そして今週末には、ディナーと、アラビアンナイトならぬ、アフリカンナイト。私の千夜一夜物語は、大好きな南アの童話、「かまきりと月」それに西アフリカお話村から、「ドゥージキナルとハイエナ」の二つ。バラフォンとカリンバで効果音も付きます。このライブの為に、出版社と国立民族博物館に著作権使用の申請も済ませました.近頃はなんでも勝手にやってはいけないのです。でも幸い両者とも快く承諾してくださいました。先回、水口文化芸術会館でお話をした時は、来てくださった人が、あの後、朗読が好きになって、今では毎日ラジオで朗読を聞いています、という嬉しいメッセージをくれました。今度もそんな人が現れるといいのだけれど。それに備えて、発声と読みの練習の毎日です。
2004年10月19日
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私の新しい友人は、ジェンベに取り付かれています。毎週日曜日は同好の士と公園でジェンベを叩いています。私は練習を見に来てと誘われて、その公園に散歩に行きました。公園の芝生に寝そべって読書でも、と思いながら本を片手に行ったのですが、いざ相手に会うと、「はい、これ」といってジェンベを渡されてしまいました。別に太鼓に興味はないのですが、とりあえず叩いてみることにしました。隣に座った人が教えてくれたリズムで叩きました。しばらく一緒に同じリズムを叩きます。ところがその人が違うリズムをたたき出すといくらなかなかすぐリズムが変えられないのです。そしてやっと出来るようになったと思うと、隣の人はまた違うリズムになってしまうのです。おまけにジェンベの前では、数人の女性がアフリカンダンスを踊っています。それにどうしても目がいってしまい、気を取られて太鼓がおろそかになり、リズム感を失ってしまうのです。出来ないからなのか、それとももともと興味がないからなのか、だんだん眠くなってきました。はっと気がつくと太鼓を叩きながら寝ていました。なんと器用な私。私はとてもアフリカが好きで、今度は是非西アフリカに行ってみたいと思っていますが、ジェンベを叩いて楽しいとか、この太鼓の前で踊っているアフリカンダンスを見て素晴らしいとは、正直なところ思えないのです。ところがこれに取り付かれた人に聞いてみると、皆がそれぞれ違うリズムを叩いて、それがピタッと合う時がある、その何秒かを味わったら、病み付きになるわよ、ということ。また踊り手は、太鼓がセッションを始めて息がピタッと合った時、自然に体が太鼓の音に呼応し渾然と一体となる(トランス状態?)のだそうです。私が、絶対他の人と同じようには叩けないの、と訴えると、皆と一緒のことをしてはいけなかったのだとか。自分の叩き方で叩く、他のメンバーもそれぞれ違うリズムで叩く、皆が違うことをやっていいるように見えて、ある時それがピタッとうまく合うのだそうです。今、日本のあちこちで、ジェンベが大流行。この夏の終わり、ジェンベで有名なママディ.ケイタとその奥さんのべべ・ユラさんを迎えてのレセプションがありました。彼らのワークショップを受ける人たちガ集まりました。名古屋ドームの中のとあるレストラン。名古屋のどこにこんなに沢山のジェンベファンがいたの?というくらい満員でした。この人たちは、ジェンベさえ叩ければよくて、特にアフリカ人に興味があるわけではないようです。そして、ジェンベは絶対ギニアなんだそうです。みんなギニアに行って太鼓やダンスを習ってくるのが夢で、また行ってきた人も沢山いるのです。ギニアなんて、なんにもない所らしいです。そこに、沢山の日本人若者が集まって彼らの衣装をつけて太鼓を叩いているなんて、なんだか想像するだけでも不思議な光景です。
2004年10月12日
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名古屋で、一月に一度だけ、アフリカンナイトなる盛大なパーティが行われるということ。夜10時に行ったらまだ早すぎるのです。大体、12時くらいから続々とアフリカの人たちがそのクラブに集まるのです。そして夜が明けて始発の電車が出る時間に、彼らは帰っていくのだとか。
2004年10月11日
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以前ご紹介した南アフリカ、ソウェトのゴスペルクワイアーのコンサートを、名古屋で開催することになったのは初夏のことです。ボランティアを募集し、後援団体を決めて申請し、チラシやチケットがやっと出来上がりました。何しろ、南アから呼ぶのです、渡航費だって馬鹿になりません。それらの費用の半分は、万博記念機構から助成金をもらいました。残りの半分をチケット販売でまかないます。それでも不足している分を、みんなが手弁当での労働力で補うのです。今回来日するのはメンバーのごく一部、13人ですが、それでも迫力はかなりのものです。南アの人たちの歌声の素晴らしさは言葉では表現できません。この歌声を、是非一人でも多くの人に味わってもらいたいのです。幸い出だしは好調です。11月22日、昼夜2回公演。昼の部:午後2時開演夜の部:午後7時開演場所は、名古屋市東区葵3-7-14 IMYホール(地下鉄千種駅徒歩1分、メルパルク北隣)チケットは前売り2,000円、当日2300円です。名古屋近辺のかた是非どうぞ。
2004年10月08日
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新聞広告で犬を探しました。南アの白人は犬が大好きです。新聞にはいつも、子犬がもらって欲しい、とか譲って欲しいという告知が出ています。3,4軒の家を訪れてみましたが、その中で一番可愛くて賢そうだったのは、ジャーマンシェパードでした。生後8週間のメスです。これを抱いて町を歩くと、どこへ行っても私達への対応まで違ってきて、南アでは人間より犬の方が大事にされているんじゃ?と思ったほどです。ハナと名づけたこの犬は、農場に暮らしていた私達の新しい家族、といった感じになりました。でも一匹だけというのは犬でも淋しかったようです。農場を走り回って、野生のほろほろ鳥や、野うさぎを追いかけて、犬本来の狩猟精神が取り戻されたように追い掛け回しました。でも、ほろほろ鳥は最初はもたもたしていますが、最後は飛んでいってしまい、絶対捕まえられません。野うさぎも随分のスピードで、子犬には捕まえることができません。ある日曜の昼下がり、けたたましく鳴く鳥の声に、庭に出てみると、一羽の雄鶏が庭にうずくまり、近づこうとするハナを威嚇してすごい声で鳴いているのです。なんだか怪我をしているみたいなので、バスタオルを持って抱きかかえようと近づいていきました。あと2,3歩、という所で雄鶏はピョンと立ち上がり、トットと逃げ出したのですが・・・立派なとさかを持った雄鶏ですが、羽は首から上にしかなく、体には一枚の羽も残っていません。その姿はまるで歩くローストチキン。あんなに情けなくもこっけいな雄鶏を見たのは後にも先にもあの時だけ。写真を撮っておくべきでした。ああ、ハナちゃん、あなたは鶏と遊びたかったのね。羽をむしって振り回したかったのかしら・・・とおいアフリカでの、ペットの思い出です。
2004年09月20日
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ググはテンビサにすむ女性です。。14才の時にレイプされ、HIVに感染しました。その時に身ごもった子どもルンギレちゃんを出産しました。ルンギレちゃんの感染も心配されましたが、幸い彼女はネガティブでした。今、ググはカミングアウトし、南アの女性にその体験を伝えています。まだまだ南アでも珍しいことです。罹患率が妊婦の20%とか25%とかいう南アでも、エイズにかかった人はやはり差別されることが多いのです。以前、日本から来たジャーナリストを連れて、エイズ治療の病院へ行きました。患者たちは「そんなことをしたって、私達になんの得があるの?」と撮影されることを拒みました。あの時、どういう説明をしたのでしょう、はっきり覚えていません。でも彼女達の世話をしている神父さんが、怒っている女性に、「いつもの歌を歌ってくれ」と言ったのです。あの歌声は、忘れることができません。深い悲しみを湛えた、ぞっとするほど美しい声でした。さて、ググの方は、逞しくルンギレちゃんを育てながら、あちこちから呼ばれて話をしています。まず正しい知識を持つこと、たとえポジティブだったとしても人生を諦めないこと。体験者の話は説得力があります。少しでも生活費を稼ぎ出すため、ビーズアクセサリーを作って売っています。ぐぐのビーズは丁寧に作ってあります。。。何千キロも離れた国から、生きるために必死のエネルギーが伝わってきます。
2004年09月18日
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そうです、ブッシュマンというのは白人が彼らを呼ぶときに、ブッシュの中に住んでいるから、という理由で呼んだ差別的な言葉だからということで、サンと呼ぶべきだ、という説が主流でした。私もサン民族と言っていた1人です。でも、この本によると、サンという呼び名も、牧畜民が牛を持たない狩猟民族を馬鹿にしてサンと呼んだ、それは泥棒、ろくでなしという意味だ、と言うこと。それならばいっそのこと、白人がブッシュに住む彼らにひどい仕打ちをしていたことを思い起こすためにわざとこの差別的な言葉を使おうということでまたブッシュマンと呼ばれ始めたということなのです。はっきり言って、私にはこれはとても不毛な論争に思えます。まず、私の会った南アのサン民族の人たちは自分たちのことをXun(発音?)サンと言っていましたし、いくら呼び方を変えても、彼らへの扱いが変わっていなければ意味のないことですし。以前、○○族という呼び方をした時に、友人に咎められました。族というのは英語ではtribeですが、それは多数民族が少数民族を言う時にしか使わない、というのです。それは支配的な言葉で差別である、と。勿論、私の頭には差別する気はなく、でも確かに少数だから○○族と言ったのだと思います。大和族やゲルマン族でなく、大和民族、ゲルマン民族。それは数が多いから、ほら、例えば動植物の分類をする時と同じように考えるのだと思っていました。そして、私の頭には数が多いことが素晴らしいことだという価値観は全くないのです。近頃は人類学の論文でも、族なんて書いたらその時点でその人は永久に学会からはアウトだとか。日本語であれば民族、英語なら、Ethnicといわなくちゃいけないのだとか。でも、それって、そう呼ばれる少数民族の人たちが主張しているのかしら。私には、呼ぶ側の人達があーだこーだと言葉をひねくりまわしているだけのように思えるのですけど本当のところはどうでしょう。でも、さすが私も、お年寄りならともかく、30代前半の人が、アフリカ人のことを土人と言った時には唖然としてそれはいっちゃいけない、といいましたが。(名古屋の中古車輸出の現場では、今もアフリカ行きの貨物をドジンと呼んでいるとか。恥ずかしいです)
2004年09月17日
