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ラファエロの出世作と言えばなんと言ってもヴァティカンでのお仕事です〜それではご一緒にラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身で長身のイケメン誰にも好かれた人だった。代表作=『アテネの学堂』ローマのヴァティカン宮殿「署名の間」は、ラファエロにとって文字通りの出世作であり、代表作であるヴァティカン宮殿・・・とは?現在では世界屈指の美術館の一つとして、数々の作品を展示、公開しているが、本来は、ローマ教皇や枢機卿などの高位聖職者、その他多くのヴァティカン関係者の活動拠点であり、一般に開かれているのは、広大な宮殿のスペースの一部に過ぎない。美術館の収蔵品は、ローマ・カトリック協会の総本山にあたる教皇庁が、何世紀にもわたり築き上げたもので、その成り立ちの背景には、長く複雑な歴史が横たわる。イタリア語および英語では・・・ヴァティカン「美術館」は、複数名詞(イタリア語:Musei,英語:Museums)となり、キリスト教関連の歴史的古物、美術作品に加え・・・歴代教皇が収集した古代の彫刻作品など、実に多種多様な作品がいくつもの建築内部に所蔵、展示されている。ラファエロのスタンツェ・・・とは?このヴァティカン美術館のハイライトの一つが、ルネサンス時代の作品であり、ラファエロが手掛けたスタンツェ教皇居室である。「ラファエロのスタンツェ」と呼ばれる教皇居室は、彼が装飾に関わった四つの部屋を指す。スタンツェ(Stanze)は、部屋や居室を意味するイタリア語(Stanza)の複数形であるユリウス二世の代にローマへ移住したラファエロは、教皇宮殿三階に位置する一室を、1508年〜1511年にかけて装飾した。現在、「署名の間(スタンツァ・デッラ・セニャトゥーラ:Stanza della Segnatura)」と呼ばれる部屋である。その後、引き続き1514年までに装飾されたのが、隣接する「ヘリオドロスの間(スタンツァ・ディ・エリオドーロ:Stanza di Eliodoro)」だ!この部屋の装飾計画が終盤に差し掛かったところで、ユリウス二世は死去、教皇レオ10世が登位した。新教皇のもと装飾事業は継承され、「署名の間」の反対側に位置する「火災の間(スタンツァ・デッリンチェンディオ:Stanza dell’Incendio)」の壁画が、1514年〜1517年にかけて描かれた。その後、やや時をおいて壁画装飾が実施されることになったのが、「ヘリオドロスの間」に接する大広間「コンスタンティヌスの間(サーラ・ディ・コンスタンティーノ:Sala di Costantino)」である。装飾は、1519年秋頃に開始されたが・・・1520年4月、ラファエロは急逝。翌年にはレオ10世も他界した。ラファエロは、存命のうちに壁画の構成を進めており、残された素描などをもとに、計画は彼の工房の弟子たちに引き継がれ、教皇レオ10世の従弟にあたるジュリオ・デ・メディチが、クレメンス7世として教皇の位についた1523年11月以降、実現を見ることになった。壁画が完成したのは、1524年である。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.03
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ラファエロの作風の王道とも呼ぶべき聖母子像『小椅子の聖母』について今一度うっとり鑑賞しましょうラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna della Seggiola『小椅子の聖母』1513年〜1514年頃板に油彩 71,0cmx71,0cm(ローマ時代)フィレンツェ・ピッティ宮殿「パラティーナ美術館」所蔵。『小椅子の聖母』は・・・トレンド形式で描かれた作品である。暗色を背景に、椅子に座った聖母が、イエスをしっかりと抱きかかえ、頬を寄せている。洗礼者聖ヨハネは、聖母の左膝の後ろから姿をのぞかせ両手を合わせるが、母子の抱擁からは締め出された格好となっている。こちらを見つめる聖母とイエスの優しく情愛に満ちた雰囲気画面構成と色彩感覚のバランスあらゆる点で評価されてきた作品である。その優美な表現は、ラファエロの作風の王道とも呼ぶべきものだが、実のところ、聖母子画の伝統的な描き方からすれば、異例な表現が多数見られるのでありますラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』『小椅子の聖母』そもそも・・・椅子に座った聖母が、首を傾けこちらを見るというポーズが独特であり、聖母の衣装も、また個性的である。頭には、縞模様の入ったターバンを巻き、肩には、オリエンタル趣味を感じさせる模様が施された緑色のストールをまとっている。ターバンは、おそらく当時のローマの貴婦人の間で流行していたファッション・スタイルであり、同時代的な要素が盛り込まれていると考えられる。作品のタイトルとなっている「椅子」の存在は、画面手前の支柱と、深紅と金のフリンジ(房飾り)がついた背もたれから判断できるが、よく見ると聖母は、着席しているというより、身体が斜めに傾いているような状態であり、とくに左脚が、どのように持ち上げられているかはよくわからない。しかし、このポーズの奇妙さは、聖母の上半身とイエスの身体描写、そして、色彩の構成によって見事なバランスを保っているのである。聖母の衣服の緑、赤、青の間に、イエスの肌着の黄色が挟み込まれ、画面が調和をもって分割されているのである。ラファエロは、おそらく、ミケランジェロが『トンド・ドーニ』で描いたアクロバティックな人体表現を参考に、聖母の姿勢を考案したのであろう。ミケランジェロの絵画の骨子が、複雑ながらも解剖学的に正確な人体構造と筋肉表現を見せることにあるのに対し、ラファエロの画面では、聖母子を、ややクローズアップして見ている者へと近づけ、同時に、不自然さを極力感じさせないよう、円形の画枠のなかに、身体を収めて表すことに重きが置かれているように見える。さらには、こちらを向いた聖母とイエスの眼差しによって、描かれた人物と見る者とのあいだに、親密な対話を生み出す効果がもたらされているのである。この親密さこそが、『小椅子の聖母』並びにラファエロの聖母子画の特色の一つであり、人気の理由なのであろう。聖母の視線という観点では、『システィーナの聖母』もまた、聖母子がこちらを見つめた状態で描かれている。こうした表現は、フィレンツェ時代の聖母子画に見られなかった特徴であり、ラファエロが、ローマに中世の伝統的なキリスト教絵画・・・イコンと呼ばれる、崇敬のための聖母子画のタイプ・・・に刺激を受けた、と考える研究者も多数いる。鑑賞者を見つめる視線は、そうした意味で、キリスト教美術と信仰との関わりに考察を促す要素となっているのである。また、『小椅子の聖母』のタイトルにもなっている「椅子」の描写は、ラファエロが、ローマで手がけた二点の教皇の肖像画に通じるため、ここで聖母は、教皇が執務で座す椅子に座っていると推察した美術史家もいた。椅子の特定はさておき、これまでも言及したように、玉座に座る聖母子は、キリスト教のきわめて伝統的な図像の一つであった。そのため、椅子が玉座を暗示し、天上の威厳を象徴することは、ほぼ間違えないだろう。ラファエロは、そうした伝統にのっとりつつ、独自の工夫を加え、より親しみのある聖母子を描きだしているのである。ローマでの制作当時、この絵画は、ラファエロの周辺の高貴な身分の人物が、プライヴェートに保管していたと考えられ、存在自体が周知されていなかった。その後、16世紀末までにフィレンツェのメディチ家のコレクションに入っていたことが確認され、17世紀末に現在の所蔵先であるピッティ宮殿で展示されて以来、聖母子は多くの人々に干渉されるようになり、複製版画を通じ、欧州各国へ流布された。ラファエロの聖母子画は、制作の経緯や背景が明瞭でない作品も多い。しかし、長い年月を超えてなお彼の作品が親しまれるのは、穏やかで優美な画面がキリスト教徒の敬虔な信仰心に寄り添うものであり、同時に、母子の情愛という普遍的な情感を作品に投影できるからではないだろうか。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)世界遺産にぽち
2022.09.02
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ラファエロの祭壇画の代表作『システィーナの聖母』は、ローマ時代の成熟期の傑作ですラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna Sistinaマドンナ・システィーナ『システィーナの聖母』(シストの聖母)(サン・シストの聖母)1513年〜1514年頃カンヴァス 油彩(ローマ時代)265.0cmx196.0cmドレスデン国立「アルテ・マイスター絵画館」所蔵。縦長の画面に、聖母子と洗礼者聖ヨハネを屋外で、ピラミッド型に表した聖母子画は、フィレンツェ時代に一つの区切りを迎えた。ローマで・・・ラファエロは、個人の祈祷用の比較的小型の聖母子画のみならず、大規模な祭壇画形式の聖母子画も手掛け、スタイルを一層成熟させていく。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身で長身のイケメン誰にも好かれた人。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』『シストの聖母』Madonna Sistinaマドンナ・システィーナは、祭壇画の代表作と言える個人用の聖母子画の代表が、『小椅子の聖母』だと思われるこれら二つの作品は・・・ラファエロの聖母子画の傑作であり、西洋絵画史でも、ラファエロの名声の高まりと呼応して、一種の神話的な価値観を帯びていく。『シストの聖母』は、教皇ユリウス二世の時代、1512年〜1513年頃にかけて描かれた作品である。ローマで制作された本作は、北イタリアの都市ピアチェンツァにある聖堂に運ばれ設置されていたが、18世紀に、ザグセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト三世)の所有となった。その後、所有者は返変遷し、現在ではドレスデンの国立絵画館に所蔵されている。高さ・・・265,0cm(約2,7メートル)横幅・・・196,0cm(約2メートル)めっちゃ〜大型の絵画である。画面では、緑色のカーテンが左右に開かれ、イエスを抱く聖母が立った姿で表されている。聖母子は、あたかも光を放ちながら、雲の上を歩みこちらに進み出るような表現となっている。聖母の周囲に満ちた雲には天使たちの顔が密集している。左右には、聖人がかしずき、画面下の中央では、二人の天使が、上方を眺めてている。一人は頬杖をつき、もう一人は組んだ腕に顎を乗せている、ややふてくされたような表情の愛らしい二人の天使は、単独で抜き出されグッズなどにも用いられているので、目にした人も多いのではないだろうか。画面を左側の聖人に、教皇ユリウス二世の面影があることから、本作がユリウス二世の注文で描かれたことに疑いはないものの、その制作の詳細な経緯は必ずしも明確ではなかった。かつては、ユリウス二世の葬儀の際に展示された絵画と考えられていたのだが、その後にこの説は覆され、現在では、ピアチェンツァの祭壇画として注文されたという説が、一般的となっている。印象的な緑のカーテンは、フランスの美術史家:ダニエル・アラスの解釈によれば、エルサレム神殿で、神を信徒の目から隠すヴェールを表しているという。したがって、本作のカーテンが開かれた状態は、神学的な言葉では・・・ けんげん「顕現」と呼ばれる、神が信徒たちの前にいままさにあらわれ出たところを表しているというのである。光り輝く聖母子は、堂々たる姿で、信徒たちの前にあらわれ、画面下の二人の天使は、まるで鑑賞者のように、それを眺めているのだ。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)世界遺産にぽち
2022.09.01
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ラファエロの独自の優美な聖母子『美しき女庭師』に至るまでの経緯を検証してみましょうラファエロ・サンティRaffaello SantiLa Belle Jardiniéreラ・ベル・ジャルディニエール『美しき女庭師』1507年〜1508年頃(聖母子と洗礼者聖ヨハネ)板に油彩 122.0cmx80.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。フィレンツェ時代の三点の聖母子画『牧場の聖母』と『鶸の聖母』から、やや遅れた時期に描かれたと思われるのが、『美しき女庭師』の通称で呼ばれる聖母子画である。ルーヴル美術館に所蔵される本作品が注文された詳しい経緯は不明だが、伝統的に、とあるシエナ人のために、1507年〜1508年頃に描かれたと考えられてきた。遅くとも、17世紀中頃までには、フランス王室コレクションに入り、18世紀以降、複製版画に添えられたキャプションに基づき、 La Belle Jardiniére「ラ・ベル・ジャルディニエール(美しき女庭師)」という呼称が定着した。上部が・・・半円形となった画面で聖母は頭部を含め、身体全体が、やや左方向へ向き、聖母の膝に寄り添うイエスを見つめる姿勢となっている。イエスと聖ヨハネの姿勢と配置は、『牧場の聖母』のちょうど反対になり、右下で腰をかがめた聖ヨハネが、イエスを見上げ、イエスは聖母と見つめ合う。イエスの左腕は、聖母の膝の上へのばされて書物に触れ、聖母の左手は、我が子の腕をしっかりとつかみ、母子の結びつきが穏やかなながら明確に表現されているのである。聖母は首を正面へ向け、イエスを見つめている。聖ヨハネからイエス、イエスから聖母へとつながる視線の流れ、穏やかな姿勢、全体のバランス、安定感など、画面を構成する各要素の画家の吟味は、ここにおいて完結していると言えるだろう。ラファエロは・・・レオナルドと、ミケランジェロという偉大な芸術家たちの造形感覚をよく学び、それらを取捨選択した上で独自の構成に到達した。レオナルドの絵画では、背景の描写は幽玄で、どこかミステリアスな雰囲気をたたえている。一方、ラファエロの絵画に広がる背景は、イタリア中部地方の風景を直接的に連想させる描写になっており、青みがかった山々や水辺の風景、澄んだ青空は、絵画を眺めるイタリア、ならびにヨーロッパの人々に、親しみを覚えさせるものだったに違いない。ミケランジェロの彫刻・絵画では、人物の身体的構造が明確で、各人物は、筋肉質な肉体をもって表されている。ラファエロの人物は・・・身体の構造を意識しつつも、あくまでも柔らかな印象で、触覚的な魅力をもって訴えかけてくる。このように、ラファエロは先達に学びながら、彼らとは異なった工夫を積み重ねていった。そして、ペルジーノ的な定型表現を抜け出し、人物のポーズや配置をより自由に展開し、穏やかで優しげな要素を備えた、独自の優美な聖母子を描くに至ったのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)女庭師にぽち
2022.08.31
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ラファエロの聖母子と洗礼者聖ヨハネ『ヒワの聖母』と『牧場の聖母』は、ほぼ同時期に制作したと思われますラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna del cardellino『鶸の聖母』(ヒワの聖母)1505年〜1506年頃(聖母子と洗礼者聖ヨハネ)板・油彩 107.0cmx77.0cmフィレンツェ「ウフィツィ美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。『鶸の聖母』は、昨日、ブログの『牧場の聖母』と同時期、1505年頃に描かれたと思われる。 ひわ『鶸の聖母』は、ヴァサリーによると、この絵は、タッディの縁戚にあたるロレンツォ・ナージという商人の婚礼を記念して描かれた作品である。丁重に保管されていたが、16世紀中頃、近隣で発生した山崩れによって、邸宅が崩壊した際に破損し、修復されたと伝えられる。19世紀前半、2008年の二度の修復作業を経て、現在の絵画は、明朗な澄み切った色彩となっている。現状は、21世紀の修復作業の結果である。修復以前は、絵が描かれている板には、多数の大きな亀裂が走り、絵画表面上にも、大きな縦の亀裂が確認される状態にあった。修復作業では、かつて絵画表面を覆っていた褐色がかったニスが除去され、画面の亀裂も修復され、目立たない状態となっている。本作では、『牧場の聖母』に比べ、各人物は垂直の姿勢を保ち、聖母の両脚も地面へと真っ直ぐに降ろされている。聖母の左側に立つ聖ヨハネは、鶸を差し出し・・・キリストの受難の象徴であり、本作の名称の由来ともなっている・・・、聖母の膝の間に立つイエスは、右手を伸ばして小鳥を撫でている。イエスは幼児ながら、すでに落ち着いた面持ちで、受難のシンボルである鶸を手なづけているかのようである。三人の人物は、画面の中央にまとまっており、一体感を保っている。幾分どっしりとした印象は、ミケランジェロの『ブルージュの聖母』のような、重感ある彫刻の表現に感化されたことからきているかもしれない。本作の聖母の上半身のポーズ、そして頭部の傾き、表情などは、『牧場の聖母』と似通っており、近い時期に制作されたと考えられる。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.30
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ラファエロのピラミッド型に描いた「聖母子像」作品三点の中の一点目『牧場の聖母』を見てみましょう色々な呼び方があります。ラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna im Grunen『牧場の聖母』1506年頃Madonna with the Christ Child and Saint John the Baptist(聖母子と幼児の洗礼者聖ヨハネ)Madonna del Belvedere(ベルヴェデーレの聖母)板・油彩 113.0cmx88.0cmウィーン「美術史美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』『牧場の聖母』ラファエロが、パトロンのタッディのために描いた二点の聖母子画と思われるのが、『牧場の聖母』である。聖母の衣服の胸元に描かれた金の模様「MDV」(あるいは「MDVI」)から、1505年ないし1506年位完成したと考えられる。この作品では・・・平野を背景に聖母と幼児イエスが中央に、向かって左下に幼い洗礼者ヨハネが描かれている。聖母は、幼児イエスの胴部を両手で穏やかに支え、上半身を伸ばし聖ヨハネへと、視線を落としている。イエスは、聖ヨハネの持つ十字架を片手でつかんでいる十字架は、キルストの将来の受難を暗示しており、子供ながら落ち着いた表情のイエスは、運命を自ら受け入れているような描写となっている。平野には、ところどころに、控えめながら緻密に植物や、花が描かれているが、これらにも象徴的な意味が込められていた。たとえば、いちごは、天上の繁栄、アネモネは、イエスの磔刑および復活、ケシは、受難を象徴すると言われる。『テッラヌオーヴァの聖母』に比べ、聖母の頭部は卵型となり、明るい色彩が用いられている。こうした要素から、作品には全体的に洗練された印象が増している。ラファエロは、この画面を構成する際に、やはりレオナルドの聖母の表現を参考にしたようだ。聖母の下半身をよく見てみると、青いマントに覆われた下半身は、非常に広い横幅で描かれているとわかる。これはおそらく、「ルーヴル美術館」の『聖母子と聖アンナ』に見られるようなレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃ポプラの板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。左上から右下へと大きく投げ出された聖母の右脚にならった描写であろう。この長い右脚の表現によって、画面上には、聖母の頭を頂点としたピラミッド型の構図が成立し、安定感が生み出される。しかし、聖母を単独で眺めると、人間離れしたプロポーションの一歩手前となっているのも事実である。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.08.29
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盛期ルネサンス三大巨匠は同時期にフィレンツで出会っているのですがお互いどんな感じだったのでしょうか〜三人は、その後ローマへミケランジェロ・ブオナローティMichelangelo Buonarrotiベルギー「ブルージュ聖母聖堂」ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身で長身のイケメン誰にも好かれた人。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロに影響を与えた人物とは・・・?レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)画面の空間構成、人物の動き、顔貌のタイプ、陰影表現など、レオナルドの作品には、多数の個性的な要素が見られた。ミケランジェロ・ブオナローティMichelangelo Buonarroti1475年3月6日〜1564年2月18日(88歳没)人物像の表現に関して、重要な影響を与えたもう一人の芸術家は、ミケランジェロである。ミケランジェロもまた、フィレンツェ内外で名が知られており、まるで古代作品と見紛うばかりの彫刻を制作する技量が高く評価されていた。同時代の記録が伝えるところでは、ミケランジェロは、身内思いだったが気難しい側面もあり、パトロンや同業者と仲たがいしたエピソードには事欠かない。とくにラファエロが、フィレンツェに滞在していた1504年〜1508年頃、ミケランジェロとレオナルドは不仲で、知られていた。1540年頃編纂されたレオナルド・ダ・ヴィンチ伝には、街中でダンテ「神曲」の一節の解釈をめぐる議論に呼び止められたレオナルドが、偶然近くを通りかかったミケランジェロに話題をふったところ、侮辱されたと勘違いし、激昂したという逸話もあるほどだ。ミケランジェロは、のちにローマで、ラファエロに明らかな対立姿勢を見せるようになるが、フィレンツェでは、比較的良好な関係を保っていたようである。ラファエロを厚遇したパトロン、タッデオ・タッディは、ミケランジェロにも作品を依頼しているため、この共通のパトロンを通じて、二人の芸術家が直接に交流していたことは疑いない。ミケランジェロの重要な作品のうち、ここでは二つの作品、『ブルージュの聖母』と『トンド・ドーニ』を確認しましょう。大理石の彫刻像『ブルージュの聖母』は、設置場所であるベルギー、ブルージュ大聖堂にちなみ、こう呼ばれる作品で、1503年、フランドル地方の富裕な商人によって注文された。作品は完成後、1506年10月に発送されるまで、フィレンツェに置かれていたため、ラファエロも、目にする機会があったと思われる。この作品では・・・聖母と幼児イエスは、正面を向き、厳格な面持ちで佇んでおり、聖母のやや角ばったひだのある衣服の下には、人体の堅固な構造が意識されている。もう一点の『ドンド・ドーニ』は、おそらく1504年〜1506年頃、同じくフィレンツェの商人:ドーニ家のために制作された、聖家族を描いた円形の画面の絵画作品である。聖家族・・・とは?聖母子にマリアの戸籍上の夫である聖ヨセフ・・・イエスの「養父」と呼ばれることもある・・・が加わった主題を指す。また、「トンド」・・・とは?円形という意味で、中世来フィレンツェで流行していた、円形の浮彫や絵画の呼称として用いられる。ミケランジェロは、自身のことを生涯彫刻家と自任していたが、絵画作品も多数手がけている。平面的な画面においても、まるで彫刻のような立体感ある人物描写が特徴的である。ここでは、地面に正面向きに座った聖母マリアが大胆に上半身をひねり、後方のイエスへと腕を伸ばしている。そのアクロバテックなポーズ、女性ながら筋肉質な身体や、衣服のボリュームなど、類を見ない独創的な表現が行われている。人体の筋肉や構造を意識しつつ新たな表現を追求したミケランジェロならではのものと言えるだろう。こうしたフィレンツェの先達の芸術を学び、新たな構造の工夫のプロセスが結実した作品と言えるのが、ラファエロによる聖母子と洗礼者ヨハネを描いた三点の聖母子画である。三点は、いずれも聖母の聖母の頭部を頂点とするピラミッド型の構造がつよく意識され、背後には、穏やかな中部イタリアの風景が、広がるという点で共通している。各絵画を制作順に見ていこう。『牧場の聖母』 ひわ『鶸の聖母』『美しき女庭師』(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:中公新書2614/ラファエロールネサンスの天才芸術家より)ラファエロにぽち
