いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.06.14
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「有難う御座いました」



 「理屈無く」を「理屈」で表現することは難しいですね。「矛盾」していますものね。書けば書くほど、前に書いたことを補う(言い訳の)ように次々と記事の種が生まれてしまいます。ライフワークにもなりそうですが、ちょっと疲れました。陶器写真が無くなった事を良い言い訳にしてこの活動から少し離れたいと感じました。(笑)

 「経験」してしまえばイッパツだったりするんですけどね。でも、それでは物足りなさを感じるんですよね。結果だけでなく、プロセスを楽しみたいような。そして、そこからより強い満足感を得られたりして。自己満足にすぎないかもしれませんがね。そして、そろそろまた「理屈無く」が恋しくなってきました。

 「無」から「理屈」が新しい「力」(世界観)を生み、「理屈無く」がその「力」(世界観)に無限の可能性を与え、そこからまた新しい「理屈」が生まれ・・・といった相乗効果的な「無限」のサイクルも感じています。共に大切な役割を感じます。要は、良くも悪くも複数の「想い」がお互いに影響しあって世の中成り立っていると言ったようなことですかね。

 また、個人的には、ヒト(想い・意識的な存在)は既に「完璧」であると感じます。沢山の「想い」が存在し、関るため、なかなか「想った通り」にならないことから「不完全」に感じるように感じます。ただ、この表現はあまり体裁良くないとも感じますので、「完全では無いで人間として完全である」くらいにしておきたいと想います。

 人は皆、「立派」という画一的なイメージに最後には個性をはめなければならないのでしょうかね?私は外からどんなに「立派」と言われるようになっても、結局根底は何も変わっていない自分を感じ、「負い目」を持った自分が残る気がします。そして、やはり辛い時はどんなに立派な「理屈」で補っても「理屈無く」辛く、きっと逃げ出したくもなりますよね。

 でもやっぱりできれば「立派」って言われたいですかね。(笑)そしてまた昔は、「人それぞれだから・・・」が楽で寛容であるように感じられてよく遣っていましたが、今ではとても寂しい感じがします。私は多少辛い想いをしてもやはり「関わり」が欲しいと今は感じています。「想い」は巡って(無限・矛盾して)しまいます。

 よって今回のことをどのように締めたらよいか迷いましたが、それも不要なようです。私はそれなりに満足感を得られました。ただ、私の自己満足に納まらず、私のように「理屈」に憑かれ、プライドの高さから他人の世界観に漬かれず、あらゆる自己主張も出来ずに毎日の生活にいっぱいいっぱいになっている誰かの何かの役に立てばなお幸せに想います。

 身近な人間への配慮も含め、自分を守るために今はまだ表現をためらっているモノもあります。世の中の変化も感じ、色々な意味で体裁も整えながら、その時期と感じましたらまた表現したいと想います。また直ぐに書きたくなるとも感じていますが、その前に陶器を作らなければならないようです。別の名分を探そうかな・・・(笑)

 始めからこのような「世界観」に付き合って頂いた方には特に感謝しています。そして今回私の世界観を表現するために皆さんの世界観を傷つける表現が多々あった事も自覚しています。本当に申し訳ございませんでした。(07.12.23著)

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 おつかれさまです‘08

 私の母の気功も含め、他人の創った世界観に浸ることで安心や癒し・楽を得られる人も多いと感じます。ただそのような人にも自分だけの世界観を感じます。他人の世界観に浸って(理解して)いるように見えて、実際は全てその人独自の理解で創られた微妙にズレた世界観のようにも感じますね。そして依存(素直)的気質の強さ(慣れ)も人により違いを感じますね。

 そういった身を寄せられる世界観や気質を持てることに対しては羨ましさも感じますね。そしてまた色々な世界観達の間に挟まって身動きできなくなっているような感覚の人達も感じます。どんな世界観を創っても身を寄せられない・・・今ある全ての世界観の縁を少しずつ溶かす(否定する)ような事をしなければ安心できないようなモノを感じられますかね。

 この活動の目的として、そんな感覚の人に触れたり求めたりもありますかね。もっともそういった感覚の人はこういった日記にコメントを書けるような気質とは感じていませんけどね。そして伝わらない人には決して伝わらないと感じますし、そういった気質との人付き合いからでないと貰えない感覚も少なくなくて・・・。共に大切な感覚と感じています。

 少なくとも私が心の内で他人に理解して欲しいと感じていることは比較的体裁の良いモノで、そこにはもっと内にある体裁の悪い欲求(単純に気持ち良い)を満たすための隠れ蓑のような役割があるように感じています。この活動も一方通行的質のモノであると自覚もありますし、それを望んでいる自覚もあり、時には見守られることが真に幸せに感じたりもしますかね。

 大分調子にも乗ってきましたし、愚痴もいっぱい散らかせたのでまたしばらく立派に思われる人間にならないと自分のプライドが崩れそうです。(笑)それではまた近いうちに・・・。(08.12.23著)

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 おつかれさまです‘09

 他人よりも優れているとか、私の方が正しいとかを競うことに生き甲斐を求めるなら別ですが、他人の感じていることを共有したいと想うなら、その真偽を問わず、相手の築き上げた世界観にドップリ浸かってみたらどうでしょう。例えば脳科学では人が見(感じ)ているモノ全てを肯定も出来ないのですから、真偽の判断は人により意味の薄いものかも知れませんね。