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この本が面白いと知人が教えてくれました。もし、みんながブッシュマンだったら・・・その後にはどんな言葉が続くのでしょう。みんなが狩猟民族になる、とか。山羊を連れて移動するとか、そんなことしか頭に浮かばず、この本の内容を想像することはできませんでした。子ども向きの本らしいのですが、結構分厚くて、400ページ以上あります。やっと探し出して図書館から借りてきて、一気に読んでしまいました。そして次の日、私は一日中寝ていました。ブッシュマンのガマ(神霊)に取り付かれたのかと思うくらい疲れ、虚脱感に襲われてしまったのです。この本は、ブッシュマンの研究者である菅原和孝さんが、ボツワナに出かけてフィールド調査をして彼らと交流していく様子を、障害児を持つご自身の家族の話も交えて一冊にまとめてあるのです。毎年調査に出かけるカラハリに家族を連れて行った話、障害を持った兄を自然に受け入れている弟、親として、子どもの障害を自然に受け入れることができるようになるまでのこと、そんな家族とブッシュマンとの交流の話も面白いのだけれど、なんと言っても私がひきつけられたのは、ブッシュマンの1人、ヌエクキュエという男性によって語られた回顧録(?)です。 ブッシュマンの水筒(ダチョウの卵) ブッシュマンの木彫りの動物(イボイノシシ??)自分の父親がライオンに食われて死んだ話、自分が素手て豹と戦いやっつけたこと、男の子が大人になるための儀式ホローハの詳細、夫婦以外の恋人関係を続けるブッシュマンの話など、珍しく面白い事柄がぎっしり書き込まれています。そして、日本とは全く違う文化や習慣の中で生活して、全く違う感性を持ったように見えるブッシュマンですが、心はやはり私達と同じようなことで動き揺れる、そんな当たり前のことに、変に感動したりしたのです。例えば、甘い蜂蜜を採った時にはやはり恋人に食べさせようとするし、その恋人に夫がいる時、その女性はまず恋人と2人でたっぷり味わった後、気がとがめるのか、ほんの少し自分の夫にも残しておいたり。人の心って、世界中どこへ行ってもそう変わるものではないんですね。自分が体験した、一見ばらばらに見えるこれらの出来事を紡いで一つの体系にしていくこの種類のフィールドワーク、私にはとても魅力的な仕事に思えます。一昨年会ったのは、同じブッシュマンでも、ナミビアから移住してきた南アのブッシュマンです。サン民族、コイ民族と呼ばれ、今は保留地のテントに定住している人が殆どですが、一体この人たちとカラハリの人たちとは随分考え方も違うのでしょうか。あの時、日本から来た少数民族と間違われ、たまたま行われていた世界少数民族会議サミットのプレイベントに出席してしまった私です。見えない糸でブッシュマンの世界に引き込まれているのかもしれません。ボツワナやキンバリーを訪れる日がまた偶然きたら素晴らしいです。
2004年09月16日
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これはひょっとしたらまだ企業秘密かもしれません。私の扱っているアフリカ刺しゅうの作品が、かなりの確率で絵本になるかもしれないのです。水口文化芸術会館での展覧会に来られなかったから、といって、F出版の編集長が我がギャラリーを訪れたのは3月のことでした。そして私に、南アの民話や創作のストーリーで面白いものがあったなら、是非採取したいから探してくださいと言われたのです。その方が偶然にも、私が紹介されて知り合った谷川晃一氏の絵本を今製作中ということで、伊豆高原アートフェスティバルにも来られたのでした。偶然が重なって、2つの出会いが一つにつながった濃密なものになりました。編集長からは時々電話を頂いて、お話は見つかりましたか?と聞かれますが、なかなか返事はできません。南アの話はもう一つ面白みに欠けるような気がしているから。起承転結の、結が腑に落ちないのです。”え?なんでそうなるの?”といった印象が多いお話が多いのです。(お話なんて、きっちりつじつまが合わなくてもいいと思われているのでしょうか)ところが今週、南アの文学を翻訳しているSさんを連れて私に会いにいらっしゃるとか。なんでもSさんがこの秋に南アへ行くことになったので、是非その時に話を見つけてきてもらいましょうと言うことになったのです。さていよいよこれは実現しそう。この打ち合わせにはもう一つおまけがつきました。国立民族博物館で偶然出会い、紹介されたいぬいちえさん。書家ですが、谷川俊太郎氏や黒田征太郎と一緒に絵本を作っている方です。以前いちど、作品を見に家へ来られる予定だったのですが、私の都合実現しませんでした。その時、スケジュールを調整しようとする私に、いぬいさんのお母様(マネージャー兼付き人です)は、「無理はしないで。今は時期が熟していないのだ、縁があれば必ず会えるから」という言葉をくださいました。そしてやはりその縁があったのです。今回、F出版の編集長は、偶然にもまた、その乾さんの絵本も手がけていたのです。私との打ち合わせが終わったあと、いぬいさんの住む大阪へ行かれる予定にが、いぬいさんの意思で名古屋に来てくださることになりました。う~ん、うまく行くといいです。私の方の企画もうまくいきますように。
2004年07月11日
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すみません、書き方が悪かったのか、よすぎたのか、昨日の日記では、私の交渉能力がとても高い、という印象を与えてしまったようです。dickoさん、交通費っていうのは、彼らが泊まるユースホステルから、リトルワールドまでのもの。そして食費は当日のお昼のもの。思ってらっしゃることとぜーんぜん、違うのです。航空運賃は万博基金でまかなうのです。これも助成金ですよね。ちなみに犬楠さん、チケットのお値段は2000円です。コンサートとしては安いでしょう?2週間しか滞在しない彼女たちのスケジュールのうち、2日間を名古屋で担当するわけなのです。独立採算です。うまく行きますように。
2004年07月05日
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いつの間にか、この日記記入の間隔も2週間空くのが普通になってしまいました。記入率20%。最初の1年の100%に近い頃のプレッシャーは全くなくなったものの、こう自由気ままにやっていると、果たしてちゃんと認識されているのかいないのか、もう諦めムードで書いています。努力しないでいて、認識だけされ続けたいなどという虫のいい要求はしないでおきましょう。さて、随分前に打診のあった、南アフリカのソウェトからやってくるゴスペルクワイアー。そのコンサートを開催することになりました。先日、地元の新聞社全ての告知板に連絡し、ボランティアの募集をかけました。掲載されたのはシェアの低いM新聞のみ。応募してくれたのはたった一人、貴重な人材です。他にはDMや直接勧誘で知人が2人。計4人で名古屋アフリカクラブが発足したのです。来日は今年11月。名古屋は22日と23日の2泊2日の滞在。22日にIMYホールでコンサート。23日はリトルワールドで交流会とミニコンサート。ボランティア事務局長のKさんと2人でスポンサーとなるIMY、リトルワールドと交渉。成功不成功はチケットの売上にかかっているのですが、IMY化粧品は会場を無料提供してくれ、リトルワールドは交通費や食費を持ってくれるという、願ってもない良い話になりました。さてこれからチケットをどう販売するかが鍵となります。100人定員の小ホールで2回公演をし、最低200人の動員。詰め込めば一度に200人近くはいるというIMYホールに、どれだけ集客できるか・・・300人入ればなんとか黒が出ます。400人入れば大成功。
2004年07月04日
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アフリカ、って言っても、私は南アフリカにしかいなかったのですから、偉そうなことはいえません。南アははっきり言ってヨーロッパですから。だからツーリストが、南ア料理、と思って食べているものは、実は南アの白人の料理で、もとを正せばヨーロッパ料理なのです。一番多いのがオランダ系の人。そしてイギリス系、フランス系、ポルトガル系、ギリシャ系、イタリア系もいます。その子孫がやっているのですから、それぞれの国の料理はとてもおいしいのです。でも。例えば有名なイタリアンレストランにいって、パスタを頼んだとしましょう。勿論、メンの茹で具合はアルデンテ。お願いね。「OK!アルデンテ!」そう言って持ってきたパスタには、本当においしいソースがかかっているのですが、彼らにとってアルデンテとは、くたくたに茹でる、という意味なのでしょうか。まるでうどんです。そうやって、アルデンテを求めていくつものイタリアンレストランをはしごしました。×ばかり。フレンチレストランはかなりのものです。シェフが出てきて、大げさな身振りで本日のメニューを次々に説明します。全部終わる頃には、何がどれだったかこちらも忘れてしまっています。適当に、2番目に言った魚。とか、3番目の肉料理、とかしか注文できない自分が悲しい。ギリシャ料理。カジュアルなお店が多くて、安くておいしいです。ポルトガル料理もそう。そういう意味では、アルデンテのような些細なことにこだわらなければ、色んな国の料理が食べられるすばらしい食環境が整っているのです。でも、でも、地元のアフリカ人の食べるものは?フリカンレストランはないの?あるにはありますが、エチオピア料理だったり、東アフリカの料理だったり。ごく普通に地元の人が食べている、とうもろこしの粉を練ったものにソースをかけたパップなどは、うらぶれた屋台しかなく、アフリカ人の友人に連れて行ってよ、と頼んでも断られるのが落ちです。だって、せっかく外食をするという滅多にない機会に、いつもの屋台を選ぶはずはなく、いつも入ったことすらない、(私達にしてみれば何の変哲もない)カフェなんかに行きたがるのです。だから自然、外国人がアフリカ料理を食べる機会は本当に少ないのです。そしてアフリカ人の多くが、パップにかけるソースすら作る余裕がなくて、ただとうもろこしの粉を練って砂糖をかけて食べていることを知っている人も殆どいないのです。
2004年06月18日
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1ヶ月にわたる伊豆アートフェスティバルが終り、明日はいよいよ搬出です。先方の好意で、家まで運んでもらえることになりました。自宅ギャラリーの雰囲気をそのまま伊豆に運んで欲しい、そんな要望で、小物や雑貨もたくさん持って行ったのですが、どれ位帰ってくるのかしら。最終日2日前に行った時には、展示品は大分少なくなっていました。そして終了時にも電話があったのですが、残りの2日間でまたかなり売れたということ。おまけは、伊豆高原に住む超有名絵本作家Tさんが、私の秘蔵品「赤いライオン」を是非欲しい、でもお値段がはるのでちょっと考えさせて、とキープを頼まれ、自分の仕事の参考にさせていただきますと言われたということ。 それに、何人か、美術関係の人や美大の教授が来て、こんな作品を描かれたんじゃ、俺達は何を描いたらいいのか、困ってしまう、というコメントを下さったとか。これだけのコメントをいただければ私もやった甲斐があるし、現地のママ作家達の喜びはどんなにか大きいことでしょう。売上もまあまあ、1ヶ月続いたのですから、たくさんあって当たり前、だってあんなに素敵な作品なのですもの。名古屋から発信、関西、そして初めての関東圏でも評価されて、私の目に狂いはなかった、アフリカママたちの力はすごかった、と今更ながら大きな自信がわいてきた日でした。今度は名古屋の小さな画廊。その次は、多分、新潟となる模様。
2004年06月07日
