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ヨハネス・フェルメール作品の中でも驚くほど小さな絵画です〜ググッと近づいて覗くとルーヴル美術館内の解説も読んでみましょうJohannes VERMEERDelftnt,1632-Delft,1675La Dentelliéreレースを編む女À dater assez tard dans I'oeuvre de I'artiste,アーティストの作品のかなり遅い時期に描かれたvers 1669/1670.1669年〜1670年頃Le livre posé en avant est trés probablement une Bible,目の前にある本は、おそらく聖書ce qui situe I'activté活動を位置付けるdu modéle dans une traditionnelle ambiance morale 伝統的な道徳的な雰囲気の中でモデルのteintée de religion,la femme宗教を帯びた、妻(qui n'est pas I'épouse de Vermeer comme on l'a dit sans preuves)証拠無しで言われたようにフェルメールの妻ではない人n'épousee d'ailleurs pas habillée en professionnelle.ちなみに結婚しないでください、プロの服を着ていない。Le coussin à gauche,左側のクッション、une merveille de couleurs,色の驚異est un coussin à couture où se rangeaient des accessoires de couture.ソーイングアクセサリーが収納されていたソーイングクッションです。Un chef-d'oeuvre de Vermeer par la concentration集中力によるフェルメールの傑作。du modéle et le jeu des couleurs exaltées par le fond gris clair.明るい灰色の背景によって強化されたモデルと色の遊びのヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は・・・32点〜37?点フェルメールの37歳〜38歳頃の作品です。ルーヴルの解説では、かなり遅い時期と記してあります。ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerLa Dentelliére『レースを編む女』1669年〜1670年頃油彩 カンヴァス 23.9cmx20.5cmフランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。レース編みは・・・17世紀のオランダに住む女性にとって、台所仕事と同様に大切な日常の仕事の一つであり、風俗画としてほかの画家も多く描いたテーマだった。本作では・・・そのようなありふれた場面を描きながらも、ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『ミルクを注ぐ女性』(牛乳を注ぐ女)1658年〜1659年油彩 カンヴァス 45.4cmx40.6cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(東京「上野の森美術館」フェルメール展外部ポスター撮影)『牛乳を注ぐ女』と同じく張り詰めた空気が画面を支配し・・・ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『レースを編む女』1969年〜1970年頃女性が指先一点に集中している緊張感を見る者にも与える。フェルメールの作品のなかでも23.9cmx20.5cmと特に小さい作品である。(参考文献:ルーヴル美術館内の解説文)(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.04.04
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17世紀海洋貿易で繁栄したオランダの黄金時代をテーマにした2点の単独男性像ですヨハネス・フェルメールJohannes VermeerL'Astronome,ou plutot L'Astrologue.1668『天文学者』1668年油彩 カンヴァス 50.ocmx45.0cmフランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。(ルーヴル館内:仏文解説文/1012年)De la période finale,最終期から、Froide et parfaite,冷たくて完璧、de Vermeer,フェルメール、tendant vers une stylisation archainte et une maniere fine,古風な様式と細かい方法に向かう傾向がある、toujours Plus Soigenée.常にもっときちんと。Variation sur le théme,テーマのバリエーションtrés apprécié dans La Hollande du XVIIc siécle17世紀のオランダで高く評価されています。(voir Dou,Rembrandt),デ・レンブラントを参照du savant-ou du sage-au trevail,職場の学者や賢人の、dans la tradition des figures de saint Jérome et des ermites 数字の伝統で、聖ヒエロニムスと庵en priére ou en méditation.祈りや瞑想で、Les objets d'astronomie 天体(globe de Hondius,1600,manuel de Metius,1621),地球儀デ・ホンディウス1600年、マヌエル・デ・メティウス、1621年dument identifiés,デュメントは識別します。montrent la qualité du réalisme vermeerien.フェルメールのリアリスムの質を示す。Le Géographe du musée de Francfort フランクフルトの美術館の地理学者とet L'astronome furent longtemps associés天文学者は長い間関連していた。(au moins de 1710 a 1797)少なくとも1710年から1797年までsans étre pour autant de véritables pendants.本当の相手ではなく。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国:デルフト)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメール36歳〜37歳頃の作品。単身男性像は・・・この2点のみヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『天文学者』1668年 フランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。単身の男性像を描いた作品は、ほかに・・・『地理学者』しか存在しないことから、二つの作品には、同一のモデルがいたと考えられている。有力な説は、フェルメールと同い年で同じ時期にデルフトに生まれたアントニー・ファン・レーウェンフック。顕微鏡を用い、初めて微生物を観察した人物として知られる科学者である。地球儀は・・・まばゆい光に包まれ「輝く世界」を思わせる。そこに手を伸ばそうとする男。その後の天文学の発展を予言するかのようだ。地球儀は・・・1600年頃アムステルダムの地図製作者ヨドックス・ホンディウスの手によって作られたものであることがわかっているヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『天文学者』のモデルとされているアントニー・ファン・レーウェンフック・・・とは?Antonie van Leeuwenhoek1632年10月24日〜1723年8月26日(90歳没)ネーデルラント連邦共和国デルフト出身。レーウェンフックは・・・専門的教育を受けていなかったが、自作の顕微鏡で大量の生物学上の発見をした。織物商だった時代に、洋服生地の品質の判定のために虫眼鏡を使って、生地の細部を見ていたので、レンズの取り扱いの実務経験は豊富であった。彼の顕微鏡は、径1mm程度の球形レンズを、金属板の中央にはめ込んだだけの単眼式のものであった。資料を載せる針は、ねじ式に微調整できるようになっていた。生涯に作った顕微鏡の数は・・・500にもなるとも言われる。それらを用いて身近なものを覗いて回り、様々なものを見て感動していた。彼は、それらの成果を発表する場を持たなかった。(参考資料:ウィキペディアさまより)「レーウェンフック」がモデルとされるもう一枚の絵画 『地理学者』1668年〜1669年頃油彩 カンヴァス 51.6cmx45.4cmフランクフルト「シュテーデル美術館」所蔵。『天文学者』と対をなすと考えられる作品。机の上に大きな海図を広げて、コンパスを手にする男性が、ふと手を休め、窓の外を見る瞬間をやわらかな日差しで描き出している。男性が羽織っている衣装は・・・「ヤボンス・ロック」 日本の着衣と呼ばれた日本の着物。当時世界を股にかけて活動していたオランダの東インド会社が遠く東洋の島国からもたらした衣装は、当時の富裕層のステータス・シンボルにまでなった。男の背後には・・・地球儀や地図もあり、海洋国として繁栄した17世紀オランダの黄金時代をあますことなく描いた作品である(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.04.03
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ニューヨーク・メトロポリタン美術館に展示された『少女』も真珠の耳飾りをつけていますが雰囲気がだいぶ違いますねヨハネス・フェルメールJohannes VermeerMeisjeskopje.『少女』1668年〜1669年頃油彩 カンヴァス 44.5cmx40.0cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメール34歳〜35歳頃の作品。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『少女』1668年〜1669年ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。この作品は・・・『真珠の耳飾りの少女』同様「トロニー」です。ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerGirl with a Pearl Earring 1665-66『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年油彩 カンヴァス 44.5cmx39.0cmオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。『少女』1668年〜1669年特定の女性を描いたものではない「トロニー」の作品。しかし、同じような構図で・・・「真珠のイヤリング」をしていながら、2作品の印象は・・・大きく異なる衣装のぎごちない表現や、肩と腕の関節の不自然さから、モデルにマネキンを使用して、描いたのではないだろうか?という意見もある『婦人と召使い』1667年頃、油彩 カンヴァスニューヨーク「フリック・コレクション」所蔵。指をアゴに当てる仕草をしながら・・・使用人に対し、困ったような表情を横顔からうかがわせる女主人。フェルメールの作品にしては、ややオーバーなポーズだ背景には・・・珍しく何も描かれておらず、二人の間にどのような物語が展開されているのか?想像力を掻き立てる。本作同様に、女主人と使用人と手紙が登場する作品にヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『恋文』1669年〜1670年頃 ・・・や、『手紙を書く婦人と召使い』があるが、いずれも使用人が、イニシアチブを取っているかのような印象を受けるのが興味深い。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.04.02
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ヨハネス・フェルメールの真作かどうか?論議を呼んだ作品ですが同じ服を着た作品が並んでいますヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『赤い帽子の女』と『天秤を持つ女』『フルートを持つ女』アメリカ合衆国「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」展示室にてヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。ヨハネス・フェルメール周辺の画家Attributed to Johannes VermeerGirl with a flute 1665/1675『フルートを持つ女』1665年/1675年アメリカ合衆国「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。『フルートを持つ女』と『天秤を持つ女』は、同じ展示室に並んで展示されています「同じ服」です〜お気づきでしたかヨハネス・フェルメールJohannes VermeerWoman Holding a Balanceoil on canvas,c.1664Wideener Collection 1942.9.97『天秤を持つ女』1662年〜1664年頃油彩 カンヴァス 40.3cmx35.6cm「ワシントン・D・C・ナショナル・ギャラリー」所蔵。私の大好きな作品です・・・ヨハネス・フェルメール周辺の画家Attributed to Johannes VermeerGirl with a Fluteooil on panel,probaly 1665/1675 ATTRIBUTED TO JOHANNES VERMEERWideener Collection 1942.9.98『フルートを持つ女』1666年〜1667年頃油彩 パネル 20.0cmx17.8cmアメリカ合衆国「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。『天秤を持つ女』と同じ服を身につけ、中国風の帽子を被った女性。ほかの作品のようにカンヴァスではなく、(パネル)板に描かれた「板絵」であることそして生彩を欠いた女性の表情などから、フェルメール作としない研究者もいる。近年、所蔵するワシントン・ナショナル・ギャラリーも「Attributed to Johannes Vermeer」(フェルメール周辺の画家)と表記している『合奏』1665年〜1666年頃、油彩 カンヴァス72.5cmx64.7cmアメリカ・ボストン「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」(盗難に遭い現在も行方不明)床に「チェロ」が置かれた室内で、3人の男女が音楽に興じている。左から・・・「ヴァージナル」を弾く女性。「リュート」を弾く男性。そしてその音色に合わせ「歌」を口ずさむ女性。今にも画面から音が聞こえてきそうな感じさえする壁には、風景画とともに、フェルメールが所持していたことがわかっているオランダ画家:ファン・バビューレンの『取り持ち女』が写しとられている(画面右側の絵)。娼家を題材にした作品であることから、3人が清廉潔白な関係でないことを暗示。参考にして描かれたと思われるフェルメールの『取り持ち女』ほぼ同じ構図の『音楽の稽古』と比較しても、3人の距離感の近さも含めて、親密な関係であることがうかがわれる(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.04.01
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ヨハネス・フェルメールの絵画は、何度も盗難にあっていますその作品とはまだ行方不明の作品も。フェルメール作品はなぜ盗まれるのか?ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。37点しか存在しないフェルメールの作品のうち、4点が、5回にわたって盗難にあっています高確率で発生するのは・・・それだけ「希少価値」が高いからですが、フェルメールほど、有名な画家になると・・・盗難品は売却できません!!それならどうしておもな目的は・・・政治的な脅迫のネタにするためなのです盗難にあったフェルメール作品とは・・・?1.盗難日=1971年9月24日、『恋文』盗難場所=ブリュッセルの展覧会場パレ・ゼ・ボザールより返却日=1971年10月3日。2.盗難日=1974年2月23日、『ギターを弾く女』盗難場所=ケンウッド・ハウス(ロンドン)返却日=1974年5月6日。3.盗難日=1974年4月26日、『手紙を書く婦人と召使い』盗難場所=ラスボロー・ハウス(ダブリン)返却日=1974年5月4日。4.盗難日2回目=1986年5月21日、『手紙を書く婦人と召使い』盗難場所=ラスボロー・ハウス(ダブリン)返却日=1993年9月1日。5.盗難日=1990年3月18日、『合奏』盗難場所=イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(ボストン)現在も行方不明。ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerThe Love Letteroil on canvas,c.1669-1670『恋文』1669年〜1670年頃油彩 カンヴァス 44.0cmx38.0cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。『恋文』を額縁からナイフで切り出した男は、貧民を救うための義援金を要求『ギターを弾く女』と『手紙を書く婦人と召使い』の時は・・・国際的な地下組織IRAが首謀者でした。いずれも取り戻すことができましたが・・・1990年に盗まれた『合奏』は、32年も経った今も行方不明のまま。美術館の展示室には、そのままの位置に額縁だけがかけられ、返却を待っています。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.31
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ヨハネス・フェルメールが33歳〜34歳頃に描いたワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の作品を見てみましょうヨハネス・フェルメールJohannes VermeerThe Girl with the Red Hatoil on Panel,c.1665Andrew W.Mellon Collection 1837.1.53『赤い帽子の女』1666年〜1667年頃油彩 板 22.8cmx18.0cmワシントンDC「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールが33歳〜34歳頃の作品。『赤い帽子の女』男性?・・・にも見えなくない!どこか謎めいた表情の女性が、こちらの存在に気が着いたかのようにふと顔を向けた一瞬をとらえたスナップショット的な作品。東京・上野の森美術館「フェルメール展」にて(部分)2018年撮影。顔は・・・大部分が、広いつばのある赤い帽子の影となっているため、左頬から口元にかけて、強い光が当たる部分との対比が鮮明で、見る者に強い印象を与える 研究者によっては、真作かどうか?疑問視する意見もあるが・・・1996年に23点ものフェルメール作品を集めて、「マウリッツハイス美術館」で開催された「フェルメール展」のチケットには、この作品が使用されたBriefschrijverde vrouw.1665-1666『手紙を書く女』1665年〜1666年油彩 カンヴァス 45.0cmx39.9cm「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。東京・上野の森美術館「フェルメール展」にて外看板撮影(2018年)画面左から差し込んだ光が、机上に置かれたさまざまなものや、女性のリボンやイヤリング、そして椅子の鋲にまで達している。手紙、真珠、黄色いマント、ライオンの頭部のついた椅子など・・・フェルメール作品に頻繁に登場するアイテムを、一枚の画面に光とともに収めた秀作であるちなみに、女性の後ろの柱には「恋人」の存在をほのめかす。ヴァイオリンのような擦弦楽器「ヴィオラ・ダ・ガンバ」が描かれていることから、女性が書いている手紙には恋人に宛てたラブレターだと解釈することもできる(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.30
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フェルメールの時代には楽器が恋のお相手を見つけるためのアイテムだったとは驚きましたがwoman with a Lute near a Window.1662-63『リュートを調弦する女』1662年〜1663年頃(窓辺でギターを弾く女)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『リュートを調弦する女』1667年〜1665年油彩 カンヴァス 51.4cmx45.7cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。フェルメールの絵を見ているとおなじみの白い毛皮付きの黄色いサテン地のマントを身にまとい窓辺で一人「リュート」を調弦している女性。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer「リュート」という楽器は、調弦が難しく、それに長く時間を費やすと聞きますが・・・「リュート」の音を発しているシーンを描いているにも関わらず、画面は、静寂に包まれているかのようだ壁の地図の下部には・・・「EUROPE」の文字があり、海には多くの帆船も描かれている。このことから、地図は・・・「船乗り」、リュートは・・・「恋人」、座る人のいない椅子が「待ち人の不在」、をイメージさせる。2018年・東京・上野の森美術館「フェルメール展」にて(部分)航海に出た恋人の帰りを想い、ふと窓の外に視線を向けた瞬間。であることを物語っている。Vrouw met waterkan.1664-1665『水差しを持つ女』1664年〜1665年(窓辺で水差しを持つ女)油彩 カンヴァス 45.7cmx40.6cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。画面中央の女性を・・・窓、テーブル、地図がバランスよく取り囲み、安定感を与える空間構成。光の表現も秀逸で、水差しや壁、そして女性の頭巾にいたるまで、窓から差し込む光が当たっている。金属の水盤の側面に映ったテーブルクロスの柄まで、描きこまれている点にも注目したいフェルメールらしい「青」が美しい本作も、19世紀には同時代のオランダ画家のメツーやデ・ホーホの作品と考えられていた(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.29
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フェルメールの絵には、楽器が多く描けれていますね〜さて何点見つけることができたでしょうかAttributed to Johannes Vermeer・・?17世紀オランダの市民にとって、酒場だけでなく、オルガンなどを演奏する教会やあるいは家庭での演奏など、音楽を楽しむ場所はいたるところにあり、身近な日常をテーマとする風俗画も多く描かれましたヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37?点真作であるか疑わしいものも含めその中で、フェルメールの作品には、12点に楽器が登場します当時の男女にとっては・・・教会やお祭りは出会いの場楽器を奏でて恋の相手を見つけるために、きちんと音楽の稽古をする必要があったのです。加えて、楽器は「愛の女神ヴィーナス」の子どもの持ち物だったことから、古来、「男と女の恋模様を表す小道具」として、絵画にも描かれてきました「楽器」が描かれている作品は、12点作品のどこに楽器があるのでしょうか楽器を描いた1枚目.『紳士とワインを飲む女』1658-59彼女が飲み干そうとしているワインは「誘惑」の象徴。椅子の上に弦楽器「リュート」が描かれています二人は、恋人同士であることを暗示している。2.『中断された音楽の稽古』1660-61テーブルの上に恋人を暗示する「リュート」が置かれ広げられた五線譜には点描で音符が描かれている。3.『音楽の稽古』1662チェンバロの一種「ヴァージナル」という古い楽器が、「愛」を表現するアイテムの一つとして描かれている4.『リュートを調弦する女』1662-65ヨーロッパの地図の下で「リュート」を調弦している女性遠距離恋愛の相手は「船乗り」なのでしょうか?座る人のいない椅子が待ち人をイメージさせるアイテム。5.『合奏』1665-66左の画中画と同じ風景が鍵盤楽器「チェンバロ」の蓋の部分に描かれている豪華な楽器を弾く若い娘。恋のお相手は音楽の先生か?手前に「チェロ」が描かれていて、もしかするとチェロを弾く男性かもしれません6.『絵画芸術』1666-67画家のモデルになっている少女は長い「トランペット」を持つ。天使は、たびたび長いトランペットを持った姿で描かれるので天使が、神のお告げを広く伝える存在であった彼女の愛を伝えるお相手は・・・?7.『フルートを持つ女』1665-1670東洋風の帽子をかぶり、左手に「フルート」を持って虚ろな目をして遠くを見ています。東洋からのお土産は、彼からのプレゼントかしら?8.『恋文』1669-71女主人は「リュート」に熱中し過ぎて家事がおろそかに?掃除しかけたモップも放り出されています!壁には帆船が描かれお相手は、海の彼方でしょうか9.『ヴァージナルの前に立つ女』1669-71「ヴァージナル」の前に立って鍵盤に手を置いてこちらに向かってポーズをとっています。画中画には、愛のお告げキューピッドが頭の上に描かれています10.『ギターを弾く女』1673-74楽器を次々と変えて描いてみましたが、リュートは、何度も描いたし・・・模索中新鮮さを求めたのでしょうか?リュートから「ギター」に変えました11.『ヴァージナルの前に座る女』1675フェルメール最後の作品とも言われる!画中画の「取り持ち女」の絵から、恋に揺れる女性を描いたものだと考えられる。ヴァージナルの前に座る女性は、暗い部屋で不安そうにこちらを見て心配げフェルメールの体調が絵にも表れています。12.『ヴァージナルの前の女』1670年頃上の作品とほぼ同じ「ヴァージナル」の前に座っています。とても小さな作品で最近真作であると鑑定されました。確かに・・・12枚ありましたね見つけられてホッと。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.28
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ヨハネス・フェルメールの作品の中で大好きな『天秤を持つ女』をじっくり観察してみましょう『天秤を持つ女』1662-65Perrlweegster.1662-65『天秤を持つ女』1662年〜1665年頃(真珠を量る女)油彩 カンヴァス 40.3cmx35.6cm「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。窓の上半分から、注ぎ込むやわらかな光が、テーブルの上の真珠を輝かせ、いかにも清らかそうな表情の女性を優しく包みこんでいる女性は・・・一人、何も載っていない天秤を持ち、それを見ている。女性の濃紺の服が、聖母マリアを連想させるという説もある。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールが32歳頃の作品、『天秤を持つ女』の女性は・・・なぜ空の天秤を持っているのでしょうか?そのヒントとなるのが、背後の壁にかかっている「絵」です近代以前の絵画では・・・画面に別の絵を描き込むことによって、見る者にある意味を伝えたり、強調したりすることがあり、その絵を「画中画」と呼びます。フェルメールもよく使った手法で、この作品には、『最後の審判』の絵がかけられています。画中画の『最後の審判』こんな感じキリスト教では、世界の終わりになると・・・死者、生者を問わず、大天使ミカエルに魂を天秤で計られ審判を受けて、天国と地獄とに振り分けられると言われており、その場面を描いたものです。ネーデルラントで見つけた『最後の審判』を集めてみました雲の上は・・・天国羽を広げる大天使ミカエルが裁きを下している瞬間地獄には、争いが尽きないです・・・愚かな人間たちが描かれています。『天秤を持つ女』の画中画にも・・・「大天使ミカエル」が描かれているはず・・・ですが、ちょうど女性の頭で隠されています。そのため、女性自身が「大天使」となって、魂を天秤に計っているという説もあります。フェルメールは・・・日々の営みのなかにも、最後の審判を忘れてはならないという、教訓を込めているのです。世界の平和を今こそ祈りたいです。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.27
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フェルメールの室内画でちょっとエロティックな雰囲気を描いた珍しい作品を3点鑑賞してみましょうか小道具によって2人の関係がわかってしまいます。2018年、上野・上野の森美術館「フェルメール展」にて(部分)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳?) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。壁に大きな地図を描いた画家。「光の画家」。1658年(26歳)〜1660年頃(28歳)の作品『ワイングラスを持つ女』1659年〜1660年頃油彩 カンヴァス 77.5cmx66.7cmドイツ・ブラウンシュヴァイク「ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館』所蔵。男がオレンジのサテン地のスカートをまとった女に「誘惑」を象徴するワインを勧める場面を描いている。男性の物腰や女性の笑顔から、フェルメールには珍しくエロティックな雰囲気が漂う。画面左奥には・・・すでに断られたのであろうか?肩肘をつきふてくされているような男性の姿も見える。下の『ぶどう酒のグラス』同様、ステンドグラスに描かれている女性が、馬を操る馬具(手綱)を手にしていることから、「節制」を暗示しており、快楽に溺れようとしている男女に対しての警告を発していることが読み取れる。『ぶどう酒のグラス』1658年〜1660年頃油彩 カンヴァス 65.0cmx77.0cm「ベルリン国立美術館」所蔵。上の『ワイングラスを持つ娘』と同様に、「誘惑」がテーマとなっているが、この絵では・・・椅子の上に弦楽器のリュートが描かれており、二人が恋人同士であることも暗示している。こうした小道具をたくさん使って、物語を巧妙に演出しているのがこの時期のフェルメールの特徴。男が右手に持つデルフト焼きのピッチャーの金具に表現された光が美しい『兵士と笑う娘』1658年〜1660年頃油彩 カンヴァス 50.5cmx46.0cmニューヨーク「フリック・コレクション」所蔵。壁に地図が描かれた最初の作品。これまでの作品の壁には、この二人の人間関係を捕捉するような宗教画などの絵がかかっていたが、これが地図に変わったことで、物語性が鑑賞者に委ねられることになった。同時に、地図を描くことにより、壁画の白さを強調する効果も狙っており、明暗のコントラストを際立たせた「光の画家」の萌芽を感じさせる重要な一枚である女性の服は・・・『窓辺で手紙を読む女』と同じである。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.26
