Hug育(はぐはぐ) 育児は育自

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●怒らない母親たち


児童館で、鉢植えを倒した自分の子どもを叱っていたら、「子どもが悪いんじゃないですよ。子どもは叱って育ててはだめですよ」と、保育指導員の方から善意の注意を受けた。
「ケガはなかった?」「あぶないから気をつけようね」って言うのが常識だそうだ。

食事中にコップを倒し、お茶をこぼした子どもには、「大丈夫?濡れなかった?」「こんな所にコップを置いたお母さんが悪かったわね。コップはこっちに置こうね。でも○○ちゃんも気をつけてね」と言うのだそうだ。
もちろん、大人だって気をつけていても、ついコップを倒したり、人にぶつかったり、悪気はないのに人に迷惑かけたり、いろいろあるものだ。
そういう事にひとつひとつ注意をされたり、叱られたりするのはたまったものではないが、大人は善悪の判断はできるし、学習をもする。いちいち注意や促しは必要ない。

でも、小さな子どもは、善悪の区別も学習もできない(もちろん、言い切ることができない部分はあるが)。
言って、言って、言って、言って、理解できるのならまだいいが、乳幼児ともなると、ほとんど理解不能であろう。
「コップを倒すとお母さんに叱られる」。だから「コップは倒さないようにする」方式が一番早いと思うのである。

大人の方も、「コップを倒す」と何故悪い? どういう不都合が発生して、どう自分の損益になるか等々、いちいち子ども相手に理屈や正論をふりかざしていくのも、大変な努力がいると思われる。
自分の子どもがまだ成長して結果が出てないので、大きな声では言えないが、こんなぬるま湯のような育て方をしていては、何か悪いことをしても、それが悪意はなかったにせよ、「自分が悪い」のではなく、そこにそれがあるから、そういう状況だから、自分が悪いのではない……、と済まされていては、反省というものをしなくなるのではないかと不安になる。

いつまでお母さんが悪者で、お母さんが不注意で……が通用するだろうか。
気が付けば、何でもかんでもお母さんの責任になってしまうのではないか。
「お母さん」はそれでいいのか。お母さんが存在しない場では、いったい誰が悪いことになるのだろうか。
公共的な場で「いい母親」して叱らないのはかまわないのかもしれないが、公共的な場だからこそ、公共の場のルールを守らない子どもは叱るべきだと思う。
それが家庭の中でも、やっぱり子どもが悪い事をした時には「悪いこと」だと認識させ、しっかり叱るべきではないだろうか。
叱られ慣れてない子どもが、急に叱られると「反省」する前に、相手への「憎悪」しか生まれないのではないだろうか。

もちろん、「叱る」ことと「怒る」ことは、大いに違うことを母親は認識して使い分ければならない。
「怒る」のはあくまで感情。怒りの感情は子どもに向ける必要はないが、どういう状況で「怒る」ものかを認識させていくためにも、母親も自分の感情のまま「怒って」みせるのも大切だと思う。

「叱る」のは「諭す」こと。
子どものよくないことを正すために、とても大切なものだと思うのだ。
叱ることは、子どもにとって社会生活への「情報提供」という大きな役割を担っていると思う。学校で習えない「道徳」もあるのだ。

私はよく怒りも叱りもする、今のモラルで言うとダメな母親である。
子どもも賢いもので、私の怒りそうな、叱られそうな事はちゃんと把握していて抜け目なく行動する。
もちろん、母親の監視下だけそのような子どもであってはいけない。
母親がいようが、見ていまいが、「いけないこと」「悪いこと」に対する認識教育は重大だと思う。
今の世の中、これが欠けすぎているんじゃないだろうか。

「子どもの虐待」が社会問題にもなっているが、その線引きは実に十人十色百人百様で、難しい問題を孕んでいる。
感情にまかせて「虐待」になってしまう母親たち、そして「虐待」という言葉の恐怖から「怒らない」でいる母親たち……。
それでも子どもに対してきちんと責任を持って「叱る」ことを忘れてはいけないと思う。

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