言葉のパレット

言葉のパレット

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

2004.06.04
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
佐世保の事件の背景には、ネット会話があった。

瞬間的に画面に登場した拙い言葉には、それを補う音声という体温が欠けているので、
言葉にある含みを捉えることができず、また言葉に柔らかなクッションを添える術もなく、
意志を越えて言葉のみが暴走するときがある。

昔に流行った交換日記を思い出す。
小学校4年生のとき、友達二人が毎日同じ教室で過ごしているにもかかわらず、交換日記を始めた。
最初はキャッキャと仲良く交わしていたが、次第にノートを渡す互いの顔が硬直しだし、
最後には絶交にまで至った。ノートにはこう書かれていた。



こう書いて寄こした彼女は、お菓子屋の娘だった。
もちろん書かれたその女の子は、お菓子目当てで遊びに行ってるわけじゃないと、私に訴えてくる。
黙って聞くしかなかったが、私はその文面を見ながら、子どもながらに「怖いな」と思った。
お菓子屋の娘は、ミっちゃんという。どちらかというと寡黙で、喜怒哀楽も控えめだった。
ただ責任感が強く正義感にも満ちていた。だから不当なことに対しての怒りは、普段ない彼女の顔をのぞかせる。
そんな時、彼女の表情と音声は、鋭い言葉をも相手の心に届かせるその道筋を作っていた。だから伝わった。
その場面だけで、ミっちゃんの気持ちも分かった。
しかし、ノートに書かれている言葉の裏に、彼女の表情は見えない。
もしかしたら、食いしん坊ねと、オドケているのかもしれないが、読み取れない。だから、怖かった。

交換日記には、消しゴムがある。そうして書いた文章をいったん冷ますという、時間がある。
何度も読み返し、相手の受け取り方を想像するという時間も。


普段は口下手でも、キーを打つ手は滑らかで饒舌になる人がいる。画面というカーテンの影に隠れて話せば、
面と向かって言えないことも、密室という人目に触れないこの空間が自分を守ってくれるように、
言葉も人目に触れずその安心の中で勢いを増す。

言葉が、時間をかけずに流れていく。間違っても消せなくて、口に出して「ごめんね」を言うのが恥ずかしいから
表情で伝えようとしても、画面の中での会話は温もりのある声と表情を閉ざしている。

そういう言葉で培われていく人格の行方。

「バトル・ロワイアル」になぞらえた子ども同士の殺し合いを、女児はHP上で書いていたそうだ。
この映画を何度も予告で見、ストーリーを読んでみた。
この監督は「命の大切さ」を謳っている。本当にそうだろうか。
「逆説的な捉え方をしてほしい」と、言っていた。直接的な見方をする子どもへの配慮は、その言葉にはない。
殺し合いのゲーム、という筋立てではなかったか。流血が先で、命の尊さは後付けされた意味のように思えてならない。
子どもは、本に書かれていること、映画に描かれていること、大人がしゃべることに、
正しさを確信している部分がある。正しいから本になるんだ、映画になるんだ、と。
竹村健一氏の「ハリネズミ論」がいい例で、講演した中学校の先では生徒達が
「日本人も武器を持って自国を守ろう!」と言ったそうだ。
他所から来た偉い先生が、講壇の上で間違った話をするわけがないのだから。

環境が子どもの人格の何分の一かを構築している。少なくとも表現という手段を持った人間は、
それへの責任が課せられている。
表現は、環境の一部を担い、また子どもの五感に触れるデリケートな領域の環境であるのは、否めない。
だから人を殺めることに結びつくとは言い切れないけれど、歪な影を子どもの中に沁み込ませているのは
確かなように思える。

亡くなった子の無念、罪を犯した子のこれから、そして被害者と加害者の親の悲しみを自分に引き寄せて
感じるにはあまりにも痛い。
この痛みの元を辿らないと、子どもがこれからも迷い道の中に消えていきそうな気がする。











お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2004.06.06 00:28:50


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: