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有馬晴信が謫居(タッキョ)地の近くにある、栖雲寺に秘蔵してあった虚空蔵菩薩像のレプリカが、日野江城跡地の近くにある、ピロティー文化センター二階に展示されていました。
像の手には、台座の付いた十字架が持たれています。
この像に描かれている人が有馬晴信だとすれば、この像が描かれた時点で、武士としての晴信は死んでいたようですが、人としての晴信は生きていたのではないかと思ってしまいます。
有馬晴信ではと思われている、この虚空蔵菩薩像のレプリカの頭髪を見ると、髷が落とされたザンバラ髪が肩まで垂れ、月代(サカヤキ)だけが目立っています。
よく時代劇などを見ていると、殺すに惜しい人の打ち首の場面で、髷だけを切り落としただけで、武士としての其の人は死んだことになっていました。
日本側の記録では、晴信は切腹したとされているようですが、キリスト教側の記録では、自害を選ばず首を切り落とされたとなっているようです。
それに晴信は、家臣たちの殉死も許さなかったとされていて、妻ジェスタは頭髪を切り、共にいた僅かな女たち、他の家来も日本の風習にしたがって同様に髪を切ったとされているようです。
また、この虚空蔵菩薩像の保管されていた栖雲寺(サイウンジ)の栖の字は、来栖の「栖」で意味を調べてみると、「巣・人の住む所・棲家」となっています。
そして、「雲」を調べてみると、「高いこと、遠いことなどのたとえ」となっていました。
栖雲寺とは、雲上の人の棲む処で、有馬晴信自身が剃髪して僧となり、家臣団と共に仏教の衣の中に隠れ、生き続けていた場所ではないのでしょうか。
晴信の謫居(タッキョ)地跡には、今では国道の下に埋まっている、今宮大明神があったそうです。
今宮を調べてみると、「新しくできた宮(神社)」となっています。晴信は、この地で晩年を過ごし、新しい神(虚空蔵菩薩)になったと思えてしまいます。
晴信の処刑のときは、150名の武装兵で幽閉された屋敷を取り囲んでいたそうで、部外者の目撃は不可能だったでしょう。
このような死人を生き返らせるような、とんでもない推理に至ったのも、晴信の遺骸が何処に埋葬されたか定かでないからです。
ここから話が変わりますが、この時の幕府の検使は、島原の乱鎮圧の上使である板倉重昌の兄、板倉周防守重宗でした。
その板倉周防守重宗は、晩年、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之ら大老と同格の発言力を持っていたとされています。
そして、この二人の父、板倉勝重は幼少のとき仏門に入り、その後、家督相続のために還俗(げんぞく)した人で、まだ寺社奉行の制度がなかった頃、崇伝と共に徳川幕府の寺社に関する職務にあたっていた人です。
江戸幕府の宗教再編に大きな影響力を持っていたのではないでしょうか。
晴信の処刑の際の幕府の検使、島原の乱の際の鎮圧の上使、寺社奉行の出来る前の寺社に関する職務にあたっていた人など、板倉家は、キリシタン対策に大きく関わっているようです。
また、この松倉勝重の父の松倉好重は、後に島原藩主となった深溝松平家の2代深溝松平好景に仕えて、善明提の戦いで戦死しており、板倉家の島原との関係にも、興味深いものがあるようです。