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エコジャパンカップ2010受賞商品!小浜温泉「塩の宝石...
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前回取り上げた、「山伏の格好をして隠れては いけない旨の内容が書かれた、キリシタンの内部資料」、と思っていたのは、遣欧少年使節が持ち帰った、活版印刷機により刷られた、「マルチリヨ(殉教)の心得」の中に書かれているそうです。
彼らの持ち帰った、活版印刷機で刷られた多くの書物は、宣教師たちが追放された後、教理の理解やカクレキリシタンの存続に、必要不可欠の物だったのかもしれません。
「天草本伊曽保物語」は、不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)によって訳され、天草に持ち込んだ活版印刷機で刷られた物だそうですが、そのハビアンが後に棄教し「破提宇子(ハデウス)」を書いたのも、何故の疑問符が付きます。
伴天連追放令の真っ只中に秀吉に謁見した、ヴァリアーノ神父の持ち帰った活版印刷機を使い、日本語の教理書を作り残した後にキリシタンを棄教し、一転してキリシタン批判を繰り広げた裏には、予定された何かがあったように思えます。
当時、適応政策派のイエズス会と、後発のスペイン系・托鉢修道士会の間には、かなり厳しい対立問題があったようで、ヴァリアーノは、その解決に苦慮していたように、書かれているものもありました。
後に、そのフランシスコ会などが提起した典礼論争により、イエズス会の中国での活動が停止され、イエズス会自体も、ロシアのみが活動できる、唯一の国になってしまったようです。
そのような状況に苦慮していた、イエズス会のヴァリアーノ神父は、秀吉に適応政策の内容を打ち明け、日本に適応したキリスト教を作り上げる事を、日本の幕府に託したように考えた方が、禁教の時代にも関わらず、キリシタン文化が残った、何故が、解決できるように感じます。
そして、家康に受け継がれていったのではないでしょうか。
その事が、天皇家の紋章が菊であり、内閣の紋章が桐であることに、つながっているのかもしれません。
宣教師の中には、日本人を見下す人や、日本の文化を素晴らしいと認める人が、居たのでしょう。
元は同じであった宗教であっても、幾つもの分派を生み出します。
そのような伝道者の解釈の違いが顕著になった時に分派し、時としては宗教戦争をも引き起こしているように思えます。
反省、今回の妄想は、少し飛躍しすぎたようです。
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