YEMEN―イエメンの旅―2



まるくん駅舎



―― 「ベリィーナイス」とナジプサ氏は笑いもせず ――その2


イエメン 影と青




 Sホテルは旧市街を見下ろすことができる南西の方角に丘の中腹にある。
ホテル前をまっすぐ行くと、旧市街の入り口、バーヴシャウヴに行き当たる。
バーバルヤマンが表玄関なら、バーヴシャウヴは裏玄関といったところか。
このバーヴシャウヴにマーリブ行きの乗合タクシー広場がある。
この広場から南に延びる幹線道路を行くこと180キロ、そこがマーリブだ。
 四方を岩山に囲まれたサナアの町を10分も走れば荒涼地帯になる。
ポツンポツンと畑や家が点在するのみの風景だ。一括して「ズラ」と呼ばれるヒエ、アワ、キビなどの穀物類、それに「ホブス」という主食のパンの原料である麦類、ジャガイモ、トマトなどである。
「アラビア・フェリックス(幸福のアラビア)」と称えられてきた比較的降雨量の多い南アラビアとて、決して肥沃な土地とは言い切れない。
国土に常時水が流れる河川がないイエメンでは、雨水に頼る農法である。
国民1,400万人(国連推定で、正確な人口は国も把握していない)ほどのうち、国民の約70%が農業従事者である。ナジプサ氏によると、サナア近郊などでは国際機関による潅漑農法が取り入れられているものの、まだまだ生産性は低い。「93年度世界統計」によると、ひとり当たりの国民総生産はわずか800ドルである。
ほとんどのイエメン人成人男子は、インドやアラブ産油国などへ出稼ぎをして家族を養わなければならない。
サナア空港の機内預け荷物のコンベアーからは、なかなか自分のスーツケースがでてこず、次々と吐き出されてきた電化製品などの箱類で、その出稼ぎの男たちの「戦利品」なのだろう。
穀物の畑を過ぎると、ますます荒れた地帯が広がり、カート畑をみかける。
繰り返していうが、石油をほぼ産出しない、アラブの最貧国といわれるイエメンの主要産業は農業である。山岳地帯では、モカコーヒーで有名な地で、コーヒー豆も栽培されてはいる。
しかし、いまやコーヒーにとってかわって圧倒的に栽培されているのは「カート」である。
カートとは、ニシシギ科の常緑植物で、低木に榊によく似た葉をつける。
そのカートの葉をイエメン男性は命の次に大事といっても過言ではないくらい大切にする。
カートの葉を大量に口にふくみ、水を足しながら咀嚼していくと、軽い覚醒作用があるとされている。
イエメンにおいては、合法的な麻薬なのである。
ジャンビアとならび、このカートが今回の旅の重要なキーワードとなる。
カートについては、この旅でおいおい触れるから、というか触れざるをえないのでまたの機会に。

 サナアを発つこと30分、ついにカート畑の緑も消えうせ、岩山と瓦礫のみの風景がつづく。
やがて進行方向の右側は、テーブル状の岩山がどこまでもつづいた。
車中のひとはみな、眠りだした。
しかし車中が静まり返る、ということはない。エンジン系統に問題がるのか電気系統に問題があるのかはわからぬが、我が5号車は賑やかなことこのうえない。おまけになんとか使用できていそうなカセットデッキからは最音量でズッチャカズッチャカというアラブ独特のリズムの音楽が流れている。
「みんなよくこの状況のなかで眠れるなぁ~」
おまけに我が5号車の運チャン、アリは乱暴な運転このうえない。
前方から向かってくるトラックと正面衝突すれすれで、ハンドルを切るのである。
「ちょっとちょっと!アリ、アリ!」
運転手アリは、助手席で冷や汗をかく私に向かって親指をつきたて豪快に笑い飛ばした。
「ナンタラカンタラ、ガッアハッハハー」
アリの笑い顔をみたのはこのときが最初で最後だったけど。
アラブ圏のドライバーはたいていこんな運転をする。
道幅の狭い道路でも対向車が来ると、減速することなく、お互いがパッシングをしながら「わが道を優先して行く」のだ。
運転技術と性質に恐怖するのだが、紅海の町、ホディダへ抜ける山岳地帯ではさらなる道路事情の恐怖も合わせて味わうことになる―――。
 峠になり、車は止まった。
ラクダが潅木をムシャムシャ食べていた。
「スーラ、スーラ(写真、写真)」とアリに催促される。
ラクダなんかめずらしくもなかったので撮る気はなかったが、一枚収めた。
「スーラ、スーラ」としつこい。
どうやら、「私を、ラクダをバックに撮れ」だったようだ。
 峠を下り、再び土漠を行き、今度は長いつづら折の峠を越え、ほんとうに空と砂の黄色のみの世界が広がった。
 約2時間走ると、潅木から緑も多くなり、オアシスが近いことを思わせた。
ナジプサによると、「つい先日、イエメンは雨季が終わった」らしい。
ずいぶん、忍耐のいるドライブであった。
エアコンも壊れており、さりとて窓を開けると砂が大量に入り込んでくる。
しかも座席のスプリングは壊れかけていて、日本ならとっくに廃車になるようなシロモノだ。
そして、これは次回ぜひともナジプサに聞いておきたいのだけれど、シートに幾重にも毛布を重ねてあるのは何故?
しかし、忍耐の旅はもうすぐ終わりだ。
まちがいなく、目的地であるオアシスに近づきつつある。
しかし、私は安堵することもなくカバンからお守りを取り出し、胸ポケットに忍ばせた―――。

