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3-2
ニヒリズムの克服は、ニヒリズムの肯定の仕方の問題である。その際、従来の形而上学の真理に対してニーチェは新たにどのように真理を考えているのか、真理の概念が問題となる。ニヒリズム克服の方法は、学問それ自体の超克の仕方の問題である。ニーチェの直面した問題は「学問そのものの問題」、すなわち過去の学問をどのように解釈しそれをのり超えるかという問題である。それは時間(時代)の克服の問題、すなわち永遠回帰の問題であり、「価値評価」の問題である。
時間性をめぐって=ニヒリズム克服の企て
永遠回帰を形而上学的原理として考えるニーチェ解釈の代表としてレーヴィットがあげられる。彼によれば、ニーチェの哲学の「原理的かつ生産的動機」は、「自己自身及び自身の時代のみならず時代の時間性一般を「克服」して、等しいものの永遠回帰に到達しようとする」ことである*20。そして永遠回帰は、「一切の生きたものにおける同質・同じ強さの生の永遠回帰」であり、生は、「一切を担い・支配し・生み出しつつ破壊する自然(ピュシス)を目標とする」*21。そして「信仰と不信仰は、[…]信仰の意志のある・あるいはその意志のない人間の、自己自身の中に根拠を持つ態度の取り方ではなくて、[…]より本源的なものと隠されているもの、生命力の成長あるいは崩壊の、印あるいは徴候として解釈されるべき」であり、ニヒリズムとは「一回だけの歴史的な出来事ではなくて、自然と歴史において同じ性質・同じ強さの、無尽蔵の生、破壊しつつ再び自己を立て直す生の、常に回帰する現象形態」*22であり、生の本質と人間的自己再生意欲とが合致するときだけ、生成の無垢を肯定する永遠回帰の円環の中にはいるというのである。その際の生と価値定立との関係について、レーヴィットは次のニーチェの言葉を引いている。「生そのものが価値を定めることを我々に強いる。我々が価値を定めるならば、生そのものは我々を通じて評価するのである」*23。
しかしニヒリズムが必然的に回帰するなら、「さしづめの真理」*24が決定し続けられることになるであろう。永遠回帰に達しない生は、「最終的に(真理を)決定するのは生にとっての価値である」(Ⅶ3,34〔253〕)とニーチェがいう場合に、“困窮の転換”を経ていないプラグマティズム的な真理概念を保持し続けるのではないだろうか。永遠回帰は、自然へと反転された物自体の新たな措定になってしまうのではないか。というのも、レーヴィットにおいては永遠回帰は究極の肯定であり、「我在り」の無垢なる創造に至るためには、存在者は難しい変身を経なければならないからである。
ニヒリズムの克服としての時代の時間性の克服について、レーヴィットと対比しうるのはピヒトである。レーヴィットにおいては時代の時間性一般を克服し時間的なものの領域から永遠性へと超出することによって同一なる生が自然(ピュシス)へと回帰することを意味した。しかしピヒトによれば、ニーチェの「神の死」の宣告による自然の崩壊後、存在の真理が「歴史」すなわち「時間」という次元において開示される思惟の可能性が残っており、われわれが時間の内にある限り、創造、存在と真理、真理と歴史、真理と時間、統一と時間などを思惟し理解することによって、「歴史の真理」がなおも問題となりうる、という。ニーチェに至っては永遠の現在の存在論は崩壊し、将来という領域が問題となるというのである*25。
ピヒトは、<ニーチェ解釈のための二つのテーゼ>を掲げている。
1、「存在する限り、歴史の中に存在しないものは何一つとして存在しないのであれば、歴史が、哲学の唯一の内容である」。つまり「ニーチェが形而上学からの離反を遂行する中で歴史が哲学の唯一の内容となる」ということ。
2、「ニーチェ哲学は超越論哲学として理解されねばならない」。ニーチェ哲学も歴史の中にあるのだから、思惟は歴史を超えたところから歴史を対象とするのではなく、歴史の中での歴史的実践である。「思惟自身の本質をも主題化せねば、思惟は自己自身を主題化し得ぬことを把握するや直ちに現れる思惟形態が、われわれの言う超越論的哲学である」*26。
