いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.12.21
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 私が持っているこの言葉のイメージは「正々堂々」ですが、いくら自分との戦いとは言っても大抵のスポーツは他人と競い、形上相手を負かす事で成り立っているように感じています。それには相手の考えを読んで相手の嫌がる事をしたり、裏をかいたり(騙したり)といった能力にたけている者こそ優れたスポーツマンだと感じ、その精神とはズレを感じます。

 また、負けた相手の目の前でのガッツポーズなど喜びをあからさまに表現したり、怪我をして試合に出場することは、相手からの気遣いを考えれば避けることがその精神のように感じます。ただ、そういった気質が集まり、またそういった気質に陥りやすい環境だからこそ、「スポーツマン・シップ」をいちいち掲げる必要があったのかもしれませんね。

 「勇気」は、その人の気質によってその形を変えるように感じます。怖くて喧嘩できない人にとっては喧嘩をする事が単純に「勇気」だと感じますし、逆に喧嘩っ速い人にとっては喧嘩を我慢する事が「勇気」だと感じます。前者は単純に争い事に対する「恐怖」、後者は「弱者」に思われる事に対する「恐怖」に対して立ち向かう行為だと感じます。

 まさにスポーツ選手は「勇気」の塊の様です。自分に自信のある人なら、あえて他人と競う必要もないでしょう。本来、弱い気質を持ち合わせた人ほどスポーツにその存在の価値を求め、そして、優れたスポーツ選手になっているように感じます。

 人は、自己主張する時「気」を強く(高く)し、他人の主張を理解しようとする時「気」を弱く(低く)していると感じます。 前記した「相手の考えを読んで・・・」は、もともとは、弱い気質の人の才能のように感じています。そして優れたスポーツ選手は、その強弱(高低)の切り替えにたけているように感じます。(07.9.16著)

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 「気」を弱くすると、他の「意識?」(想い)に繋がりやすいと実感しています。

 今スポーツで活躍している人達の中にも、ある程度自分の中に確信を得るまでは精神面で強く親や他人(コーチ)・モノ(ゲン担ぎや時には薬)のサポートを受けていたり、また子供の頃に各立場で「いじめ」などに関わりがちだった人も少なくない様に感じます。そして、奥さんが年上だったり・・・これには、より自分に集中できる環境であることも感じられます。

 また、弱い気質の根底にこそ高いプライドを感じられる事が多いです。ある意味プライドが高すぎるため、それが傷つくのを恐れ、気が弱くなるのかも知れませんね。 そして弱い気質の人が確信を得た時、他人が揺るがす事が非常に難しい強い世界観が出来上がると感じています。「優柔不断」な人ほど完璧主義であったり、根は頑固だったりするように感じます。

 「無邪気」という才能を持った気質の人が時々気まぐれの様にやってきて、そういった弱い気質の人達の高いプライドを打ち砕いていってしまうことがありますね。弱い気質の人が大切にする強くなるプロセス(世界観)など気にしないで、とにかく楽しんでいってしまうんですよね。ただ誰の根底にも少なからず「無邪気」という才能は感じられます。 

 そして時々顔を出しては、想いも寄らない成果を上げているように感じています。また私には体育会系の人が営業職においても活躍しているイメージが強くあります。今何かと騒がれている元官房長官もああ見えて、なかなかのスポーツマンだったんじゃないですかね。気功に関っている私には最も好きなジャンルですし、恐らく母も負けていないと言うでしょう。

 子供の頃はクラスで選手に選ばれ、強いプレッシャーを感じると、よく試合前に体調を崩したり怪我したりするんです。そうすると負けた時の言い訳(特に自分自身に対しての)が出来たせいか、プレッシャーが弱くなって、逆に良い結果が出たりするんです。そして今となって考えると、さぞかし相手の選手や審判はやりづらかったでしょうね。(笑)(07.9.17著)

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 「ハングリー精神」も、なかなか最近は耳に遠くなったように感じますかね。