b>


―― 竜巻舞う バラケシュ遺跡にて ―― 







 ―――まちがいなく、目的地であるオアシスに近づきつつある―――
それはどうやら間違いだった。
再び車窓の風景は、せせら笑うように土漠だけの世界になった。
エアコンがなく締め切った車内の温度は?スプリングが壊れた固いシートにエスキモーの住処のように分厚い毛布。不穏なエンジン音に、大音量の音楽。
今まさに走っている灼熱の砂漠に放り出されたほうがよっぽど快適なような気がしてならない。
それでも、助手席にいる私を除いて、みんな眠っている。
アッラーに安らぎの呪いをかけられたかのように平穏そのものだ。
 急に前方の車が停車し、次々と数珠繋ぎに停車した。
どうやら検問所のようだった。
砂漠のど真中に、ひとりが入れるくらいの小屋と踏み切りの木の車止めのみの、不自然な検問所。
小屋のなかに兵士がひとり動かず立ったまま。その近くからライフル銃をもった兵士が二人近づいてきた。
サナアを発った私たちのジープの隊列は5台であったが、先頭のナジプサが乗車している車を覗き込み、二人の兵士は長々とナジプサ氏と話している様子。
しかし、窓を半開きにしてそっと覗っていたが、どうも不測の事態という状況ではなさそうだ。
ナジプサはどうみても、このだだっ広い砂漠の中で暇をもてあましている兵士たちにつき合わされている、という感である。
私たちは、兵士たちにとって慰問ボランティアみたいなものである。
我が5号車の同胞たちは、エンジンが切られ体感のリズムが狂ったのか、ひとりまたひとりと起きだした。あの状況をよく子守唄がわりに眠れるものだとあらためて感心する。
やがて、兵士二人はナジプサがいる先頭と一番後ろの私たちの車に分かれて乗り込んできた。
最初は意味がわからなかったが、彼らは私たちの護衛として同行するようだ。
これで、今朝、ナジプサがSホテルで私にからかい半分(?)ながら説明していたことが眉唾ものでないのだと悟り、ひとり緊張した。
マーリブ以東の砂漠地帯では、一部の部族が山賊化しており、旅行者を襲い金品調達したり、また外国人などを人質にとり、政府や自治体に無理難題な要求を突きつけるのだという。
これまで長らく自給自足の暮らしをしてきた自立心と自尊心が、近代化を推し進め中央集権体制を推進するイエメン政府に、彼らが疎外感や危機感また生活苦であることを差し引いても、テロまがいな、いやテロそのものの行為は断じて許されるべきではない。
しかし、彼らが人質を盾にして要求する内容は、「電気を通せ」、「飲料水が足りない」といった内容が多いらしく、自尊心というより地域エゴの問題が大きいようである。
私たちが帰国後、ハドラマウト地方でドイツ観光客が人質になったことが、日本のメディアでもわりと大きく扱われていた。
ナジプサ氏の話は、やはり作り話ではなかったのである―――。
 護衛兵士が同乗してきて、すっかり車内の様子は変わった。