2022.08.28
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ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の『カーネーションの聖母』は、確か何処かで見たような気がしますああ・・・エルミタージュでお会いしたMadonna dei Garofani『カーネーションの聖母』1506年〜1507年頃イチイ板に油彩 27.9cmx22.4cm ロンドン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロの通称『カーネーションの聖母』で知られる作品では・・・聖母は、両手に数本のカーネーションを持ち、膝の上に座るイエスと戯れている。聖母の額は四角形で、伏せられた両瞼が三日月型をなす、繊細な描写を見ることができる。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。ラファエロの『カーネーションの聖母』ラファエロがこの作品を描く際、参考にしたと思われるのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『ブノワの聖母』であるレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Madonna Benois『ブノワの聖母』1478年頃カンヴァス(元は板) 油彩49.5cmx31.0cmサンクトペレルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。レオナルド作『ブノワの聖母』もまた、花を手にした聖母と、幼児イエスが戯れており、その構図がラファエロの作品ときわめて似通っていることは明白である。『ブノワの聖母』は・・・1478年頃、つまり、ラファエロとレオナルドがフィレンツェでコンタクトをとる25年程前に描かれた作品だが、レオナルドの手元か?ラファエロが懇意にするパトロンのもとに置かれていたのか?その構図を直接目にしていたのであろう。聖母子の配置や、仕草のみならず、暗色がかった室内に聖母子が座り、画面向かって右奥に、外界に開かれた窓が配置される構図まで一致している。『カーネーションの聖母』の注文の経緯などは、不明であるが、おそらく1506年〜1507年頃に制作されたと考えられる。なお、聖母子が手にするカーネーションは、婚約の機会に際して描かれる肖像画に時折登場し、真実の愛や、神の保護を象徴する花である。両作品で、イエスと戯れる聖母は、口をかすかに開き、若々しい少女として描かれ、逆にイエスは大人びた表情を見せている。そのため、母が子供をあやすというよりは、むしろ、子供に遊ばれているかのように見えることも、表現の特徴の一つである。両作品には異なる点もある。レオナルドの作品では・・・画面のちょうど中央に花をもつ聖母の右手とそれに触れるイエスの両手が配置され、二人の手と腕が絡み合うかのように密に構成されている。一方、ラファエロの作品では・・・両者の手や腕はよりゆったりとほどけている。こうしたポーズの違いは、おそらく、両作品の一番の相違点、つまり、聖母とイエスの距離感に由来しているだろう。レオナルドに比べ、ラファエロの構図では、イエスは聖母マリアの身体から少し離れており、そのためにイエスは、聖母の腿の上に置かれた白いクッションの上に座っているのである。また、窓の外の描写にも違いが見られる。ラファエロの絵では・・・トスカーナの風景を連想させる緑の丘と建築物、雲の浮かぶ青空が描かれている。ラファエロは・・・こうしたレオナルドの作品を学び、模倣することで、それまで身につけていた画風から、徐々に脱していったのである。しかし、完全に追従するのではなく、自身なりの工夫を取り入れてもいる。人物のよりゆったりとした動きや、穏やかな風景描写から、絵画には優しげな美しさがあり、ペルジーノとも、レオナルドとも、異なった彼自身の特色を備えていくのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.27
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ラファエロの『アンシディ祭壇画』は、注文者の名にちなんでそう呼ばれましたラファエロ・サンティが・・・1504年〜1505年頃にペルージャのサン・フィオレンツォ聖堂のために制作した祭壇画である。現在は、ロンドン・ナショナル・ギャラリー」所蔵(撮影禁止のため画像無しです)制作は現地で行われ、フィレンツェから、ペルージャに一時的に戻った時に描かれたと考えられている。作品では、玉座に座る聖母子を中心に、左右に一人ずつ二人の聖人が立ち姿で配置されている。これは、「玉座の聖母」と呼ばれる伝統的な図像の一つであり、神の威光を象徴的に示す、天の玉座に座る聖母子を描いている。どっしりとした構造の玉座、そこに座る聖母子の佇まいは・・・ペルジーノ(Perugino)ピエトロ・ヴァンヌッチ1448年頃〜1523年『聖母子と聖人たち』デチェンウィリ祭壇画1495年〜1496年頃「ヴァチカン絵画館」所蔵。ペルジーノの作品の型を踏襲したものとなっているラファエロの描いた聖母は・・・垂直の姿勢を保って座り、その顔貌は、面長で伏目がちである。膝の上に広げた書物の内容を示しながら、優しく抱え込むようにイエスの上腕に手を添える仕草もまた、ウンブリア地方で知られた作品に共通する特徴である。つまり、この絵画は、年代の上では、フィレンツェに移った後に完成したが、作風の上では、フィレンツェらしい要素は、いまだ見られないのである。では、こうした作風に変化をもたらすことになるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品には、どのようなものが挙げられるだろうか?いくつか、代表的な作品をイメージしてみましょう。フィレンツェ市民のあいだで、センセーショナルな話題となった、レオナルドによる原寸大下絵は、『アンギアーリの戦い』だけではない。1501年、サンティッシマ・マヌンツィアータ修道院で公開された『聖母子と聖アンナ』もまた、大きな反響を呼んだ。レオナルドは、帰郷直後からサンティッシマ・アヌンツィアータ修道院に逗留し、同地の聖堂のための祭壇画制作に着手する運びとなった。アヌンツィアータ・・・とは?天使から「受胎告知」、つまりイエスをみごもったという知らせをうけとったマリアを指すイタリア語であり、祭壇画にも、聖母に関連する主題が選択されたのである。聖アンナ・・・とは?マリアの母であり、子イエスを含めた三代の系譜を表した主題である。『アンギアーリの戦い』と同じく、このアンヌンツィアータ聖堂祭壇画のための原寸大下絵は失われ、裁断が事態も完成されることはなかった。同時代の証言から、推測されるところでは、画面には聖母子と聖アンナがほぼ等身大で描かれていたという。聖母マリアは・・・聖アンナの膝から腰を浮かせて、イエスを抱き抱えようとし、幼児イエスは・・・一頭の子羊をつかまえている構図が表されていたとされる。アヌンツィアータの下絵は、存在しないが、その構図と関連した、レオナルドによる二点の作品が残されている。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃ポプラの板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。一点は、現在、「ルーヴル美術館」に所蔵される絵画である。この絵画では聖母マリアが、聖アンナの膝の上に腰かけつつ、身を乗り出して、子羊と戯れるイエスを抱き上げようとしている。こうした人物の仕草の特徴は、アヌンツィアータの下絵素描についての記述と一致する。そのため、アヌンツィアータの聖母子画の構想に基づき、のちにフランスでレオナルド自身が制作したと考えられる。もう一点の関連作品は、現在ロンドン、ナショナル・ギャラリーに所蔵される、同じく聖母子と聖アンナを表した素描である。「バーリントン画稿」と通称されるこの素描では、褐色に染められた紙に石墨と白墨を用い、人物が、ほぼ等身大で描かれている。アヌンツィアータの下絵とは異なり、画面に小羊はおらず、代わりに画面右端には、子供の洗礼者聖ヨハネが描かれている。洗礼者ヨハネは、ヨルダン河で、イエスに洗礼を授ける聖人であり、フィレンツェの守護聖人でもある。当時のフィレンツェでは、聖母子に幼い洗礼者ヨハネを加えて描くことが人気のテーマとなっていた。このロンドンの「バーリントン画稿」は、アヌンツィアータの下絵に先立ちミラノでレオナルドが描き、そのまま同地に残されたと考えられており、レオナルドによる原寸大素描が、どのようなものだったかを伝える作品と言える。これら二点から、アヌンツィアータの原寸大下絵は、パリの板絵のような構図で、ロンドンの素描のような技法と様式で、描かれていたと推測できる。ペルジーノの玉座に座る聖母子が、垂直軸の強いポーズで描かれてていたのとは異なり、レオナルドの作品では、人物像が柔軟な動きで互いに関連し合い、ゆったりとした有機的な流れを生み出している。このような独特な表現は、ペルジーノのようなウンブリア地方の作風を見慣れていた画家からすれば、衝撃的だったと想像できるだろう。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.26
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ラファエロの代表作は、何といっても「聖母子像」であるいまさら「聖母子」とは?イエスはどうして十字架にかけられたのか?復活して天国へ?あらら〜いまいち理解が乏しいです。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Niccolini-Cowper Madonnaoil on panel,1508『カウバーの聖母』1508年板に油彩 81.0cmx57.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。『システィーナの聖母』「聖母子像」・・・とは?キリスト教の教祖であるイエス・キリストの幼少時代とその母マリアを組み合わせて描いたもの。新約聖書に収められた四つの『福音書』には、イエスのさまざまなエピソードが記されており、神の子であるイエスは・・・マリアという、つつ慎ましやかな身分の女性から誕生したとある。マリアは、ヨセフと婚約していたが、正式な婚礼を迎える前に、つまり、肉体関係をもたない処女のまま、精霊によって神の子を身ごもり出産したという。生まれた男児は・・・イエスと名づけられ、成長し、神の教えを説くが、人々を惑わせたとして捕らえられ拷問にあい、十字架で処刑される。イエスは、埋葬された三日後に復活し、弟子たちの前にあらわれたのち、天へと昇った。イエスは救世主(=キリスト)として、この世に到来し、人類の罪を贖う(あがなう)ため十字架にかけられた、・・・と信仰される。イエスを生んだマリアは、五世紀に公会議「神の母」として聖性が認められて以降、崇敬の対象として、多様に表現されてきた。聖母マリアと幼児キリストを描いた絵画は、一般的に「聖母子画」と呼ばれる。中世のあいだ、聖母は神学的神学的な解釈を反映し、じつに多彩な姿で描かれた。玉座に座した威厳ある女王、イエスの死を悲しみ慟哭する母、そして、世俗の信徒にも、親しまれる慈愛に満ちた姿などである。宮廷の貴婦人のように、上品な美しさをたたえた聖母や、あどけなく母親と戯れるイエスの描写は、ルネサンス時代に広く普及し、母子のあいだのこまやかな愛情表現なども盛り込まれるようになっていった。当時は、聖堂に設置される祭壇画のほか、個人が邸宅に置き、祈りを捧げるための聖母子画も需要が定着していた。聖母子画は、中世以来の信仰心を受けとめる画像としての形をとどめつつも、一般の信徒にとって、より身近な存在として、表現の幅が広がっていった主題の一つだったのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.25
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ラファエロは、フィレンツェでレオナルドに会って絵を見せてもらったようですよどんな絵でしょうか?レオナルド・ダ・ヴィンチは・・・ウルビーノ出身の若い画家:ラファエロを歓待したようで、手掛けていた未完成の作品や、準備素描を見せることも多かったと思われる。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年ミラノ公国にて、『岩窟の聖母』や、『最後の晩餐』といった絵画作品を手掛けていたレオナルドは、1500年4月、北イタリア諸都市の滞在を経て、フィレンツェに戻ってきていた。その評判は・・・イタリア各地に広がり、当時の宮廷の貴族のなかには、何としても、レオナルドに作品を描かせようと望んだ者もいた。しかし、レオナルドは遅筆であり、未完で終わったり、弟子が完成させた作品も多かった。そうした状況で、レオナルドの構想が直接に示された素描や、未完成の絵画を見ることは、ラファエロにとって、貴重な機会となった。レオナルドの絵画は・・・ラファエロの生涯にわたり大きな影響をもたらしたといっても過言ではないだろう。当時フィレンツェで見ることができたレオナルドの代表作には、レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)通称「ジョコンダ」で知られる有名な『モナ・リザ』も含まれる。ヴァザリーの説明によれば、この作品は元々、フィレンツェの貴族:フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ夫人の肖像画として制作がスタートした。同時代の史料から、肖像画は、1503年〜07年頃に制作されたと考えられるが、結局、注文者の手に渡ることはなく、レオナルドは晩年までこの絵を手元に置き、加筆し続けていたようだ。四分の三面観と呼ばれる、やや外側に向けた顔の角度、身体をややひねりつつ胸元で手を組むポーズは、肖像画の典型の一つとして、継承されていく。ラファエロが制作途中の『モナ・リザ』を、おそらくレオナルドのアトリエで実見していたことは、構図がきわめて類似したスケッチを見れば明らかである。現状の『モナ・リザ』とは異なり、素描では、女性の背後に二本の柱が描かれ、かおかたち顔貌もいくぶん若々しい。こうした相違は、絵画が現在のかたちにいたる以前の状態をラファエロが知っており、その構図を反映して描いたため、とも推測される。素描では、女性のミステリアスな眼差しや、口元の表情がとらえられ顔の側面など濃い陰影が差す箇所は、線のハッチングを重ねて表現するなど、素描の表現上の工夫も同時に見られるのである。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.08.24
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ラファエロはフィレンツェで、レオナルドとミケランジェロの作品に触れて何を学んだのでしょうか当時の絵画作品は・・・まずもって、人物の表現が中心なテーマであったので、人間をどのように表すかは、大きな課題であった。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、謙虚で礼儀正しく、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロは・・・フィレンツェで、レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロの先進的作品に接し、人物をどのように構成し、空間内に配置するか、という点で改良を重ねる。さらに、色彩や陰影表現など、あらゆる要素を学び、作風を徐々に変化させていく。ラファエロが、フィレンツェにやってきた1504年は、ミケランジェロの『ダヴィデ』が完成した年である。『ダヴィデ』は、4月に完成し、6月に政庁舎であるシニョリーア宮殿(現:ヴェッキオ宮殿)の正面玄関に設置され、フォレンツェ共和国の新たなシンボルとなった。ラファエロは、その堂々とした姿を背後からスケッチし、人体のプロポーション、骨格や筋肉の表現にアプローチを試みている。当時はさらに、シニョリーア宮殿の内部にある大評議会広間で、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの競作として壁画を制作させる計画が進められ、大きな話題を呼んでいた。1503年より、共和国政府主導のもと進められたいたこの計画の画題は、中世末にフィレンツェが行った戦争の一場面である。1508年春、レオナルドは『アンギアーリの戦い』(1440年のフィレンツェ対ミラノ戦)を、共和国政府から依頼され、1504年には、原寸大下絵を完成、壁画制作に着手した。一方、ミケランジェロは1505年から『カッシナの戦い』(1364年のフィレンツェ対ピサ戦)に着手したと見られ1505年には原寸大下絵を仕上げた段階となっていた。ミケランジェロの下絵は・・・現在のメディチ=リッカルディ宮殿に、レオナルドの下絵は・・・サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院、教皇の間にて公開され、当時の芸術家たちのあいだで大きな反響を呼ぶラファエロもまた、二人の競作の評判を耳にして、フィレンツェに引き付けられた一人だったのである。ミケランジェロは、兵士たちが休息し水浴びをしていた最中、敵の襲来を告げる合図があり、男性裸体像が入り乱れつつ戦闘の準備を行う様子を構想した。一方、レオナルドは、軍旗を奪い合い衝突する騎馬像を中心とした場面を描いた。残念ながら、レオナルドとミケランジェロは、ともに作品を完成させないままフィレンツェを離れ、計画は頓挫した。二人の独創的な構想を伝える原寸大下絵も失われてしまったため、16世紀のコピーから、構図や人物のポーズが推測されるのみである。とはいえ、二人の競作は強烈なインパクトをもたらし、多くの同時代人によってさまざまに証言されている。年代はやや下がるが、フィレンツェ出身の彫金家:ペンヴェヌート・チェッリー二(1500年〜71年)は自伝で、あらゆる芸術家たちが熱心に彼らの下絵を学んだ事実を「世界の学堂」と評している。この出来事に示されるように、フィレンツェは、準備のための下絵も公開されるなど、芸術家の学ぶ機会が広く開かれていた都市であった。『ダヴィデ』のような公共の場に置かれた完成作品のみならず、未完成の作品もまた、周囲からの評判の対象となっていた。また、関係の良好な芸術家同士は、互いのアトリエを訪問しあい、スケッチや制作途中の作品を見る機会にも恵まれていた。こうしたフィレンツェの芸術家たちと交流するなか、ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてミケランジェロから、多くの示唆を受けているのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.23
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ラファエロ・サンティの作品は、版画として欧州各地へ普及していって「伝説」も作り出されてしまうのですギャスケルの小説より私の会いました将校さんの奥様の一人が・・・何というカトリック教の外国人の描いた・・・聖母マリア様と、幼いキリスト様の小さな絵を持っていらっしゃいました。マリア様が、キリスト様の小さな絵を持っていらっいゃいました。マリア様が、キリスト様を腕に抱いて、ほほずりしながら、やさしくくるみこむようにしていらっしゃる絵です。[・・・]何でも、その絵は、酒樽の底に描かれたもので、それであんな丸い形をしているのだそうです。それからというもの、私の身体が疲れたり、気持ちが沈んだりする[・・・]たびごとに、私はその絵をとりだして、じっと眺めまました。すると、聖母像が私に話しかけて、慰めて下さるような気がしてくるのでした。(ギャスケル『女だけの町(クラスフォード)』小池滋訳、岩波文庫、1986年より引用)この絵は・・・「酒樽の底に描かれた」という叙述から、ラファエロの『小椅子の聖母』の複製版画だとわかる。イエスに頬を寄せ、抱き締めるこの聖母子画は、ラファエロが、ローマで1513年〜1514年頃に描いた作品であると考えられ、その愛くるしさに寄って人気を博した。実際の制作の経緯は謎めいているのだが、いつの頃からか、ラファエロが、酒造家の娘である美しい女性の姿を、ありあわせの酒樽の底板を用いて描いたという伝説が浸透した。これは後世の完全な創作なのだが・・・偶然の出会いという話が魅力的に捉えられたのか?19世紀には広く浸透していた。事実、『小椅子の聖母』は、ラファエロの聖母子画のなかで、「版画」として最も多くの版が刷られ、普及した作品と言われる。ギャスケルの小説から、垣間見られるように、ラファエロの聖母子画は欧州の家庭で、神や聖母に思いをはせるために用いられ、広く親しまれていたイメージであった。こうしたイメージは、どこから来ているのでしょうか?ラファエロの聖母子画をフィレンツェから、ローマにかけての彼の作風を研究してみたいですねラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身で長身のイケメン誰にも好かれた人。フィレンツェ時代:ラファエロの【聖母子画】ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』(美しき女庭師)1507年板に油彩 122.0cmx80.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Niccolini-Cowper Madonnaoil on panel,1508『カウバーの聖母』1508年板に油彩 81.0cmx57.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Alba Madonna oil on panel transferred to canvas,c.1510『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』(アルバの聖母)1511年カンヴァスに油彩(板から移行)直径95.0cmワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.22
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ラファエロのローマでのお仕事は多岐にわたるのであります〜詳しくイメージしましょう画家:ラファエロのお仕事に話を戻しましょう〜壁画装飾や祭壇画、あるいは、タペストリーの下絵など、大量の作品を期日内に仕上げる必要のあったラファエロは、工房を経営して、作品制作に従事するようになる。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、謙虚で礼儀正しく、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』「ラファエロの工房」・・・とは?徒弟が親方のもとで、絵画術を習得しながら仕事を手伝う「工房」とは、やや意味合いが異なっている。基礎的技法を学ぶ年若い画工もいたであろうが、ローマのラファエロの工房で特徴的なのは、すでに技術を習得した一人前の画家が制作に参加する、いわば「共同製作者のチーム」であった点である。国際都市ローマには・・・全国から個性豊かな芸術家たちが集められていた。ラファエロは、チームの総合監督であり、彼の構想をもとに、工房の芸術家たちが実際の制作を担っていくことになる。周囲の芸術家たちの気質や腕前、得意分野など、各々の個性を把握し、適材適所で活用することで、ラファエロは、独創的な作品を実現していくことになるのである。ラファエロの間・火災の間『オステリアの海戦』左側の教皇レオ4世の顔は、教皇レオ10世の顔がモデルとなっている。とくに、レオ10世時代のラファエロの制作「火災の間」や、「ラファエロのロッジャ」と呼ばれる回廊の装飾、さらに銀行家:アゴスティーノ・キージの別荘建築の絵画装飾などは、ラファエロの工房の活躍の成果に他ならない。もちろん、ラファエロ自身も、画家を止めたわけではない。仕上げに参加したり、大部分をはじめとして、ローマに残る古代彫刻や絵画からも新たな刺激を受け、堂々たる作風への移行が見られるのも、ローマ時代の作品の特徴と言える。宮廷の一員として、揺るぎない地位にのぼりつめたラファエロは、人文主義者たちとも親密な交流をもち、新プラトン主義的思想、古代芸術の理論についての知識も吸収していった。確かな知識に裏打ちされたラファエロの芸術は、古典主義を達成する。つまり、古代ギリシア・ローマの芸術を、様式面、意味内容の面でもオーセンティックなものとして復興させたのである。ここに、ラファエロが、他の芸術家たちとは異なる地位を付与されるに値する理由があるといえるだろう。ローマの代表的作品と、こうした周囲との関わりについては、おいおい、触れてみたいと存じます。ラファエロに先立ち、1505年以降から本格的に教皇庁からの依頼を受けていたミケランジェロは、ローマにおけるライバルの一人となった。両者をとりまく関係についても、ぼちぼち語ってみたいと存じます。壁画などは・・・実際に現地を訪問しなくては直接目にできないものだが、写真機などのない16世紀当時、ラファエロの芸術の流布に貢献したのは、ニューメディア→版画である。銅板や木版を線刻し、インクを刷って制作する版画は、15世紀よりはじめフランドル、ドイツ地方で流行していた。ボローニャ近郊出身の版画家:マルカントニオ・ライモンディ(1480/82頃〜1543年以前)は、優れた版画家でもあったドイツの画家:アルブレヒト・デューラー(1471年〜1528年)の版画作品を模刻し、版画技法を習得したのち、ローマで、ラファエロとコンタクトをとり、ラファエロが用意した構図に基づく版画制作の任を担うことになった。ラファエロによる版画用の構図や、完成・未完成の作品構図をもとに制作された版画は、版元を通じて欧州各地へと販売、流布されていった。写真が普及する近代以前は、事実、ラファエロの作品は、複製版画を通じて、フランスやドイツ、英国などへと広く知られていったのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.21