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ヨハネス・フェルメールの住んだデルフトの生活が描かれた風景画と同時期に描かれた光を浴びた女性の肖像画を見てみましょうヨハネス・フェルメールJohannes Vermeerフェルメール作『小路』1658年〜1659年ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は32点〜37?点のみ。身長=165cm〜170cm(憶測)『窓辺で手紙を読む女』1657年頃油彩 カンヴァス 83.0cmx64.5cmドイツ「ドレスデン国立美術館」所蔵。左にある窓から差し込む光が、手紙を読み耽る女性だけでなく、壁にも表現されている。光を変幻自由に描くフェルメールらしさが、この作品以降、際立っいく絵の手前には、カーテンとカーテンレールが描かれている。当時、オランダの家庭では、保護を目的に絵にカーテンをかけていたが、それが画面の前に実際にあるかのように描くことで、見る者を驚かせ、視線を集める仕掛けとして使っている。また、窓ガラスに映る女の額まで丁寧に描かれていることにも注目したい。ほかの作品に比べて、見下ろしている視点であるため、画家が立って描いたとする見方もあり、これをもとに画家の身長を算出したところ165cm〜170cmだったとの結果も出ているヨハネス・フェルメールJohannes VermeerView of Houses in Delft,Known as “The Little Street"oil on vanvas,c.1660『小路』1658年〜1659年油彩 カンヴァス 53.5cmx43.5cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(現地・英文解説文)This is an unusual painting in Vermeer's oeuvre,これはフェルメールの絵の中で珍しい絵です。and remarkable for its time as a portrait of ordinary houses.この当時、普通の家を描くことは注目に値する。The composition is as exciting as it is balanced.構図のバランスが素晴らしいです。The old walls with their bricks,whitewash,レンガのある古い壁、漆喰、and cracks are almost tangible.亀裂はほとんど目に見えています。The location is Vlamingstraat 40-42 in Delft,場所は、デルフトのVlamingstraat 40-42番地です。Vermeer's aunt Ariaentgen Claes lived in the house at the right,フェルメールの叔母の Ariaentgen Claes が右の家に住んでいた。with her children,彼女の子どもたちと、from sround 1645 until her death in 1670.1645年頃から、1670年に亡くなるまで。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeerフェルメール作『小路』1658年〜1659年風俗画でありながらも・・・道端で遊ぶ子どもや縫物をする婦人の姿など、穏やかな日々の生活が丁寧に描かれており、17世紀のデルフトの街を散策しているような気持ちにさせられる。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeerフェルメール作『小路』1658年〜1659年描いた場所は特定させられていないが、一説によると、1982年に取り壊されたデルフト市内のある建物がこの絵にそっくりだという。(現地・解説文には住所まで明らかになっていますが。)『デルフトの眺望』1659-60ハーグ・マウリッツハイス美術館 96.5cmx115.7cm『デルフトの眺望』とともに、2点しか残されていない【風景画】のうちの一枚ですフェルメールの『小路』に描かれた風景は、当時のネーデルラント・・・現在のオランダとベルギーを含む地域を旅しているとフェルメールの『小路』を思い出しますオランダ・アムステルダムの・・・レンブラントの家を見ると・・・窓と緑の戸板までが、まったく同じですよね〜これは、フェルメールよりも26歳年上のレンブラントの家ですが・・・屋根の形は、違いますむしろベルギーの方が階段屋根が多かったようです。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.25
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ヨハネス・フェルメールは最初に歴史画や神話画を描いていましたが、室内画家としての模索をしている頃の2点の作品を見てみましょう 『眠る女』1657年頃ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳?) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメール24歳〜25歳の頃の作品ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer 『眠る女』1657年頃油彩 カンヴァス 87.6cmx76.5cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。フェルメールが得意とする・・・【室内画の単身人物画】の出発点となった作品ですそれまでのような、神話やキリスト教の説話の要素をまったく感じさせないという点では、初めて取り組んだ本格的な風俗画といっていい。ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerX線調査で・・・犬やほかの人物を描こうとした形跡が明らかになっているが、画家は最終的に『眠る女』だけを残したことによって、静かな音のない室内で眠る(または思索に耽る)女の存在を際立たせることに成功している画面左奥の壁の絵には、「愛」の象徴のキューピッドの足元に「偽り」を意味する仮面が描かれており、恋に悲しむ女を暗示させる。『取り持ち女』1656年油彩 カンヴァス 140.0cmx130.0cmドイツ「ドレスデン国立絵画館」所蔵。やりて婆(左から2番目の黒い被り物の女)が、男に娼婦(右端の女)をあてがう様子を描いた作品で、当時はこのような、娼家を描いた風俗画が流行していた。聖書の一場面である『放蕩息子』を描いているという説もあり、宗教画や神話画を描いていた画家が、風俗画への転身を模索していた時期の作品と思われている。左端の男性は・・・『絵画芸術』に登場する画家の後ろ姿(右)と同じ服装をしており、フェルメール自身ではないかと・・・指摘されている(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)自画像にぽち
2022.03.24
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フェルメールは初期の作品を火事で失ったと言われるために残念ながら現存するのは37点です。室内画が多いですが〜『フェルメールを分析する』単身で女性を描いた室内画が多いですね『赤い帽子の女』『天秤を持つ女』『フルートを持つ女』ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は・・・32点〜37?点(4点ほどがフェルメールの真筆か疑わしい)現存するフェルメール作品・・・37点室内画・・・30点80%・・・が室内画です。そのうち単身女性像・・・17点単身男性像・・・2点2人以上・・・11点風景画・・・2点歴史画・・・3点トロニー・・・2点(フェルメールの想像上の人物画)ほんまかいな〜確かめてみたくなりました【室内画】単身女性像・・・17点『眠る女』1656-57 ニューヨーク・メトロポリタン美術館 87.7cmx76.5cm『窓辺で手紙を読む女』1658-59ドレスデン・絵画館 83.0cmx64.5cm『牛乳を注ぐ女』1658-59アムステルダム・国立美術館 45.4cmx40.6cm『窓辺で水差しを持つ女』1662-65ニューヨーク・メトロポリタン美術館 45.7cmx40.6cm『青衣の女』1662-65アムステルダム・国立美術館 46.6cmx39.1cm『真珠の首飾りの女』1662-65ベルリン・国立美術館 51.2cmx45.1cm『天秤を持つ女』1662-65ワシントン・ナショナル・ギャラリー 40.3cmx35.6cm『リュートを調弦する女』1662-65ニューヨーク・メトロポリタン美術館 51.4cmx45.7cm『手紙を書く女』1665-66ワシントン・ナショナル・ギャラリー 45cmx39.9cm『レースを編む女』1669-70パリ・ルーヴル美術館 23.9cmx20.5cm『ヴァージナルの前に立つ女』1669-71ロンドン・ナショナル・ギャラリー 51.8cmx45.2cm『ギターを弾く女』1673-74ロンドン・ケンウッドハウス 53cmx46.3cm『信仰の寓意』1673-75ニューヨーク・メトロポリタン美術館 114.3cmx88.9cm『赤い帽子の女』1665ワシントン・ナショナル・ギャラリー 22.8cmx18cm『ヴァージナルの前の女』ラスヴェガス・個人蔵 24.5cmx19.5cm『フルートを持つ女』1665-1670ワシントン・ナショナル・ギャラリー 20cmx17.8cm【室内画】単身男性像・・・2点『天文学者』1668パリ・ルーヴル美術館 50cmx45cm『地理学者』1669フランクフルト・シュテーデル美術館 52cmx45.5cm【室内画】2人以上・・・11点『取り持ち女』1656 ドレスデン・絵画館 143cmx130cm『士官と笑う女』1658-59ニューヨーク・フリック・コレクション 50.5cmx46cm『紳士とワインを飲む女』1658-59ベルリン・国立美術館 65cmx77cm『2人の紳士と女』1660-61ブラウンシュヴァイク・アントン・ウルリッチ公美術館77.5cmx66.7cm『稽古の中断』1660-61ニューヨーク・フリックコレクション 39.3cmx44.4cm『音楽の稽古』1662バッキンガム・宮殿王室コレクション 74cmx64.5cm『合奏』1665-66ボストン・イザベラ・スチュアート・ガードナー美術館『絵画芸術』1666-67ウィーン・美術史美術館 120cmx100cm『女と召使い』1667-68ニューヨーク・フリック・コレクション 90.2cmx78.7cm『恋文』1669-71アムステルダム・国立美術館 44cmx38cm『手紙を書く女と召使』1670-72ダブリン・ナショナル・ギャラリー 72.2cmx59.7cm【歴史画】・・・3点1番最初の作品『マリアとマルタの家のキリスト』1654-55 エディンバラ・ナショナル・ギャラリー 160cmx142cm 『ダイアナとニンフたち』1655-56ハーグ・マウリッツハイス美術館 97.8cmx104.6cm『聖女プラクセデス』1656ニューヨーク・個人蔵 101.6cmx82.6cm【風景画】・・・2点『小路』1658-59アムステルダム・国立美術館 53.5cmx43.5cm『デルフトの眺望』1659-60ハーグ・マウリッツハイス美術館 96.5cmx115.7cm【トロニー】・・・2点『真珠の耳飾りの少女』1665-66ハーグ・マウリッツハイス美術館 44.5cmx39cm『少女』1668-69ニューヨーク・メトロポリタン美術館 44.5cmx40cm(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.23
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ヨハネス・フェルメールの初期の作品を鑑賞してみましょう〜神話や聖書に登場する場面を描いています。小道具が繰り返し使われているのを探すのも楽しみですフェルメール初期の作品『マルタとマリアの家のキリスト』1654年〜1655年頃油彩 カンヴァス 158.5cmx141.5cmエディンバラ「スコットランド・ナショナル・ギャラリー」所蔵。東京・上野の森美術館「フェルメール展」にて撮影(部分)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。1654年(22歳)〜1656年(24歳)初期の作品『マルタとマリアの家のキリスト』1654年〜1655年頃画家として出発したフェルメールは・・・当初、この作品のような聖書の一場面を題材にした「宗教画」を描いていました画面右からイエス、マルタ、マリアです。イエスを迎え熱心に働くマルタ(中央)は、何もしないマリア(左)に対して、不平を口にする。その直後に、イエスがマルタを諭した場面。(左)マリアの背中越しに描かれたタペストリーの織物はフェルメール作品に色合いを変えしばしば登場する『聖プラクセディス』1655年(フェルメール=23歳)油彩 カンヴァス 101.6cmx82.6cmアメリカ合衆国・プリンストン「バーバラ・ピアセッカ・ジョンソン・コレクション」所蔵。2世紀のローマ聖女プラセディスが、背後で血を流して横たわっている殉教者を、看取る場面が描かれている。20代初めに17世紀のイタリアの画家フェリーチェ・フィケレッツの作品を描写したとされる宗教画だが、真偽はいまだに議論が分かれている。なお、女性の顔立ちが『眠る女』と似ているという指摘もある。ここでも同じ織物が描かれています。『ディアナとニンフたち』1655年〜1656年頃油彩 カンヴァス 97.8cmx104.6cmオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。水浴後に・・・女主人と使用人たちが、くつろぐ場面のようでありながら、画面中央や女性は、額に三日月の髪飾りをつけていることから、ギリシャ神話に登場する月の女神ディアナだとわかる。周囲をとりまくのは、女神の従者である(ニンフ)たち。古代神話の一場面を描いた「神話画」の中には、この絵のように小道具によって、神話の世界があることを暗示させる作品もあり、総じて歴史画の一つのジャンルとされた。美しい色合いの衣装に身を包んだ女性たちには、「青と黄色の画家」らしい色彩がすでに現れている左下には、フェルメールにしては珍しく動物(犬)も描かれている。後世の手によって一度は青空が見える昼の情景に描き変えられていたが、1999年の修復の際、もともとは夜の情景だったことがわかり、本来の色へと戻された。また科学的な調査により、カンヴァスの右側が12cmほど切断されていることが判明している。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.22
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ヨハネス・フェルメールの代表作『真珠の耳飾りの少女』は、オランダのマウリッツハイス美術館の宝物です美しいですね〜しかし・・・どこかでお会いしませんでしたか?そうそう、イタリア・ローマでこの子です『ベアトリーチェ・チンチ』美しいですね〜イタリア・ローマの「バルベニーニ美術館」でお会いしましたね〜Palazzo Barberini誰もいませんが・・・バルベリーニ宮殿(ひとりじめ)ベアトリーチェ・チェンチは・・・ここににいますグイド・レーニGuido Reni attr.Bologna 1575-1642Batrice Cenci,c.1599.64.5cmx49.ocm『ベアトリーチェ・チェンチ』1599年頃?イタリア・ローマ「バルベリーニ美術館」所蔵。虚ろな瞳に哀しみをたたえた肖像画ですが、ポーズが、オランダの『真珠の耳飾りの少女』にめっちぁ〜似ていますヨハネス・フェルメールJohannes VermeerGirl with a Pearl Earring 1665-66油彩 カンヴァス 44.5cmx39.0cm『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年オランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。1559年頃の『ベアトリーチェ・チェンチ』1665年頃の『真珠の耳飾りの少女』は、フェルメールが・・・106年後に描いていますフェルメールには、海外旅行の趣味がなく、イタリアで見たという可能性は低いです。しかし、ベアトリーチェ・チェンチは大評判の絵でした。フェルメールは、この絵を何かで見て(真似?)いや、ヒントを得ていたとも思えます。それにしても似ていますよね〜ベアトリーチェ・チェンチの悲しいお話し・・・とは?Beatrice Cenci,1577年2月6日〜1599年9月11日(22歳没)教皇領・ローマ〜サンタンジェロ城にて斬首彼女の悲しいお話は・・・多くの文学・芸術の題材となった。伝説によれば・・・ベアトリーチェは、貴族の家に生まれた。父は、暴力的で不道徳な人間であった。母は、彼女が7歳の時に死去。兄もいたが、父に2番目の妻がきて弟も生まれた。一家は、ローマの北側・リエーティ近郊のペトレッラ・サルトに城を所有。父は、妻と息子たちを虐待し、ベアトリーチェには、性的虐待を行なっていた。父は、いつも教皇庁裁判所と度々悶着を起こしていたが、ある時、別の罪で投獄された。貴族であったので、すぐに恩赦で釈放されたが、その時、ベアトリーチェは・・・父から頻繁に受ける虐待を当局に訴えた!ローマ市民は、父がそういう人であることをよく知っていたが、何の手立ても打たなかった。父は、娘が自分を告発したことを気づき、ベアトリーチェと異母、2人の兄弟を追い出し、田舎の城に住まわせた。ベアトリーチェと異母、2人の兄弟は、全員で父親を殺すしかないと・・・決心。1598年、父が城に滞在中に事件が起こる!ベアトリーチェの秘密の恋人と召使いの2人に助けてもらい父に麻薬を盛ったが、殺すまでは至らず、やむなく家族全員で金槌で殴り殺し、死体はバルコニーから突き落とした。ベアトリーチェは・・・事故死を主張したが、信じてもらえなかった。ベアトリーチェの恋人は拷問を受けたが、口を割らずに亡くなってしまう。家族の友人は、もう一人の召使いからの事件発覚を恐れ、召使いを殺そうとするも失敗し、ベアトリーチェたちは、逮捕され、有罪判決を受けて「死刑を宣告」される。ローマ市民は、殺人の動機を知っていたので裁判所に抗議したので、処刑は延期されることになったが、チェンチ家の財産を狙っていたと思われる当時のローマ教皇クレメンス8世は、処刑を命じた。1599年9月11日未明、サンタンジェロ城広場に移送されたチェンチ家の家族、死刑台に足場が組まれ、兄は、四つ裂きの刑。母とベアトリーチェは、斬首。下の弟は幼かったので死刑は免れたが、家族の死刑を見届けさせられた。結局財産は没収され教皇の家のものとなった。ローマ「サンタンジェロ城」「サンタンジェロ橋」毎年、ベアトリーチェの処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持って、橋へ戻ってくるとの伝説が残る。ベアトリーチェの悲劇は小説などで語り継がれました。そうなると興味が膨らんできますが、『真珠の首飾りの少女』も・・・悲しいお話があったのでしょうか?それは、ちょっと違うみたいですフェルメールの・・・謎の少女。実は、当時流行していた「トローニー」と呼ばれる、ジャンルの絵なのです架空のフェルメールの想像の中の少女ということになります。グイド・レーニも、想像で描いたベアトリーチェ・チェンチだとも思われますが。そうなるとこの青いターバンは・・・エキゾチックなイメージで風変わりなターバンを巻かせたのです。ベアトリーチェ・チェンチの白いターバンは・・・意味が違っているのです。斬首の前の晩の姿を描いています。これは、マリー・アントワネットの斬首の時と同じ白い被り物首をはねられる時に・・・髪の毛で刃が滑らないためのもので、血を拭くためのものだとされています。同じように白装束です。んん〜ちょっと嫌な話になってしまいました気分を変えて明るいお写真を(おまけ)フェルメールの作品が収蔵されているオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」こちらが正面です。大好き過ぎて2回も訪問してしまいました(写真撮影:ほしのきらり)マリーにぽち
2022.03.21
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ヨハネス・フェルメールの大好きな風景画「デルフトの眺望」の鑑賞のポイントを見てみましょうオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」内 (中央)『デルフトの眺望』引いて見てもいい絵ですね〜フェルメールを独り占めヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。代表作『デルフトの眺望』鑑賞のポイント!ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerView of Delft.c,1660-61『デルフトの眺望』1660年〜1661年頃油彩 カンヴァス 96.5cmx115.7cm鑑賞のポイント1.オランダの風景画ならではの「空と雲」オランダでは・・・雨の降る日が年間180日を超えることもあり、この絵のような雨上がりの曇天が多かった。描かれている季節は・・・夏の初め。覆いかぶさるような暗い雲や水蒸気に反射して、きらめく光を、あますことなく表現するために、フェルメールは、画面の7割を空に費やした雲間からのぞく青空には・・・愛用のウルトラマリンブルーの絵の具が使われている。ヤコブ・ファン・ライスダール作『ウェイク・ベイ・デュールステーデの風車のある風景』1670年頃 油彩 カンヴァス 83.0cmx101.0cm「アムステルダム国立美術館』所蔵。17世紀のオランダの風景画家:ヤコブ・ファン・ライダールも、画面の大部分を使ってオランダらしい曇天の空を描いている。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeerロッテルダム門(右端)とんがり屋根が2本ある所鑑賞のポイント2. 「ロッテルダム門」デルフトはこの頃、周囲を防御のための壁で囲まれており、人々は、各所に設けられた門を通って街に出入りしていた。画面右手に描かれる「ロッテルダム門」は、すでに取り壊されてしまっているが、デルフト市街から東へ1kmのところには、「東門」が現在も残されており、当時をしのばせる。また、この絵でフェルメールは、「スヒーダム門」の位置を(中央)に実景とは少し変えて描くことで、景観との調和を図っている鑑賞のポイント3. 水面にも塗られた「ウルトラマリンブルー」空の青をキラキラと映し出している水面は、白い下塗りの上に、ウルトラマリンブルーを薄く塗り重ねて透明感を出している。建物の影の部分は・・・茶色がかった灰色と、灰色がかった青い絵の具で表現。さらにそれぞれの筆跡の間を、柔らかい筆でなでつけてかすみを与えている新教会(中央右の白い塔)鑑賞のポイント4. 「デルフトを象徴する新教会」1381年に建てられた「新教会」には・・・代々、オランダ王室の墓があることから、デルフト市民の誇りになっている。高さ約109mの塔を、雲間から差し込む光で照らし出すことで、デルフトの象徴的な建物を強調しようとする構図もあったのだろう。鑑賞のポイント5. 絵の具に混ぜられた「砂」建物に使われた絵の具には・・・なんと〜「砂」がっ!混ぜられている。さらに下塗りにも粒の粗い絵の具が使われており、厚く絵の具を塗り重ねた絵の表面には、凸凹が出ている。これが光を乱反射させ、雨に濡れた街の輝きを表現しているのだ。薄く塗られた空や水面との対比によって、さらに立体感が強調されている中央の左側が「時計塔」鑑賞のポイント6. 「午前7時を示す時計塔」「時計塔」の針は、朝の7時10分を指しているその時間なら、水面に映る建物の影は、もっと短いはずだがフェルメールは・・・影を午後のように引き伸ばして描いた。そうすることによって、港に奥行きが生まれ、画面の下半分が安定実景を描きながらも、理想的な風景にするため景観に微調整を加えたのだ。鑑賞のポイント7. 「消された男性」手前の船着場を歩く人々は・・・6人。最初、右端の二人の女性の右側にもう一人、帽子をかぶった男が描かれていたが、のちに塗りつぶしている。小さな人物一人という微妙な差ではあるが・・・画面全体の調和がとれなかったのだろう。妥協を許さない画家の精神がうかがわれる。なお、初期の修復作業で、1度その男が描き加えられたが、1994年の調査によって、フェルメールの意図が判明し、男は再び塗りつぶされた。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.20
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フェルメールの「デルフトの眺望」私の大好きなバロック期の風景画ですそれではオランダのハーグまでご一緒に旅を楽しみましょう オランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」とパレス(右)ここには、あの有名な彼女がいますヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年そうそう、何度訪れてもドキッとさせるまなざし描いたのは、フェルメールヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は・・・32点〜37?点その中で、一番人気の肖像画とフェルメールが二枚しか描いていない風景画の一枚がここにあります。『真珠の耳飾りの少女』の視線の先にあるのは、実はこの絵なのです。中央の大きな絵が・・・大好きな風景画ですヨハネス・フェルメールJohannes VermeerView of Delft.c,1660-61『デルフトの眺望』1660年〜1661年頃油彩 カンヴァス 96.5cmx115.7cmオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。最高傑作と評判の高い!!独創的な・・・風景画!20世紀最高のフランス文学「失われた時を求めて」プルーストが「私は世界でもっとも美しい絵画を見た」と絶賛したのが、この作品。2枚しかない風景画のうちの一点です故郷を理想的に表現するために、脚色しているのですが・・・あまりにも完成度が高いので、現実のままの景色だと錯覚させられるほどです。一貫して評価の高い傑作で死から21年後の1696年の競売では、200ギルダー(約200万円)という・・・フェルメール作品のなかでも、最高額がつきましたその120年後、この絵の購入を・・・「アムステルダム国立美術館」と「マウリッツハイス美術館」が競い合い、国王が仲裁して所蔵先を決めたという逸話も残っています。(左下)こちら岸に当時の一般市民が描かれています。右手に佇む二人の女性の右側に描かれた男性を塗りつぶした形跡が・・・この変更によって、川に映る青空の面積が増えてのびやかな印象が強調された水面にのびる対岸の建物の影は・・・茶色の濃淡で奥行きが表現され、水の流れによって、ゆらめく光は、水平に筆を運ぶことで、絶妙に描かれている女性の一人に(右から2番目)黄色いブラウスを着せ青いエプロンをさせているのも(この人?)フェルメールならではのこだわりだろうあと1枚の風景画は・・・ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerView of Houses in Delft,Known as “The Little Street"oil on vanvas,c.1660『小路』1658年〜1659年油彩 カンヴァス 53.5cmx43.5cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。・・・この絵も大好きです(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.19
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光の画家フェルメール「黄金の光」を浴びる少女の服は黄金に輝いたようですね〜そして26歳年上の巨匠レンブラントのダナエもみてみましょう上野・上野の森美術館「フェルメール展」にて、2018年フェルメール・・・とは?ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。光の画家と呼ばれた。【代表作】『真珠の首飾りの女』1664年頃油彩 カンヴァス 51.2cmx45.1cm「ベルリン国立美術館」所蔵。光に包まれてうっとりする少女は・・・ 受胎告知される聖母マリア・・・みたい?フェルメールの単身の女性像は、ほとんどが、「誰でもない誰か」?したがって私たちは、彼女たちの物語を勝手に想像をめぐらします『真珠の首飾りの女』の光の表現は、フェルメール作品の中でも、光に満ちた作品です『光の画家』と称されるフェルメールですが、少女に注がれる光は、神々しい神の世界に入り込んだような言わば、「受胎告知」を思わせますフェルメールは・・・『光の画家』同時代の巨匠のレンブラントは・・・『光と闇の画家』レンブラント・・・とは?レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインRembrandt Harmens van Rijn1606年7月15日-1669年10月4日(63歳没)17世紀・オランダ絵画黄金期に活躍した最大の巨匠スポットライトを当てたような強い光りによる明瞭な明暗対比や、赤褐色や緑褐色を基調とした輝くような色彩、場面状況を明確に伝える劇的な運動性登場人物に示される深い精神性を帯びた表情が大きな特徴である。レンブラントの光と深い闇を見てみましょう〜レンブラント『ダナエ』1636年185.0cmx202.5cm ロシア・サンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。幽閉されたギリシャ神話の王女「ダナエ」が、黄金の光に姿を変えて忍び込んだ「ゼウス」と結ばれる瞬間。純潔のまま神の子を宿す「受胎告知」です。見事に光と闇を描いたレンブラントです。「黄金の光」そうです〜フェルメールも「光のシャワー」を浴びた少女は、マリアが浴びた「神の祝福」のようですね(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.18