 また例えばAさんの世界観を信頼しきれればAさんと同じモノを感じられるでしょうし、Bさんの世界観を信頼しきれれば例えそれがAさんと正反対の世界観であってもBさんと同じモノを感じられると感じます。正反対の世界観であるのならどちらかが真で偽であるという理屈に拘るのであれば、どちらかの世界観だけを感じていくのでしょうね。

 ただ常にいずれも否定も肯定も出来ない中立的な立場を築いてしまうと、いずれの世界観の感覚をも失うと感じます。多くの他人の感覚を共有したいと感じるならば、その時々で、いずれの世界観にも一時的に偏れるワガママ・理屈無さ・都合良さ(心の柔軟さ)が大切なのではないですかね?ただそこには時に大きなリスクも伴うとも感じますが・・・。

 また人によっては自分のプライドとの折り合いの着け方が鍵になると感じますかね。時には一時的にも自分の本意や自分の中に築いた上下観を抑え、お互いの世界観を極力合わせる事が「気を合わせる」(気を遣う)と言うことと感じますし、合わせる「気」が多くなることよって、より大きな力や様々な現象も易く生むことができるように感じますかね。

 元々一方通行的質の日記の活動を望むとはいえ、今年は外部からの意見(コメント)を絶ってしまいました。本音で生きると楽になるのかと思っていましたが、何かプライドがズタズタな感じで自分の中に懐が無くなる様で逆に辛いですかね。嘘でも建前でもいいからプライドを守りながら生きる方が幾分生きるのも楽で、自分にあっているようにも感じますかね。

 またしばらく日記を休んでその辺の調整をしてきます。本年も有難うございました。(09.12.23著)

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 おつかれさまです‘10

 今年も一方通行的に頑張って書いてみましたが、やはり書きたい表現の60%も出せませんね。決して嘘を書いている訳ではないのですが、どうしても他人の目を気にしてしまって、体裁の良い表現を残してしまうのですよね。おそらく私の感じている100%ストレートな表現をしてしまったら、炎上する記事も少なくないことでしょう。(笑)

 また私が何かを決め付けるような表現をしても、世の中にはそれと正反対のことが成立してしまったりして・・・極端に正反対までは行かなくとも、その間を取るように無数のズレた感覚が成立していて・・・それら全ての感覚にも自分の中に思い当たる節があり、いちいち今自分が発言したことを補うようにして限りなく表現が必要となって廻ってしまい・・・

 言葉で表現しようとすると、その時々である程度偏った立場のモノにならざるを得ないように感じますね。そんな自覚を持っているのでそれに対して反論されると「その感覚も解る!」と言い訳もしたい所ですが、信頼を失いそうなのでそれも出来ず、なによりも反論されたことが悔しくてそのまま突き進み、後戻りが出来なくなってしまうことも少なくないですかね。

 もっともそういった遣り取り(議論)自体が時に楽しかったり・・・。私の日記の中にある私自身の多くの『矛盾』にその点を読み取って頂けると嬉しく想いますし、そんなことが私の一番表現したいところでもあり・・・そして私が感じることの本音的表現は、結局自分の死を目の前にしない限り私には無理だとも感じますが、出来る限り頑張ってみたいと想います。

 また期限をきらずに少し長く休みに入ります。また始める保障もありませんが、興味を持って頂いた方にはその時はよろしくお願いします。欲を言えば私の表現が誰かのなにかの役に立てば嬉しいと感じています。ちょっと分の悪い場を凌ぐ屁理屈にでも遣っていただけたら・・・(笑)本年も有難うございました。良いXmasと御年を・・・・(10.12.23著)

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 おつかれさまです‘11

 5年にわたって自分の感じる世界の真理的なモノを表現しようと書いて見ました。一例でも例外(個人差・偶然等)のある世界観では真理になりえないと感じますが、今存在するどんな世界観も必ず例外を抱えてしまうことからもその例外、つまりは矛盾自体に真理があると感じ、毎回身の回りに存在する矛盾を取り上げて自分なりにつきつめてきたつもりです。

 今年も沢山記事は書いてみたのですが、途中からアップを止めてしまいましてね・・・どんな記事を書いても行き着く所が一緒なので、書いていて詰まらないと言いますか・・・一貫していてブレがなかったと捉えれば自分の感覚の確かさの自信には繋がりますし、不変的なモノ(真理)を表現する上では承知・覚悟していた事ですが、とにかく詰まらなくて・・・

 生きていく上においては、真理よりも理想(想い・世界観の構築等)といったある意味その時点では「嘘(不確定)」的なモノの方が大切なように感じますかね。やはり多くの枝葉から幹を求めるよりも、幹から多くの枝葉を求めるような多様性(無限)に楽しさ(楽)があるのかも知れませんね。真理とは本来単純で退屈(苦)なモノのようにも感じていましたので・・・

 ある意味「楽」を選択したことにもなりますかね?実質ゼロからモノを創造した事にはならないですからね。ただ前者も私にはしっくりこない生き方とも感じていますがね。最後まで「巡る」しました。(笑)行き着く所が決まった質のモノなので、初めからどこかで区切りを付けようと感じていましたが、五年と言う区切りを受け、今だと感じました。

 今年アップしなかった記事と今後の新たな記事は新規アップはせずに、このブログを極個人的な書庫的に活用して、単純に気づいた事の羅列として過去の記事に書き足し、書き溜めていきたいと感じます。それでもお付合い頂ける方にはお手数をかけますが今後もよろしくお願いします。5年間有難うございました。(11.12.23著)



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Last updated  2013.08.03 15:25:37
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