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今月いっぱいは伊豆高原のアートフェスティバルに参加中です。期間中に、もう一度行きたい、と思っていたのですが、体調を崩したり、貨物が届いたりで延び延びになっていました。おまけにこの天気。5月というのに、土日になると必ずお天気は崩れていたのです。客足は伸びていないだろうなあ・・・そんな思いが、ギャラリーエレガンスに電話することさえ遮っていました。今日こそは電話しよう、と思っていた矢先、思いがけなく、今日先方から電話がありました。その第一声は「すごい人出ですよ」という意外な言葉。「こんなに天気が悪かったのに?」「天気も曜日も関係なく、すごく沢山の人が来ています、私も楽しくて」東京、横浜など、関東圏は勿論、京都や滋賀、三重、新潟など、随分遠くからもこの展示会を目当てに来てくださった方が沢山いらしたとか。その人たちの殆どが、とても感動して観てくださったということ。「すごい」「こんな刺しゅう絵は見たことがない」「癒される」「元気になる」などなどの感想・・・中には、昼過ぎに来て、7時半までずっと見入っていたお客様もいらしたとか。嬉しいことです。「でもね、あまり売上には関係ないの」「えっ!」としぼみかける私に、「マプラより、カロスが売れてるの」今回のタイトルは「南アフリカのマプラ刺しゅう」展。でも、カロス刺しゅうも出しておいたのでした。去年の今頃、この日記に書いたことがあります。果てしない道の果てで何百人ものアフリカンママたちが刺しているこの刺しゅうを、この目で確かめに行った日のことを。http://plaza.rakuten.co.jp/hoafrica/diary/200306110000/マプラ刺しゅうの、のびのびしたほほえましさとは全く違う、緻密で精巧な刺しゅうです。びっしり刺した糸は、まるで織物にも見えるのです。マプラは、一旦気に入るとのめりこみます。でも興味のない人には、子どもの描いた絵のような印象を受けます。一方カロスは、誰からもかなりの評価を受ける工芸品です。贈答品にもピッタリなのです。名古屋周辺での展示が、関西で注目され、そして今、関東に上陸。そして今また、新潟のギャラリーからも問い合わせが来ています。じわじわと、アフリカに注目する人たちが増えてきた、と思います。
2004年05月24日
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南アフリカ・ジョハネスバーグからから、手編みの帽子が届きました。ジョハネスバーグの郊外、パークハーストの路上で売っているタビシレ・カニレさんの編んだものです。なかなか可愛いでしょ。プラスティック・ストロー風です。でも、素材はリサイクル。なんだと思いますか?実は、スーパーでもらうプラスティックバッグ、あれを細く裂いてひも状にし、それを編んだものなのです。とてもリサイクルには見えません。一昨年の夏、この帽子をかぶって南ア中を走り回っていた私です。その帽子が、いまだに全く型崩れもせず、新品同様。ケープタウンでは、現地の女性が私に、どこで購入したか聞いたくらいの出来なのです。電話番号を教えてあげました。彼女はそれをケープタウンで売りたいと言っていたのでした。タビシレさんの腕は相当のものです。ダーバンから出稼ぎに来ていて、この腕一本で家族を養っている様子です。家族をダーバンにおいて、せっせと帽子を編んでは仕送りをしていることでしょう。1つ売れれば25ランド(約500円)が彼女の財布に入るのです。彼女の頼もしいアフリカンママッぷりに、私も元気付けられます。こんな商品がアフリカから直接送られてきたら、贈られた人はどんなにか感激することでしょう。アフリカのママ達の、ささやかなビジネスを考えている私です。
2004年05月18日
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今週月曜日、名古屋空港にルイボス茶(私はロイボス茶といっています)が届いたという知らせで引き取りに行きました。通関手続きは、もう自分でできるのですが、暇な官吏がいるからでしょうか、必ずアドバイザーが出てきて記入の手伝いをしてくれるのです。(返って時間がかかってしまうのですけどそれを言えない私・・・)今回輸入したものは無農薬有機栽培のハニーブッシュとロイボス茶のミックス200g缶入りと、ロイボス茶ティバッグ、ミックスのティバッグ、と3種類。ハニーブッシュは、やはり南アの特定の地域だけに生える潅木ですが、葉っぱが蜂蜜のような甘い香りがすることからそう名づけられました。ロイボス茶を淹れる時にこのハニーブッシュを混ぜているのですが、最初から混ぜてあったら便利、とメーカーに依頼したのです。我ながら、名案、と思いました。ところがこれが裏目に出ました。ストレートのロイボス茶にもハニーブッシュにも税金はかからないのに、2種類混ぜると関税が15%も。えーっ!!と絶句です。係りのアドバイザーは、「悪いねえ、あなたが言った通りに申告したらこういう結果になったんだ」と謝ります。しかし・・・納得できない。同じものなのに、別々にパックしてあれば無税で、混ぜれば課金されるとは。がっくり来て引き取ったあと、もう一つのお茶が届くという知らせ。これは、栽培ものでなく、全く自生のロイボスなのです。現地の人たちが協同組合にしてお茶を作っています。普通のロイボスの2倍近くするのですが、その味を試したくて見本に20kgだけ注文しました。ケープタウンから200kmほど北へ上がったセダーバーグの岩山に、季節になると美しい黄色い花を咲かせる潅木、それがロイボスです。Rooiは赤いという意味。busはブッシュ。オランダ語に起源を発したアフリカーンスです。今日正式な淹れ方で作って飲みました。やはり違う・・・味が濃いのです。その辺で売っているものとは別ものです。近日発売。
2004年05月15日
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さて3日からは伊豆高原に赴き、アートフェスティバルに出展中の南アフリカマプラ刺しゅう展に行きました。このフェスティバルは、今年で12年目を迎えたといいます。画家の谷川晃一・宮迫千鶴カップルが音頭を取って、どこでもギャラリーにして楽しもう、ということから始まったらしいのです。もともとあるギャラリーに加え、ペンション、別荘、オフィスやレストラン、ちょっとしたスペースをギャラリーにして、今年は72ヶ所が参加しています。ある不動産屋さんは、最初の年に参加を勧められたけれど飾る絵がなく、絵を画家から借りてオフィスの隅に飾ったのです。ところが意外にもそれがよく売れ、気をよくして、改築する時に本格的なギャラリーを造り、今ではギャラリーと不動産屋、両方を経営しているということです。そんな楽しいアートフェスティバル、私のマプラ刺しゅうはギャラリーエレガンスで開催中。桜並木を突っ切った、大室高原のバス停徒歩1分。1日2日はお天気がよくお昼を食べる暇も無いほど人が入ったというけれど、私が出かけた3日から天気は崩れ、雨、雨、雨の3日間。こういうイベントがなければ、雨の高原はとても気持ちがよさそう。すでにうっそうとした緑は雨に洗われてつややかに光り、雨のしずくを吸い込んでいます。夕方近く、やっと雨がやむと、待ってましたと言うように人が出てきます。でも次の日はまた雨。嵐のように風が枝をしならせて、人はこないのです。そして5日も。すでに3日の時点で、ゴールデンウィークの行楽からきびすを返す人ばかりだったのでした。いつもの年はこのギャラリーだけでも期間中1000人入るということなのですが、今年は人数は大幅ダウンの予想。まあでも先は長く、31日まであと3週間以上あるわけで、ゆっくりアートを鑑賞したい人はゴールデンウィークをはずした方がのんびりできていいかもしれません。
2004年05月07日
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今日は尾張一宮の町おこしに参加。バナバナさんのお声掛かりで各地からアフリカニストが集まり、それぞれの担当地区の物産を販売したり、フェアトレードや、その他の団体の活動を紹介したりしました。まず、バナバナさんのセネガル商品。いかにも西アフリカ、といったおしゃれなプリント柄や、コンゴの草ビロード、東アフリカの缶がなど。マリ日本交流協会のDickoさんと犬楠さんもはるばる大津から参加です。その他、沢山の方々・・・自己紹介もせず、ごめんなさいね。いつものフリーマーケットでは、高額商品は全く売れません。高額って言っても、数千円なんですけど、隣で100円のアクセサリーを売っていると、南ア製の1500円のブレスレットはとても高く見えるらしい・・・ところが今日は、ちょっと様子が違いました。まず、朝一番のお客が、ケープタウン郊外のタウンシップ、カエリチャで作られている手描きシルクスクリーンのTシャツをじっくり見ています。その横顔が、確かにどこかで出会った人・・・に似ている・・・じろじろ横から後ろから眺めて声をかけると、やはり、その人。名古屋出身のグループ、センチメンタルシティロマンスのマネージャー、T氏でした。さすが目が高い。T氏は昔からおしゃれで通っている人なのです。会場をぶらぶら歩いて、ぱっと目に入ったこのTシャツを買っていくとは。次に、地元のシニアのお2人。アフリカでもどこでも関係ありません。南ア北部州から来たカロスワーカーズの刺しゅうマットやクッションカバーを眺めて、こんな素敵なものがあったと知っていればお金を持ってくるんだった、去年は安いものばかりだったからというコメントでした。そうして、数は少ないけれど、結構上質のものが売れて、500円の雑貨は殆ど出なかったのは、場所柄なのでしょうか、それとも消費者の傾向が、安くてもいらないものは買わない、という風に変わって行っているのか・・あとはお互い買いあって、まるで狂言の酒売り、太郎冠者次郎冠者のメンバーでしたが、準備も無くぱっと集まってあれだけまとまった感じに見えたってことは、このメンバー、今後もなにかあった時には、結構いい線行くのかも。
2004年05月02日