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フェルメール作品が上野の森に集まった2018年には喜んで予約して入館しましたが〜混んでてビュクり日本の美術館内部は撮影禁止なのでやむなく外の掲示を撮影いたしましたなかなか素敵なレイアウト4点の作品。一部分のみ2018年、東京・上野の森美術館「フェルメール展」にて『紳士とワインを飲む女』『手紙を書く女』『牛乳を注ぐ女』『真珠の首飾りの女』「上野の森美術館」外部ポスター2018年撮影 『真珠の首飾りの女』1662年〜1665年頃油彩 カンヴァス 51.2cmx45.1cmドイツ連邦共和国「ベルリン国立美術館」所蔵。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳?) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。30歳〜33歳頃の作品。『真珠の首飾りの女』を知る♪鑑賞のポイント1.「消された地図」少女の後ろの壁には・・・上半身と重なるように「地図」が描かれていたが創作の途中で塗りつぶされたことがわかっている。つまり、構図は、『手紙を読む青衣の女』とほとんど同じだったのだが、二つの作品は30代はじめのほぼ同時期に制作されたが、地図や窓の有無で印象が大きく異なる。地図という小道具を排除したため、窓から入る光そのものが主役であるかのような印象になり、衣装の黄の色彩も際立っている 鑑賞のポイント2.画面にアクセントをもたらす明るい朱色のリボン白と黄色で構成された画面で、ひときわ目を引く明るい朱色のリボンは、絵を見る者の視線を、うっとりする少女の表情へと導く役割を果たしている鑑賞のポイント3.最高級品の毛皮が使われたお気に入りの「黄色いマント」黄色いマントは・・・6作品に“登場”するお気に入りの小道具。イタチ科のオコジョの毛皮が襟などにあしらわれた最高級品で、死後作成された財産目録にも「白い縁取りのついた黄色いサテンのマント」と記されており、フェルメールが死ぬまで手元に置いていたもの、オコジョの毛皮は・・・王侯貴族に愛用され、ロシアから輸入されていたため値段も高かった純白になる冬毛がもっとも好まれ、ところどころに斑点があるのは、1年中色が変わらない尻尾の毛。かつては、王侯貴族のものだった毛皮を着せることで、庶民が着飾った姿を揶揄し、「虚栄心」や「自己愛」への戒めを暗示したとも言われる。鑑賞のポイント4.静かで穏やかな空間をかもし出す「空白の壁」これほど大きな空白は・・・ほかの作品には見られないこの絵の最大の魅力の一つ。「身づくろいをする女性」は、当時のオランダで好まれたテーマだが、ほとんどが大きな鏡や使用人などとともに描かれていた。フェルメールは・・・そうした小道具を用いない“引き算の美学”で、静かで穏やかな空間を表現したのだ鑑賞のポイント5.「鏡は虚栄心を暗示する」西洋絵画において、「鏡」は・・・真実の姿を映し出す一方、飾り立てた外見しか映し出さないため、「虚栄」を暗示するともいわれている。また、美しさの象徴であり、美の女神ヴィーナスとともに描かれることもある鑑賞のポイント6.「画面を上下二分する」明と暗の部分。光があたっているテーブルの上には・・・化粧用のハケと紙切れと小さな碗。その下方には光は届かず、布地に覆われている。最初はこの布は短く、テーブルの下には床が描かれていたのだが、フェルメールはここでも、“饒舌”であることをやめ、少女にだけ視線を集めるよう変更した鑑賞のポイント7.椅子の上には「リュート」が置かれていた。リュートは・・・マンドリンに似た弦楽器で、複数の弦を弾いて和音を出すことから、「人間関係」、とくに「恋人」のシンボルとされていた。リュートが椅子の上に描かれたままであれば・・・少女がこれから恋人の元へ向かおうと身支度を整えている場面だと想像できるのだが、フェルメールはこれを消してしまったしかし、それが逆に見る者の想像力を掻き立てる効果をもたらしている16世紀イタリアの「カラヴァッジョ」が描いた『リュートを弾く若者』ロシア「エルミタージュ美術館」所蔵。(フラッシュ禁止:展示室が暗くて撮影環境が最悪)(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.17
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ヨハネス・フェルメールの絵を見ていると同じ上着が6回も描かれていますね〜この絵は、雌牛の尿とカイガラムシがポイントさぁ〜どこから運んだのでしょう『真珠の首飾りの女』2018年、東京・上野の森美術館「フェルメール展」にてフェルメールは・・・「青の画家」であるのと同時に「黄色の画家」でもあり、現存する37点の作品のうち6点も黄色いマントをはおった女性を描いています。これもその中の一枚で、上着とカーテンのイエローがことさら美しく映え、画面に温かい印象を与えている名画ですヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。『真珠の首飾りの女』1662年〜1665年頃 東京・上野の森美術館「フェルメール展」にて(部分)フェルメールが多用したこの黄色の顔料は、インドのベンガル地方の特産で、15世紀ごろから、ヨーロッパに輸入され始めました。ちなみにその原料は・・・マンゴーの葉だけを餌として与えられた雌牛の尿を蒸発させて精製したものオランダやフランドル(ほぼ現在のベルギーにあたる)の画家たちは、このインディアンイエローを、陽光を表現する際に好んで用いています。また、髪のリボンには・・・カーマインという赤系の絵の具が使われていますが、これは南米・ペルーのエンジムシ(カイガラムシの一種)の雌が原料でした。私が訪問したメキシコの「カイガラムシ」は、大きなサボテンに付いています。それを葉っぱで、パラパラ集めると真っ赤に試しに塗ってみました見事な「カーマイン」です確か現地では、ジュースやお酒に入れたりした記憶が。15世紀から17世紀にかけて、ヴァスコ・ダ・ガマが・・・インド航路を開拓し、コロンブスが新大陸を発見した大航海時代の恩恵である、海外からの絵の具で、フェルメールは、名画を生んだのです真珠の首飾りを結ぶためのリボンを両手につまんで、身づくろいをしている裕福な家庭の女性。「私ってなんて美しいの〜」という声が聞こえそうなほど、その表情は、うっとりと放心したよう。古来、真珠は聖母の純潔の象徴とされますが、鏡に向かって美しさに見とれる女の姿は、虚栄心の表れ画家は、この美しい女性に、どちらを託したのでしょうか『真珠の首飾りの女』1662年〜1665年頃油彩 カンヴァス51.2cmx45.1cm「ベルリン国立美術館」所蔵。鑑賞のポイントは・・・明日に(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.16
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オランダ「アムステルダム国立美術館」の英文解説文を読んでみましょう〜おやっ?見解が違うのねヨハネス・フェルメールJohannes VermeerWoman Reading a LetterJohannes Vermeer(1632-1675)Enjiying a quiet,静かに楽しむprivate moment,プライベートな瞬間this young Woman is absorbed in reading letter in the morning light.この若い娘は、朝の光を浴びながら手紙を読みふけっています。She is still wearing her blue night jacket.彼女は、まだ青いナイト・ジャケットを着ています。All of the colours in the composition are secondary to its radiant lapis lazuli blue.全ての色の構成は、ラピス・ラズリーの輝きには及びません。Vermeer recorded the effects of light with extraordinary precision.フェルメールは、その並外れた精度の効果を記録しました。Particulary innovative is his rendering of the woman's skin with pale grey,特に革新的なのは、彼の描いた女性の淡い灰色の肌and the shadows on the wall using light blue.と水色を使った壁の影です。(英語解説文:アムステルダム国立美術館にて)写真撮影:ワシントン・ナショナル・ギヤラリーにてたまたま特別展を開催していましたヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『青衣の女』1663年頃『手紙を読む青衣の女』油彩 カンヴァス46.6cmx39.1cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(ワシントン・ナショナル・ギヤラリーにて撮影分)早朝の朝日の中、静かに手紙を読む若い娘さん、おそらく、遠距離恋愛の相手からのお手紙をナイト・ガウンを着たまま読んでいますね〜それにしても頬が黒いのが気になるのですが壁の影とな?まだまだ、謎は深まるばかり・・・(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.15
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フェルエールの代表作『手紙を読む青衣の女』を鑑賞するポイントを・・・7つ抑えて起きましょうヨハネス・フェルメールJohannes VermeerWoman Reading a LetterWoman in Blue Reading a Letteroil on canvas,c.166346.6cmx39.1cm『青衣の女』1663年頃(手紙を読む青衣の女)油彩 カンヴァス オランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は32点〜37?点と希少である。代表作『手紙を読む青衣の女』鑑賞ポイント!鑑賞のポイント1. オランダは「地図製作の先進国」16世紀〜17世紀、ヨーロッパの7割以上が建造されたと言われるオランダ。「地理学」も発達し、最新の地図が制作されるようになった。また、市民の識字率も高かったため、印刷業も発達。見た目にも美しい地図が制作され、室内の装飾としても好まれた。画中に描かれているのはフェルメールが所蔵していたネーデルラントの地図で、(現在のオランダとベルギーの一部)ほかの作品にも登場する。『兵士と笑う娘』にも色彩豊かな地図が描かれている。こうした細密な地図を描くことによって、高い技量をアピールする意図もあった鑑賞のポイント2. ぐっと進歩した「画面の構成」『手紙を読む青衣の女』フェルメールが7〜8年前に同じ主題で描いた『窓辺で手紙を読む女』と比較すると、(近景にカーテンを置いたり遠近表現を小道具に頼っている)進歩していることが見て取れる。構図がシンプルになり、服装や小道具を簡素にすることで、色彩の明暗が強調され、遠近は光と影で表現されている。フェルメール独特の静かで落ち着いた室内画は、この光と影の表現によって完成された。鑑賞のポイント3. なぜ「静謐な」日常を描いたのか?当時のオランダでは・・・日々の暮らしのなかに神の意志や警告、戒めがあると考えられていた。そのため市民は、黄金時代の豊かさを、神の賜物と考えて享受する一方で、快楽に溺れる危うさも意識していた。ありふれた日常を絵にしたフェルメールも、あえてにぎやかな場面を選ばず、静謐な空間を描くことによって、オランダ人のそうした考え方を示そうとしたとも考えられる。鑑賞のポイント4. 手紙が読める「知的な女性」14世紀〜15世紀、とくにネーデルランドでは、祈祷書の黙読が女性にいち早く広まった。これ以降、教会の外、たとえば自室で過ごすプライベートな時間にも書物を読む習慣ができ、女性の識字率が向上。オランダでは、印刷業の発達にともない書物の流通も盛んで、とくに知的な女性が多かった。鑑賞のポイント5.たっぷりした「スカートの着こなし」が流行していた。19世紀の画家:ゴッホがこの絵を・・・「手紙を読む身重の女性」と日記に書いているように、大きく膨らんだ女性のお腹は、妊婦のようにも見えるが、これは、当時流行していた着こなしだったという説も。当時ヨーロッパで好まれていたスペイン風のコルセットは、オランダではすでに廃れており、女性たちは、厚手の綿の入った腰上げまでのスカートをゆったりとはいていたからだ。鑑賞のポイント6. 17世紀に流行した「オランダ家具」造船業が盛んだった17世紀のオランダでは、木材加工の技術も高く、これを活用した木製の家具は、シンプルな設計ながら、しっかりとした作りで、ヨーロッパで人気を博していたと言う。だが、家具の実物はほとんど残っていないため、絵画に描かれたテーブルや椅子が当時を知る手がかりになっている。この張りの椅子は、『音楽の稽古』などにも描かれたもの。鑑賞のポイント7. 修復で蘇った「フェルメール・ブルー」2010年〜2011年に行われた修復によって、変色した表面のワニスが払われたため、フェルメールが描いた当時に近い「フェルメール・ブルー」が再現されたさらに、椅子に打たれた留め具の光の表現が見えるようになっただけでなく、かつての補修で描き換えられてしまっていた手前にある椅子の脚も、本来の形に戻された。17世紀にオランダ東インド会社を通じて、デルフトに伝わった磁器(デルフト焼き)も、フェルメール・ブルーを思わせる青が特色(参考文献:朝日新聞出版/フェルエールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.14
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ヨハネス・フェルメールの代表作『青衣の女』は2011年に修復を終えて本来の輝きが蘇ったのでありますヨハネス・フェルメールJohannes VermeerWoman Reading a LetterWoman in Blue Reading a Letteroil on canvas,c.166346.6cmx39.1cm『青衣の女』1663年頃(手紙を読む青衣の女)油彩 カンヴァス オランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。画面全体に・・・明るい黄色と青が輝いている2010年〜2011年の修復で、表面の保護膜(ワニス)が取り除かれたことにより、透明感のある本来の色のニュアンスが蘇ったなかでも地図の黄色が、女性の顔や手に、上着の青が・・・白い壁や、テーブルに共鳴しているさまがよくわかる。フェルメールは、色数を極力少なく抑えて、画面に上品な静けさをも垂らそうとしたのであるヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『青衣の女』1663年頃私は・・・ベルギーで絵画の修復を長い時間見せてもらいましたが、長い長い時間をかけて気の遠くなるほど緻密な作業を辛抱強く取り組む女性の姿に見ほれてしましました。フェルメールの『青衣の女』では、どんな修復が行われたのでしょうか?2011年に修復を終えた『手紙を読む青衣の女』には、いったいどんなことが行われたのだろうか「修復」とはいうものの、本来の姿は、画家本人以外誰も知ることはできないため、現状をいかに維持するかが重要とされており、絵画の表面を「洗浄」して、長い間に剥落・損傷した部分を「補彩」し、カンヴァスなどの変形が、これ以上進まないように「補修」することで、絵の状態を整えるのが、おもな作業である。「洗浄」はとくに重要で、具体的には・・・まず、表面に着いた埃や煤を落とし、年を経て変色してしまった作品保護のための天然樹脂などのワニスを除去。そして、絵の具の化学分析や、X線調査などにより、本人以外の加筆や手直しを損なっていると判断した場合には、それを取り除く作品を傷つけてしまう可能性もあるので、十分な事前調査が求められる。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.13
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ヨハネス・フェルメール『牛乳を注ぐ女』を鑑賞するポイントを8つ知ってみましょうヨハネス・フェルメールJohannes VermeerThe Kitchen Maid (The Milkmaid)1658-1659『ミルクを注ぐ女性』(牛乳を注ぐ女)1658年〜1659年油彩 カンヴァス 45.4cmx40.6cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(東京「上野の森美術館」フェルメール展外部ポスター撮影)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画商・画家を兼務。17世紀オランダの庶民の日常を描いた代表作『牛乳を注ぐ女』鑑賞のポイント鑑賞のポイント=1.「立体的な効果を生む影と白い線」顔の左頬や黄色い服の左半身に、強調された暗い影が描かれているのは、フェルメール流の演出明るく光のあたる壁との対比によって、女性の存在を画面全体から浮き上がらせる効果を与えている。明るい壁と女性の左半身との境い目には、白く細い線がうっすらと引かれ、さらに立体感を強めている。鑑賞のポイント=2.「途中で消された地図」X線調査によって・・・背景には『手紙を読む青衣の女』のような地図が描かれていたことがわかったしかし、フェルメールはこれを途中で塗りつぶして、何も無い壁に変更している。そうすることによって、見る者の視線が自然と、女性に集中するような効果を狙ったのだと思われる。ルーヴル美術館「ラファエロ・サンティ」作『美しき女庭師(聖母子と幼児ヨハネ)』1507年鑑賞のポイント=3. 聖母マリアが着る『聖なる青』西洋絵画では・・・「青い衣装を着ている女性」は、純潔な女性であることを意味するこれは聖母マリアを連想させるため。ヨーロッパでは・・・色彩にそれぞれ意味があり、現在でもたとえば、「青=聖母」「金・銀=キリスト」を思い起こさせるこれは日本人が・・・「朱色」を見ると神社など、神聖な場所をイメージするのに近い。鑑賞のポイント=4.「洗濯籠を決して描かれた足温器」右下の床に足温器を配置することで、女性と背景の壁との距離感が明確になっている。その手前にさりげなく置かれた小枝も、奥行きを示すさりげない演出。この床にはもともと、大きな洗濯籠が描かれていたのだが・・・テーブルの上にパン籠、左の壁にも籠があるため、モティーフの重複を嫌って変更したのかもしれない。「足温器」・・・とは?寒い台所の必需品。人を暖かくすることから、「他人への気づかい」を意味する。鑑賞のポイント=5. 光の反射は「明るい点描」窓からの光がテーブルの上のパンに反射して、ゴツゴツして質感まで表現されている光の反射は、明るい色の絵の具を使用して、点で描かれており、このテクニックは・・・ボワンティエ技法(点綴方)と呼ばれるフェルメール独特の表現テーブル上のパン籠にも同じ技法が使われている。鑑賞のポイント=6. ピンと糸を使って「遠近」を描いた。女性の右手の上には・・・小さな穴があるこれはフェルメールが、カンヴァスにピンを刺した跡。正確な構図を得るために・・・白い粉などをまぶした糸を何本かピンに結んで、画面の外側へ向けて張り、その糸をはじいてカンヴァスに白い跡をつける。その線をなぞって、窓枠などを画面上に組み立て他のである。これは遠近法で描くための方法で、「一点消失法」という。鑑賞のポイント=7. オランダ「市民のファッション」黄色と青のコントラストが、パッと目を惹く女性のファッション。16世紀には・・・下の絵のような白い頭巾とゆったりとしたやや暗い色の服が一般的だったが、17世紀オランダの黄金期には、インドなどの東方から、鮮やかな色の生地が輸入されるようになり、服の色彩も華やかになっていく。こうした流行は庶民層にも浸透していた。鑑賞のポイント=8. 「硬いパン」を牛乳で煮て食べた。当時のオランダでは・・・乾燥して硬くなったパンを牛乳に浸して、パンプディングや、パン粥などにして食べていた。鍋の左側にあるピッチャーには、その調理に使う、ビールが入っていたと考えられる。(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.12
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ヨハネス・フェルメール『牛乳を注ぐ女』は、オランダ黄金時代の「聖母像」とまで称されましたこの絵のお値段は・・・オランダ「アムステルダム国立美術館」生前から「傑作」と称賛された作品自分の工房を持たず・・・技法を継承する弟子もいなかったため、いつしか忘れられていたフェルメールは、19世紀中頃まで「謎の画家」と言われていた。しかし死後、『牛乳を注ぐ女』が競売にかけられた時、「デルフトのフェルメールによる、 かの有名な牛乳を注ぐ娘。芸術的」との称賛の声が残っており、生前から高い評価を得ていたと考えられる。最初に競売されたのは・・・1696年で、175ギルダー(現在の約180万円)で落札され、死後90年が経った・・・1765年には、560ギルダー(約600万円)まで値段は上がったこの時の全体の平均落札額が368ギルダーであり、この絵に高めの値がつけられたことがわかる。その後も競売にかけられる度に値段は上がり最終的には・・・1908年に、55万ギルダー(約4680万円)で、アムステルダム国立美術館が購入した。物価の変動もあり、単純計算はできないが・・・初めて落札されてから、じつに・・・3143倍の高騰だ!!112年前のお値段ですけど、現在のお値段が知りたいわ・・・ね。ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerThe Kitchen Maid (The Milkmaid)1658-1659『ミルクを注ぐ女性』(牛乳を注ぐ女)1658年〜1659年油彩 カンヴァス 45.4cmx40.6cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(東京「上野の森美術館」フェルメール展外部ポスター撮影)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画商・画家を兼務。17世紀オランダの庶民の日常を描いた代表作ミルクや肌などの明るい部分が、白い絵の具の小さな点の集合「点描」で表現されているのが・・・フェルメールならではのテクニックまた、この初期の絵では・・・白い頭巾や上着の袖などに粘りのある絵の具をゴツゴツと厚塗りすることで、みごとな現実感を出している。奥行きを感じるミルクポットの闇や、上着の前の合わせ目や、左肩から袖への影が、光を描くということは、影を描くことでもあるのだと、気づかせてくれる(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.11
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2018年に来日された「牛乳を注ぐ女」私も上野の森美術館まで観覧に参りましたその直後オランダ訪問すると・・・東京に行ってるよ!との監視員が説明。フェルメールさんはここでも人気者です。アムステルダム国立美術館展示室確か?ここにあるはず『牛乳を注ぐ女』を探している人々ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画商・画家を兼務。17世紀オランダの庶民の日常を描いた代表作ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerThe Kitchen Maid (The Milkmaid)1658-1659『ミルクを注ぐ女性』(牛乳を注ぐ女)1658年〜1659年油彩 カンヴァス 45.4cmx40.6cmオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(東京「上野の森美術館」フェルメール展外部ポスター撮影)『牛乳を注ぐ女』は・・・まだ若い20代後半に描かれた作品ですが、すでにフェルメールの特徴である青と黄色が鮮やかに対比されている点に注目ですまた窓枠などにこの画家ならではの巧みな遠近法が駆使されていて、当時から、「傑出したできばえ」と絶賛されていましたさらに、ガラスを通して差し込む柔らかな光は・・・「光の魔術師」と称されるフェルメールならでは。光によってできる影が、女性の姿をくっきりと浮かび上がらせ、壺の奥の暗い闇が、見る者の視線を一筋の白いミルクに誘います。台所で料理をしている一人の女性ありふれた庶民の日常のひとコマを描いた風俗画なのにこの作品には、むしろ静かな気品さえ感じられるのは・・・なぜなのでしょうか理由の一つは・・・フェルメールが愛したラピスラズリの青い絵の具の効果です。ルーヴル美術館「ラファエロ・サンティ」作『美しき女庭師(聖母子と幼児ヨハネ)』1507年通常は聖母マリアの衣装を描く時などに用いられる気高い色だったにも関わらず、庶民の生活の場面に、ふんだんに使用しているのですそんなフェルメールの美学ゆえに、この絵には、オランダ黄金時代が生んだ「聖母像」との別名が作られたほどです。フェルメールは、宗教画や、神話画から、風俗画まで、幅広く描ける卓越した技量とをもっていましたが、なかでも、その風俗画は、ヨーロッパ随一と称されています。16世紀フランドル(ほぼ現在のベルギーにあたる)で、盛んに描かれた風俗画は、ヨーロッパの絵画史に新たな流れを生みました。1648年にスペインから独立し、経済力をつけたオランダ市民は、壮大な宗教画を注文した王族貴族とは違い、狭い室内に飾れる、親しみやすい風俗画を好みました。フェルメールもその要求に応えて、暮らしのひとコマを描いたのです(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.10
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ヨハネス・フェルメールを語って第9回。ふふふ〜かなりの理解が進みましたでしょうかもっとサックリ語り整理してみますねヨハネス・フェルメールJohannes VermeerWoman in Blue Reading a Letteroil on canvas,c.166346.6cmx39.1cm『青衣の女』1663年頃オランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。(ワシントン・ナショナル・ギヤラリーにて撮影分)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画商・画家を兼務。『フェルメール・5つの特徴とは?』第9回特徴1.こよなく愛した『青色』フェルメールの大きな特徴は・・・極端に色の数が少ない『真珠の耳飾りの少女』や、『牛乳を注ぐ女』などを見ても、画面で目を引くのは「青」・・・あお!そして「黄色」・・・きいろ!の2色です特に「青」には、こだわりがあり、古代から珍重された宝石、ラピスラズリーを粉末にした効果な絵の具を使いましたこのため、画面の中で際立つ独特な「青」は・・・「フェルメール・ブルー」とも呼ばれています。この「青」を、たとえば・・・・赤いスカートや、黄色い衣などにも混ぜていたほど、愛していたのですそして「黄色」は、正反対の色として、「青」と隣り合わせて配置することによって補色の効果を生み、互いの色をもっとも引き出てあう役割を果たしています特徴2.『オランダに生まれた画家』フェルメールが生まれた17世紀前半のオランダは・・・まさにバブルの絶頂期!16世紀後半に、スペインに対する独立戦争を始めると、その高い造船技術を活かして、1602年、世界初の株式会社である「東インド会社」を設立世界の3分の2の船舶を保有して、海外貿易を独占しました!海運国としてヨーロッパで、もっとも栄えたこの国には、世界中の文物が集まり、商工業も発展特徴1.で紹介した「ラピスラズリー」をフェルメールが入手できたのも、そのおかげだったのですそして、この膨大な富を背景に市民階級が力をつけ、絵画の注文主となりました。身近で理解しやすい日常的な場面を描いた「風俗画」が人気を博したため、フェルメールも、このジャンルに挑戦まさにバブル経済期のオランダが生んだ画家と言えるでしょうヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『天秤を持つ女』1662年〜1664年頃特徴3.14人の子だくさん『宿屋のおやじ』フェルメールの作品を見ていると光あふれるアトリエで、絵画の制作に一人黙々と打ち込むそんな画家の背中を想像してしまいますが・・・彼が生まれた家は、酒場も兼ねていた宿屋。20歳の時に父親が亡くなったため、フェルメールは・・・その仕事をそっくり引き継ぎました。つまり、「画家」であるのと同時に、「宿屋のおやじ」でもあったのです。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『デルフトの眺望』特徴4.現存している作品は『37点のみ』43年の生涯のうち、画家として活動したのは・・・29年ほど。22歳の時に起こった故郷:デルフトの火薬庫の大爆発で初期の作品が焼失してしまったとも言われ、現存するのは・・・「37点」だけです。しかもそのうちの数点を、フェルメール自身の作品ではないと指摘する研究者もとくに初期の作品は・・・有名な『真珠の耳飾りの少女』などとは、技巧も非常に異なるため、真偽が揺れています『フルートを持つ女』1665-1670とすると、フェルメールは1年間で、1点ないしは2点の作品しか描かなかったことになります。晩年は、義母の仕事も手伝っていたため、じっくりと制作に没頭する時間が少なかったのかもしれません。いずれにせよ、世界の17の美術館にのみ所蔵されている(2点を除く)その希少性も手伝って、フェルメール作品の謎めいた魅力は増すばかりです同時代の巨匠:レンブラントの通称『夜警』レンブラント「市警備隊バニング・コック隊の集合」1642年特徴5.最大のライバルは『レンブラント』フェルメールと肩を並べる圧倒的なスーパースターと言えば・・・巨匠「レンブラント」です聖書の場面を描いた物語画や、集団肖像画などを得意としていました。どこにでもありそうな日常のひとコマを小ぶりな画面に作り出したフェルメールとは、対極にある画家です。レンブラントのほうが・・・26歳年上で、活躍していた都市も・・・首都アムステルダム、と、異なるため実際に二人の間に交流があったわけではなく、フェルメールの師と考えられるファブリティウスが、一時期レンブラントの弟子だったという関係にあります。しかし、この二人は美術史上、オランダの画家と言えば・・・実力と知名度で1、2を争うほどの「ライバル」と言ってもいいでしょう(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.09
