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10月のバラ 【完】 エジプトの一夜
そんなことは露とも知らず二人はシャーリア・アハラム通り(たぶん)を歩いている。
この道の反対方向は真っ直ぐアレキサンドリアへ向かう、アレキサンドリア通りだ。
とても夢のある通りだと思う。
200キロ離れた地中海と砂漠のギザの台地が直結しているのだから。
そして夜になると海風はギザの台地の空気と交わり朝靄を生む
----。
登り坂にさしかかる頃、 肌に感じるものがあった。手で拭うと砂だった。
砂・・・??
なんで、砂が・・・?砂!!今朝、空に舞っていた砂塵が、今宵、 降っているのだ!
坂を登りきる前に道は大きく勾配し、うねるようなカーブになった。
街灯も途絶えて、 あたりは闇に覆いつくされていた。大昔からそうであるように。
二人は並んで歩いていた。霧といい砂といい、空が織りなす不思議なドラマの下を。
今日一日落ち着いて話すことはなかったし、そういう機会もなかった。また、こうして二人並んで歩くことすら出来なかっためまぐるしい一日だった。
ホントにホント!
話すことは一杯あったはずなのに、相変わらず二人は無口だった。
あの、ナズラットサマーン村の祝祭の方舟にまだ乗っている軌跡を引きずっ
て・・・。
カーブを曲がりきるとホテルが分かった。それは、すでに馴染み深い「目印」であった。
最初に目に飛び込んだのが、ホテルの窓から溢れる薄明かりにぼんやりと照らし出された、「ピラミッド・ビュー」を見事に封じ込めた、あの、ポプラの木だった-
---。
もうすぐ、ホテルの門をくぐるとおとぎ話は終わる。そう、フェスタは終わったのだ。
いずれにせよ、今夜のことは村の人々以外では世界でただ二人、彼女と私のみが結婚式の外部からの立会い人だったことに間違いはなかった。
忘れてはならぬのだ。
そのこのことを告げたら、彼女も無言のまま大きくうなづいた。
ラッパの音がどこからか風に運ばれて聞こえるような気がした。
モーセスたちのラクダ小屋も闇にかき消されて漆黒に色塗られていた。
モーセスがまた、人を小馬鹿にした上目づかいで(けれんみのないしなやかさで)、「ハアローウ、マーイフレーフレンド!!」と、後ろから方を叩いてきたりはすまいかと、ありえないことを想像した----。
今日一日、彼と、彼の甥、のために60$(プラス香水瓶代が275ポンド)が消えた。
しかし、 金では買えまい、 いやきっとそうであろう。摩訶不思議なご縁だった。
もし、ピラミッド入場口でモーセスと出会っていなかったら・・・・。
もし、ルクソールでふと魔がさしてアレキサンドリアへの一日観光をバヨミ君に手配していなかったら昨日ピラミッドを観光し終え、今日はカイロで買い物であったろう。
もし、今朝、霧がでてなかったら、もし、妻の胃の調子が悪くなかったら、もし、夕刻、妻の胃の調子が直ってなかったら、もし、何度も警告したとおりに妻がラクダに乗らなかったら、もし、ダンスパーティーへ行くことを拒んでいたら---今夜、シャイマーやシーワ、白のドレスの女の子、キザ屋君、オババたちと出会う機会は永遠に失われてれていたに違いない。モーセスと出会ったタイミングの何千万光年分の1にも満たない「偶然性」を想った。(ところで、何故彼はラクダ1頭と馬3頭を連れていたのか?)