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ラファエロは、いよいよローマへと行くことになるのですがローマの仕事へ誘った人物とは誰ラファエロ・サンティRaffaello Santiオッディの祭壇画『聖母の載冠』1503年カンヴァスに油彩(板から移行)267.0cmx163.0m(若き日の作品)「ヴァチカン絵画館」所蔵。ラファエロが・・・ローマに移った正確な経緯は不明であるが、ヴァザーリによると、ラファエロをローマに誘ったのは、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家:ドナート・ブラマンテ(1444年〜1515年)とされている。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、謙虚で礼儀正しく、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ブラマンテは・・・ラファエロと同じウルビーノ出身、サンティ家とは縁戚にあった、とされている。加えてウルビーノは、教皇ユリウス二世の一族、デッラ・ローヴェレ家とも関わりがあった。ユリウス二世の兄:ジョヴァンニは、グイドバルド公の姉(昨日ブログの「紹介状」を書いたとされる人)ジョヴァンナ・フェルトリアと婚姻関係にあった。1508年4月、グイドバルドが、後継者を残さず他界し、モンテフェルトロ家の直系男子の血統が途絶えると、公爵の位は、ジョヴァンニとジョヴァンナの息子、つまりユリウス二世の甥にあたるフランチェスコ・マリアへと引き継がれたのである。イタリア中部へと教皇領を拡大する軍事キャンペーンを進めていたユリウス二世は、1506年9月にペルージャに入城し、その後ウルビーノを訪れ、同地の支配を甥に託していたのである。昨日ブログで述べたように、ラファエロはペルージャでも仕事を行なっていた。ユリウス二世が滞在時にミサを行ったサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂には、ラファエロが手掛けた『オッディの祭壇画』が飾られていた。この祭壇画は・・・聖母マリアが死後、天上にひきあげられイエス・キリストから冠を授かるという主題『聖母の載冠』を描いたものである。オッディ家の注文による本作品は、聖堂内の同家の礼拝堂に設置されていた。ペルジーノが、フィレンツェで主に活動していた時期に、ラファエロが、ペルージャで受注した作品である。上方を見上げる人物のポーズや表情など、ペルジーノ的な雰囲気をもつ作品であるが、人物の繊細な所作など、細部から全体にいたるまで入念に仕上げられた構図となっている。ペルージャを訪問したユリウスは、聖堂内部に飾られていたラファエロの祭壇画を観たであろうし、その際、ウルビーノ出身の若い芸術家に関心をもったとしてもおかしくない。ウルビーノのラファエロは、同郷の宴を通じ、そして実力を買われて、教皇庁に赴いたのであろう。都市ローマでは・・・15世紀より大規模な都市の再整備と装飾事業が進められており、1503年に教皇位に登ったユリウス二世は、とりわけ大胆な計画を次々と実行に移していた。古代ローマ帝国時代、四世紀に創建された伝承あるサン・ピエトロ大聖堂の改築に着手し、教皇の主要礼拝堂であるシスティーナ礼拝堂の天井画をミケランジェロに依頼し、教皇が居住するヴァティカン宮殿の諸室を新たに装飾させる計画をスタートさせた。かくして、ローマにはイタリア内外の各地から、芸術家たちが集うことになったのである。そもそも、地元の貴族が、世襲で国家を統治する他国とは異なり、教皇庁の首長である教皇は、西欧キリスト教世界の各地域から輩出された枢機卿のなかから、選挙で選ばれる習わしであった。そのため、ローマは国際都市の様相を呈し、地元出身の芸術家以外でも仕事にありつける機会は、他都市とくらべ存分に開かれていたといえよう。ローマでラファエロは・・・ヴァティカン宮殿のスタンツェ教皇居室「署名の間」装飾に1509年より本格的に従事し、その出来栄えが認められ、隣接する居室「ヘリオドロスの間」や、教皇およびその側近たちから次々と注文を受けていくことになる。ユリウス二世の次に教皇の位に登った教皇レオ10世(在位:1513年〜21年)は、イル・マニーフィコ豪華王と通称されたロレンツォ・デ・メディチの次男にあたり、華やかで享楽的な宮廷文化を愛した。その趣味は、ラファエロとも合致し、彼は画家としての仕事にとどまらない、多岐にわたる分野の職務にあたるようになる。建築分野では、他界したブラマンテの後任として、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家を担い、ローマ市内外の高位聖職者や貴族が所有する邸宅の設計にも従事する。また、古代遺物の監察官の位にも就き、遺跡の視察も行った。公的で大規模な仕事をもつという、ラファエロが抱いた野心は、ローマで実現したのである(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.20
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19歳のラファエロが故郷ウルビーノからフィレンツェへ移動する時の怪しい「紹介状」を見てみましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』(美しき女庭師)1507年板に油彩 122.0cmx80.0cm(フィレンツェ時代の作品)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメンで、謙虚で礼儀正しく、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロのフィレンツェへの移動と関連する史料として、従来は、ラファエロが携えていたとされる「紹介状」が、常に引き合いにされてきた。「紹介状」・・・内容とは?グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(ウルビーノ公)の姉:ジョヴァンナ・フェルトリア(1463年〜1514年)から、フィレンツェ共和国の終身国家主席:ピエロ・ソデリーニへ宛てた、1504年10月1日付の書簡である。その文面は、次のような、画家に便宜をはかるよう依頼するものだ。本状を持参する者は、ウルビーノの画家ラファエロです。この者は、その職の才能に恵まれ、修行のため一定期間フィレンツェに滞在することを決めました。知るところでは、彼の父親は、たいへん優れており、大切な人物です。同じく息子も謙虚で礼儀正しい若者です。あらゆる点で、この者をこの上なく好ましく思い、善き完遂へと到達することを望んでおります。そのため、長官閣下に率直に、心より出来得る限りのお願いとして申し上げます。必要な折には彼に手助けと便宜を何卒お計らいくださいますように。閣下から受け取るご配慮と厚意すべては私自身へのものと受け止め、お願い申し上げたことを有難く受け取る所存でございます。( J.Shearman,Raphael in Early Madern Sources(1483-1602),New Haven and London,2003より拙訳)しかし、注意すべきは、この文書は、18世紀の一研究者によって引用されたものの、その後所在が不明となり、現在では検分が不可能となっている点だ。また、すでに他界している父:サンティについて、現在形を用いて説明している(「彼の父親はたいへん優れており、大切な人物です」)ことから、信憑性に疑問符がつけられるようになった。つまり、ラファエロが1504年にフィレンツェにやってきたという、推測される歴史的出来事を支持するために、捏造された史料ではないかという議論があるのである。確実に言えるのは・・・ラファエロは、1504年〜08年までフィレンツェには滞在していたが、故郷ウルビーノ、そしてペルージャにも、仕事の都合でたびたび顔を出しており、さらに、古代美術の知見を深めるためローマにも足を延ばしているということである。記録上、ラファエロは、1505年〜07年まで、毎年一度は、ウルビーノに留まっていたことが確認され、1505年には、少なくとも二度、作品制作の関係で、ペルージャを訪問している。この間、紹介状の宛先であったフィレンツェ共和国政府が、ラファエロに接触し、仕事を注文した。という事実は確認されていない!そのため、近年では、紹介状の資料としての真正性を否定、あるいは慎重な立場をとる研究者が多い。共和国政府は、公的モニュメントの制作を企画するなど、芸術パトロンとしての重要な役割ももっていた。ラファエロもおそらく、そうした大規模な装飾事業を請け負うような画家となることを目指していたのだろう。だが、フィレンツェでは、あくまで他の地域出身の新参者、貴族など富裕層からのプライヴェイトな作品受注を中心に活動することとなった。彼の名声の一部をなす、優雅な聖母子の代表作の一部は、この時期・・・1505年〜07年に制作されたものだ。フィレンツェで、ラファエロの活動を切り拓く重要なパトロンとなったと思われるのは、裕福な商人:タッデオ・タッディ(1470年〜1529年)である。1508年、タッディがウルビーノに滞在する際、ラファエロは伯父の書簡のなかで、彼を歓待するようにと伝えていることから、良好な間柄がうかがえる。ヴァザーリによると、ラファエロは、タッディのために二点の聖母子画を制作し、両作品の間には様式の変化が見られる、とされる。フィレンツェにおける作風の飛躍を示すエピソードと言えるだろう。初の公の注文となったのは、『天蓋の聖母』と呼ばれる祭壇画である。この祭壇画は、サント・スピリト聖堂ディ礼拝堂のために注文された作品だが、ラファエロは、未完のまま残すことになった。1508年の秋、教皇の治める教会国家、ローマへと活動拠点を移すことになったからである。1520年4月に他界するまで、彼はこの地に留まることとなる。なお、この間レオナルドは、拠点としていたフィレンツェを1506年には去っている。その年、フランス人総督が支配するミラノへと再び赴き、1513年には、ローマへ移動し、ラファエロと再会したと思われる。1516年には、フランス王フランソワ一世に請われてアンボワーズへ赴き、その地で1519年に他界した。一方、ミケランジェロは、1508年初夏から、1512年秋までは、ローマにてシスティーナ礼拝堂天井画装飾に従事するが、1513年、新教皇レオ10世からフィレンツェでの仕事を任命されると、フィレンツェに戻った。その間も、しばしばローマや他の都市に赴き、ラファエロとローマ滞在時期が重なることは多かった。ミケランジェロの最期の地もやはり、ローマで、1564年、88歳にて他界した。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.19
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ラファエロがフィレンツェに行ったのは21歳、その時ミケランジェロは29歳、レオナルドは52歳でありますラファエロは・・・マルケ・ウンブリア地方で、ある程度の評価を得ていたが、より大きな成功を求め、出身地を離れる。あこがれの地は・・・マルケからアペニン山脈を超えた西方に位置するトスカーナ地方の都市、フィレンツェであるウルビーノは、洗練されてはいたが、結局は山間の小都市なので、より大型の注文を獲得し、活動の場を広げるために、文芸活動の一層盛んな地へ、眼差しが向けられたのである。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロ・ブオナローティとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロ憧れの地フィレンツェへ彼が親方として活躍しはじめていた1500年、フィレンツェでは・・・芸術文化の新たな動きがまさに起こりつつあった。この年、ミラノ公国に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)が、フィレンツェへと活動の場を移したのである。前年、フランス王ルイ12世率いる軍勢が、北イタリアに侵攻し、ミラノ公爵ルドヴィコ・スフォルツァが追放されたため、より政権の安定した故郷へと戻ってきた格好である。当時のフィレンツェは・・・メディチケが追放され、共和体制が敷かれていた。同時期、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475年〜1564年)もまた、フィレンツェを拠点に制作活動を行なっていた。フィレンツェは・・・15世紀初頭に貴族や富裕な商人のもと、絵画・彫刻・建築の諸分野において、清新なルネサンス文化の黎明期を迎えた。15世紀前半には、建築家・美術理論家であるレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404年〜72年)が、『絵画論』を執筆し、三次元的な奥行のある空間表現の理論を明文化した。絵画を一つの「開かれた窓」として表現するというその絵画論は、多くの芸術家たちによって実践に移され浸透していった。さらには、解剖学的な知識に裏打ちされた人体表現に工夫が凝らされるなど、その芸術土壌は、マルケ・ウンブリア地方とは異なっていた。レオナルドとミケランジェロは、ともにトスカーナの出身で、当時からその腕前の評判が、フィレンツェ内外に広まっていたのである。ヴァザーリの伝記でも、ラファエロはこの二人の名に惹かれて、それまでの仕事で得ていた利得をかえりみず、フィレンツエへ赴いた、とされている。ラファエロが懇意にしていたペルジーノも、1502年10月から拠点をペルージャからフィレンツェへ移していた。さらにペルジーノは、レオナルドの師匠にあたるフィレンツェの画家・彫刻家:アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435年頃〜88年)と親交があった。こうした伝手を通じ、現地の画家コミュニティと交流をもちはじめたと考えられるだろう。ラファエロが、フィレンツェに赴き、本格的に同地の芸術の薫陶を受け始めたのは、1504年頃と考えられてきた。この頃、フィレンツェのレオナルドや、ミケランジェロの作品を学んだ痕跡が作品に明確に見られるからである。ヴァザーリの記述によると、フィレンツェでラファエロは・・・リドルフォ・ギルランダイオ、アリストーテレ・ダ・サンガッロ、フラ・バルトロメオといった芸術家たちととくに友誼を結んだとされている。一方、ミケランジェロと、レオナルド・ダ・ヴィンチとの関係については、両者の作品がラファエロに決定的な影響を与え、ペルジーノ風のスタイルから脱却する契機となったことは強調されているものの、直接的な交友関係が、どのようなものであったか、明確には記されていない。だが、数々の作品は、多くの接点を裏付けている。1504年の時点で、ラファエロは・・・21歳、ミケランジェロは・・・29歳、レオナルドは・・・52歳である。両芸術家の作品との具体的な関わりについては、またのちに語りたいと思います。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.18
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ラファエロはなんと〜19歳で大壁画の下絵を任されていたことがわかっておりますラファエロは・・・はじめウルビーノの父の工房関係者に習い、やがてウルビーノ以外で、多数の注文制作をこなしていたペルジーノにも学び、作風を取り入れたいったのだろう?そうするなかで、制作のプロセスや芸術家コミュニティとのコネクションも獲得していったと思われる。ラファエロ・サンティRaffaello Santi黒い帽子の青年1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロは19歳で下絵を任された!若い頃のラファエロと接点があった別の画家として挙げられるのが、ベルナルディーノ・ピントゥリッキオ(あるいは、ピントリッキオ1454年頃〜1513年)である。ペルージャ出身のピントリッキオは、1502年6月、トスカーナ地方のシエナ大聖堂内ピッコローミニ図書館の壁画装飾を、同地の貴族フランチェスコ・ピッコローミニ枢機卿(1503年、一ヶ月間のみ教皇ピウス三世)から依頼された。壁画主題は、先代の当主エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ(教皇ピウス二世、在位1456年〜64年)の生涯である。大型壁面のための構図を準備するにあたり、ピントゥリッキオは・・・当時体調が万全でなかったことも関係してか?ラファエロに一部の下絵を依頼した。この下絵を依頼する、という行為は、ラファエロが画家として、期待と信頼を得ていたことを意味している。下絵は・・・壁画にとどまらず、絵画の構図を決めるために準備され、作品制作のプロセスの貴重な一部であった。スケッチや下絵は・・・制作の段階に応じ、構想を描きとめるラフなスケッチや、ポーズをとったモデルを目の前にしたデッサン、背景なども含めた画面全体の構成など、要素は実に多様な目的で描かれた。構図全体が決定すれば、原寸大の下絵(イタリアではカルトーネと呼ばれる)が用意され、その裏面は木炭などで黒く塗られた。この原寸大下絵を絵画を描く画面(板や壁面など)に重ね、主要な輪郭線を金属の尖筆(せんぴつ)などでなぞると、構図が転写されるわけである。シエナの装飾において、中堅画家が、19歳のラファエロに下絵を任せたことは、若年ながら彼が、全壁面の下絵を準備したと述べているが、ラファエロの手になると思われる原寸大下絵は、現在三点が残るばかりである。そのうちの一点、『バーゼル公会議へ出立するエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ』は、素描の画面前景(つまり、手前)では、二人の馬に乗る人物がおり、その奥では、お供の者たちが列をなしていることがわかる。そして中景では、幾艘もの船の浮かぶ水辺が見え、さらに遠方には、陸地があることが確認できる。中央の馬に乗る人物が、後ろ向きで振り返っていることから、見る者は画面の手前から奥へと、空間上の広がりを感じることができるだろう。壁面を素描と比べてみると・・・人物のポーズや服装、背景の変化が加えられ、画面右下には、犬が新たに描かれたりと、変更があるとわかる。ラファエロは、別の仕事に従事していた関係で、この素描を壁面制作地であるシエナではなく、ペルージャで制作していたと見られ、最終的な壁面の細部の決定は、あくまで、ピントゥリッキオにゆだねられていたのである。いずれにせよ、残された素描の描写からは、ラファエロが、大画面にて多数の人物を構成する技量をもちあわせていたことがうかがえる。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.17
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ラファエロは若い頃から工房に入り徒弟期間を終えて17歳には親方としてすでに一人前でありました若きラファエロが影響を受けた画家とは?ラファエロの画家としての活動を示す最初の記録は、1500年(17歳)の時点のものである。この年、彼は祭壇画の制作を受注しており、契約文書では、「親方(magister)」という肩書きが添えられ、すでに一人前の画家となっていたことが裏付けられる。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロの記録の残る祭壇画は・・・神によって冠を授かる聖人、トレンティーノの聖ニコラウスを描いたものである。この祭壇画は、ある羊毛商人からの注文で、マルケ地方の西方、ウンブリア地方の小都市チッタ・ディ・カステッロにある聖堂へ設置されていた。聖堂は、18世紀後半に地震の被害に見舞われ、ラファエロによる祭壇画もまた、残念ながら破損してしまった。現在では、祭壇画の断片が、イタリア内外の三つの美術館に所蔵されている。ブレーシャの「トレジオ・マルティネンゴ絵画館」に所蔵される板絵には、天使の胸像が描かれ、柔らかな雰囲気、カールした毛髪の繊細な描写など、ラファエロの代名詞とも言える優美なタッチがすでに特徴的である。こうした穏やかで、甘い雰囲気のただよう画風は、当時のマルケ・ウンブリア地方の様式に属するものであり、17歳の段階で、同時に様式を高いレベルで習得していたことがうかがえる。当時、彼は父親のほかには、どのような画家たちから影響を受けたのだろうか?そこで注目されるのが、若い頃のラファエロの周囲にいた画家たちの関係である。ルネサンス時代の芸術家の活動を知る基本書としては、ジョルジョ・ヴァザーリ(1511〜74年)の「美術家列伝」が知られている。トスカーナ地方、アレッツォ出身の画家・建築家であるヴァザーリは、14世紀〜16世紀までの芸術家の伝記を執筆した、初の「美術史家」の顔も持つ。伝記のほとんどは、イタリアで活躍した芸術家である。初版が1550年に、その後加筆修正を経て第二版が1568年に出版された。事実誤認が含まれる箇所もあるが、芸術家に関する多くの貴重な証言が見られる。ヴァザーリの「ラファエロ・ダ・ウルビーノ伝」によれば、ラファエロの師匠は、画家:ペルジーノとなる。ウンブリア地方、ペルージャを拠点に活躍した画家:ペルジーノ(本名:ピエトロ・ヴァンヌッチ、1450頃〜1523年)は、当時のマルケ・ウンブリア地方では、随一の大規模な工房経営で知られていた。ヴァザーリの伝記では・・・息子の非凡な才能に気づいた父:ジョヴァンニが、ペルジーノに直談判して、ラファエロを弟子にとるよう頼んだ、とまことしやかに記されている。しかし、このエピソードの史料的な裏付けは、確認されていない。ただ、ラファエロがペルジーノに学んだことは、初期の絵画作品に、構図や様式が非常に似通った要素が多くあるため、疑いようがない。たとえば、ラファエロが1502年〜03年に描いた『キリストの磔刑図』を見てみよう。構図の左下には、十字架上のキリストを仰ぎ見る聖ヒエロニムスが描かれているが、その服装やポーズは、ペルジーノが1500年頃に描いた『テーツィ祭壇画』と呼ばれる作品のやはり左下に配置された聖ヒエロニムスとまさに同じだとわかる。とりわけ類似が顕著な比較例としては、聖母マリアの婚約場面を描いた作品が挙げられる。1504年に制作されたラファエロ作『マリアの結婚』(画像検索:ラファエロ「聖母の結婚」)では、「MDIIII」(1504)というローマ数字が、背景の神殿正面に描き込まれているため、この年が完成年とみなされている。画面中央手前には、ユダヤの祭司を仲介に、ヨセフが、マリアの指に指輪を嵌めようとしており、婚約を交わす場面が描かれている。マリアの婚約のエピソードは、聖書には登場せず、中世に成立した「マリア伝」を題材とした場面である。マリアの夫となるヨセフの背後には、棒のようなものを手にした若者たちが並んでいるが、彼らは、手にした杖から花が芽吹いた者がマリアの真の婚約者となる、という神のお告げに従い集まった候補者である。背景にそびえたつ建築物は、説話の舞台であるエルサレムの神殿を連想させる。これと同じ主題を、ペルジーノもまた描いている。(画像検索:ペルジーノ「聖母の結婚」)両作品を比較してみると、広場に建つ巨大な建築物、手前にいる横並びの人々など、構図がきわめて似通っていることがわかる。この類似性こそが、ラファエロがペルジーノと近しい関係にあった証であるというわけである。ペルジーノの作品は・・・1499年4月に受注したもので、聖母マリアと聖ヨセフに捧げられたペルージャ大聖堂の祭壇画として制作された。作品は、1503年12月の時点で、まだ完成していなかったことが確認されているが、1504年の間には、完成していたと思われる。一方、ラファエロの作品は、ある商人からの依頼で、前述したチッタ・ディ・カステッロのサンフランチェスコ聖堂へ設置され流作品だった。ペルジーノの作品は、ラファエロに先行するとみて疑いなく、ラファエロは、ペルジーノの主題と構図を、おそらく彼のアトリエに出入りするなどして知っていたと考えられる。あるいは、ペルジーノに似た構図は、注文者からの希望であった可能性もありえるだろう。とはいえ、両作品には共通点とともに、多くの差も見られる。ペルジーノの構図では、祭司を中心に左右に並ぶマリアとヨセフが、足の位置や頭部の傾きまで、明確に左右対称となり、それぞれの背後には、人物たちがやはり並行に並んでいる。それに対し、ラファエロの構図では、マリアとヨセフの手首を優しげに持つ祭司は、わずかに体を右方へ傾け、婚約者たちの姿勢にもヴァリエーションが付けられているため、穏やかで立体的な空間が、中央の人物群を中心に生まれ、背後の人々へと広がっているように見える。また、ペルジーノの画面では、巨大過ぎて収まらなかった神殿が、ラファエロの作品では、整合性をもって画面の枠内に収められており、広々とした背景の空間の展開が見られているのである。完成する以前のペルジーノの構図をラファエロが知りえたことを考えると、両者の関係が近いことは確かだ。しかし、二人が制度上の師弟関係にあったのか?実のところわからない。ラファエロが、ペルジーノの工房に正式に加入していたという記録は欠如しており、また、作品の構図の類似だけは、師弟関係の確定には、必ずしもつながらない。というのも、当時の美術作品で描かれるキリスト教の主題は、長い時間をかけて築き上げられた図像伝統に依拠して表現することが一般的であり、先達の構図を模写したり繰り返し用いたりすることは、そう珍しくはなかった。ラファエロは、参照元そっくりにそのままのかたちで、自身の作品に構図やモティーフを取り入れることを、ラファエロは、ペルジーノにとどまらず、他の芸術家に学ぶ過程でも頻繁に行なっている。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.08.16