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真珠の耳飾りの少女の魅力に夢中であります〜なぜに惹きつけられるのでしょうかワクワクヨハネス・フェルメールJohannes VermeerGirl with a Pearl Earring 1665-66『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年油彩 カンヴァス 44.5cmx39.0cmオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画商・画家を兼務。『真珠の耳飾りの少女』の魅力を探る!!魅力その1. 宝石を砕いて作った絵の具強い印象を与える絵の具は・・・「海を越えてきた青」を意味する「ウルトラマリンブルー」と呼ばれ、普通の絵の具の100倍もするお値段だった!それは原料のラピスラズリが中東のアフガニスタンから海を越えて運ばれる、純金と同じほど高価な宝石だったため。時間による色の劣化も少なく、今も輝きを放っている。魅力その2. 背景の闇にも一工夫背景に透明な緑色がかった絵の具を重ねて塗ることで、深みとニュアンスを出している。なお、この絵は肖像画ではない不特定の人物を描いた「トローニー」と呼ばれるもの。モデルがいないという意味ではなく、肖像画のように特定の人物に似せる必要も、職業や性格を表す背景や小道具を描く必要もないため、画家が自由な発想で描くことができたヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『少女』1668年〜1669年油彩 カンヴァス 44.5cmx40.0cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。現存する37作品のうち、「トローニー」は、『真珠の耳飾りの少女』と『少女』の2点だけ。魅力その3. 親密なまなざしを描くテクニックこちらをじっと見つめる、やや灰色がかったうるおいのある青い瞳に置かれた一点の白は、いきいきとした少女の表情を演出する画家のテクニックの一つ。まるで少女と二人だけの空間にいるような錯覚を起こさせる。この親密なまなざしから、モデルは妻や娘など画家と親しい人物だとも言われているが、真相は不明。魅力その4. なぜターバンを巻いているのか?当時のオランダは・・・カラフルなターバンをする習慣はなかったが、イスラームやインドなどの異国文化の象徴であったため、ファッションの先端ともされた。フェルメールは・・・少女に東洋的な装いをさせることで、神秘性を高めようとしたと考えられる。また、当時イタリアで話題となっていた絵にヒントを得たという説もある。Guido Reniグイド・レーニ作1575年11月4日〜1642年8月18日Beatrice Cenci 1599?『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』1599年?イタリア・ローマ「バルベリーニ国立絵画館」所蔵。これは、振り返ったポーズに顔に、ターバンまで、とても似ていますね〜魅力その5. オランダで流行した真珠真珠は古代から「海の宝石」として珍重されたが・・・フェルメールが活躍した17世紀のオランダでも流行少女の真珠は、直径2cmとかなり大ぶりなため、実物ではなく、画家が想像で描いたのではないかとも言われている。魅力その6. フェルメールの青と黄色フェルメールは異国情緒を表現するために、青と黄色の組み合わせを特に好んだ。従来のキリスト教社会では・・・ユダが黄色の服を着たいたことから、裏切りを表す色とされて好まれなかったが、補色の関係にある2色の響きあいを大胆に使っている。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『リュートを調弦する女』1667年〜1665年ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。魅力その7. 左上から降り注ぐ光少女を照らす光には・・・包み込むようなやさしさがある。当時の地図によれば、フェルメールのアトリエは、北東に面しており、高原の高さと考え合わせると、これは北から当たる午後の光であることがわかっている。左上から光が注ぐ構図は、フェルメールの室内画の特色。このことから、アトリエの東側の壁に向かって絵画制作をしていたと推測できる。『リュートを調弦する女』は・・・左から差し込む光が、『真珠の耳飾りの少女』と比べて低く、夕暮れの光と思われる。魅力その8. 印象的な振り返るポーズふと振った姿か?それとも別れを惜しみながら向き直った姿なのか?わずかに顔を傾けて肩越しに見つめてくるポーズは、さまざまな物語を想像させる。本作最大の魅力。製作の途中で画家が、構図を変更するのは珍しくないことだが、首の後ろが多少修正されている以外は、その痕跡がなく、この印象的なポーズのイメージが、最初から完全にかたまっていたことがわかる。ヨハネス・フェルメールJohannes VermeerLa Dentelliere『レースを編む女』1669年〜1670年頃油彩 カンヴァス 23.9cmx20.5cmフランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。『レースを編む女』も、頭を傾けている一瞬の場面をとらえた、日常の仕事に専念する人物描写もフェルメールの真骨頂。魅力その9. 光の反射の効果をねらった白い襟白い襟は画面のアクセントとして効果的だが、フェルメールはもう一つ。光の反射を表現するための重要な仕掛けとして使っている。大きな耳飾りの下部の丸みがかった部分を見ると、表面にわずかに映る白い襟が描きこまれていることがわかり、左頬には、真珠に反射した光が描かれている。随所に見られる細かな表現に注目したい(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.08
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フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』肩越しにチラ見するこのモデルは誰なのでしょうかMauritshuisオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」門前にてヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画家を兼務。代表作はヨハネス・フェルメールJohannes VermeerGirl with a Pearl Earring 1665-66『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年油彩 カンヴァス 44.5cmx39.0cmオランダ・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。訴えるようなまなざしで、肩越しにこちらをチラ見する美しい少女。絵のモデルは・・・もしかしてフェルメールの恋人?それともお嬢さん?見る者を、ふとそんな気にさせるこの絵は・・・37点しか存在しないこの画家の作品のなかでも、最も人気が高く、「オランダのモナ・リザ」とも呼ばれています。La Joconde c. 1503-1519『モナ・リザ』1503年〜1519年頃ポプラ板に油彩 77.0cmx53cmフランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。それは・・・レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』が、かつて言われたように、謎の微笑をたたえるこの女性が、実在する人物ではなく、フェルメールが理想とした女性だからだ、とも言われます。これほど見る者を魅了するのに・・・少女はどこにいるのかも、誰なのかもわからないまま、カンヴァスの中で300年を生きてきました。大胆なターバンは・・・フェルメールがもっとも好んだ色この絵の具は、材料がラピスラズリという宝石のため、非常に高価でしたが、借金をしてまでこの「青」にこだわり続けました。フェルメールの死の翌日、妻は破産を申告しますが、原因は絵の具の借金だとさえ言われるほどです。今では100億円とも言われるこの絵は、死後約200年にあたる1881年の競売にかけられた際には、評価できないほど汚れており、わずか2ギルダー30セント(約1万円)で落札されました安い!『真珠の耳飾りの少女』のモデルは・・・誰?少女のモデルは・・・フェルメールが愛した使用人だった!いやいや〜2003年に映画化された「真珠の耳飾りの少女」の影響で、そう信じている人も多いが、これはあくまでも、原作の同名小説(1999年)を書いたアメリカの作家:トレイシー・シュヴァリエによる創作。整った顔立ちと深いまなざしは、ほかの作品のモデルとはまったく異なるため、少女の正体はわかっていない。フェルメールの長女:マーリアや、妻、愛人などとする説もあるが、画家をとりまく人々の肖像画が残っていないので、真相はいぜん闇のなか・・・・だが、それがかえって何通りものストーリーを生む、この作品の魅力となっている(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)モナ・リザにぽち・
2022.03.07
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オランダの同時代に活躍した巨匠レンブラントとフェルメールは会ったことは無いのかな年齢は、かなり違うけど・・・スペインのガウディとミロは、知り合いだったので気になる接点を探してみたいオランダ「アムステルダム国立美術館」巨匠:レンブラントの『自画像』レンブラント・ファン・レインRembrandt Harmenszoon van Rijn1606年7月15日〜1669年10月15日(63歳没)・・・26歳下のフェルメール・・・ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer1632年10月31日〜1675年12月15日(43歳没)地方都市デルフトの画家「フェルメール」首都アムステルダムで活躍していた巨匠「レンブラント」同じ時代に生きた画家ですが・・・活躍した場所は、国内でもかなり遠いフェルメールの『レースを編む女』1669年〜1967年24cmx21cm小さな絵を多く描いた・・・フェルメール巨大な作品を描いた・・・レンブラントレンブラントの通称『夜警』363cmx437cm「市警備隊バニング・コック隊の集合」1642年レンブラントが・・・36歳の時に描かれた闇と光のコントラストが際立つ大作!本作のような集団の肖像画は、全員の顔が平等に、はっきりと見えるように描かれるのが、常套手段だったが、レンブラントはスポットライトを浴びているような中央隊長と、彼の命令に耳を傾ける副隊長を浮かび上がらせ劇的な効果をねらっている。中央やや左の女性のモデルは、妻:サスキアとする説もある。フェルメールの生きた17世紀オランダの絵画は、経済的繁栄を背景に、バブル時代を迎えていました。当時、オランダを訪れた外国人は、絵画が、一般市民の間に広がっていることに驚いたと言われています。絵の注文主は、力をつけた市民だったので、絵画の主役も彼らが愛し、理解しやすく、親しみやすい身近なものが選ばれました。フェルメール『小路』を鑑賞する人々風俗画(その時代の人々の暮らしを描いた絵画)や、静物画、風景画など・・・さまざまな分野の絵画が、百花繚乱の時代でした。その中で押さえておきたい画家が、あらゆるジャンルで抜群の才能を見せたスーパースターレンブラントですフェルメールよりも・・・26歳早く、オランダの古い大学都市ライデンで生まれたレンブラントは、物語画や宗教画にはじまり、官能的な裸婦などを描き、フェルメールが生まれたころ、首都アムステルダムに移ると、人気画家として一気に脚光を浴びます。そして、1642年、36歳で有名な大作『夜警』を描きました。同年、愛妻を亡くすと、息子の乳母と家政婦を愛人にするも、二人とも死別。63歳で生涯を閉じました。フェルメールの師と言われる「ファブリティウス」もレンブラントの弟子の一人。ということは・・・フェルメールも間接的に影響を受けていたかもしれないなどと想像してみるのも美術史を知る楽しみの一つですね(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待などより)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールの光は、フェルメールにぽち
2022.03.06
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オランダはバブル時代から一気に衰退してフェルメールも借金を残して43歳の若さで11人の子どもを残して亡くなりますヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『恋文』1669年〜1670年頃オランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。オランダは・・・バブル時代から、衰退へ。フェルメールは、膨大な借金を残して、43歳の若さで死去。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『レースを編む女』1969年〜1970年頃フランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。脂ののったフェルメールは・・・『レースを編む女』や『恋文』などを制作し、画家としてのテクニックを磨いていきますしかし、1672年、フランスのルイ14世がオランダに侵攻。加えてイギリスとの戦争も再び勃発しオランダの経済状況は、ますます悪化します。フェルメールは、40歳になっています。不況のため絵も売れず、3年間ほとんど収入がないまま借金は膨れるばかり・・・。義母に頼る生活が続きます。金利で生計を立てていた義母は、返還されない貸付金の回収をフェルメールに任せます。フェルメールは、オランダ中を取り立てのために歩き回り制作に専念できなくなるという悪循環のなか、国の衰退に寄り添うように・・・43歳で死去しました。11人の子どもを抱えた未亡人は、夫がこの世を去った翌日、裁判所に自己破産申請の嘆願書を提出。夫が遺したのは、数枚の作品と借金だけそれもパン代のかたに、遺された絵を渡すほどでした遺産の絵画は競売にかけられ、各方面に散逸。フェルメールに光が当たるようになったのは、死後200年経ってからのことなのです。フェルメールの死因・・・とは?未亡人によれば、晩年のフェルメールは、「ある日は元気かと思えば、 ある日は病気という具合でした」と言い、躁鬱病のような状態だったと思われる。自分に借金取りを任せる義母との同居も、困窮生活にあえぐ画家を、さらに追い込んでいたのかもしれない?(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.05
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ヨハネス・フェルメールは、当時ヨーロッパで宗教画や歴史画が崇高なものだと信じられた時代に一般の市民を描くのです宗教画『マリアとマルタの家のキリスト』1654-55 (部分)東京・上野の森美術館「フェルメール展」外部展示ポスター撮影エディンバラ・ナショナル・ギャラリー 160cmx142cm フェルメール・・・とは?ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。《画家としての評価が上がっていく》画家フェルメールの挑戦は・・・物語画からスタートしました。ヨーロッパでは、宗教画など歴史を描く歴史画が崇高なものだと考えられていたからです。しかし、市民社会の成熟のより、風俗画の人気が高まると、シフトチェンジを試みます24歳で・・・『取り持ち女』1656 を完成さらに・・・『眠る女』1656-57 を描いて・・・いよいよ風俗画家としてのキャリアを踏み出しました『窓辺で手紙を読む女』1658-59などの傑作を次々と描きますが・・・すぐに収入に結びついた訳ではなく義母の援助を受けつつ、同居を続けています。経済的に逼迫し、知り合いに借金したり3人の子どもを失うなど・・・生活は苦しいものでした。一方、画家としての評価は上がり、29歳という最年少のスピードで、聖ルカ組合の理事に選出されます。借金を背負いながらも次々と描き続けます・・・『士官と笑う女』1658-59『牛乳を注ぐ女』1658-59(部分)東京・上野の森美術館「フェルメール 展』外部展示ポスター撮影『紳士とワインを飲む女』1658-59(部分)東京・上野の森美術館「フェルメール 展』外部展示ポスター撮影『小路』1658-59『デルフトの眺望』1659-601660年代には・・・『手紙を読む青衣の女』や、『真珠の耳飾りの少女』などの日本でもおなじみの傑作を描いていきます。『2人の紳士と女』1660-61『稽古の中断』1660-61『音楽の稽古』1662『窓辺で水差しを持つ女』1662-65『青衣の女』1662-65『真珠の首飾り』1662-65(部分)東京・上野の森美術館「フェルメール 展』外部展示ポスター撮影『天秤を持つ女』1662-65ワシントン・ナショナル・ギャラリー 『リュートを調弦する女』1662-65ニューヨーク・メトロポリタン美術館 『手紙を書く女』1665-66(部分)東京・上野の森美術館「フェルメール 展』外部展示ポスター撮影『真珠の耳飾りの少女』1665-66ハーグ・マウリッツハイス美術館 『合奏』1665-66そして30代の半ば・・・一つの頂点となる『絵画芸術』によって、『絵画芸術』1666-67自ら選んだ画家という職業に対するプライドを高らかに謳いあげました(参考文献:朝日新聞出版/フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.04
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「フェルメール」謎の画家!43年の生涯をたどってみましょう〜死後200年間も美術界から忘れ去られていましたが何と〜すごい人気にヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『天文学者』1668年 フランス・パリ「ルーヴル美術館」所蔵。幸いなるかな、その火のなかより、ふたたびフェルメールの起き上がり、彼の人のあとを大家然と踏みゆきたり。(アルノルト・ボンの詩「不死鳥」より)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)フェルメールとされる自画像『取り持ち女』に描かれている左端の人物がフェルメール自身を描いたと思われる。画家修行をしつつ、宿屋兼居酒屋を経営したフェルメールは、20歳でプロの画家となります。しかし、その歩みは、順風満帆ではありませんでした。「宿屋に生まれた少年」小都市の町家の一隅で、何の変哲も無い日常生活を営む女性を描き続けたフェルメール。現存する37点の作品の世界は、静寂そのものですが、43年の生涯は・・・14人の子どもを養い借金を重ねて奔走する生々しいものでした。アトリエに籠る孤高の天才のイメージとは程遠く・・・。『デルフトの眺望』デルフトの中心地、マルクト広場に面した宿屋が、フェルメールの生まれた家です。9歳の時にすぐ近くに引っ越しますが、酒場も併設していた宿屋には、さまざまな人間が出入りし、そのなかには画家もたくさんいたと言います。父親は・・・宿屋経営の傍ら、画商としても精力的に動いていたため、フェルメールは幼少期から絵画に接する機会に恵まれていたのです。しかも青年は・・・年間200ギルダー(およそ200万円)の授業料をかけて6年間の画家修行をしています。一般的な労働者の年収並みの授業料を払える裕福な家庭だったのです。しかし・・・。デルフトの大火で師を失う1652年、第一次英蘭戦争が勃発し、父親が死去。このときフェルメールは・・・20歳。宿屋と画商の仕事を受け継ぎましたが、徐々に経営は傾いていきます。翌年4月、裕福なカトリックの家で育ったカタリーナと結婚宗教も家柄も違うため、当初は彼女の母親に反対されますが、自らプロテスタントから、カトリックに改宗することで結婚にこぎつけたと言われています。そしてこの年の12月29日、画家を中心とした同業者組合、デルフトの聖ルカ組合に加入。組合の「親方画家」となったことにより、自分の作品に署名し、市内で自由に販売し、弟子をとる権利を手にしました。ところが、1654年10月、デルフトの街は火薬庫の大爆発という大事故に見舞われますこのとき、師匠の一人と言われる画家:ファブリティウスが、32歳で死去。一方、破壊的な打撃を受けた街の経済的繁栄は下降線をたどり始め、多くの画家が新しい注文を求めて、デルフトを去っていきました。窮地に置かれたフェルメールでしたが、義母に生計を頼ったこともあり、この街を離れることはありませんでした。そしてこの地で、画家としての模索を始めたのです。(参考文献:朝日新聞出版・フェルメールへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.03.03
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フェルメールが大好きというのもちょっと今更なんですが〜その生涯をザックリ復習してみましょうヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『レースを編む女』1669年〜1670年頃(ルーヴル美術館所蔵)【フェルメール・・・とは?】ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳?) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。・・・・・・・・・・・・・・・【フェルメールの年譜】&その時代の出来事・・・オランダ独立から黄金時代へ・・・1568年〜1648年、オランダ独立戦争旧教国スペインから、ネーデルラント北部7州が独立し、新教国「ネーデルラント連邦共和国」(オランダ)を成立する。1602年、東インド会社が設立。海洋貿易で栄える。1627年頃から、父はデルフトの運河沿いで、酒場兼用の宿屋「空飛ぶ狐亭」を営む。1652年〜1654年、1665年〜1667年、英蘭戦争。1631年、父は、画家工芸家のギルド「聖ルカ組合」に属して画商を営む。1632年10月31日?(フェルメール=0歳)デルフトに誕生。父=レイニエル・ヤンスゾーン・フォス母=ディフナ・バルテンスの第2子として、ヨハネス・フェルメール誕生。10月31日、デルフトの新教会で洗礼を受ける。父は、絹織物職人を務める傍ら、パブと宿屋を経営。1641年(9歳)4月、父がデルフトのマルクト広場に面した住居兼宿屋「メーヘレン』を購入。1647年(15歳)この頃、おそらくデルフトを出て、画家として修行を始める。総督フレデリック・ヘンドリック逝去。1648年(16歳)ミュンスターの講和。オランダが外交的に独立を認められる。この頃から50年代前半にかけて、アムステルダム新庁舎、ハーグのハイス・テン・ボスを飾るため、多くの物語画の注文が出される。1650年(18歳)議会派と総督派が争い、議会派が勝利。無総督時代が始まる。1652年(20歳)第一次英蘭戦争(〜1654年)。建国以来、初めての不況に見舞われる。10月12日、父死去。新教会に埋葬。宿屋と画商を引き継ぐ。おそらくそれを機にデルフトに戻る。1653年(21歳)4月、裕福なカトリック家の娘、カタリーナ・ボルネス(21歳)と結婚デルフトの有名画家レオナールト・ブラーメルが立会人。カタリーナの母マーリア・ティンスが結婚に反対したためフェルメールはプロテスタントから、カトリックに改宗。4月22日、デルフトでへーラルド・テル・ボルフと同じ証書に証人として署名。12月29日、デルフトの「聖ルカ組合」に親方画家として加入、入会金6ギルダーのうち1ギルダー10スタイフェルを払う。プロの画家として署名。作品販売、弟子をとることができるようになる。1654年(22歳)10月12日、デルフトで火薬庫の大爆発初期の作品の多くを消失した?(現存する作品の少ない理由)フェルメールに影響を与えたと言われるカレル・ファブリティウス(1622〜1654)死去。享年32歳。地勢的に戦争の一大軍事拠点として、大量の武器庫がデルフト周辺に備えられていた。デルフトの3分の1が壊滅的な被害。「事故画」から新ジャンルの「都市景観画」が派生。のちの風景画「古路」1658年〜60年頃、「デルフトの眺望」1660年〜61年頃にも影響?『マリアとマルタの家のキリスト』1654-55 まず、キリスト教の宗教画を描く。『ダイアナとニンフたち』1655-561656年(24歳)制作年が記された初の作品『取り持ち女』1656 歴史画から風俗画に移行する過渡期の作品。7月、レンブラントが、自己破産申請をし認められる。7月14日、聖ルカ組合の入会金未払い部分を完済。『聖女プラクセデス』1656『眠る女』1656-57 1657年(25歳)アムステルダムの画商レニアルムの財産目録にフェルメールの『聖墳墓詣り』の記載あり。11月20日、パトロンのピーテル・ファン・ライフェンから2000ギルダーの借金。『窓辺で手紙を読む女』1658-59『士官と笑う女』1658-59『牛乳を注ぐ女』1658-59『紳士とワインを飲む女』1658-59『小路』1658-59『デルフトの眺望』1659-601660年(28歳)イギリス王政復古。デルフト新教会へのカリヨン取り付け工事が始まる。12月27日、子どもを亡くす。旧教会に埋葬。その際の住所には、アウエ・ランゲンデイク、つまり妻の実家の住所となっていた。『2人の紳士と女』1660-61『稽古の中断』1660-611661年(29歳)妻の母(義母)が結婚を承認。すでに義母の家で生活し、金銭的援助を受けていた。アトリエは2階北向きの部屋。1662年(30歳)聖ルカ組合の理事(任期2年)。組合史上、最年少の理事だった。『音楽の稽古』1662『窓辺で水差しを持つ女』1662-65『青衣の女』1662-65『真珠の首飾りの女』1662-65『天秤を持つ女』1662-65『リュートを調弦する女』1662-651663年(31歳)フランス人美術愛好家で旅行家のバルタザル・ド・モンコニーが来訪するが、彼の日記には「彼は自分の作品を1点も持っていなかった」とあり、在庫がほとんどない人気作家だったと思われる。自宅には作品がなく、パン屋で1点を見る。彼はパン屋が支払った値段600ギルダーを高いと日記に記した。1664年(32歳)2月、薬屋に借金。絵具代?ハーグの彫刻家ジャン・ラルリンの遺産中に評価額10ギルダーの「フェルメールのトロニー、1点」あり、1665年(33歳)ファン・ライフェンの妻がフェルメールに500ギルダーの遺贈を決める。【成熟期】多くの代表作が描かれる。『赤い帽子の女』1665『手紙を書く女』1665-66『真珠の耳飾りの少女』1665-66『合奏』1665-661666年(34歳)フランス・ハルス没。『絵画芸術』1666-67『絵画芸術』が制作される。1667年(35歳)ブレイスウィック著、「デルフト市誌」で、存命画家として言及され、ファブリティウスの後継者として賞賛を受ける。7月、息子である乳児が死亡。旧教会に埋葬される。『女と召使い』1667-681668年(36歳)『天文学者』を制作。(年紀あり)『天文学者』16685月14日および6月21日、P.テーデング・ファン・ベルクハウトが、この両日の日記に「フェルメールという有名な画家を訪問し、作品を見た」と記す。5月の訪問の折には、おそらくハイエンスも同行。1669年(37歳)『地理学者』制作(年紀あり)『地理学者』16697月、子どもを亡くす。旧教会に埋葬。10月4日、レンブラント63歳で没する。アムステルダム市の委託医ヤン・シスムス作成の画家リストに「ファン・デル・メール、上流の若者たちと城」の記載あり。『少女』1668-69『レースを編む女』1669-701670年(38歳)2月、母が亡くなる。5月、姉が亡くなる。新教会に埋葬する。400ギルダーの遺産を受ける。宿屋「メーヘレン」を相続。10月「聖ルカ組合」理事(任期2年)。第二次英蘭戦争(〜1674年)無総督時代が終焉し、ウィレム3世が総督に任命。明暗対比や小道具の寓意を強調するステイルに変化。『恋文』1669-71『ヴァージナルの前に立つ女』1669-71『手紙を書く女と召使』1670-721672年(40歳)1月24日、亡くなった母より相続した実家の「メーヘレン」を年間180ギルダーで賃貸に出す。5月、イタリアの絵画の鑑定のため、ヨハネス・ヨルダーンスとともにデン・ハーグに行く。『ヴァージナルの前の女』1670年頃・・・オランダの衰退・・・1672年〜1674年、第3次英蘭戦争。1672年〜1678年、フランスからも侵略され、政治が不安定になり、経済が逼迫する。1660年代後半からフェルメールは・・・家作や債券の利息で暮らす金利生活の義母の代理人として資金運用や賃貸金の仕事に携わっていた。経済の悪化で収入が滞り、その取り立てのためにオランダ各地を回る。制作に専念できず?1673年(41歳)この頃より没年まで、義母の代理として貸金の回収に奔走する。6月、子どもを亡くす。旧教会に埋葬される。8000ギルダーに上る再建を売却。絵は売れず!生活に困窮する。『ギターを弾く女』1673-74古典主義が復活しはじめ、時代に適応しょうとした?『信仰の寓意』1673-751674年(42歳)この年までのデルフト市民防衛隊の名簿に「ヤン・ファン・デル・メール」の名がある。この年の義母の納税額は130ギルダー。財産は逆算すると26,000ギルダーになる。フェルメールの娘マリーアが結婚7月20日、1000ギルダーの借金。1675年(43歳)12月15日?デルフト市の妻の実家で、フェルメール死去。(死因不明)11人の子ども(8人が25歳未満)が残された。12月16日、旧教会に埋葬。『ヴァージナルの前に座る女』1675現存する最後の作品。1676年(没後)、2月、デルフト市の公証人助手・J・ファン・フェーンが財産目録作成。乳鉢、石机、白の毛皮縁つき黄色のサテンのガウン、油彩画など詳細な記載。絵具自製の道具や絵のモティーフに使われたもの?4月、妻カタリーナ・ボルネスが自己破産を申請。妻の証言では、晩年のフェルメールは健康を害していたという。「11人の子どもを抱え、そのうえに亡き夫は 数年前のフランス国王との戦争以来、ほとんど あるいは全くの無収入の状態であり、 購入し扱っていた絵も大損を覚悟で 子どもの養育のために売却せねばならなかった。 このため、かなりの借金を負っていた」。9月、義母がすべての財産をフェルメールの子どもに遺贈すると遺言状を書き換える。アントニ・ファン・レーウェンフックが遺産管財人に任命される。1677年(没後2年)3月、カタリーナと義母が、『絵画芸術』は手元に残すように訴えるが、借金返済のために同作品も競売にかけることになる。「聖ルカ組合」会館で遺産の絵画の売り立てを開催。1696年(没後19年)5月、21作品がアムステルダムでディシウス競売にかけられる。・・・・・・・・・・・・・(写真撮影:ほしのきらり)(小さな写真:楽天さまより)フェルメールにぽち
2022.03.02
