2004年06月21日
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【第993夜】 2004年6月21日

『玄語』

1982 中央公論社・1982 岩波書店
日本の名著20=山田慶児責任編集
日本思想大系41=島田虔次・田口正治校注


 「八月某日。わが風景の大荒廃、ここに中絶す」という詩句が屹立する小野十三郎の『大海辺』と題された詩は、「半島の若者らは、みな国へかえってしまつた」と綴ったあと、次の一節になる。敗戦直後の詩だ。

  又夢を見た。
  豊後の国。国東郡。
  百五十年昔の美しい夕焼雲だ。
  その中にあなたはひとり立つてゐた。

  梅園三浦。
  しきりにあなたを想ふ。

 小野がどういう詩人だったかは、ここでは省く。大杉栄の自由の幻覚を背負った男だった。
 その小野が梅園を「しきりに想ふ」というのは、ぼくにとって意外であるとともに、さもあろうとも得心させた。小野でなくとも、男たちは日本という女を攫って梅園を想うべきである。小野はこうも書いていた、「遠い古い農業国。どうか安全に みんなそこに帰りつけますように」。

 さて、以下は、ある時ある夜に、三浦梅園が生まれ育った地からさほど遠くない由布岳の麓の一室で開かれた会合に招かれて、ぼくが話したときのテープからの抄録記である。
 その夜の30人ほどの会は、梅園を語るための会ではなくて、むしろ編集工学的発想について話すための場であったのだが、ぼくが勝手にその半分以上を梅園語りにした。そう思って読まれたい。この一夜を準備していただいた歯科医の阿部成善さん、建築家の辻隆司さんにお礼を申し上げたい。
 もうひとつ、断っておく。今夜とりあげた『玄語』という表題をもつ書籍は、いまのところは、ない。ぼくが「千夜千冊」のためにわかりやすく『玄語』としたもので、実際に入手できるのは「日本の名著」第20巻『三浦梅園』(中央公論社)に収録され、また「日本思想大系」第41巻『三浦梅園』(岩波書店)に収録されているものをさす。了解されたい。


【講演】

 こんばんは。松岡正剛です。さきほど空港から高速を通ってこちらに入りました。ちょっと蒸し暑いですね。
 今夜は、おそらくは主にドイツや日本の美学を重視していられる方々が、ここ湯布院の一隅に集まっていらっしゃると聞いていますが、三浦梅園に関心をもっておられる方も少なくないと思います。専門的に研究している方もおられることでしょう。
 なにしろ梅園は、ここから遠くない国東半島の二子山の麓に生まれ育って、3度にわたる短期間の旅を除いて、生涯をほとんど国東の里に送っています。宇佐や別府や湯布院にとっても馴染みの、孤高の思想家でしょう。空港からこちらにくる途中にも、その梅園の里が緑の中に映えて、高速道路の向こうのほうに見えましね。いまの安岐町、昔は杵築藩でした。

 その梅園の里を、私はこれまで3度ほど訪れました。そこで驚いたことがあるのですが、旧宅には梅園が書き写した『和漢朗詠集』があるんです。13歳のころの筆写です。これはびっくりした。このことは実に梅園の思想を暗示しているんです。
 御存知のように、『和漢朗詠集』というのは藤原公任が編集して、これを行成があらゆる書体を書き分けた美しいもので、漢詩と和歌を交互に、かつアクロバティックに並べた王朝ヒットソング集です。いわば漢詩と和歌を半々にブラウジングして、カット&コピーをしているわけです。
 この、半々の情報を別々のところから持ってきて、うまく並べるというところが、梅園の哲学にも関係するところで、それはまた、私の趣向とも深く関連してくるところなんです。梅園がそういうものを13歳のころに書写していたのには、驚きましたね。

 さて、今夜お集まりの方々のなかには、私の事務所が以前に毎月発送していた「半巡通信」という小冊子を読んでいただいていた方がおられるように聞いています。
 それでお話しするのですが、いったい、この「半巡」というのはどういう意味なのかと、しばしば訊かれます。
 この小冊子は、実は最初のうちは「一到半巡通信」と名付けていたのですが、これでは意味がわからない、何のこっちゃと言われてました(笑)。そこで「一到」を取って、ちょっと短くしたのですが、やっぱり意味がわからない(笑)。
 「半巡」というのは文字通り、やっと半分くらい巡ってきたという意味です。旅の途中とか、「いつだって折返し点」というようなところでしょうか。まあ、「半ちく」とか「半ちらけ」という意味もある(笑)。なんとか全体に向かって一到しようとしても、まだやっとこさっとこ半分くらいのところにいるという意味です。どっちにせよ、これじゃ、誰にもわかりっこないですね(笑)。