眠ってばかりの他の3人は状況がよくわからないまま、正面を見据えだまりこんでいる。
あいかわらず賑やかなのは、テープから流れるアラビアン・ポップスの歌手だけだ。
持参してきたミシュランの地図によると、サナアからマーリブへはほぼ一直線、ルート129が延びている。
そのルート129を車は左折して、アスファルトのない道を進んだ。
突如、左前方に砂漠の中から忽然と、明らかに人口と思える、盛り上がった山が現れた。
最初は未確認飛行物体としか思えてならなかったが、近づくにつれその正体がわかった。
「バラケッシュの遺跡」である。
紀元前4世紀頃、この地を治めていた王国の廃墟だ。
持参していた『地球の歩き方94―アラビア半島編』(ダイヤモンド社)にごく簡単だが紹介している。
「――高さ約14mという城壁に囲まれた遺跡は遠くから見ると、砂漠の海に浮かぶ軍艦のようにも見える―――」とある。
私が遺跡をUFOと見間違えたのもあながち誇張ではないわけだ。
兵士たちとともに、この遺跡見学となった。
車中からは異様な姿の城址も中は空洞で、石の瓦礫が転がっているだけだった。
「ここは石柱だった。ここは井戸がありました」ナジプサの説明もごく簡単で、後は自由に見学をという感じだった。
遺跡見学よりも、私は気になってしょうがないことがあった。
「なんで、兵士はさっきまで肩にかけたライフル、両手で持っているんですかねぇ~?」
私は誰に言うでもなく、ひきつり笑いをして言った。
聞きつけた添乗員は真顔でナジプサに尋ねていた。聞くなよ・・・・・真顔で・・・・・・。
「構えてるのは、守ってくれてるんだね」ナジプサは添乗員ではく、私に囁く(笑)。
―守る?守るって、ナニから守るわけ?ナジプサー?―
崩れかけた城壁の一部には象形文字が刻まれていた。ヘビも描かれていた。
これがこの王家の紋章であったらしい。
「古代サバエ文字だ」ナジプサはそう説明した。
自由行動といっても、これくらいのものである。
「まだ発掘途中の所もあります。進入禁止の看板があるところから向こうへは行かないで」
しかし、見るべきところなど何もないのである。
砂と瓦礫の山だけなのだから。もうとっくに正午を過ぎている。
廃墟の西側は大きく窪んでおり、ここが丘の上に成り立つ都だったことを偲ばされる。
遠くで砂塵を巻き上げて竜巻が巻き上げていた。
城址の外では、入り口にはなかった土産物屋があった。
なんと、売り子はさきほどの兵士二人だった。
ロシア製のライフル銃は崩れかけた石垣に預けられ、即興の商売人に変身している。
石やビーズが木の台に置かれていた。
他の人は、誰も興味を示さなかった。
みんな、砂漠の中での買い物より、一刻もはやくホテルでの昼食を望んでいた。
ささやかながら、バラケッシュと兵士二人を思い出にと、さきほど壁に描かれていたヘビの紋章を模った石のレプリカをひとつ購入した。
「500リアル」兵士は思わぬお客さんに喜んでいた。