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ラファエロはどんな環境で育ったのでしょうか?〜幼少期の彼についても詳しく知りたいですね「ラファエロの初めの師は、 父ジョヴァンニ・サンティと マルケの風景であった」・・・美術史家:オスカー・フィッシュは、このような一文で、彼の初期の活動について切り出す。若き日のラファエロが置かれていた環境を示す、端的な一文である。ラファエロ・サンティRaffaello Santi最晩年(左=36歳の時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロの誕生と幼少期ルネサンス時代のイタリア画家に限らず、芸術家を語る際には、多くの場合、地域的な環境が前提として重要となる。地域ごとに特徴的な様式が根付き、そこから画家の個性が育まれていくためである。ラファエロは・・・イタリア中部に位置するマルケ地方の都市「ウルビーノ」に生まれた。標高485mの山間に位置する、この小都市は、緑豊かな田園に囲まれた、風光明媚な風土である。ウルビーノは・・・15世紀中頃より、モンテフォルトロ家に統治された公国で、公爵一族の住まうドゥカーレ宮殿が、城壁に囲まれた都市の中心にそびえ建つ。ラファエロの父は・・・この公爵家に仕えた文人画家:ジョヴァンニ・サンティ(1440頃〜94年)を父に、1483年4月6日に誕生した。母親は、マジア・ディ・バッティスタ・チャルラというウルビーノの女性で、ラファエロの前に、男児と女児を一人ずつ出産していたが、いずれも幼年で死去していた。ウルビーノ公国の地位は・・・傭兵隊長として武勲が知られたフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ三世、(1422〜82年)が他界すると、嫡男グイドバルド(1472〜1508年)が後継を担う。ラファエロが生まれたのは・・・侯爵が交代した時期、フェデリコの死から一年後にあたった。ラファエロの父:ジョヴァンニが仕えたウルビーノの宮殿では、小規模ながら洗練された文化が展開していた。絵画の分野では・・・ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1416/7~92年)のような、イタリア出身の画家だけでなく、アルプス以北からも、芸術家が招かれ活動していた。宮殿の画家による絵画では、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロと、幼いグイドバルドが描かれている。ガウンの下に甲冑を身に着けたまま書物を読むフェデリコの姿には、軍人ながら教養を備えた、知的な君主のイメージが反映されている。父:ジョヴァンニ・サンティもまた、宮殿に仕えた画家であったが、後世に評価されているのは文人としての功績であり、代表作は、公爵フェデリコの業績を記念する「韻文年代記」である。父親の職業を考えると・・・ラファエロは幼い頃から宮殿文化に接する機会に恵まれていたと見るのが自然だろう。ちなみに、ラファエロの出生時の苗字は、サンティ(Santi)だが、のちに人文主義的趣向から、ラテン語風にサンツィオ(Sanzio)と署名するようになる。今日、一般的にラファエロ・「サンツィオ」と表記するのは、本名ではなく署名にちなんでいるわけだ。ラファエロの生家は・・・現在もウルビーノ市内に残され、美術館として一般に公開されている。画材を扱ったと思しき場所や、幼少の頃のラファエロが描いたのではないかといわれる壁画が残されている。サンティ家は・・・急な坂道に面しているのだが、その坂を下り、しばらく道を進むと、ドゥカーレ宮殿の広場に数分でたどりつく距離である。父:ジョヴァンニが、幼いラファエロの手を引いて、宮殿まで連れて行ったこともあったかもしれない?いずれにせよ、ラファエロは両親と、そう長い時間を過ごすことはできなかった。ラファエロの生母マジアは、1491年、ラファエロの8歳の時に他界、ジョヴァンニは後妻として、ベルナルディーナ・ディ・バルデを娶り、エリザベッタという女児を授かる。しかし、ジョヴァンニ自身もまた1494年に死去し、まだ11歳だったラファエロの後見は、以降、母方の伯父が担う。幼少の頃から、絵画の才覚に恵まれていたと言われるラファエロが、父と同じ画家の職業へ進んだことは、そう不思議ではないだろう。当時、絵や彫刻の専門職になるためには、工房に入るのが一般的だった。親方のもとに若年のうちから弟子入りし、画材の準備などの下働きを通じて徒弟・見習いとなるシステムである。そして、絵画術の基礎を身につけた後は、親方の制作の一部を手伝い、徒弟期間を終えれば、独立して自身が親方になる道も開けた。修行時代のラファエロについては・・・史料が乏しく不明な部分が多い。だが、幼年期に画家でもあった父:ジョヴァンニから直接手ほどきを受けたと考えられるだろう。父の死後は、ジョヴァンニの工房で助手を務めていた、エヴァンジェリスタ・ダ・ピアン・ディ・メレートという画家に学んだと推測されている。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.15
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ラファエロが活躍した頃のイタリア国内は、いわば戦国時代でありましたそこで花開いたルネサンスの芸術家とはラファエロ・サンティRaffaello Santi左=黒い帽子のラファエロ(28歳)白いベレー=仕事仲間のソドマ1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロが活躍した時代背景を知るラファエロ・サンティが活躍した15世紀末〜16世紀のイタリアは、どんな状況だったのでしょうか・・・?欧州の一国で、地中海に突き出した長靴の形をした半島全体を占める国として知られているが、それは、19世紀に成立した「イタリア共和国」のイメージ。15世紀当時のイタリアと言えば・・・もっぱら半島の地理的な名称で、いまだ統一された国家ではなかった。各地域に、さまざまな都市国家が成立する、「戦国時代」のようであった。15世紀イタリア半島の代表的な国は?北部=ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、中部=フィレンツェ共和国中南部=ローマ教皇領南部=ナポリ王国。中南部の教皇の治めるローマ教皇領は、カトリック教会のトップにあたる教皇は、宗教上の権威であるとともに、周辺諸国と領土争いをする、世俗君主でもあった。南部のナポリは、中世よりフランスや神聖ローマ帝国など、アルプス以北の君主が立ち代わりつつ権力を握る状況であった。イタリア半島の各国は・・・領土争いから衝突していたが、15世紀中頃には、各国間で和約が締結され、勢力均衡がはかられる。しかし、1494年、アルプスの北から、フランス王シャルル8世が、ナポリ王国の皇位継承権を主張して、イタリアに侵攻、和平状態は破られた。各国は、スペイン、神聖ローマ帝国などと同盟してフランスを敗退に追い込んだが、以降、イタリア半島の君主たちにとって、諸外国をも視野に含めた外交が一層の課題となっていく。フランスの侵攻を機に、政体が変化した都市の一つは、フィレンツェである。芸術都市としてもよく知られていたフィレンツェは、伝統的に共和制をとっていたが、15世紀前半からは、メディチ家による寡頭体制が敷かれていた。シャルル8世侵攻時、有力な政治家であり、芸術のパトロンとしても高明なイル・マニーフィコ「豪華王」ロレンツォ・デ・メディチ(1449-92年)は、すでに他界しており、ロレンツォの長男、ピエロ・デ・メディチ(1472-1503年)が、フィレンツェの統治者となっていた。しかし、ピエロは・・・フランスに有力な盟約を結んだことからフィレンツェ市民の反感と怒りを買い、メディチ家は、追放処分を下される。その後、ドメニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラによる短期的な親権政治体制(1494-98年)を経て、1502年には、ピエロ・ソデリーニを就寝国家主席とする共和制が樹立される。この頃、教皇庁では、スペインのバレンシア出身のアレクサンデル6世(在位1492-2503年)が、教皇の位にあった。教皇は、息子であるチューザレ・ボルジアを教皇軍司令官に任命し、イタリア中北部のロマーニャ地方へと侵攻、領土の拡大を図った。教会の規約では、教皇はじめ聖職者の妻帯は禁じられていたが、ルネサンス時代の教皇は、なかば公然と子息をもうけ、甥という名目で要職につけることも度々見られた。1503年、アレクサンデル6世の死後は、ごく短期間のみ教皇位にあたったピウス三世の次に、教皇ユリウス二世(在位:1503-13年)が登位する。ユリウスは、教皇領を拡大する軍事キャンペーンを引き継ぎ、時には自らも戦地へ赴いた。こうした政治的な変遷の裏側で、イタリア諸都市では、芸術活動が華々しく展開する。貴族や、同業組合、教会がパトロンとなり、都市の美観を整えたり、聖俗の建築内外を彩るための作品が制作されていく。文化芸術の推進は、当時の人々にとっては、単に美しいものを愛好すること以上の重要な意味を持っていた。その都度の文脈の違いはあれど、一人の人間よりもはるかに長い生命をもつ美術作品は、ときにさまざまなメッセージや、役割が付与されていたのである。一族や都市の繁栄、権威の称揚、あるいは宗教的、哲学的な理念の反映・・・過去の美術作品を鑑賞することは、当時の歴史・思想的背景を視野に入れつつ、作品がいかに成立し、また、芸術家がどのように作品を作りあがたかを考えることへとつながっていくと言えよう。ルネサンス時代の芸術家は、そうした注文者側の意向を汲んで実現する、職人的な側面があった。しかし、徹頭徹尾、註文者の言いなりになっていたわけでもなく、芸術家自身の個性をいくばくか作品に反映させることが、ある程度は許容される状況でもあった。かくして、個性に富んだ多くの芸術家たちが、各地で活躍していく。ラファエロが誕生したのは、このような時代だったのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロにぽち
2022.08.14
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ラファエロほど良く知られた名前でありながら、実のところどのような画家なのか?あまり知られていない人も珍しいラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』(玉冠の聖母)1511年 板に油彩 68.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ルネサンスの三大巨匠の一人、ということは知っていても、レオナルド・ダ・ヴィンチの・・・レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)レオナルドの『ラ・ジョコンダ』やミケランジェロの『ダヴィデ像』のように、ああ、ああれね!とすぐに、ラファエロの特定の作品を思い浮かべる事のできる人はそう多くない商品デザインや、Tシャツの絵柄、いたるところに使われているスマホに聖母子像や天使の図像が、ラファエロのものであることを指摘されて、ああ、ああれね!初めて多くの人が、彼の作品に日ごろから親しんでいることに気がつく。この現象には・・・はっきりとした理由がある。短期間に終わったルネサンス最盛期において、彼は、最も成功をおさめた芸術家となった。そのわずか37年という短い一生の間に、彼は、めまぐるしく変わるルネサンス美術の頂点まで辿り着き、膨大なプロジェクトをこなしつつ、多くの人々に愛されながら、一瞬の風のように去っていった。当時の誰もが、彼を偉大な画家として信じており、ルネサンス様式の完成者とみなしていた。こうした共通認識は、ルネサンスが、ラファエロの死と共に去った後も変わることがなかった。彼の原画をもとに制作された大量の版画が、彼の様式を全ヨーロッパに広め、また、それまで商品価値があるものとはみなされていなかったデッサンさえ、ラファエロのものであれば高額で取引された。いつしか古典主義という言葉は、ラファエロ至上主義と同義語にさえなっていた。やがて、ヨーロッパの社会は、変革の時を迎えた。産業革命の後、中産市民層の発言力が増していくにつれ、絶対君主制国家群は、旧来的な社会構造を維持することがかなわなくなってきていた。社会の窓である美術にも、当然その流れは押し寄せる。それまで、アカデミーが、絶対的な権威として君臨した美術界は、台頭してきた「ロマン主義」によって、徹底的な批判にさらされることとなった。その後の「印象派」や、全欧州的な規模の運動となった「世紀末美術」なども、すべてこの流れの上におきたことである。それまで、数世紀にわたって美の基準(カノン)として奉られてきたラファエロが、アカデミズムの権化として攻撃されたのは、当然の成り行きだった。ラファエロ以前の時代への回帰をうたう「ラファエロ前派」など、その象徴的な例だ。ラファエロの作品は・・・今日も観る者を魅了し、人々に愛されている。時代の潮流から切り離されて、彼の作品が持つ魅力だけで純粋に評価される時代になったおかげである。かつて、絶対的な美のカノンとされたその評価は、まだ、わずかばかり回復をみた程度ではあるが、長い不遇の時代を経て、ラファエロは、ようやく復活の日を迎えている(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:信心往来社・ラファエロの世界より)ラファエロにぽち
2022.08.13
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ラファエロは、八頭身の長身でイケ面なのでとても女性にモテモテだったようですよなになに絵の為とな?ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ラ・フォルナリーナ』1518年〜1519年板に油彩 87.0cmx63.0cm(ローマ時代)ローマ「国立絵画館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi左=黒い帽子のラファエロ(28歳)白いベレー=仕事仲間のソドマ1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』「美術家列伝」の著者:ヴァザーリは、37歳というラファエロの早すぎる死の一因を、過度の女好きにもとめた。事実、ラファエロは、美しい女性を描く為には多くの女性を見なければならない、と、多くの女性と付き合った色男ならではの言葉も残している。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Niccolini-Cowper Madonnaoil on panel,1508『カウバーの聖母』1508年板に油彩 81.0cmx57.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。彼の描く美しい聖母などは・・・そうして複合的に形成されていった美の理想像であったと思われる。彼が描く聖母が皆、美しいながらも、神々しい近寄りがたさを感じさせず、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実在する女性のスケッチを出発点として描かれただろう点に理由がありそうである。女性との付き合いが派手だったという伝説のわりには・・・しかし、特定の人物との交際を裏付ける資料はほとんどない。ラファエロは、パトロンでもあるピッピエーナ枢機卿から、姪のマリア・ピッピエーナを、紹介されて婚約したとされている。しかし、婚礼に至らるうちに、婚約者が1514年に急死。それまで引き延ばしていたのは、本当に愛する人への遠慮のためとも、ヴァザリーが言うように、枢機卿に推される予定があったためとも言われている。つまり、聖職者としての重職に就く可能性があったため、その条件となる生涯童貞(少なくとも表面上では)でいるために結婚を控えたという説である。ともあれ、結局ラファエロはその後も独身のまま一生を終えた。一方、『ラ・フォルナリーナ』では、あたかも描かれた女性が、自分のものだと宣言するかのように、腕輪に「RAFHAEL VRBINAS」との銘記がある。「粉屋の娘」を意味する「ラ・フォルリーナ」と呼ばれるこのモデルに対して、シエナ出身のマルゲリータ・ルーティ(高級娼婦との説あり)の名が挙げられることもあるが、実在の人物かどうかさえ定かではない。しかし、胸に手をあてる仕草は忠実を意味し、花嫁を描くときによく採用されるため、そこから彼女を、ラファエロの“秘めたる花嫁”とする伝説がうまれた。のちに、新古典主義(ずばりラファエロ至上主義にほかならない)のリーダーであるアングルも、この伝説をもとに『ラファエロとフォルナリーナ』と題する作品を描いている。また、『ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)』に描かれた可愛らしい女性は、フォルナリーナと同じ女性と考える説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者:マリア・ピッピーナと考えるむきもある。しかし、それ以上に興味深いのは、ここに描かれているモデルが、『システィーナの聖母(サン・シストの聖母)』のマリアに酷似している点である。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.12
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ヴァチカン宮殿に描かれたフレスコ画「アテネの学堂」には、古代ギリシャの偉人たちがいっぱいラファエロ・サンティRaffaello Santi『友人のいる自画像』1518年カンヴァス 油彩 99.0cmx83.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンテイ(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』美術の教科書では・・・一般的に1520年をもって「ルネサンス」の終わりの年とし、マニエリスムが始まるとしている。もちろん、二つの様式がある年をもって突然交代するわけでもないが、美術史では、便宜上そのように区分されることが多い。では、その年が用いられるのはなぜかといえば、なんのことはない、ラファエロが亡くなった年だからである。たった一人の人物が死亡した年をもって時代区分とするような例は他になく、それだけ、ラファエロが、ルネサンス時代を象徴する存在だったことがわかる。ルネサンスを生み出した都市国家群は、繊維業でたくわえた財を、金融業でさらに倍加させた、欧州経済の一大中心地であった。大商人らが構成するギルド(イタリアではアルト)主導の文化は、それまでにない特色を帯びることになった。つまり、擬似的な共和制体を標榜する彼らは、かつて共和制体が栄華をほこった古代に理想像をもとめ、そこから、古典文化の復興・再生(=ルネサンス)へとつながったのである。しかし、古典復興としてのルネサンスは・・・ひとつの矛盾を内包していた。それは、古典文化が、多神教的な神話世界に拠っていたのに対し、彼らの信仰自体は当然ながら、一神教のキリスト教に限定されていたことである。本来は、相容れない両者を同時にあつかうために、神話世界を聖書世界の中で解釈し直すこと、言い換えれば、両者を無理やり融合させるという命題が生じたのだ。これこそが、ルネサンス文化の本質であり、ラファエロがその体現者とみなされる理由もここにある。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)「ヴァチカン宮殿」署名の間代表作のひとつ『アテネの学堂』において、彼は、遠近法による、ルネサンスならではのシンメトリックな秩序正しい空間を創出し、そこに古代ギリシャの偉人たちを並べた。しかし、たとえば・・・画面中央の立つ「ティマイオス」を脇にかかえた「プラトン」のモデルは、レオナルド・ダ・ヴィンチであり、画面右下で幾何学を講義している「ユークリッド」のモデルは、盛期ルネサンスの建築の第一人者ブラマンテである。ここからうかがえるのは、自分たちは、古典文化の担い手たちに匹敵するという。ラファエロらルネサンス芸術家たちの強烈な自負心である。同作品に描きこまれた二体の巨大な大理石像は、左が、アポロン、右が、ミネルヴァ(アテナ)である。芸術と知識のシンボルでもある彼らは、言うまでもなく、神話の神々であり、つまりは異教の神々である。それが、教皇領の中心に描かれること自体、ルネサンス文化の特質をよくあらわしている、すなわち、この作品は、多神教のベースとした古代文化を、キリスト教の文脈の中に置き直す運動でもあったルネサンス型ネオ・プラトニズムの思想を、わかりやすく視覚化したものなのである。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.11
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ラファエロの遺言で、ローマの「パンテオン」に葬られました【世界遺産】パンテオン1520年4月6日、ラファエロは高熱にうなされた後、静かに息をひきとった。その日は、ちょうど37歳の誕生日だった。その翌日には、亡骸がパンテオンに葬られた。これは彼の遺言によるが、かつて神々の集う場所であり、ルネサンス時代には、一部の限られた高貴な人々のための墓所であったパンテオンに自らを加えようというその自信に驚かされる。しかし彼が、その場所を埋葬地に選んだのは、いにしえの神々の世界と、キリスト教世界との融合をはかった。ルネサンスの申し子ならではの選択でもあったのだろう。その早すぎる死を、多くの人々が悲しんだライヴァルこそいたが、生涯を通じて彼には敵対者らしき者がなく、温和で知的な性格が、いかに人々を魅了していたかをしのばせる。素早く的確なその仕事ぶりも、全欧州的規模で広く知られわたっていた。それまで商品価値などなかったデッサンの類まで、ラファエロのものであれば、コレクションの対象となっていた。ただ、だからこそ、明らかに晩年の仕事量は、常人では対応できない規模にまで膨らんでおり、彼の死期を早める主因となったに違いない。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『友人のいる自画像』1518年カンヴァス 油彩 99.0cmx83.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。死の前年に描かれた36歳『友人のいる自画像』で、画面左端にいるラファエロの顔は、過労の色を隠しきれない。暗闇に浮かぶその顔は、ややむこんでおり、スタンツェに描かれたほんの数年前の自画像ヴァチカン宮殿・署名の間「アテネの学堂」部分右端部分左=黒い帽子のラファエロ(28歳)白いベレー=仕事仲間のソドマ数年前に比べてみても、明らかに生気を失いつつあったことを示している。彼は、その短い生涯からは考えられないほど多くの作品を残した。また、若くして世を去り、さらに生まれた日と同じ日に亡くなったこと、そして、その日が聖金曜日であったことなどから、彼の神格化が始まった。彼を崇拝する人たちは、これらの事柄のうちに神秘性を感じ取り、たとえば、ラファエロの死の瞬間にヴァチカン宮殿の壁にひびが入ったといった伝説までうまれた。今日、ラファエロは、パンテオンの一角に眠る。墓標を飾っている聖母子像は、ラファエロの制作チームの一員だったロレンツェット(ロレンツォ・ロッティ)の作である。隣には、約者だったマリア・ボッビエーナの墓がある。1833年9月におこなわれた調査によれば、ラファエロは八頭身で、身長は、166cm(当時としては長身の部類)。教皇付士官の服を着て眠っていたという。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.10