ピヒトの解釈では、ニーチェにとって形而上学時代における<プラトン主義>や<キリスト教>の道徳は、動物性を抑える嘘にすぎなかったが、それによって人間が今まで生きてこられた「梯子」であるのだという。その「梯子」が今度は、嘘を必要としてきた生に自己超克を強いる。ニーチェにとって人間は超人の企てによって初めて人間になる超動物にすぎず、不断に野獣から人間へと自己超出あるいは自己超克してゆく諸段階の移りゆきの中に常にある。不変の道徳体系ではなく、歴史的な勢力や必然性の程度がその段階を決定する。ピヒトの解釈では、ニーチェにおける人間一般の本質というものは、人間が歴史の中で常に“変わっていく”ということなのである。したがって、「形而上学の転倒という形で古い形而上学の問題を解決しようと試みる学問は、人間の本質への問いを人間の歴史への問いに変容させねばならない」*27。ニーチェの“位階秩序”の問題は、ピヒトにおいては人間の歴史的本性から考えられている。それは歴史の中で遠近法的であるもののことを言う。この解釈に従えば、人間は不変の本質を持たない、という認識でさえそれ自体いずれのりこえられることを前提としなければならないであろう。“歴史的哲学”の可能性の条件は、思惟の思惟自身への思惟によっていずれ自己破壊され、超克され変身することを予期することができるように“成る”(生成する)。自己超克への意志のみが歴史の思惟を遂行することができる。
超越論としてのニヒリズム克服
カントは「超越論的」ということについて、次のようにいっている。「私が超越論的と名づけるのは、対象にではなく、むしろその認識様式がア・プリオリに可能であるべきである限りにおいての、対象についての私たちの認識様式に総じてたずさわるすべての認識である。そうした諸概念の体系は超越論的哲学と呼ばれるにいたるであろう」(『純粋理性批判』、以下KRVと略記、B25)。ピヒトによれば価値設定に対するニーチェの洞察において、「人間の理性自身がいかにして歴史の中で自らの構想に従って生み出されたかが明らかにされる」。従ってニーチェに至って超越論的思惟が変容するとピヒトは考えている。
「認識可能なものはすべて仮象である」(Ⅲ4,29〔20〕)とニーチェは言っているから、もはやカントのいう「ア・プリオリ」な認識様式はニーチェにとって存在しない。従ってニヒリズムの克服において肯定されねばならないものは仮象である。その肯定によってのみ歴史の肯定と将来への突破が可能となる。その限り「コペルニクス的転回」(KRV.B23)としての超越論的自己反省は常に新たに継続され、理性は、認識の地平を自ら企投するほかない歴史的理性となるであろう。ならば思惟は普遍的客観的真理の観取ではなく、新しい形態の思惟実践、すなわち仮象の創造行為となる。「われわれの今日に規則を与えるのは将来である」(Ⅳ2,15f)。ピヒトはこのニーチェの言葉に対し、新しい哲学的思惟の内容は将来となるが、不定である将来を対象として認識することはできないから、将来は意志によって創造され価値設定される一方、確実性の真理の破壊が、将来の可能性の条件であるのだと考えている。
ニーチェにとって哲学とは時代が認識される鏡である(Ⅳ2,60)。ピヒトによれば、哲学者の発言に関わらずいずれ時代は時代そのものの力によって破局に向かわざるをえないのだという。哲学は、一時代の徹底的な自己反省のために必要な歴史的行為として「歴史的」であると考えられている。歴史的哲学においては、時代そのものすなわち「歴史は思惟を担い、遂行する力であると同時に思惟される内容でもある」。*28従ってニーチェの思惟は、自分自身をも歴史の中の一つの出来事として考える。レーヴィットにおいては超越は歴史から永遠への超越であった。しかしピヒトにおいては歴史自体が超越論的な力への意志による企投であり、自らの思惟の前提への超越論的問いが、ニーチェでは道徳系譜学として現れると考えられている。
ピヒトの解釈の要点は、ニーチェにおいては時代の問題との誠実な取り組みが真理を創り、歴史を創るのだということ、そして時代の問題は生によって創られ続け、その意味で真理は生から与えられると共に生が新たな真理の条件を企投させるということである。従って思惟の可能性の条件は、どの程度まで誠実に「反時代的」であり得るか、時代をどの程度まで徹底的に映し切る鏡であり得るかということになろう。