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ルイは今日も泣いている机に顔をうつぶせて朝からしくしく泣いている学校に行くと泣けてくるなにがそんなに悲しいの?だって言葉がわからないみんなが何を言ってるか僕には全然わからないぼくは英語が話せないアフリカーンスもズールー語もツワナ語も一言だってわからないおしっこがしたくなったっておなかがいたくなったって誰にもそれを言えやしないまるで僕は なんにもできない人になったみたいだ放課後はみんなで遊ぼう”Hey, Come on Louie"みんなが誘ってくれるけど僕は行かないジャカランダの木の下でメグが来るのを待っているメグはルイのお姉さんたまにけんかをするけれど学校ではいつも仲良しさだってぼくら、学校でたった2人の日本人南アフリカにきたばかり2人でおしゃべり日本語ならいっぱいしゃべれるこの学校っておかしいよね畑の真ん中にあるなんて学校に豚がいるなんてその豚がランチに出るなんてプールはでっかいドラム缶中に魚がいるなんて魚と一緒に泳ぐなんて変だ 変すぎるよねなにからなにまで日本と違うランチだっておいしくないしさそうだ、ルイ、逃げ出そうタクシーにのってさかあさんのいるうちへ帰ろう2人はこっそり逃げ出した学校の近くのタクシー乗り場みんながじろじろ僕らを見てるタクシーは満員ぎっしり座ったお客さんアフリカンママが両側にいて2人は押されてつぶされそうタクシーは高速道路を突っ走る急ブレーキで止まったり急にカーブをまがったりすごいスピードでびゅんびゅん走るどこまで行くの?聞きたいけれど 話せない終点は駅の近くのタクシーランク「大丈夫、私に任せて ついてきて」メグはどんどん歩いて行く僕の知らない道ばかりみんな知らない人ばかり本当に家へ帰れるの?あ、雨が降ってきたジャカランダの木の下であまやどり雨はザーザー雷ごろごろひょうがばらばら うわぁ氷だらけだ寒いよう アフリカの天気はひどすぎる雨は地面を掘り返し水溜りができあがる雨があがるといいにおい土のにおい 水のにおいはっぱの香りあ、空に大きな虹が出た疲れたよう、もう歩けない家はどこ?ほら、もう少しブッシュの原っぱのあの向こう大きな虹の終わるところ疲れたけれど頑張って歩こう虹に向かって歩いていったブッシュの向こうのみどりの屋根あれがアフリカの僕の家あ、かあさんだ先生もいる友だちもみんないるLouie what's wrong with you?Le GaaiQue tal?ava○×△NgaEnzab ○×△Louie、you are great.Louie,I'm happy to find you.ルイは走った、メグも走ったまずかあさんのところそれから先生とみんなのところ「サンキュー、みんな」ルイがしゃべった友だちができた言葉がすこうし 聞こえてきた泣き虫ルイがはじめて笑った
2004年04月27日
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南アフリカでゲームと言えば、野生動物のことです。国立公園や、プライベート、大きさも色々ですが、あちこちに保護区があり、一番大きなのが、クルーがー国立公園です。イースターのある日、家族でこのクルーガーに行くことにしました。住んでいたプレトリアからは400km、かなりの遠出になります。当然車の整備点検をしなくてはなりません。その時の検査では、クーリングシステムが調子が悪い、ということ。しかしまあ今すぐする必要はない、多分帰ってきてからでも大丈夫だろう、といわれ、ちょっと短いけれど2泊3日で出かけたのでした。運転者は私1人ですので大変です。1日目はホテルに直行、ゆっくり休んで、2日目に行動、3日目は帰りの運転、とかなりきつい行程です。やっぱり、最低5日はいなければ。プレトリアから休憩をいれてホテルまで5時間、ホテルからクルーガーの正門まで1時間ほど、そして中へ入ると、ずっと運転することになるのです。さて、ホテルでゆっくり1日すごし、2日目の朝は早起きして 動物を探しながら運転します。まずインパラ。シマウマ。珍しくもないです。シマウマ、スプリングボック、ウォーターバック、キリンに象。サイ、大型の動物はやはり見ていても飽きません。そして次は・・・おや、車の調子がおかしい。温度があがっている・・ひょっとして、言われていたクーリングシステムがいかれたのかも。といっても、ここはサファリのど真ん中でなんにもありません。人は車の外には出ていけないことにもなっているのです。うっかり外へでてライオンに食べられた人もいるんです。一番近いレストバークに行くのにも4,50分かかる距離。おそるおそる車を走らせてやっとつきました。車を休ませて、お水をもらって、ラジエーターに入れて・・・そしてまた動物を探して・・・ところが、また温度が上がり始めたのです。これはいけないと再びレストパークに戻った私。こんな時に限って、携帯を忘れてきたりしているのです。コインに両替してもらって、公衆電話からAAAに電話。車がおかしいからすぐ来てください、というと、一番早くても3時間はかかるという返事。だって、この公園から一番近い町から1時間、入り口からそのレストパークまで2時間と言う距離なのです。そして時間はすでに4時。いままで休んでいた人たちも1人2人と帰っていきます。お店の人も帰りました。ここは、6時には出なくてはならない決まり。夕暮れになり、とうとう私たちだけに。するとどこからか、バブーンの群れが車を遠巻きに囲み、キリンはでてくるわ、象が木をメリメリとなぎ倒してでてくるわ、すごいことになっています。やっと救出された時には日はとっぷりとくれていました。10トントラックの上から見渡す公園内には、昼間隠れていた動物たちがあちこちから姿を現すのでした。ちょっとどきどきしましたが、車の故障のおかげで、思わぬ拾い物をした私たちでした。何度も行ったゲームリザーブですが、あの時ほど沢山の動物を見たことは後にも先にもありませんでした。
2004年04月22日
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リトルワールドのアフリカンコーナー。3年前私が訪れた時は、コンクリートの壁がうちっばなしで、殺風景でした。けれど、本当はそれでよかったのかもしれません。アフリカ諸国の、カラフルな品々や布は、下手に派手な色がついたところではバッティングしてしまいますから。ああ、ため息がでます。3年前にリフォームしてしまい、壁は朱色、梁はブルー、天井は黄色の3色に塗られ、そしてやっぱりアジアの物産がおいてあるアフリカコーナーって一体・・・?さて、これを変えるのにはまずあの色を無彩色にしたい。それならなにを持ってきても映えるでしょう。手近なところでテーブルクロスから。南アフリカから来るものは高くてとても使えません。でも、東アフリカなら、多分いけそう。そこで閃いたのが、カンガです。ケニアとかタンザニアの女性たちが使っている長方形の布。ドレスになり、おんぶ布になり、風呂敷になり、なんにでもなる楽しいプリント布です。プリントの模様も楽しいけれど、カンガには必ず言葉が書いてあるのが特徴。ことわざだったり、格言だったりするのですが、なるほど、とついうなずいてしまうものや、噴出してしまいそうなものも。例えばこれです。ごたごたの絶えぬ友人よりも、パジェロのパンクの方がもっとまし男は妻から口と腹の違う輩は、的の回し者苦あれば楽ありこの素晴らしいプリント地は、昭和のいつごろかまでは、京都で作られていたとか。そういえば、ちょっとレトロな感じもして、なかなかおしゃれなデザインです。このテーブルクロスがアフリカコーナーを飾るのももうすぐだと思います。アフリカの雰囲気を味わってもらえる日も近いことでしょう。
2004年04月10日
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こんなに沢山の家々が、忘れられたまま放ってあるなんて・・・本格的に作ったものばかり。いえ、忘れられた、といっても、そこにあることはかなり知られているんです。でも、建物だけがあってもだめ。場が生き生きとするには、人がいて、建物にいぶきを与えなくては。それは、平日に訪れたリトルワールドです。あんなに本格的に作った住居、そして貴重な資料の数々が、なんだかゴーストタウンのように見えたのです。平日だったからかもしれません。でも私の愛するアフリカコーナーは・・・ワニラーメンとダチョウの串焼きじゃあ、ちょっとね。なんとかしたいです。もう少し、現実のアフリカらしさを持ち込んで。だって、住居は本格的なんです、何度もいうけれど。中国で作ったワニのぬいぐるみを置くんじゃなくって、アフリカ産のものをおいて欲しい。カフェには、ネイティブのアフリカンが。せめて、土日だけでも雰囲気を出して、各国が特色を出したらどうでしょう。そんな提案をしてきます。愛するアフリカの家々が、遠く国を離れたこんな所にあって、やがて崩れていくのを見たくないから。
2004年03月28日
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南アフリカのダウンタウンを歩いていると、アフリカ人が声をかけてきます。「ニーハオ」こういう挨拶だけならまだしも、「チンチャン」と呼ばれた時、私はウッと胸がつまります。その言葉は、とても中国の人を馬鹿にした言葉なんです。そして私は中国人ではない、日本人なんです。だからといって訂正させて、それがなんだっていうんでしょう。無視すればいいのかもしれません。白人は黒人を、黒人は中国人を、そうやっていつもどこかに見下げる対象が必要なのでしょうか。ある昼下がり、ダウンタウンを歩いていたら元気な若者がやはり私に声をかけました。「ニイハオ、チンチャン」私はこの時ちょっと機嫌が悪かったのです。「私は中国人ではありません」そう言ったのです。すると彼はこう言いました。「だって中国人に見えるじゃないか、見分けがつかない」私だって機嫌の悪い時には言い返すのです。「あなたはモザンビークから来たの?」彼は胸を張って答えます。「俺は南ア人だ」この成り行きを見守る人が周りを囲んでいます。「あらごめんなさい、ちっとも見分けがつかなかったわ」彼の顔は引きつりました。彼の負けです。ほら、人を出身とか顔とかで決め付けて見下げないでね、私を間違えたことよりも、中国の人を馬鹿にした、ってことがひどいことなんだから。
2004年03月22日
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ある時偶然知り合った人から、自宅にに招かれました。私のことが気に入ったから、是非自分の家に来て欲しい。自分の家の近くには中華料理のレストランがあるので、そこで食事をしよう。プレトリアのダウンタウンで待ち合わせしました。勿論、私は1時間待たされ、彼女はゆうゆうと車で現れました。「Miss.アフリカンハート、私たちは友だちだわ。永久に、友達。」言葉につまる私。だってまだ1週間前にあったばかりなのに・・町のはずれにある中華レストラン。入ったはいいけれど、結局お金のない彼女を私が招待することになりました。まだその頃は、行ったばかりで南アの現実を知らなかったのです。その上お土産まで。いえ、彼女も彼女なりにお金を使いました。酒屋でビールを買ってくれたのです。タウンシップでは、日曜日も酒屋が開いていると、その時初めて知りました。彼女は自宅で保育園を開いています。6畳ほどの部屋に、40人からの子どもを預かっているとか。子供用の椅子を並べたその部屋で、タウンシップのパーティが始まりました。近所から数人のアフリカンママたちが出てきます。先ほど私が買ったお土産のチャーハンと餃子、そしてビールで昼間から女性ばかりのパーティです。みんな親切。ちゃんとツワナ語を英語に通訳してくれます。話題は日本のことになり、「日本はすごい。街で時計を買っても、全部香港製だ」やっぱりわかってもらってない・・・議論はどんどん熱が入ってきます。そして通訳もだんだん忘れがちになり、そのうちに私がいることなどまるで忘れて議論に熱中。すっかり忘れ去られた私は3時間も放っておかれ、なにやら訳のわからない言語を聞かされてくたくたに疲れ果ててしまいました。もう帰るという私にもう少し待って、どうしても紹介したい人がいるからその人の家に行こうという彼女。もうくたくただった私ですが、仕方なく待ちました。しかし30分経っても1時間たっても動く気配がありません。疲れた果てにいらいらしてきた私です。だって、相変わらず、彼女たちはツワナ語で話してるんですから。私は彼女をせっつき、やっとその家に行くことになりました。既に夕方6時過ぎです。そこでもやはりパーティが開かれていたのですが、ソファに座ったら最後、また3時間になるに決まってます。紹介され、丁寧に挨拶して、では申し訳ないけれどまたの機会に、と立ちました。これで開放される、とほっとする私でした。車で送ってくれる彼女と私の後に、やはりぞろぞろと近所のママ性質がついてきます。「いえ、あなたたちはどうぞごゆっくり。私は明日も早いし・・」「うんにゃ。私らも一緒に行く。あんたの家まで。どんな家に住んでるか見たいから」ええー!!私の頭はぐるぐるまわり、パニック状態。この人達がこれから家に来ると10時になる、来たなら家に上がってもらわなくてはならない・・それは、今日は、どうしても嫌だ・・・もう疲れてる・・そして最後まで送る送る、と言い張る彼女たちを振り払って、無理矢理タクシーを拾った私でした。タクシーに乗る私を、残念そうな顔で見送る7人のママたち。おやすみなさい、と言ってほっとすると同時に、胸がちくりとしたのも事実です。