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ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチらとともに「万能人」のひとりでありますBasilica di San Pietro in Vaticanoラファエロ・サンティRaffaello Santi左=黒い帽子のラファエロ(28歳)白いベレー=仕事仲間のソドマ1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロも、ルネサンス時代に多く見られた「万能人」の一人であり、幅広い分野で才能を発揮した。そのひとつが「建築家」としてのものだが、その最大の仕事が、カトリック世界の中心である「サン・ピエトロ大聖堂」の造営主任としての仕事であった。1514年、それまでの造営主任だったブラマンテ(ラファエロと同郷)が亡くなると、フラ・ジョコンドとともにラファエロが主任に任命された。ラファエロは、親戚にあてた手紙で、これ以上誉れ高い仕事場があるでしょうか、とその喜びを伝えている。彼は、それまでのプランを大幅に変更し、ミサに集まる大衆を収容するのに適した身廊を加えた。ラテン十字のプランへと舵を切った。カルロ・マデルノが完成させ、ベルニーニが装飾を仕上げた現在のサン・ピエトロ大聖堂は、ブラマンテーミケランジェロの集中式派と、ラファエローアントニオ・ダ・サンガッロの身廊派との折衷様式となっている。また、1515年には、教皇レオ十世(メディチ家出身)から「古代遺物監督官」に任命されている。彼は、最初の文化財保護官として、ネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)などの調査をおこない、そこで目にした、余白を多くとって規則的に並べられた特徴的な動植物模様(グロテスク模様)を、レオ十世のロッジャや、ビッビエーナ枢機卿のロジエッタなどですぐさま採用し、一種の流行をよびおこした。ラファエロの建築家としての活動は、最後の7年間にかぎられ、その数も決して多くないが、たとえば、18世紀の新古典主義時代に多くの芸術家が訪れて学んだ「レオ十世のロジャ」のように、その後の建築界に影響を与えた作品もある。そこでは、彼はフランチェスコ・ブルニーニや、ジョヴァンニ・ダ・ウーティネ、ペリン・デル・ヴァーガといった者たちからなるチームを率いて仕事にあたった。ストゥッコ(漆喰)彫刻や、グロステスク模様、だまし絵などでおおわれた構成は、カスティリオーネによって、「私たちの時代に生きる人が創ったもののうち、 最も美しいもの」(イザベッラ・デステにあてた1519年6月の手紙)と称賛されている。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.09
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さぁ~いよいよローマ時代「ヴァチカン宮殿」ラファエロのスタンツェを観てみましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『ボルセーナのミサ』1512年フレスコ 幅660cmヴァチカン宮殿「ヘリオドロスの間」にて、もし、ラファエロが、ローマに来ることがなかったら・・・おそらく、幾多の優れた画家の一人として記憶されるにすぎなかっただろう。美術史に燦然と輝く大壁画連作の機会が与えられたのも、その舞台で、神話世界をキリスト教の文脈のなかでいきいきと創出することに成功したのも、すべては、永遠の都に彼が迎えられたからこそである。彼はそこで、教皇や枢機卿、人文学者や大商人たちから愛された。その素早く的確な仕事ぶりは重宝され、彼のもとに膨大な注文が殺到した。ヴァチカン宮殿のいわゆる「ラファエロのスタンツェ」は、教皇ユリウス二世によって始められた。1503年に即位した彼は、教皇領の拡大につとめた軍人教皇であり、ミケランジェロのパトロンとしても有名である。彼は、ヴァチカン宮殿で、政的だった教皇アレクサンデル六世の肖像を見ないですむようにと、そのひとつ上の階を居室にさだめた。彼が、ラファエロをローマへ招いたのも、すべては四つあるこれら諸間(スタンツェ)の装飾のためであった。わずか25歳で、着任したラファエロが・・・最初に完成させたのは、「署名の間」の壁画である。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿「著名の間」そこでは・・・インギラーミをはじめとした教皇周辺の学者・知識人たちが、ネオ・プラトニズム的思想による図像プログラムを考えたと思われる。この部屋は、もともとユリウス二世の書庫となる予定だったが、壁画の完成後は、法令や勅書などの事案について謁見し、証書に署名する部屋となった。「署名の間」での成功をうけて、ラファエロは、残る三部屋の装飾も続けることになった。「ヘリオドロスの間」に描かれた『ボルセーナのミサ』のひざまずくスイス兵たちを見ると漆喰が乾く前に素早く描きあげる必要のあるフレスコ技法による、これほど緻密で写実性に富み、生命観に溢れた人物描写は他にない。「ラファエロと工房」『ボルゴの火災』1511年〜1514年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿「火災の間」同じ部屋の『ボルゴの火災』では、ミケランジェロによって始められていた「マニエリスム様式」の最初の影響を、はやくも見て取ることができる。画面右端で、水がめを頭上にのせて運ぶ女性や、左中央で壁にはりつく男性からわかることは、ラファエロがすでに、解剖学的に正確なプロポーションへの関心を失い、より弾力的な躍動感を追究すべく変化をみせていることである。しかし他の公務が増えていくにつれて、ラファエロは、実際の壁画制作にかける時間を減らさざるをえず、彼の部屋になるほど、弟子たちが占める割合が多くなっていく。事実、三室目の「火災の間」では、ラファエロの下絵に基づくものの、実際の壁面転写と彩色工程は、ほとんど工房の弟子と協働者たちによって占められている。そのおかげか、ラファエロの工房からは、ジュリオ・ロマーノら、多くの優秀な弟子が育っている。『コンスタンティヌスの間』最後の部屋である「コンスタンティヌスの間」では、この傾向は一層顕著なものとなる。ラファエロの痕跡は、構想と下絵の一部に見いだせる程度で、ほとんどは、ラファエロの死後に弟子たちが、一致してあたった成果である。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.08
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ラファエロは、優美な聖母子像の画家として評価されるようになった理由を知りたいラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』(美しき女庭師)1507年板に油彩 122.0cmx80.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。優美なる聖母子像の画家としてのラファエロの評価は・・・すでに当時からあった。しかし、彼の聖母子像が賞賛された理由は、それらが時に、少女のような幼い聖母の甘い優しさと、幼児キリストの愛くるしさとを有していたからにとどまらない。描かれた人物たちにときに激しいほどの動きをもたせながらも、全体としては、三角形にきれいに収まる幾何学的構図の秩序正しさ。親子間のあたたかく親密な関係を強調しながらも、同時に暗示されるキリストの暗い運命。ラファエロは、レオナルドら先人から多くを学び、それを独自の世界へと昇華させていった。優美さに隠された彼の革新性を、『システィーナの聖母(サン・シストの聖母)』で見てみよう。この作品は、亡くなった教皇ユリウス二世(ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ)を弔うために、北イタリアのピアチェンツァにあるサン・シスト聖堂に飾られたもので、1754年にドイツに運ばれた。注目すべきは、ラファエロのお得意の愛らしくも厳かな聖母子のいる空間が、カーテンレールまでつけられた幕で、一部隠されて点である。また、下方に描かれている二人の天使も、その可愛らしい仕草ばかりが有名だが、頬杖をついているのは、この絵の画枠にほかならない。つまり、カーテンや画枠による高度なだまし絵的効果によって、鑑賞者のいる空間と絵画空間とが連続しているように感じさせる仕掛けがなされている。聖母子は・・・近代以前のヨーロッパの画家たちが、最も多く手がけてきた主題であるが、ラファエロは、その中で特異な位置を占め、聖母子のひとつの理想像とみなされるようになった。その評価が定着していく中で、とくに「版画」がはたした役割は大きい。ラファエロは、マルカントニオ・ライモンディという当代一の版画家と組んで、数多くの版画作品を世に出した。ラファエロの絵画をもとにライモンディが版画におこしたものもあれば、最初から版画の下絵として、ラファエロが提供したものもあった。版画によるイメージの伝播は、作品を直接観た人によるしかないが、版画であれば数多く刷られて、遠方にも影響を及ぼすことができる。ラファエロが、全ヨーロッパ的な尊敬を集めたのは、まさに「版画」の力によると言っても良い。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.07
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17歳で親方になったラファエロは、花の都フィレンツェへ行き2人の偉大な芸術家に出会いますラファエロ・サンティRaffaello Santi『一角獣の貴婦人』1505年〜1506年頃カンヴァスに油彩(板から移行)65.0cmx51.5cm(フィレンツェ時代)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。ラファエロの「フィレンツェ時代」若きラファエロは、フィレンツェで、二人の偉大な先人に出会うという幸運に恵まれた。1500年代初頭、レオナルド・ダ・ヴィンチは、すでに50代の円熟期にあり、30代のミケランジェロは、まさにキャリアのピークを迎えようとしていた。ラファエロは、この貴重な機会を逃さなかった。彼は確実に、レオナルドのほぼすべての作品を見ている。そして貪欲に、巨匠の様式をとり込み始める。たとえば、レオナルド工房で多作された『レダと白鳥』のポーズは、のちの『ガラティアの凱旋』などの原型となる。とりわけ、レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)で打ち出された「四分の三面観」や、手の配置、背後の風景などには衝撃をうけたようで、彼のその後の肖像画は、ほぼすべて、『ラ・ジョコンダ』との共通点を持つまでになった。ミケランジェロは・・・ラファエロがフィレンツェにいた1504年、フィレンツェ政庁からの注文である『ダヴィデ』を完成させている。それをどこに置くかを審議するためだけに、ボッティチェリやレオナルド、ペルジーノらが、召集されたことをみれば、この作品がフィレンツェにとっていかに貴重なものだったかがわかる。ラファエロがこの巨人に無関心でいられるわけもなく。たとえば、ラファエロ・サンティRaffaello Santi『バリオーニの祭壇画』1507年 に描かれた、マリアを下から支えようとしている女性は、ミケランジェロの『トンド・ドーニ』(ウフィツイ美術館)を学んだ結果であり、激しく身を回転させるその動きは、まさに彫刻的である。古代に学んだミケランジェロのエッセンスが、こうしてラファエロにとりこまれていく。ラファエロが古代への憧憬を募らせ、次にローマを目指したのは当然の帰結といえる。この点で、古代彫刻の『三美神』に触れたことは、ラファエロにとって大きな転換点となった。紀元前3~2世紀頃のギリシャのオリジナル彫刻が、ローマ帝国時代の3世紀頃に大理石でコピーされた作品である『三美神』は、1502年、フランチェスコ・ピッコローミニ枢機卿(翌年教皇ピウス三世となる)によって、ローマの邸宅から、シエナ大聖堂の内部に移されていた。シエナの隣国フィレンツェにいたラファエロは、さっそくこの古代彫刻に学んだ。その成果が、『三美神』である。現存するラファエロの最初の俗主題(=聖書を題材としない)作品である『三美神』は、『騎士の夢』と一対をなしていた。三人の美神は、それぞれゆるやかなS字と、コントラポスト(両足をずらして体重をかける古代彫刻ならではのポーズ)をとり、全体的に美しいまとまりを獲得している。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.06
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ラファエロは、ルネサンスの申し子!!どんな環境で育ったのでしょうか?ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ゲオルギウスとドラゴン』1504年~1505年板に油彩 28.0cmx22.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・・・とは?ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没) Raffaello SantiRaffaello Sanzio da Urbinoラファエロ(正しくは、ラファエッロ)・サンツィオ1483年4月6日、イタリア北中部の街ウルビーノで生まれた。丘の上に広がる小さな街は、細くうねった小道がつづく静かな古都で、今日では、大学の街としても知られている。ルネサンス時代には・・・傭兵隊長あがりの人文主義的であったウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロによって、洗練された宮廷文化が花開いていた。ラファエロの父:ジョヴァンニは、画家としても活動しているが、むしろウルビーノ公の功績をまとめた「韻文年代記(クロナカ・リマータ)」の著者として知られる教養人である。父は、ラファエロが、まだ11歳の少年だった時代に亡くなったため、画家として、どの程度の影響を息子に与えたかは定かではない。しかし、画材に囲まれた家庭環境に育ったことと、父が出入りしていた宮廷の洗練された文化に触れたことは、のちのルネサンス芸術家ラファエロを生む土壌となったに違いない。ファザリーによれば、ラファエロはペルージャの画家ペルジーノの工房に、父が亡くなる前に入ったとしている。実際には父の死後、叔父が後見人となってから徒弟修業を始めたのだが、いずれにせよ、11歳か?12歳で工房に入ったことになる。優れた遠近法画家であり、あざやかな色彩による、ウンブリア地方ならではの穏やかで優美な様式を得意としたペルジーノは、おのれの様式の再生産を頑固に繰り返しており、ルネサンスの最新の潮流からは、やや時代遅れなものとなっていた。しかし一方で、徹底的な分業制を敷き、流れ作業や分担によって、効率良く大量注文をこなすペルジーノ工房の運営するにあたってそのまま踏襲することになる。ラファエロはその後、17歳で親方として登録され、(当時の基準からいってもやや早い)、自らの工房をかまえる資格を得た。その4年後に、はやくもフィレンツェへと移住しているが、これはペルージャの美術業界が、依然ペルジーノによる独占状態にあったためと、やはりフィレンツェで、当時最先端の流行を吸収したいという動機によるものだろう。(参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より)(写真撮影:ほしのきらり)ラファエロにぽち
2022.08.05
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いまさらですが、壁画・テンペラ画・フレスコ画・タブローについて知りたいのですフレスコ画『ヴァチカン宮殿』の大型壁画西洋の絵画は・・・建築に付随する壁画と、タブロー(持ち運びできる絵画)に分かれる。壁画は、古代以降、フレスコという技法が用いられた。これは、壁画に漆喰を塗り、それがまだ濡れているうちに水溶性の絵の具で描く技法で、漆喰が乾くとともに絵の具は壁の内側に閉じ込めれるため、歳月が経っても劣化しない。ラファエロと工房ヴァチカン宮殿『ヘリオドロスの間』の天井装飾1511年~1514年 フレスコ 14世紀から、18世紀にかけては、ヨーロッパの中で大規模なフレスコが、大量に制作されたが、そのほとんどは、今なお新鮮な色彩を失っていない。ただ、フレスコを描くには、完璧な下絵(カルトン)を準備する必要があり、それを壁画に転写し、漆喰の乾かぬうちにすばやく描く必要があるため、この技法に習熟するには、長い修行期間を要した。タブロー(持ち運びできる絵)については、古代では、蜜蝋(エンコースティック)で、板に描く技法が用いられた。中世からルネサンスまでは、テンペラによる板絵が流行した。テンペラは、卵を媒材とする絵の具で、板には、膠(にかわ)と石膏で作った下地を施した。乾きが速いために、ぼかしの技法には不向きであった。15世紀にフランドルで発明された油彩は、何度も塗り重ねることが可能で、緻密な表現や明暗表現に適していた。イタリアでは・・・16世紀から油彩が主流となり、板ではなく、カンヴァスに描かれるようになった。カンヴァスは・・・板のように彎曲(わんきょく)やひび割れをせず、軽くて持ち運びにも便利であったため、今日まで広く用いられている。とくに16世紀のヴェネツィアでは、カンヴァスと油彩による大規模な壁画が量産された。(参考文献:幻冬舎・ルネサンス絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)ルネサンスにぽち
2022.08.04
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そもそもルネサンスって何だったのでしょう~ちょっともう一度イメージを確認ですルネサンス・・・とは?14世紀~15世紀にフィレンツェを中心に興った思想・文学・美術上の古代復興運動のこと。西洋史では・・・これをもって近代の始まりとされる。美術史では・・・14世紀までが「ゴシック」「ルネサンス」は、15世紀~16世紀にかけてのイタリア美術を指し、15世紀を「初期ルネサンス」16世紀初頭を「盛期ルネサンス」1530年頃以降を「後期ルネサンス」とする。それぞれ、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアが中心地であった。ルネサンスは「近代のはじまり」であり、中世と近代の分岐点にあたるといわれる。じつは、イタリアでは・・・「ルネサンス」という言葉は、ほとんど使われていません!ルネサンスにあたる「リナッシメント」という言葉はあるのですが、それもほとんど聞かれず、「15世紀」とか、「16世紀」と記述するだけなのです。えええ・・・・っ!ルネサンスは無かった?いやいや~そんなはずは、ドキドキしてきましたが・・・そもそも、「ルネサンス」という言葉は・・・19世紀半ばに、フランスの歴史家:ミシュレが用い、そのすぐあとに、スイスの歴史家:ブルクハルトが、「人間と世界の発見の時代」であるとして大々的に強調したもの。ですから、ルネサンスの本場、イタリアで作られたものでは無かったのです。19世紀の歴史家が・・・ヨーロッパの歴史を理想化し、その栄光と優位性を確認するために人為的に作った概念だったのです。フランス語で「再生」を意味する「ルネサンス」は・・・文芸復興と訳されます。中世の暗黒時代を脱して、古代の偉大な文明が復興したいということであり、当時の一部のイタリア人は、たしかに古代ローマの栄光に目を向け、その文化を再興しようとしていました。その自分たちが、古代の再生の時代にいると確認していました。しかし、中世は決して暗黒ではなく、古代の文明が、忘れ去られたわけでもありません!古代復興運動は・・・9世紀にも12世紀にも見られました。前者は、カール大帝によって推進されたもので、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれます。また、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)では、千年にわたって古代文化が、しっかり温存されており、ヨーロッパ全体から見れば、古代の文明が忘れられたことなど一度もありませんでした。さらに、中近東やスペインのイスラーム圏では、アリストテレスの哲学や、ユークリッド幾何学をはじめとする古代の文化が着実に継承され、研究されていたのです。(参考文献:幻冬舎・知識ゼロからのルネサンス絵画より)(写真撮影:ほしのきらり)ルネサンスにぽち
2022.08.03
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ラファエロ・サンティは、ルネッサンス三大巨匠のひとりですが~ザックリ年譜でイメージをラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』(美しき女庭師)1507年板に油彩 122.0cmx80.0cmラファエロ(フィレンツェ時代の作品)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi左=黒い帽子のラファエロ(28歳)白いベレー=仕事仲間のソドマ1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロ年譜(ウルビーノ時代)1483年4月6日(0歳)、ウルビーノに生まれる。父は、画家のジョヴァンニ・サンディ、母は、マジーア・ディ・パッティスタ・チャルラ。1491年(8歳)、母死去。ペルジーノに弟子入り。1494年(11歳)、父死去。母方の叔父が後見人となり、ラファエロも共同経営権を得るが、実際には、父の工房は筆頭弟子のエヴァンジェリスタ・ダ・メレートが継ぐ、この頃からペルジーノの工房で徒弟奉公を開始。(ペルージャ時代)1494年、レオナルド・ダ・ヴィンチが『最後の晩餐』を完成。フィレンツエで共和政府がスタート。1499年(16歳)、この頃、最初の単独作『三位一体の行進旗』制作。1500年(17歳)、親方として登録される。12月10日、『聖ニッコロ・ダ・トレティーノの祭壇画』受注契約(ビアン・ディ・メレートとの連名)1503年(20歳)、ペルージャの有力家系オッディ家から注文を受ける。(『オッディの祭壇画』)レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアーニの戦い』に着手。のちにミケランジェロとの世紀の対決に発展。(フィレンツェ時代)1504年(21歳)、このころフィレンツェに居を移す。『マリアの結婚』を制作。ミケランジェロが『ダヴィデ』を完成。設置委員会レオナルドやボッティチェリ、ペルジーノなどが参集。1505年(22歳)、このころに『三美神』『騎士の夢』を完成。1506年(23歳)、フィレンツェの大商人たちから評価を得る。1507年(24歳)、『バリオーニの祭壇画』での試行錯誤。『美しき女庭師』制作。(ローマ時代)1508年(25歳)、ローマに居を移す。ウルビーノ公の死を受けて、4月10日の日付のある手紙を伯父に向けて書く。ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂壁画に着手。1509年(26歳)、ヴァチカン宮スタンツェでの大壁画第一作『聖体の論議』完成。教皇の補佐官的役職に就く。1510年(27歳)、『アテネの学堂』完成。大銀行家キージからの制作依頼が始まる。ボッティチェリ死去。1511年(28歳)、キージ邸宅に壁画。『ガラティアの凱旋』制作。1512年(29歳)、ヴァチカン宮のステンツェの壁画制作と並行して、ローマの上流階級からの注文を精力的にこなす。大工房による分業制が顕著となる。1513年(30歳)、サン・ピエトロ大聖堂でのプランマンテの建築事業に協力。ステンツェの制作に対する支払い記録(50ドゥカーティ)。『聖チェチリアの法悦』を受注。このころ、『システィーナの聖母』を制作。1514年(31歳)、ブラマンテのあとを継いで、サンピエトロ大聖堂の造営主任となる。婚約者:マリア・ピッピエーナ死去。1515年(32歳)、古代遺物監査官に任命される。ドイツの画家デューラーとの通信記録。1516年(33歳)、ヴァチカン宮システィーナ礼拝堂のためのタペストリー下絵を完成。このころ、着手したピッピエーナ枢機卿のロジェッタでグロステク様式を多用。1517年(34歳)、レオ十世ロッジャに着手。1518年(35歳)、ヴェラ・マダーマの建築に着手。このころ、『ラ・フォルナリーナ』制作。1519年(36歳)、タペストリーの最初の7点が、ブリュッセルから届きシスティーナ礼拝堂で公開される。やつれた表情の『友人のいる自画像』制作。レオナルド・ダ・ヴィンチ死去。(写真撮影:ほしのきらり)ラファエロにぽち