「実験の時代!ダーウィンの主張が検討されるべきだ―実験によって!最下等の生物からの高等生物の発生も、同様だ。千年間、実験してみなければならない!猿を人間へ育て上げること!」(Ⅴ2,11〔177〕)「猿」とは何か。ニーチェにとっては、「一柱の神が世界を創造したのだとすれば、この神は人間を神の猿にするために創造したので、神のあまりにも永い永遠性の中での不断の慰みの種にするためである(「全集」Ⅰ七『人間的、あまりに人間的』「漂泊者とその影」14、P.231)」。ならば人間は不断の自己超克によって、初めて人間となり得る。つまり人間が自分自身の生を生きること自体が、自分自身の可能性を創造する試みである。というのも「生は認識者の実験であり得る」と同時に、「生は認識の手段である」(Ⅴ2,232f)からである。形而上学のような生のための価値設定においてはプラグマティッシュに理性がはかられるが、“実験哲学”の価値設定は生そのものなのである。そのような“実験哲学”においては理論と実践が統一されている。思惟がすなわち実践なのである。哲学は思惟の行為となる。
ピヒトのニーチェ解釈は、ニーチェにおける知的誠実性の可能性を“実験哲学”の中に見ようとする試みであると考えられる。超越論的思惟の意味では、ニーチェの実験哲学は解釈を遂行し、思惟それ自体をパースペクティブ化する思惟である。つまり思惟は、解釈を遂行する超越論的思惟へとわれわれ自身を解き放つ、あるいは赴かせるのである。思惟の地平は歴史の地平である。思惟の可能性の条件は、己の遠近法に従って企投する思惟を将来から規定すると同時に将来へと牽引する力である。思惟は思惟を遂行するなかで、真理は変わっていくものだ、という真理概念の転換を、自らの思惟において経験する。すなわちニーチェにおいては思惟の遂行によって、真理は歴史的に遠近法的でしかあり得ないという前提が思惟に立ち現れる。思惟それ自体に変転が含まれており、絶えず変転してやまない歴史の中に思惟がある。このことが、ニーチェの非形而上学的な真理概念の本質と関わってくる。
遠近法的なものと正義
「おまえは、あらゆる価値評価にある遠近法的なもの、つまり、地平のずれとか歪み、見せかけの目的論など遠近法的なものに属する一切のものを理解することを学ぶべきであった。[…]あらゆる賛否における必然的な不正、生と不可分である不正、遠近法的なものやその不正によって制約されたものとして生そのものを理解することを学ぶべきであった」(Ⅳ2,14)。
ニーチェにとって、一切の真理は必然的に遠近法的である。しかしニーチェは「様々な価値評価を超え出て、構築しつつ排除し破壊する思惟様式としての正義は、生そのものの至高の表現者である」(Ⅶ2,25,〔484〕)といっている。従って価値評価に伴って生ずるさまざまな視点の差異が遠近法的なのではない。生が構築的であるかぎり正義は不可避的に不正を設定するから真理は虚偽たらざるをえないというのが真理の遠近法的本質なのである。
ニーチェは「正義への衝動と力を有する者」は、「単に結果を伴わぬ冷淡な認識としてではなく秩序を与え処罰を下す裁判官として、個人の利己的な所有としてではなく利己的な所有の一切の境界石を動かす聖なる顕現として、要するに、決して個々の狩人の得た獲物や快楽としてではなく、世界審判として、真理を欲する」(Ⅲ1,281)といっている。これは、思惟の結果に対する無責任性(実証主義、オプティミズム)へのアンチテーゼである。ニーチェの哲学においては結果に対して責任を持つ思惟の将来への企投が、「神の死」の後に責任を担う思惟様式としての意味を与えられている。
「正義が私の前に現れた。そのとき私は偶像を破壊し、自らを恥じた。」(Ⅶ1,13〔8〕)自らを恥じるのは、おのれにとってもおのれは裁判官であり自らの虚偽が明らかになるからである。裁判官は間違っているものを断罪する。正義とは、それを知ったら自分も他人も裁かれる知、それによって自分自身も変わっていく知である。それは理論と実践との分離に基づく無時間的な「結果を伴わぬ冷淡な認識」ではなくて、判決を下す以上それまでの自らの虚偽に責任を持とうとする知である。それは決して歴史的事実を傍観しうるようなものではなく、歴史そのものを担い、歴史を遂行する知である。それが歴史を自らの内容とする思惟である。世界審判は、歴史の中で認識の枠組みを構築する。形而上学では、正義は真理に基づくと考えられていたが、ニーチェにおいてはその関係が転倒されて、真理の本質が正義となる。個々の思惟主体は、いずれはそれ自体も取って代わられるものとしての“仮面”となる。歴史(時代)が変身の舞台である。