そして、出会いは、もちろん全て偶然に訪れる-------。
もし、指輪は鞄にあると気づいてたら、もし、夜行列車を待つラムセス中央駅のプラットホームでキオスク近くのテラス席に座らなかったら、 もし、予定どおり地元のボートでナイル川渡りしていたら、もし、アスワンのフィラエ島イシス神殿の観光を断っていたら、もし、予定どおりアブシンベルへの飛行機が飛び立っていたら、もし、バスマホ テルで待つ間をレストランで過ごさなかったら、 もし、アレキサンドリアへ一日観光を思いつかなかったら、 もしももしも・・・。
この世はもしもで構成される脚本いらず―――。
ヤスルが同年同誕生日なんて知る由もなかった。コムオンボの商人モハメド・シャハト(彼は本当に堂々と臆面もなくメモ帳に住所を「コムオンボ神殿」と記した)と、夜風に包まれ楽しく過ごすことはなかった。モーセスと瓜二つのテーイップと出会うことはなかった。三人組が河内音頭ならぬヌビア音頭を聞かせてくれることはなかった。エジプト・エアーのスタッフ=サミアやタハやハッサンと砂漠横断などしなかった。親切なチーフウェイター、ムワンディやウェイター、エルガメルと心なごむひとときを過ごすことはなかった。オーラが予約した念願のフェルフェラへ行くこともなかった。
モーセスばかりか、ここに至るまでに愉快な人々との「偶然」の出会いがあった。
そして、わずかなエジプト滞在中に起こった思いもかけずおもしろうてやがてトホホホながらも、やっぱり愉快で愉快でたまらない出来事とカタルシスに遭遇してきた。
「偶然」、それは世界がどこかでどこかに繋がっている「奇跡の」道しるべだ。
ヤスルからモーセスに至るまでの出会いを解きつつ、妻の横顔をまじまじ見つめ
た。
そして――――。
もしも、彼女と出会ってなかったら-----------。
今日一日の出来事がめくりめくって、蘇っては消えていく。
今夜、 私は妻と心象風景を媒介にして、心の奥に潜む「言の葉」で紡がれた気がした。
じっと見つづける私に気づいた彼女はふいに口を開けた。彼女は微笑んだ。
「ねえ、おなかすいたー」
ホテルの重厚な扉を押し開いたとき、 私たちの夢のおもちゃ箱の蓋は閉じられ
る。
遅く迄ロビーに張り付いているフロントマンに鍵を受取り、見慣れた階段を登る。
増築を重ねた造りの旧館へ向かうエントランスには真っ赤な絨毯が敷かれている。
絨毯は深く、 足音一つしない。回廊の天井のシャンデリアは絢爛豪華だ。
一つ一つの造りが、その昔オスマンのシャー(王)の別荘地であった当時の栄華を
忍ばせられるが、今の私たちにはどこか空々しかった。ここで一体何をしようか?
何度もドアノブを取って出入りした1006号室も同じことだった。
部屋のベッドで地図を広げて、あの広場がどのあたりか探してみた。
ホテルを出発してからのゴルフコースとラクダ市場に挟まれた道はすぐに分かっ
た。
山高帽の男に出会ったのがシャーリア・アハラム通りであることに間違いはなかっ
た。
しかし、迷路のような道なりは記憶の糸を紐解いても、また地図の上で戯れても、
結局分からず、どのあたりだったかは見当もつかなかった。
サイドテーブルにあったウエルカムフルーツには結局手をださずじまいだった
が、ついにそれらは片づけられていた(まさか、片付けたのは誰かさんの胃の中では?)。
妻はおなかがすいていながらも、「やっぱり、胃の調子が悪い」そうで、早々に吐
息をついて眠りについてしまった。
白色の蛍光灯の室内で一人ぼんやりしている。何をすべきなのか?
どうして、ここに居るのか、もっといるべき場所があるはずなのではと不安になっ
た。
エジプトを離れる時間は刻一刻と近づいている。
もうすぐ明け方前のアッザーンが聞こえてくるはずだ。
静かに窓を開いた。闇のなかにポプラの木が浮かんでいる。
静寂ななかにも激しい音がどこからともなく流れてくる。寄せては返す波のように--。
今からでも、あの広場に舞い戻りたい激しい衝動にかき立てられた。
誰かが体を揺り動かすかのように----。
しかし、そのとき目にしたもので自重した。もう一つの「物語」はいらない。
目で見やったのは妻が眠っているベッドのシーツだった。
真っ白なシーツの上には、もうすでにしおれかけたバラがあった。
もうひとつの物語――
真っ白なシーツの上には、鮮やかなバラがあった。
「いっつもバラね・・・・・・・」
いつだったか妻が呟いた 言葉が蘇ったー――。
【完】
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