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今日からフェルメールについて気の済むまで知識を広めてまいりましょうかまたかいいやいやまだまだ知らないことがいっぱいで気になって仕方ないのです(写真撮影:ほしのきらり)ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年頃謎の女性です・・・誰なん描いたのは・・・フェルメール。ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没)本名は・・・ Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は・・・32点〜37?点それに4点ほどがフェルメールの真筆か疑わしいのですがとりあえず制作年代順にザックリ並べてみました【フェルメール作品一覧】1番最初の作品『マリアとマルタの家のキリスト』1654-55 エディンバラ・ナショナル・ギャラリー 160cmx142cm 2.『取り持ち女』1656 ドレスデン・絵画館 143cmx130cm3.『眠る女』1656-57 ニューヨーク・メトロポリタン美術館 87.7cmx76.5cm4.『窓辺で手紙を読む女』1658-59ドレスデン・絵画館 83.0cmx64.5cm5.『士官と笑う女』1658-59ニューヨーク・フリック・コレクション 50.5cmx46cm6.『牛乳を注ぐ女』1658-59アムステルダム・国立美術館 45.4cmx40.6cm7.『紳士とワインを飲む女』1658-59ベルリン・国立美術館 65cmx77cm8.『小路』1658-59アムステルダム・国立美術館 53.5cmx43.5cm9.『デルフトの眺望』1659-60ハーグ・マウリッツハイス美術館 96.5cmx115.7cm10.『2人の紳士と女』1660-61ブラウンシュヴァイク・アントン・ウルリッチ公美術館77.5cmx66.7cm11.『稽古の中断』1660-61ニューヨーク・フリックコレクション 39.3cmx44.4cm12.『音楽の稽古』1662バッキンガム・宮殿王室コレクション 74cmx64.5cm13.『窓辺で水差しを持つ女』1662-65ニューヨーク・メトロポリタン美術館 45.7cmx40.6cm14.『青衣の女』1662-65アムステルダム・国立美術館 46.6cmx39.1cm15.『真珠の首飾りの女』1662-65ベルリン・国立美術館 51.2cmx45.1cm16.『天秤を持つ女』1662-65ワシントン・ナショナル・ギャラリー 40.3cmx35.6cm17.『リュートを調弦する女』1662-65ニューヨーク・メトロポリタン美術館 51.4cmx45.7cm18.『手紙を書く女』1665-66ワシントン・ナショナル・ギャラリー 45cmx39.9cm19.『真珠の耳飾りの少女』1665-66ハーグ・マウリッツハイス美術館 44.5cmx39cm20.『合奏』1665-66ボストン・イザベラ・スチュアート・ガードナー美術館21.『絵画芸術』1666-67ウィーン・美術史美術館 120cmx100cm22.『女と召使い』1667-68ニューヨーク・フリック・コレクション 90.2cmx78.7cm23.『天文学者』1668パリ・ルーヴル美術館 50cmx45cm24.『地理学者』1669フランクフルト・シュテーデル美術館 52cmx45.5cm25.『少女』1668-69ニューヨーク・メトロポリタン美術館 44.5cmx40cm26.『レースを編む女』1669-70パリ・ルーヴル美術館 23.9cmx20.5cm27.『恋文』1669-71アムステルダム・国立美術館 44cmx38cm28.『ヴァージナルの前に立つ女』1669-71ロンドン・ナショナル・ギャラリー 51.8cmx45.2cm29.『手紙を書く女と召使』1670-72ダブリン・ナショナル・ギャラリー 72.2cmx59.7cm30.『ギターを弾く女』1673-74ロンドン・ケンウッドハウス 53cmx46.3cm31.『信仰の寓意』1673-75ニューヨーク・メトロポリタン美術館 114.3cmx88.9cm32.『ヴァージナルの前に座る女』1675ロンドン・ナショナル・ギャラリー 51.5cmx45.6cm【フェルメール作品の真筆であるか?疑わしい作品】1.『ダイアナとニンフたち』1655-56ハーグ・マウリッツハイス美術館 97.8cmx104.6cm2.『赤い帽子の女』1665ワシントン・ナショナル・ギャラリー 22.8cmx18cm3.『聖女プラクセデス』1656ニューヨーク・個人蔵 101.6cmx82.6cm4.『ヴァージナルの前の女』1670年頃ラスヴェガス・個人蔵 24.5cmx19.5cm(・・・最近、真作と鑑定された小品)5.『フルートを持つ女』1665-1670ワシントン・ナショナル・ギャラリー 20.0cmx17.8cm・・・以上・・・(写真撮影:ほしのきらり)(楽天で販売中の小さな写真より売り切れ御免)フェルメールにぽち
2022.03.01
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スペイン出身の画家ジョアン・ミロについて研究してみました〜楽しかったですザックリまとめてみましたJoan Miró ・・・とは?Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。Joan Miró 『ミロの年譜』1893年(ミロ=0歳)4月20日午後9時、スペイン・バルセロナ市クレディト街4番地で生まれる。父は、金銀細工師のミケル・ミロ・イ・アゼリアス。母は、マリヨルカ島出身のドロレス・フェラ。1900年(7歳)レゴミール街小学校に入学。シビル教師のもとで学ぶ。夏、少年時代は毎年の夏をコルヌデラとマヨルカ島で過ごす。1901年(8歳)「足の治療師」「亀」などの現存する最も初期の水彩によるデッサンをする。1907年(14歳)父に画家になることを反対されて、バルセロナの商業学校に入学するも、同時にラ・ロンハ美術学校に通い、モデスト・ウルヘルとホセ・パスコに師事する。1908年(15歳)装飾美術「蛇」を制作。1910年(17歳)ダルマウ・イ・オリベラス商会に見習い会計士として就職するが、環境に適応できず。1911年(18歳)うつ病と腸チフスにかかり、モンテロッチで、療養生活を始める。絵画に一生を捧げようと決心する1912年(19歳)バルセロナのフランセスク・ガリ美術学校に入学。陶芸家:ロレンス・イ・アルティガスや、画家:E・C・リカルトと親交を結ぶ。ダルマウ画廊で行われたキュビスム展やフォビスム展を見る。最初の油彩画を描く。1914年(21歳)「農夫」「海景、モンテロッチ」などを制作。1915年(22歳)ガリ美術学校を卒業。聖ルカ文化サークルでデッサンを学ぶ。ジョアン・プラッツや、J・F・ラフォルスと友情を結ぶ。サン・ペドロ街にE・C・リカルトと共同のアトリエを借りる。1916年(23歳)フランスの詩や前衛美術誌を読む。画商:ダルマウと初めて接触。ヴォラールがバルセロナで主催したフランス美術展を見る。1917年(24歳)フランシス・ピカビアに会う。『ノール・シュド』『聖ジョアン・ドルタの庵』『シウラナの村』『プラデスの街路』『E・C・リカルトの肖像』『J・F・ラフォルスの肖像』を描く。1918年(25歳)ダルマウ画廊で(バルセロナ、ポルタフェリーサ街18番地)最初の個展を開く。「リカルトの肖像」などを展示するが、まったく買手がつかず。わだち「轍」「ヤシの木のある家」「ロバのいる菜園」「モンテロッチの耕作」「少女の肖像」「自画像」などを「細密主義」の手法で制作。『コーヒーミルのある静物』『H・ガザニイの肖像』『ファニータ・オブラドールの肖像』『R・サニエールの肖像』など制作。1919年(26歳)パリに初めて旅行。ピカソとモーリス・レイナルに会う。J・ロレンス・イ・アルティガスを中心とするクールベ・グループ展(バルセロナ)に出品。『モンロジの教会と村』『モンロチの葡萄畑とオリーブの森』『自画像』『鏡を持つ裸婦』などを描く。1920年(27歳)パリに住む。レヴァディ、ツェラ、マックス・ジャコブらと知り合う。ダダの運動に参加。夏、モンロチで過ごす。「分析的キュビスム」の影響を受けた『ブドウ』『馬とパイプと赤い花』『テーブル』『スペインのカードゲーム』『ウサギのいる風景』などを制作。1921年(28歳)パリ、ブロメ街45番地にアトリエを持つ。ラ・リコルヌ画廊でパリにおける最初の個展を開く。カタログの序文をモーリス・レイナルが書く。夏、モンロチで過ごす。『スペインの踊り子の肖像』『立っている裸婦』を描く。3月29日、パリのラ・リコルヌ画廊で個展を開催するも失敗。翌22年にかけ、写実主義時代の傑作で、のちにヘミングウェイが買い取ることになる「農園」の制作に没頭。1922年(29歳)“ブロメ街グループ”に入り、アンドレ・マッソン、アントー、レイリス、ランボー、サラクロー、テュアルらと交友を持つ。夏、モンロチで過ごす。『農婦』『花と蝶』を描き、『農園』を仕上げる。1923年(30歳)パリの「サロン・ドトーンヌ」に出品。ヘミングウェイ、エズラ・パウンド、ヘンリー・ミラー、プレヴェールらと知り合う。夏、モンロチで過ごす。『耕地』『牧歌』『家族』『カタラン風景(狩人)』の4点を制作。Joan Miró The Hunter(catalan Landscape)1923-1924Joan Miró Pastorale(Pastoral)1923-19241924年(31歳)ブルトン、エリュアール、アラゴンらと親交を深める。夏、モンロチで過ごす。『母性』『紳士』『K嬢の肖像』『葡萄酒の瓶』などを制作。翌25年にかけ、シュルレアリスムの影響を受けた作品『アルルカンの謝肉祭』を制作。1925年(32歳)パリのピエール・ローブ画廊での個展、大成功を収める。カタログ序文をベンジャミン・ペレが書く。シュルレアリスム展に出品。画商のジャック・ヴィオから契約の申し出を受ける。『カタロニアの農夫の頭部』『昆虫たちの会話』などを制作。Joan Miró The Birth of the World 1925 Joan Miró Pintura(Painting)1925Joan Miró Painting(Mon with a Pipe)1925Joan Miró Joan Miró Painting(head and Spider)1925Joan Miró Painting(Head of a Smoker)19251926年(33歳)ロシア・バレエ団による「ロミオとジュリエット」の舞台装置をマックス・エルンストと共同制作する。『愛』『海辺の馬』『ヌード』『月に吠える犬』『鳥に石を投げる人物』の他、架空の風景画を多数制作する。1927年(34歳)マックス・エルンスト、エリュアール、アルプ、マグリットらが住むモンマルトルのトゥールラク街に移る。サーカスの連作と白い背景の作品を多数制作。Joan Miró Pintura(Painting)19271928年(35歳)オランダに旅行。パリのジョルジュ・ベルネーム画廊で個展開催。『オランダの室内』と題した3点の絵画を制作。『ジャガイモ』、コラージュ作品「スペインの踊り子」を制作。1929年(36歳)10月12日、マリョルカ島出身のピラール・ジュンコサ・イグレシアスとパルマで結婚パリのフランソワ・ムートン街3番地のアパートに新居を構える。『ブロンズのルイーズ王妃』『1750年のミルズ夫人の肖像』『ラ・フォルナリーナ』を描く。1930年(37歳)パリのピエール画廊と、ブリュッセルのゴーマン画廊で各々個展を開く。ニューヨークのヴァレンタイン画廊でアメリカでの最初の個展開催。トリスタン・ツェラの著書「旅人達の樹」の挿絵用に初めてリトグラフを制作する。1931年(38歳)7月17日、バルセロナで、長女マリア・ドロレス誕生。パリのピエール画廊でオブジェ彫刻展開催。1932年(39歳)バルセロナに住居を移す。バレエ「子供の遊び」の舞台装飾、背景幕、衣装などを制作。パリのピエール画廊とニューヨークのピエール・マティス画廊で個展開催。シュルレアリストらとパリの「サロン・ド・シュルアンデパンダン」展に出品。1933年(40歳)5月3日、バルセロナのオペラ劇場リセウでバレエ「子供の遊び」開幕する。エッチングを初めて手がける。パリのベルネーム画廊で個展を開く。1934年(41歳)バルセロナに住む。パステルやサンドペーパーを使った大作に取り組む。『蝸牛、女、花、星』を描く。「野生の絵画」シリーズ始まりとなる15点のパステル画が完成。1935年(42歳)バルセロナに住む。テネリフェ島でのシュルレアリスム展に出品。厚紙に“野生絵画”を制作する。1936年(43歳)スペイン内戦が始まるニューヨーク近代美術館で開催された「空想芸術、ダダ、シュルレアリスム展」に出品。パリの印象派美術館で開かれた「現代スペイン絵画」展に出品。銅板やファイパーセメント板にテンペラで描く。1937年(44歳)パリに移る。パリで万国博覧会が開催され、スペイン館の為に『刈りり入れ人』『古靴のある静物』を出品。ポスター「スペインを救え」をデザイン。1938年(45歳)夏、ノルマンディのヴァランジュヴィル・シュル・メールで夏を過ごす。「自画像1」「星が黒人女の胸を愛撫する」「座る女」などを制作。『肖像II』1938年1939年(46歳)フランス北西部ノルマンディー地方のヴァランジュヴィル・シュル・メールに住む。『星座』シリーズの制作を開始。1940年(47歳)1月20日、連作『星空』シリーズ制作本格的に着手。パリに戻る。ドイツ軍の侵攻を考慮し、スペインに戻り、マヨルカ島に落ち着く。1941年(48歳)美術史家スウィーニーがニューヨーク近代美術館で、ミロの最初の回顧展を開催し、本格的な研究書を出版。1942年(49歳)バルセロナに戻り、クレディト街4番地の生家に住む。紙に描く。1944年(51歳)ブラッツによって、連作「バルセロナ」シリーズのリトグラフ50点を印刷。(1939年にレポート用紙に描いた素描をもとにしている)ロレンス・イ・アルティガスと共に初めて陶器を制作。1945年(52歳)ニューヨーク・ピエール・マティス画廊で「陶器と星座」展を開催。ミロの初期の陶芸作品と『星座』シリーズの23点を展示し、大成功に終わる。1947年(54歳)初めてアメリカに滞在。パリのマーグ画廊で開かれたシュルレアリスム展に出品。シンシナティのテラス・プラザ・ホテルのために3mx10mの大壁画を制作。1948年(55歳)パリに戻る。ムルロエ工房でリトグラフの連作に取り組む。マーグ画廊で個展。絵画と陶器の最新作が展示される。『蜘蛛を喰む赤い太陽』を制作。ツァラの詩集「反頭脳」の挿絵を制作。1949年(56歳)バルセロナのラエタネス画廊で、同地の収集家が収蔵するミロの作品57点を集めた「ミロ展」開催。ベルンのクンストハーレで回顧展開催。1950年(57歳)木版画を初めて制作する。1952年(59歳)〜1953年(60歳)より奔放で、かつ野生的な表現方法を取り入れた油彩画を数多く制作する。グッゲンハイム美術館に収蔵される1点は、その中の代表作。バーゼルのクンストハーレ(1952年)とベルンのクンストハーレ(1953年)で個展を開催。ロレンス・イ・アルティガスと共同で次の陶器制作に入る。1953年から1956年にかけてガリファで386枚の陶板を制作。1954年(61歳)ヴェネツィアビエンナーレの版画部門国際大賞を受ける。1955年制作の厚紙に描いた小品を除き、1959年まで絵画の制作を中断する。1956年(63歳)パルマ近郊の「ソン・アブリネス」にアトリエが完成。その新居に移る。マーグ画廊とピエール・マティス画廊で「大火の世界」展開催。1957年(64歳)ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門国際大賞を受賞。パリのユネスコ本部のために、ロレンス・イ・アルティガスと共同で『太陽の壁』と『月の壁』を制作。1958年(65歳)アルティガスと共同制作したユネスコ本部の壁画が完成。パルマのアトリエの近くの土地「ソン・ボテール」を購入。1959年(66歳)二度目の訪米。ニューヨーク近代美術館とロサンゼルスで回顧展開かれる。アルティガスと共にグッゲンハイム財団国際大賞を受賞。ブルトンの散文詩を添えた「星座」シリーズを出版。1960年(67歳)「赤い円盤」などを制作。1961年(68歳)「青」3部作が完成。ハーヴァード大学の陶壁画を制作。マーグ工房で多数のエッチングとリトグラフを制作。1961年(68歳)三度めの訪米。パリ・マーグ画廊とニューヨークのピエール・マティス画廊で回顧展開催。ジュネーブで版画展開催。1962年(69歳)パリ国立近代美術館で、大規模な代表作品展が開かれる。バルセロナに「ジョアン・ミロ・デッサン賞」を創設。1964年(71歳)ロンドン・テートギャラリー、および、チューリヒ美術館で大回顧展。バルセロナで展覧会を開催。サン・ポール・ド・ヴァンス(フランス)にマーグ財団オープン。陶器と彫刻で飾られた、財団に付属する「迷宮」はミロの制作。1965年(72歳)ピエール・マティス画廊で、「1959-65年の漫画」展開催。カタロニアの子供向け週刊誌「カパル・フェルト」の表紙絵を制作する。1966年(73歳)東京、京都で展覧会を開催。Joan Miró ムーン・バード『月の鳥』1966年1967年(74歳)カーネギー絵画賞を受賞。『空色の黄金』を制作。1968年(75歳)バルセロナで最初の公式展覧会が開かれる。サン・ポール・ド・ヴァンスのマーク財団で大ミロ展開催。『独居房のための三枚屏風』を描く。バルセロナの旧聖十字架病院で大回顧展開催。1969年(76歳)「ミロ・オトロ」展を開催。バルセロナのカタロニア建築協会で「もう一つのミロ」展開催。1970年(77歳)大阪・万国博覧会のために陶壁画を制作。1971年(78歳)〜1972年(79歳)シカゴ・アート・インスティテュート、ロンドンのヘイワード・ギャラリー、チューリッヒ美術館などで彫刻展開催。ジョアン・ミロ財団ー現代美術研究センターを創設。1973年(80歳)マーグ画廊で「オーバーウィーブ」展開催。サン・ポール・ド・ヴァンスのマーグ財団で彫刻と陶器の大展覧会を開催。1974年(81歳)パリで二つのミロ展が開催。1、グラン・パレでの絵画・彫刻・陶器による大回顧展。2、パリ市近代美術館での大版画展。「死刑囚の希望」3部作画完成。1975年(82歳)バルセロナにジョアン・ミロ財団を創設。6月1日、バルセロナのモンジェイク公園内にホセ・ルイス・セント設計によるジョアン・ミロ財団ー現代美術研究センターがオープンする。バルセロナのマーグ画廊で代表作品(1914-74年制作)展を開催。1976年(83歳)マドリッドのマス画廊で、小型彫刻と版画による作品展が開催。6月18日、ジョアン・ミロ財団、正式にオープンする。開館記念として、ミロが財団に寄贈した素描画約5000点の中から475点を運び(1901-75年制作)素描画展を開催。1977年(84歳)レウスのレクチャー・センターで版画展開催。セレ美術館(フランス)で絵画・彫刻・版画などの作品展開催。ウイチタ大学(アメリカ)のために陶壁画を制作する。1978年(85歳)ジョアン・ミロ財団、欧州評議会より1977年度の「美術館への特別賞」を与えられる。マドリッドで代表作品展が開催される。1、スペイン現代美術館での絵画展。2、スペイン文化財務局展示室で行なわれた版画展。3、パルマのラ・ロンハで絵画による代表作品展開催。4、パリ・ジョルジュ・ポンピドゥ・センターで「ミロのデッサン」展開催。5、パリ市立近代美術館で「1962-78年の彫刻」展開催。6、ニューヨーク・ピエール・マティス画廊で「ジョアン・ミロ: 絵画・グワッシュ・素描画による1969-78年の近作」展開催。1979年(86歳)マリョルカ島にピラール&ジョアン・ミロ財団を創設。バルセロナ大学から名誉博士号を授与される。1、ロンドン・ヘイワード・ギャラリー「ミロの素描画」展開催。2、フィレンツェ・オルサンミシェルで絵画による回顧展開催。3、シエナ・シビコ美術館で版画展開催。4、サン・ポール・ド・ヴァンスのマーク財団で絵画・彫刻・素描画・水彩画による大回顧展開催。5、バルセロナのマーグ画廊で「ガウディへのオマージュ」展開催。1980年(87歳)マドリッドの新国会議事堂の陶壁画が完成。1、メキシコ・シティ・メキシコ近代美術館で回顧展開催。2、カラカス・ベラ美術館で回顧展開催。3、ワシントン・ハーシュホーン美術館で絵画展開催。4、日本国内を絵画と素描画展巡回・・・(東京・伊勢丹美術館、名古屋市博物館、福岡市美術館、大阪市立美術館)1981年(88歳)高さ12mの記念彫刻がシカゴに完成。絵画・彫刻・素描画・陶器・タピスリー ・版画による大回顧展「ミラノのミロ」展が、ミラノ公立、私立の多くの会場で開催される。1982年(89歳)ジョアン・ガルディ・アルティガスと共に、最後の彫刻作品、陶板断片を所々に配したセメント彫刻『女と鳥』を制作。バルセロナのジョアン・ミロ財団で「絵画・彫刻・陶器・版画・ポスター・タピスリー ・舞台による大ミロ展」開催。1983年(90歳)ミロの健康状態は日毎に悪化。スケッチブックと鉛筆を手放さなかった彼が、最後に描いたのは・・・地平線だった。12月25日、スペイン・マヨルカ島にて90歳、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで老衰のため死去。「3000年後に、 私の絵を見た人が、 私が絵画だけでなく、 人間の精神を解放する 手助けもしたことを、 理解してくれればと思う」 ジョアン・ミロ生前の言葉より(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(参考文献:創元社・ミロー絵画を超えた絵画より)(写真撮影:ほしのきらり)ミロ最終回にぽち
2022.02.28
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無口な画家ジョアン・ミロの言葉を聞いてみると・・・ミロの心の叫びを知ることができました『ミロの言葉』を聞いてみましょうミロはいつも、言葉は自分の「専門分野ではない」と言っていた。しかし、実際に彼は、どんな「言葉の専門家」にも負けないほど、自分が見たもの、感じたもの、なしとげたことなど、自由自在に語った。そうした数々の言葉は、一時的に感情に引きずられることなく、できるかぎり正確に、傑出した芸術家の心の内を語ったもので、現在でも色あせぬ輝きを放っている。ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferràジョアン・ミロー・イ・ファラースペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。「私は庭師のように仕事をする」私は生まれつき無口で・・・悲劇的な性格をしている。そして子どものころ、深い悲しみの時期を経験した。いまはだいぶ安定しているが・・・すべてのことに飽き飽きし、人生が無意味に思えることが多かった。理性でそう考えることが多かった。そういうふうに感じる。つまり私は、ペシミストなのだ。(・・・)逆に・・・私が進んで自分に課しているのは、精神的な緊張だ。そのような緊張状態をつくるために適した環境を、私は、詩、音楽、建築(・・・)毎日の散歩、適度な騒音のなかに見いだしている。適度な騒音とは・・・田舎を駆ける馬荷車の木の車輪がきしむ音、足音、夜に聞こえる叫び声、コオロギなどだ。空の光景は・・・いつも私を感動させる。無限の空に三日月や太陽が見えるとき、私の心は強く揺さぶられる。また私の絵には、がらんとした大きな空間のなかにありとあらゆる小さな形があるが、そうしたがらんとした空間、がらんとした地平線、がらんとした平原、飾り気のないものはすべて、いつも私に深い感銘を与える。現代の光景は・・・工場、夜の明かり、飛行機から見える世界が好きだ。夜にワシントン上空を飛んだ時のことは、人生でもっとも大きな感動のひとつになっている。夜に飛行機から見た町はすばらしい。それに、飛行機からはなんでも見える。小柄な人や、とても小さな子犬まで見える。これはきわめて重要なことだ。たとえば、完全な闇夜に田園地帯の上を飛ぶと、農家の明かりがひとつふたつ見える。アイデアはいつも、このうえなく単純な物事から浮かぶ。私は、金持ち連中の奇妙な金ぴかの皿よりも、農民がスープを飲む皿のほうが好きだ。大衆芸術には・・・いつも心を動かされる。そこには、ごまかしや、まやかしがない。まっすぐ目的地に向かっている。大衆芸能は意表をつき、非常に豊かな可能性をもっている。私にとって、物はすべて生きている。このたばこ、このマッチ箱は、ある種の人間よりもずっと強い生命を秘めている。木を見ても、私は衝撃を受ける。それはまるで、息をしているなにか、話をしているなにかのように感じるのだ。木には、どこか人間的なところがある。動かないものにも、私は驚く。この瓶、ガラス、人気のない浜辺に転がっている大きな石などは、みな動かないものだが、私の頭のなかでは、それははっきりと動きはじめるのだ。人間の体全体が・・・腕や手や足と同じ性質をもっているように、1枚の絵画もすべて均質でなければならない。私の絵には、血液循環のようなものがある。ひとつの形の位置が変われば、この循環は止まり、バランスが崩れてしまうのだ。ある絵に満足しない時・・・私は肉体的な不快感を感じる。まるで自分が病気であるかのように、自分の心臓がきちんと動いていないかのように、呼吸ができないかのように、息がつまる化のように感じるのだ。私は無我夢中で仕事をする。絵を描きはじめると、肉体的な刺激のまま、のめりこみたいという欲求のままになる。それはまるで、肉体を解放したかのようだ。もちろん私は・・・すぐ絵に満足できるわけではない。最初は満足せず、すでにいったような不快感を感じる。しかし私は、そうした面では喧嘩っ早いので、すぐに戦いを開始する。それは私とつくるものとの、私と絵画との、私と私の不快感との戦いだ。この戦いは私を興奮させ、とりこにする。不快感がなくなるまで、私は仕事をする。私は、現実から自分を引き離すような衝撃を受けたとき、制作を開始する。その衝撃のもとになるのは、少しほつれたカンヴァスの糸だったり、したたる水滴だったり、ぴかぴかのテーブルについた自分の指紋だったりする。いずれにせよ、きっかけが必要だ。一粒のちり、一筋の光だけでよい。はじめの形が一連のものを生みだす。ひとつのものから、さらに別のものが生まれる。そのように、ほつれた糸から一つの世界がはじまることがあるのだ。私は庭師がブドウを育てる農夫のように仕事をする。そもそも物事はゆっくりと生じるものだ。たとえば、自分の表現方法を一度に発見したわけではない。それらは、私の意思とはほとんど関係なく、自然に形づくられたものなのだ。物事は・・・それぞれ自然の流れに従っている。それらは成長し、成熟する。だが接木は必要だ。またサラダ菜のように、水をかけてやらなければならない。物事は、私の頭のなかで熟していく。また、私はいつでも猛烈な勢いで、いろいろな仕事を同時にやる。絵画、版画、リトグラフ、彫刻、陶器など、異なる分野を同時に手がけることさえある。素材や道具によって・・・技術やあるものに生命を吹き込む方法が決まる。のみを手にして木版画を制作するときは、特定の精神状態になる。ブラシを手にしてリトグラフ用の石板に向かうとき、あるいは鉄筆を手にして銅板に向かうときは、別の精神状態になる。素材と道具の出会いは真にせまった衝撃を生みだし、その衝撃は鑑賞者になんらかの影響をあたえることになるはずだ。1枚の絵画を見るたびに、われわれは新しいものを発見できなければならない。しかし、1週間のあいだ1枚の絵画をみつづけても、なんの思いもいだかない人もいる。一方、1枚の絵画を一瞬見ただけで、自分の人生を振り返る人もいる。私にとっては、絵画は火花のようでなければならない。女性や詩のような美しさで、人びとの目をくらませるものでなければならない。絵画は輝きでなければならず、ピレネー地方の羊飼いたちがパイプに火をつけるときに使う、火打石のようでなければならない。大切なのは・・・絵画そのものより、絵画が空中に投げだされること、絵画が空中にまき散らされることだ。絵画は破壊されてもかまわない。芸術は滅びてしまうかもしれないが、大切なのは・・・芸術が大地に種をまいたということだ。私がシュルレアリスムを好きだったのは、シュルレアリストたちが絵画を最終的な目標とは考えていなかったからだ。事実、絵画はもとお場所にとどまろうとしてはならない。むしろ、芽を出し、種をまいて、そこから別のものが生まれるようにすべきなのだ。絵画は肥沃でなければならない。ひとつの世界を生みださなければならない。人びとが絵画のなかに、花、人物、馬など、どのようなものでもよいが、ひとつの世界、命のあるなにかをあらわすものを見出せるようでなければならない。1979年に、ジョアン・ミロは・・・バルセロナ大学から名誉博士号を授与された。10月2日の授与式で彼は、「市民としての芸術家の責任」と題した演説をした。私は・・・最小の力で最大に到達する必要を感じている。そのため、私の絵画はだんだんと簡素になっていったのだ。本当にひとりの人間になるには、見かけだけの自分から解放される必要がある。私の場合、それはミロであることをやめるということだ。つまり、国境と官僚体制の慣習によって限定されたひとつの狭い社会に属す、スペインの画家であることをやめるということだ。いいかえれば、匿名の存在を目指す必要があるということだ。匿名性は・・・過去の偉大な時代ではいつでも支配的だった。こんにちでは、ますます匿名性が必要とされている。しかし同時に、社会的な観点からすればまったく無秩序なものといえる。完全に個人的なふるまいも必要とされているのだ。なぜなら、このうえなく個人的なふるまいは匿名のものだからだ。匿名性は普遍性に達することを私は確信している。物事は局地的であればあるほど、普遍的なのだ。イヴォン・タイランディエが記録した言葉によって自分の考えを表現することが、私の専門分野ではないことは、みなさまがタモご存知でしょう。私の表現言語は・・・絵画という資格的な方法で、その絵画を通じて、これまで私は自分の人生を表現しようとしてきました。私が考えたすべてのこと、感じたすべてのこと、いわなければならないと思ったすべてのことを表現しようとしてきたのです。というわけで、言葉でご説明するかわりに、私の絵画を思い出していただいて、ほかの方法ではお伝えできないすべてのことを、その作品のなかに見出していただきたいのです。とはいえ、このような晴れがましい機会に恵まれたのですから、おそらくなにかひとこと申しあげるほうが良いでしょう。私の作品を解説しようというのではありません。それは、私がすべきことではないのですから。そうではなく、私の行動様式の根本にある理由について、いくつかお話ししたいのです。なぜなら、芸術作品は人間の行動の内側の深くに根を張っているからです。私は芸術家という概念を・・・市民としての責任を持っている一個人の面からお話ししようと思います。ほかのすべての人びとが沈黙していても、芸術家は、みずからの言葉で意見を表明しなければなりません。そしてその意見は、けっして無益なものであってはならず、人びとに役に立つものでなければならないのです。(・・・)その意見は、芸術家が属する共同体の意見のようにみなされます。ひとりの芸術家が、ひとつの国について語るとき、たとえば私たちの国のように敵意に満ちた歴史によって傷ついた国について語るときは・・・あらゆる形の無知、あらゆる誤解、あらゆる悪意に対抗して、カタルーニャは存続し、個性的で活気に満ちあふれていることをはっきりさせるため、世界中に向けて声をあげていかなければならないのです。国際的な教養とエリート主義的な洗練さを身につけているひとりの芸術家が語るときは、その教養と特権のなかに閉じこもってはいけません。そのような芸術家は、さまざまな物事を学んで表現するために、深い思慮分別を持った民衆と直接交流しなければならないのです。民衆は、まさしく人間的なすべての計画の源であり、その最終的な受取人で、社会階層という障壁は、そこではまったく問題になりません。自由が制限されている状況でひとりの芸術家が語るときは、自分の作品をすべて、禁止に対する拒絶の意思表明とし、すべての抑圧と偏見と広く蔓延しているまちがった価値観をとりのぞくために使わなければならないのです。自分のまわりで、どのような分野であっても、広く人間一般のため、あるいは自分の国民のため、さらには国民の歴史をつくりあげるために、ほかの人びとが率先して効果的に働いている場合、芸術家は絶対に、このような人々の自発的行為や努力とは関係がないなどど思ってはいけません。最初に行動しはじめた自分自身の存在を示し、自分の作品がなんらかの効果をあたえる可能性を見せることで、彼らを支援しなければならないのです。人びとの連帯、土地に対する私の忠誠。いくつもの階層に分裂した社会の垣根を超えて、直接語りかけることの大切さ、自由のための偉大なる計画に対する敬意について、お話できる機会があたえられ他ことをうれしく思います。(・・・)1993年にバルセロナのジョアン・ミロ財団が開催した展覧会のカタログ『ジョアン・ミロ 、1893ー1993』所収(参考文献:創元社・ミロ・絵画を超えた絵画より)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.27