「世界審判」とはもともとニーチェがヘーゲルの歴史哲学を指していった言葉であるが、以上のように考えれば、「世界審判」とはニーチェにおいてはニヒリズムの到来とその克服の形として新たな意味を持つ。ニーチェでは「歴史」は、それまでの「世界」一切を破壊し創造する力をそれ自身のうちに含んでいるものとして考えられており、ニーチェにおける真理認識は歴史の中での“行為”であり、“いま、ここで”思惟するものの思惟において生成するものだけが真理であることになる。
しかし問題は、「生そのもの」とは何か、ということである。真理の本質が「正義」である以上は、ニーチェにおいて真理とは正当化なのだが、形而上学のように正当化すべき主体はもはやない。それはドゥルーズでいえば力が「能動的」であることに相当する。「実際、「誰が?」という問いをたててみるなら、力が意志する主体だと言うわけにはゆくまい」*29。能動的な力は無意識的である。「<力>は、意志においては表現不可能な(動的な、可変的な、可塑的な)何ものかである」*30。生をある力の様態であると考えてみる。そうすると真理はどうなるか。
<誤謬としての真理>という問題
「真理は、それがなければ或る特定の生物が生きられない一種の誤謬である。最終的に決定するのは、生にとっての価値である」(Ⅶ3,34〔253〕)。
ニーチェの“真理”概念に対する解釈の基本的な方向を決定するためには、この短いアフォリズムの解釈が重要な意味を持つ。ピヒトはニーチェのこの“誤謬としての真理”について「真理は人間の生にとっての至高の可能性にかなう唯一のやり方であるという一点に、すべてがかかっている」(p.126)のだと解釈する。ニヒリズムの到来によって、実はそれまで真理とされてきたものが弱者の生にとっての必要性から価値設定された誤謬であったことが判明するが、それなしでは生きられない以上、生を高めるための可能性の条件である限りにおいて誤謬や虚偽も正当化され必要不可欠となるということになる。いいかえれば、生が高まるために必要な誤謬が真理であり得るということになる。真理の本質が正義ならば、不正は誤謬である。人間をはじめとするあらゆる生命が他の生命の犠牲の上にのみ生き得るならば、他の生命に対する不正が生命の条件である。不正を肯定し得るためには、人間の生命に他の生物の生命以上の価値や意味が認められなければならない。形而上学は自然における人間の優位を無条件に是認するだけであったが、「神の死」によって人間と神との同一性を正当化し得る根拠が失われる。しかし形而上学は無意識的に企投された生の可能性の条件であった。生のための条件を満たしていたから形而上学的真理も必要とされてきたが、今や、正義は不正の自覚によってのみ可能となるという一切の生に伴う否定性を認識する行為が真理である。その行為は勇気を伴う自己超克である。<生>は自然と存在の本質を表すニーチェの概念である。生は自ずと、価値設定によってそれ自身の将来の可能性の条件を企投する。価値は、恣意的に設定され得ず、生を促進することによってのみ価値である。価値設定が生を促進するか否かは生の遂行の中で明らかになる。思惟は生の遂行となる。以上の考察は、ピヒトの観点からの帰結である。
しかしニーチェがこの一節で述べているのは、<最終的に決定されることがあるにしても、生にとっての価値から決定されるにすぎないような真理>のことではないのだろうか。<真理に関して何らかの「決定」がもしありうるとしても、それは生にとっての価値からでしかない>ということではないのか。このように問うならば、真理に関する問題は価値評価の問題となる。何のために、そもそも真理は決定される必要があるのかということが問われねばなるまい。生き得るために真理を決定するということをもはや必要としない生、どうしても生の困窮から価値を決定することができない生、決定というものを覆し続けてしまう生、真理という安全の保障をことさら必要としない生の立場から、ニーチェは語っているのではないか。生が事物に価値を置き入れて対象化するものを不要とするようになれば、最終的に決定する生にとっての価値というものも存在しなくなり、生は自ずからあるものの姿をありのままに取り戻す。レーヴィットならばそれをピュシスへと還帰し生成の無垢を取り戻した小児の「われ在り」の立場だというであろう。しかしどのような生がより支配的であるかで真理が決定されるのであれば、一体そのような生がどのようにして可能となるのか、可能性を跡づけようとすれば再び循環に陥る。
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