2022.08.02
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ラファエッロ?ラファエロについて、今日からぼちぼち学んでゆこうと考えています【世界遺産】ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂内ラファエロ・サンティ・・・とは?ラファエロ・サンティRaffaello Santi黒い帽子=ラファエロ(白いベレー帽=ソドマ)ラファエロ、ラファエッロ、ラファエルとも呼ばれる。1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。【代表作】『アテナイの学堂』『システィーナの聖母』『美しき庭師』『ラファエロ写真集』ラファエロ・サンティRaffaello Santiオッディの祭壇画『聖母の載冠』1503年カンヴァスに油彩(板から移行)267.0cmx163.0m(若き日の作品)ヴァチカン「ヴァチカン美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『一角獣の貴婦人』1505年〜1506年頃カンヴァスに油彩(板から移行)65.0cmx51.5cm(フィレンツェ時代)フィレンツェに移動してから、ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。 ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』1507年『美しき女庭師』(美しき庭師)板に油彩 122.0cmx80.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santiバリオーニの祭壇画『キリストの遺体の運搬』(キリストの埋葬)1507年 板に油彩 184.0cmx176.0cm(フィレンツェ時代)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Niccolini-Cowper Madonnaoil on panel,1508『カウバーの聖母』1508年板に油彩 81.0cmx57.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖体の論議』1509年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン「ヴァチカン宮殿」署名の間ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Alba Madonna oil on panel transferred to canvas,c.1510『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』(アルバの聖母)1511年カンヴァスに油彩(板から移行)直径95.0cm(ローマ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi聖会話『フォリーニョの聖母』1511年〜1512年カンヴァスに油彩(板から移行)320.0cmx194.0cm(ローマ時代)ヴァチカン「ヴァチカン美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『バッダッサーレ・カスティリオーネの肖像』1514年〜1515年カンヴァスに油彩 82.0cmx67.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ビント・アルトヴィーティの肖像』1514年〜1515年板に油彩 59.7cmx43.8cm(ローマ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『友人のいる自画像』1518年カンヴァス 油彩 99.0cmx83.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ラ・フォルナリーナ』1518年〜1519年板に油彩 87.0cmx63.0cm(ローマ時代)ローマ「国立絵画館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『キリストの変容』1518年〜1520年板に油彩 405.0cmx278cm(ローマ時代:未完となった遺作)ヴァチカン「ヴァチカン美術館」所蔵。(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.08.01
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レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作『岩窟の聖母』を知ってほしくて今日は、夏休みのひまつぶしのヒントとしますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年(がんくつのせいぼ)レオナルド・ダ・ヴィンチとデ・プレディス兄弟との共作カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。ガラスを張っているので見えにくくてごめんなさい。この作品【ルーヴル版】(第一ヴァージョン)は、最初に描かれたと考えられています。しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチは、もう一枚同じテーマで描いています。二枚目が展示してあるイギリス「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」(画像をおすと画面が大きくなります) がんくつのせいぼ『岩窟の聖母』イギリス「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」版こちらの美術館は、入場は無料ですが、撮影禁止だったので画像が無いです【ロンドン版】(第二ヴァージョン)1508年に制作完了か?レオナルド・ダ・ヴィンチ?アンブロージョ・デ・プレディスとの共作ポプラの板に油彩 189.5cmx120.0cmロンドン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。【ルーヴル版】と【ロンドン版】は、ほぼ同じ大きさです。第一ヴァージョン 第二ヴァージョン198.0cmx123.0cm 189.5cmx120.0cmどうして二点も描いたのでしょうか?第一ヴァージョン『岩窟の聖母』は、完成がなんどもなんども遅れていてそのたびに代金の支払いはされていたのですが、レオナルドはどうしても金額が納得できずに裁判にまでなってゴタゴタしたので、ざっくり、その解決策として、第二ヴァージョンを描いたと思われます。しかし、本当は・・・どちらが最初に描かれたか?そもそも、レオナルド本人がどこまで描いているのか?今でも謎なのです。この大きくて美しい作品を見ると感動してしまいます。『岩窟の聖母』の主題・・・とは?『岩窟の聖母』のテーマは、洗礼者ヨハネが、イエスに祈りをささげる場面を想像して描かれた絵です。どうして岩の洞窟の中にいるの?子どものヨハネとイエスは、ユダヤ王へデロが、幼い子どもたちを虐殺するという命令を出したためにそれから逃げるためにベツレヘムを離れて岩の洞窟にいたのです。その構図は・・・「ピラミッド構図」をつくっていますピラミッドの構図といえばルーヴル美術館『岩窟の聖母』は・・・聖母マリア(ピラミッドの上部分)大天使ウリエル(右端の女性)と子どものイエス子どもの洗礼者ヨハネ(左側)とともに三角形の「ピラミッド構図」を作っていますね。大天使ウリエルが右手を指差し洗礼者ヨハネを導き、そのヨハネは、聖母マリアの左下となりで、ひざまずいてお祈りをしています。(右下)イエスは、大天使ウリエルに体を支えられながら座って、ヨハネに向いて祝福をこめて右手をあげています。「ピラミッド構図」はなんども使われています。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃ポプラの板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。『聖アンナと聖母子』も「ピラミッド構図」です人物がまとまって・・・三角形を作っています。これは、立体感のある三角形ですね三角形の頂点は、「聖アンナ」マリアの母=キリストの祖母その下に、「聖母マリア」受胎告知でキリストを生んだマリア手を差し出した先の子どもがイエスです。イエスは、羊にさわろうとしています。マリアは、羊が将来イエスに災いをもたらす予感を感じ羊を遠ざけようとしています。それにしても、この祖母(おばあちゃん)は、若すぎますがこの形は・・・せいさんみいったい「聖三位一体」を表しています。この構図は、ルネサンス絵画で広く使われていました。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。図書館でさがしてみたり二点の『岩窟の聖母』を見比べてみるのもオススメとてもバランスが良いので、ルネサンス時代っぽく絵をかくのもおもしろいですねちょっと興味を持ってもらえたでしょうか?長い夏休みをすずしい美術館や博物館に行って、レオナルド・ダ・ヴィンチを探してみたり絵をながめて、のんびり、ゆったり〜と自分のテーマを探すのもいいですねボタンにぽち
2022.07.31
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モナ・リザは世界で一番有名な「肖像画」だと思います。モナ・リザは笑っているのかしらこの夏のテーマは、「モナ・リザのなぞ」ってどうでしょうか?なぞを探してみませんか?レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。世界で一番、有名な肖像画ですが・・・笑っているのでしょうか?「モナ・リザのほほえみ」って言うじゃない・・・ふつうに笑っているのじゃないですよね〜いままで多くの人が研究してきましたが、このモナ・リザについては、すべてが「謎」だらけ!!モナ・リザのドレスの色は・・・「黒」お葬式の帰りでしょうか?それとも家族の誰かが亡くなったから?黒いベールをかぶっているから「占い師」ちゃうちゃう!この時代に黒いドレスを着るのが「はやり」はやりのファッションだったみたいです。もっと気になるのがまゆげ無いやん!モナ・リザには・・・まゆげが見当たらない。それが、けんびきょうで見ても、一本もなかった!!色をぬる前のデッサンでもまゆげを書いていないのです。ソリソリしたとしてもポツポツ点がを書くはずじゃない本当にまゆげがない人だったのでしょうか?謎です・・・謎、深いです。「モナ・リザ」の顔を見ていると全体がぼんやりと書かれていますよね〜だいたい顔の形をまず書くじゃない?そんな線がないですよ!なんとなくボワーって浮かび上がる感じ。これが・・・「スフマート技法」です。これは、クイズにもテストにもどこかで出るはず!必ず「スフマート」記憶してくださいねスフマート・・・とは?「線も境界もなく、けむりのように」消えるという意味。レオナルドは・・・筆のあとが見えないように描くのです。まるで、けむりのように!ほんのわずかに、少しづつ色と形を変えながら、表面をなめらかに・・・だから、めっちゃ〜時間がかかって書いているうちにイヤになったのかな?どうもレオナルドは、指で少しずつのばしていたみたいです。さかいめがなくりんかく線を見えないようにすると「モナ・リザ」はまるで生きているようです。そうです、私たちの顔にはりんかく線は無いですもんね!でもそんな風に書くのはむずかしすぎます。レオナルドすごい・・・やはり天才です!手もスフマート技法で描かれています。「モナ・リザ」は結婚していないの?確かに、左手のくすり指に指輪がありませんね〜実は、指の部分は未完成なのだそうです。書き忘れたのかな?とすれば、デッサンに指輪が書かれているはずですがそこにも指輪らしき線が無い!見事なスフマート技法でなめらかに描かれた手は、なぜかおなかの上に置かれています女性がおなかに両手をのせているのは、「私のおなかには赤ちゃんがいます」というサインだそうですが、「モナ・リザ」は・・・やはり結婚していたのでしょうか?ですが、指輪はない・・・ううう、謎は深まるばかりです。「モナ・リザ」の絵は、レオナルド・ダ・ヴィンチが亡くなる最後まで自分で持っていた絵です。なぜ持っていたか?それは、最初は注文で書いていたのですがとても時間がかかりすぎて間に合わなかったのです。だから、レオナルドは、もともとモデルはいたのですが、とちゅうから絵は売らないことになって、そうなると、もともとのモデルにそっくりに書く必要がなくなりレオナルドは、「モナ・リザ」を自由に自分好みに書くことができたのです。となるとすべての「謎」は、とけてくるんじゃないでしょうか?答えは、正解かどうか責任は持てません。ちょっと興味を持ってもらえたでしょうか?長い夏休みをすずしい美術館や博物館に行って、お家の節電にも協力しましょうボタンにぽち
2022.07.30
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長い長〜い夏休みが始まりました。私、ほしのきらりの小さなころには、絵画教室に通っていた頃の「ドガ」に教科書で見た『最後の晩餐』『モナリザ』と「ゴッホ」くらい大学生になり美術館に初めて行ってみたって感じです夏休みは、美術館・博物館に行く良いチャンスですレオナルド・ダ・ヴィンチは、天才だった!「自然は、 あらゆる真の知識の源である。 自然には、 独自の法則がある。 原因なくして結果はなく、 必要なくして発明はない。」 ・・・レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)イタリア(当時のフィレンツェ共和国)ヴィンチ村で生まれるフランス(当時のフランス王国)アンボワーズで67歳で死去。レオナルド・ダ・ヴィンチという名前は、ヴィンチ村のレオナルド君という呼び方を当時は、してたので名前は「レオナルド」と呼びたいですね出身地の「ダ・ヴィンチ」と呼ぶのは、びみょう。レオナルドのこうせきは・・・絵だけではなかった!鏡文字・音楽・建築・料理・美学・数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学・人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学・植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学・科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学・飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などに興味を持って研究していた天才でした。有名な作品は・・・『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス三大巨匠のひとり。ルネサンス三大巨匠・・・とは?るねさんすさんだいきょしょう1.レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)2.ミケランジェロ・ブオナローティ Michlangelo Buonarroti 1475年3月6日(フィレンツェ生まれ) 1564年2月18日(88歳ローマで亡くなる)有名な作品 『ダビデ像』『アダムの創造』『ピエタ』『システィーナ礼拝堂天井画』3.ラファエロ・サンティ Raffaello Santi 1483年3月28日(ウルビーノ生まれ) 1520年4月6日(37歳ローマで亡くなる)有名な作品 『アテナイの学堂』『システィーナの聖母』ルネサンスとは・・・?レオナルドの生まれたころ、フィレンツェ共和国は、おりもの業や、きんゆ業で栄えていて、町は、ぼうえきでお金持ちになりました。そのお金で町の人たちは、りっぱな建物や教会をたてます。その建物や教会にかざるためにちょうこくや、大きな絵をたくさん芸術家につくるようにたのむのでフィレンツェには多くの芸術家・建築家・職人が集まって「ルネサンス」とよばれる運動がおこります。「ルネサンス」とは・・・ さいせい『再生』という意味です。再生という名前は、古い時代の文化や芸術を学んで「再生」する遠く海外まで出かけて知識をあつめそこから新しいヒントをもらって芸術のなかで表現しました。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、は、特に人気があって絵のちゅうもんが多く来たので弟子に手伝ってもらいます。 こうぼう「工房」で多くの弟子を育てて多くのちゅうもんに答え多くの作品を作ります。特にレオナルドの作品は、出来上がりに時間がかかっていたので、未完成が多くて工房で、弟子たちといっしょにかいたり、途中から弟子にすっかりまかせてしまうこともあったようです。ルネサンス時代は・・・14世紀なかばから、16世紀後半にかけてです。ちょっと興味を持ってもらえたでしょうか?長い夏休みをすずしい美術館や博物館に行って、めっちゃ〜有名な絵をながめるのも良いしそのあいだのお家の節電にも協力しましょうボタンにぽち
2022.07.29
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いよいよ夏休みが始まりました〜世界でいちばん有名な「モナ・リザ」の絵をかいたのはだれですか?ふふふっ!モナリザのほほえみってこんな感じですレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をさっくりとお写真たっぷりで代表作の「モナ・リザ」『レオナルド・ダ・ヴィンチの年表』1452年4月15日、レオナルド、イタリアのヴィンチ村に誕生。1469年、フィレンツェでアンドレア・デル・ヴェロッキオの徒弟として働き始める。1472年〜1475年、『キリストの洗礼』をヴェロッキオと共作。『受胎告知』を製作。1473年、『アルノ川の風景』を描く。1474年〜1478年、『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』を製作。1475年3月6日、ミケランジェロ・ブオナロティー誕生。1478年頃、ヴェッキオ工房を出る。『ブノワの聖母』制作。1478年〜1480年、『カーネーションを持つ聖母』を製作。1480年頃、『聖ヒエロニムス』を製作。1481年、『東方三博士の礼拝』の制作を開始。1482年、ミラノに移りルドヴィーコ・スフォルツァに仕える。1483年4月6日、ラファエロ・サンティ誕生。ヒューホ・ヴァン・デル・フースの『ボルティナーリ祭壇画』がフィレンツェに到着。1483年〜1486年、『岩窟の聖母』初版を描く。1489年、『スフォルツァの騎馬像』の制作を開始。解剖学の勉強を始める。1489年〜1490年、『白貂を抱く貴婦人』を制作。サライがレオナルドの弟子となる。1490年頃、『リッタの聖母』制作?1492年頃、『ウィトルウィウス的人体図』を描く。1495年〜1498年、『最後の晩餐』を制作。1496年、数学者ルカ・パチョーリの生徒および友人となる。1499年頃、『糸巻きの聖母』を制作。1499年、フィレンツェ軍ミラノに侵攻。1499年〜1500年、ミラノを立ちヴェネツィアに短期滞在。1500年、フィレンツェに戻る。1503年、『モナ・リザ』の制作を開始。1504年、『アンギアーリの戦い』の制作を開始。1506年、フランチェスコ・メルツィがレオナルドの弟子となる。1506年頃、『レダと白鳥』を制作。1506年〜1508年頃、『岩窟の聖母』第2版を制作。1508年〜1510年頃、『聖アンナと聖母子』を制作。1509年、『神聖比例論』(執筆:ルカ・バチョーリ、挿絵:レオナルド)が出版される。1513年、ローマに移る。1513年〜1516年頃、『洗礼者ヨハネ』を制作。1516年、フランス王に招かれフランスへ移る。1517年〜1518年頃、『大洪水』シリーズに着手。1519年5月2日、フランスのクールの館で67歳にて死去。みたことある絵がありましたか好きな絵を検索して自由研究のヒントにしてね(写真撮影:ほしのきらり)夏休みにぽち
2022.07.28
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『聖ヒエロニムス』荒野の聖ヒエロニムス・・・とは?レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519San Girolamo nel Deserto『聖ヒエロニムス』1482年頃(荒野のヒエロニムス)板 半成状態 103.0cmx75.0cmローマ・ヴァチカン市国『ヴァチカン絵画館』所蔵。「・・・ひとりの仲間もいない 荒野に住む身なのに、 若い娘たちにとりかこまれている 幻覚にしばしばおそわれ(・・・)。 わたしは、 昼も夜も泣きつづけ、 神がやすらぎをあたえてくださるまで われわれとわが胸を打ちつづけました」 ・・・ヤコブス・デ・ウォラギネ、 『黄金伝説』より(前田敬作・山内知子訳) 聖ヒエロニムスは・・・4世紀後半に実在し、聖書をラテン語に訳した人物である。彼の『ウルガータ聖書』は、その後ながらくカトリック世界で標準版となった。彼は若い頃にシリア砂漠で、隠遁生活をおくるが、その際にしたためたとされる手紙の一部が、『黄金伝説』に書かれている。同書は、13世紀に著された諸聖人伝で、その後ヨーロッパで広く読まれ、多くの聖人図像の典拠ともなった。ここに引用した文中にもあるように、聖ヒエロニムスの図像は、粗末な衣服をまとっただけで、荒野で修行中の姿で描かれ、自らの胸を石で打つ。フォレンツェ派の画家ロレンツォ・モナコによる絵画はその典型である。ロレンツォ・モナコ(本名:ピエロ・ディ・ジョヴァンニ。 通名は彼が修道士だったため)による同作品は、かつてフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会にあった大型多翼祭壇画のうち、プレデルラ(裾絵)を構成する五場面のうちの一枚だった。同教会のブランカッチ礼拝堂には・・・ルネサンス絵画の開花をつげるマザッチョの誉れ高い壁画があったため、ミケランジェロら後の若手画家たちにとって、模写して学ぶ一種の教室となっていた。よってレオナルドも、先述のロレンツォによる聖ヒエロニムス作品を見る機会は必ずあっただろし、図像源泉のひとつとなったと思われる。同聖人の図像としては・・・書斎のなかで聖書翻訳に励む姿も多い。こちらは、室内画を得意とした北方のヤン・ファン・エイクの作品(1442年、デトロイト・アート・インスティトゥート)が典型例であり、イタリアでは・・・先のロレンツォ・モナコによる別作品(1420年、アムステルダム、王立美術館)などがある。レオナルドの同時代人としては、ボッティチェッリ やグルランダーイオらがこの書斎タイプを手掛けている。一方の荒野の修行中のタイプに関しては、ここに掲載したロレンツォ・モナコの作例のほかに、フラ・アンジェリコ(1424年頃、プリンストン大学美術館)やピエロ・デッラ・フランチェスカ(1450年頃、ベルリン国立美術館)らがイタリアにおける先行作例を描いている。それらの多くにライオンが登場するが、これは聖人が、ライオンの足に刺さった茨の棘を抜いてあげるところ、そのライオンが彼のお手伝いをするようになったという、やはり『黄金伝説』に書かれたエピソードに基づいている。つまりレオナルド・ダ・ヴィンチの作例は同書に基づく状況(荒野での修行)とモティーフ(ライオン)をどちらも採用している。しかし、類似作例のなかにあって、レオナルドによる本作品は残酷なほどの自然の厳しさを感じさせる岩場の荒々しさと、聖人の修行のストイックさをまざまざと伝える鍛え抜いた痩躯の表現で群を抜いている。超然とした同聖人の描写が多い中で、レオナルドは・・・苦行者の苦痛にゆがむ表情を克明にとらえている。顔の深い皺や、首から胸にかけての筋ばった筋肉描写には、はやくも画家の解剖学への高い関心と理解とがあらわれている。また、ライオンが画面に占める大きさと、その描写の動物学的な正確さは特筆のもので、当時のフィレンツェには、メディチ家による一種の動物園があったことと、レオナルドが、動物や地形の自然観察に常に細心の注意を払っていたことがよくわかる。なお、フィリッピーノ・リッピに帰属されている同聖人像も複数あるが、『東方三博士の礼拝』のケースのように、フィリピーノがレオナルドから構図などの直接的な影響を受けた痕跡はこの聖人のケースには一切みられない。フィリピーノによる聖ヒエロニムスは、そのポーズと肉体表現、ライオンのサイズと特徴のとらえ方など、レオナルドが有していた要素のすべてを欠いている。おそらく、未完成のまま放置されたレオナルドの本作品を目にする機会がなかったのであろう。本作品には、スポルヴェロ転写法の後がないので、同寸大のカルトンを用いず、板に直接下絵を描き始めたものと思われる。また、数多くの指紋・掌紋も発見されている。このことは、レオナルドがミラノ移住後に確立する手法だが、『ジネヴラ・デ・ベンチ』などと同様に、すでに、フィレンツェ時代において試行されていたことを教えてくれる。残念ながら、本作品は、なんらかの理由によって未完成に終わった。しかし、彩色前の段階における奔放な筆致が直に観察できるからこそ、以上のように「レオナルド性」とでも言える特徴を本作品に顕著に見出すことができる。ほぼ完全に下絵を仕上げた時点で放り出している状況が似通っている点からしても、また色使いや線描の様子をみても、この作品が先にみた『東方三博士の礼拝』と同頃に制作され、ミラノ移住によって中断され放置されたものとしてまず間違いないだろう。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.27
