いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.09.03
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 そのうち信念の強い科学者が創り出すんでしょうね?ただ、その機械を使って、過去や未来に行ける様になったとして・・・行った本人からすれば、それって「過去や未来に来ている」といった『現在』に過ぎないように思いますね。その人がそこに存在するという変化だけでも、その過去や未来に起こったということは、それはまさに『今』のように感じますが。

 過去に戻りたいと思ったら、その時を思い出すという行為のほうが、そこに今の自分が存在しないだけでも、より過去に近づけるように感じます。今から関わる過去や未来は常に『今』の延長(連続)のように感じます。ただ、それが『今』の延長であっても、そこで起こる出来事は楽しそうなので、「タイムマシン」には期待しています。

 時間や距離、物質など、主に科学者の創った今のルール(世界観)の中で、科学者本人ほどそのルールも理解せずに、なんとなくそのルールに信頼を置き(便乗し)、時にはそのルールからハズれる「事実」(矛盾)が起こっても、偶然や例外として受け流し、特に気を寄せることも無く過ごしていますね。「偉い先生が言うんだから間違いないだろ」ですか?

 「気」の世界観に「遠隔治療」というものがありますね。直接患者さんに触れることなく、また電話などにより遠くの人に「気」を飛ばして癒す方法ですかね。私の母も時々やっていますが・・・そもそも「遠隔」という言葉のイメージは、物質や時間・距離といった今の主世界観で創られている様に思います。

 人によっては(特に受け手側に)そのイメージ(ルール)に縛られない柔軟な(都合の良い)世界観を構築し、確信に変えられていると感じます。幸いにも、「今の主世界観のルールをしっかり理解せず、なんとなくそのルールに信頼を置き」が都合よく、かろうじて心の何処かでは、そのルールに縛られずに済んでいるのでしょうね。

 私もついつい都合の悪い時に遣ってしまいます「偶然」や「例外」、「幻覚」・「暗示」・「思い込み」などにこそ、大切なモノが隠されているように感じます。これらの言葉を科学者の立場で遣うのは、それこそルール違反ですよね。(笑)そして、今存在する人の記憶に無い過去は、未来同様に『今』から創造されているように感じますね。(07.10.2著)

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 「全ての物質は更に小さい物質によって構成されている」

 私の学生の頃に教わった科学の基本ルールの1つと記憶しています。最新の科学では解りませんが、このルールからすると永遠に最小の物質は発見できないように感じます。というよりも発見してしまうと、このルールが成り立たなくなってしまいますね。そして根本が証明されていないのにそれを信頼して、科学の世界観に表面上信頼を置いていることになりますかね。

 いずれのルールも、その度ごとにある地点で「理論」という不確定な約束事でとりあえず設定され、その根本の解明は後回しにして、たまたま起きた(個人的には何かしらの「意識・想い」が作用していると感じますが)現象に対してそのルールを当てはめ、研究者の信念(想い)によりそれなりの根拠(物質等)を創り出し、積み重ねて(便乗して)いるように感じます。

 「占い」などにうさん臭さを感じたりしますが、元々実際に起きた現象・事象(事実)を集め、それを統計学的に(理屈無く)処理されたモノであるとすれば何よりも信憑性のあるモノであるように感じますかね。むしろ不確定な推測を含む「理論」(理屈)が根底にある科学の方がよっぽどうさん臭く感じられてしまうこともありますかね。

 個人的には1例でも例外がある世界観に全てを当てはめることは難しいと感じますし、科学に限らず、全ての世界観にはどこまでも「矛盾」(例外)が憑いて回る(必要)と感じます。そして「世界観」自体が「力」なのではなく、どの世界観であっても広い意味での「信じる」ということに、それぞれの色々な意味での「力」と繋がりを感じます。

 「世界観」の構築は、「信じる」し易くするための手段のようなモノでもあると感じます。そして前記の最小の物質の件も、例えば昔は物質として捉えづらかった「光」・「波」・「揺らぎ」など、曖昧なモノに移行していかなければならなくなるようにも感じます。そうなると今まで信頼をおいている感覚(特に触覚)も信頼できなくなりますかね。

 「物質でない(何も無い)モノが集る(密度が高まる)と物質になる」なんてことになったら反則ですよ!科学者さん。(08.8.6著)

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 「究極の選択」

 いずれも選択することに疑問を覚える要素を含む2つの極端な選択肢から、ルールとしてどちらかを選ばなければならなかったりする質問のように感じます。例えば「遊び」として皆のなかに同意や割り切りなどがあるシチュエーションであったりすると結構その場が盛り上がったり、少し偏りは感じますがその人の考え方がより明解に出る質問方法ように感じますね。

 ただ例えば子供などの「教育」などが絡んでくると、個人的には2分の1の選択を基本ルールと厳しく定められていたにしても、両方が大きな疑問を含む選択肢ならば、あえてそのルールから外れ、他の選択肢を考えるという答えが沢山自然に生まれてくることを望みますね。ルールって「安心」も「不安」も備えていますよね。(08.11.22著)

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 「手の温かい人は情に厚い」・・・?

 「気」にも主に「温かい」イメージが強く付いているのではないですかね?事実私の母の手も温かいですかね。科学的にも「温かい」方から「冷たい」方へエネルギーが伝わっていくイメージが根付いているように感じますね。一般的な「気」のイメージもエネルギーの(物質)伝達的イメージが強いようですし、確かに私の母も感情の起伏が非常に激しいように感じます。

 逆に「手の冷たい人は心は温かい」とかも耳にしますかね。私の経験上では、手の冷たい人は他人の目を気にする人が多いように感じます。私は施術の時は意識して手を冷たくしています。その方が相手から色々と伝わってくる感覚が強まるのです。人形に触れられているようで異性に触れるときも何かと体裁が良いようです。そんな気遣いにも顕れているように感じます。

 私は普段から自慢できるくらい手が冷たいのですが、施術の時はもっと冷たくなります。初めは患者さんから違和感を得ますが、患者さんの体から感じたことを基に何気ない会話をし始めると、患者さんはジワジワ汗をかきだしたりして、良い方向へ感覚も変化して行きますね。そしてまた、気功師の患部の認識法にもよくこの温度差が遣われるように感じます。

 ただ「冷たい」・「温かい」的も含め、認識法はその人それぞれで学んできた(信頼する)「気」(世界観)のルールによって異なるように感じます。そして大切なのは、いかにして患者さんの信頼を得て、治る方向に気持ちを変えて(気持ちの後押しをして)あげられるかだと感じますね。結果的(本質的)に自分を変化させられるのは自分だけ(自己治癒)と感じます。

 そして時に「ヒトのせい」にすることよって「信頼」(確信)は得られ易いことも少なくないと感じます。また人は無意識に都合よく感覚も変え(選択し)、信頼する人間間ではその感覚も共有(共鳴)できる力も感じます。相手の体温より温かい手で触れれば汗ばむのも不思議ではなく、むしろ私の様に冷たい手で相手が汗ばむ方が不思議な感じがしませんか?

 もっとも人により緊張はあると感じますがね。また「いつも周りに気を張っていて頭に血が集るから末端まで血が通わない(手が冷たい)」・・・?こんな理屈に「なるほど!」と感じた人は、おそらく私の施術において顕著な変化が現れるでしょう。ただこれも私自身をも納得させる個人的ルールの1つと感じています。

 またマニュアル的に(自分自身で感じてみることなく)その「個人的ルール」に乗ってしまって、想わぬ「歪」を生んでしまう懸念も感じます。そしてその「マニュアル」による「先入観」や「想い込み」も時に、良い力の基となるとも少なからず感じます。「手の温かい人」・「手の冷たい人」的いずれの表現も、結局「良い人」って事で・・・。(笑)(08.9.22著)



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Last updated  2013.08.03 15:06:01
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