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「諂曲」は、こびへつらいだ、したがって「諂曲模様」は、そうしたこびへつらいの横行するさま、その景色といった謂いであろう(そしてまた、そのようなモノの表象)。じつは宮沢賢治の代表的な詩集『春と修羅』に収録される「春と修羅(mental sketch modified)」という詩の冒頭近くに、このことばが登場する。 心象のはいいろはがねから あけびのつるはくもにからまり のばらのやぶや腐植の湿地 いちめんのいちめんの諂曲模様詩の中ではすぐあとにつづく「いかりのにがさまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾しはぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」という作者の感情のよってきたるひとつの素因が、すなわちこの「諂曲模様」なのであろう。きょうもそらはどんよりと曇ったままだ。ふとおもいついて賢治の「春と修羅」をのぞいてみた。そうしてなるほどな娑婆のこのありように、80年余後のただいま現在の世相もちっとも変わらないとあらためておもうのだった。もっとも、賢治はこの詩でなにも俗世間のそうした苦い景色を嘆いたわけではなく、心象風景のその奥にそうした諂曲を喝破しつつも、またそれらを山河の細密画のなかへそっとさりげなく配置している。いや、大自然のもろもろの営みそれ自身の中に、そのような風景を見通しているわけだろう。それはすなわち、「修羅」(天空)が見る風景でもあるわけだ。「まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」(同「春と修羅」中半より)。賢治の詩の言葉は、交響楽のように自然の景観の中で輻輳し、合奏し、また幾重にも屈折してその主体である「修羅であるわたくし」のなかへと還流する。その視線は複眼であるばかりでなく、さまざまな厚みの凹凸のレンズを組み合わせた光学機器のようでもある、まことにみごとだ。…などと大都会の羊羹色の溶けかかった空をみあげながら、つめたい風に吹きさらされ、黒い塵のごとく離散し集合する群衆のひとりとしてゐる、2006年2月なかばの「わたくし」であった。
2006.02.17
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