 なぜそんな言葉をタイトルに選んだかというと、私は、この「半」という文字がそうとうに好きなんです。そもそも「半」という見方にもたいへんに関心がある。
 何かを半分、半分というふうにどんどん切っていくと、いつかは究極の最小性に達します。紙も半切(はんせつ)とか半截(はんさい)といいますが、その紙を半分、半分と切っていくと、それはついには仏教にいう「微塵」というものになる。半分というのは、そういう方法をもっているわけです。
 全部じゃなくて半分をめざすのが、かえって何かを見させてくれるんですね。「半」があるから、「全」の手掛かりもある。半球とか半期とかともいいますね。半径という言い方もおもしろい。逆にまた、うまく半分を重ねていけばそれまで見えていなかった「元のもの」や「新しいもの」に達するかもしれません。
 半分にはそれを半分にした前の姿、つまり元の情報があるわけです。「半」にはそんな未萌の可能性があるように思うんです。

 そのように思えるのは、どうも人間の最初の行為のひとつに、何かを「半分にする」という切断的な思考が先駆していたからではないかと思います。
 幼児も子供も、おそらく最初におぼえる数の観念は「半分」なのではないでしょうか。ドーナッツやチョコレートを兄弟で半分っこする、一つだけ残ったミカンを半分っこする。
 私も、母から「お兄ちゃんなんだから、半分を敬子にあげなさい」とよく言われました。それをすると、「セイゴオ、えらいわね」と褒められる。ま、仕方なくやっていたわけですが(笑)。しかしながら岡潔さんではないですけれど、子供というのはひょっとしたら、まず「半分」がわかって、そのあとにやっと自然数の「一」を知るようになるのではないか。そんな感じがします。

 ひるがえってみると、私の編集文化や編集工学の発想や着想には、この「半」と、そして「対」(つい)という考え方がいつも動いていました。「半」と「対」は似ているようですが、「対」というのは、半と半とが互いに相い並んだ状態で、何かと何かで一組になっている状態のことです。
 この一組、あるいは一対は、私の見方ではそれ自体で「一つ」なんですね。もともとは別々の二つが寄り添ったり、並んだり、重なったのかもしれないが、それで一つになっている以上、それは一つのものとして見たほうがいい。
 ということは、半と半とで「一」になるわけで、一対にはいつも半と半とがあるということです。いいかえれば、どんな一つのことを見ても、そこには何かの半と半とがやってきていると見るとおもしろいということです。

 たとえば「中途半端」という言葉がありますね。あれはまさに物事を半ちらけでほったらかしにするということで、もっぱら非難のときに使う言葉なんでしょうが、この「半端」をそのままにしないで、むしろその「中途」のアドレスをもって活用したらどうか。私はそういうことを考えるんです。
 誰にだって、人生や仕事のなかでは、いくつもの中途半端があるわけでしょう。私が子供のころからほったらかしにした工作やノートといったら、もう無数に近い(笑)。隠していたって、みなさんも中途半端をたくさんもっている。それを、なにもかも中途半端で終わったからといって放っておくのは、おかしいですよ。もったいない。
 それより、その半端をきちんと見極めて、これを別の半端とつなげていったって、いいんです。
 編集というのはそうことを無視しない。半端をちゃんと見る。そうすると、半端と半端が合わさって、新たな一対になるということだってあるわけです。
 私は高校時代に四則演算器を作りたくて、中途半端に終わりました。それから教会に通って神のことを考えようとしたけれど、これも途中で放置したままでしたし、一方、禅に関心をもって鎌倉の寺々に行ってみましたが、これも中途半端。大学ではマルクスや革命のことを夢想し、また、幾何学や量子力学の本を漁っていた。でも、それらはべつだん専門課程でやったわけではないし、みんな中途半端です。
 そういうものがいっぱいあった。あったのですが、『遊』という雑誌をつくるとき、これらの断片や破片や半端を、新しい紙の上においていろいろ組み合わせてみたのです。
 そうすると、たとえば物理学と民俗学のようなまったく異質なものが、それが断片で飯場であるがゆえに、ちょっとずつ繋がってくる。関係しあってくるんですね。
 私はそういう作業に熱中することを「遊学」とか「編集工学」と名付けたのですが、これはキリなくおもしろかった。それから20年以上もたって、たとえば『花鳥風月の科学』という本を書くことになりましたが、それはそのときの物理学と民俗学が対角線上で出会ったときの、パッと走った光の軌跡のようなものにもとづいているわけです。

 さて、そんな私の半ちらけな話はともかくとして、実は、三浦梅園という人は、この「対」や「一対」という考え方を徹底的に、かつ形而上学的に、また知覚と知識の関係をフルバージョンで駆使した人だったのです。まあ、編集工学の曾祖父のようなものです(笑)。
 梅園は、その一対を「一、一」というふうに呼んで、それを自然や世界や社会の基本の概念単位にしています。この「一、一」という見方がとてもおもしろいんですね。天・地、気・物、円・方、性・体など、あるい動静、清濁・没露、分合・反比など、まことに多くの概念や名辞を、それぞれ「一、一」というふうに対比させ、その一対を情報の基本単位にしたわけです。 ……







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最終更新日  2004年06月24日 14時35分51秒
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