トルコの旅―金の星と銀の月のしたで2


まるくん駅舎


―― 三日月と少年と焼き魚 ―― 






先ほど通ったクンカプ地区のシーフードレストラン街に戻った。
通りがけにチラリと見た、日本のファミレス風に写真入で店頭のメニュウに載っていたミディエタバァ(ムール貝の唐揚)を舌が要求していた。
ちょうど食事をする時間帯でもある。
 トルコ料理というと、シルクロードの延長線上で羊料理のイメージしかなかったが、トルコは今さっきの魚屋で見てきたとおりボスボラス海峡、マルマラ海、地中海、黒海とバリエーションに富んだ海を擁する国だ。
魚介類が不味いわけがない。
素材が新鮮だと、調理方法もいたってシンプルなのは万国共通である。
 クンカプのレストラン街はさきほどより大分賑わってきていた。
ファミレスメニュウがあったレストランを目ざとくみつけ、暇そうに店頭に立っているウェイターに伝え座ろうとする。
「おお、ようこそいらっしゃい!日本人?お目が高い。ここのは余所と違って新鮮だよ、美味いよ」
なんて、よけいな講釈を聞き流しいながらいよいよ夢にまで見た、といえば大げさだがミディエタバァを味付けると思いきや、ウェイターの思わぬ言動に我が耳を疑った。
「オンリーワン?ノォ!」
なんと、ひとりではダメと断られたのだった。
意外な展開にすっかり罰が悪くなり、すぐ隣の店も癪だし、誰かに見られているわけでもないのに余裕の素振りを振る舞い口笛など吹きつつ通りをブラブラ歩いた。
あきらかに私は動揺していたのだ。
歩きながら見やると、どの店もテラス席はほぼ埋まりつつある。
バカンスの時期である。地元の家族連れに混じり、いやそれ以上に外国人グループを多く見かける。
皆、大皿にロブスターのグリルや、数種類の唐揚や煮込み料理など魚介類のテンコ盛り、タイやヒラメが舞い踊る世界を醸し出している。
腹が鳴る。目の前に、すぐ目の前に竜宮の世界はあるというのに、私はまだ世界と共有できないでいる。
 食い物の恨みは怖いが、食い物に呪われるほど悲惨なものはない。
結局、次ぎの一手を打てないままレストラン街を過ぎてしまい、ホテルから来た時は気づかなかった小さな噴水のある広場にでた。
「ヤレヤレ、いつものことながら・・・・・・」もう一度引き返してみることにした。
これだけ密集した飯屋街なので、どの店も平均的勘定で平均的調理方法で、これでは客が差別化を図るのも困難だと思う。
しかし、何故か商売繁盛と縁のない店があったりする。
何故だろう?何故ですか?
日本では隣合わせた同業者が一方で儲かり一方で儲からない、というのはよくある話だ。
それは清潔、低価格、なにより美味さほか営業努力があるかないかの違いだからわかりやすい。
しかし、このクンカプのレストラン街の店にいかほどの差異があるのかは大変わかりずらい。
いずこも観光用レストランに間違いないのだから。
しかし、心理的に、どうしてもそういう店は誰もがパスしてしまう。
復路もむなしく、再び鉄道の高架下まで来てしまった。
もう一度チャレンジするのも億劫だし、他の繁華街へ繰り出すのはもっと億劫だし、さりとて腹は鳴るなり法隆寺で、困ったものだ。
ホテルを出るとき、ホテル横のビルの「オリエント」というショーレストランのポスターの美女の顔が目に浮かんだ。
妖艶なダンサーたちのベリィーダンスを観ながらトルコ料理のフルコースという趣向である。
今ごろショーも佳境に入り、おへそ丸出しのダンサーが着物を一枚一枚はがしながら(ちょっと勘違いしてるようですが・・・・・)妖しげになまめかしく踊りを繰り広げているに違いない。
ベリィーダンスは北アフリカではじまり、トルコ支配下時にトルコにももたらされたのだと思う。
スルタンの愛の奴隷として(?)調教されたダンサーの悲話を、私は勝手に想像をたくましくする。
もともとは男性にみせるものではなく、ジプシーの魂を込めた踊りが発展しらたしいのだが、今では完全にショー化されているといっていい。
田舎ではまだ魂のこもったダンスを拝見できるのかもしれない。でも皺だらけのおばあちゃんだったりするかも。
―観たかったなー・・・・・・若い!ほうのベリィーダンス・・・・・―
こんなことならガラタ橋方面へ出かけたほうがよかった。
 足取りはケネディ通りに向いていた。
行き交う車の向こうの魚屋はもう灯りはなかった。
プロレスラーのおじさんも店をたたんで帰路についたことだろう。
彼がかわいらしい字で走り書きした住所は―ウスキュダル―とある。
アジア側のイスタンブールだ。ガラタ橋の袂の船着場から1回30円ほど払いフェリーに乗ったか、あるいは車を飛ばしてボスポラス大橋を渡り終えた頃かもしれない。
家では夕げの支度を整え、彼の帰りを待ちわびている家族。
そんなことを想像してみるが、彼のことは何も知らないままだ。何も聞くこともしなかった。
いまさらながら、私は自分がとてもつまらない男と思えてしょうがない。



 ――海風に誘われるまま、また海に来た。
そのとき、潮風に乗ってなんだかなつかしい香りが届いてきた。
魚屋のバラックを回りこんで海沿いを歩くと、豆電球がぶらさがり、ひとのざわめきがあった。
そこは、浜辺の野外レストランだった。
さきほどのなつかしい香りは魚を燻る匂いだったのだ。
フォークとナイフがぶつかる金属音。そして波の音。
思いがけない状況にさきほどまでの不幸すら幸せに思えた。
レストランは魚屋街の一軒が経営しているようで、例のナニナニバリキとペイントした看板がある。
その看板の下で、ひとりの老人が炭をおこし、網で焼く魚と格闘していた。
魚屋直送!歩いてすぐ裏側!不味かろうわけがない!
偶然の産物であるにもかかわらず、私は自分の「嗅覚」に鼻高々であった。
プラスチック製の丸いテーブルが10脚ほど砂浜に無造作に並べられたレストラン。
4組ほどの明らかに地元のひとびとが食事をとっていた。
一番奥の席に着くと、ウェイターが私に気づきやってきた。
まだあどけない顔の少年だった。
魚を焼いている老人の孫かもしれない。
夜も深まりつつあるこの時刻にひとさまの子どもを雇ったりはすまい。
少年はあどけなさを残しながらもギリシア彫刻の青年像のように精悍な顔立ちだ。
彼は私をはじめてみる東洋人、という感じで少し怯えている風にみえた。
私も要領がわからず黙り込んだままだ。
彼は私の出方を覗ったあと、早口で言った。
「バリキ?サラーダ?ビーラ?ブ・タマム(いいですか?)」
「エベット(はい)」注文を聞かれるというより念を押された感じだ。
たしか、調理場にはガスコンロがあったのみだ。
つまり、メニュウは焼き魚のみだ。
ウェイター少年ははにかんだように去っていった。
 ほどなくして、缶ビールとグラスが届けられた。
ビールは生ぬるく、グラスには埃が被っていた。
ビールを飲んでいると籠に山のように盛られたパンとサラダがきた。
サラダはトマトとタマネギを刻んでビネガーとオリーブオイルをたらしたもの。
魚がくるまでビールをもう2本追加。
老人が魚を焼いている調理場には少年の兄貴らしい二人の男がいたが、配膳をするのはもっぱら少年の役のようだった。
 しばらくして魚がやってきた。
四角いプラスチックの皿に収まりきらない、ゆうに30センチはあろうかという大物が目の前にあった。
魚は、炭火で炙り、仕上げにオリーブオイルを振り塩をまぶしただけの調理であったが、掛け値なしに美味かった。とにかく美味かった。
少年を呼び、もう1本ビールを追加する。
少年は注文を受けるとき、いつも席から距離を置き、直立不動で手はだんらんと垂らして応対する。
少年が立つ頭上にはいつもトルコ国旗と同じような三日月があった。
追加のビールが運ばれたとき、少年にどうしてもアジとサンマの中間のようなこの魚の名が知りたくて尋ねてみた。
「バリキ、ムネ(名前)?」と尋ねるが応答がない。
何度も口にし、魚を指さすが、少年はとまどうばかりで顔が曇っていくばかりだ。
少年は観念したかのように、私を手招きして、老人が調理しているバラックの中へ誘った。
木箱の氷のなかに数種類の魚があった。
今度は私が困惑したが、どうやら少年は私が魚の追加を言っているのだと勘違いしているのだ。
罰が悪くなり、少年に微笑んでビールをさらに注文して席に戻った。
今度はビールを運んできたのは兄貴のひとりだった。
 月は夜空にたかだかと輝いている。
少年にお礼が言いたかったが、いつの間にかテーブルが埋まった地元のひとたちへの対応に忙しそうに
立ち振る舞っている。
遠くから彼の働き振りを観察しつづけ、ようやく彼と目が合った。
彼が目をそらすかそらさぬかのうちに、手招きし手呼びつけ勘定を頼んだ。
 勘定を持ってきたのも兄貴のほうだった。
ザラ紙に3,000リラとある。魚、ビール5本、サラダ、パンで900円だ。
兄に3,000リラを渡し席を立ち、少年に目一杯の笑顔をつくり彼に1,000リラをチップとして渡した。
彼は無表情でそれを受け取り、すぐに調理上へ去った。
振り返ると、少年は申し訳なさそうに彼に渡したはずの紙幣を老人に渡していた。
私は飛びっきりのご馳走の代償に少年を2度までも傷つけてしまったような気持ちに囚われた。
 帰路、今晩だけで何度も通ったレストラン街はますます賑わっていた。
店ごとに楽団が音楽を奏でてサービスしていた。聞いたことのあるポップスや民族音楽など趣向を凝らし、店の特徴をだしていた。
レストラン街はようやく夏の夜の本番に入ったのだ。
噴水前の角のアイスクリーム屋では、オスマントルコ調の民族衣装で身を固めた店員が、容器からアイスを伸ばしたり縮めたりする独特のパフォーマンスで、集まった観光客から拍手喝采を浴びていた。
 賑やかな街角が嘘だったように、噴水広場からホテルへ向かう坂道はひっそりとしていた。
黄色いプチタクシーのみがときおり通り過ぎていく。
街は、いくつもの顔を持っている気がした。
坂を登る途中、一度振り返ると、暗闇に白と青の灯りがあった。
街角の小さなホテルの看板が煌いている。
白熱灯は「パラダイスホテル」とある。
その「パラダイスホテル」の上には、だいぶ高くなった三日月。
 私はさきほどの港で夢を食べた――――そんな気がした。


―― E5 ―風景― ――






 ある風景に音楽が重なったとき、その風景は脳裏に焼き付いて離れない―――。
忘れられない映像として消え去ることはないだろう―――。


 アンカラ空港へ向けての飛行機が低空に入ると、アナトリア高原の麦畑の黄金色とポプラの緑を追いながら、ペンギン・カフェ・オーケストラの「チャーター便」という音楽が脳裏で重なった。
荒涼とした大地に、それでも生命の息吹が散りばめられた澄んだ空気。
思ったより乗り心地がよかったイスタンブール発アンカラ行きトルコ航空の中型ジェット機の窓からアンカラの大地を眺めつづけた。
 タラップを降りて、空気に触れる。
北海道あたりの初秋を思わせた。
風はないのに肌にやさしい空気に包まれる。大気の妖精が身を包むように―――。
――おーい、雲よ、どこへ行くんだい?――

イスタンブールの旅行会社で、一泊食事つきのカッパドキアへ行くツアーに申し込み参加した。
カッパドキアへ向かう前に、観光バスで首都アンカラの主要ポイントを駆け足で巡る。
まずは、近代トルコの礎を築いたアタチュルク初代大統領が眠るアタチュルク廟、そして昔のサライ(隊商宿)を改装したヒッタイト考古学博物館である。
ヒッタイト博物館でのお目当てはスタンダードと呼ばれる鹿や牛を模った青銅の造形物。
 アタチュルク廟にまず着く。
バスを降り、大理石を敷き詰めた参道を歩き、丘の上の大きな広場にでる。
アンカラは丘の多い町だ。
アタチュルク廟はギリシア建築のような立派な支柱に支えられた大きな霊廟だ。
霊廟の外壁にはアタチュルクが革命時に青年将校に向けて行った演説の一部が刻まれている。
イスラム教は偶像崇拝を固く禁じているが、脱亜入欧を押し進めてきた父―アタチュルクの政策が今日も息づいており、自由な空気が流れているようだ。
この霊廟に参拝するひとが絶えないこと、あるいは街角いたるところで掲げられているアタチュルクの肖像画や顔写真のパネルを見かけるにつけ、トルコのひとびとの「もうひとつ」の拠り所を教えられた気がする。
丘からは全市街が見渡せる。アンカラはなだらかな丘がつづく。
共和国成立時に定められたこの首都の名は、アンキュラ(谷底)を語源とする。
霊廟をあとにして参道を下るとき、入り口では気づかなかった大きな2頭のライオンの石像が見守っていた。獅子ばかりではなく、アーミー服を着た衛兵が交代で24時間、この霊廟を守りつづけている。
ライオン像から参道に沿って植えられた赤いバラが印象的だった。
 バスはこの霊廟と博物館の2ケ所を見学した後、市内中心部をまわった。
アンカラは太古から集落があったらしいが、都市として成長したのはアタチュルクの政策と熱意による。
 バスは市街を抜け、私たちは一路カッパドキアへと向かった。
郊外で昼食となった。
乾いたアナトリア台地に似つかわしくない、とても緑の多い所のドライブレストランだった。
昼間から食事にはワインである。
これから向かうカッパドキア地方を中心に中部アナトリア地方はブドウの産地である。
そして、ワインの醸造でも有名な地である。
冷えた白ワインを流し込んでは、前菜のタマネギとトマトのサラダをつまんだ。
とても相性のいい組み合わせだ。トルコはトマトの味がしっかりしている。
トルコで覚えた幸せなことのひとつに、トマトの味、があげられる。
太陽と乾いた大地のわずかな雨の恵でこんなにおいしい野菜が食べられるのだ。
―バッカスの神に乾杯―といきたいところだが、ここはマホメットの教える神の国だった――。
 ワインがかなり効いた。
結局、フルボトル2本をひとりで空けたのだ。
デザートにほとんど手をつけず、レストラン周辺を少し酔い覚ましに散歩することにした。
レストランを出ると大通りにポプラ並木がつづく。
今はアスファルト道になっているが、その昔、西はイスタンブール、ローマなど地中海世界へ、東はトルキスタンを通りカイバル峠を抜け、インド、中国へ続く道であることに変わりはない。
中部アナトリアは隊商宿(キャラバン・サライ)が博物館などになって今でも多く現存する。
その昔の旅人は、目的地への旅の空の下、何度月を仰ぎみたことだおろうか。
今は日本からトルコへは近く感じるが、この道が続く天山山脈は遥か遠くに感じる。
遠くの幻影――シルクロードを意識したとたん、この道がウルムチやカシュガルの街道と重なって見えてしょうがなかった。
通りに覆い被さるポプラの緑の合間から青空が垣間見え、雲がちぎれるように流れている。
その雲は、中央アジアから安息の地を求めて旅してきた遊牧民の糧である羊に似ていた。
――おーい、雲よ、どこへ行くんだい?――