帰国後、図書館でイエメン関係の本を読み漁っていたとこ、こんな一文が目に止まった。
「――バラケッシュの遺跡群は早急な整備、維持管理が求められている。遺跡は砂の風化による浸食が激しく、またサバエ文化を遺す貴重な遺跡の一部が公然と、観光客の護衛兵士たちの手により売りさばかれているという、実に嘆かわしい現実がある――」





―― マーリブの月と月の宮殿 ――







マーリブのホテルに着いたのが1時30分。昼食は2時過ぎだった。
イエメンのライフスタイルと比べて、私たち観光客を相手に商売するナジプサやドライバーも大変だ。
彼らにとって欠かせない「カートタイム」が、このような強行軍ではままならないからである。
そして、忘れてならないのは日に5回のメッカに向かっての礼拝である。
移動の休憩中など、車から絨毯をとりだし、メッカに向かい礼拝を行っているドライバーもいた。
日本社会では、「アラブ世界は―神のお気に召すまま―にと、約束事ばかりか契約をもよく反故にされる」とよく嘆かれている。
しかし、ドライバーたちからは、私たちと異なるアラブ時間が流れている、と思わされることもしばしばあったものの、おそらく家族のためだろう、彼らなりに身を粉にして働いている印象が強かった。
彼らの鬱積した心理状態の一部を垣間見せられたのは、旅も終わりに近づきつつあるイッブの町で、であった―――。
 カスバ(城址)のようなホテルにあるプールでしばらく遊んだあと、慌しくまた「観光」の時間がやってきた。
道にはしばらくブドウ畑が続き、やがてナツメ椰子の群生、そしていつの間にか道なき道を走っていた。
5台のジープは競うように思い思いの道を行き、ちょっとしたパリ・ダカールラリー気分であった。
明日からのルブアルハリ砂漠のことなど露とも知らず悦に浸っていた。
「アリ・・・調子に乗らなくていいからね。シュワイシャシュワイヤ(ゆっくりゆっくり)ね(笑)」
すぐ隣を勢いよく抜き去ろうとしたジープがフッ、と視界から消えた。
アリは消えた車をサイドミラーから見やり、車を急停車させた。
タイヤが砂にとられたようだ。前輪が回転むなしく黄砂をまき散らすのみで、エンジンは悲鳴をあげていた。
異変を察知したほかの車もUターンしてきた。
ナジプサが全車の乗客に降りるよう指示した。
他にもアリ地獄がありそうなので「ここから歩いていきます」らしい。
そんなに深い砂の溝に落ちこんだわけでもなさそうだが、どうやら駆動システムまで崩壊しているらしい(苦笑)。
「明日から砂漠越え、なんだけどなぁ~」また私は誰に言うでもなく独り言をいった。
目的地は歩いてすぐだった。
小高い岩山に挟まれた石積み、これが「マーリブダム」遺跡である。
 イエメンは地理的に文明発祥の地メソポタミア・エジプト両文明のちょうど中間点に位置し、両文明の影響を受けながら、紀元前3千年頃には国家が誕生していたとされている。
有史の上では、紀元前10世紀頃、このダムがあったオールド・マーリブを中心とした潅漑技術により、
国の基礎を築いた王国が出現している。
いくつかの王朝が興亡しながら、古代ローマ人やギリシア人をして「アラビア・フェニックス」と羨ましがられた(ただし、古代ローマ人たちはその国をさす正確な地理は把握していなかったとされている)。
当時は金より貴重だった乳香や没薬の産地であり、またアジアや紅海を隔てた現ソマリアやエチオピア
から金銀、香料、絹、真珠にいたるまでの内陸交易ルートの中継地として栄えた。
なかでも、最も有名なのが、「旧約聖書」や「コーラン」の一節に登場するシバ(ビルキス)女王でおなじみのシバ王国であろう。
ビルキス女王については、大量の貢物(どの書物にも「贈り物」と表現されているが)を携え、イスラエル王国のソロモン王との謁見がつとに有名である。
映画「シバの女王」や日本の歌謡曲でもおなじみだ。
「――わたしはあなたの愛の奴隷――」と歌われている(笑)。
エチオピアには、「謁見時にシバ女王がソロモン王の身ごもった子がいて、その後そこ子がエチオピア王国を樹立した」という伝説が残っているらしい。
なんだか、怪しい話しばかり残っている(笑)。
 このマーリブダムは紀元前8世紀頃造られ、豊富な水資源を有効利用して、農業が栄えた。
度重なる洪水でダムは決壊しながらも、その都度修復が重ねられてきた。
紀元570年の大洪水では、ついに修復されることなく放置されたのがこの遺跡だ。
やがてシバ王国も砂漠に飲み込まれるように歴史上から消えていく。
「水門などは周辺の岩山から切り出してきた花崗岩や玄武岩が使われています。石碑に刻まれた古代南アラビア語により、紀元前8世紀以上も前のものだと推定されています」
ナジプサによると、その文字は唯一残っている水門跡に刻まれているらしいのだが、あいにく水門あたりは水をたたえて池となっており、確認することはできなかった。
池には白い睡蓮のような花が浮かんでおり、はるか昔の栄華を忍ばすかのようにひっそりと咲いていた。

