今が生死

今が生死

2020.12.17
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テーマ: 願い事(165)
カテゴリ: 宗教


人々はお正月に初詣に行って色々願い事したり各宗教の本尊にお願いしたりする。それは病気が治りますようにとかいい人と巡り合えるとか結婚できますようにとか入学試験や就職試験合格を願ったりすることが多い。しかし特定の宗教を信仰している場合には一生懸命お願いしたのに少しも願いをかなえてもらえなかったという声を時々聞く。「願いとして叶わざることなし」を標榜している宗教なら願いが叶わないのはおかしいではないか!インチキではないか?」となる。確かに合格を願っていたのに不合格になると「どういうことだ!」と思うのは自然かも知れない。しかし願い事は色々あって複雑だ。少し科学的に考えてみたい。合格定員が100名で合格を願っていた人が1000名いるとすると900人はあぶれてしまう。もともと願えば必ず願いが叶うということはあり得ないのだ。「総理大臣にして下さい」と願っても何千人とそれを願う人がいれば国では一人しか総理大臣になれないので他の人は願いを叶えてくれなかったということになる。「世界平和を願ってきたのに少しも平和にならない、願いを叶えてくれないのはインチキではないか」と思っている人もいるかもしれない。「新型コロナが沈静化しますようにと真剣に願ってきたのに少しも沈静化する様子がない。願いとして叶わざるなしは嘘ではないか」と思っている人もいると思う。
誰でも何らかの願い事をするが、それが叶う場合と叶わない場合についてすこし考えてみたい。願ったら霊験あらたかで見事に願いが叶うことはある。しかしそれは神の力というよりその人の運であり努力の結果だと思う。願いが叶わない場合は上の人からお布施が足りないからだとか宗教活動が不十分だからと指導されることが多い。宗教活動については十分な活動によって良い結果がもたらされることがあるかも知れないがお布施は関係ないと思う、何千億お布施すれば総理大臣にしてくれるものでもないと思う。
私は宗教における願い事とそれが叶うということは目に見えるものではなく心の問題ではないかと思っている。例えばいい人と結婚できますようにという願いは自分もいい人にならなければいい人が嫁に来てくれない可能性が高い。そうするとその願いの中で自分自身が高められいい人と巡り合って願いが叶うのだと思う。「世界が戦争のない平和な社会になりますように」という願いもそれを真剣に願う中で自身が社会的な人間になり、困った人を助けたり争いを収める活動を行う中でその願いが身近ななかで少しずつかなえられていくのだと思う。」「合格しますように」という願いは自らに真剣な勉強を科し願いを叶えてくれるのだと思う。要するに「願いとして叶わざるなし」というのは具体的現象をいうのではなく、人間の内面について言ったもので「真剣な信仰活動で人格陶冶されハガネの体力と意志力を備えたならば怖いものなしで、何でも欲しいものが手に入る。つまり願いは何でも叶うのである」という意味なのだと最近よくわかった。願いを叶える人生を生きていかなければと思っている。





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Last updated  2020.12.17 13:36:20 コメント(2) | コメントを書く


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