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『聖ヒエロムニス』の来歴は、とてもユニークでドラマチックで興味深いものですレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519San Girolamo nel Deserto『聖ヒエロニムス』1482年頃(荒野のヒエロニムス)クルミの板 油彩 半成状態 103.0cmx75.0cmローマ・ヴァチカン市国『ヴァチカン絵画館』所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』ヴァチカンにある『聖ヒエロニムス』は、『東方三博士の礼拝』と同時期の作品と思われ、やはり未完に終わっている。レオナルドの時代のいかなる資料にも、この作品に関する情報は残されていないが、誰もこの作品の作者が、レオナルドであるかどうかを疑う人はいない。それほどに この作品は、レオナルド的特徴をすべて備えている『来歴』も謎に満ちている。かつて高名な女流画家:アンゲリカ・カウフマンが、晩年ローマに住んでいた時に所有していたと伝えられている。時期としては、19世紀の初頭にあたり、なかば伝説的なエピソードではあるが、所蔵先のヴァチカン絵画館は、今もこれを本作品の来歴情報に入れている。また、画面右上方の岩の表面に教会のファサードの線描がはっきり残っていて、これが、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会によく似ていることが指摘されている。レオン・バッティスタ・アルベルティによって設計され、1472年に完成した同教会のパトロンだったルチェッライ家との関係から、本作品のもともとの注文主をベルナルド・ルチェッライとみる説もある。あるいは、これがフィレンツェ政庁から1478年1月に来た注文の該当作だった可能性も提起されているが、後に代替作として納品されたフィリッピーノ・リッピの板絵のサイズと大幅に異なるため、その可能性は低いだろう。本作品を発見したのは・・・かのナポレオン・ボナパルトの叔父にあたるジョゼフ・フェッシュ枢機卿である。彼がローマの裏道を散歩中に、ある古物商の店先で、棚に貼り付けられたこの作品を偶然発見する。しかし、頭の部分が四角く切り取られて穴があいている。彼は根気よく探して回り、数ヶ月後に今度は、靴屋の椅子に貼り付けられた聖人の頭部を発見した。こうしたこの作品は奇跡的に蘇った・・・。このドラマティックな逸話を裏打ちするかのように、今でも聖人の頭部のまわりには、四角く裁断された跡があり、接合部分がはっきりと視認できる。ただし実際には・・・本作品は一時五つの部分に別れていたことがわかっており、枢機卿による発見譚はやや脚色されているかもしれない。いずれにせよ、本作品が枢機卿のコレクションにあったことは、19世紀初頭のドイツの美術史家:カール・フリードリヒ・フォン・ルーモール(ルーモア)が『Italienische Forschungen(イタリア研究)』で記録している。作品はその後、枢機卿の貴族によって教皇ピオ九世に売却され、1856年にヴァチカン絵画館に入った。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.26
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ほぼレオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではないとの説が大きくなってきた『リッタの聖母』ですが・・・彼がどこかで関与したことは確実でありますレオナルド・ダ・ヴィンチ?Leonardo da Vinci(?)Vinci,1452-Amboise,1519『リッタの聖母』1490年代なかば伝レオナルド・ダ・ヴィンチ、(ほぼ確実に弟子か、共作者中心による作)元は、板にテンペラ技法のみで描かれる(後にサンクトペテルブルクでカンヴァスに移行)42.0cmx33.0cmサンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。「レオナルド派による派生作品とする説」とは?ベルナルディーノ・デ・コンティに帰属されている数枚の作品がある。それらの多くは、幼児イエスが外面向かって右側に位置しており、衣服の装飾など『リッタの聖母』とは大きく異なるため、おそらくは、派生作品のうちの一点(1510年頃か、ベルガモ、アッカデミア・カッカーラ)をもとに複製された二次派生作品がほとんどを占めると思われる。その他にも、いくつか派生作品が知られているが、うちミラノのポルディ・ペッツォリーニ美術館にあるものは・・・幼児イエスだけが『リッタの聖母』と酷似していながら、マリアの被り物や顔の向き、背景の構図や手前の手すりなどは、大きく異なっている。一方で、マリアの衣装の授乳用の切れ目と留め糸など、ディテールがよく似た箇所も多く、『リッタの聖母』の制作過程で制作された派生作品というよりは、完成作を参照しながら意図的に部分を変更した二次創作的な派生作品とみるのが正しいだろう。こうした派生作品や模写がコンタリーニ家にあった可能性は否定できないが・・・いずれにせよ、『リッタの聖母』と昨日ブログの習作素描との直接的な関係、そしてレオナルドと授乳の聖母を結びつける本人の言説および同時代人の覚書、そしてレオナルド派に同主題の図像が少なくなことをみても、少なくとも『リッタの聖母』へのレオナルド本人の関与は疑いない。それでもなお、本作品のレオナルドただひとりへの帰属には、率直な疑問を抱かざるをえない。幼児イエスの頭部のパースの狂い、乳房に添えるイエスの手と指の解剖学的に極端な非正確さ、マリアの左手と腕との接合の不具合、マリアの頭髪が額に影を落としていない点などは本作品とレオナルド様式との乖離(かいり)を示している。さらに決定的なことは・・・窓の向こうに広がる風景が、非常に簡素に描かれ彼独特の「“写実的”に描かれた幻想的風景」から程遠い点と、彼がミラノ時代にほとんど使われなくなるテンペラ技法のみで描かれている点である。多くの研究者が・・・本作品の作者としてレオナルド派を挙げるとともにレオナルド本人への帰属を疑っており、想定作者として蝋のような肌の質感からボルトラッフィオや、あるいは、マルコ・ドッジョーノの可能性が提起されている。やや金属的な質感も感じさせる肌の表現は、『岩窟の聖母』第二ヴァージョンに似ているため、アンブロージョ・デ・プレディスの可能性も若干は考えられる。いずれにせよ、レオナルド派のひとりに決定的に帰属させるには、材料が不足しており、高度撮影技術を用いた科学的な今後の調査が待たれる。はっきりしていることは・・・習作素描がもつ輪郭の柔らかさや、頭髪の繊細さ、確かな立体感と光のまわりこみ、憂いを帯びたような思慮深げなまなざしに、残念ながら、『リッタの聖母』が遠く及ばない点である。以上のような技法と様式上の特徴から考えて、作者は誰かの・・・[結論]『リッタの聖母』は、レオナルドがミラノに来て、スフマート技法をかなり進化させた段階で、かつ下絵にのみ注力する一方で、彩色段階はほぼ弟子に預けるようになった時期のもの、つまり1490年代なかばの可能性が高く、個人の特定はまだできないが、マルコ・ドッジョーノやボルトラッフィオという、スフマート技法などのレオナルド様式をかなり高度に吸収したレオナルド工房の弟子が、彩色画をほぼひとりで請け負ったとするのが妥当と思われる。そして、レオナルドは、『糸巻きの聖母』のようにその過程を見ながら適宜手を加えていつたのだろう。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.25
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『リッタの聖母』の作者の解明を進めてまいりましょうルーヴルに証拠のスケッチがあるですとレオナルド・ダ・ヴィンチ(?)Leonardo da Vinci(?)Vinci,1452-Amboise,1519『リッタの聖母』1490年代なかば伝レオナルド・ダ・ヴィンチ、(ほぼ確実に弟子か?共作者中心による作)材質不明の板にテンペラ(カンヴァスに移行)42.0cmx33.0cmサンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。『リッタの聖母』をレオナルド・ダ・ヴィンチの真筆とする根拠として、よく挙げられるのが・・・ルーヴルにある女性の頭部のスケッチである。本素描には、左手特有のカーブをもつハッチングの線がはっきりと認められ、顔面の主要部分だけ入念に仕上げるほかは数少ない薄い線で省略する手法にもレオナルドの特徴がよくあらわれている。顔の傾け方、右目の上瞼だけが、かすかに見える角度、そしてとりわけ首の皺の本数まで『リッタの聖母』とピタリと一致する点をみれば、本素描はたしかに、彩色画のための習作と位置付けることができる。さらに、ヴェネツィア貴族で政治家でもあったマルカントニオ・ミキエルなる人物がいて、彼が1521年から、20年間にわたって北イタリアの諸都市にある美術品を記録した覚書が残っている。そのなかで、1543年にヴェネツィアのコンタリーニ邸(カ・ドーロ)で見たある作品を以下のように記録している。「それは幼児にお乳を与えている われらが聖母の半身像で、 レオナルド・ヴィンチの手になる彩色画で、 実に入念に仕上げられている(de una nostra Dona,mezza figura, che dà latte al fanciullo, colorita, de Leonardo Vinci, opera gran forza e molto finita)」。この記述は・・・ほぼ確実に本作品かその模写、あるいは、レオナルド派による派生作品を記録したものと考えられる。ヴェネツィアの有力家系であるコンタリー家のコレクタションに入った経緯も、そこからローなる人物によってミラノへ売られた経緯も不明だが、ともあれ、コンタリーニ家は、フィレンツェとも関係が深く、またレオナルド自身がヴェネツィアを訪れたことがある。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.24
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なんと美しい授乳中の聖母子像なのでしょうか〜これも我が家にも飾れるサイズですね伝レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(?)『リッタの聖母』1490年代なかば伝レオナルド・ダ・ヴィンチ、(ほぼ確実に弟子か?共作者中心による作)材質不明の板にテンペラ技法(1865年、カンヴァスに移行)42.0cmx33.0cmサンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。[来歴]本作品は1865年にロシア皇帝アレクサンドル二世が購入し、エルミタージュ美術館に入った。それまでの所有者は、ミラノのアントニオ・リッタ公であり、そのため本作は彼の名を冠して呼ばれている。本作品の来歴として、確実な最も古い年号は、ジュゼッペ・ローなる人物から、パヴィア近郊の小都市ベルジョイオーゾの領主アルベリコ12世が購入した1748年である。その後、アルベリコ12世が亡くなった1813年にリッタ家の所有となった。主題は・・・「授乳の聖母」である聖母マリアが幼児イエスに授乳している場面で、愛らしい母子関係の親密さが描かれている。同主題は・・・16世紀半ばのトレント宗教会議以降、規則を受けたため、あまり描かれなくなるが、それまでは人気のあった主題のひとつだった。『リッタの聖母』に描かれたマリアは、優しい眼差しを我が子にそそぎ、幼児イエスは・・・無邪気に乳母にむしゃぶりつきながら、観察者の方へ視線を送る。注目すべきは・・・イエスが左手に握っている鶸(ひわ)で、くちばしの根元が赤いため、キリストが茨の冠のとげで流した血によって赤く染まったとの逸話ができ、キリストの受難のシンボルとなった。つまりここで、幼児イエスは・・・将来的な受難の運命を自ら予告しているのである。作品は、エルミタージュ美術館に入った1865年に顔料層を板から剥がして画布に移行する大手術を受けた。そのため、板の材質は不明だが、描画にはテンペラ技法が用いられていることがわかっている。移行時の荒療治のせいだろうか?本作品には、画面全体に顔料層の剥離がみられ、とくに画面右側のマリアのローブの表面やマリアの首の付け根部分などは剥離が著しい。1482年にミラノへ移住した時に、作ったらしきレオナルドの作品リストがある、そのなかに「完成した聖母像」一点、(Una nostra donna finita)と、「ほぼ[完成?]した横顔の聖母像一点(Un'altra qu[a]si{finite],n proffilo)」との記述がある。この記述は・・・これまで本作品と結び付けられてきた歴史があり、とくにクラークはこのうち後者を本作品と推測した。しかしその場合、当然ながらレオナルドは本作品を第一フィレンツェ時代に描いたことになる。しかし、輪郭線を描くことを極力避け、微妙なグラデーションの変化によって、立体感を出す表現法は明らかにレオナルドがミラノ時代に進化させる「スフマート技法」を適用したもので、仮に本作がレオナルドのものであるとすれば、第一フィレンツェ時代のものではない。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)リッタにぽち
2022.07.23
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エルミタージュ美術館の『ブノワの聖母』の容姿は、それまでと違ったイメージですよねレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Madonna Benois『ブノワの聖母』1478年頃板に油彩からカンヴァスへ移行49.5cmx31cmサンクトペレルブルク「エルミタージュ美術館』所蔵。美術史の泰斗ベレンソは・・・本作品のマリアについて、「禿げ上がった額と腫れぽったい頬、 歯抜けた微笑みとかすんだ眼、 皺だらけの首をした若い女性(a young woman with a bala forehead and puffed cheek, a toothless smile, blear eyes,and furrowed throar)」と・・・手厳しい。無理もない。たしかにこのマリアの容姿は、ロレンツェッティ兄弟やフラ・アンジェリコらがつくりあげた伝統的な「優美なる聖母」からは程遠い!おまけに、この絵の薄い画層はかつて荒治療によって板からカンヴァスへと移され、剥離していた箇所は容赦なく加筆された。しかし、本作品の重要性は・・・まさにこの「醜さ」にある!!なぜなら、それまでの優美なるマリア像は、完全なる理想像であり、女性たちの現実的な姿に基づいているわけではなかった。しかし本作品は、以下に見るように実際の人物をモデルに描かれたマリア像である可能性が高い。とくに中世においては、聖なる存在たる聖母を・・・実在の人物を使って描くなど不遜極まりない行為にほかならなかったことは強調しておきたい。ウフィツィ美術館所有のレオナルド紙葉に、「1478年12月、二点の聖母像にとりかかった(d・・・bre 1478 Inchominciai le 2.Vergine Marie)」との記述のある紙葉がある。鏡文字で書かれた「bre」の直前で切れているが、残っている部分に「d」の先端らしきものが見えているため、同年末の12月のことだと考えてよい。この年、レオナルドは26歳に達しており、どう記述からは、徐々にヴェロッキオ工房への依存度が減り、自らの攻防が直接うける制作依頼もちらほらあったことが想像できる。当時の絵画制作の注文数が最も多かったのは、現存数からみても疑いなく聖母子像とキリスト磔刑図の二主題である。両主題とも教会の祭壇画などに描かれるものとして高い需要をほこっていたが、数としては個人注文による小サイズ作品が圧倒的に多い。レオナルドのメモにある「二点の聖母」も、おそらくはそうした個人注文によるものだったに違いない。まだ彼は、フィレンツェを代表する画家というわけではなく、そのため価格的にも巨匠よりは、頼みやすいはずで・・・それならば想定されるのは為政者や大商人よりも、むしろ中規模商人層からの注文が主だったと考えられる。どう記述にある「二点の聖母子像」として、最も可能性が高いと考えられるのが、『ブノワの聖母子像』と、通称『猫の聖母』と呼ばれるスケッチである。後者をもとに最終的に彩色された作品は見当たらないが、それまでの『受胎告知』や『カーンーションの聖母』などにみられた人体描写の硬さと異なり、『ブノワの聖母』と『猫の聖母』では、人体の輪郭は曲線に富んで柔らかく、その間、レオナルドの個人様式に大きな変化があったことを示している。『猫の聖母』が描かれた紙葉の裏面にも、同じ構成でややポーズを変えて描かれたスケッチがある。レオナルドは、左利きのため、影を描く際、右下から左上へかけての線を並べるが、本作にもマリアの胸部のあたりにそのタッチを認めることができる。迷いのない最小限の数の線だけで描かれた頭部の、丸みを帯びた優しげなマリアの表情が印象的である。一方『ブノワの聖母』は、板絵の顔料層を剥離させてカンヴァスに移行させるという荒療治でダメージを受け、その加筆もかなりされたようで、表面の筆致の見極めは容易ではない。ただ、マリアの鼻梁(びりょう)の明確な線などは、後にレオナルド絵画の特徴のひとつとなる、「輪郭線を描かないためのスフマート技法」が全面的には適用されていないことを示している。その一方で、マリアの表情の柔らかさなどは、グラデージョンの微妙な変化によるものであり、これは後のスフマート技法で多用される「筆のかわりに指の腹などで、こまかく画面を叩いて色を置く」という技法のはしりだとも考えられる。本作品には、過去にX線と赤外線による撮影がなされており、その時点では、スフマート技法の証拠となる指紋や掌紋は出ていない。ここ数年用いられ始めた高精細カメラによる表面近接撮影はまだ適用されていないので、今後出る可能性は否定できないが、「移行期」ともいえるスフマートの未完成さからみても、指紋は出ずとも不思議ではない。いずれにせよ、ここで確認しておくべきは、『ブノワの聖母』と『猫の聖母』にみられる個人様式の発展段階が、紙葉に記された1478年頃のものとして矛盾がないという点である。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)ブノワ家にぽち
2022.07.22
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ブノワの聖母は、一般家庭にも飾れる聖母子像のサイズなのです我が家にも一枚欲しいレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Madonna Benois『ブノワの聖母』1478年頃板に油彩、カンヴァスへ移行49.5cmx33.0cmサンクトペレルブルク「エルミタージュ美術館』所蔵。『ブノワの聖母』と『猫の聖母』でさらに注目すべきは、どちらも聖母子が半月型の上部構想を持つニッチ(壁龕)の手前にたたずみ、さらに右後方にある窓の位置とサイズ、形状が非常によく似ている点である。もし、『猫の聖母』に基づいて完成した彩色画があったならば、ときに悪魔的な動物とみなされていた「猫」ではなく、受難の象徴である「子羊」などに描き換えられていたはずである。レオナルドによる「猫」のさまざまなポーズのスケッチは、彼の注意深い観察力をよく示している。身近にいる動物として、また動くものの一瞬を捉える訓練のためにも、「猫」は、恰好の観察対象だっただろう?なお、信頼性はともあれ、レオナルドが若い頃、生きた爬虫類の各部を糊付けして、奇妙な怪物をこしらえたとの逸話をヴァザーリが伝えている。レオナルドは・・・これら二点の聖母子像を描くにあたり、それぞれの注文主の妻子を工房によび、同じ部屋でスケッチをおこなう。そしてその場で、(羊は都市部にはいないので)身近にいてつかまえやすい動物・・・ここでは「猫」を・・・抱かせてポーズをとらせていたと推測される。だからこそこれら二点の聖母子像には、ごく普通の母子の親しみが前面に出ているのである。申し訳程度にニムブスをつけた以外は、なんと母性あふれる優しい笑顔であることか。フィリッポ・リッピの家族モデルによる聖母子像(ウフツィ美術館)などのごく少数の先行例を除いては、一般市民層に属する実在の親子を聖母子像のモデルとしたことが確実な作品はそれまで存在しない。この点において、これら二点の聖母子像は、西洋の女性像・家族肖像画の歴史における重要性を有している。まさに、ベレンソンを戸惑わせた本作品の「醜さ」こそ、実際の注文主の妻子をモデルとしたことで生まれた、自然な写実性という新たな魅力なのである。この時期、彼は他にも数点、プライヴェートな雰囲気をたたえた聖母子像のための習作を残しており、このテーマに集中的に取り組んでいたことを教えてくれる。昨日ブログで述べたように、聖母子像は、小規模絵画として最も需要があったからである。『果物籠の聖母』と呼ばれるスケッチにおいて、聖母が持つ皿に盛られた果物が林檎であるなら原罪の意である。あるいは、荒野をゆくキリストに天使が差し入れた果物かもしれない?いずれにせよ、幼子イエスが将来担うことになる受難を予告するシンボルである。『猫の聖母』に似て、硬さはとれて丸みを帯び、聖母の顔も優しげだ。すばやい筆の動きでなされた粗い線描ながら、ここでも最小限の線だけで幸せな聖母子の姿を表すことに成功している。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)ブノワ家にぽち
2022.07.22