 昔は特に経済的に恵まれない人など、「お金」や「見返してやる!」的卑屈な想いなどが成功を手に入れるためのモチベーションのイメージが強かったように感じますかね。そして上り詰める過程での練習や、やっている事自体に楽しさ的なモノも感じられなかったり、目的を果たしてしまうとモチベーションも長続きしにくかったりするイメージもありますかね。

 今の優秀な才能を持つ若い人達などをみると、逆に比較的経済的に恵まれた家庭に育った人も少なくないように感じますかね。金銭的余裕は気持にも余裕を創り、リスクのある仕事の選択もし易くなったり、求めるモノは同じ名誉的でも「見返してやる!」とはちょっと別質の「褒められたい」モノが、より直接的なモチベーションになっているようにも感じますかね。

 また最近の才能のあるスポーツ選手達は容姿も美しい人達が、また例えば高学歴のお笑い芸人などが増えてきているように感じますかね。彼らは小さい頃から褒められる「気持良さ」を知っていたり、元々目立つことも好む気質でもあるのでしょうから、スポーツやお笑い的なモノでも体裁よく目立てると知れば、才能を伸ばし易い気質でもあるように感じますかね。

 「卑屈的ハングリー」よりも比較的悲壮感も感じず、むしろ時には到達点も高いように感じますね。少子化なども小さい頃からチヤホヤ(褒める)できる要因にもなりますか、「楽しめる」的気質が根底にあり、上り詰める過程において辛さの感じ方も変わってくるのでしょうかね。比較的自分の中に「限界(到達点)」を築きにくいようにも感じますかね。

 私が子供の頃は、勉強ができなかったり、容姿が良くない人間が活躍する場がスポーツやお笑いでもあったようにも感じますが、今の美しい容姿の才能豊かな選手達はちょっとズルい気もしますかね。他でも十分活躍できるでしょう。(笑)そして今でもスポーツ選手や芸術家には言葉による直接のコミュニケーションが苦手な人は少なくないように感じますかね。

 でも営業職に適している元スポーツマンも少なくないか?またパターンにハメたがる悪い癖が出ました。どんな分野にも様々な気質(世界観)が存在して始めて「切磋琢磨」(競い)が成り立っているようにも感じますからね。(09.10.1著)

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 「卑怯者!」

 ドラマを見て知人が言いました。格闘家役の主人公が素手であるのに対して、相手役が武器を使って喧嘩を挑んでいました。確かに素手に対して武器を使うのは「正々堂々」ではないような気もしますかね?ただ喧嘩となればその手段より結果が問われるように感じますし、時には卑怯な手段で出来る限り相手に悔しい想いをさせて勝利することにその意味も感じますかね。

 ただ、もし格闘の素人だった時、格闘経験者に対して素手で戦うことが本当に「正々堂々」(公平)と言えますかね?例えば相手は好きで日頃から体を鍛えているのに対して、自分は暴力的なことを嫌い、生涯において格闘的なモノを避けてきた場合に、そういった場面に出くわした時に素手で身を守らなければならないのですかね?肉体が武器の相手に対して・・・

 私の父も空手をやっていて、小さい頃はよくイタズラをしてはこっぴどくやられましたね。自業自得を自覚していますので、そのこと自体に不満はないのですが・・・私は格闘技自体はとても好きで、必ずTVなどは見るのですが、自分がやることには抵抗がありましてね・・・過去の父との関わりからくる恐怖的トラウマや、相手に怪我をさせることも怖くて・・・

 自分が体力的に強くなると、他人に優しくなれる・・・弱さから相手に「媚びる」ような優しさはどうかと感じますが、「力」的裏打ちがある優しさもちょっと違和感がありますかね。今の私は体力的な弱さの立場もありますが、元々の気質的にどちらかと言えば前者を選択しますかね?また、格闘家などは普段はそういった技術を封印しなければならないようですが・・・

 私が力を身につけたならやっぱり最終的には遣いたくなっちゃうので止めておきます。(10.11.12著)




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Last updated  2012.02.22 16:50:23
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