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バルセロナのミロ公園にあるミロ最後の大作『女と鳥』は高さ22メートルのオブジェですミロ最後の大作『女と鳥』を語らずして・・・ジョアン・ミロの生涯と作品を巡る旅を終えることはできないバルセロナの屠殺場跡の公園に立つこの作品は、スペイン広場に近い「ジョアン・ミロ公園」 地下鉄=ESPANYA「エスパーニャ駅」下車すぐPare Joan Miró 「ジョアン・ミロ 公園」にある巨大なオブジェ『女と鳥』1981年〜1982年セメント・大部分に陶板破片使用 高さ=22mジョアン・ガルティ・アルティガスとの合作仮に逆説的な言い方をすれば、絵画ではない・・・絵画は最も豊富で最も幅広く普及し、そしてミロのあらゆる作品のなかで、最もよく知られている芸術表現なのだが・・・。これはほとんどの部分を陶器の断片で覆ったセメント像であり、言わば、ミロが芸術上試みたあらゆる技法的な要素の集大成であるこの『女と鳥』では・・・題材の女は巨大な傷のような大きな黒いタテの切り込みで表わされ、彫像の上部にある円筒状のフォルムが鳥を表わしている職人の協力はこの場合においても、基本的に重要である・・・Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。『女と鳥』・・・ミロは、段階を追って、大規模な陶器作品を制作した。最初は皿、次に壺、そして陶板壁画を経て、最後の彫刻である・・・『女と鳥』を完成させたのである。セメントで作られ、陶板でおおわれたこの作品は、高さがなんと・・・22mもある。この彫刻はミロが好んだ「女性と鳥」のテーマにしてものだが、どことなくガウディの作品を思わせる。「彫刻と陶器作品のおかげで、 ミロは昔からの夢を表現した。 それは、 自分の芸術を町や公共の場所に根付かせ、 なにかを介することなく、 直接見知らぬ通行人に語りかけ、 出会いや対話を楽しみたいという夢である」 ジャック・デュパン 「ミロ」1993年ミロは常に職人に対して多大なる尊敬の念を感じ、表現していたミロの共同制作者である陶芸家:ジョアン・ガルディ・アルティガスは、ミロの独特の色調を完璧に生かすために窯入れの前に色を用意し、彫刻のほとんどの部分を覆うさまざまな色彩の何百という陶板の断片の縁を調整した。この断片の形は、ミロの考えによるものだが、グエル公園のベンチに使われている陶板断片の不揃いな形を想わせる。これこそ、アール・ヌーヴォーが下火となった頃ですから、ミロが賞賛し評価し続けたあの建築家アントニ・ガウディの作品だった・・・ミロが通った聖ルカ文化サークルの絵画教室で学んでいたガウディは、ミロのような若い画学生たちに尊敬の目で見られていた。再びバルセロナの旅が許されるならば・・・最初に訪問するのは、このミロの大作『女と鳥』のある「ジョアン・ミロ公園」からスタートする計画ですそして「カタルーニャ美術館」 「ジョアン・ミロ美術館」を訪問できたらと(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.26
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ミロもまた舞台装飾を手掛けましたが、衣装から小道具までミロのディザインを採用したのでありますロンドンの劇場街Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家・舞台装飾。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。ミロが舞台の分野に初めて関わるのは・・・1926年のことで、この年、マックス・エルンストとの合作により、ロシア・バレエ団制作の「ロミオとジュリエット」の舞台装飾を担当した。現在、コネチカット州ハートフォードのワズワース・アテネアムに保存されているひな型を見ると、ミロの制作によるこの舞台装飾には、当時、彼がイーゼルに描いた絵画に共通すると思われる点が二ヶ所に見られる。1931年12月、ミロは前の年の夏にモンロチで制作した、紙に描いた絵画とオブジェによる作品展を持った。出品作のなかでも、とりわけオブジェは、ダンサーで振り付け師のレオニード・マッシーヌの心を強く捉えた。彼は作品展を見た後、さっそくミロに仕事上の連絡をとったのである。ミロこそ、自分のバレエ「子供の遊び」の舞台装飾を担当するにふさわしい人物であり、発表展で見たミロの幻想的なオブジェの数々は自分の振り付けにぴったり合っているように思えた。マッシーヌの説明をきいた画家は、彼の考えを喜んで受け入れ、さっそく仕事に取り掛かり、翌年の初めの三ヶ月間でデザインを仕上げた。この時期には舞台装飾ばかりか、衣装やオモチャまで担当している。舞台装飾は・・・1931年当時、ミロが紙を使って描いた絵画と同じスタイルで制作された。そのなかに登場するモティーフは、二つの大きな星のような形・・・白い球体と一種の円錐体・・・をしている。そしてこの他、動く連続写真とか、刀や盾や馬などのオモチャも作られた。舞台衣装のデザインにあたっては・・・ダンサーの体の動きに細心の注意を払い、非常にシンプルな形と色彩に重点が置かれた。こうして1932年4月14日、ビゼーの音楽、ボリス・コホノの脚本によるモンテカルロ・ロシア・バレエ団の「子供の遊び」第一回公演がモンテカルロ大劇場で行われた。この後、舞台の仕事は、クラカ劇団による「モリ・エル・メルマ」の登場人物の制作に関わる1978年まで中断された。事実、この舞台は1978年まで上演されなかったが、ミロは舞台とは全く関係なく、前々からアルフレッド・ジャリの「ユビュ王」をオリジナルとしたこの題材に長いこと取り組んでいた。ところで・・・ミロが財団に寄贈したものの中には、素描画やスケッチ、ノートなどの他に、1921年にパリで出版された「ユビュ王」も一冊含まれている。今では黄色に変色したそのページの欄外には、ミロが読みながら描いた素描や注釈が、何ページにもわたって残っている。ジャリは・・・知性よりも本能が支配するユビュ王の異様な性格を通し、権力によって自分の意思を国民に押し付けようとする暴君を皮肉ろうとした。そしてミロは、ジョルジュ・ライヤールとのインタビューの中で次のように述べている。「アルフレッド・ジャリが、 イメージしたのは、 真にフランコとその一派のような 人物だったということを 今こそ誰もがはっきりわかるのです。 だからこそ、 私はフランコ独裁時代に ずっとユビュに夢中になり、 しょっちゅうこの人物を描いて来たのです」。1966年、に刊行された「ユビュ王」の愛蔵版には、13の必要な章のそれぞれにミロのリトグラフが挿入されている。また、1963年には「ユビュの幼年時代」がそれぞれ刊行された。前者は、ミロのイラストとテキストで構成され、後者は、マヨルカやカタロニア地方に古くから伝わることわざを集めたテキストにミロがイラストを描いている・・・これらのことわざのいくつかには辛辣で、しかもわいせつな言葉すら使われている。そして、さらに1970年頃には、出版には至らなかったが、ユビュ王を題材とした作品が多数描かれた。現在、ジョアン・ミロ財団に収蔵されているこれらの作品を見ると、明らかに、クラカ劇団のための作品制作上の起点として使われたことがわかる。ミロは平坦な画面からミロ的な登場人物たちと取り出し、それらに舞台用の形と量感を与え、そして色彩を盛ることによって、さらなる力を吹き込んだのである。こうして舞台は、クラカ劇団とミロの合作によって、上演されたが、結局、我々は、ジャリの作品が初めにあったお陰で、実際に動くミロの宇宙の人物たちを見ることができたのである。この後、1981年9月末、ミロの舞台のための最後の作品がヴェニスで公開された。「ミロ、光の鳥」と題するこの舞台は、シルヴァーノ・ブソッティの音楽と、ジャック・デュバン(フランスの詩人で美術評論家でミロの作品の大家)の構成によるバレエである。舞台は三部から成り、それぞれがミロの作品の発展過程における主要な時期を暗示している。第一部は・・・ミロが画家として目覚め、独自の造形言語を求めて旅する時期をダンスで表している。第二部は・・・夢の時代を語り、第三部は・・・ミロが絶頂期に達した頃の記号によるイメージを具体化している。『ミロ、光の鳥』は・・・ダンスを通して表現した、ジョアン・ミロについての作品の詩的で象徴的なよみものと言える。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ロミオにぽち
2022.02.25
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ミロは巨大な織物によるタピストリーをユニークな方法で制作します〜その制作過程はとても興味深いものでワシントン・ナショナル・ギャラリーにてJoan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。1972年から1975年にかけて、ミロは初めてテキスタイル・・・織物や麻袋など・・・を制作した。織物は通常、さまざまな糸を織り混ぜて・・・カンヴァス地に織る・・・ひとつの絵を形造ることから生まれるが、ミロの場合は、全くこの定義通りではない。だが、彼のやり方は、決まりきったやり方の枠を超えてはいるものの完全に根拠のあるものである。ミロの織物の制作過程・・・とは?まず、共同制作者である織り師のジョセプ・ロヨに無地のタペストリーを用意してもらう。この黄麻を使って織られたタピストリー地に、“穀物”のようなパターンや、白い木綿繊維を結んだ緑色っぽいアフリカ・ハヤガネ、麻ひもの大きな輪、ねじったり編んだりしたひもなどをさまざまに織り混ぜる。こうしてでき上がった下地・・・これには人間の歴史における昔の伝統が表れている・・・に、今度はミロがさまざまな手を加える。まず彼は、織物の上に直かにガソリンを撒き、点火した後、適当な頃合いを見計らって水で濡らしたほうきでこの火を消す。その結果、焦げ跡やちぎれた糸や穴など、火と消化でももたらされた新たなタピスリー が生まれる。そして、この新たに生まれたタピスリー に色彩を加えていく。原色のフェルトの小片を使い、穴などの焦げ跡の上のパッチワークでもするように縫いつけるのだ。上側に縫いつけたフェルトは、ギザギザな緑を顕わにしているし、下側のは、ほのかにその存在を現わしている。また、下地の横糸に縫いつけたものもかすかな色合いを見せたりしている。ミロはここで、色を置く順番にしつこくこだわっている。まず、初めに黒焦げの部分と対比されるために赤を置き、次に適当な場所に青を置く。そして緑、最後に黄を置いている。織って、焦がして、縫いつけた後は、これにオブジェを加える作業が行われる。ミロはこれにより前に、羽毛や段ボール箱、コルク、針金などを使ってコラージュを制作しているが、それらはすべて、言わば一つ考えを組み立てるために用意されたオブジェだった。だが、ここで彼が使用しているオブジェは、この織物の制作過程で直接使われた道具などである。たとえば、水や絵具を入れたプラスティック製バケツ、切断に使ったハサミ、ほうき、ひも、色のついた毛糸玉、釘を入れたつぼなど。これらのオブジェは、そのもの自体で表わされ、シュルレアリスム的に変形されたものではない客観的な存在物である。そして最後に、焦がした部分や、フェルトを縫いつけた部分、オブジェなどのいっさいを考慮しながら、黒い絵具で、タピストリー全体に図案記号を入れて仕上がりであるミロは流れるような腕の動きのままに、時には後戻りしたり、中央の色彩部分を囲むように筆を運ぶ。絵具は散らしたり、自然にしたたら背たり、あるいは単に普通のやり方で筆を使ったりしている。また、荷造りに使うようなリボン・レタリングが、タピストリーの上に描かれることも珍しくない。麻袋の場合は、我々の現実生活に非常に密着している。と言うのも、問題の麻袋は経済や政治といったあらゆる現実世界を浸み込んだ独特の“歴史的”な袋だからである。ミロは、たとえば・・・赤や青の文字の入った“カリブ海産”の小麦粉を詰めた木綿の袋から、アルメリアから砂糖を運ぶのに使った黄麻の袋に至るまで、実際に使われたさまざまな袋を作品に取り入れた。これらの袋にこれまでの経験の一つ一つを織り込み、卓越したものにすることによって不変性を与えている。オブジェや毛糸玉や色斑などを施し、本来ならば捨てられる運命にあるこれらの袋に新しい意味をもたらしている。1974年、ミロはニューヨークの高層ビルに掛ける巨大タピストリーの依頼を受けたのを機にタピストリーという新たな冒険に乗り出した。大陶壁画を制作したときと同じように、まず、ミロがひな型を作り、これを土台にジョセプ・ロヨが実作業を行なった。1977年、ワシントンのナショナル・ギャラリーより11mx7mの巨大タピストリーの依頼を受ける。1979年、彼はバルセロナのジョアン・ミロ財団のための大タピストリーを制作したのだった。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.24
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スペインのマドリッド「国立ソフィア王妃芸術センター」の中庭にムーン・バード『月の鳥』が羽を広げて私を呼んでいましたよ〜Joan Miró i Ferràジョアン・ミロー・イ・ファラー1893年4月20日〜1983年12月25日おーい!こっちだよ!ここまでおいでよJoan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。ミロが手がけたあらゆる手法は・・・絵画、版画、陶器、タピスリー、彫刻、というように彼の表現分野を拡げるのに役立った。それらは単に才能に丈けた芸術家の遊び心から生じたのではなく、ジョアン・ミロの作品全体に見られる、さらに新たなものへ突き進もうとする衝動の結果の表れだった。画家としての彼の経歴を振り返れば、彼がいかに新しい技法を探求し続けたかがわかるはずである。彼が試みたゆっくりしたタッチと手早いタッチ、柔らかさと攻撃性、細密描写と抽象描写といった対照的な技法のあれこれは、安易な成功で満足しまいとする彼のなかの堅い気構えが見てとれる。画家のこうした欲望は、新しい技法に取りかかろうとする時にいっそうあからさまになった。新しい技法は、新たな問題を生み、新たな解決法を提示する。ミロは・・・陶器を通し、レリーフへの絵付けを学び、彫刻を通し、フォルムと量感を完全にマスターすることができたのである。そもそもミロが「彫刻」と関わるのは・・・フランセスク・ガリのクラスにいる時だった。目隠しの状態で感覚によってオブジェを捉えるという師の教えを通し、彼は量感を捉える方法、すなわち彫刻への道を見つけたのだ。1931年12月、ミロはパリのピエール画廊で、オブジェ彫刻展を開くが、展示された彫刻はレリーフはあっても量感に欠けていた。それはむしろ、さまざまなオブジェで構成した一種のコラージュと呼べるものだったかもしれない。たとえば、一枚の板の上に・・・この板が手を加えない自然のままのものが、手を加えたものか、あるいは絵を描いたものかは別にし、いずれにせよ・・・釘とか、きっちり測った四角いものだとか、鉄の断片とか、たまたま拾ったオブジェなどを置いたものだった。これらの作品で重要だったのは・・・オブジェそのものの他に、生まれつきのユーモアとか、皮肉が表現されていたことだ。事実、展覧会全体が一種の抗議であり、ダダや、シュルレアリスム運動の必然の結果であることを意味していたし、さらに、ミロ自身が、絵画の圧殺の必要性について語っていた頃行なった展覧会だった。1944年、(この年は偶然にもミロが初めて陶器を始めた年だった)から50年かけて、テラコッタとブロンズによる最初の彫刻作品を制作した。フォルムは自然そのものだが、彼の作品によく見られるある特有の題材、つまり女をテーマに実にはっきりと彼固有のアクセントを示している。ここでの女は・・・原始地中海文化において、非常に重要とされた母なる女神の生まれ変わりのように、あふれんばかりの母性を十分にみなぎらせている。そして、これら数年後の1954年には、想像力を主軸とした大作のひな型を数点制作した。骨とか磁器製の洋服掛けとか、古い電話のベルとか、皮の切れ端などといった非常に幅広いさまざまなオブジェを用い、ブロンズと画紙をうまく合体させている。こうした一連のひな型を見れば、これらのオブジェが、実際の大きさで構成される時に生む効果を想像できよう。1966年は、ミロが最も「彫刻」に専念した時期の最初の年であり、これは1971年まで続く。彫刻を構成するうえで彼が使ったオブジェは、実に簡単に見分けられる。風化した小石や、浜辺で見つけた枯れた木の根、サボテンのトゲといったような自然のあらゆるものであったり、フォークや、ある農業用機械の金属の断片、台所用品、粘土製の笛といったような日常の生活用具だったりする。こうしたオブジェはすべて、それらが自然のままのものであろうと、人工のものであろうと、反工業的な世界、すなわち手工業時代から未だ脱していない世界のものである。これこそミロを魅了し、真正なものに執着しつづける世界なのである。画家はこれらのオブジェをそれぞれに最もふさわしい方法によってもとのフォルムから新しいフォルムへと創り変える。友人:ジョアン・プラッツは、「私が石を拾っても それは単なる石にすぎないが、 ミロが拾えば それはミロになる」と述べているが、まさしくミロは、現実の世界に始まり、現実の世界へとの直接的な関わりのなかで想像するのである。まるで、「現実は我々の想像を超えている」と言ったチャップリンの有名な言葉を暗示するかのように、彼はミツバチの巣箱のかけらや、壊れた水差し、バスケットなどのオブジェを通し、我々の前に新たな現実を顕にするのだ。そしてそれと同時に、つまらないものなど何もないこと、詩はあらゆるものから作られうること、取るに足らないようなものでも隠れた美しさをちゃんと表に出すことができる。といったようなことを我々に教えているのである。彼がマヨルカの海辺を散歩する時も、落ちているものに気を配るのはそのためである。「私に攻撃と 発想のひらめきをもたらしてくれるのは、 現実そのものなのです」と彼は語っている。こうした日常的なオブジェが、不滅のものとなることを願うかのように、ミロがそれらに永遠の生命を与えるために選んだ素材は、ブロンズである・・・もっとも、彼が使った素材はこれだけではないが。Joan Miró ムーン・バード『月の鳥』1966年二羽の鳥、すなわち『太陽の鳥』と『月の鳥』は・・・初めブロンズで鋳造され、のちにカラーラ・マルブルーで形造られた。ブロンズは何世紀もの時を経て、徐々に“高貴な”素材としての評価を得、厳粛な馬上の記念像とか、ベルや大砲を作るのに使われて来た。だが、その一方で、最も堕落したアカデミックな彫刻家たちが、これを好んで使ったことも否定できない。素材の質と効果を高めるために、しよっちゅう偽の緑青が用いられたりした。事実、ブロンズの真の価値は、こうしたひどい扱いによって確実に損なわれて来たのである。ブロンズの使用はどんな彫刻家にも、確実に問題を投げかけている。だが、ミロは・・・ブロンズに公然と挑み、それから新たな効果を生み、非常に確かな解決法によってブロンズの持つあらゆる否定的な意味を変えることに成功したのである。パルマの家具職人と、コルヌデラの鍛冶屋の孫として、さらには宝石細工師の息子として、ミロは・・・職人の手で、素材が変化して行く様を目の当たりに見て育った。だからこそ彼は恒久的な素材を使うことによって、しかも、ろう型鋳造という、最も伝統的な方法を用いることによって、自分のオブジェを保存しておきたいと思ったのだ。もとの作品から鋳型を取ることにより、ポジティブな石膏の原型は、鋳物師が作りたいだけのネガティブな石膏が得られるものから生まれる。この鋳型に、溶かしたろうを流し込んで彫像の原型を取り、固める。その後、空洞部分に耐熱部に耐熱材を入れ、全体が高温に達し、ろうが溶けたところで、空洞部に溶融金属を注入。そして最後に耐熱材を取り除けばブロンズ像は完成である。ミロは常にこうした作業工程を、一つも欠かさず行なっている。実際、作業を行なうのは職人、つまりこの場合は、鋳物師なのだが、全行程を踏まないことは、彼にはほとんど道義的に欠けることのように思われるのだろう。彫刻の場合でも、ミロはさまざまな職人的技能を持った協力者たちに多大な尊敬と賞賛の念を抱いている。このことは・・・ピエール・マティスに宛てた手紙からも見てとることができる。この手紙は1970年にニューヨークのピエール・マティス画廊で行われた。「彫刻・版画・リトグラフ展」の折に書かれたものだが、彼はこの手紙のなかで、それぞれの職人による作品の違いを具体的に述べている。たとえば、パリのシュスが鋳造した作品には、「広い緑がかった色調部分を突き抜けている、 黒からしぶい赤へと変わる高貴なさびが見られる」し、クレメンテの場合は、「豊かで、実に個性的なさびを持ち、 魔力に満ち溢れている」。そしてパレリャーダの作品では、「さびそのものに暗示力と 彫刻の基本的な力を秘めた純正さが見られる。 もはやこれらの作品を想像することは不可能だ」。ミロのほとんどの彫刻には、鋳物師の手によるさびが見られるが、なかにはブロンズの上に、彼独特の色彩を施した作品もある。ミロは絵画を通し、初めは現実に非常に近かった造形言語を手探りの状態で始め、それを全体的に発展させることができた。そしてまた、彫刻を通し、彼の作品のある本質的な特徴を強調することができたのだ。すなわち、非常に頻繁に登場する一つの題材・・・女・・・がその一例であることは容易に理解できよう。彫刻の場合、女体は、もっともいろんな表現処理が可能なものの一つである。実際のところ、たとえば、カボチャでも、木の根でも、パンの塊でも、女性の性器を象徴する大きな穴のあいた長い管でも、言わば、どんなものでもその目的のために使うことができる。ミロはこの目的達成のためにオブジェを変形し、改革を施す。つまり、ミロのオブジェそのものの動きをせず、言わば、口実として、あるいは起点として機能するのである。それらオブジェはある目的を持てば、意図的にその効果を発揮するのである。性は、ミロの作品全体からしても頻繁に登場する題材で、彫刻では、時にユーモラスに表現されたりして、特に強調されている。たとえば・・・『男と女』おそらく、作品のタイトルと二脚のスツールとの関連性が何もないことに驚かれることと思う。だが、これで十分である。丸い方のスツールは女を暗示し、まっすぐで角張った線のある四角いスツールは男を語っている。この他、ミロの彫刻には天体と、『太陽の鳥』や『月の鳥』、そしてユーモラスな『女と鳥』などに見られるような鳥が主題として取り上げられている。この『女と鳥』は、垂直なスツール、ふたかカバー、スペイン市民警護兵の三角帽子、重量挙げ選手のウエイト、そして小石などの組み合わせから成っている。これらだいぶ後になって、ミロは合成樹脂のような新しい素材を使い、パリの国防省の新庁舎に立っているような記念像を制作した。このひな型は、現在ジョアン・ミロ財団に収蔵されている。この場合は、自然物をオブジェとして使わず(つまり、オブジェを作り)、絵画のフォルムを立体的に見せるのと同じような新しい作品を想像した。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.23
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パリとスペインを行ったり来たりしたジョアン・ミロは、陶芸家アルティガスと意気投合しますPARIJoan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。ミロが陶芸家:ジョセブ・ロレンス・アルティガスを最初に知るのは、1915年のことである。二人はアルティガスが創ったクールベ・グループで出会ったのを機にちょくちょく会うようになり、パリ滞在中は互いに同じ熱望を分かちあう間柄だった。1940年、アルディガスはバルセロナに戻り、ジェリ・ベルネ街にアトリエを構えた。ある日、彼は友人で、やはり陶芸家のレグアントに彼が作った製法に合う陶土を都合してくれるよう頼んだ。ところが残念なことに、使った素材の質がいつものと違っていたため、焼きで全部を台無しにしてしまったのだが、彼はこうした失敗作をいずれ壊すつもりで、アトリエの隅に山のように積んでいた。1944年、ミロとアルティガスはバルセロナで再開。画家は陶器に強く惹かれ、テスト用に上薬を用意してくらないかと頼んた。そして約束の日、アルティガスのアトリエで失敗作の数々を偶然目にし、こう尋ねた。「これをどうかするのかい?」。「いや、特にどうもしないよ」アルティガスは答えた。「それなら、テスト用に使わせてもらうよ」。新たな予期せぬ事実を生んだ目の前の失敗作の数々に、ミロはすぐにもワクワクした。窯の中で爆発したり、粗雑になった陶器の断片。彼はそれらに上薬を用いて絵を描き、火で固定した。これが、ミロの陶器制作に関わる最初である。その関わり方は従来とは全く異なり、そこには彼独特の実に自然で自由な創作活動を全うしようとする努力や、バラバラな耐火粘土の断片とか失敗作を使って創作しようとする気力や積極性を見てとることができる。ミロはまた、これとは別に、アルティガスの手を借りて総計200枚もの小型の陶板を制作した。だが、これらはいずれも満足いく仕上がりではなく、ほとんど残らなかった。陶器というよりは、イーゼルに描いた絵に近いように思えたのだ。こうした最初の段階での三番目の試みで、彼はようやくより満足のいくものに近づくことができた。ある日のこと、壊れかけた古い窯のなかに、彼は偶然、耐火粘土の断片をいくつか見つけた。それらは思いもかけぬ形に変わっていたのだ。彼はそれらを取り出し、両面に絵を施した。絵柄の題材は陶板に描いたものと同じだったが、描写はもっと込み入っている。この最初の段階では、テラコッタ製の彫像も何点か制作している。これはミロの陶器制作に新たな道を切り開いたと言える。題材は常に人物とか鳥、あるいは頭部だったりするが、これらの彫像には、ユーモアに満ちた人間の姿が表わされていた。陶器制作が第二段階に入るのは1953年からで、いわゆる成熟の時代とか、素材に熟達した時代と言われる段階である。ミロとアルティガスが“大火の世界”としてまとめた一連の作品を生んだのはこの頃で、これはもともと1950年から、1953年にかけて制作した石膏焼きがきっかけとなっている。モンロチにミロを訪ねたアルティガスと、息子ジョアンソは、そこでごく最新の彫刻用の素材を見せられ、ただちに共同制作への意欲を新たにした。だが、直面する技術上の問題は、なまやさしいものではなかった。新聞紙とか、藁とか針金をどうやって陶器に組み入れることができるのか?結局、手のかかるものは別々に扱い、後で一つにまとめることにした。焼きの過程は、まず素焼きをし、その後、せっきを作り、最後にミロが釉薬を塗って固めるというものだった。1954年2月25日、最初の窯入れが行なわれた。この時は同時に75点が焼かれ、これには・・・60トンの薪が消費された。そして最終的には234点を数え、いずれも自然な仕上がりとなっている。この第二段階では・・・とりわけ大型の作品制作に没頭したように思われるが、たとえば『小さなふくろう』のようなエキゾチックな美を漂わせる小型の作品も生まれている。またこの段階では、素材や技巧面においてもさらに複雑化している。アルティガスは・・・彼はこの頃すでにガリファに工房を構えていた・・・いつも自分の手で陶土を用意した。彼が使ったのは二種類で、一つは、粘土、長石、カオリンから成るせっきタイプのもの、もう一つは、普通の粘土と非常に細かく砕いた粉末状のテラコッタを混ぜ合わせた耐火粘土である。時には、一つの作品に両方が使われる。耐熱が少なく造形しやすい耐火粘土で原型を作り、表面を固めるためにその上をせっき用粘土の層で包むのである。また、ザラザラした耐火粘土の表面を滑らかな粘土で上塗りした作品も珍しくない。そしてさらにミロは、パンチやビュリンで表面を彫刻するような感じで削り、上塗りを剥がし、粘土の地肌そのものをむき出しにして違った質感や肌理を表したりもしている。釉薬は、ミロのいつもの色彩をうまく、確実に出せるように入念に選択される。この場合の成分は、可溶性のある要素を含んでいなければならない。たとえば、長石とか、鉛丹などは焼きが低温か高温かに関わっている。また、着色材には、コバルトや銅、鉄、マンガンなどが使われるが、これらは焼きのタイプによって違った色彩をもたらす。たとえば、銅は、還元すれば赤くなるが、参加すれば、使用量によって緑にも、黒にも変わる。ミロはいつでも、窯のなかの火の効果が生み出す色彩をワクワクした気分で待ち望んだ。この1953年から1956年にまたがる時期は、他の時代をはるかに凌ぎ、あらゆる技法をさまざまに探求した時代だった。この時期をして、とりわけ陶器の時代と呼ぶのはそのためである。1960年から1963年にかけて制作した陶器作品は、記念碑的な性質を特徴としている。この間の最も代表的な作品は、サン−ポール−ド−ヴァンスのマグ財団の庭にあるものである。アルティガス父子との合作による壁画は特筆に値しよう。1955年、ミロはパリのユネスコ本部より2枚の大壁画を依頼された。『太陽の壁』(3mx15m)と『月の壁』(3mx7.5m)がそれである。1958年に発表された「私の最新作は壁である」と題する記事中にミロは次のように書いている。「作品中のチェス盤のような形とか 人物のフォルムは、 ユネスコ本部ビルの、 たとえば窓のデザインなどの 細かな部分からヒントを得ました。 大きな方の壁画には荒々しい表現を、 小さな方には より詩的な暗示を出そうと努めました。 そして構成的にはそれぞれに、 ダイナミックで荒っぽい図案を 明るい色彩を施した平坦な部分や、 格子模様の部分を対峙させ、 はっきりしたコントラストを 持たせたかったのです」。この壁画制作に入る少し前、ミロとアルティガスは、サンティラナに著名なコレギアテ教会を訪れ、そこで心を強く打たれた。「湿気で浸食された古い壁のなんと見事な美しさか」ミロの一言であった。そして、「太陽の壁」のための250枚が仕上がったが、二人ともこれには満足しなかった。技術的にはすべて完璧だったが、あのサンティラナのコレギアテ教会で見た自然のままのでこぼこした古い壁の感触に欠けていたのだ。二人は迷うことなく、再度、その作業にとりかかった。アルティガスは、陶器の表面にほうきで絵を描く画家の姿を固唾を飲んで見守っていた。二度と修正はきかなかった。最後の焼きが行われたのは1958年5月29日だった。やり直したのは合わせて35枚だったが、これには25トンの薪と、4000キロの粘土、200キロの釉薬が使用された・・・ちなみに、最初に作った不要分には、4000キロの粘土、250キロの釉薬、10トンの薪が使われている。1958年、ミロはこれら2点の陶壁画により、グッゲンハイム財団から国際大賞を贈られた。このことは、これらの作品が明らかに国際的な成功を納めたことを意味している。1961年、ハーヴァード大学より、陶壁画の依頼を受ける。これはミロが10年前に同大学のために制作し、のちに、フォッグ美術館に移行された壁画に代わるものだった。画家は、自分が以前に描いた作品そのまま陶板に再現することの不可能さを充分承知していた。筆致も手法もその頃とは異なっていたからだ。そこで彼は、下絵も描かずに陶板に直かに絵を描いたのである。結果は、当時のミロの特徴だった詩的表現と見事に調和し、ものすごい迫力の黒い線が全体を支配していた。1964年から1972年にかけて、以下の5か所から陶壁画を依頼される・・・スイス聖ゴールのヘンデル大学(1964年)、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(1966年)、バルセロナ空港当局(1970年)、チューリッヒ美術館(1971年)、パリのフィルムライブラリー(1972年)。これら5件の依頼は、それぞれサイズもまちまちなうえ、設置条件も、野外もあれば屋内もありでさまざまな問題を抱えていた。だが、ミロは、それぞれに一番ふさわしい解決策をを見出し、彼特有の“神聖なる不満”をもって、それぞれに他とは違った個性をもたらすよう可能な限りのあらゆる手段を講じたのだった。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.22