マーリブの月空の下で




マーリブダムの見学を終え、車まで歩いた。
途中、めずらしい木を見つけた。
あいかわらず眠たそうなナジプサをつかまえ質問する。
「これ、フランキンセンス(乳香)の木なの?」
「ノーね」木を一瞥して、ナジプサはなにも説明を付け加えることなく足早に車へ向かった。
 乳香の木は南アラビアの半砂漠地帯に分布するカンラン科の木だ。
乳香とは樹皮のことだ。灰色がかった樹皮を幹の根元から薄く削ぐと、切り口から滴り落ちる。
その樹液の固まりを焚くと、このうえない芳香を放つとされ、古代ギリシアや古代ローマの権力者たちは、競ってこの乳香を求めたらしい。
オマーンやイエメンのみの特産であり、シバ王国は、モンスーン(季節風)の発見により盛んになった東方交易により、また内陸行路を征し、地中海の権力者たちより巨万の富を得た。
ソロモン王との逸話も伝説のみにとどまるだけではなさそうだ。
―金と等価、またはそれ以上の価値があった乳香や没薬を産出する国はどこか?―
ヨーロッパ人にとって、まだまだ未知の世界である南アラビアをこうして「アラビア・フェニックス(幸福のアラビア)」と呼ばせるようになったのである。
 しかし、紀元前後には、インド洋のモンスーンをギリシア人の船乗りヒッパロスに再発見され、やがてはローマ帝国にも知られるようになる。
「――シバ王国には多大な打撃を与えるわざわいの風となる。すべての贅沢品を産する神秘の国と信じ込まれていたシバ王国は、そのベールを剥ぎ取られ、乳香の商品価値も影響を受けるはめに陥ってしまう――『海のシルクロード第2巻―ハッピーアラビア・帆走・シンドバッドの船―』(森本哲郎・片倉もとこ・NHK取材班共著 NHK出版)」のである。
現在でもフランスなどでは最高級の香水として愛されている香料の木をみつけることはついぞできなかった。
今回の旅で出会った女性は翌年にオマーンを旅して、「乳香見たわよ」と、彼女から便りがあった。
 オールド・マーリブダムを後にした。
「オールド」というからには「ニュー」がある。
そのニュー=現代のダムへ向かう。
ナツメ椰子畑を抜け、坂道を登ると、荒涼としたこの土地に一体どこからどうやってかき集めたのかと思える量の水を溜め込んでいた。
「このダムは1986年、アラブ首長国連邦の首長の援助で完成しました」
さる首長の祖先がマーリブ出身であったそうで、援助というよりも寄贈であったらしい。
「湖はよいですが、周りにいるひとびとを撮らないでください。お金などをしつこく請求され、覚悟がいりますよ」とナジプサ。
なるほど、いわれてみれば湖畔には不穏な空気が漂っている。
目つきの鋭い老若男女が獲物を狙う鷹のように私たちを見つめている。
彼ら彼女たちが決して裕福そうではないことは、皆が素足で衣服もかなり綻びていることで察しはつく。幼い子たちの輝きが失われた瞳が痛々しい。ナジプサによれば、ここにいるひとたちはジプシー化しているらしい。湖畔に保養のためいるのではなく、観光客を―待っている―のだ。
しかし、地元のひとたちの格好の避暑地であることに変わりはない。
家族で湖畔に佇み、ジプシーたちとは対照的に、水際で無邪気にはしゃぐ子どもたちもいた。
 次に訪れたのは砂漠のなかの宮殿跡だ。
宮殿跡とはいえ、高さ15メートルほどの列柱が8本、半分以上が埋まり、砂漠のなかに立っているのみだ。
「マハラム・ビルキス(太陽の宮殿)」と呼ばれ、シバ女王の宮殿跡とされている。
周辺に村らしきものは見かけなかったが、ここでも子どもがワンサカと集まってきた。
石の石柱を写真に収めようとすると、彼らは競うように柱と柱の間に体を預け、器用に登りはじめた。
「サンドモンキーですな」私は大阪のおばちゃんに笑いかけた。
おばちゃんは「スーラ、スーラ(写真)」と呼びかける子どもたちが下りてきたとたん、「フルースフルース(お金)」と言い寄られるなかを、平然と「メッメッ」と言い残して車へ戻っていった。
夕日がさす砂漠で、おばちゃんの後ろ姿を、シバ女王の姿にだぶらせようとしたが無理がある(笑)。
 宮殿跡はまだある。もういいのに、ナジプサ。
日没前に着いたのが、「アルシュ・ビルキス(月の宮殿)」である。
こちらは有刺鉄線に囲まれており、遠くから眺めることができるだけだ。
やはり石柱があるのみで、太陽の宮殿跡の柱より細く低い5本。
この宮殿跡は道路脇にあり、反対側は村があった。
ポンプがあり、畑の緑も多い。
畑の向こうの台地は、最後の光を放つ夕日が、今まさに落ちんとしていた。
本日はえらく盛りだくさんの観光で、これで終わりではなかった。
日が落ちて、サナア旧市街が廃墟になったような丘の町についた。
「オールド・マーリブです。その昔、ここが首都でした」
ナジプサのガイドも太陽の傾きに比例するかのように、どんどんおざなりになってくる。
「じゃあ、ここは遺跡なんだね?」
「そうです」
「でも、その遺跡に洗濯物が干してあるのはなぜ?」
「そうですね」
「ほら、ひとが住んでるみたい」
「そうですね」
「もしかして、彼らがシバ女王の末裔?」
「いえ、ほかに住むところがなく住み着いたひとたちです」
「そうですね、じゃないんだ(笑)。遺跡なのに、いいの?」
「そうですね」
西の空は桃色に染められ、ひとが住んでいる廃墟の真上には、ジャンビアの月が輝いていた。



© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: