トルコの旅―金の星と銀の月のしたで6


まるくん駅舎



―― チャイハネにて ――







 イスタンブールにいるということが、あたかも雲の流れが古層の記憶を呼び覚ます装置であるかのように、何がしか言いようのない祝祭性と旅情をはらんでいる。
 イスタンブールは旅人のコスモポリタニズムを最も喚起させてくれる都市だ。
ヨーロッパとアジアの狭間で、多種多様の民族と文化が駆け抜け交じり合い、浅き夢見し国々の興亡をも見守ってきた街。
 さて、イスタンブールについて回想する前に、アナトリアの歴史を邂逅してみよう。
アタチュルクの霊廟のあと見学したアンカラ考古学博物館の回廊に沿ってだ。
一杯のチャイでも飲みながら―――。
 アンカラの丘にあるこの小体な博物館はキャラバン・サライを改築したものだ。 
紀元前6000年頃にはコンヤ近郊のチャタル・ホユックの遺跡により最古の農耕集落が成立していたとされる。
館内入口からすぐ右に折れると最初にチャタル・ホユックの神殿が再現されている。
アナトリア文明開化の息吹である。神殿中央に牛の角が据えられ、これがご神体なのだそうだ。
 新石器時代を過ぎると、青銅器時代の展示だ。
この博物館で最も貴重な展示物ともいえる、青銅器時代の「スタンダード」と呼ばれる鹿や牛像の銅、銀、錫などの造形物だ。
これらはいずれも芸術性だけとりあげても高度な作品らしいが、不思議なことにこのような作品群はアナトリア地方以外からは出土されておらず、またこれらの像の用途もいまだ不明であるらしい。
おそらく牛の角を神格化したことと同じく宗教色が強い性格を持っていたことは間違いなさそうであるが。
 かなりの数のスタンダードが陳列された回廊の角を曲がると、アッシリア植民地時代になる。
アッシリア人はアナトリアに文字をもたらし、この時代より先史から歴史時代になる。
 アッシリア商人の支配を過ぎると、回廊は―謎の民族―ヒッタイト人の鉄器時代だ。
侵略者であるヒッタイトが小アジア最初の統一国家を築いた。しかし、その軌跡は後史に多くを語らない。彼らがどこから来て、どこへ行ったのかおおまかな足取りしか判明してないのだ。
ただ、ヒッタイト人は先住のハッティ人やアッシリア人たちから鉄器の製造を学び、鉄を軍事的に使用することにより、騎馬戦術と合わせて最強の軍団をつくり、我が世の春を謳歌したことは有名だ。
彼ら民族の象徴も―牛―である。
博物館にはボアズキャレから出土されたテコラッタ製の牛像が陳列されていたが、ガイドが説明する2頭の牛は、角を除けば牛というより馬であった。
古バビロニアを滅ぼし、エジプト新王国(紀元前1285年北シリアのガデッシュにおいてラムセス大王と戦った会戦は有名だ)やシリアと覇権を争った。
その後、同じく謎の民族とされる「海の民」に滅ぼされる。これが紀元前1200年頃のことらしい。
ヒッタイト人は固有の「文化」をもっていなかったとされている。
現代の首都アンカラ西部にヒッタイト帝国の首都であったハットウシャシュ(現在ボアズキョイ)の遺跡がある。
ここでは粘土板に書かれた楔形文字が多く出土されているが、独自の象形文字を持つには持っていたが、アッシリア人やハッティ人の影響に負うところが多かったらしい。
アナトリア博物館にも 、古代エジプトへ宛てた粘土板の書簡が保管されている
「ここには何と書いてあるかわかりますか?」一つを指さしガイドが質問した。
「―――最近の若者はなってない―――」
私たちを見回してガイドはニヤリと笑った。
 窓から柔らかな陽が洩れる回廊の角を曲がること3度目、次はフリギアの時代だ。
紀元前9世紀頃、アナトリア中央部を支配した海の民の一派とされるフリギア人はヒッタイトが狭い渓谷に都を築いたのと対照的に平坦な高原ゴルディオンに王都を定めた。
彼らは小アジアのヒッタイト滅亡から約400年間の空白後、ペルシア帝国の傘下になるまで、事実上小アジアを支配していたとされている。
「ギリシア神話に登場するミダス王の話は何でした?」
「王様の耳はロバの耳!」千葉のおじさんはガイド以上にサービス精神旺盛で、また皆の失笑を喜んで買って出ていた。
 アナトリア東部にはウラルトゥ王国があった。
ノアの方舟が漂着したと伝説のあるアララット山と同語源らしい。
虐殺をいとわない大変好戦的民族で、青銅製の大鍋に描かれたライオンや象牙に彫られたライオン像がその戦闘的民族を象徴していた。
そして、どこか大陸的な雰囲気があった。
決して肥えた大地とはいえないアナトリア=小アジアを数知れない民族が駆け抜けていった。
この回廊を巡り、大雑把な歴史に触れるだけでも重量感がある。
「他民族に混じり合った民族、また埋もれていった文化・言語は数知れない」とガイドは終わりのほうに言った。
 新石器時代の神殿からフリギア・ラルトゥまで周ると陳列回廊は一周して出入口に戻った。
その手前に土産物コーナーと喫茶店がある。
博物館はこじんまりしていたが見学客が少なく心地よく見てまわれた。
ここでちょっと一服しよう。
こちらの流儀でチャイ(紅茶)を注文するのだ―――。







トルコではチャイをよく飲んだ。
暑くて乾いた大地に不思議と熱くて甘い紅茶が清涼感を与えてくれ、疲れがとれた。
小さなグラスにお茶を注ぎ、砂糖をたっぷり入れて飲む。
トルコは村・集落の数だけモスクがあるとされるが、モスク以上にチャイハネ(喫茶店)があるらしい。
どんな寒村や僻地の村であろうと、ひとが集まるところにチャイハネがある。
トルコのひとびとにとって欠かすことのできないオアシスなのだ。
そして人生最大の楽しみであるのだ。
おもに男たちの社交場であるチャイハネは、朝夕問わずチャイを啜りながら水パイプの煙草を燻らせたり、バックギャモンのようなゲームをしたり、あるいは昨今のインフレ率の高さを嘆きあったり、いい儲け話はないかと職業安定所のような機能をもちあわせていたり、憩いと社交と議論の場であり、その用途はたんに茶を飲むだけにとどまらないのだ。
 ところでチャイはともかく、コーヒー(カフア)はどこへ消えたのだろうか
「トルココーヒー」の名で知られているドロリとした泥のようなコーヒーは庶民には飲まれていないようだった。
大抵のひとはチャイで、トルコのイメージが変わったことのひとつだ。
トルココーヒーはどこへ消えたのか?
「――コーヒー起源伝説はすべてイスラームの僧侶伝説であり、しかも単に偉い僧侶というものではなく、一定の宗派を指定している。すべてスーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義の僧侶であり、さらに限定すれば、アル・シャージリーによって開かれたシャージリーア教団のスーフィーである。この教団とコーヒーの結びつきは極めて強く、アルジェリアではコーヒーをシャージリーエと呼ぶ。東アフリカを原産地とするコーヒーの木からコーヒーという飲み物を作り出すには、イスラーム神秘主義の僧侶、
スーフィーたちの関与するところが大であったと考えられるのである――。『コーヒーが廻り世界史が回る』臼井隆一著 中央公論社刊 」
 著によると、アラビア語でコーヒーはワインと同義語で「カウア」であるという。
16世紀、スーフィーたちがコーヒーを伝播したのは「夜も眠らず神と一体となるべくひたすら祈り続ける」手助けとしたためだ。
カフェインの効用である。
コーヒーを巡り宗教論争が起こり、また一時弾圧を受けてきた。
しかし、コーヒーはまたたくまにトルコを席巻した。
「――オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールには1554年、ハクムとシャムスというシリア人によって2軒の「コーヒーの家」が建てられた。その数はたちまち増え、スレイマン2世の政治下(1566-74)のイスタンブールにはすでに600余りもの「コーヒーの家」があった――。コーヒーが廻り世界史が回る」臼井隆一著 中央公論社刊 」
 それなのに、どうしてトルコではコーヒーが紅茶(チャイ)にとって変わったのだろうか。
ヨーロッパにもたらしたコーヒーはまたたくまに西欧社会に根づいたというのに。
コーヒーの上澄みのみを飲み、カップの底に残った粉で占いを楽しむ、とされたトルココーヒーはついぞ旅行中おみかけせず、あるのはインスタントコーヒーだけだった。
―突厥―の名の通り、やはりトルコ人は中央アジアの民族であり、「茶の文化圏」に属するからなのだと、勝手な解釈で納得していた。
しかし、帰国後、1年たって答えが判明した。
「――外貨不足のため豆の輸入量が少なく、なかなかお目にかかれない―『地球の歩き方 92年版トルコ』ダイヤモンド社刊 」なのだそうである。
チャイはコーヒーの代用品としてトルコでは普及したようだ。
 トルコの飲み物といえば、ラクを忘れてはならない。
別名「ライオンのミルク」といわれる透明なアルコール度の大変強い酒である。
水で割ると、ミルクのように白く濁るのだが、なぜライオンの~と呼ばれるのかはわからない。
トルコ人にかぎらず、昔のアナトリアのひとびともライオンを好んでいるようだ。
アナトリア考古学博物館の展示品もことあるごとにライオン像だったし、博物館の庭園の入口も2頭のライオン像が鎮座していた。英雄アタチュルクが眠る霊廟の参道も狛犬よろしく大きなライオンが守り神のようにそびえ立っていた。ヒッタイトの首都であったボガズキョイ遺跡にも獅子門がある。
それはともかく、このスピリッツ系の酒は匂いもどきつくなかなか飲み干すのには苦労すること隣国ギリシアのウゾとまったく同じである。
 白い飲み物では、「アイラン」もある。これは酸味のとても強いヨーグルトである。
ヨーグルトといえば、ブルガリアをすぐ連想してしまうが、オスマン帝国の領土拡大の賜物であろう。
トルコでは「メゼ」という前菜をはじめ、煮込み料理などにもヨーグルトがふんだんに使われる。
 では、トルコの料理について話を移してみよう。
かの村上春樹氏は著にこう書いている。
「――正直にいうと、トルコ料理が苦手だった。――トルコのレストランは朝鮮料理と同じで、一歩中に入ると独特の匂いがプンと鼻をつく。そういうのが好きな人にはこたえられないのだろうし、そういにのに弱い人にはかなりきつい――。『チャイと兵隊と羊―21日間トルコ一周』村上春樹著 新潮社刊 」
私にとってトルコ料理は、こたえられないわけでも、きついわけでもなかった。
そもそも、匂いが鼻につくほどでもないのだ。
日本の保存食のほうがよっぽど鼻につく。
トルコ料理といっても、ただたんに、肉、魚、野菜を焼き、煮込み、茹で、そんな印象で、スパイスをふんだんに使うわけでもなく、食材が何だったのかわっぱりわからなくなるまでこねまわしているわけでもなく、ただただ、食材も調理も美味いと思って毎日食べていた。
そして特筆すべきことはオスマントルコ時代に世界を股にかけた栄光がトルコ料理にも反映しているということだ。
煮込み料理などはおもに東欧風であったり、肉料理おもに羊料理はアラビア風だったりする。
 野菜でとくに印象深いのは、トマトとナスだ。
ナスにひき肉を詰めたもの(パトルジャンムサカ)やピラフを詰めもの(ビベルドルマ)にした料理は日本でもおなじみだ。
ブドウの葉でひき肉などをくるんだヤプラックドルマも前菜によく登場する。
クンカプのレストラン街で「食べ損ねた」ムール貝の詰め物ミディエドルマも、松の実やバターライスなどを詰めたもので、トルコ料理は「詰め物料理」ともいえる。
 そのほか、今回の旅行で味わった物にキュウリのヨーグルトかけ(ジャジュック)、ジャガイモのキャセロール(パタステリ・ギュベチェ)、白豆のサラダ(クル・ファルシリラキシ)など、味付けもあっさりしており、食材の新鮮さを売り物にした料理もあるのだ。
なかでも最も印象的だったのは、アンカラ郊外のレストランでも書いたトマトだ。キュウリ、タマネギと刻んでビネガーを垂らしただけの「羊飼いのサラダ(チョバン・サラタス)」だ。
乾いた大地の草を求めて遊牧する遊牧民と羊の群れを思い浮かべ、この素朴な料理になんともいえない憧憬と郷愁までをも味わったものだ。
それにつけてもトルコのトマトは美味い。
トマトとカッパドキアの白ワインが私にとってのトルコの定番だ。
羊のように流れる雲を眼で追いながら、羊飼いのサラダをつまみつつ冷えたワインを流し込む。
至福の昼下がりである。夜も、そうであったが(笑)。
日本でも真似してみたが、湿った空気と味のしないトマトではどうしても再現できない。
 肉料理に話を変えてみよう。
串にさしたおなじみの「シシケバブ」、羊肉に香辛料やミルクをまぶし、何層にもして炙り焼き、それをナイフでそいで食べる「ドネル・ケバブ」。
「キョフテ」はひき肉と香辛料をこねて、トマトで煮込んだものだ。
遊牧民の糧はなんといっても羊である。アレキサンドロスやシルクロードのキャラバンの足取りと変わらぬ各国各地域共通料理ともいえる。






トルコ料理を語るとき、ギリシア料理を語らなければすべては伝えきれない。
両国の積年の不仲はともかく、両国を旅した私たち外国人にとって、どちらも名称こそ違えども、ほとんど共通する料理が存在するというのが偽らざる感想である。
エーゲ海を挟み文化的交流の影響か、約400年にわたるトルコのギシリア支配の影響か、たぶんどちらもそうなのであろう。
しかし、実際問題としてトルコとギリシアは犬猿以上に犬猿の仲である。
日本には大変友好的なトルコのひとびとにとってギリシア問題は禁句である。
ギリシアのひとびとにとっても同じことだろう。
料理の話が政治の話しに摩り替わりそうで、このあたりでやめておこう。
旅人にとって、料理講釈は通用しても政治事情は存在しないのである。
しかし、誰もが避けてはとおれぬ道であることに変わりはない―――。


 ボスフォラス海峡に架かるボスフォラス大橋を眺めることができるトプカプ宮殿内にあるレストランのテラス席にいる。
 トポカプ宮殿はアンカラの博物館とは趣が異なり、オスマン帝国時代のスルタンたちの豪奢な宝石類がこれでもかこれでもかという品揃えである。
宝物殿に、無数の真珠をあしらった王座、宝石で埋め尽くされた黄金の象、エメラルドを埋め込んだ剣、そして圧巻なのが86カラット、鶏の卵ぐらいある大きなダイヤモンド――。
どれもが当時の権威を偲ばせるにありあまるいまだ輝きを保つ宝石の数々。
私にとっては、羨望よりも辟易した気分が勝り、ハーレムの見学をパスして宮殿の第4庭園にあるテラスに腰を落ち着けていたのだ。
風にあたりながら、まさしくアジアとヨーロッパを跨ぐ大橋を眺めている。
これからトルコを旅する道中に何杯も飲むであろうチャイを啜り、昨日酒を飲みすぎた胃と頭を休めながら、イスタンブールの街のことを考えていた。
この、アジアとヨーロッパの狭間でなんと多種多様な人種・民族・文化が駆け抜けていったことだろう。
首都の座は、トルコに新風を巻き起こしたムスタファ・ケマル(アタチュルク)の「近代への第一歩を踏み出す改革として」、アンカラに譲り、2千年の歴史に幕を降ろした。
しかし、それでもトルコを語るとき、イの一番に挙げる都市として誰がイスタンブールをはずすことができようか。
それは今も昔もなんら変わりがない。
この街は他に類をみない顔を持ち合わせている。
それはただたんに歴史の重みだけではなく、街があらゆるものすべてを受け入れてきたことに他ならない。歴史深い街は、都市は、イスタンブール以外にも世界中数多くある。
しかし、カイロやローマやアテネが歴史の亡霊と背中合わせでもがいてはいないか?
パリやロンドンの石畳に生の人間の息吹を感じ取ることがはたして可能か?
東京やニューヨークやシドニーにはそもそも語るものがあるか?
ここ、イスタンブールはなにもかもがありのままで、しかもあらゆるものを今日にいたってもなお吸収しつづけているような印象を受けるのだ。

 雨に煙るガタラ橋、その艀から次々と魚が水揚げされてくる。
屋台ではジュウジュウと香ばしい音をたて魚が焼かれている。
急ぎ足で魚をはさんだサンドイッチをほおばる通勤者たち。
その横をイエローバスやタクシーがクラクションをけたたましく鳴らして走りすぎていく。
車の数だけクラクショの音の数がある。
そうかといえば、路地裏では昼間からチャイハネで水パイプをくゆらせ、チャイを飲むひとびと。
旅人もそのチャイハネで街の探索からひとときの癒しを求めよう。
この街では旅人さえもが、都市の時空間のなかで自由に浮遊できる。
そして、違和感なく溶け込んでいる。

 イスタンブールは2千年の歴史と同じくこれからも変わることなく旅人にはコスモポリタニズムを喚起し、住民たちには貧困も繁栄も苦悩も悦びもすべてが、彼ら各々の尺度でしか意味をもたらさず、街はなにもかもに寛容なことをそっと教えられる。
なるほど、チャイハネで寛ぐ老人たちは辛苦の限り尽くした皺が顔中を覆ってはいるが、その皺が張り巡らした顔になおいっそう皺を寄せて満面の笑みをこぼすことができるのだ。
朝夕日没などの礼拝後、仕事帰りにあるいは出勤前に、昼下がりに、愛するひとと、ひとりで、友人達と、家族と、彼らにはいつも一杯のチャイがある。
彼らにはきっと、今から飲む一杯のチャイがあればそれでよいのだ。

チャイハネに行こう!
小さなグラスにはイスタンブールが凝縮された小宇宙がある。
私も彼らの流儀に習おう。
角砂糖をたくさん入れて―――。



つづく



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