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ジョアン・ミロの作品を鑑賞していると何と言ってもこの究極のフォルムが・・・大好きJoan Miróジョアン・ミロBorcelona,1893年-Palma de Mallorca,1983Pintura(Hombre con pipath)Painting(Mon with a Pipe)1925Oleo soble lienzo『パイプをくわえた男』1925年スペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」202展示室。彼の特徴的な大きな足は・・・大地の力強さは足元から伝わって来るという画家の長い間抱いてきた考えを表わしているといえる。Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家・版画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。ミロの全作品のなかでも「版画」は・・・量的にも主要な位置を占める仮にステンシル、リトグラフ、エッチング、木版などのすべてを挿絵用やポスター用に制作したものも含めて計算すれば、その数は優に1000点以上にのぼるだろう。もちろん、作品の数はその質を伴ってこそ価値があると言える。1928年、ミロはいつもの癖で、あらゆる技法を試みずにはすまない熱望に駆られ、リセ・ヒルツ著「それは小さなカササギだった」の挿絵用に初めてステンシルを8点制作した。薄い金属板や厚紙を使い、色を置く部分だけを切り抜くこの方法は、リトグラフなどの版画制作に乗り出す前の最初の実験段階と言える。一年後の1929年には・・・トリスタン・ツァラ著「旅人たちの樹」の挿絵に白黒だけのリトグラフを初めて制作。リトグラフ用の石にインクを盛り、それを紙に映し込む作業をこの時初めて経験した。そしてそれから四年後の1933年、クリスチャン・ゼルヴォスの依頼により、ジェルジュ・ユニエの詩集「幼年期」の挿絵として白黒エッチングを3点初めて制作した。ミロがこの技法を学んだのは・・・モンマルトルのラクリエール工房で、ここで初めて銅板に取り組み、酸の腐食作用によって、絵を浮き上がらせる方法を習得しえたのである。彼はこの素晴らしい技法を再び用い、エッチングの代表作の一つ『ダフネスとクロエ』を制作した。神話からインスピレーションを得て、ミロが描いたダフネスは・・・パイプをくゆらしている。彼の特徴的な大きな足は・・・大地の力強さは足元から伝わって来るという画家の長い間抱いてきた考えを表わしているといえる。背景の水平線の切れ目には・・・クロエの姿が見られ、まるでダフネスの奏でる音楽につれて海から浮き上がってくるようだ。彼女の近くでは一匹の山羊が藪の葉を食んでいる。そして二つの天体、太陽と月がこうした画面全体を総括しているように思われる。このエッチングには・・・ミロの初期の版画に対するはっきりした考えが現れている。主役はあくまで、鉛筆で紙に描くように銅板の表面をビユランを持って這う画家の手そのものであり、その結果、一つの物語が絵になって生まれて来る。1938年、ミロは友人でキュビスムの画家マルクーシスからドライポイントの技法を学んだ。その結果、二人は共同で『自画像』を描いているが、ミロの自画像は、綱渡りの曲芸師や星の間に埋もれて消えている。ところで、ミロは他にもステンシルによる版画を制作していた。1934年の、20世紀芸術に関する専門誌「ダシ・ダラ」特別号のための2点と、1937年に制作した著名な「スペインを救え」である・・・これは後に、スペイン内乱の共和国軍を支援するための資金集めに使われた。この作品では、こぶしを振り上げた男の下に次の文章が記され、最後にジョアン・ミロの署名が見られる。「今日の戦いに私が見るものは、 衰退したファシストの力と、 他方、 世界を驚かすほどの力を スペインににもたらす人々の 巨大な創造的活力である」。このステンシルは、最初「カイエ・ダール」誌で発表されたが、後にポスターに印刷され、世界中に知られるようになった。内乱直後の1939年、ミロは『バルセロナ・シリーズ』の制作に着手し、1944年、連作55点の白黒リトグラフにまとめた・・・完成が遅れたのは、材料の入手に手間どったためである。戦争の悲惨さを訴えたと思われるこの作品を発表したのはジョアン・プラッツだった。先の尖った歯をむき出した攻撃的な人物、象のような鼻をした奇怪な人物、カギのような腕、鋭利に尖った舌など、ミロが表現したすべては、集結したばかりの戦争に見た画家の素直な感情を侮辱的に表している。1947年、ミロはニューヨークで知人のヘイターと再開した。彼はパリでビユランの技法を初めてミロに伝えた版画家で、これを機に二人はトリスタン・ツァラの著書「反頭脳」の挿絵として、ドライポイント ・エッチングを制作した・・・これにはミロの他、イヴ・タンギーとマックス・エルンストの作品も挿画されている。ミロは1948年まで、彩色版画を制作していないが、この年から徐々に取り入れ始めている。事実、むしろ彩色版画が主流を占めるようになり、黒は素描と同様、フォルムの輪郭をとるために使われている。木版(版木に絵柄を彫ってインクを盛り、転写をする技法)に初めて着手するのは1950年で、この年、ブラジルの外交官:ジョアーノ・カブラル・デ・メロによるミロとその作品に関する著書のために挿絵を制作した。そして1958年、再びこの技法を用いてポール・エリュアルの著書「あらゆる試練に向かって」の挿絵用に80点の木版画を仕上げている。丸のみで手に大きな傷を負ったりしました。と画家はのちに語っている。だが、作品にもその結果にもすべて自分自身で責任をとるべきだと常日頃考えていたミロは、他人に版木を彫ってもらおうとはしなかった。彩色エッチングと最初に試みた作品は「シリーズ1」で、これは1952年に制作された。ミロが多くの詩人や、作家たちと組んで作品制作を始めるのはこの頃からで、プレヴェール、リブモン・ドッセーネ、ルネ・クレヴェル、ミシェル・レイリス、ルネ・シャール、ポール・エリュアル、アンドレ・ブルトン、ジョアン・ブロッサ、そしてシュルレアリストらによって復活したジャリや、ローレアモンに至るまで、彼らの著書のための挿絵を制作した。ジョルジュ・ライヤーとの広範囲なインタビュー(これはのちに本として出版された)のなかで、ミロは本の挿絵制作について次のように説明している。「まず最初に私が 非常に重要視するのは、 本の構成と印刷文字で、 次に詩人の心の中に 深く入り込もうとします。 これには多くの時間をかけて 思考を繰り返します。 二つの事柄、 つまり本の構成と その精神を同時に思考するのです。 それから素描をたくさん、 そう、実にたくさん、 サッサと素早く、 その辺にある紙きれに描くのです。 これが第二の段階ですね。 そして次の第三段階では、 本の構成と精神を十分汲み入れながら、 大きな紙に色を入れて絵を描きます。 これが済んで初めて 酸で銅板を腐食させる作業に移るのですが、 ここではスケッチなどほとんど見ないで 自由自在に作業をします。 スケッチは他でもなく、 間違いを避けるためと 彫刻職人にどんな精神で 作業を進めればいいかを 知ってもらうための習作なのです。 銅板の作業段階では、 スケッチは何も見ない。 仮に見るとしても、 全体の感じを見失わないためだけなのです」。1960年代の終わり頃、伝統的な版画技法を一通りマスターしたミロは、続いて、新しい質感をもたらす可能性を見出すことに興味を持った。1968年には・・・セメントに、1969年には・・・カーボランダムに模様を彫る試みをしている。こうした制作方法は、絵画やジェスチュア、斑といった新たな素材へのアプローチへとつながった。線は具体化し、背景は色斑が置かれ、またあらゆる種類の衝撃的な図案記号で表現されたジェスチュアは、時に画面全体を決定するほどの重要性を持っている。こうして見ると、晩年のミロのリトグラフや他の版画は、最初の『ダフネスとクロエ』からして、それが単に素描画としか思えないほどはるか遠くまで来たことがわかる。そしてここに我々は再び、無力とかささやかな成功におごるようなことを極力はねのけてきたミロの不屈の精神を見るのである。最後の二、三年に、パルマ近郊のソン・ボテルに版画工房を設けたミロは、自らここに入り、ジョアン・バルバラ(銅板)や、ダミア・カウス(リトグラフ)らと共に制作に励んだ。これらの工房は・・・版画制作の場を持たない若い作家たちにも解放することを目的としている。ミロの深い寛大さがここにも伺われる。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.21
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1970年代になるとミロの作品は世界中で知られるようになります。1970年に大阪万国博覧会でもミロの作品が公開されました。1974年には・・・パリ「グラン・パレ」Grand Palaisでジョアン・ミロの大回顧展が開催されました。Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。1970年代におけるミロの作品は・・・主として1960年代と同じガイドラインに添っ手描かれた。『夜の中の女』1974年では・・・女が再び題材に取り上げられ、女性を象徴するアーモンド形が描かれている。同様に『太陽の前の女』1974年では、太陽が・・・『月の前の女』1974年では、月が・・・『夜の中の女と鳥』1969年〜1974年では、鳥がそれぞれ題材になっている。こうした晩年の作品の特徴は・・・黒を豊富に使っていることに加え、その黒との比率からして他の色が極端に少ないことがあげられる。このような特徴は、トリックリングやプラッシング、ドリッピングなどの技法を冷静に使いわけて色を塗ることと相まって、晩年の作品に多大な力と攻撃性をもたらしている。だが、攻撃性は色の塗り方よりもフォルムそのもののなかに、より強く現れる。これらの作品は、抗議の叫びというよりは、画家の感情を偽りなく自然に表現したものと解釈されるべきだろう。1970年代の初め頃には・・・ミロの作品は世界中に知られ、高く評価されるようになった。事実、ちょうど1970年代が始まる年に大阪万国博覧会が開かれミロはこれに、絵画の大作と陶壁画を1点ずつ招待出品している。日本の観客は・・・ミロの作品に強く魅せられ、共鳴した今や、主要な作品展があらゆる所で次々に開催された。1972年(79歳)には、ニューヨークの「グッゲンハイム美術館」で「磁場」展が、ロンドンのヘイワード画廊で「ミロのブロンズ」展がそれぞれ開かれ、1974年(81歳)には、パリのグラン・パレ美術館と私立近代美術館で大回顧展が同時開催された。そしてついに・・・1978年(82歳)には、スペイン政府主催による初のジョアン・ミロ代表絵画展がマドリッドのスペイン国立現代美術館で行われ他のである。さらに、メキシコ、カラカス、ミラノ・・・とリストは尽きない。一言で言って、ミロは真に“宇宙的カタロニア人”と言えるだろう。つまり、一瞬にして世界中にその名と作品を知らしめた我々の土地の人間である。しかし、ミロは・・・こうした国際的認可を受けながらも生まれた土地への愛情を変えることはなかった。ジョアン・ミロ財団を、バルセロナ市に寄贈するという寛大な行為を例にとってもそれらは明らかである・・・財団は1975年6月10日、一般公開された。これより、何年か前から、ミロは・・・友人たちと財団創設に向けて計画を練っていた。協力した友人のなかでも、ジョアン・プラッツは特筆される人物だが、残念なことに彼が情熱を傾けてきたこの計画が日の目を見る前の1970年10月に亡くなっている。ミロの友人であり、また我が国の前衛芸術における第一人者である彼を記念して賛歌を称える意味から、財団第一展示室には彼の名が記され、その個人コレクションが収蔵されている。モンジュイック公園に建つ財団を収容するこの建物は、ホセ・ルイス・セルトによって設計された。彼はミロの親友であり、1937年のパリ万国博覧会スペイン共和国館における展示では画家と共に作業をし、また1956年には、マヨルカのミロのアトリエを設計した人物である。セルトはこの財団を、外観にマッチし、周囲の環境とのバランスも完全にとてた広々とした内的空間をもつ建造物に仕上げた。あらゆる空間に作品を展示する目的からしてセルトが初めに直面したのは、言うまでもなく、光と環境という二つの問題だった。自然光をできるだけ多く取り入れるため、彼は四分の一の円筒形をした一種の天窓を採用した。ここから入った光は半紙焼こうとなって室内に差し込み、時間や季節によってさまざまに変化する太陽の位置にも関係なく、常に、陰影を生むことも、作品や鑑賞者の目に直射光をあてることもない。鑑賞者の順路は、中央中庭に囲むように組まれ・・・こうしたやり方は、古代ローマの住宅の中庭に設けた雨水だめや中世の回廊などにその起源が見られる・・・訪問者が再び同じ所を通らなくてすむように工夫されている。建物は鉄筋コンクリート製だが、コンクリート独特の灰色の地肌が白く塗り替えられ、いかにも地中海風なm(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.20
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インスピレーションを感じる国への旅のアルバム・・・・ぐるぐる回ってどこへ行くのでしょうヴァチカンです〜はははは(今日もブログ内容とは関係のない写真)Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。1960年代に入ってもミロは・・・独自の造形言語を変えず、むしろ大地や空、女、鳥といったなじみの題材を通し、序々に本質と純化し、一つの形にまとめあげていった彼を自己発見へと導いたルーツに対する頑固で不断な態度はますます表に出るようになり、彼がなしたすべてのものには、画家になりたての頃からこれまでのあらゆる作品に通じる明白な一貫性が実にはっきりと現われるようになった。ときには、色彩がこれまでになくかなり重要性を帯び、事実、画面全体が単一色で占められたりする。たとえば・・・『青II』や『青III』では、水平線は姿を消し、空の色だけが背景全体を覆っている。背景には筆のタッチが残され、色を塗る不連続な手の動きを明らかに読み取ることができる。『青II』では・・・縦に置いた赤いストロークが柔らかな青に対して劇的な雰囲気をもたらし、『青III』では・・・非常に細い黒の軌道が、我々の目を謎のような赤い点へと導いて行く。『友人の伝言』の起点になったのは1964年にアレクサンダー・カルダーからもらった一通の手紙だった。ミロはこの封筒の上に下絵を描いている。大きな黒っぽい塊が友情を表わすように緑の背景の上に奇怪な形を広げている。そして、緑の空と黒い大地の間には、モデスト・ウルヘルのクラスを永遠に思い出される地平線がまたも現われる。地平線はこの先の作品にも引き続き見られる。『黄金の青い後光を射したひばりの翼が ダイヤモンドで飾った草原に眠るひなげしの心に到達する』では・・・定規を使ってきっちりと描かれた幅広い地平線が、画面上の方に分けられ、前者は・・・大地を、後者は・・・空を、それぞれ表わしている。こうした宇宙の秩序、すなわち空と大地の二元性を暗にほのめかすというミロの手法は、ほとんど取り付かれたかのように絶え間なく作品に出現し、ここでも赤い星と大地に置いた紫色の星雲に包まれた黒い塊を表現することによって強調している。『ばら色の雪の上の水滴』では・・・ぶ厚い黒のストロークが、オレンジ色の画面にうねるように置かれ、繊細な背景に挑んでいるような感じを受ける。星を表わす繊細な線は・・・ちょうど1940年代に精と動を対比させて図案を描いたように、この黒のストロークと対照をなすように置かれている。ところで、この頃の作品は・・・背景を単色でまとめたものばかりでもない。『絵画I』では・・・さまざまなニュアンスの赤から黄へと移行する柔らかな色調で描かれている。そしてその上に置かれた単純な記号は、1927年作の『サーカスの馬』シリーズとつながっているように思われる。このように古い題材を再び取り入れる手法は、ミロの特徴の一つで、ジョアン・ミロ 財団に寄贈されたスケッチにもそのことは明らかに見てとれることができる。自分の題材に対し、ミロは真に飽くことを知らないと言える。つまり・・・彼の題材はしばらく潜んではいても決して死ぬことはないのである。前の時代に盛んに見られた格子模様の配色は、この時代にもまた現われている。ミロが二人の孫エミリとダビのために描いた絵画はその例外だが、ここでは、1950年代に見られた完全主義的手法から脱皮し、小さな格子模様一つ一つがもっと大きく、もっと伸びやかな印象を与えている。『スキーのレッスン』は・・・1960年代に描かれた作品中で最も複雑な作品の一つと言える。白味がかった灰色の背景は違った色調の雪を暗示している。記号や線描などに使われている黒は、この先も、だんだん強調される特徴の一つで、おそらく画紙の白地に直接黒で素描する伝統的な手法を応用したものと思われる。格子模様に置かれた色彩は、色を交互に配置することによって深さを生み出している。また、この作品には、球形や丸カッコの所で跡切れる線、つまり軌道や矢のような形で表わされるさまざまな線によって動きが明確に表現されている。この軌道の動きを止める方法は特に注目される。一つは、球形を使うやり方で、放射した線を空間に失くさないようにしっかりと留めている。もう一つの方法は、ミロが線の端によく用いる丸カッコのような形をした記号で、彼はこれによって、まるで自分のエネルギーをのがすまいとするかのようにしっかりと線の流れを中断している。そして、この中断された矢の先端は方向を指示している。『スキーのレッスン』に見られる可能性は、言わば、こうしたあらゆる構成要素によって成り立っていると言えよう。このような動きは、『夜の中の女と鳥』にも見られる。この作品では、夜を表わす黒と鳥の飛翔を示す軌道が主要な特徴をなしている。『月下のカタロニアの農夫』には・・・再び農夫の姿が出現する。農夫はかなり初期の作品にも見られ、ミロのなじみの題材である・・・そして夜は、ミロを常に惹きつけてきた魔法に満ちた時間だった。ここでは、空と大地の色がわざと逆に置かれ、空には田舎を思わせる緑が、大地には夜の黒がそれぞれ塗られている。月、いわゆる夜の発光体は黒と黄が構成され、こうした寒色の使用によって、太陽とは違う、暖かみのない、我々にただ光しかもたらさないこの天体の特徴を示している。これとどこか似ているのが『夜の中の女と鳥』だ。この作品には、鳥の飛翔と女を表わす黒いストロークの他は、ほとんど色彩がなく、それがかえって我々の目をさらに強く引きつけている。女と鳥は・・・ずっと以前からミロの作品における主要な題材だった。初期の頃の女は、時には写実描写も加えながらもっと装飾的に描かれていたし、鳥も、飛翔の跡を記す軌道で表現するのではなく、それらしい形をなしていた。ミロがここに来て、そうしたタッチを変えたのは、現実よりも概念を重視するようになったからである。つまり、彼自身の奥深くから沸き上がってくるものを表し始めたと言える1963年(70歳)ミロは再びこの題材を使い、『女と鳥』を制作した。ここでは、鳥の飛翔の跡を表わすアラベスク模様と女の複雑な形がだぶっている。空と天体もミロの作品中にしょっちゅう現われる題材である。『空色の黄金』では・・・背景全体が金で塗られ、その上に宇宙を意味する大きな青の色斑が置かれている。左下隅の長いスカートをはいた女は、大地を思わせ・・・「大地の強さは足元から伝わってくる」・・・星で埋めつくされた外の宇宙と対比している。この星は、ご覧のように『星座』で見たものとは違う形で描かれている。また、重量挙げの選手が使うウェイトのような、線の両端に付いた単純化された球形が出現するのはこの頃からで、星も直線と対角線をそれぞれ二本ずつ交叉させた形状で表わされている。『夜の到来に喜ぶ人物と鳥』では・・・黒い夜が華やかな色彩の人物と鳥の軌道を包み、四本の線で描写された大きな星が、このお祭り気分を総括しているようだ。月は、農夫の世界では太陽と同じようになじみ深い特に優れた夜の生きものである。農夫の世界とは・・・すなわちモンロチの世界であり、ミロはそこで初めて現実に触れるようになったのだった。だがこの場合、それらは天文学的現象としてではなく、気象や農業上の現象を支配するものとしてよく知られていると言える。ミロの作品では・・・月はある変形によって表現されているが、たとえば、『月光の夜に三頭の馬を連れた女を取り囲む鳥の飛翔』(1968年)に登場する月は、満月でも三日月形でもなく、むしろよく知られる夜の円盤を具象化したようなもので、それには確実な攻撃性が伴っている。太陽は通例、夜明けか日没以外、画面に置かれることはない。つまり、頂点に達した太陽を見つめることができないからである。だが、ミロは、しょっちゅう太陽を描いた。太陽を描くことによって作品をより視覚的なものにする。彼の太陽に対する見方は触覚的であり、皮膚を通して太陽を感じるものである。通常、ぼってりした形で描かれるミロの太陽は、いつでも非常に明るい赤、つまり太陽がもたらす暖かさに見合った暖色で塗られる。たとえば、『太陽の前の人物』や『太陽の前のトンボの飛翔』は・・・その例としてあげられる。実にエレガントな構図の後者の作品には、わずかな要素・・・背景の青、太陽の赤、トンボの飛翔の跡・・・しか使われていないが、それでも画面には、ミロの作品の特徴である力強さがみなぎっている。1968年(75歳)には、文字を使った画面構成に再び魅力を感じ、『詩I』のような『詩』シリーズとか、『火花によって引きつけられる文字と数字』などを描いている。1920年代の作品と違うのは、言葉に意味を持たせず、缶詰業者などが習慣的に使っている文字そのものの魅力に重点を置いている点と言える。ポップアーティストたちは、利用し過ぎと思えるほど広告用印刷物を利用していた。そしてミロは、日常の現実に一区切りをつけるように、意味を持たない文字によって画面構成し、実に優雅で美しい結果を得ている。1968年(75歳)は、バルセロナの旧聖十字架病院で、ジョアン・ミロ代表作品展が大々的に行われた年でもあった。これはその主の作品展としては、スペインにおける最初のものであり、カタロニアの人々にとっても、パリやニューヨークや他のどんな土地にいようと常に自分の祖国に深いルーツを感じてきたこの画家の作品に接する最初の機会でもあった。1969年(76歳)には、カタロニア建築協会の主宰による「もう一人のミロ展」がバルセロナの協会本部ビルで行われた。この頃、芸術の世界は“アルテ・ポベラ”、すなわち一日限りの、商業ベースにのらない芸術運動が復興する兆しにあり、ミロの想像力は、こうした概念で燃え上がった。彼は協会本部ビル一階正面の大きな窓ガラスに、まるで大壁画でも描くように絵を描いたのである・・・作品は当然、展覧会終了と同時に消される運命にあったが、いずれも写真に収められた。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.19
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ジョアン・ミロには大きなアトリエを持つという夢がありましたが、それが叶うのは随分先のことだったのです叶ってみれば・・・落ち着かないってミロさんニューヨーク・セントラルパーク(メトロポリタン美術館の裏手)Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳8カ月没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。1952年(59歳)と1953年には・・・さまざまな大きさの絵画約60点が描かれ、同じ1953年、パリのマーグ画廊と、それに引き続くニューヨークのピエール・マティス画廊ですべて紹介された。作品の質は非常に優れているが、ここ三、四年の作品を分かつほどの新しさはない・・・。『燃える翼の微笑み』には・・・再び格子模様の配色が見られ、今ではミロの作品の特徴の一つとなった。太陽(昼の天体)と星(夜の天体)が、ミロ流のいつものやり方で、実に慎重に描かれた灰色の背景に映えて輝いている。だが、ミロのこれまでの作品には珍しく、画面には格子の一つに置いた鮮烈な黄色のような色が見られ、単色や基本色をさらに盛り立てている。作品の大半は、今では古典的とも思えるような正確かつ精巧な作風で描かれているが、実に詩的な題名がついている。たとえば先の作品もその一つだが、他には『夕日が月夜の中の我々を愛撫する』とか、『ジャスミンが少女のドレスを金色の香りに濡らす』というように。これらはミロの作品における・・・絵画と詩の相互浸透を例証していると言える1932年、「カイエ・ダール」誌に掲載された「私は大きなアトリエを夢見る」と題する記事にミロは次のように書いている。「仕事をするたびに、 私のなかには、 仕事への実感が湧いてきます。 彫刻も陶器も版画も やってみたいと思っています。 イーゼルは私には小さすぎます。 絵画を通し、 人間にもっと近づき、 ずっと追求していくつもりです」。ところが・・・奇妙なことに、1952年(52歳)、ミロがイーゼルの枠を超えて描き出した絵は、逆により小さなサイズのものだったさまざまな幅の縦縞や横縞の入った珍しい大きさの画台に加え、不規則なサイズのファイバーセメントや、厚紙の断片なども用いられた。こうした素材は・・・彼の制作意欲を駆り立て、新しいフォルムの発想を可能にしたが、これまでには、画材用に用いることなど考えられもしなかった。大きなカンヴァスを使って、最初に取り組んだ作品は・・・「グッゲンハイム美術館」からの依頼によるものだった。この大きなサイズ(2mx4m)のカンヴァスを前に、ミロは模型や下絵も使わず、ただ自分の思いのままに絵を描いた。カンヴァスに全エネルギーを叩きつけ、背景を大嵐のような雰囲気にまとめあげている背景の処理は・・・小さな作品に施した方法を踏襲している。色斑やでこぼこした素材、色使いなどのすべてが、作品の大きさに見合った“雰囲気”を表出する役割を担っている。この背景に置かれる記号や人物などのフォルムは、直接この上で輪郭がとられ、その後、画面全体の配色やリズム感を配慮しながら色が塗られる。作品の力強さは、事実、直接的な線描からきているが、この線描は、以前の作品を特徴づけるような完璧なものではなく、言わば、おおまかな感じの図案を表わしている。これまでの作品に見られた緻密な表現は過去のものとなり、実際上、画家が経験を積むほどに、作品には力強さや衝撃力が増すようになる。そして、それに伴い、図案は画面上から徐々に姿を消し、ついに画面の主要な役割を完全に色彩に譲ることになる。1954年(61歳)に描かれた多くの絵画には、こうした“思いつき”的な手法による直接的で荒っぽい表現が引き続き見られるが、まもなくして、ユネスコ本部の依頼による2枚の大壁画用陶器の制作が始まり、作業はこの先数年にわたって続けられる。ミロは絵画への手を緩めはしなかったが、こうした貴重な陶器制作を通し、自ら、限りなく思考し続けたと言った人間の本質により近づこうとしたのである。陶器や版画、リトグラフを中心とした創作活動は、五年間続いた。そしてこの間、1956年(63歳)パルマに移り住むことによって、作品は多大な影響を受ける。つまり、彼はここに来て初めて、いつも夢に描いていた大きなアトリエで制作することができたのであるカラ・マヨールの自宅を囲む庭の低地に建てられたこのアトリエは、友人の建築家:ホセ・ルイス・セルトの設計によるものだが、建物は周りの景色に完全に調和し、アトリエの内部空間もゆったりしている。だが、初めのうちはあまり大きくてきれいで、そのうえ真新しすぎたため、画家にはしっくりこない感じがあった。生きた感じに欠けていたのである。そこでミロは・・・浜辺や田舎道の散歩の途中で見つけた枯れた木の根や、木の幹、石ころ、貝がら、古い農作業用具などを拾い集めてはアトリエに持ち帰ったあらゆるものがミロを惹きつけ、あらゆるものが絵画や彫刻を創作するうえでのヒントになったマヨルカに移ったのを横に、ミロはこの40年間にバルセロナで描きためた多くの絵画・・・多数の素描や研究課題を記したもの、スケッチブッチに至るまで・・・をすっかり処分した!!こうすることによって、もう一度自分の作品を見つめ直し、新しい方向を模索しようとしたのである。つまり、これまでに身についた壁をぶち破る必要性を認識し、自分自身と、今では複製画や絵葉書などでも知られるようになった作品のイメージを捨て、再度、新しい全く未知の道を見出さなければならないことを理解したのである。しかし、新たな方向を模索するとは言っても、自分の奥深くに横たわるルーツを忘れたわけではない・・・それは、自分と自分が今住んでいる土地や祖国の習慣とをつなぐ絆だった。1959年(66歳)1960年(67歳)に描かれた大量の作品・・・100点以上を数える油彩画に加え、実に多くのグワッシュや水彩画が描かれた・・・は、時にミロが“書いた”記号とは思えないほど激烈な表現に満ちている。筆の運びに勢いを持たせて、一気に描いたのもあれば、それとは逆に、背景の材質や色斑と対比する実に細密な線描も見られる。こうした明らかに矛盾する表現方法を使い分けているなかには、これまでの決まり文句のような造形用語を捨て、より純粋な慶賀の状態、すなわち直接的表現にさらに近づこうというミロの気持ちが現われている。ぶ厚い線で一気に描きあげることによって、ミロの世界のフォルムを単純化している。鳥や女たちは、相変わらず画面に登場するが、以前のような感覚に訴える魅力はなく、精巧な描写や細部描写などは一切削り取られ、実に攻撃的に描かれている。たとえば鳥などは、飛翔の跡を記す表意記号だけが、画面に置かれているにすぎない。天体はこれまでの図案の世界から、脱皮するうえでいちばん苦心した要素と言える。『赤い円盤』には・・・人物描写はいっさいなく、赤い円盤そのものが画面の主要な要素をなし、黒い背景に無数の斑を散りばめて広がる大きな白い斑の中央に際立っている。この白い斑の上には、他の作品でも見られたような単純化された形の違う記号が四つ見られる。ミロはここで、斑を起点にして、形や色彩の力を強調した日本の国旗のような強烈な赤い円盤を置く空間を形造っているが、こうしたやり方は、ジャクソン・ポロックのような後の世代の芸術家へと受け継がれた。当時の制作上の変化をみごとに例証しているのが、1937年作『自画像』の改訂である。カンヴァスに鉛筆で素描したもとの作品には、無数の線描で変形された画家の顔が描かれている。ミロはこの自画像を1960年になって、色彩を使わず完成させようと思い立ち、まず、これを完全に描き移した後、この上に奇妙な図案を重ねたのである。髪の毛を伴った頭部や目、首、肩などの主だった特徴を強調した黒の野太い一本の線がわずかな単色と対照をなしている。この改訂を施した作品を決定的な分岐点とし、時代は明確化と自己確認の時代からジェスチャーが最高に重要なものとなる最後の20年に向かって着々と移行して行く。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.18