 ほぼドイツ人ばかりのツアー客(トルコはほんとうにドイツ人観光客が多い。遺跡などに対する思い入れが日本人以上に強いと感じる。また、近代史を遡れば、トルコとドイツが同盟関係にあったことも影響があるのかもしれない。それにしてもシュリーマンの子孫たちの遺跡に関する執着心はすさまじく感じる。ほとんどの観光客は年金生活に入っている老夫婦だが)を乗せたバスはカッパドキア地方へまっしぐらだ。
 E5(ヨーロッパ5号線)である。
アンカラよりカッパドキアまで約300キロの道のりだ。
ドイツ人はほとんど眠り、日本人はほぼお喋りに興じている。
私は車窓からの風景を食い入るように眺めていた。
車窓から眺める景色はどこまでもなだらかな丘、丘、そして糸杉やポプラの木々の緑が彩りをつけている。
緑があるところにはたいてい集落がある。
たわわに咲きほころんだヒマワリ畑もあった。
あちこちでガソリンを撒いて火をつけたような黒煙があちこちのぼっていたが、おそらく焼畑だろう。
まっすぐ延びるE5線はタンクローリーが多い。
先の湾岸戦争の影響で、EC加盟国にしてNATO軍にも属するトルコ政府は西欧陣営に組みし、隣国にして不仲であるシリアからの石油パイプラインが遮断されたことは新聞で知っていた。
タンクローリーがやたら多いのはそのせいだろうか?
そして、タンクローリーに次いで目立つのは軍用車だ。
バスを強引に追い抜いていくトラックの幌のなかにいる兵士たちはみな坊主頭で、眼光が消えているように見受けた。トルコも徴兵制だ。
北にシリア、黒海を挟んでオスマントルコ時代以来宿敵(?)ロシア、エーゲ海を挟みギリシア、そしてキプロス問題、そしてイラクとの国境を挟んでのクルド人問題。
湾岸戦争が起きなければクルド人問題も私たちは知らないままだっただろう。
トルコはとても複雑な国情のうえに成り立っている国家である。
それにしても、おそらく同年代であろう青年兵士たちの光を拒絶するような目が痛く、罪悪感と虚しさが充満した。
 変調のない景色は、やがてチュズ湖畔にさしかかり、色づけされた。
しかし、トルコ三大湖のひとつであるチュズ湖は真夏だからか、水はすくなく、沿岸は真っ白だ。
ここは塩湖である。
アンカラより車窓に釘付けだった意識も単調な風景に意識も朦朧としはじめた。
E5線は、シルクロードを元に中世に整備された歴史ある道だ。
アンカラをひたすら南下して、チュズ湖畔を進み、シルクロードの中継地のひとつであったアクサライよりE5と別れを告げ、カッパドキア地方の西の入り口であるネビシェヒルに向け、進路を西にとる。
 隊商宿がそのまま博物館になっているアジスカハーンで休息をかねた見学だ。
バスの運転手のドイツ語の案内などわかるわけもなく、遺跡をでて周辺を散策してみた。
遺跡を出て裏側にまわり、すぐのところでスカーフを被った若い3人の女性に手を振られた。
イスラム教徒は写真を撮られるのを嫌うが、彼女たちは違っていた。
彼女たちは撮影に快く応じてくれ、再びにこやかに手を振り去って行った。
黒のガラベーヤではなく色鮮やかなスカーフにはお洒落なレースがほどこしてあった。
彼女たちが自由で、とてもチャーミングにみえた。
3人とも手編みの籠を抱えていた。畑で収穫にでも出かけていたのだろうか。
あたりは牧草をはむ牛や羊、放し飼いのにわとりも歩き回っていた。
そこを、老婆に手を引かれて歩く幼女が横切って行く。
この風景にペンギン・カフェ・オーケストラの「ローザソリス」という曲が重なった。
のどかなこの村で、ゲーテのある一節を思い起こした。
――君よ知るや、南の国。
かの国はレモンがたわわに実り―――。

 ネビシェヒルが近づきはじめたバスでレモンの香り豊かなコロンが客にふるまわれた。
トルコの長距離バスではこのコロンのサービスが当たり前らしい。コロンヤという。
乾燥した肌につけると、不思議と長時間の移動の疲れがとれるらしい。
化粧瓶から腕に数滴振りかけると、なるほどレモンの強い香りが漂った。
車窓からは、空の青さにあいかわらずたなびくように白い雲が浮かんでいる。

――おーい、雲よ、どこへ行くんだい?――


やがて私たちは胎内へ帰るときがくるが、この風景は確実に残る――。







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