2004年03月19日
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私はそのガススタンドを出て、ガレージに向かいました。その車(ルノー)専用の修理工場です。その間に温度はまた上がっていくのでした。そしてその日は土曜日。工場は勿論お休みです。困った。修理工場の隣に、もう一つガススタンドが。もう一度見てもらおうと思ってまた説明しました。今度もアフリカ人の頼りなさそうなお兄さんです。ハンドルのそばにあるパネルをはずしました。それには、色んな機能が記号で書いてあるだけ。「ふむふむ、このマークがこれだな」ちょっと知ったかぶりじゃないの?「エンジンをかけて」といわれてかけました。「おお、ファンが壊れてる、だから温度があがったんだ」確かに、エンジンをかけてもファンはびくとも動きません。まだ新しい、真っ赤なルノー。某国の外交官が帰国するというので新車同様の車を安く譲り受けたのでした。それなのにファンが壊れたとは。家まで10kmだけれど、持つかしら?ゆっくり走ればいいのか、スピードを出した方がいいのか、私にはわからない・・・「大丈夫、水をかけて走れば。」そういって彼らは、バケツに水を汲んできてラジエーターに何度もぶっかけました。おかげで家まで無事に帰ってこられました。そして次の日は日曜日。どこへもいけません。月曜の朝一番に、またおそるおそる運転して、修理工場に飛び込みました。あのガススタンドの隣です。頑固そうな職人はだしのおじさんがエンジンをかけてみてくれました。アフリカーナー(白人)です。「マダム、この車はどこも壊れてなんかいませんぜ」「でも温度計の針が真ん中位まであがったのは・・・?」「真ん中くらいまでなら普通ですぜ」「でも、エンジンをかけても、ファンが動かないって(隣のガススタンドのお兄ちゃんが・・)」「ファンは、高速で走った時に初めて動き出すように作られてるんです、ノー プロブレム」ほっとするやら恥ずかしいやら・・しかしガススタンドの計4人の若者たちは一体??自分の知らないことでもとにかく親切に一生懸命最善を尽くす、素晴らしきアフリカ人魂。この国の援助では、車関係の技術指導のニーズが絶対高いと思った私でしたが、その前に自分のメカ音痴を直す必要があるかしら。
2004年03月17日
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私はまるきりメカに弱いのです。ある時、友人の家(勿論南アフリカで)に行ったときのことです。帰るとき、駐車していた地面がほんの少し濡れていました。友人が最初に気づきました。ガレージに寄った方がいいというのです。もし、水が漏れているとしたら、オーバーヒートしてしまいます。私はドキドキしながら運転し、ガススタンドを探しました。おお、温度はどんどん上がっていきます。針は既に半分以上のところまで来ています。どうしようどうしよう。ガススタンドは・・・あったあった、と走りこみ、水が漏れてたの、といいました。10代に見えるスタンドマンがエンジンルームを開けて見ています。水を入れる所(情けないです、名前がわからない)のキャップを取ろうとしている・・「危ない、そこは取っちゃだめ、熱湯が吹き出るわよ!」彼は大丈夫、と言いながら、今度はクーラントタンク(なの?)を開け、指をドボンとつけ、「アヂヂ・・・」と言ってその指をなめました。でもそれはクーリングウォーターなので、舌にはかなりの刺激があったみたい・・「あ、大丈夫?口ゆすいだら?」彼はそんなことはなんでもないといった感じで、難しい顔をして、考え込みました。そして言ったのです。「このクーリングウォーターは冷えてなきゃいけないんだ、エンジンを冷やすんだから。こんなに熱くなるなんておかしい。これは新しいクーリングウォーターと入れ換えなくては」メカに弱い私は勿論反論しません。しかしその熱い水を抜く、栓が底についてないのです。彼は考えて、ガレージの奥からホースを持ってきました。そして、ホースの先をタンクに突っ込み、もう一方を口にくわえ、そのウォーターを吸って出そうと思ったのでした。なかなか頭がいいじゃありませんか。と思った瞬間、吸いすぎて、その熱い水はまた彼の口に入ってしまったのでした。「うぐ!」ペッペッと吐き出しながらも、まだ底に残っているどろどろしたクーリングウォーターを吸い続ける彼・・・なんと親切なのでしょう。そして新しいボトルからたっぷりと新しくて冷たい水を入れてくれたのでした。これで大丈夫、私は、親切な彼にたっぷりとチップを払ってそこを出たのでした。・・・・続く
2004年03月16日
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ボブ・マーリーといっても音楽の話ではありません。3週間以上にわたった“南アフリカの手仕事・・・針と糸で描いた暮らし”展のことです。展覧会は大成功の内に幕を閉じました。1800人近くの人に見てもらい、会館の記録を更新したということです。これまでこの会館には京都や大阪など遠くからの人が多かったのが、今回は地元の、普段美術展に足を運ばないような人が沢山来てくださったとかで、これは会館にとっても嬉しいことに違いありません。やはり、刺しゅうというと、アフリカ美術と銘打つよりずっと親近感があるのでしょう。アンケートに書かれた感想も素晴らしいものでした。中でも一番私が感動したコメントは、こういうものです。「凄くよかった。素朴で、ストレートな絵もメッセージも、とても共感できた。単純さの中にボブ・マーリーの詩みたいに深いものを感じた。彼女たちの生活は裕福ではないだろうが、刺しゅうというフィルターを通すとこのようにいきいきと表現できることに感動した。お金を得るために始めたことが自己表現する機会になり、識字にも一役かっているなんて素晴らしい。」作品を見て、その背後にある文化や生活をストレートに想像できる力、そしてそれをすぐこのように表現できるなんて、素晴らしい。長年マプラ刺しゅうを見てきて、その社会背景も作者のことも知ってるつもりだった私も、これらのコメントを見て改めて刺しゅう絵の力を見直した次第です。パワーとエネルギーがあるのです。そこでは、技巧などはかすんで見えるほどです。そしてそこはかとないユーモア。それらをよく理解して展示されたこの展覧会、本当にしみじみ、良い展覧会でした。
2004年03月12日
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秋に、ソウェトのゴスペルクワイアーを日本に呼ぶ計画があるのだけれど、名古屋でもどこかで交流コンサートをやりませんか、南アのファンクラブからのお誘いです。南アのクワイアーというのはほんと、背中がゾクゾクするほど素晴らしいのです。どうしてあんなに歌がうまいの?町を歩いていても、はっとして足を止めることがよくあります。車を洗いながら女性たちが自然にハモッているその歌声は、マンハッタントランスファーも顔負けです!さてソウェトです。毎週水曜日の夜7時、小学校の教室に続々と人が集まってきます。夜の教室を借りてクワイアーの練習が始まるのです。ぼんやりと光る蛍光灯のついたうらぶれた教室ですが、あっちの教室からもこちらの教室からも素晴らしい歌声が響いてきます。Sowetoにいくつもあるクワイアーグループの、いつもの練習風景ですが、まさに競演です。それは魂を揺さぶるような歌声・・・背中がゾクッとするような。指揮者です。難しそうなオラトリオを楽譜も見ないで歌う彼ら。どうやって覚えるのかその記憶力も素晴らしく、指揮者は頻繁に駄目出しをして注文をつけています。これが実現するといいなあ。いや、実現させるために、是非名古屋でもコンサートをしなければ。
2004年03月08日
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昨日、10年ぶりにスキーに行きました。90年代は半分以上日本にいなくて、居る時は忙しすぎで、若い頃あんなに夢中になっていたスキーに、行かなくても平気な体質になっていたのです。10年ぶりのスキーは、しかし驚くことに、体がちゃんと覚えていてくれて、結構楽しめたのでした。自分より一回り以上若い人3人といったのですが、私の若い頃と比べて、滑り方、楽しみ方が随分違うのに、今改めて気づきました。昔は朝早めに起きて、列車で目的地に行きました。昼過ぎに着くと、その日は1本か2本軽く滑ってゆっくり体を休めます。2日目の朝食もゆっくりとって、遅めにゲレンデに出て、2本軽く滑るとコーヒーブレイク、それからもう2本滑ってお昼、そして午後もちゃんとコーヒーブレイクをとって4,5本すべり、宿へ帰ってホットウィスキーをひっかけ、温泉の後、ゆっくり食事をとり、よほど気が向くとナイターに出かける、といった、きわめて優雅な滑り方でした。せっかく遠くへ行くのだからすぐ帰るのは勿体無くて、最低4,5日、普通は1週間以上いたものでした。昨日の仲間はそんなんじゃありません。まず近場で日帰り。昨日はあいにく雨模様。強引に出かけてスキー場で晴れるのを待ちました。ちっとも晴れる気配もなく、お昼を食べて諦めかけた頃、やっと小ぶりになりました。若い人に合わせて、少しくらい濡れても我慢するか、と覚悟を決めた頃に雨は上がり、ゲレンデに出ることができました。雪はぽってり重かったけれど、待った分を取り戻すようにバンバンすべる彼ら。私はただついて行くだけ。気がついたら一度も休憩を取っていません。リフトが止まる時間まで滑りまくって、靴を脱いだ時には足腰が立たなくなるほど。さすが10年やってなかっただけのことはあります。ギクシャクしか動かない体を抱えて思ったのです。私はこんなに忙しいスキーは嫌なのだ、だって休暇なんだから。そういうと、友人が言いました。殆どの日本人はそういう滑り方だ。休暇は長く取れないし、宿泊すると費用もかかるので、日帰りにする。だから目いっぱい楽しめるように、寸暇を惜しんで滑るのだ、と。それだからかもしれませんが、ゲレンデのレストランも、まるで学生食堂。優雅さなんてまるでなし。バカンスを過ごす場所とは思えません。つくづく思いました。まだまだ日本は貧しい国なのだ、と。ああ、そうでした。南アフリカに、たった一つだけスキー場があるのです。ドラッケンズバーグという山脈の、南の方だと聞きました。何しろ雪が珍しい国です。スキーなどしたことのある人は100人に1人もいないのです。そこでは、白人が地元のアフリカ人にスキーを教えて、インストラクターにしているとか。板も靴も古い型のレンタルで、ファッションも一昔以上前のデザインとか。日本のスキー場を見た人なら驚くよ、と友人が言っていました。そんなスキー場なんて魅力無いわ、と当時は思っていた私ですが、一度くらい行っておけばよかった、と思います。みんながゆっくりゆっくりボーゲンで滑ってる。ビュンビュン飛ばす人なんて皆無。そして、ゆっくりティタイムをとり、自然の美しさを味わって滑るのです。スキー技術は上達しないかもしれないけれど、珍しいアフリカの雪山でのバカンスの過ごし方を体験することができたでしょう。スキーだけに限りませんが、目的に向かってひたすら猪突猛進!はもう十分。疲れてしまうのです。まあしかし、昔より許容量の広くなった私は、今、自分の好みではないけれど又彼らと一緒にスキーに行くことになるだろう、と予想しています。まったく趣味の違うスキーの楽しみ方の中に、今の日本の縮図を見ることを、密かに楽しみにしてもいるのです。
2004年03月01日
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どんな人でもアフリカというキイワードさえあればアフリカニストは仲間になってしまいます。例えば、カレン・ブリクセン。映画になった「愛と悲しみの果て」の原作、「アフリカの日々」の作者です。ケニアに住み、コーヒー農園を経営し、地元の人たちと暖かな交流をした、その後祖国に帰り、二度とアフリカには行っていないのに、あの一冊の本それだけで、彼女はアフリカニストの星なのです。先日もアフリカ仲間と彼女の話をしていました。カレン・ブリクセンは別名を持っており、アイザック・ディーネセンという男性名で小説を書いています。彼女の原作で、映画にもなった「○○○○の晩餐会、」なんて言ったっけなあ、と友人が言いました。ディーネセンは凄い作家だ、あの物語はしみじみと面白かった、と。私は家に帰ってすぐインターネットで調べました。果たして○○○○はすぐわかりました。バベットです。パリからノルウェーの片田舎まで逃げてきた謎の女性バベットが、14年も経ったある日、宝くじに当たったのです。その賞金を全て使い、晩餐会を開いたのでした。そのメニューはアモンティリャード、海亀のスープ、ブリニのデミドフ風、1860年もののクリコ、モン・オルジュ街の店フィリップで求めた1846年もののクロ・ブージョ、カーユ・アン・サルコファージュ(うずらの石棺風パイ詰め)・・・90%ベジタリアンの私は読むだけでも少し悔しい・・・映画ではこれらを作る手順がかなり精細に描かれていたようですが、小説の方では省かれています。ディーネセン、こんな物語を書くなんて、もの好きな北欧の女性がアフリカくんだりまで行っただけのこと、などとと侮れません。たった一夜のために全財産を叩いてできた素晴らしい芸術品。ノルウェーの片田舎の人たちは、そのメニューがそんなに得がたい芸術だったともわからず、ただ、昨日も一昨日もそんな料理を食べ続けているかのように自然に食べていた、そしてなぜかとても幸せを感じていた、というあのくだり、感動ものです。アフリカに関係ないって?いえ、無いように見えるかもしれませんが、おおきなつながりがあるかもしれません。だって、この話自体に、自分たちが選びも期待もしなかったことを与えられた人たちのことが書かれており、また私も、この本にであったことは全くの偶然・・・アフリカ、というキイワード・・・から生まれたからなのです。
2004年02月27日
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台湾は国連に加盟していません。南アも、ずっと加盟できませんでした。だから、はみだしっ子同士、という訳でしょうか、仲がよかったのです。確か98年まで、中華民国の大使館がプレトリアにあったのです。そして沢山の台湾からの人が移民として南アに来ていました。会社も沢山ありました。もともと南アには、金鉱で働く中国人クーリーの人達がいたのです。その人たちの子孫は、ずっと貧しい暮らしをしている人が多いのです。 一方、台湾からの移民の人たちはお金持ち。財産を処分して南アに移民してくるのです。立派な住居と高級車に乗っている人が多いです。私も仲良しが何人かいます。みんな起業家です。南アに来てからビジネスを考える人も多いのです。っていうより、彼らはいつもビジネスのことを考えています。ところが、南アの国連参加に伴い、台湾の大使館は無くなり、それに取って代わって中華人民共和国、つまり中国の大使館ができたのです。それと共に、南アを訪れる中国の人たちも、大陸からの人がぐんと増えました。中華人民共和国のビザを取りに行った時、ちょっと驚きました。館内には張り紙がしてあって、「中華民国へ行ったことのある人には中華人民共和国のビザは出さない。よって、パスポートを新しくしてくるように」と書いてあるのです。うーん、でもパスポートを更新してしまえば問題ないのです。あんなに遠く離れたところでも、この二つの国は交わりはしないのですね。南アの人からみれば、中国人も台湾人も日本人も、みんな一緒と思われているのに。南アとモザンビークに囲まれた小さな王国、スワジランド。ここにも、台湾の技術指導が沢山入っていました。このバッグも、そんな台湾の企業が始めたものです。
2004年02月26日
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ナイジェリアのエッタさんからメールが来ました。商品見本を送ってもらうよう頼んだのは1年5ヶ月前でした。最初の返事が来たのは1年後でした。来日した彼女の友人にお金を託したのが5ヶ月前。すぐにも品物を送って欲しい私でした。1ヶ月過ぎました。お金を受け取ったのか受け取らなかったのか、それさえわかりません。運んだ友人も返事をくれません。2ヶ月後、両方から返事が来てほっとしたのですが、品物はまだ購入せず。3ヶ月後、音沙汰なし。年末です。クリスマスで物価が上がっているので、クリスマス後に購入する、というメールが届きました。そしてそれっきりでした。私も、こんな時はやいのやいのといいません。半分諦め、ご機嫌伺いのメールを出しました。すると今日、返事が来たのです。既にいくつかとてもレアなグッズを購入したとか。アンティークビーズ、アンティークスツール、あのナイジェリアの赤でしょうか、民族ブラウスなどなど。よかったー。と一応ほっとしていますけど、これからがまた結構長いに決まってます。そしてMr.B。丸2日まったく連絡が取れなかった(通話中で)のが、先ほど、やっと繋がりました。新しい電話番号を教えてくれました。やっぱり本当だったのね。よかった。6日後に開通するとか。土日は入れないので、来週木曜日にはとうとうファックスが通じるのです。3ヶ月かかって。嬉しいです。それでもまだ喜ぶのは早いかも。木曜日までぬか喜びはしないでおきましょう。
2004年02月24日
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T国のB氏にファックス機を渡しました。去年10月頃の話です。このファックスで、私たちと彼との連絡がスムースに行くように、わざわざ購入して、持って帰ってもらったのです。B氏は現地エリート校の学校の校長先生。朴訥でまじめで、よさそうな人です。もしも、このファックスのセットアップ法がわからなければ、誰か日本人を探して聞いてね、と念押しして、英語の説明書もつけずに渡してしまったのが私の友人です。ところが2週間たっても3週間たっても全く連絡がありません。とうとう年を越しました。やっぱり説明書がなくちゃわからないのよ、とか、日本人なんて付近にいないのよ、なんて、善意に解釈する友人。私はちょっと厳しく、のんびりしている友人のお知りを叩きます。絶対こちらから電話すべきと主張して電話したのですが、これがまた繋がらないのです。現在使えません、後でもう一度かけてください、と繰り返すテープ。電話会社でオペレーターを通じてかけてもらうと、この番号は携帯電話のものだとか。うーん。考えた私は大使館に電話をして、その学校の番号がわからないか聞いてみました。幸い、とても有名な学校だったせいか、すぐわかったのです。番号をプッシュすると、またもや話中のサイン。そして、2日間かけ続けてやっと携帯の方に繋がったのです。おどろいたのはB氏。まさか、携帯に日本からかかってくるとは思いもしなかったでしょう。彼の言い分です。「ファックスは先週届いた。それで来週セットアップするから、あと2週間したらこちらから連絡できるから」先週届いたって、手荷物で持ち帰ったファックスです。どうして3ヶ月もかかるのでしょう。ひょっとしたら、手荷物とかアナカンとか知らないで、日本から船便で送ったとか。おかしいのは、電話をファックスに変えるのに工事はいらないでしょ、ってことです。これまでの線を引っこ抜いて、ファックスの線に変えるだけのこと。それとも壁から直接出てる昔のコードかしら。2週間たちました。返事はありません。もう1週間たちました。それが昨日です。また電話しました。「おお、ジャパンからか」なんだかあまり嬉しそうではありません。「ファックスは、来週から使える。これまで電話がなかったから、工事をしてる」でも私は大使館でその学校の電話番号をもらったのでした。プッシュするといつも話中ではありますけど、確かに通じてはいるのです。「大使館で番号をもらったこの番号はあってるの?」「電話は壊れているし、ファックスになったから番号が変わる、新しい番号は覚えていないから明日電話をくれれば教える」そして先ほどまた何度も電話しました。彼は、昨日と同じ時間に電話せよと言ったのに、その時間ずっと話し中です。ああ、この人も、よくある人と一緒かしら。そうであって欲しくない。信用したい・・・Mr.B、どうか私を裏切らないでね。
2004年02月23日
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今日、国立民族博物館に行ってきました。アフリカのアートについての講演会があったのです。アフリカンアートって、どうしてもちょっと原始的なものという先入観があったのですが、今はちゃんと美術教育も受けたアーティストたちが活躍し始めていて、みたところ、アフリカのものとわからないものも出てきています。アーティストたちは、アフリカンアート、と言われることにすら抵抗感があるらしいのです。(それは日本のアーティストたちが、欧米からはやはり日本的なものを期待されるのに抵抗感があるのと同じ・・)芸術論はさておき、講演会のあと、大好きなミュージアムショップへ行きました。ここは世界各地からの面白グッズが、とてもリーズナブルなお値段で並んでいて、お薦めのところ。今日見つけたのはこの写真のもの。ワサンバという、マリの楽器です。 アフリカコーナーの隅にひっそり隠れていたこの楽器を握り締めていると、「あれ、そんな珍しいものがあったの?」と声をかけられました。「それはね、マリのドゴン民族の男の子が割礼を受けたあと、道端でそれを鳴らしてお布施をもらうんだよ」何でもその方は、民族博物館で長年アフリカの研究をしていらしたとか。「鳥が飛んできた鳥が飛んできた、おなかのすいた鳥が飛んできた」(う~ん、こんな言葉だったでしょうか。記憶力の悪いこと。確信がありませんが)そういってこのワサンバを鳴らして歌うのだそうです。こんな素敵な出会いがあるので止められません。民博に行ったら、またこのショップで何時間も過ごすことになるでしょう。
2004年02月21日
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さて、トーマスさんの話が続きます。話の中に、友達2人と一緒にいて、自分だけがジュースを買うお金を持っていたので買ったら、誰が一番先に飲みますか。という質問がありました。自分が一口飲んでから2人の友人に飲ませる、それが日本人としては普通で、そんな答えを期待していたトーマスさん。でも答えた女性は、他の2人に飲ませてから最後に自分が飲む、と答えてトーマスさんを驚かせました。”立派にアフリカ社会で暮らしていけます”ということ。南アフリカでは、自分がお金を出したら、まず他の人に飲ませて、自分は最後に飲むのだとか。分かち合う、それはアフリカ社会では当たり前のこと。そういえば、みんなとても貧しいのに、他所の子どもの面倒を見ます。最近、南アでは孤児になる子が多いのです。親がエイズでなくなってしまって、子どもだけ残される、そんな子どもたちが沢山いるのです。そんな子どもを、近所の人が引き取って面倒を見ることは珍しいことではありません。タンザニアに住んでいたMさんは、自分の子どもが現地の子どもたちと遊んでいて遅くなっても全然心配しなかった、といいます。いつ迎えに行っても、あなたの子はあそこでだれだれと遊んでいる、と村の誰に聞いてもちゃんと答えてくれた、と。子どもは自分だけのものではなく、社会全体のもの、という意識がごく自然に根付いているのでしょう。私たちがなくしてしまったものを、ゆっくりゆっくり生きてきたことで持ち続けているアフリカ社会。アフリカニストって、アフリカのこういうところに惹き付けられているのです。
2004年02月20日
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トーマス・カンサさんの話でとても納得したことがありました。初めて南アに行った時に驚いたこと、それは、南アの人たち(非ヨーロッパ系)が、卑屈にみえたことです。例えばアメリカではアフロ系の人も、胸を張って堂々として大声で話しています。南アではなんだかへこへこしていて、違和感がありました。見ている私がなにか悪いことをしているような気になってしまうような卑屈さなのです。おまけに、何を言っても、Noと言わない彼ら。アパルトヘイト時代には、胸を張って歩いたりすると目立ってすぐ警察に捕まって、つかまると職務質問。職務質問にNoと答えると、Noということが即ち反抗的とみなされて、いつの間にか南アの人たちは、身を守るためにNoといわなくなったとか。「Noといえない」日本人の理由とは大分違うようですね。
2004年02月18日
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展覧会のトークでお会いしたトーマスカンサさん。南アの人にしてはカッコよすぎる(失礼!南アの方)。南アって一言に言っても他民族国家ですから色々ですが、いわゆる大多数を占めるバンツー系の人たちは、日本人の目からみると、うんと素朴なのです。足が長くてすらっとしたタイプは西アフリカから来た人とかに多いみたい。ところがこのトーマスさん、南アもナタール州、ズールー民族の故郷の真っ只中で生まれたそうですが、ズールー民族とは思えません。インド系の顔、っていうより、私に言わせればレゲエ系。ヘアスタイルも、ロングでカーリーだし、パンチパーマ風の人が多い南ア人とは大分違います。イギリスに亡命していた頃、奥様と出会って結婚、日本へ来たということですが、長年のイギリス暮らしでヨーロッパ風になったのでしょうか。今、彼は、日本で使われなくなった車椅子を南アに送る運動をして、もう3000台以上送ったとか。話は明日に続きます。
2004年02月17日
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随分長い間お休みしました。先週土曜日から始まった展覧会の準備が大変で、ずっとそちらにかかりきりだったのです。まず、搬出。出展作品は、全て学芸員の方が来て決め、美術専用運送車が来て運んでいきました。会館のご好意で、ミュージアムショップを開くことにもなり、そちらは私が選んでリストを作ることになったのです。そんなに沢山は持ち込まないつもりだったので数も種類も少ないはずなのですが、いざリストを作ってみると、入れたはずの商品がなかったり、リストにないものがあったりで、事務系の頭脳を持ち合わせない私には大変な仕事となりました。そして2日目の昨日、気になっていた私のトークと民話朗読が無事済みました。もう一人のゲストは大阪在住の南ア人、トーマス・カンサさんでした。行く時、電車に乗り遅れそうになって必死に走ったせいか、のどに何かが入ってぜいぜい・・・ベストコンディションとは言えませんでしたが、太鼓やバラフォンも入って、楽しいお話会になりました。そして、NHKテレビ、読売新聞、毎日新聞などでカラー写真入りで紹介されたせいか、初日も150人、昨日も寒くてお天気も悪いのに浜松や名古屋、和歌山からも。自分の所蔵品ながら、こんなに大きな会場で見ると、全く違う印象です。レイアウトがとてもよいのです。これはひとえに、学芸員のMさんや、ボランティアで運営を手伝ってくれているEさんのセンスが卓越しているということでしょう。これは是非、南アでマプラを作っている女性たち(含む男子1人)にも知らせてあげなければ。もう一度訪れて会場の写真をとるつもりです。ちょっと遠いですが、遠くても見に行く価値あり、の展覧会です。関西方面の方、是非いらしてくださいね!3月7日まで開催です。
2004年02月16日
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そう、万博の話なのです。随分長い間、愛知万博は議論の的でした。まず、開催地海上(かいしょ)の森に絶滅危機に瀕するオオタカの巣が見られたこと、森を切り開いて会場を設営することなどから、多くの市民から反対意見が出たのです。しかし2年前に官と民が歩み寄り、官も大幅に当初の計画を変更し、”自然の叡知”をメッセージに、開催に向かって走り出しました。そして開催まであと一年。先日、新聞にはフレンドシップ事業として、愛知県下の市町村が万博参加国のパートナーとなり、イベントや相手のエスコートをしたりすることが決まったとありました。さっそく私は、南アフリカのパートナーを探します。あるある。名古屋近郊の、佐屋町というところです。そしてまた早速、佐屋町役場に電話をした私です。万博では何をする予定なのか、できれば私たちも何らかの形で協力したい、と申し出ました。担当の方はとても丁寧に状況を説明してくれました。実際には4月くらいから動き出すこと、その時にまたお互い連絡をしあうことにしました。佐屋町。こんなに近いのに、実際に行ったこともなければ、どんな所かも知りません。佐屋町のHPです。のんびりした所、という感じがします。http://www.town.saya.aichi.jp/framepage-konnatokoro.htm さてこの佐屋町が、万博をきっかけに南アといい関係を結んでいけるように、私たちアフリカニストのグループができること。これから具体的に作って行きたいです。
2004年01月20日
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見ないで話すのが礼儀にかなっている文化もある。日本人は相手の目を見ないで話す、よく言われることですね。相手が目を逸らして話すと信頼感が揺らぐような気がするからでしょうか。私は、と言えば、相手の目をはっきり見すぎてしまって、気の弱い人はたじたじとなってしまい怖がられるかもしれません。別に睨みつけてるわけじゃないけれど。大昔、日本女性はうつむいて話すのが美徳だったのでしょうか。不思議なことに、遠く離れた南アフリカで、とても日本に似通った文化があるのです。彼らにも、人の目をしっかり見て話すのは失礼だ、とされていた時代があったようです。特に女性はうつむいて話すのがいいとされていたといいます。はっきりイエス、ノーを言わないところもよく似ていて、南ア人もなかなか遠慮深い人たちです。例えば、何度もあった人でも、家に来た時、お茶はいかが?と聞くと、殆どが「いいです」と答えるのです。アメリカ人相手の時のように、あ、そう、いらないのね。で済ませると気の毒。だって遠慮しているだけなんですから。3度勧めてやっとテーブルに着く、といった奥ゆかしさです。ああ、それなのに、フィールドに行くといつも、初めて会った人が、「アフリカンハート、おみやげに大瓶のコーラを1ダース持ってきたのかい」「それで私をいつ日本へ連れて行ってくれるんだい?」なんて冗談とも思えないことを言うのはなぜ?いまだ分からないことの多い、奥深い南ア文化です。
2004年01月17日
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あっという間に5日間すぎてしまいました。日本ってアフリカより時間が過ぎるのが早いのでしょうか。(怠け者の私です)東京や大阪にはいくつかアフリカ料理を食べさせてくれるレストランがあるようです。私も2,3のお店に行ってみました。メニューを見ると、エチオピアとか、ケニアやタンザニアの東アフリカのものが多いようでした。シェフの出身地やオーナーの渡航経験で決めているんでしょう。ところが南部アフリカの料理はなかなかお目にかかれません。南部アフリカ出身者は(私の調査によると)圧倒的に少ないのでした。南アフリカへ旅行した人は沢山いらっしゃると思いますが、それでも現地アフリカ人の食べ物を食べる機会は殆どありません。いわゆる南アフリカ料理とは、アフリカーナーと呼ばれるヨーロッパ系の人たちの食べ物なのです。だからおなじみの、日本のごく普通のレストランで見られるものが殆どです。ワニ肉のナゲットやハンバーガー、ダチョウのフィレステーキ、インパラやエランドのステーキなど、ゲームと呼ばれる野生動物の肉料理もあるのですが、あくまで観光客向けです。じゃあ現地のアフリカンは何をどこで食べてるの?きちんとしたアフリカ料理のレストランはプレトリアに一軒だけ。それは女性が起業した成功例として有名です。でもお客は殆ど白人か日本人。アフリカンはレストランなんて行かない、っていうより、いけないのかしら。そういう習慣がないのです。彼らの行きつけは、街角の屋台です。パップ(とうもろこしを練ったもの)にソースをかけたものを食べているか、フェット・クックというドーナッツのようなものをかじるかです。私はあの屋台に行きたくて仕方なかったのですが、とうとう行くチャンスがなく、最後にオフィスの人に、おごるから連れて行って、と頼みました。彼らにしてみれば、せっかくごちそうしてもらうのに、いつものパップじゃつまらない。自分たちの滅多に行くことのないレストランでヨーロッパ料理を食べたいと言うのでした。
2004年01月15日