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現在、エルミタージュ美術館所蔵の『ブノワの聖母』についての来歴を知りたいです〜レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Madonna Benois『ブノワの聖母』1478年〜1479年頃板に油彩(1824年=カンヴァスに移行)49.5cmx33.0cmサンクトペレルブルク「エルミタージュ美術館』所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』『ブノワの聖母』の来歴1827年のアレクサンデル・ペトロヴィッチ・サポズニコフのコレクション目録において、『ブノワの聖母』に関する最初の言及がなされている。それによれば、この絵画は1824年にさるイタリア人音楽家からアストラハンで、サポズニコフにより購入されるまで、コルサコフ家(A・I・コルサコフという1821年に亡くなった人が購入か?)のコレクションにあった。そして同じ1824年にコロツコフという修復家によって、板からカンヴァスへへ移行する大手術がなされた。その後、サポズニコフ家から妻を娶った画家:レオン・ブノワ(ベヌア)のコレクションに入った。これは、おそらく・・・持参金の一部だったと思われるが、ともあれこの所有家の名から、本作品は『ブノワの聖母』と呼ばれるようになった。『ブノワの聖母』は贋作なのか?レオンの死後、この絵は、ブノワ家によってサンクトペテルブルクで1908年に「レオナルド作」として公開された。それを見た研究者:グロノーは、これを「レオナルドの原作をもとにロレンツォ・ディ・クレディが制した模写」と考え、またティースはこれを「レオナルデスキ」のひとりであるソリアーニに帰属させた。その後、1912年にマリア・ブノワが本作品を売りに出し、1914年、皇帝ニコライ二世によって15万リーブルで購入させて、「エルミタージュ美術館」の所蔵となった。エルミタージュ美術館では、購入時の絵画部門責任者だったエルンスト・リブハルトが来歴をもとに本作品をレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作と断定した。つまり本作品には、19世紀初頭以前の記録が一切無い。ひよっとすると、1591年にフランチェスコ・ボッキが『フィレンツェの美』で記した作品が該当する可能性はあるが、定かではない。そこでは、マッテオとジョヴァンニのボッティ兄弟の家にあるコレクションとして、ラファエッロやアンドレア・デル・サルトなどの作品と並んで、「リオナルド・ダ・ヴィンチの手になる油彩の小型板絵で、 そこには驚くべき美しさによる幼児キリストの姿と、 優れた技巧と繊細さによって非常に美しい聖母が描かれている(una tavoletta colorita a olio di mano di lionardo da Vinci di eccessiva bellezza: dove é dipinta Madonna con sommo artifizio, et con estrema diligenza: la figura di acristo, che é banbino, é bella à maraviglia.)」が紹介されている。マリアと幼児キリストが描かれているとの記述にとどまっており、作品を特定できるだけの情報に乏しく、これだけをもって本作品と断定することはできないが、現存するレオナルドとレオナルド派の作品のなかで、聖母子だけを描いた小型板絵は、さほど多くないことも確かである。また、本作品を君主や小富裕層にあたる家からの個人的な注文が相応しいと考えたているので、ボッキの記録は有力と言える。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.21
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巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチは、作品の未完成が多い画家であります。ここで「レオナルデスキ」という言葉が気になりますねこれらの作品は・・・?Atelier deLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Jean-Baptiste-Bacchus『バッカス』1511年〜1115年頃カンヴァス(元は板) 油彩177.0cmx115.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年デ・プレディス兄弟と共作カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。LEONARDO copia da「Leda」Primo venticin uennio del sevolo XVITEMPERA SU TAVOLA CM 115x86『レダと白鳥』(ボルゲーゼのレダ)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』「レオナルデスキ」・・・とは誰?「デオナルデスキ」なる用語は・・・レオナルドの工房で実際に活躍した弟子や協働者と、彼の影響下にあった様式上の追随者を指す。いわゆるルネサンス三巨匠のうち、ミケランジェロとラファエッロがその後の美術史に多大な影響を及ぼしたのに対し、レオナルドのそれは限定的なものにとどまった。存命中から、レオナルドの名声は高くイザベッラ・デステのように、作品の入手を熱望した者もいたが、いかんせんレオナルドが、画家として手掛けたプロジェクトの数はあまり多くなく、おまけにそのほとんどが未完成に終わっている。恒常的に大きなプロジェクトを手掛けている工房であれば、弟子や協働者の数も多く、自然と親方の様式がその地方で広まる結果となる。ローマやアンボワーズにおけるレオナルドの画家としての活動の乏しさを考えれば、彼の影響が、かの地にほとんど定着しなかったのも当然と言える。そのなかで、唯一ミラノだけが、レオナルデスキを育てる場となった。ミラノ宮廷でのレオナルドは・・・まさに万能人としての名にふさわしい活躍をしたので、必然的に彼は工房に弟子たちを雇っていたが、それでも「6人を養ってきた」という彼の手紙が示すように、その数はあまり多くはなかった。それ以上の人数を必要とするプロジェクトの場合には、ミラノにあった他の工房と共同で受注する方法をとっている。その一例が、『岩窟の聖母』における、デ・プレディス兄弟との共同受注である。彼らはすでに一定の地位を築いていたので、レオナルドの弟子とは言えないが、彼の様式上の影響下にあるので、しばしばレオナルデスキのなかに含まれる。彼の直接の弟子のなかでは・・・最後の弟子となるフランチェスコ・メルツィと、弟子か召使いか、再考を要するサライの2名が、最もよく知られている。この両名に関しては、ほかに画家として名を残した弟子に、精力的に活動したマルコ・ドッジョーノ、レオナルドの友人でもあったジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオらがいる。後期の弟子であるジャンピエトリーノ(本名:ジョヴァン・ピエトロ・リッツォーリ)は、あまり記録がないため実態がよくわからないが、しかし、彼に帰せられた何点かの作品をみるかぎり、主題や構図などに師の様式を巧みに採り入れた優れた画家であることがわかる。加えて、チュザーレ・ダ・セストや、ベルナルディーノ・デ・コンティといった、手稿に名前が登場しない画家たちがいる。レオナルド派特有の「抱擁する幼児イエスと洗礼者ヨハネ」などのモティーフを手掛けていることから、弟子あるいは協働者として近い位置にいたのだろう。しかし、両者揃って1524年にミラノを襲ったペストの被害者となったことも、レオナルドの直接的な影響がその後持続しなかった一因と思われる。その後はただ一人ベルナルディーノ・ルイニーだけが、その一見レオナルドの作と見間違えるほどのわかりやすい近似性によって、ロンバルディアにおいて成功をおさめた。実際、彼の作品でかつてレオナルド作とされていた作品は多い。そしてもちろん、トスカーナに移住する前のソゾマや、ブラマンディーノのような、間接的ながらもレオナルドの様式をより高度に吸収した画家たちもおり、彼らも広義のレオナルデスキ煮含めるべきだろう。ミラノの中心地、大聖堂横のガレリアを抜けると、スカラ座の前の広場にレオナルドのモニュメントがある。後世の作だが、思慮深げなレオナルドのまわりを、ボルトラッフィオ、チューザレ・ダ・セスト、マルコ・ドッジョーノ、サライの四人の弟子たちが取り囲んでおり、ミラノでは彼らの知名度も高かったことがうかがえる。しかし、レオナルデスキの活動は、地域的にもロンバルティアにほぼ限定され、・・・少なくとも表面的には・・・持続的なものにはならなかった。一流作品の少なさと、彼ら自身にまつわる情報の乏しさのせいで、その全容を明らかにすることは容易ではない。しかし、レオナルデスキから、プレ・からヴァッジェスキの間に、ブレッシャの画家ジローラモ・サヴォルドを置いて両派をつなげる見方のように、今後はこれまであまり着目されてこなかった後世への間接的な影響を探っていく必要があるだろう。『糸巻きの聖母』の頃、レオナルドは、その活動後後期において彩色画を単独で仕上げる意欲を欠いている。しかし、彼の構想自体は、下絵やデッサンの形で、弟子や協働者たちに伝えられ、あるいは指示がなされ、彼らの手によってある程度実現をみた。つまり、レオナルドによる美術の理念や構想を知るためには、彼本人の作品をあたるだけではおよそ不充分で、レオナルデスキによる膨大な作品群にもあたる必要がある。レオナルドの思想と作品世界の実像を把握するために今後は、レオナルデスキの研究がより勧められなければならない。よって、レオナルデスキのリストは、レオナルドとの関与度によって区分できる。A.レオナルドの工房にいたことが明らかな、直系の弟子。B.趣向などの文献資料による直接的な裏付けはないが、 工房内の師弟関係にあった可能性がある者。C.師弟関係とは言い難いが、協働制作によって 直接的な影響下にあった者。D.直接の指導をうけた可能性は低いが、 工房の周辺にいて強い影響を受けたと思われる者。E.直接の指導をうけたことはなく、 周辺作家でもないが、様式の追随者となった者。F.不明の物。あるいは、 これまでレオナルデスキとして名を挙がられたことはあるが、 除外を検討すべき者。(A.B.C.の人物名と活動時期・主要作品を挙げてみます)A.レオナルドの工房にいた直系の弟子。ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオGiovanni Antonio Boltraffio(ミラノ、1467年、〜ミラノ、1516年)主要作品=『キリストの復活、聖レオナルドゥスと聖ルチア』『カジオの祭壇画』『聖セバスティアヌスとしての少年の肖像』マルコ・ドッジョーノMarco d7Oggione(オッジョーノ、1465年〜1467年頃、ミラノ、1524年)『聖母被昇天、洗礼者ヨハネ、聖ステファノ』『三大天使』『サルヴァトール・ムンディ』『洗礼者ヨハネのいる岩窟の聖母』『接吻する幼児イエスと洗礼者ヨハネ』帰属。ジャンピエトリーノ(ジョヴァン・ピエトロ・リッツォーリ)Giampietrino/Giovan Pietro Rizzoli(ミラノか、1488年頃か、〜1547年以降)『聖母と洗礼者ヨハネ、聖ヒエロムニス』『最後の晩餐』の模写『レダ』『サルヴァトール・ムンディ』『授乳の聖母』フランチェスコ・メルツィFrancesco Melzi(ミラノ、1491年/1493年、〜ヴァプリオ・ダッダ、1570年)サライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ)Salai/Gian Giacomo Caprotti(ミラノ、1480年頃、〜ミラノ、1524年)(彼を芸術上の弟子とする見方に懐疑的で、召使いにとどめるべきではないかと考えられる)B.工房内の師弟関係にあった可能性がある者。チエーザレ・ダ・セストCesare de Sesto(セスト・カレンデ、1477年、〜ミラノ、1523年)『キリストの洗礼』『サン・ロッコ聖堂の多翼祭壇画』『ペンブローク・レダ』フランチェスコ・ナポレターノ(フランチェスコ・ガッリ)Francesco Napoletano/Galli(ナポリ、生年不明、〜ヴェネツィア、1501年)『玉座の聖母子、洗礼者ヨハネと聖セバスティアヌス』『聖セバスティアヌス』『リラ・ダ・ブラッチョを奏でる天使』アンドレア・ソラーリオAndrea Solario(ミラノ、1465年〜1468年頃、〜ミラノ、1524年)『洗礼者ヨハネの首』『緑のクッションの聖母』C.協働制作などによって直接影響下にあった者。ジョヴァンニ・アンブロージョ・デ・プレディス(プレダ)Giovanni Ambrogio de Predis/Preda(ミラノ、1455年頃、〜ミラノ、1508年頃)『岩窟の聖母』2点の協働製作者。『リュートを奏でる天使』『貴婦人の肖像』(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.20
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モナ・リザ盗難事件はよく知られていますが、犯人は誰だったのでしょうパリ・ルーヴル美術館レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。『ラ・ジョコンダ』は・・・ La Gioconda盗難にあった美術品としてもよく知られている。現在の『モナ・リザ』は・・・イタリア絵画(1250年~1800年)(ドゥノン翼)DENON・・・1階(日本で言う2階)に 「特別展示室」の木製枠にがっしり囲まれ、大きなガラス張りの厳重警戒ですが、この分厚いガラスに守られる理由は他にもあったのです。盗難事件当時は、ルーヴル美術館の廊下の壁に他の多くの作品と同じように掛けられていた。盗難事件は・・・1911年8月21日の朝に起きた!その日は月曜日で、ルーヴル美術館の休館日にあたった。もちろん休館日であろうと、職員は館内を行き来するが、『ラ・ジョコンダ』が無い壁を見ても、一時的に学芸員にでも持っていったんだろう?と、誰も問題視しなかった。結局、館が盗難だと気づいたのは・・・なんと翌朝になってからのことだ大事件として大いに騒がれ、各紙も大きな扱いで報道した。警察が尋問した大勢の人々のなかには、かのピカソや、アポリネール も含まれてる。事件から2年が経過した1931年12月、この名画はフィレンツェで発見された。大聖堂からほど近い小さなホテルにヴィンチェンツォ・ペルージャというイタリア人の建設作業員兼ペンキ職人が泊まっていた部屋で、作品は、ベッドの下から見つかった。現在もそのホテルは営業しており、作品名が付けられたその部屋に泊まることができる。ペルージャは、ルーヴル美術館に出入りしていた作業員だったため、美術館は面目が立たない有様だが、ともあれ同作品が見つかったことにみな安堵した。しかし、この不在期間に、幾つか贋作が制作されてマーケットに出回っている。ペルージャは、作品を転売しようとしたところで捕まったのだが・・・ナポレオンによる略奪品をイタリアに奪還するのが動機だと強く主張した。実際にはナポレオンによる収奪品ではなく、犯人の愛国的な動機も後付けではあるのだが、愛国心を刺激されたイタリア国民は、一斉に同情の目を向けるようになった。結局、科せられたのは・・7カ月間の微役のみ。当の絵画には、上端部にあるごく小さな赤い塗料の点が、イタリアのペンキ職人とともに過ごした時間の記憶となっている。1956年には、酸がかけられて、画面下部にダメージを負い、さらに石が投げつけられた。おかげで今では、分厚すぎるガラス越しにしか眺めることができなくなってしまった。2022年5月29日(日)には、『ラ・ジョコンダ』の下部手の辺りにケーキが投げつけられガラスがケーキまみれになった事件が即座に警備員が拭き取り男を逮捕!この大きく分厚いガラスのお陰で『ラ・ジョコンダ』は、無傷ですみました。La Gioconda(La Joconde)本作品は・・・1962年〜1963年、アメリカのに貸し出され、ニューヨークとワシントンで一般公開された。次いで、1974年、東京とモスクワに貸し出された。この時の日本展の入場者数が、いまだに単館特別展示の世界記録となっている。現在では、文化財保護の観点から、国宝級の美術品の長期運搬や国外展示に規則がかけられているため、おそらくもう二度とフランス国外に出ることはないものと考えられている。今もルーヴル美術館の目玉として、多くの観光客が『ラ・ジョコンダ』のもとを訪れる。謎めいた微笑と優しげなまなざし、そして丸みを帯びた優美な姿態は、荒々しさが同居している幻想的な大地を背景に、時が止まったかのような不思議な静けさを創り出す。創作意図もモデルもよくわからず、多くの謎と伝説を生み出したこの作品は、レオナルドの数少ない完成作品の中でもとりわけ高い密度と完成度を誇る。レオナルドが、一生をかけて見出した、美の究極の姿である。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)究極の美にぽち
2022.07.19
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イタリアでいち早く「四分の三正面観」で肖像画を描いたレオナルドは『モナ・リザ』で肖像画の定義を完成させますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエッロは・・・『ラ・ジョコンダ』のスケッチを、さっそく自らの作品に活かしている。それは先輩への単なる敬意からではなく、レオナルドの工房で見た「四分の三正面観」が新しかったからこそである。『ラ・ジョコンダ』で完成されるこのスタイルの形式過程においては、シチリア島出身の画家:アントネッロ・ダ・メッシーナの影響があったと考えられる。イタリアにおける最初の油彩画家としても知られているアントネッロは、やはり北方のハンス・メムリンクが使っていたような、やや斜めをむいたモデルのポーズを『受胎告知のマリア』に用いている。ヴェール部分で色彩の剥離が顕著だが、左手前から照りつける光源をうけた、ヴェールの曲面をよく伝える光沢描写などに、画家の卓越した技術を認めることができ、また黒い背景に人物像を浮かび上がらせる手法は、画面にドラマ性を与えており、レオナルドのよき手本ともなっている。レオナルドは、すでに第一フィレンツェ時代に、『ジネヴラ・デ・ベンチ』で、この新たな構図を試みていた。他にドメニコ・ギルランダーイオ、ボッティチェッリや、ロレンツォ・ディ・クレディらを、『ジネヴラ』と並んでイタリアにおける同ポーズの先駆例とすることができる。レオナルドは続くミラノ時代に『白貂を抱く貴婦人』などで、熟成を重ね、そしてフィレンツェでの『ラ・ジョコンダ』で、「四分の三正面観」のポーズは完成された。ラファエッロは・・・1505年〜1506年頃に『一角獣の貴婦人』を描いている。この作品自体、ペルジーノに帰属されていた時期があり、さらに近年まで、アレクサンドリアの聖カタリナを描いたものだと思われていた。ところが、1935年の修復によって、聖カタリナの刑具である車輪の下から、一角獣が姿を現した。処女にしか懐かない伝説上の動物が、描かれていたことにより、描かれた人物の純潔が強調されていることがわかる。そのため、おそらくこの作品は、これからの結婚を控えた女性の見合いの写真のような機能を持っていたものと思われる。女性が座るバルコニーの両側に円柱があること、背後に風景が広がること、手を組んだ女性の上半身のみ描かれ、さらにそれが斜め前を向いていることなど、この作品は『ラ・ジョコンダ』と多くの点で一致する。こののち、ラファエッロはこの「上半身」で、「手を前で合わせる」「坐像」で、やや斜め前を向く「四分の三正面観」を肖像画の基本とする。完成作が極端に少ないレオナルドにかわって、ラファエッロは、夥しい数の肖像画をこの定義に則して描き、彼自身がその後「美の規範」(美のカノン)とみなされていくのにともなってそれが西洋美術の肖像画の定型ともなっていった。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽちmm
2022.07.18
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モナ・リザの背景に描かれている風景は、おどろおどろしくて、ちょっと怖いのですがレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。それにしても・・・背景に広がる風景の奇妙さはどうだろう?雄大だが、おそろしげささえある大気の色だけで遠近感を出す空気遠近法によって、はるか遠方まで広がるこの不思議な風景のモデルを、彼が生まれ育ったトスカーナ地方のどこかに見つけ出そうとする試みもなされてきた。しかし、これは明らかにどこかに存在しているような類の風景ではない。つまり、レオナルドによって創造された、彼がイメージする理想の世界に違いない。それでこそ、美を科学的真理と考えるレオナルドの代表作とするに相応しい。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は・・・鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学生理学・組織学・解剖学・美術解剖学・人体解剖学動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学・植物学鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルドは・・・人体と器機、建築物と宇宙など、あらゆる尺度の事物の間に見出した類比(アナロギア)は、単に形態の近似にとどまらず、機能をも共有している。つまり地球を流れる水は・・・人体における血液に等しい。〈大洪水〉の頃、世界は水によって生まれて形作られそして水によって破壊されて死んでいくと考えていた。たえず流れても尽きぬ川の水の不思議に対し、「地下を大きな水脈が流れる(Grandissimi fiumi corrono sotto terra)」との考えをふまえて、レオナルドはひとつの仮説を立てて考える。地下にある水は・・・地熱で温められ、水が細い管をのぼるように地下通路を上昇する。そして地上に出た水は冷えて、川となって流れると考えた。水の流れは地球の形を変え、最後にすべてを平らにし、あらゆるものを押し流して埋没させてしまう。この仮説に対し、温めたワインがフラスコを逆流する実験をおこない、この仮説を実証している。もちろん、誤った説ではあるが、重要な点は、実験によって仮説を実証しようとする近代的な思考にある。理に依ることなく、眼の判断と実践のみによる(per pratica e giudizio d' occhio senza ragione)画家は、認識することなくすべての物を自らのうちに模倣する鏡のようなものである。ーー「アトランティコ手稿」彼にとって科学は、絵画を正しく描くために必要で、また絵画は科学的でなければならない。よって彼の絵画には、彼の科学的思索の成果が込められていると見てよい。そして本作品の風景は・・・ほぼ確実に先の水の循環を視覚化したものである。画面中央左側に描かれた、地中で赤く熱せられた水は、細い通路をのぼって、上方の青い大海へと出る。地表では険しい山々が出現し、画面右奥へとつながる。右奥では豊かな大海の水が、時間をかけて徐々に川を創り出す。その終点には、この世界で人類の存在を唯一感じさせる橋が登場している。空に雲が描かれていないのも、ピエロ・デッラ・フランチェスカによる『モンテフェルトロの二連画』(ウフィツイ美術館)の裏面に描かれた凱旋図と同じで、一時的な時の流れをあらわすモティーフを描くことを避けるためだ。同様に、ここには一本の木もなく、人ひとりいない。こうした短期的な時間の移り変わりは描く対象から外される。ここは時間軸から離れた永遠の景色なのだ。つまりここに描かれているのは、普遍的な時の流れと輪廻転生にほかならない。川の流れはまた戻ってきて、女性の体内を貫通して左側の地中の管へと再び繋がる。こうして水はひとつの大きなサイクルを創り出す。そしてその起点が女性の心臓のあたりに重なるのはただの偶然だろうか?モデルの特定に注目が集まりがちだが、たとえ最初の制作動機が特定人物の肖像であったにせよ注文が失効して彼の個人的な作品となってからは、彼が考えた理念をこそ描き出す場となったに違いない。だからこそ、モデルは「誰かに似ている」のではなく、普遍的な美の理想像として「誰にでも似ている」のである。普遍的・理想的な女性像を描く場合、彼が思い浮かべるのはやはり母親に違いない。同性愛者であればこそ、そして幼少時に実母と離れ離れになったからこそ、彼は女性に対して、性的対象としての官能性よりも母性をこそ望むはずだ。ふっくらとしたこの女性は・・・喪服を思わせる黒いヴェールを頭からさげている。これはミラノで当時流行していたとの説もあるが、夫を亡くした後、レオナルドをたよって来た母が、死が二人をわかつまでの一年弱の間、喪服を着ていたことが本作品に影響したのかもしれない?あるいは、この女性像を、トリノの自画像にいくつかの特徴が似ていることをもって、彼の自画像の恣意的な変種だと考える説が有力とされた時期もある。それなら、もしこの女性の原型のひとつが母親であれば、母親と自らの顔に共通点がくつかあるのは当然だろう。母:カテリーナにしては若すぎるのでは?という疑問には、それならば、トリノの自画像も年をとりすぎているのでは?という疑問が答えになりそうだ。つまり、レオナルドは、恣意的に年齢を変えて描いていた可能性がある。自らの顔の場合は、内容的な深慮が反映されて加齢されたような効果となってあらわれ、そして母親の場合は、理想的な優しげな母性を視覚化したのではなかろうか。完成作を最後まで手放さずに手もとに置いていたこと、優しげな、しかしどことなく寂しげな微笑をたたえていること、そして何より、彼の理想とする宇宙の描写を背景にしたこの婦人像が、同様に彼の理想とする母親像であったとして何の不思議がああるだろう。彼が最後まで自ら所有していた残りの二枚は、男女合一体のような中性的な『洗礼者ヨハネ』と、母性そのものの追求にほかならない『聖アンナと聖母子』である。そして彼が晩年、子宮や胎児の研究を通じて、生命の発生の神秘に深い関心を示していたことを思えば、一生を通じて彼が追い求めた“母なるもの”への憧れがここにすべてこめられていると考えられる。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)母性にぽち
2022.07.17
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