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ジョアン・ミロが50歳代には世界的にどのくらい知られていたのでしょうか人生の分岐点となったアメリカでのお仕事とはマドリッド「プラド美術館」裏にてGOYAちゃんスペイン・マドリッドでは・・・ミロはまだ存在すら知られず実に1978年に当地で行われた大回顧展まで無視されつづけるが・・・この頃になると、わずかではあったが、出身地:バルセロナの友人や詩人、芸術家たちの間で認められるようになっていたJoan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。パリでは・・・1921年の最初の個展以来、数回にわたって個展が持たれ、初めての失敗にもめげず、大きな成功を収めたりもしていた何人かの眼識ある人々は、ミロの作品の価値を認め、その重要性を理解していたが、一般の人々には未知の存在で、知られていたとしても目立つほどではなかった作品の評価が・・・国際レベルで初めて認められたのは、アメリカにおいてだった1941年、ニューヨーク近代美術館で行われた最初の大回顧展によって、ミロとその作品は広く知れ渡り、ピエール・マティス画廊では、個展が開かれたりした。人々はミロを受け入れ、作品に夢中になった。アメリカにおける人々のこうした喜ばしい反応が、具体的な形となって現れるのは1947年である。ミロはこの年、シンシナティの高層ビルの一つに店を構えるレストランの大壁画を依頼される。ニューヨークに大きなアトリエを借り、そこでこの年の2月から10月までの制作を続けた。壁画に取りかかる前に、まず、問題のレストラン内部の特徴やカンヴァスを設置する場所が綿密に研究された。縦=3m、横=10mの巨大なカンヴァスは、画家の円熟した作風の度合いを試すかのようである。だが、ミロの記号や色彩が、この大スケールの画面に完成に溶け込んだことは言うまでもない。八ヶ月のアメリカ滞在は・・彼の人生の重要な分岐点だったと言える。一つには、作品の正当性と名声を確立したことであり、もう一つは、大作に挑み、彼の水準に達する結果を確認できたことであるこれ以降、ミロのもとには、大スケールの作品の依頼がどんどん舞い込むようになる。ニューヨークから戻り、春にパリに発つまでの間、壁画を1点と14点の絵画を制作した。絵画はここでも、しぐさを施した動きのある要素と細心の注意で描いたフォルムとの間にコントラストが表され、色彩は非常に正確に配置されている。『蜘蛛を蝕む赤い太陽』には、このことがよく現われている。中央の黒い大きな素描と慎重な色彩を施した左手の小さめの記号は、細密な素描と慎重な色彩を施した左手の人物や緑の背景に散らばっている小さな記号・・・右手下隅の女性器、見る者を怒らせるような目、星たち・・・などとコントラストをなしている。やはり同じ頃に描かれた『ジョアキン・ゴミスのための壁画』では、背景にファイバーセメントが使われ、ザラザラした肌理が生かされている。これには、こすったり、もんだりして、さまざまなニュアンスが出るように手が加えられた。人物は・・・ミロの友人のゴミス家の人々を表わすが、この人物に施した繊細な線描が粗い背景に対比し、実にすっきりした画面構成となっている。あらゆるものが正確に配置され、仮りにそのなかの要素を幾らかでも変えようとすれば、その時点でもう〜“ミロ”の作品ではなくなってしまうのは明白である。それほど、作品の均衡からしても、要素の配置からしても、十分すぎるほど完璧な作品と言える。1948年の春、ミロはパリに戻り、マーグ画廊で個展を開いた・・・これ以降、パリでの個展はこの画廊で開かれることになる。この個展では、絵画と陶器の最新作が展示された。オープニングにはあらゆる友だちが顔を出し、美術館や画廊の関係者たちの姿も見られた。パリでは、言わばミロの帰りを大歓迎し、これまでの作品への評価を再認識したと言っていい。誠実さと危険をもとに描かれたこれまでの作品には、成功におぼれず、常に新たな目標に向かって、自分を駆り立てようとするミロの姿勢がにじみ出ていた。ニューヨークとパリでの成功は・・・ミロの創作活動に一段と拍車をかけた。再びバルセロナに戻り、1949年と翌年にかけて絵画55点、素描画150点、そしてかなりの数の彫刻、オブジェ、エッチング、リトグラフを制作している・・・トリスタン・ツァラの著書「一人語る」の挿絵用リトグラフもこの頃、制作された。この二年間で描かれた絵画は・・・制作手段によって二つにはっきり区分できる。いくつかは実に慎重に描かれ、他のものは全く自在に表現されている。こうした二つの傾向は、これまでには全く同一の作品において見られたが、ここでは塾考の結果としての絵画と、衝動の明示としての絵画に分けられている。互いに補足し、均衡を取り合っている二つの画法が、これほどはっきり区別されたのは初めてである。精巧な描写による絵画ではまず、背景における大きな相違が目につく。たとえば、『夜の人物』を見てみましょう〜ミロはこれまでにも、背景には細心の注意を払い、非常に繊細な肌理を表わそうとしてきたが、ここではそれ以上に高度な繊細さがみられる。色彩は、カンヴァスのたて糸と横糸が、明らかに見えるように置かれ、緑からオークルへ、そしてオークル・イエローか赤へと一色一色、実に滑らかに重ねられている。また、その上をこすることによって背景に古びた雰囲気を与え、画面をいっそう高貴な感じに盛り立てている。こうした作業はすべて、フォルムを置くための下準備として進められている。素描は実に緻密で、ミロ独自の造形用語が可能な限りいろいろな形に結合し合う。我々の日常言語と同じように、ミロの用語も無数の表現方法を持っている。人物、鳥、天体、記号などは、ミロの図象の世界で重要な役を演じるが、作品の一つ一つに正確な意味づけをしようとしているのは好ましくない。と言うのも、彼の使う記号には宇宙的な正当性があるからだ。ミロの言語は、これまでも音楽にたとえられてきたが、ある点で、両者は実に似かよっている。つまり、音楽が具体的な意味を持たないように、ミロの作品も、全く単一な言葉で表わすことはできないのである。正確な素描から生まれたリズム感は・・・フォルムに単色を置いたことでいっそう強まってている。黒と白を基調とし、他に赤や緑などが使われている。一方、前にも述べたように、同じ1949年と1950年には、こうした精巧な絵画への反動として絵画の第二シリーズが描かれた。自在な表現による絵画は、表現法に枠をはめず、あらゆる用具や画台が使われている。画台は・・・カンヴァスの他に厚紙、メゾナイト、紙やすりなど、用具は・・・油絵具、木炭、グワッシュ、パステル、水彩など、針金、石膏、糸といった珍しいものまで登場する。こうした自在な絵画はいずれも、精巧な絵画を生むうえでの種子を含んでいるように見える。背景の仕上げには、時に絵具のシミやしずくまでも使われる。また、石膏のような分厚いものとか、結び目の多いコードなどが、しょっちゅうモティーフに使われている。精巧な絵画と、自在な絵画のそれぞれの主な特徴を見てみると、前者は、秩序と節約であり、後者は、しぐさと本能と言えるかもしれない。このように対比する二つの表現法は、ミロの画歴のあらゆる段階に現われている・・・質的には、“常識”と“均衡”で比較されるかもしれない両者は、伝統的にカタロニア的な要素と対立してきたように思われる。だが、ミロは一人の芸術家として、パリで初期のシュルレアリスムに関わり、ボヘミアン的な日々にどっぷりつかっていた時も、ニューヨークで壮大な制作に取り組んでいた時も、宇宙的画家としての国際的評価とは裏腹にカタロニアのルーツを片時も忘れることはなかった。ハーヴァード大学の依頼により、1.9mx5.9mの大壁画を制作するのは、1950年の暮れから、1951年の初めにかけてである。これは、画家に対する再度の“テスト”でもあったが、記号はいつものイーゼルの限界をはるかに飛び越え、仕上がりは完璧だった。作品は依頼主に渡される前に、マーク画廊で開催された“四つの壁画で”展に出品され、パリの人々に紹介された。この展覧会には・・・ピカソの大コラージュ、ブラックの石膏レリーフ、レジェのアウンコートのためのモザイク画なども展示された。1951年から次の多産な時代が始まるまでの間、二つの大活躍の時代の中休みを知らせるように、約10点の絵画が描かれた。この時代の作品には、前の段階で得た発見が見られ、特に精巧な作風に施した技法が取り入れられている。作品の特徴は、コットンのような雰囲気で、『惑星に向かって螺旋状に地を這う蛇を追いかける赤い羽のトンボ』はその典型である。星雲を思わせる背景の色彩は独特な雰囲気をもたらし、人物や動物、天体などに格子模様で置かれた単色とコントラストをなしている。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.17
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ミロの『モデルニスモ様式の額に入れた絵』の額は蚤の市で見つかりました。お宝鑑定団に出したいですねジョアン・ミロ作『アール・ヌーヴォーの額に入った絵画』『モデルニスモ様式の額に入れた絵』1943年「モデルニスモ」とは・・・?ガウディに代表されるカタロニア世紀末のアール・ヌーヴォーを意味する。繁栄の極みにあったバルセロナの街をさまよい歩くうちに、若きミロの目にとまった世紀の夢。彼はそこに自分の野生の夢を重ね、われわれの前に差し出しているJoan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタロニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタロニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。1942年(49歳)家族とともスペインバルセロナに戻ったミロは・・・フォルゲーロレス街に居を構え、以前同様、クレディト街のアトリエで制作を続けた。ここでは彼が生まれた所であり、1944年に死を迎えるまで母親が住んでいた。『星座』には、生きものや、星や彼の内側の世界が表現されている。ここではインスピレーションを外部に求めず、ましてモデルとか、夢とか、本能的などにも頼ってはいない。外的世界をいっさい捨て、彼自身の自我の奥底から湧き上がってくるものを取り入れている。いよいよミロと他の画家との相似点を見つけるのは不可能になった。少なくとも・・・絵を見慣れた人々が、ミロの作品を見誤ることはないだろうし、かなりずうずうしい画家にしたところで、ミロの作品を盗用することなどできないはずだミロの作品は・・・今やまぎれもない彼自身のものになった。つまりミロは・・・外的世界に通じる言葉を使わず、誰にでもわかるが、誰にも繰り返せない独自の造形言語で話し始めたのである。1942年(49歳)から、翌年にかけて制作されたかなりの量の作品は、いずれも紙の上に描かれている。これにはありとあらゆる用具が使われた。鉛筆、墨、水彩、パステル、グワッシュ、ベンジンを混ぜた絵具、色鉛筆、それに黒いちごジャムのような普通使われないようなものまで・・・。この頃の作品は、ほとんど錬金術に近い。他の画家なら、さしずめ師匠について技術を完全にマスターしようとするところだが、ミロは自分が使うさまざまな用具から、思いがけないものを発見する喜びを感じ、その制作過程で衝撃的な驚きを待ち望むのである。つまり、自分の意思通りに用具を使うのではなく、むしろそれがもたらす暗示に期待をかけるのである。こうした冒険心とか、研究心は・・・生涯にわたって、ミロの制作活動に平均して見られるが、時にはかなり強く現れたりする。紙に描いた一連の作品の題材は・・・たとえば女、鳥、星、というように明らかに限られている。しかし、さまざまな工夫をこらすことによって、新しいフォルムが次々と誕生した。こうして女や星や鳥たちは、画家の尽きることのない想像によって無限に結合し、よく見かける題材になった。この他に見かけるのは、大小さまざまな形の人物だ。たとえば、『アール・ヌーヴォー調の額に入った絵画』(モデルニスモ様式の額に入れられた絵)では、画面いっぱいを占める人物と、そのそばに見える違った手法で描かれた小さな人物とが対照をなしている。この作品は・・・1943年にカンヴァスを使って描いた2、3点の油彩画のうちの1点で、額に合わせて描いたミロの唯一の作品である。このアール・ヌーヴォー調の額は・・・(モデルニスモ様式の額)バルセロナの蚤の市に足繁く通っていたジョアン・プラッツがそこで手に入れたものだが、ミロはこれを見てすぐに、自分のもとにしばらく預かれないかと申し出る。もちろん、ブラッツはこれを承諾し、しばらくして受け取りに行って驚かされるのである。額には問題の絵がきちんと入っていたのだこの頃描かれた記号や図案は・・・膨大な数にのぼる。と言うのも、画家は、自分自身を表現しようとしたばかりだけでなく、独自の造形言語を作り出したからだ。こうした言語は生きたものであり、当然、次々と新しいものと入れ替わっていく。フォルムのいくつかは脇に寄せられ、代わって他のものが決定的な位置を占める。たとえば、目鼻をもった人物とか、ミロの宇宙を形成する太陽や月や星のような天体とか、交叉する4本か6本の線や球の中で終わる波線や波線、中央点から伸びた螺旋などで形造られる。脱出の様子のような記号などなど・・・。油彩画を中断して四年後の1944年、小さめのカンヴァスを使い、ミロはまた描き始めた。ここでは図形を目立たせるような空間を作るため、カンヴァスの肌理をそのまま出して背景に変化をつけている。色彩は、相変わらず単色を使い、完全に限られた所にだけ塗っている。これらの作品の大半は驚くほど単純で、画面には人物が・・・、二人と星がいくつか、それにその他の天体や記号しか見られない。これは独自の言語を練っていくうえで、最小の要素でできるだけ多くを語らせようとした結果である。人物には、特別な動きも感傷や情熱のかけらも見られず、ただ宇宙全体の一部をなしている。1945年という年は・・・作品数からして、かなり多くの人々に名前を広めた一時期と言えるだろう。黒の背景を伴った2点の作品を除けば、この頃の作品には決まったように、グレーがかったブルーとか、薄いブルーといった明るい背景が描かれている。画面は大きな人物とか鳥、天体、記号などで占められ、なかでもよく見る記号は・・・曲線や直線、波線で形造られた二つ一組の黒い円形だ。これは『星座』によく現れた星を象徴している。作品によってまちまちだが、これらの要素には画面へのアレンジによって、命の息吹と動きが与えられている。人物の大半は細い、繊細なタッチの線描で表現され、ここには単色が適度に置かれてる。フォルムが重なった部分には別の色が塗られ、特に目や女性器、足などのミロを最も惹きつける部分が強調されている。目や女性器のフォルムには相互性が見られるが、これは使われる無数のフォルムの省略化を意味し、この先のミロの作品にもしょっちゅう見られる特徴である。また、こうした手の込んだ方法と並んで、この頃の作品の多くには絵具をたっぷりつけた太い筆でほとんど一筆描きしたような記号や図形も見られる。たとえば『夜の中の女と鳥』はその好例で、これとは反対の方法で描かれた図形が画面にリズムをもたらし、その対比によって両者を強調しようとしている。1946年の多数の作品は・・・基本的に過去二年間の作品を踏襲しているが、表記や図案の発明により自由な傾向が現れている。『日の出の女と鳥』にはそれが見られる。画面中央には一人の人物が描かれ、男性器と女性器をあらわにしているが、ミロはこれを少しも臆することなく示している。ここでミロは、これを限りに苦痛的な変形を捨て、この先、図案の動きや色彩に工夫をこらし、もっとユーモアがあり、荒々しい力のある作品へと向かって行こうとしている。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.16
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ミロにとって空と星そして音楽は基本的に重大な役割を果たしてゆきますミロの隠遁生活からの脱出とは・・・ジョアン・ミロの彫刻ムーン・バード(月の鳥)Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。「ヴァランジュヴィル」・・・このノルマンディーの海岸べりの小さな村は、第二次世界大戦直前までのミロの作品に非常に重要な役割を果たした。1939年(46歳)8月、ミロはここにクロ・デ・サンソネを借り、家族とともに翌年1940年5月、まで住んだ。この時期の作品は・・・どれもミロの全作品において、主要な位置を占めるものばかりだが、それらはこの土地や切迫した戦争の危機による特殊な環境から生まれた。ミロは風景にかなり敏感な人間と言えるが、それでもこれまでの経験は、実際のところ、タラゴナの田舎とマヨルカに限られていた。荒れた海辺、嵐のような海、そして低く垂れこめた霧・・・ノルマンディーの海岸風景は、どこをとっても、これら二つの土地と似ても似つかなかった。雰囲気も光も地中海とはまるで違っていた。マヨルカとタラゴナは・・・ミロの画家としての個性を形成し、断定するうえで決定的な役を演じた。彼はこの二つの土地で、本人が言ったように、足元から伝わって来る大地の強さを感じた。そしてヴァランジュヴィルもまた、一時的ではあったが、重要なものとなった。彼は大地からではなく、この土地の空からインスピレーションを得たのである。ミロがヴァランジュヴィルで絵を描き始めたのは、ここに住む以前のことで、建築家:ネルソンの家に、ちょくちょく滞在しては絵を描いていた。『平原の上の鳥の飛躍』はその頃、汽車のなかで描いたラフ・スケッチで、連作4点にまとめられている。この連作は、実際、地下鉄の切符や新聞の白い縁にざっと描いたのと同じようなもので、スケッチというより生活メモ的なものと言えるだろう。汽車のすれ違いざまの動きとか、飛んでいる鳥が力いっぱい、そのまま、しかも咄嗟の判断で簡潔に描かれている。ミロがノルマンディの空に目を向け始めるのは、この鳥たちを通じてだった。画家が家族とヴァランジュヴィルに移るのは、戦争がいよいよ危険な様相を現わし始めた頃だった。彼は自分を取り巻く現実に並々ならぬ嫌悪を覚え、それから逃れようという強迫概念にかられた。そして自分の内側に、その奥底深くにじっとこもった。ノルマンディーの隠遁生活はこうして内省にふさわしかった。空や星空の夜それに音楽がこの時期のミロにとって、基本的に重大な役割を果たしたと言える。J・J・スウィニーとの会話のなかで彼はこう言っている。「どうしようもなく逃げたいという 欲求にかられたのです。 そして自分のなかに じっとこもっていました。 するとだんだん、 夜や音楽や星たちが、 絵のなかで重要な役割を演じ始めたのです。 1920年代に詩がそうだったように 音楽が私のなかで とても大事なものになり始めたのです・・・」。8月から12月にかけて、ミロは2点の小さな作品『ヴァランジュヴィル』I、とII、を描いた。最初のものには、赤い背景が描かれ、二作目には、麻布が使われているが、いずれも確かなブラッシュワークと背景に施した堅い線描を主要な特徴としている。人物はここでも“野生絵画”を思わせるが、動きや図形間のまとまりの傾向が現われている。2点のなかでも、特に『ヴァランジュヴィルII』の方には、著名な連作『星座』の兆しが見てとれる。『ひとりの女を愛する数字たちと星座たち』『星座』シリーズは・・・最初の『日の出』に始まり、23作目の『神の島の通過』で完了する。一作目には・・・1940年1月20日の付けがあり、これはヴァランジュヴィルで描かれるが、最後の作品は・・・1941年9月12日、パルマで完成する。ヨーロッパ中を恐ろしい出来事が荒れ狂うなか、ミロはそれとはおよそ関係ないかのように初めの10点のグワッシュに没頭した。3月20日、ドイツ軍の先発部隊によって制作は中断される。家族はとるものもとりあえず、パリ行きの最終列車に飛び乗った。この時、悪いことに娘マリア・ドロレスは、腕にギブスをはめていた。ミロは子供のめんどうを妻に任せ、自分は『星座』の入った折りたたみカバンを大事に抱えた。彼の荷物はこれだけだったパリに着いてすぐ、ペルピグナン行きの汽車に乗り継ぎ、ジローナへ向かった。そこで画家の終生の友:ジョアン・プラッツに会い彼にバルセロナ行きを留まるよう忠告される。つまり、1937年のパリ万国博覧会スペイン館に展示された『刈り入れ』によって、ミロの身に面倒なことが起こりかねないという懸念があったからだ。そこで、彼はしばらくヴィクに滞在し、それからパルマに向かったのである。『星座』には・・・ミロの作品によく見られる冒険、つまり、自分自身に制作上の新しい問題を積極的に課し、それに対して、新たな解決法を見出そうとする動きが現われている。作業はまず、画紙を濡らした後、これをこすり、生き生きしたしわのある表面を作る。ここでも、ガリ美術学校で学んだ触覚による作業が生きている。このあと背景を塗るわけだが、色は、ミロの独特の非常に繊細な方法で一つ一つ実になめらかに重ねぬりされる。こうしてでき上がった透明な背景は、どれも明らかに似かよっているが、それぞれに異なり、その上に置かれる線や色彩にふさわしい空間をなしている。図形は、これまでの作品を踏襲しているが、線や色彩に施した独特の手法によって、攻撃性が取り除かれている。人物にはもはや孤立した感じや残酷性はなく。両面は一つのまとまった形をなし、そこには暴力的な跡も見られない。『星座』のなかのこうした図像は、全宇宙の秩序を表わそうとしている。人物は・・・大地を象徴し、星は手の届かない空の世界を語るというように、我々が見たり触ったりできるものを表現している。この星はさまざまな図形で描かれている。四本の線が交差する中央の点(これが最も多く見られる)だったり、角と角とを接触させた二つの三角形だったり、破線や波線を伴った色彩の円形だったりする。また、島や脱出の梯子は、我々が直接ふれられる他界と想像の源である天界を結ぶ手段として使われている。蜘蛛の巣を思わせる複雑な線は、みごとに単純化した色彩とうまく調和している。画面を占めている数々の線は、人物や動物を形造り、しかも二次的要素の配置や大きさ、色彩を調整している。これについて画家は、J・J・スウィニーに次のように語っている。「たとえば、 あるフォルムをここに置くとすれば、 それとのバランスから 別のフォルムがどこかに置かれます。 そして次に、 それに合わせて、 さらに新しいフォルムが置かれるわけです。 こんな風に作業は 果てしなく続く感じでしたよ・・・」。このように複雑なフォルムのなかで、基本的な役割を担うのは色彩である。ここで使われる色数はごく限られ、よく見るのは3種類か4種類だが、それでも黒のいろいろな色調と十分調和している。『鳥の飛躍に囲まれた女たち』色彩は、フォルムに添って系統だっていて、フォルムとフォルムが重なる部分には、別の色が使われる。たとえば、黒い円と、赤い円が重なる場合、それらの共有部分には黄色が塗られる。配色におけるこうした画法は、ミロの作品中、最も典型的な特徴の一つで、彼だけに見られる市松模様的な配色をついに生み出している。黄、青、赤、オレンジ、緑と色数に限りはあるものの、それぞれのグワッシュには、相当な力強さがみなぎっている。簡素ななかにもこうした色彩の豊かさが見られるのは、ひとえに、それぞれの色彩が、正確な配置に基づいて置かれているからである。『星座』シリーズは、パルマとモンロチで完成し、これをもって、残酷な絵画の時期は終わり、これまでの攻撃的なフォルムは姿を消す。ミロは自分の国で孤立しながらも、さらに自分自身の新しい表現方法を求め、力に満ちあふれた時代に向かう新たなる道を見出そうとしていた。この同じ1941年、パルマでの隠遁暮らしのなか、ニューヨーク近代美術館での最初の大回顧展が成功を収めたという吉報にミロは勇気づけられるそして、J・J・スウィニーがミロに関する最初のモノグラフを刊行するのもこの1941年だった。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.15
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ジョアン・ミロは 1936年の秋にスペインのモンロチから親子三人でパリに戻って来ましたよJoan Miró i Ferràジョアン・ミロー・イ・ファラー1893年4月20日〜1983年12月25日『肖像II』1938年カンヴァス 油彩 162.0cmx130cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。Joan Miró ジョアン・ミロ1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)Joan Miró i Ferrà(ジョアン・ミロー・イ・ファラー)スペイン・カタルーニア地方出身の画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)パリでシュルレアリスム運動に参加し20世紀美術に独自の地位を築いた。1935年(42歳)の秋、ミロはパリに戻った。久し振りのパリは、スペインに発つ前に見た最後の様子とだいぶ違い、当時ヨーロッパのほとんどを日の出の勢いで制覇した独裁政権によって、流浪者や亡命者たちの町と化していた。ミロは、こうした心的苦悩に加え、物質的にも窮地に立たされていたため、とりあえず、ジュール・シャンブラン街の簡素なアパートを借りた。そこには親子三人が住むのがやっとで、とうてい仕事のできる広さではなかった。1937年(44歳)、グランド・ショーミエールのデッサン教室に入り、再び生きたモデルに直面する。ここで描いた100点余りの素描には、ごく最近までの作品に現われていた変形がいまだに見られる。モデルの姿は常にゆがみ、当時ミロが抱えていた激しさや内なる苦悩を表わしていた。だが、モデルの姿の現実性を捉えることによって、彼はまとまりのあるフォルムを取り戻したのである自分のアトリエを持つこともままならなかったミロは、グランド・ショーエールに行かない日は、ピエール画廊の中二階で絵を描いた。代表作の一つ『古靴のある静物』を描いたのもここである。1937年の1月から5月までの5ヶ月を費やしたこの作品は、悲劇的リアリズムとして説明される。オブジェや色彩、そして脅威的な雲の効果のなかに、悲劇がはっきりと現われている。確かに、スペイン内乱そのものが具現されてはいないが、そこには悲劇がある。りんごに突き刺ったフォーク、ボトル、パンの皮、片方の靴などがスペイン戦争のあらゆる恐怖を実に簡潔に表わしている。オブジェには、グランド・ショーミエールで描いたヌード同様、写実描写が取り入れられ、威かくと強迫観念を感じさせる。また、色彩はオブジェを変形させているとさえ思えるほど、どぎつく厳しい、まるでカンヴァスの外から入って来た一条の光線によって、輪郭とふくらみをさらに強めているようだ。こうした表現方法は、これまで平面画法を常としてきたミロにしては、後戻りしているような感じさえ受ける。だがこの場合、オブジェに施した立体表現や走馬灯のような陰影は、当時のスペインのあらゆる民衆と事物に与えた恐慌を表わすうえで絶対に不可欠だったと言える。そして同じ1937年、パリ万国博覧会スペイン共和国のために『刈り入れ』・・・あるいは『反逆するカタロニアの農夫』・・・が描き上げられた。このスペイン館の設計にあたったのは、ルイス・ラカサとホセ・ルイス・セルト(彼は後年、パルマ郊外のミロのアトリエとバルセロナのジョアン・ミロ財団を設計している)だった。建物は、機能的かつ簡素なものだったが、設計者たちは造形芸術家たちと密に協力し合い作業を進めた。ピカソは・・・『ゲルニカ』を描き、カルダーは『水銀の泉』を、ジュリ・ゴンザレスは彫刻『モンセラット』を、アルベルトは、『スペイン民衆は星に向かう道を行く』と題する野外彫刻を制作、それぞれ出品した。そして、こうした作品のそばには、スペインのフォークアートが展示された。6枚のセロテック板をつなぎ合わせて描いたミロの作品は・・・全体が縦5.5mx横3.65mもある大きなもので、展示場の壁いっぱいに並べられた。これは画家にとっての最初の大作だったが、不幸なことに後に行方不明となる。おそらく、パビリオンを取り壊す時に取り外されたものと思われるが、真偽のほどはわからない。いずれにしろ残っているのは1枚の写真だけである。ピカソの『ゲルニカ』と、ミロの『刈り入れ』の間には、はっきりした対比が見られる。ピカソが、さまざまな民衆を登場させ、そのなかにすべての苦悩と絶望を描いているのに比べ、ミロは“野生絵画”に見たミロの展開的な人物の一人を通し、全社会の攻撃と激怒をあからさまにしている。このべレティナ(カタロニアの農夫特有の赤い毛糸帽子)を被った人物を我々は以前に見ている。だが、ここで彼が手にしているのは、ワイン入れでも、猟銃でもなく、かまである。人物の激しさが彼の身ぶりや態度、顔つきから伝わってくる。画面には説明的なものは何もなく、すべてが農夫の顔つきと振り上げた手に持つかまに集約される。顔の表情はミロの怪物と完全に一致し、目は眼窩から飛び出し、鼻は額にくい込み、歯はナイフのように尖っている。これこそ、ミロにしか表わせない激怒の叫びである。つづいて、この作品とは全く対照的な、実に詩的とも言える繊細な絵がベニヤ板を使って6点描き表わされた。外的要素から離れ、彼は初めにふと心に浮かんだテーマを発展させた。したがって、絵には特定の事実や出来事ではなく、普遍的なものが表現されている。ミロが、変形を施しながらも独特の写実で肖像画や風景画を描いたのは初めの頃だけであって、1923年以降、つまり主観的な見方を抑え、内的経験や精神状態を客観的に捉え始めてからは、作品のなかには、経験した事物が普遍的に表わされるようになった。この後、この繊細な絵に代わって、同じ木版に描いた『頭部』のような攻撃的な作品が登場する。作品には新しい要素としてタオルが使われ、ベニヤ板の堅い表面にしっかりと固定された。これによって背景には新しい肌理が生じ、画面の荒々しい雰囲気を一段と強めている。頭部はややでこぼした線で画面いっぱいに表わされ、わずかに残った空間に、その輪郭を強めるような激しいブルーが置かれている。目は実に大きく、我々を鋭く観察しているようだ。また、ノリで堅くなったタオルの肌理は、緑がかったオークルで、いっそうその粗さを増したようにすら思える。おそらく今日では、絵の表面にタオルを使用するのはなんの驚きもないだろう。物体や紙片、木片などを使った絵画を現在ではよく見かける。だが、この『頭部』が描かれた1937年当時に目を移せば、それがどれほどの勇気と必要としたかがよくわかる。つまり、ミロがやった価値はそこにある。彼は常に、自分の仕事の確かさを信じ、さらには次の世代に新しい道を切り開くような独自の方法で、物事を進めたのであった。“悲劇的リアリズム”期の最後の傑作は・・・1937年の暮れに描いた『自画像1』である。この肖像画は鉛筆による大きな素描画で、油絵のわずかなタッチが加えられている。ミロは初め、鏡を前に油絵用の下絵のつもりでこれを描き出したが、描写はだんだん細かく複雑になり、ついにカンヴァスを全体占めるようになった。そして1960年、これと同じ素描画を新たに描き起こし、その上に、23年後の新しい自画像を重ねたのである。ぶ厚いストロークで塗られた色彩は、特に目を強調しながら、モデルの最も特徴的な姿を捉えている。ほとんどバロック的に描かれた1937年の素描と、1960年の自由で独特な線描には歴然とした対比がある。この『自画像1』は、着色の段階まで行っていないという点で、ミロの唯一の未完の作と思われるかもしれないが、素描画としては十分と言える。初め写実的に捉えようとした画家の顔は、徐々に現実を超えた形で現れ、さらにその表情は、非常に悲劇的な概念で表わされている。さらにその表情は・・・常に悲劇的な概念で表わされている。ミロが自分の顔にこうした表現を施すのはこれが初めてで、また唯一である。彼はかつてこう言っている。自分の顔でも他の対象物と同じように扱い、画家としてそれを描いた。そしてさらにこう付け加える。一つは星で、一つは太陽。それはまた、鳥であり、花である。そして髪の毛は炎のようだ、と。星のような目は、1938年の『自画像II』にも現われ、『自画像II』1938年ここではカンヴァスの大半を占めるほど大きく拡大されている。これら2点の『自画像』を比較するのは少し難しい。二作目はモデルとのつながりが見られず、色彩だけが完全に調和している。両者の間には・・・明らかに関係性がなく、苦痛的絵画と単純化の区切りが如実に示されていると言える。画面の構成上、『自画像II』にかなり近いのが、『星が黒人女の乳房を愛撫する』である。ミロはここで苦痛的な図形と地味な色彩を捨て、代わりに平坦な画面に、記号のような実に単純な図形とフォルムをバラバラに置いた。『肖像』I 、II、III、IV、の連作には・・・ミロの筆跡が記号に発展した過程が明確に現われている。題材は、いずれも同じで一人の人物が非常に単純化されている。『肖像I 』には、いまだに“野生絵画”の特徴が見られ、背景の色彩からは、苦痛的雰囲気が漂っている。巨大な頭部が太陽をほとんどさえぎり、ほんのわずか、針の刺さった毛糸玉を思わせるように太陽がのぞいている。『肖像II』では、単純化が極度に進み、頭部を表わす平坦な円形と半円形の胴体がプルシアンブルーの背景から、くっきりと浮き出ている。フォルムは色彩によって厳密に分割され、画面の単純化は実に素晴らしい。『肖像III』も、フォルムの単純化と色彩の最大表現においてこれを踏襲している。『肖像IV』では、記号が大胆に取り入れられ、ミロの作品の女性器を表わす記号からして、女性を象徴した作品と言える。アーモンド形は、一本の縦線を境に二種類の異なった色が塗られ、その周りをくねくねした黒線が囲っている。これら4点の『肖像』はミロの方向を指示し、同時に彼の円熟した作風を表わしていると言える。限られた種類の色の使用や力強いコントラストによってもたらされる色彩の豊かさ、正確な配置、みごとなリズム感など。そしてこうしたすべてが、フォルムの単純化と記号化に結びついている。(参考文献:美術出版社/JoanMiróジョアン・ミロより)(写真撮影:ほしのきらり)ミロにぽち
2022.02.14
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