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ちょうど1年になりますが、名古屋ワイン党というプライベートの会に参加しています。この会はまったく楽しさだけを追及していて、ワインの薀蓄などは言わない、スマートな会をするので大好きなのです。ただ1人薀蓄を語るのを許されるのは、この会の党首(この呼び名は冗談でみんながそうよんでいるだけで、決してファッショではありません)です。ワインにまつわるエピソード、歴史、由来など素晴らしい話を聞けるのです。この会から年に一度みんなでヨーロッパにワインツアーに。(残念ながら私はまだ参加したことが無いのですが)、その時ガイドさんから聞いた話を、帰国後に報告してくれる党首は、聞くときに決してメモを取らないといいます。できるだけそのまま記憶するようにしている、ということ。それはすごい記憶力です。その話を聞いて、南アフリカの人たちのことを思い出しました。彼らの記憶力もすごいのです。もともと文字を持たない文化だったせいなのでしょうか、歴史も民話も全て口承でした。書いた物でないから、いわゆるアカデミックな学会からは信憑性が疑われていて、アフリカ人の歴史はこれまでヨーロッパの人が書いた物でした。(だから随分アフリカ人の語る歴史とは違っているようです)でも彼らの記憶力の凄さは、一度でもアフリカで生活をした人ならだれでも知っています。例えば、電話番号。5,60人分位なら軽く覚えています。それから物事のあった日時。何月何日に何があった、何をした、なんでも彼らに聞けばわかります。一度体験したことは、だから絶対彼らの頭から離れません。思うに、私たちは、忘れないようにとメモを取ったりする、だから記憶力が後退するのではないでしょうか。(そうしてそのメモをなくしてしまったり・・・)絶対メモをとらないワイン党の党首のことを、アフリカ人みたい、と思った私でした。
2004年01月10日
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昨日は、前々から計画していた、南ア在住10年のTさんに来てもらい、小さな集まりをしました。来月開催予定の展覧会をする、滋賀県水口文化芸術会館からも5人の方を迎え、家に来るお客様2,3人、合計10人くらいのこちんまりしたパーティ、の予定でした。前の晩に、紅茶ケーキならぬ、南ア特産ロイボスティとハニーブッシュティケーキを焼きました。二つををブレンドしたお茶もたっぷり用意しました。さあ、これでいつお客様がいらしても大丈夫。ところが予想に反して、お客様だけで10人、主催者側も含めると20人近くの人が集まり、嬉しい悲鳴をあげました。年賀状の端に、ただこの集まりがある、と日時を書いただけです。みんな、知らない国の話を聞いてみたいのですね。話をしてくれるTさんは、90年までは、民主化の運動をする団体で働いていたということで南アのビザが下りず、現地に行けませんでした。マンデラが解放されたあと、92年に初めて現地に行き、何度も行き来するうちに、現地のフォトジャーナリストである現在のご主人と出会い、結婚したのです。90年以前は不法だった異人種間のこの結婚は、南アの自由と民主化の象徴と言われたということです。彼女は今、ジョハネスバーグに居を構え、(他の国から南アに来た)難民の職業訓練をしたり、東ケープ州の農村地帯で自然農法を指導したりと地元アフリカの人達の自立支援をしています。今朝、昨日参加した方からお礼の電話がかかりました。とてもわかりやすい、興味深い話で、帰ってから昨夜一晩アフリカの話で盛り上がりました、ということでした。時々は、このギャラリーでこんな小さな集まりをやり、いままで知らなかった世界を少しずつ広げて行きたいです。
2004年01月09日
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先日、浜松まで行ってきました。在南ア10年の私の友人が講演会を開いたのです。主催者はやはり、つい2,3年前まで南アにいた仲間たち。この仲間の1人がそのホールの一階にアフリカの紹介をする展示をしました。それがすごかったのです。まず、私も扱っているマプラ刺しゅう。親指ピアノ。マリンバ。太鼓、弓矢、バティック、人形各種、キャンドルとキャンドルスタンド、豹型をした椅子、ああ、書ききれません。南アの、フリーマーケットでよく見たものが殆どある、という感じなのです。そして極めつけは、象の足のスツール!!!南アでも観たことはありません。これって、確かワシントン条約で禁止されていたのでは???「いや、これは20年前に買ったんで、その頃はよかったんですよ」と言うコメントでした。私も始めてみる本物の象足スツールは、触ってみるとちゃんと毛も生えていて、リアルなんです。だって本物ですもの。足の中身はどうなってるの?剥製のように、詰め物がしてあるのかしら。いろいろ想像する私に、彼は「見てみますか?」と蓋をとってみせてくれました。おお、中身はきれいにくりぬかれています。皮は3ミリくらいでしょうか。でもそれはとても硬いので、なにも細工をしなくてもちゃんと立っているんですね。それにしても、蓋を取った時に中から流れてきたひどい匂い。思わず逃げ出しました。その持ち主はクラフトショップのオーナーではありません。学校の先生です。私のギャラリーより多いのはどうなのでしょう。負けています。もっと品数を増やそうかしら、とこっそり思った私でした。蛇足ですが、象は、ボツワナやジンバブウェなどでは増えすぎて、自然をあらされて困っているようです。だって、象の食欲といったら並大抵ではないのですから。だから象を殺して象牙や皮を輸出したいのです。確か4,5年前、ワシントン条約の改正に賛成したのは、アフリカで象が増えて困っている2,3カ国と日本だけでした。
2004年01月07日
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南アフリカって、古いヨーロッパのようなところがあって、タバコやアルコールには随分寛容なところがあります。だって12,3歳の子どもがタバコを吸っていても、見て見ぬふりをする親もいるのです。かく言う私も、既に帰国してから聞いたのですが、当時12歳の可愛い息子がタバコを吸ってたよ、と言われて、まさか、たまたま遊びで吸ってみたところを見られただけでしょ、と信じませんでした。息子に聞いてみると、ああ、確かにあの時は一ヶ月くらい吸っていた、と言う返事。それを見た人もその時本人に止めるよう言うか、私に言ってくれればよかったのに、と思ったものでした。(幸い、後の私の教育により、今のところ吸ってはいませんが)学校の先生も、授業中禁断症状が起き、我慢できなくて外へタバコを吸いに出るひとが珍しくありませんでした。(日本ではこんなことは許されないですよね)3年前まではそんな南アフリカでした。それが今では、レストランやカフェでは、禁煙席と喫煙席を壁で隔てなければならない、という法律ができたそうです。しかも、禁煙席の割合は全体の20%以下でないと営業が許可されないことに。すごい違いです。3年で。というよりは、あっという間に。南アの政治家は、すぐに法律を作ってしまうんです。公共の目にさらされるこういう法律は、守らざるを得ません。禁煙教育は果たして学校で行われるのでしょうか。あのチェーンスモーカーの先生たちは一体どうやって対処するのでしょう。もう一度、子どもたちの担任に会ってみたい気がします。
2004年01月06日
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南アフリカの主な交通機関は勿論車です。でも、ちゃんと市バスもあります。首都プレトリアのダウンタウンにあるチャーチスクエアから、東西南北に、市バスが走っています。そしてこの市バス、朝夕の2,3時間のみ、30分に一本ですが、それはきちんとした時間どおりに郊外の住宅地まで走るのです。すごいスピードで。一方、タクシー(タウンシップ発着のマイクロバス)は、時間には関係なく、満員になったら出発、という決まりがあるので、発着時刻はないも同然。だからタウンシップに住む人たちと約束をしても殆どが遅れてきます。それは彼らの責任ではありません。仕方がないのです。だから、時間にはみんなが寛容です。ところで今日、私は東京へ行くのに、“のぞみ”自由席券を買いました。ホームに出た時、次に来るのはひかり、その5分あとにのぞみが来るのでした。東京までの所要時間は、のぞみが1時間40分、ひかりは1時間50分なのです。あとから来るのぞみに乗れば5分早く東京に着く予定です。人間の心理ってとても面白いですね。並んでいた人の殆どは、次ののぞみを待っていたのです。ひかりの座席にはがらがらでした。以前のひかりとこだまの関係と同じでしょうか。ひかりは満員でも、時間がかかるこだまはがらがらということがよくありました。そして私はといえば、のぞみの切符を買ったのに、混んでいそうなのぞみよりも、ゆっくりでゆったりのひかりに乗ったのです。いまだにアフリカ時間に慣れているのでしょうか。っていうか、10分早く着いても、今日の私にはもてあますだけの時間にしかならなかったのです。
2004年01月05日
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私の密かなギャラリーでお見せしている作品は、全部現地から直接買い入れているものです。勿論、最初は私が訪問して相手と会い、契約らしきものをしてきました。それでも、ここ日本に帰ってくると事はなかなかスムースに運びません。相手の殆どは、インターネットなど使えない地域に住んでいたり、そんなものは見たこともない人たちなのですから。そこでデュデュの登場です。デュデュは、私の要望を相手に伝えたり、作品を日本に運ぶ手伝いをしてくれています。両親を早くなくしたので、デュデュは叔母さんに育てられました。料理の得意なアフリカンママです。私が訪問した時も、ご自慢の素敵なキッチンでおいしい南ア料理をたくさん作ってくれました。彼女の住んでいるのは南アで一番大きいと言われるタウンシップ、Soweto(ソウェト)の郊外です。古いホステルの払い下げを買ったのです。 この不思議な牛がその地域のシンボルです。そして彼女のご近所たち。毎週水曜日には、近くの小学校へクワイヤーの練習に。あちこちの教室から素晴らしい歌声が聞こえてきます。でも、一番うまいのは彼女のグループ。大げさに言えば、魂を揺すぶられるような美しさです。州では一番の彼ら。今年は全国1になれるかしら。
2004年01月03日
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アフリカ年だった昨年。後半になってからアフリカにさらにさらにのめりこみました。 まず、大阪の国立民族博物館で開かれた「西アフリカおはなし村」を見て、私の知らない西アフリカ地域に惹かれたこと。ミュージアムショップには、探していたアフリカ関係の本がどっさりあって、全部とはいかないまでもかなり買い込みました。しばらく南アに在住したものとして、せめて南アの作家の作品には目を通しておきたいと思ったのです。昨年のノーベル文学賞を受賞したJ.M.クッツェー、91年受賞のナディン・ゴーディマ、そしてアフリカ人作家のシンディウェ・マゴナ。実は、私に南アの作家の作品に対する興味を持たせてくれたのは、現地の、ある旅行代理店の方でした。「僕らは、実際にタウンシップへ行った事もないし、アフリカ人と知り合う機会も少ない。だから、こういう本で南アのことを知るのです」彼がそう紹介してくれたように、これらの本は、普通の途上国とは全く違う南アの特殊な社会構造や歴史的背景が織り込まれ、読み物としての面白さと共に、南アがわかる本、となっているのです。おりしも今、友人が一時帰国しています。講演やら展示会などでいそがしい中、半日空けてもらえることになりました。私のギャラリー“ハート・オブ・アフリカ”で、彼女のお話を聞く会を開催することに。1月8日、午後2時からです。南ア直輸入のロイボスティとハニーブッシュを飲み、アフリカ人のおやつ、フェットクックを食べながら、南アの都市・タウンシップ・農村それぞれの生活の様子を聞くことにしましょう。
2004年01月02日
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